金印の真贋を考える



 金印(漢委奴国王)


 金印は江戸時代の天明4年(1784)2月23日、福岡県、志賀島の叶崎というところで発見された。現在の太陽暦に換算すると4月12日にあたるから、農家が田植えの心づもりを始める頃だろう。
 残されたいくつかのデータを総合すると、田の溝の流れが悪いので、田の管理者、甚兵衛が秀治、喜平の二人に修理を依頼した。溝を削って広げていたところ、二人で持たねばならないほどの大石に出くわし、それをカナテコで掘り起こして除けると金印が現れたということになるようだ。「石の間に光りそうろう物これありに付き。」と記され、他の石の大きさへの言及はないし、石と石の間隔が狭かったようにも感じられる描写である。石はそれほど大きくない。箱のようだと表現した者もある。三つの石で囲った小さな空間を作り、簡単には動かない大石で蓋をしたらしい。
 支石墓や石棺なら大石がたくさん必要なので、埋葬施設の可能性は消える。金印が不要だったとしても、捨てるのはあまりにも惜しい。金は溶かして再利用できるし、わざわざ石組みを作る必要もなかった。金印の発見された叶崎は現在でも集落から離れた辺鄙な場所だが、古代はもっと辺鄙だったであろう。金印を納めた石組み以外にはなにもないから祭祀のためとも考えがたい。
 墓の副葬品、廃棄、祭祀という可能性を消してゆくと、残るのは、必要な物だったから、人目につかないような場所を選び、石で囲い隠したというケースである。隠したのであれば、周辺風景にまぎれるよう偽装されたであろう。発見場所は現在整備されて金印公園になっているが、海を超えた正面に能古島がある。大石と合わせてこれは良い目印になる。他にも現在の地形からはうかがい知れない目印があったかもしれない。
 そのあたりの適当な石を組合せたものだろうから、雨が降るたびに、すき間から少しずつ土砂が流れ入り、ゆっくり埋まっていったと思われる。金印は傷一つなく古代のものとして美しすぎると難癖を付けられても、金は腐食しないし、遺構の中に残っていたということは、石囲いに守られ、ほとんど動いていないということだから当然と返せる。金でできた貴重な物だし、封泥に使う印だから、当時の日本を思うと、実用品としてペタペタ押されたということも想像しにくい。権威の象徴として大事にしまい込まれ、時折見せびらかすという形ではないか。
 (参考リンク)
 「魏志倭人伝から見える日本2、倭国の地理と風俗、奴国と金印」
 「魏志倭人伝の風景、伊都国、奴国」


 金印は甚兵衛が保有していたが、周辺にうわさが広まり、藩の咎めを受けるかもしれないと恐れた庄屋が勧めたのか、二十日ほど経ってから、口上書とともに那珂郡役所に差し出された。庄屋と村の組頭二人が甚兵衛の言うことに間違いはないと保証している。郡役所はそれを福岡藩に届け、藩は並立していた二つの藩校、甘棠館、修猷館に鑑定を求めた。館長、教員はすべて儒者である。中国思想の研究と教育を務めとしている。日常的に漢文に接しているし、中国史書の知識は必須といえるものだから、日本関係の記述もすでに馴染みがあっただろう。

 金印には「漢委奴国王」の五文字が刻まれている。甘棠館の亀井南冥は、後漢書倭伝の「建武中元二年(57)、倭奴国が貢を奉り朝賀した。使人は自ら大夫を称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬をもってす。」という記述をあげ、委は倭の省略形、奴は「の」で「倭の国王」という意味になる。後漢の光武帝が当時の天皇に授けた印だと考証した(金印弁)。
 南冥は自分の考えを述べるだけだったので早かったが、修猷館は五人の学者が協議した。五つの頭がそれぞれに異なる見解を持ち、なかなかまとまらなかったのであろう。遅れて五名の連署で提出された。その結論は「垂仁天皇に授けられたもので、源平の乱のおり、三種の神器とともに運ばれたが、安德天皇入水の際、下関(壇ノ浦)の海中に沈み、流されて志賀島の土中に埋まった。」というものであった(金印議)。
 修猷館のあまりにも現実離れした回答は、笑い種になっているが、この人達も馬鹿ではない。それなりの論拠がある。後漢書倭伝の記す倭は、光武帝に印綬を授けられた(AD57)あと、桓霊の間(AD168前後)に倭国大乱が起こり、卑弥呼が即位している。朝鮮半島の拘邪韓国を領有し、東の狗奴国と戦った。これは、福岡の香椎宮に居し、新羅、百済を属国としたあと、長い時間をかけて大和へ侵攻した記、紀の神功皇后の事績と完璧に一致している。つまり、修猷館は日本書紀がほのめかしているように、神功皇后を卑弥呼と解したのである。奴国の遣使は卑弥呼を百八十数年遡る。皇后以前は仲哀天皇が9年、成務天皇60年、景行天皇60年、垂仁天皇99年の治世とされているから、垂仁天皇時代に当たるし、この天皇は常世国に田道間守を派遣したという伝承もある。印綬は極南界の奴国に授けられたが、魏志倭人伝では、伊都国の隣だけではなく、女王国の極南界、女王国に従わない狗奴国の北に、もう一つの奴国が存在する。そういう思考が働いて、金印は光武帝が大和の垂仁天皇に授けたものと解した。大和にあるはずの金印が志賀島から出土している。そのギャップを埋める苦し紛れが安德天皇云々という説明になったのだと思われる。
  (魏志倭人伝(陳寿)と後漢書(范曄)の記述の違いと神功皇后との関係に
   ついては、「魏志倭人伝から見える日本1、邪馬台国か邪馬壱国か」参照)


 魏志倭人伝には、朝鮮半島から海を三度渡り末廬国へ到着。伊都国、奴国へ歩いたことが記されている。末廬、伊都は現在の地名に一致するし、隣の奴国の勢力圏と思われる志賀島で委奴国の印が発見されたのだから、金印は後漢書の倭奴国、倭の奴国に授けられたと解するのが妥当である。
 金印の印面と後漢書倭伝から、57年には、後漢に大夫を派遣した王がいたとわかるが、魏志倭人伝(240年)では、伊都国と邪馬壱国以外の国に王は存在しない。官と副の官名が記されているのみである。桓霊の間の倭国大乱であるから、後漢の桓帝と霊帝の時代にまたがる。両帝の交代した168年を中心に前後に広がった期間を考えれば良いであろう。そのあと卑弥呼が共立され大乱が収まった。あるいは、大乱が収まったあと卑弥呼が共立された。倭国大乱で敗れ、追い詰められた国王等が、逃げる途中で金印を隠したと解せば、奴国の王が消えたこと、金印が志賀島の逃げる途中を思わせるような場所、隠されたような形で発見されたことに説明がつく。

 金印は一辺2.3cmほど。これは後漢代の1寸に相当する。高さ2.2cmほど。重さは108グラム少し。蛇のつまみに紐を通すための穴が開いている(蛇鈕)。1990年の蛍光X線分析で金95.1%、銀 4.5%、銅0.5%と測定された(100%を越えているけれど、四捨五入の結果か?)。 技術がまったく異なるので、形を作る人間と文字を彫る人間の違いは考えて良いかもしれない。
 漢や魏には尚方(上方)と呼ばれる宮廷調度などを作る工作所があった。魏の明帝の制詔により卑弥呼に鏡が与えられたが、三角縁神獣鏡の作者、陳氏は「本是京師」と銘文に書き込んでいる。「私は、元、尚方の鏡師だった」という意味で、三角縁神獣鏡作製時は高齢になって引退していたのを引張り出されたらしいのである。銘文の詩文的な語句は漢の尚方鏡のものを踏襲している。一流技術者を集めていたであろうから、官物である金印も尚方で作られたと思われる。
  (三角縁神獣鏡に関しては、 「魏志倭人伝からみえる日本4、卑弥呼の鏡」
   「三角縁神獣鏡の神仙思想(卑弥呼の鬼道)」参照)


 中国印に蛇鈕の例がないという理由で贋作と主張する人もいたが、1956年、中国雲南省、滇池の石寨山古墳から蛇鈕金印の「滇王の印」が発見されて問題にならなくなった。これは漢の武帝が与えた印で、蛇鈕は中国が蛮と分類した部族に対する印なのである。蛮の下半分の虫は蛇を意味している。
 1981年には中国江蘇省から亀鈕金印の広陵王璽が発見された。これは光武帝の第九子、広陵王荊が明帝の永平元年(58)に与えられた印で、日本の蛇鈕金印とは1年の違いでしかない。蛇には一面に斑点模様が入っているが、広陵王璽の亀甲の裾と足に同じ斑点模様が入れられていて、同一工房の作を疑えないのである。一辺2.3cm、高さ2.1cmとほぼ同じ大きさなので、規格があったと思われる。
 金印の印面は「漢委奴国王」、匈奴の破虜長に授けられた下の印とは漢、奴の共通文字があり、文字の形が非常に良く似ている。漢の右下部が火になっているのは、漢が自らを火徳の国と定義していたからである。他にも「漢匈奴悪適尸逐王」「漢帰義羌長」等の印が発見されていて、漢+部族名+役職という書き方が共通している。漢+委+奴国王なのである。「漢帰義羌長」は漢+役職(帰義羌長)と考えられる。おそらく羌を外部民族と扱っていない。
 新の王莽は匈奴に与えられていた「匈奴単于璽」という印を回収し、「新匈奴単于章」の新印に替えた。周辺民族の地位を引き下げようとしたのである。匈奴の諸王の印には元から「漢」「章」の文字が入っていたというから、前漢時代、国のトップには「漢」の文字を入れていなかったのであろう。「滇王之印」がそうだし、扶余の祖先が授けられた印も「濊王之印」だったという(魏志扶余伝)。漢の武帝は朝鮮半島へ進出し、民族の移動を引き起しているから、この印も武帝もしくはそれ以前のものと思われる。後漢時代の金印に「漢」が入っているのは、新の方針を受け継いだか、諸国の一つで国のトップではないという扱いだったのではないか。
 魏略逸文には「(倭人に)その旧語を聞くに自ら太伯の後という。」と記されている。匈奴の諸王が銅印であるのに対し、奴国の金印はその待遇の良さが際立っている。これは「太伯の後」という言葉を受けたものとしか考えられない。おそらく、光武帝への朝貢の際、大夫を名乗った奴国の使者が伝えたものであろう。太伯は呉の始祖で、周王の長男であったが、後継争いを避けて南へ出奔したと伝えられている。中国でも敬愛される人物であった。滇も楚の荘王の後裔、荘蹻の建国と考えられている。どちらも祖先の中国王侯という地位の高さがものをいったように思える。

 ともかく、後漢書に「倭奴国に印綬を授けた」という記述があり、金印のすべてが後漢官印の形式に一致しているのである。これは中国の考古学が進歩してから判明したことで、江戸時代の日本人には知るよしもない。参考にした印譜などの印の大きさを測れば良いと言うが、押された印の大きさはまちまちで、その中から後漢代の1寸、2.3cmを選択する確率はどれくらいか。純度95%とという高品位中国金に合わせられたのはなぜ。前例のない蛇鈕を思いつく可能性はどのくらい。一年違いの広陵王璽とおなじパターンが見られるのは偶然か。高さがほぼ一致する理由は。集古印譜などをいくら研究しても金印の立体デザインは発想できない。その立体デザインが後漢の規格なのである。宝くじに連続四、五回当たるような幸運の連続を想定する必要はないだろう。
 倭が委になっている。もともと「委人」をひとまとめにした文字が「倭」である。先祖返りをしてもおかしくない。偏の省略は金石文によく見られる形で、三角縁神獣鏡銘文でも、「用青同」と銅の金偏が省略されている。「氏」を「是(シ)」と書いたり、同音のまったく無関係な文字が使われる場合まであって、文字の意味より発音が優先されている。したがって、倭と委は同音でなければならない。「ワ」ではなく「ヰ(ウィ)」である。印面は「漢のヰのド(ドゥ)国王」と読む。
 「楽浪海中に倭人あり」と記す漢書地理志燕地の「倭人」の如湻注に「如墨委面在帯方東南万里(墨委面が帯方東南万里に在るごとし)」とあり、続く臣讃注はこれを否定して「倭是国名不謂用墨(倭は国名である。墨を用いるを言わず)」、そのあと「故謂之委也」と続くのだが、普通読まれているように、「故(ゆえ)に、これを委というなり」と読んだのでは意味がわからない。「故(古)くは、これを委というなり」と読むのだ。倭と委は同じと坂田隆氏が指摘している。如湻注は「倭面土国王」という後漢書の一書(通典北宋本に後漢書曰くとして記されている)の記述からの連想であろう。委面と記すデータも存在したのではないか。
 (委と倭人の関係については、「魏志倭人伝から見える日本5、魏志倭人伝の補足、倭人とは何か」参照

 三浦祐之氏が亀井南冥による金印偽造説を唱えている。その可能性はあるだろうか。歴史は過去に起こった現実なので、修猶館の金印議のような現実離れした思考、頭の中でこねくり回しただけの思いつきを排除しなければ歴史ではなくなる。
 江戸時代、金は幕府により統制されていた。金箔にいたるまで金座が管理しており、金沢の金箔も製造禁止である。市中に残されていた金は業者が買い集めて金座へ届ける。薩摩藩の金山で掘り出された金も金座へ持ち込まれ換金されていた。抜け道はあろうが、個人が自由に金を入手できる環境ではなかったのである。最も簡単なのは小判を鋳潰すことだと思えるが、当時流通していた元文小判の含有純金量は8.6グラムという。金印の含有純金量は108*0.95=102.6グラムになるから、102.6/8.6=11.93。十二枚の小判が必要である。現在の金額に換算するのは難しいが、一両五万円だったら、六十万円かけたことになる。十万円なら百二十万円だ。手を回して首尾よくこれくらいの金を用意できても、亀井南冥が鋳造技術、篆刻技術を持っていて、すべてをこなせたというなら別だが、この金を溶解し金印の形を作るために、そういう業者を探すしかない。犯罪行為を求めるのだから割り増し料金が必用かもしれない。金座に話を持ち込むわけにもいくまい。町の鋳物屋、鍛冶屋が金をうまく扱えるのか。近辺に貴金属を扱える業者がいたか。さらに加えて、先程書いた立体デザインの問題が重くのしかかってくる。だれが中国印らしい形をデザインしたのか。南冥と考えているのか。人手がかかればかかるほど秘密は漏れやすくなる。この程度のものに国禁を犯して命を賭けるものがいるだろうか。
 江戸時代に純度95%の金は考えにくい。最も純度の高い慶長小判でも85%程度である。金印を日本で作ったとするなら、純度を高める作業をしたことになるが、漢代の中国金印の金純度など誰も知らなかった。それに合わせることが出来たのはなぜか。そういうことにも回答を用意してもらわなければならない。手間暇かけて品位を高める必要などなく、手に入れた金をそのまま使っても、何の情報もなかったのだから、純度に関しては誰も疑問を持たない。形ができたら、次は篆刻業者に渡さなければならない。ここでも技術料、口止め料が生じる。金印を作るだけでも以上のような無理がある。

 金印は志賀島の田の溝を修理中に発見され、甚兵衛が二十日間も保持していた。郡役所に届けてその間の経緯を釈明しており、庄屋、組頭も甚兵衛を庇うために、口上書に嘘、偽りはないと保証している。亀井南冥が関与したのはこの後である。藩校の校長に任じられるほどの評価を得ていた。すでに高名な学者だったから鑑定を依頼されたのであって、それで名を成したわけではない。
 南冥等が命を賭け、大枚を投入して偽造し、こっそり志賀島へ行って、田の溝の横を掘り、石囲いを作って金印を入れ、二人持ちの大石を上に載せ、わからないように土をかぶせ固めて埋めたものを、田植え前に溝を修理したいと考えた農民が溝を広げて偶然発見するというのは都合が良すぎる。南冥や使用人のこういう行為を想像するのは馬鹿らしくもあろう。カナテコで掘り起こさねばならなかったくらいだから、土は固く締まっていたのだ。
 偽造なら発見そのものまでねつ造だと考えなければならない。志賀島の住民(庄屋や組頭だけではなく、寺の和尚、志賀海神社宮司なども記録を残している)、博多商人や那珂郡役所まで巻き込んでしまうことになるが、そうなると、どれほどの人間が関与したことになるのか。口封じはますます難しくなる。ライバル、修猶館に何も伝わらないであろうか。文書のすべてが捏造というなら藩ぐるみである。亀井南冥を持ち出す必要もなかろう。それに何の意味があったというのか。後は人知れず藩の倉庫に奥深くしまわれただけなのである。

 亀井南冥を猛虎のような人だと評した人もいるから、信念を曲げない強い人だったのかもしれない。若い頃から秀才として知られていた。入門した師に疑問を持って難詰し、直ちに別の人の門に移ったというから気骨がある。医術、学問ともに高く評価され、藩主の信任を得て、士分に取り上げられ、藩校の校長に任命された。門人もたくさんいる。先生として尊敬されていたのである。その立派な先生が捏造に手を染める。詐欺行為に協力を求められた支持者はどう感じるであろうか。尊敬は続くか。南冥に対する評価は地に落ちるのではないか。
 南冥は儒者である。仁義礼智信を人に説く。後世の注釈などを廃して論語の原初の正しい姿に戻そうと主張しているから、仁、礼だけで良いかもしれない。論語の理屈のみを講じる人を孔門の学と言っても私は信じないと語る。論語に則って生きなければならないという主張である。自己利益の実現のために偽物作りをして人を騙す。これは南冥の思想信条の対極にある。長年に渡って積み上げて来た自己のすべてを否定してまで金印を作るのはなぜか。南冥を口先だけで大嘘つきのインチキ儒者というなら、そういう証拠を提示していただかなければならない。こういう現実(資料から引き出せる)から出てくる矛盾がある。

 金印は広陵王璽と彫り方が異なるから、偽物だという人も現れた。金印には日本独自の技術が使われているというならともかく、そうではないようだ。同一工房であっても同一職人が彫ったかどうかはわからない。同一職人であっても同じ彫り方をするかどうかはわからない。日本でも篆刻できると言えるだけで、中国製を否定する根拠にはならず、この程度で騒げるのかというのが正直な感想だ。篆刻技法など中国から伝わったものであろうに。

 金印には四ヶ所に足のような出っ張りがある。蛇鈕はラクダ鈕を改作したものだと言う人もいる。削って広陵王璽とほぼ同じ高さになったとしたら、もとのラクダ鈕の高さはどれくらいになるのか。真印説だそうだが、規格から外れてしまうし、首を削れるのなら足も削れるだろう。
 鈕には紐を通す穴を開けなければならない。これは蛇と穴をどう処理するかで工夫された形である。穴を作るために台を置き、その上に蛇を重ねた。滇王の印のダイナミックな蛇と穴に比べると発想力に差があることは否めない。工芸職人の能力の差と言うしかない。金印作者は北方寒冷地の出身で蛇をあまり知らなかったのかなという気もする。滇王の印の蛇にはひし形が崩れたようなパターンが入っている。おそらくニシキヘビを模したものであろう。中国南方には丸いパターンを持つ猛毒の蛇がいるが、亀にも入れられていることを思うと、金印のパターンはそういうものに関係がなさそうだ。無地は寂しいので入れたという程度のように思える。
 ついでに言えば、江戸時代の日本の工芸職人なら、もっと蛇らしい蛇を作れる。なにか日本離れした蛇の造形である。



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