邪馬台国(邪馬壱国)九州説の研究

邪馬台国(邪馬壱国)九州説の研究

 調べ尽くして邪馬壱国は大和という結論を出しましたが(「弥生の興亡」参照)、北九州説はどのような考え方をしているのか。興味を感じて分析することにしました。古田武彦氏など北九州説の著名な論者の書物を分析し、その主張の正誤を考えます。


 古田武彦氏「邪馬一国への道標」
 松本清張氏「清張通志、邪馬台国Ⅰ」
 森浩一氏「倭人伝を読みなおす」



古田武彦氏

 古田武彦氏の代表作は「邪馬臺国はなかった」かな、と古本屋で探したのですが、見つかりません。これで手を打つかと選んだのが「邪馬一国への道標」です。
 第一章は「縄文の謎を開く」で、「縄文人が周王朝に貢献した」、「殷の箕氏は倭人を知っていた」、「孔子は倭人を知っていた」の三節に分けられています。
 後漢、王充の「論衡」に書かれた「周の時、天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢ぐ。」という文と、班固の漢書地理志、燕地の「楽浪海中に倭人有り。」という文を結び付け、倭人とは日本人のことで、周代なら縄文時代ですから、倭人は縄文時代から周に朝貢していたと結論しています。
●東アジアの各地に倭人が存在したという説を、「倭人多元説」と名づけ、中国江南から移動したという確証はないと否定します。しかし、翰苑所載の魏略逸文には、「聞其旧語 自謂太伯之後(その旧語を聞くに、自ら太伯の後という。)」と書いてある。倭人に「昔の話を聞いたら、自ら太伯の後裔だと言った。」のですから、倭人は元呉人、中国人だと主張していたわけです(太伯は呉の始祖)。「太伯の後」は晋書、梁書の倭人伝にも記されています。どちらも唐代の作なので、魏略が元データと思われ、この記述の存在は承認できます。
 魏志韓伝には、韓は「東西は海を以って限りと為し、南は倭と接す。」、弁辰伝には「その瀆盧国は倭と界を接す。」ですから、韓の南に海はなく、倭だと認識されていたことになります。
 山海経海内北経は「葢(カイ)国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。」と記します。葢国がどこかというと、高句麗西方に葢馬大山という地名が現れますから(魏志東沃沮伝)、そのあたりに存在した国だろうとされています。どうも、高句麗成立(前漢末期)以前、その南方(朝鮮半島北部)に倭が存在したらしい。三国史記、高句麗本紀にも倭山という地名が現れます。
 以上のように、中国、朝鮮半島に倭という民族が存在したことを示すデータがある。それを踏まえて倭人多元説が唱えられたのでしょう。古田氏は、「太伯の後」という魏略逸文には全く触れません。この記述が江南から移動したという説を支えているのに、元中国人だという最も明確なデータを隠して紹介しない。

●「江南の文物が弥生初めの九州などにあらわれない。」と断定していますが、石包丁など中国と同じものが発見されているそうです。私も考古学資料にはうといのですが、手元にある書物には中国との関係を示す遺物がいくつか紹介されています。古田氏は断定するにふさわしいほどの知識を持ちあわせておられないようです。これは、記述のテクニック。読者を自説に誘導するための方便とでも解しましょう。それに、発見されていないと、存在しないは全く異なります。中国は猛烈な勢いで開発が進んでいますから、今後、考古学的発見も大躍進することまちがいなし。これからが楽しみです。(発行年を見たら1978年。ちょっと古すぎて現在の知識と比べるのは不公平か。しかたがないので、このまま行きます。)
 倭人が東アジア各地に存在したなら、どこへ消えたという記述もありますので、私が解答しておきましょう。中国の倭人は中国に同化して姿を消し、朝鮮半島に存在した倭人は、それぞれの王朝に吸収され、韓人などに転化して姿を消します。燕人衛満に追われ、朝鮮から南方に逃れた箕氏が韓を建国(前漢初期)するまで、韓人は認識されていなかったのです。そこの住民が韓人と呼ばれるようになっただけのこと。別にマジックはありません。日本の倭人は日本人になります。

●王充の論衡、「倭人鬯草を貢ぐ。」の倭人は、同時代の「楽浪海中に倭人有り。」という記述や、金印を授けられた倭奴国の朝貢の知識とリンクしている。王充は、楽浪海中の倭人が鬯草を貢いだと認識している。という主張は正しいと考えます。確かに王充は遠方の夷狄が朝貢した吉祥としてこれを取り上げ、越裳氏の白雉と並べています。
 漢書地理志、燕地には、「(殷の貴族だった)箕氏は殷が滅びた後、朝鮮へ移住して国を建て、住民を教化したので、礼節が守られ泥棒もいなかったが、今は失われた。仁賢の感化はなんと貴いのだろう。それにしても、東夷の天性は従順で他の三方とは異なっている。孔子は道が行われないことを悼み、もし海に浮かぶなら、九夷に住みたいと言ったが、理由があったのだなあ。」というようなことが記され、その後に「楽浪海中に倭人有り」が続くことから、これも、班固が、孔子と楽浪海中の倭人を関連づけているのだと説きます。確かにその通りで、燕の紹介だけなら、孔子を持ち出す必要はないわけです。朝鮮はとっくの昔に礼節を失い滅びているのですから。何か別のことを含めている。
 班固は「朝鮮は中国人が駄目にしてしまったが、今度は太伯の感化を受けた楽浪海中の倭人が朝貢に現れたぞ。」という驚きを書いたわけです。しかし、それは後漢の建武中元二年(57)、光武帝時代のことですから、(前)漢書には書けない。そこで、前漢代の燕関係の資料から引き出した、「楽浪海中に倭人有り……」という文を続けたのです。
 何かこそばゆくなりますが、当時の日本は、周初期の良風を残す理想郷のように思われていたらしい。おそらく奴国の大夫が伝えたのだと思われますが、倭人は太伯の後裔という言葉が意識されているのは間違いありません。古田氏はこのことを見逃しているのか、都合が悪く、隠したのか?
 説文解字は「委」を「随なり」と書いています。従うと言う意味ですから、倭人は従順な民族と考えられていました。だから地理志は「東夷の天性は従順」と書いたのです。
 整理すると、
「朝鮮半島(葢国の南)に住む倭人は天性従順な民族で、殷の箕氏が朝鮮を建国して感化したので、礼節が守られ、中国、周初期の理想的な風俗を残していた。中国人の遼東などへの移住により、それは失われてしまったが、ついこのあいだの建武中元二年、楽浪海中から、太伯が感化した倭国極南界の奴国が、大夫を使者として派遣し朝貢して、光武帝から印綬を賜った。奴国にはまだその良風が残されているらしい。周の成王の時には鬯草を貢いだし、前漢時代の燕にもしばしば顔を見せていたという。箕氏や太伯という仁賢の人の感化はかくも大きいのだ。孔子が海に浮かんで東夷の国へ行こうかといったのは、こういうわけだったのか。」というのが班固の考え、後漢初期の中国人の常識だったことになります。
 しかし、孔子は冗談交じりに、「桴(小さないかだ)に乗って海に浮かぼう。」と言ったわけですから、行き先はそれほど遠くない。春秋時代の孔子が意識していたのは、箕氏朝鮮で、楽浪海中の倭ではないわけです。後者なら大航海になり、冗談でも小さな筏では済まない。おそらく、山東半島から遼東半島、朝鮮へという交易路が存在したのでしょう。孔子と楽浪海中の倭人を結び付けて考えたのは班固で、孔子自身の頭にはありません。
 魏(戦国時代)王墓の盗掘により発見(晋代)された魏の年代記、「竹書紀年」をみると、成王十年に越裳氏来朝(ベトナム)となっています。粛慎氏来朝や於越来賓(これは会稽南方の越)などという遠方小国の朝貢を記しながら、倭人に関する記述はありません。周にとって、倭人は遠方の小国、朝見すること自体がめでたい国の扱いではなかったようなのです。「太伯の後」というデータからすれば、これは当然で、周の身内の呉人じゃないか。呉に封じられたのは周の初代、武王の時ですから、鬯草を献じた二代目、成王の時代なら、呉人そのもので、楽浪海中の日本にまで広がっていたと解するのは時間的に無理です(太伯は武王の大伯父)。だから、古田氏は「太伯の後」を持ち出せない。
 「成王の時、倭人が鬯草を献じた。」という周代の何らかの資料から引き出した記述と、楽浪海中の倭人を結び付けて考えたのは王充です。
 誰も気づかなかった恐ろしく鋭い指摘なのですが、それは後漢代、王充や班固の脳裏にあった当時の常識に過ぎない。常識が正しいと限らないのは、現在に同じです。
 後漢初期の人々の心中のイメージを、周代の史実と誤認させる。ここには、巧妙な、データのすり替えがあります。周代のものとして扱えるのは、「成王の時、倭人は鬯草を貢ぐ」だけで、そして、この倭人は、古田氏の言う縄文人ではなく、長江河口部に住んでいた呉人のことになります。弟に国を委ねて去った太伯の行為から、その国民が委人(倭)と呼ばれるようになったのだと思われます。

●魏志倭人伝の倭国は海峡国家で狗邪韓国は倭地だと書かれていますが、それより先に、倭人伝はなぜ倭伝ではないのかを問題にしなければならない。「倭人」と「倭」が区別されていると松本清張氏が指摘しています。
 確かに、標題だけですが、大海の中にある国は「倭人」と書かれ、朝鮮半島の倭と区別されています。倭人伝は「帯方東南大海の中」の国の紹介で、北岸にある狗邪韓国は通過して情報を持っていても何も触れていない。この国は倭地ではないのです。そこを離れ海へ出てからを倭地と計算している。倭が島々を巡って5000余里という記述は、女王国までの全体の距離12000余里から狗邪韓国までの7000余里を引いた単純計算の結果に過ぎません。朝鮮半島の倭の情報は全くなかったようで、記録されていません。後、任那と呼ばれる地域のことです。
 帯方郡から七千余里で倭の北岸、狗邪韓国に着いたのだから、狗邪韓国は七千余里の端っこに付属します。どちらの国か読者が迷わないように、その北岸とか、韓国という文字を付け加え、所属を明らかにしているのに、わざわざ足を踏みはずしにかかる人がいるとは記述者も想像できなかったでしょう。古田氏は万二千余里から逆算した五千余里の方に狗邪韓国を含める理由を明らかにせねばなりません。
 狗邪韓国は魏志韓伝に見られる弁辰狗邪国で、弁辰(弁韓)に属します。狗邪(コーヤ)というのが国の名前で、他は所属を表す形容です。豊臣秀吉と呼ぼうが、太閤秀吉と呼ぼうが、同一人物で、表現が異なるだけです。その程度の判定力はもたねばならない。どう強弁しようとも韓国という文字は消せないのです。
 このあたりは白馬非馬という詭弁学派に類するイメージがあります。しかし、その言葉に対するマニアックとも言えるこだわりがなければ、後漢初期の、中国人の倭人観を引き出せなかったことも確かで、功罪相半ばするようです。
 歴史書というのは過去のデータを元に書かれます。著述、著者という言葉を使うからおかしくなりますが、陳寿にしても、范曄にしても、「三国志」、「後漢書」を編纂した、つまり、要領よくまとめたのであって、創作したのではありません。したがって、大量に他人の文章が紛れ込んでいます。自らの文章でも表現を変えるのに、他人のものならなおさらです。

●山海経の葢国(濊、カイ。穢、ワイとも記されており、クヮイという音だったと思われます)、燕の南、倭の北に存在した国を、周以前から存在した国と扱い、箕氏がそこに封じられたと断言していますが、これはまったく根拠がない。山海経には大夏や月支国(月氏国)、甌、閩、不與(フヨ)という文字があり、前漢、武帝時代の情報まで混じっています。班固は誤解していたようですが、山海経だから太古の伝承とは限らないのです。
 戦国時代の燕は真番、朝鮮を略取して官吏を置き、寨を築いたとされていますから(史記、朝鮮列伝)、燕は真番と呼ばれた国と接していたらしい。南は朝鮮ですから、真番は東南方に存在したのでしょう。真番から葢へ国が交代したようです。したがって、燕の南の葢国の成立は秦末から漢初期と考えられます。後、武帝が真番郡を設けました。葢国の存在に関するチェックは何もなく、倭人と殷の箕氏を結び付けたいという願望だけで突っ走っています。ずっと後裔の朝鮮の箕氏なら朝鮮半島の倭を知っていたと言えますが。
 倭人が箕氏を仲介として中国の天子に服属した。箕氏によって貢献物が成王のもとに届けられたはず、それが「倭人、暢を貢す」という記述になったのだそうです。しかし、箕氏が届けたなら、倭人が貢いだことになりません。箕氏を使いに出したとでもいうのでしょうか。中国の史書はそういう部分に厳密で、「倭人、鬯草を貢ぐ」ではなく、「箕氏、倭人が貢ぐところの鬯草を届ける。」というふうに表現されるはずです。竹書紀年をみると、武王十六年に「箕氏来朝。」とあり、成王の代に箕氏が来たとは書いていません。空想の上に空想が重ねられています。

●魏志倭人伝の「古より以来、その使、中国に詣ずるは、皆、大夫を自称す」の「古」は「倭人は鬯草を貢ぐ」の周代のことを指すとし、三国志の中から「古」の例を探し出し、周以前のことだと証明を装っていますが、夫餘伝に「古之亡人」、韓伝に「古之辰国」とあり、どちらも漢代の出来事を「古」と表現しています。自らに都合の良いデータしか提供しないようです。
 夫餘は「濊王之印」を授けられており、元々は朝鮮半島中東部の濊と同一国だったことがわかります。それが遙か北方に移動している。戦国時代は中国そのものがバラバラでしたし、秦も遼東に長城を築いて防御しており、周辺諸民族を冊封体制に組み入れた形跡はありません。したがって「濊王之印」が与えられたのは漢初期で、七代目の武帝の東方進出により、濊が分裂し、北方に逃れたもの(亡人)が夫餘になったと推定できるのです。この時、朝鮮半島中部には楽浪、玄菟、真番、臨屯の四郡が置かれ、漢の所領となっています。
 辰国は漢書、西南夷両粤朝鮮伝に見られ、その建国は韓建国(B.C195)より後になります。辰韓が古の辰国で、楽浪から韓に逃れ、韓が東方の土地を割き与えたと言い伝えているのですから(魏志韓伝)。
 「古」は、別に太古とは限らない。したがって、倭人伝の「古より以来」は、後漢に朝貢した奴国以降を指します。「倭人は鬯草を貢ぐ」のどこに大夫の文字が見られるのか?

第二章は「三国志余話」で、「まぼろしの倭国大乱」など三つの節があります。
●魏志の表記は「倭国乱れ」で、後漢書の表記は「倭国大乱」です。古田氏は、これを時代の変化による言葉の使用法の変化ととらえ、三世紀には大乱はなく、五世紀に表現が大げさになっただけと主張します。
 三世紀、陳寿の時代には、「大乱」という言葉は「天子の座を犯す」という方向性をもっている場合のみに使われる大義名分上の特殊用語だったと決めつけています。が、そんなことはない。
 三国志魏書、張貌伝の裴松之注に、「英雄記曰く」として「城中大乱」という言葉がありますし、同じく魏書、夏后淵伝、裴松之注に「魏略曰く」として「兗豫大乱(兗州、豫州は大乱)」と記されています。英雄記は後漢末の人、王粲(177~217)の著作とされています。魏の曹操と同時代です(この頃はまだ後漢が存在した。滅亡は220年)。魏略の著者、魚豢は陳寿と同時代の人です。後漢や晋代の書に、普通に、「大乱」が使われていて、これは、記述者の表現上の問題でしかないということでしょう。
 陳寿、范曄がこの文を作ったと考えていることも大きな間違いです。先に述べたように、歴史書の編纂は文のすべてを創作するものではありません。陳寿は帯方郡使の報告をそのまま写している。それは倭人に聞き出した倭人の歴史です。したがって、「倭国乱れ」という表現は倭人の言葉を翻訳したものです。後漢書の「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也、光武賜以印綬、安帝永初元年倭国王帥升等献生口百六十人願請見、桓霊間倭国大乱」という一連の記述は他の史書には見られません。范曄はこれらを後漢代の何らかの資料から引き出したのです。「衆家後漢書を刪し一家の作となした(宋書范曄列伝)」とされていますから、先行後漢書の要約と思われます。
 陳寿の場合は、ほぼ同時代を書いているから、陳寿の言葉と三国時代の表現はあまり変化がないかもしれません。しかし、范曄の場合は、国は南朝の宋ですし、後漢とは二百年以上の年代差がありますから、言葉はかなり変化していると思われます。表現が范曄時代のものなのか、後漢の文献を写した後漢時代のものなのか、吟味する必要があるのに、そういう作業を全くせず、すべてを范曄の表現とみなして、どうこう言っている。はなはだ精度を欠きます。後漢の王粲の文に「城中大乱」が見られることから、後漢書の「大乱」も同時代の言葉、范曄の採用した資料中の文字とみなして問題はありません。
 後漢書倭伝は魏志倭人伝の地理、風俗情報のみを要約していますが、それと解るのは、魏志と同じ表現があり、范曄の表現で書いた部分との違いが区別できるからです。地理、風俗に関して魏志を上回る内容はありませんから、魏志のみに頼っている。他の資料から詳しいものは得られないのです。それに奴国の朝貢や倭国大乱などの後漢代の資料から得られた情報、徐福、東鯷人など秦や前漢代の倭に関係するかもしれない情報を加えて後漢書倭伝が構成されています。卑弥呼の即位は後漢代なので、後漢書の対象になります。
 「是時既滅両越越人勇之乃言越人俗鬼而其祠皆見鬼数有効昔東甌王敬鬼寿百六十歳後世怠慢故衰耗」 
(この時、すでに両越を滅ぼしていた。越人の勇之は言った。「越人の風俗は鬼を重んじ、その祠には鬼を見ます。しばしば効があり、昔、東甌王は鬼を敬い寿命は百六十歳でした。後世は怠慢になったため短くなってしまったのです。」)
 これは史記封禅書と漢書郊祀志の文ですが、全く同じです。違いは漢書で越が粤になっているだけ。つまり、班固が史記を写したか、共通の資料を基に書かれたかということになり、班固の言葉ではありません。引用の最も解りやすい例として挙げておきます。

●其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼
「その国は元、また男子を以って王と為していた。とどまること七、八十年、倭国は乱れ相攻伐し年を経た。すなわち、一女子を共立して王と為した。名は卑弥呼という。」
 住は「とどまる」。同じ場所にいて移動しないことがとどまるです。王の在位期間が七、八十年と古田氏は解釈しますが、「王位に住る」という文字を使うだろうか。地理的な場所ではないのか。家を持って長くとどまれば「住む」ことです。古田氏にならって三国志原文をあたれば、呉志、諸葛瑾伝に「代呂蒙領南郡太守住公安 (呂蒙に代わって南郡太守をつとめ公安に住んだ。)」という記述がありました。
 倭人伝の文にある空間を示す言葉は其国と倭国です。其国は主語ですから、ここは「その国は、以前は(本=元)、倭人伝に前出の伊都国や狗奴国と同様(亦)、男子を王と為していたが、(倭国に)住むようになって、七、八十年で倭国が乱れた」という意味になります。七、八十年もとどまれば、「住む」でしょう。どこかから移動してきたわけです。
 後漢書は「桓霊の間、倭国大乱」ですから、大乱は桓帝と霊帝の間にまたがっています。在位期間すべてというわけではありません。ですから、卑弥呼の即位は霊帝の時代になります。その即位時の年は「長」と書いてある。既に成人していた。魏志倭人伝は帯方郡使が派遣された景初、正始頃の年を長大と記し、大を加えた。記録順序から言えば、魏志の長大を受けて、後漢時代はもっと若いと范曄が大を削って長にとどめたのです。
 霊帝の即位が168年。その数年後の即位と解せば、帯方郡使、張政が派遣された247年まで、八十年近くを経ていることになります。年長を加えれば百以上。人間離れしているからこそ、「長大」と記されたわけです。鬼を敬って百六十歳まで生きた東甌王の如く。卑弥呼も「鬼道に事え」ています。倭人伝は、「その人は、寿考(長生き)で、或いは百年、或いは八、九十年。」と記しており、その程度の年齢では長大とは言えないのです。
 現実にはあり得ない年齢です。現実として可能なのは八十歳以上。十三歳で即位した壱与より、もっと幼い即位だった場合だけです。実際そうだと思われます。したがって、范曄の「年長」は魏志からの逆算で、そういうデータが存在したわけではない。「桓霊の間、倭国大乱/更に相攻伐し、歴年主なし。一女子有り。名は卑弥呼という。年長。嫁せず。鬼神道に事え能く妖を以って衆を惑す。ここに於いて共立し王と為す。」が後漢書の記述ですが、「更に」以下は魏志からの要約引用で、後漢代の資料から得た前段に付け加えているわけです。
 古田氏は魏志と後漢書が同じように即位時の年齢を書いていると解釈していますが、共立という文字の場所が異なります。後漢書は「年長」の後、共立が出てきて、「年長」の卑弥呼を共立したことになりますが、魏志には、共立した後、「鬼道に事え、よく衆を惑わす。年すでに長大」とあり、帯方郡使が邪馬壹国を訪れ、卑弥呼の存在を知った時の年齢が「年已長大」で、現況を書いています。范曄は魏志を分析し、百歳以上の長大という年齢を信じ、幼女が即位するとは思い至らず、内容を変えたのです。

●「春耕、秋収を計って年紀としている。」という裴松之の注を元に、「二倍年暦」という不思議なものを案出されています。どうも春と秋で一年を二倍に数えていると考えるらしい。「その人寿考。あるいは百年、或いは八、九十年」とあるのは、半減して、当時の平均寿命と思われる四十五くらいになりますから、現実と合うのだそうです。しかし、それなら長生き(寿考)という表現は使えない。平均にあわせれば普通でしょう。
 帯方郡使は現実にいろいろな人と出会っているわけです。派遣された張政は何歳くらいだったのだろう。軍事顧問として派遣されたわけですから、若造は出せないはず。そういう経験の深い指導力のあるベテラン。誰も知らない南方の蛮地へ旅し、活発に動かなければならない。体力も必要です。そういうものが考慮されたとすれば、自身が四十歳前後だったのではないか。若く考えても三十歳は越えていただろう。人種的にはたいして変わりがないわけですから、四、五十の人間と、八、九十に見える人間の区別がつかないだろうか。
 太古から、人間の営みは自然とともにありました。日本や中国では四季があり、季節にあわせてさまざまな作業、行事があります。鳥が渡り、動物が動き、木々が芽をふき、実り、葉を落とす。部族や自らの生存にかかわることです。いやがおうでも意識せざるを得ない。正月や春夏秋冬の四分法は知らなくても、それは中国人が勝手に決めたことですから、生きるのに不都合はない。農耕にしても、耕したあと何もせずに過ごすわけではありません。水の管理、草取り、動物や昆虫の防除など日常的な業務が続けられ、収穫でやっと区切りがつけられる。耕地から収穫までの作物の成長過程、一農業年が一年と考えるのが普通です。山の雪の形やカッコウなど鳥の鳴き声で農耕の始め時を知るという習俗も太陽と地球の位置関係から派生します。
 倭人は「春耕、秋収」という太陽の運航がもたらす自然のサイクルにしたがって暮らしていたわけです。そのサイクルの一つが、一つのブロック、つまり、年期として意識されるだろう。これは世界中どの民族でも同じことです。古田氏は机の前で文字だけをこねくり回している。

 第三章は「三世紀の盲点」で、「それは島だった」、「疑いなき邪馬一国」、「真実への道標」の三節があります。
●半分近く読んで、ようやく解ったのは、書かれた文字はすべて正しいという立場をとっているらしいことです。千里と書いてあるのは正しいから、現在、通説となっている尺度は間違っている。縮めれば良いんだ。古田氏が長里、短里というものを持ち出しているのは知っていますが、この本に説明は書かれていませんでした
 八、九十という年齢表記は正しいから、一年で二歳にすれば現実的になる。おそろしく独善的な思考法です。この人とコミュニケーションをとるのは難しいだろう。自分勝手に言葉を定義し、共通の認識を拒絶していますから。しかし、ここまでくると読むのが楽しくなってきます。
 距離の記述がすべて正しいなら、それを測量したのは誰だ。いつ、どういう方法で計ったのだ。そういう現実問題が出ますが、この人は答えを用意する気がない。小説なら頭の中のイメージだけで済まされますが、歴史は過去の事実です。実際の人間の行動、可能、不可能を離れることはできません。しかし、それに配慮する神経はない。
 古田氏は、「さまざまな文献から歴史の真実を探り出すのではなく、文献の”真実”に合わせ、歴史をひねり出す」のです。
 でも、同じ文献内の矛盾にはどう対処する? 距離に関してはくどくど書いていますが、不弥国から先の、水行二十日で投馬国、投馬国から水行十日、陸行一月で邪馬壹国という日程表記は完全に無視です。これを無視すると女王国へはたどりつけないのですが、いきなり現れた万二千余里を女王国までの正しい距離だと採用します。先ほどと同じで、誰が測ったのだ。
 倭地は帯方郡から女王国までの距離、万二千余里から帯方郡から狗邪韓国までの距離、七千余里を引いた五千余里でした。そこから狗邪韓国から不弥国までの三千七百里を引くと、残りは千三百里。それが不弥国から女王国までの距離になります。千三百里という短い距離は、同じ魏志の水行、陸行あわせて二ヶ月という記述と相容れない。
 どちらを優先するかで、距離を取り、時間でかかれた投馬国、邪馬壹国は信用できないから無視なのでしょうか。実際の人間の行動を考えれば、日中活動して、夜は寝てという日にちの記述の方がずっと信頼できるでしょう。こういうところで泊まった、こういうことがあったと記憶をたぐれます。万二千余里は直線距離なのか、行程距離なのかということすらわかりません。
 長里、短里に関して言えば、そんなものは存在しません。古田氏は地図を眺めながら長里、短里と区別している。現在の、正確な測量術に支えられた距離と比べているわけです。単に千里と書かれている文献が、長里か、短里かは、現在の資料を当てにしなければ決められない。そんな書き方を古代の誰ができるというのか。古田氏にとって未知の土地の距離を書いた文献、たとえば千里とあるようなものを示して、地図や地理資料を見ずに長里か、短里か教えてくれといえば、絶句するでしょう。鉛筆でも転がして決めるしかない。「長里で千里」、「短里で千里」というような書き方をしなければ、第三者には伝わらないのです。古代の文献にそんなデータはありません。
 言葉や文字はコミュニケーションの道具です。共通の認識がなければ相手には通じない。書物は不特定多数の読者を想定して書かれています。里と書いてあるだけで、長里、短里という判定ができる読者は存在しません。時代毎に少し変動しますが、里は一つです。魏書、董二袁劉伝第六に「(黎陽を出て)洹水に到る。鄴を去ること五十里。」という記述があり。通説通り、魏の一里、434.2メートルで計算すると21キロほどになり、実際の距離にほぼ一致します。同じ書の中で、何のことわりもなく長里、短里などと使い分けられるはずがないのです。倭人伝など、大きく狂っているのは、その距離が間違っていることを示します。朝鮮半島から対馬、壱岐、北九州と海を渡りますが、実際にはすべて距離が異なるのに、千里に統一してある。こんなものだろうという心理が読み取れるではありませんか。

●中国の史書が、日本を海中の島と表記していることから、津軽海峡が知られていなかったのに、本州を海中の島と呼ぶのはおかしい、九州のことだと説きます。問題は当時の中国人が日本をどうとらえていたかということで、実際の地形を知っていたかどうかではありません。倭人伝に記されているのは彼らの得た心象なのです。女王国から東南船行一年で裸国、黒歯国に至るとされ、日本ははるか南方まで島々が連なると考えられていました。
 隋書にも津軽海峡を知っている形跡は全くないと記されていますが、隋書俀国伝に「夷人は里数を知らず、ただ日を以って計る。その国境は東西五月行、南北三月行で各海に至る。」とあり、 “東西が南北より二ヶ月も長い横長”ですから、縦長の九州ではありません。本州を島と扱っていることを指摘しておきます(これも、あくまで当時の日本人、中国人のイメージで、明確な地形を知っているわけではない。隋代には方向は正しく東と認識されています)。
  この俀国も 九州だそうですが、前後の文を記しながら、自説に反するこの記述は飛ばされています。
 津軽海峡を知っているからこのような難癖をつけるので、知らなければ素直に読むはず。ここでも現在の地形図、地理知識にむりやり合わせようとしています。倭人伝の邪馬壹国へ行きたければ、当時の人々の心の中にあった地図に従うしかない。最も近いのは右の混一彊理図でしょう。

●古田氏はヤマイチ国と読んでいますが、百衲本後漢書の李賢(章懐太子)注に邪馬臺は「邪馬惟音の訛なり。」とありますから、唐代にはヤマユイに近い音だと考えられていたことになります。ヤマイーですね。一や壹、伊を書き分けているのは、発音に微妙な違いがあったためではないか。イッ、イー、イというような。古田氏が邪馬壹国を主張されているのは知っていますが、私とは全く異なるアプローチでした。古田氏の論拠を挙げてみます。

1、三国志の原文には邪馬壹国とあり、邪馬臺国とする版本が皆無であること。
2、壹と臺の字が酷似しているような形跡はない。
3、三国志中で壹と臺の使用を調べたが、取り違えられていると認められる箇所がない。
4,三国志の中で臺は天子の宮殿と直属官庁を現す至高の特殊文字として用いられている。(蛮夷の国には使えない。)

 2に関しては、私も書いていますが、私はデザインやレタリングを学んだことがあり、文字を書き慣れた人間にとって、間違えやすい文字ではないという実感を持つからです。壹與が二行に三回も現れているのに、勝手に臺與に訂正できないでしょう。臺與と書いているのは、唐代に作られた梁書以降なのですから。
 古田氏の真意は原文の文字を「簡単にいじるな」ということだそうで、これには大賛同できます。私が邪馬壹国とするのも同じ立場なのです。地名が変化している可能性を否定することはできません。邪馬壹を邪馬臺に改訂する根拠がなく、百数十年後の後漢書以降の書物や、日本の史書に残された地名に合わせてという扱いはあまりにも安易です。
 この一節だけは論理的で説得力があります。ただし、3、4が正しければ。大判の、厚さ五センチもあるような本の全文を自分で確認しようという気にはなりません。しかし、この人のデータの出し方を見ると、疑う心は残ります。たとえ古田氏が間違っていたとしても、私の立脚点は全く異なるので、影響は受けないのですが、別の方向から同じ結論が出せるなら、より堅牢になるのでありがたい。
 古田氏は邪馬一国と勝手に修正しています。明代に復刻された北宋本では邪馬一になっているので、簡略化してこれを使用したそうです。「一」と書いてあったものが、大幅に複雑な「壹」に訂正されることはまずないでしょう。「壹」とあったものが簡略化されて「一」になった可能性が強い。それなら、やはり、原初の邪馬壹を使用するべきです。一大国、邪馬壹国と文字を書き分けているのは理由があるはずです。
 一は漢音でイツですから、一大はイツターという音になり、壱岐の石田郷のことだとわかりますし、壹はユイ音と考えられています。原文の文字を簡単にいじるなといいながら、自らは安易に文字をいじって行動を伴っていません。
 中央公論社の「日本の古代」は、魏志にありもしない「一支」、「邪馬臺」を原文の中に置き換えています。修正したということわりはありますが、やり方が逆で、原文通り「一大」、「邪馬壹」と書き、私は他の資料を根拠に「一支」、「邪馬臺」が正しいと考える、というふうな解説を付けなければいけない。「日本の古代」が三国志原典に置き換わる可能性はありませんから実害はないのですが、印刷術のない頃、古代の学者がこれをやっていると危ない。勝手な解釈による変更が後世に伝わり、原典が消え去る可能性があるのです。私自身の経験では、淮南子と呂氏春秋の内容が異なっていて、淮南子の要約、つまり、学者の解釈が狂っているのを見つけたことがあります。原典の呂氏春秋が失われていたら、間違いが幅をきかせていたわけです。淮南子の間違いに気づかず覚え込んでいる人もいるでしょう。

●帯方郡から不弥国まで一万七百里ありますが、勝手に一万六百里に減らしています。その説明はなされていません。伊都国から放射状とでも解釈しているのでしょうか。「邪馬臺国はなかった」を前提にしているようで、どういう理由かわからない部分があります。ともかく数字には絶対こだわるのに、解釈は気ままで、その数字に合わせようとします。それは魏志倭人伝の解読ではなく、魏志倭人伝を元に、自らの心のままに歴史をあやつること。もはや古田志倭人伝と言えます。数字あわせのテクニックはあまりにも複雑すぎて、この場で簡略化して伝えることができません。全文を写さねばならない。なぜ、これほど数字に支配されるのか不思議です。
 陳寿がいかにすぐれた歴史家であるか、一節をさいて力を込めて語り、陳寿が書いたと扱いながら、そのすぐれた歴史家が、複雑きわまりないテクニックを駆使しなければ理解できない、暗号文のような書き方をしたことになる矛盾に気がつかないのでしょうか。
 やっとここで、水行二十日で投馬国、水行十日、陸行一月で邪馬壹国という日程が、わずか千三百里になるのか出てきました。水行十日、陸行一月は帯方郡から邪馬壹国までの総日程だそうです。でも、帯方郡から末羅国まで、ずっと船に乗って(水行+渡る)一万里です。それがわずか十日ということになります。末羅国(唐津市)から博多湾岸までの陸行七百里を一月もかけるわけですね。マラソンランナーなら二時間少しで走ってしまうのですが。当時の道路事情を考慮し、いくら大げさに見積もっても一週間でおつりがくるでしょう。あれ、水行二十日はどこへ?  陳寿にしろ、范曄にしろ、直接、倭を知っている歴史家は存在しません。信頼できると判定した資料にしたがって倭伝を書いています。翰苑にある魏略逸文には魏志と同じ文がある。つまり、魏志と魏略は同じ資料に基づいて書かれているわけです。倭のことをつぶさに書けるのは渡来した帯方郡使しかいない。それなら、元の文は帯方郡使の手になるものだろう。報告書を出したのではないか。陳寿はそれを洛陽で読んでいる。陳寿が倭人伝を創作したのではなく、帯方郡使の報告などを引用し、解りやすく解説を加えて倭人伝を構成したのです。それが常識的判断の積み重ねにより、ごく自然に得られる結論です。
 卑弥呼の使者、難升米等の倭人が情報を伝えた可能性もありますが、帯方郡からの行程を細かく書き、土地を観察し、「大人と出会えば草の中に入って道を譲る」など、ささいな日常風景を描写していることを思えば、帯方郡使の文と扱うことに問題はないでしょう。
 范曄の時代にはその報告書は失われていたらしく(南朝の宋です、魏から晋、晋が南に逃れて東晋となり、宋と続きます。その過程で重要な書物以外は放棄されるでしょう。)、范曄は後漢書倭伝を記すにあたって、新しい資料と照らし合わせながら、魏志を要約引用、修正したうえで、後漢代の資料から得た、後漢代の倭に関する記述を加えました。後の時代になるほど原資料は失われ、残された魏志などの大著の要約引用と新たに加えられた資料が合成され姿を変えてゆきます。そういう歴史書の変遷を分析した上で考えなければ歴史は解けません。

 第四章は、「四~七世紀の盲点」です。「歴代の倭都は『謎』ではない」、「一大率の探求」などの節があります。
●白村江で完敗したのに、日本が滅亡しなかったのはおかしいそうですが、なぜ、百済を舞台にした海外の戦いに完敗しただけで、本国が滅亡しなければならないのか、理解不能です。滅亡すると決まっているのか?
 唐の侵攻を恐れ、いかに緊張していたかが日本書紀に記されているのに、この人は何も読めていない。「対馬嶋、壹岐嶋、筑紫国に防人と烽火を置き、筑紫に大堤を築いて水を貯え、名づけて水城と言った。」と書いてあり、これを九州防衛の為の方策と言わずになんとする。各地に山城を築き、都を近江に遷して、東国へ逃げることまで想定しているのです。
 第二次大戦時、日本が降伏したのは、本土が攻撃されたからで、ビルマや南洋諸島で完敗しても、即、降伏ではない。そういう違いが弁別できないようです。皇国史観がどうのこうのと書いていますが、史観の問題ではない。現実に対する認識力の問題で、古田氏には大幅に不足していると言わざるを得ません。

●翰苑のことをくどくど書いていますが、無批判に文字に飛びついて、自らの都合に良いように解釈しているだけです。翰苑は唐代の作です。時代ごとに知識が変化し、作者にはおのおのの力量がある。著作物はそれを逃れることは出来ません。魏志などに比べ文献としてのレベルは相当に低いのです。翰苑をつぶさに読みながら「太伯の後」を無視するのはどういうわけか。
 翰苑には、「中元之際紫綬之栄」とありますが、後漢書には建武中元二年、光武帝が印綬を賜ったとするだけで、紫綬という言葉はありません。唐代になって、新たな資料が発掘された可能性は薄く、卑弥呼に金印紫綬を授けるという魏志から類推したものでしょう。中元の際に紫綬という資料があったなら、後漢書の「光武賜以印綬」という文に注記されたはずです。注は唐、章懐太子賢が作成させたもので、当時の皇太子ですから、力こぶの入った国家的事業と言って良く、書庫のあらゆる文書を検索していたと思われます。翰苑に関しては、翻訳してありますので、興味のある方は「翰苑の解読と分析」を参照してください。

●率とは門衛を表し、一大率は「女王国の都の門衛たる、一つの大きな軍団」と古田氏は言いますが、そんなことはない。魏志毋丘倹伝は部族の頭、おそらく軍事的な指導者を渠率と表記しています。東沃沮伝、辰韓伝では渠帥とされ、率と帥は同義です。卑弥呼の使者、難升米、都市牛利には率然中郎将、率然校尉が与えられていて、率は指揮官を表すにすぎません。卑弥呼を一女子と記していますから、一大率は「一人の強大な軍事的指導者」という意味になります。
 その一大率が伊都国で統治し、強大な権限を持って各国に恐れはばかられていた。隣にある博多湾岸の邪馬壹国の存在がいやに希薄になります。何故、邪馬壹国そのものを畏憚しない?

● 自らのアイデアに酔い猪突猛進。漢文データを大量にまぶし、データに忠実なように装いますが、実は使っていない。自らの情念を語っているだけで、データは、安物ケーキの上の食えないロウ細工の如く、人目をくらますデコレーションとして用いられています。梅原猛氏と同じ臭いを感じました。真実を探求する歴史書ではなく、知的お遊びとして読めばよろしい。というのが私の評価です。この人の論法をみれば、資料に基づいて論理的に構成、修正という形は望めず、他の著作も同じようなものでしょう。

★  ただ、無価値かというと、そんなことはなく、称賛すべき点が二つあります。

  一つは、後漢初期の人々の日本(倭)にたいする認識を、誰もが気づかずに通り過ぎていた文から発掘したことです。 (古田氏は間違っていますが、関連しているという指摘がなければ、私は考えていなかった。)

葢国は燕の南、倭の北にある。(山海経、これは秦末か前漢初期の伝承)
委は「従う」という意味である。(説文解字)
周の成王の時、倭人が鬯草を貢いだ。(論衡、これは中国、呉人のこと)
前漢時の燕または楽浪郡に、楽浪海中から倭人が歳時を以って献見したという(漢書地理志、燕地)
建武中元二年、倭の奴国が貢を奉って朝賀した。使者は大夫を自称した。倭国の極南界の国だ。光武帝は印綬を賜った。(後漢書倭伝)
昔の話を聞いたら、自ら太伯の後裔だと言った。(翰苑所載の魏略逸文。晋書。梁書)

 後漢の王充や班固は上記のデータを一緒くたにして、東夷に住む同じ倭人のものと考えていたわけです。もう一度、彼らのイメージを挙げます。
「朝鮮半島(葢国の南)に住む倭人は天性従順な民族で、殷の箕氏が朝鮮を建国して感化したので、礼節が守られ、中国、周初期の理想的な風俗を残していた。中国人の遼東などへの移住により、それは失われてしまったが、ついこのあいだの建武中元二年、楽浪海中から、太伯が感化した倭国極南界の奴国が、使者の大夫を派遣し朝貢して、光武帝から印綬を賜った。奴国にはまだその良風が残されているらしい。周の成王の時には鬯草を貢いだし、前漢時代の燕にもしばしば顔を見せていたという。箕氏や太伯という仁賢の人の感化はかくも大きいのだ。孔子が海に浮かんで東夷の国へ行こうかといったのは、こういうわけだったのか。」
 翰苑の「太伯の後裔」とか、魏志倭人伝、裴松之注の「春耕、秋収を数えて年期としている。」というデータは、おそらく奴国の大夫が伝えたものです(どちらも魏略逸文)。
 周の穆王が即位時、「春秋已に五十」と記されたり、孔子が「春秋」という歴史書を編んでいたり、周初期には春秋で年期を数えていたようです。周代の官名、大夫を自称するなど、太伯の感化を受け、倭人はその良風を受け継いでいると思われていました。当然、鬯草を献じたのは、この楽浪海中の倭人と解釈されます。朝鮮半島には鬯草は存在しません。
 鬯草とは、鬱金草(ウコン)のことで、熱帯アジア原産、日本では沖縄、奄美大島、屋久島、種子島等に自生するといいます。したがって、亜熱帯、熱帯に産するような薬草を献じた倭は、亜熱帯以南に存在すると扱われることになります。
「弥生の興亡」で、漢代から、倭ははるか南方に存在するというイメージを持たれていたのではないか、そういう先入観があったため、南北を取り違え、方向が九十度狂ったのではないかと書きましたが、そのイメージの源泉が「倭人は鬯草を貢ぐ」という王充の論衡にあることが明らかになりました。思わぬ所から「弥生の興亡」に強力な援軍が現れたようです。ここでも古田武彦氏に感謝しなければなりません。倭人とは呉人の別称であることをつかんでいたため、楽浪海中の倭人と鬯草が結びつけられているとは思いもよりませんでした。
 陳寿は、魏志倭人伝を記すにあたり、奴国を最南端に重出させましたが、「倭の極南界」という後漢代の資料の他に、鬯草の存在も念頭に置いていたようです。上記、鬯草の知識と、魏志倭人伝に記された倭人の風俗が、漢書の儋耳、朱崖(海南島)の風俗に似ていることを合わせ、混一彊理図の形に結実したのでしょう。

 もう一つは、「魏臺」が魏帝を意味するため、蛮夷の国に臺の字を与えることはありえない、邪馬壹国だという主張です。 隋書経籍志二(巻三十三)に、高堂隆撰、魏臺雑訪議三巻が見られます。蜀書、劉二牧伝第一の「物故」という言葉に裴松之(南朝宋代)が注を入れており、「魏臺、物故の義を訪う。高堂隆、答えて曰く…(魏臺訪物故之義高堂隆答曰聞之先師物無也故事也言無復所能於事也)」とあります。「魏臺が死のことを物故というのは何故だと尋ねた。高堂隆が、私の先生に聞いたことですが、物は無で、故は事です。事に於いてまた能くする所の無い(何も出来なくなる)ことを言いますと答えた。」
 古田氏はここに目をつけられたわけです。高堂隆は明帝の傅(守り役)となり、光禄勲(九卿の一つ、宮殿の禁門の守備を司る部署の長官)で生涯を終えました。厳しい儒者だったようです。
 史記匈奴列伝の「物故」にも、索隠注(唐代)が「魏臺、議を訪う、高堂崇、対えて曰く……(魏臺訪議高堂崇対曰聞之先師……)」と、名前を間違っていますが、同じ文を引用しています。裴松之の文と照らし合わせると、議は義の意味で使われているのではないかと思えます。
 後漢書儒林列伝の「物故」の注(唐代)にも、「路上死である。案ずるに、魏臺が物故の義を訪ねまわった。高堂隆が会って言った。これを先師に聞いたのですが………(在路死也。案魏臺訪問物故之義高堂隆合曰聞之先師……)」
 太平御覧(宋代)巻三十三、時序部十八には、「高堂隆、魏臺訪議曰く、詔して問う、なんぞ以って未祖丑臘を用いる。臣隆こたえて曰く、案ずるに………(高堂隆魏臺訪議曰詔問何以用未祖丑臘、臣隆対曰按月令孟冬十月臘先祖五祀………)」とあります。明帝の祭祀に関する問いに高堂隆が答えました。
 芸文類聚(唐代)巻五には、「魏臺訪議曰く、帝問う、何ぞ未社、丑臘を用いる。王肅、対えて曰く……(魏臺訪議曰帝問何用未社丑臘王肅對曰魏土也土畏木丑之明日便寅寅木也故以丑臘土成于未故于歳始未社也)」と記されています。
 上記、太平御覧の質問と同じですが、王粛という人物が答えました。魏、王粛撰の「魏臺訪議」という書物もあるようで、その中の一節かもしれません。しかし、中公クラシックス「論語(貝塚茂樹訳)」の前書き、「孔子とその人間観、世界観(ゆはず和順氏)」に、「…孔子に関する説話を集めた『孔子家語』もあるが、現在伝わるのは、魏の王粛の偽作と論定されており…」という文があり、王粛というのは少しいかがわしい人物かと思えます。盗用の常習犯かもしれない。「魏臺訪議」という書名はかなり特殊で、著述者の個性が大きく関与しているでしょう。別人が同一書名を思いつく可能性はかなり少なく、王粛の関係するものは除外すべきではないか。裴松之の注が最も古く、原型に近いはずです。太平御覧の「詔して問う」、芸文類聚の「帝問う」という言葉は、王粛か後世の書き換え、編集が入ったと思われます。後代になると魏臺と言う表現は、一般人には何を意味するかわからなかったでしょう。
 断片しか残っていませんが、魏臺訪議(義)は「魏臺が意見(理由)をたずねる」と言う意味で、明帝と高堂隆の問答集のようです。おそらく、「魏臺訪議」という言葉がすべての文頭にあり、雑(色々なものが入りまじった。)を加えて書名としたのでしょう。「魏臺とは明帝のことだ。」という古田氏の指摘に間違いはありません。(訪=とう。王訪于箕氏。王、箕氏に訪ぬ。学研漢和大辞典)
 三国志編纂者の陳寿が倭の国名を直接知るはずはなく、何らかの資料から得たものです。その資料の書き手は帯方郡使としか思えない。邪馬壹国(女王国)まで至ったのは正始八年に派遣された張政等のみですから(弥生の興亡参照)、張政あるいはその同行者の手になるものだろう。明帝の死は景初三年正月一日ですから、派遣されたのは八年後。張政は三十四歳(あるいは三十六歳)で亡くなった明帝と同時代の人と言って良いでしょう。高堂隆の死は景初年間で、明帝に数年先立ちます。
 高堂隆が明帝を魏臺と表記していて、これはその時代の共通認識と解せられますから、同じ空気を吸った張政が蛮夷の国にこの文字を当てるとは考えられないのです。「タイ」にしても「ト」にしても、それを表すには同音のもっとふさわしい文字が見つけられるはずです。しかも「鬼道に事え、能く衆を惑わす。」と鬼道を嫌い軽蔑しています。
「考えられない」、「史官の首がいくつ飛んでも足りぬような所業だったと思われます(古田氏原文)」と言うしかなく、それは推定に過ぎないのですが、根拠のしっかりした、きわめて妥当な推定と考えます。古田氏は正しい。
 私の場合は、百衲本後漢書の邪馬臺に、「邪摩惟音の訛」という注が入れられていることから、注の入れられた唐代には、すでに、魏志に「邪馬壹」、後漢書に「邪馬臺」と別の文字が記されていた。後漢書の范曄は、何らかの資料を得て魏志を修正した上で要約引用している。日本には神武天皇の東征という王朝交代の伝承があり、魏志から後漢書までの百数十年の間に、王朝交代に付随する地名の変化があったかもしれない。范曄は変化後の地名を記したと考えることができるので、簡単に文字を変えるなというものです。(弥生の興亡1「邪馬臺国か、邪馬壹国か」。補助資料集「邪馬壱国説を支持する史料とその解説」参照)
 実際のところ、地名が変化したと確信しているのですが、日本側資料から、消されてしまった弥生時代の地名の存在を立証するのは不可能です。万人に承認されるレベルの表現ということで上記の形にとどめておきます。私は「解らないから変えるな」ですが、古田氏はもっと強力な「ありえない」という否定です。魏志の邪馬壹を邪馬臺の間違いと主張する人は、この二つの壁を論破しなくてはならない。後世の引用に邪馬臺が多いからといって、それが原型とは限りません。中央公論「日本の古代」で例示したように、研究者は、自らが正しいと思いこめば平気で文字を入れ替えるのです。范曄がすでにそう言えます。
 帝という称号があるにもかかわらず、どうして魏臺という言葉が生まれ重複化されたのか。そういう疑問がでてきますが、政治の実権を握りながら、名目上はあくまで漢、献帝の臣下であった曹操がいたことに気がつきます。曹操は魏王に任ぜられましたが、天子の旗や冠の飾りを許され、諸王の上に立っていました。帝とは呼べないこの人物を魏の内部で魏臺と表現したのがはじまりではないでしょうか。もちろん正式な称号は魏王ですから、私的な称号として。

松本清張氏

「清張通史1、邪馬台国」(講談社文庫)という本を見つけました。「ああ、この人も北九州説だった。」と思い出したので、この本を分析してみます。
第一章は「神仙伝的倭人伝」です。
●『倭人条の資料となっているのは、当時、魏の出先機関のあった朝鮮の帯方郡の使者が、何回となく倭人に行って、そこの伊都国に滞在したときの報告がおもであったと思われる。』と書いていますが、倭人伝に出てくる帯方郡使の派遣は梯儁、張政の二人を代表者とする二回だけです。「何回となく」というのは個人的な想像にすぎません。倭人伝はこの二度の遣使の報告を元に書かれました。
 天智天皇時代、白村江での敗戦の後、重要な外交交渉のため唐の使者が百済から来日しますが、八年間で四度です。卑弥呼の時代は十年間で二度なので、時代を考えればこんなものでしょう。中国側にしてもエネルギーのいることで、足しげく往来できるような土地ではなかった。外交と民間交渉の違いが認識されていません。私も以前は自由に往来していたように思っていましたから、えらそうなことは言えないのですが。この本の第一刷発行は1986年。ちょっと古いかな。
●魚豢が「魏略」を書き、その「魏略」を資料として陳寿の「三国志」が書かれたとしていますが、これも根拠がない。前段で、帯方郡使の報告が残っていたと考えているのに、なぜ、最も確かな資料を使ったと考えないのだろうか。二人はほぼ同時代の人で、魏略がわずかに先立つとしても、魏略も資料にもとづいて書かれているわけですから、その元データ、魏略と同じ資料が利用可能です。そちらの可能性の方がはるかに強いのに。二人が平行して書き進めていたなら、ライバル関係になりますから、意見交換なんてないでしょう。
 たとえば魏志の

「好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之」
(魚やアワビを取るのを好み、水の深浅にかかわらず、皆、沈没してこれを取る。)
「今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽」
(今、倭の水人は沈没して魚蛤を捕るのを好み、文身はまたそれで大魚、水禽を追い払うためであった。)

の部分を、
魏略逸文は

「人善捕魚、能浮没水取之」
  (人は魚を捕るのが上手で、うまく水に浮き沈みして、これを取る。)
「今倭人亦文身以厭水害也」
(今、倭人はまた文身しそれで水害をはらう。)

と記しており、魏略の方が要約であることを示しています。魏志を元に魏略の文は書けても、魏略を元に魏志の文は書けません。ないものを編纂者が勝手に付け加えるのはデータの改竄で、それは歴史を誤らせるからです。
 2の文例では、魏志の「沈没して魚蛤を捕るのを好み」の部分が、魏略では省略されています。おそらく、重複とみて削除したのでしょう。同じく2の文例から、魏志では、「好」は「好む」の意味に使われているとわかりますが(*魚やアワビ、蛤を好み水に潜る頻度が多いから、文身で身を守る必要がでてくる。)、魏略は文例1で「善」と変え、「上手だ」という意味に誤解しています。これは列子にある、「呉之善没者、能取之」(呉の善く没する者は能くこれを取らん)という文に影響されたかと思われます。「其の旧語を聞くに、自ら太伯の後という。」とも記しており、魚豢は倭人を呉の後裔と考えていたのです。
 実際は「夏后少康の子」という越の後裔で、陳寿は、「その道里を計るに、まさに会稽、東冶(=越)の東に在り。」と記し、越の子孫であることを把握して、「太伯の後」に言及しません。両者の書いている、「夏后少康の子…」という文が、帯方郡使の報告の中にあったわけで、魚豢は「太伯の後」を別の資料から得て、付け加え、解釈が変わったのです。「太伯の後」は後漢、光武帝に朝貢した奴国の大夫が伝えたもの、後漢代の資料と思われます。「夏后少康の子…」は漢書地理志粤地の文を元にしていますから、帯方郡使にもかなりの教養があったことになります。事前に任地のデータを調べることはあり得るし、帰国後、報告書を書く際に参照することもあり得るでしょう。
 魏略は、他にも、高句麗の始祖伝承を夫餘に組み入れたりして、不正確な部分があります。「旧志はまた言う」と書いており、先行後漢書から引き出したようです。論衡に同じ文があり、元データは論衡(後漢初期の書)かもしれません。この魏略の、夫餘と高離(コウリ)の国名を入れ替えるという間違いは論衡の著者、王充の勘違いから始まった可能性があります。高句麗も光武帝に朝貢しており、この時、高句麗の始祖伝承が中国に伝わったものと思われます、それを王充が勘違いしたのでしょう。 魏志に注を入れた裴松之は、魏略から大量に引用しているにもかかわらず、魏略はあまり信頼のおけないことを記しています。魏略を元にしているとする清張氏は、魏志はそれに何のデータを加えたと考えるのでしょうか。そのあたり謎です。歴史は陳寿が勝手に作れるものではありません。歴史小説を書いているから、小説と歴史との混同があるのかな?ひょっとしたら、魏志の注、「魏略曰く…」という文は陳寿が入れたと思っているのかもしれない。宋の裴松之が入れたものなんですが。

●『紹興版の魏志倭人伝がクセモノ。』 理由がわからない。原本が存在しないのは、古代書すべてに言えることです。書き継がれている間に、元の形が変化することは大いにありうる。それは間違いありません。しかし、すべての書籍が同じなので、紹興版だけを特別視することはないわけです。
 それに、意図的な書き換えというものが、まったく想定されていません。時代がくだるほど研究者の関与が増え、書き換えの危険性も増します。ヤマトという国名があり、ずっと日本の中心だったのですから、邪馬台が正しいと考えるのが普通でしょう。遣唐使が大量に派遣された唐代、尋ねられた日本人は皆、邪馬壱ではなく邪馬台だと主張したに違いありません。唐以降の学者は自然に邪馬台になるのではないか。でも、王朝が交代していたら、それ以前の国名はどうだったか?
 『紹興刊本の「壹」が絶対だとはいえないのである。』 古田武彦氏の「邪馬壹国説」を意識しているなら、文字がどうこうではなく、「魏臺訪議」に関する主張をくつがえさなければ否定になりません。要点がわかっていない。

●その紹興本で、難升米が派遣されたのは景初二年とされているのを、日本書紀の引用には明帝景初三年とあり、こちらが正しい。紹興本が狂っているのだと、証拠として挙げられるのですが、明帝は景初三年正月一日に死亡しており、その日に斉王芳が即位しています。最初の一日の一部だけで明帝の年と言えるだろうか?  それに、景初三年(239)の六月に難升米が帯方郡に着き、十二月に制紹を受け、翌、正始元年(240)正月に朝見して、その年の夏に、制紹に記された鏡などの下賜品とともに帰国したことになります。移動の時間を考えると、鏡などを作っている時間がない。わずか二ヶ月ほどです。したがって、景初三年を主張する人は、そこいらにある鏡や布地の中古品をかき集めて贈り物にしたと解釈しなければならない。森浩一氏が雑誌でそんな発言をしていました。しかし、それで魏の偉大さを伝えられると言うのか?蛮夷の国に対する中華の体面は保たれるのか?「難升米は道中苦労しているので、引見してねぎらう」と制紹で宣言した帝も八歳の斉王芳になります。
 誤解の元は、難升米が魏へ派遣されたとすることです。当時、遼東から朝鮮半島中部は公孫氏が支配し、半独立状態でした。魏志韓伝は、倭や韓が公孫氏の作った帯方郡に従属していたと記しています。難升米は以前から交流していた公孫氏の元へ派遣されたと解釈するのが妥当です。倭で難升米の派遣が決まった時、魏と公孫氏が戦っていることさえ知らなかったはず。景初二年でなんの問題もなく、かえって景初三年にデータ間の様々な不整合が現れます。そのあたりのことは、「弥生の興亡、魏志倭人伝から見える日本」で詳しく解説していますから参照していただければと思います。

●『倭人伝にはあいまいな記述が多くて、具体的な事実を知るのに困ることがある。』とか書いていますが、それは読み手の頭があいまいなだけのこと。帯方郡使の報告のすべてが採用されたはずはなく、その抜粋ですから、『つながりがなめらかでない』というのは当然です。もっと様々なことが記録されていたでしょう。ただ、書物にするには全体の分量とか東夷伝の他の国の記述とのバランスに配慮しなければならない。知っているすべてを書き込めないのは作家として当然ご存じのはずなのですが。何を選択するか、重視するかは陳寿の仕事で、陳寿は「編纂」したのです。
『「以て卑弥呼死す」とあるが、その主語に当たる章句がない。これなどは代表的な脱落である。』 意味は通じます。その前の文章に、狗奴国と戦い形勢不利であることが記されています。それを受けて、「以て」と書かれた。書かなくても解りきっているではないかというわけです。三国志に限らず、中国の文献は、すべてにわたって、そういう書き方で、手取り足取りの日本人向け親切さはありません。ここは「狗奴国との戦いの影響で」という意味になります。元データから抜粋した別の文を、整理して続けたためこのような形になったとわかります。ここまで書いて原文を確認したら「卑弥呼以死(卑弥呼以て死す)」になっている。卑弥呼が主語ではないか! 清張氏は原文を確認せず、うろおぼえで書いている!

●野蛮国への悪字。倭人伝では卑、奴、邪、狗、馬など。東夷伝の各国も卑しんだ漢字が多い。『私は魚豢、陳寿のしわざとみたほうがよいと思っている。』、『郡使の報告ではそういうヘンな文字ではなかったのであろう。』と言われても、なぜ郡使は悪字を使わなかったと考えるのか?不明です。彼らも陳寿などと同じ儒教の徒で、鬼道という邪教に支配された邪馬壹国には強い違和感を抱いていました。「鬼道に事え、よく衆を惑わす。」という文にそれが現れています。惑わす為政者にも、惑わされる衆にも軽蔑を感じていたでしょう。後漢、霊帝の末に黄巾の乱がありましたが、郡使にとって、卑弥呼はその首領、張角と同列になるはずです。陳寿や魚豢が文字を変えたとするのは何の根拠もなく、帯方郡使の報告通りと考えて問題ありません。
 韓伝の国名にも同じような文字が使われています。後漢に朝貢した奴国以外の倭国名は、帯方郡使が倭を訪れるまで知られていなかったわけです。帯方郡は韓と国境を接しているうえ、戦ったりしていますから、その情報は大量に持っている。韓に関するさまざまな文書が発行されたはずで、地域を特定するには国名を書かねばならない。国名に悪字を使ったのは韓の方が早いでしょう。帯方郡使はその韓の各国に使われる見慣れた文字を、倭国名の同音に流用しただけではないか。
 陳寿、魚豢が国名の文字をかってに悪字に変えたと考えたい。それは松本清張氏の願望にすぎないのです。「なんで、こんなことを考えにゃならん。」と思いつつ書いていたのですが、なんたる知能犯! 探偵小説風に書いてみましょう。
   「おい、松本。ネタはもう割れてるで。ぜんぶ吐いて楽んなれや。」
   被疑者はうすら笑いを浮かべながら煙を吐いた。
   「後はどうしてくれんまんねん。」
 清張氏は「魏臺雑訪議」の重要性を認識している。そして、魏臺が明帝を表すことも否定できないと考えている。明帝であるいじょう、帯方郡使が蛮夷の国名に臺を使うことはありえず、魏志倭人伝の記載どおり、邪馬壹国を認めるしかない。で、郡使と国名を切り離しにかかったのです。
 晋代に歴史を書いた陳寿なら、臺を使うのは問題ない。これで邪馬臺と主張できる。魚豢は魏に仕えたが晋には仕えていない。臺を使うかどうか微妙ですが、おそらく使わないだろう。清張氏は晋の史官と書いているから(=間違い?ごまかし?)、魚豢も使えるという扱いです。
 魏志、魏略にはほぼ同じ文がある。ともに帯方郡使の報告に基づくとすれば、国名は帯方郡使の報告書に含まれてしまうから邪馬臺はありえない。魏略逸文は女王と記すだけで邪馬壱も邪馬臺もないので、魏略が帯方郡使の報告を元に書き、魏志は魏略を元に書いたとしておけば、帯方郡使の報告と魏志の間にワンクッションができ、魏志は邪馬臺だと主張できる。そして、紹興本はクセモノです。間違い、脱落があるぞ、信頼できない。邪馬壹と書いてあるが、実際は邪馬臺だったと。
 ここまでの文は魏志倭人伝の邪馬壹国を認めたくないという感情の発露だったのです。古田武彦氏を強く意識しながら無視して、こっそりその邪馬壹国説の核心部分を打ち消すための布石を打っていた。それがちっとも成功していないのは、私が指摘したとおりです。
 正面から対決すると負けなので、搦め手へまわって魏臺訪議との接触を避ける。帯方郡使の報告には邪馬壹なんて文字はなく、どんな文字かわからないがヤマタイという発音で記されていた(郡使は臺を使えない)。それを元に書いた魚豢は女王国と書いているのみ、魚豢にも可能性があるが、たぶん、陳寿が勝手に悪字の邪馬臺に書き改めたんだ。頼りない紹興本はそれを邪馬壹に間違えたんだ。「古田氏とおんなじやりかたやんけー。」思わずお里が出てしまいます。
 すべて、何の裏づけもない自らの思いだけに支えられた推論です。思考の流れに沿って書いてくれればついて行きやすいのですが、逆転させてあるし、古田氏のことをおくびにも出さないから、意図が読み取れない。これが推理作家のテクニックなのか。

●「歳時を以って来り献見すと云う。」漢書地理志燕地の文ですが、天子のところへ行くのは朝見で、献見とはちがう。これは中央にとっては伝聞に過ぎないから「云う」という言葉が付きます。燕地の中に書いてあるのですから、「定期的に燕の都(あるいは楽浪郡)へあいさつに来ていたらしい。」という意味で、長安へ来たというのは清張氏の誤解です。朝というのが朝廷を意味します。(後の文で正しい解釈が書いてありました。しかし、地理志燕地にしかない文を長安への朝貢と解す研究者がいるのか?)

●『「倭人」の条の筆法が「東夷伝」諸国のそれとどうちがうかといえば、後者がひじょうに現実的な筆で書かれているのにたいし、「倭人」の条には、かなり主観的で観念的な叙述がはいっている。ひとくちにいうと、それは倭国が神仙思想による理想郷として描かれているのである。』
 漢書地理志燕地の「孔子と倭人」の関係を書いていますが、これは古田武彦氏のところで明らかにしたことです。孔子が「筏に乗って行こうか。」と言った、道の行われている海の向こうの国とは、殷の箕氏が作った泥棒もいないという伝説の国、朝鮮のことです。日本と関連づけたのは後漢初期の人々、班固や王充で、呉の太伯との関係です。清張氏のいう神仙思想と孔子は何の関係もありません。「人々は長寿だ。」という倭人伝を、帯方郡使の報告の写しだと認めない清張氏の意固地がすべてを狂わせ、神仙思想というとりとめのないイメージの世界へ迷い込んでゆきます。倭人伝も他の東夷伝とかわりなく現実的な筆で書かれているのに。
 歴史はデータに基づいて書かれます。データを要約(内容を変えないで文章量を節約)したり、分析して自分の見解や感想、読者の理解を助ける解説を付け加えたりすることはできますが、データそのものを作ることはできない。選択したデータが間違っていれば歴史も間違うし、要約のミスもある。解説が的はずれのこともあるだろう。しかし、自分の想像、主観的で観念的な叙述、を何のことわりもなしに紛れ込ませれば、それは歴史ではなくなってしまうのです。文章を書くのは同じでも小説家と歴史家には姿勢の違い、越えてはいけない垣根があります。それがわかっていないのでしょうか。
 確かに倭を理想郷のように考えています。後漢の光武帝時代、奴国の朝貢により、彼らは周初期に呉に封じられた太伯の後裔が楽浪海中に移住していることを知りました。使者の倭人は大夫という周代の官名を自称し、倭では春秋で年を数えるなど、「周初期のような天下太平、平穏な暮らし」を維持していることを伝えたようです。後漢書の「使人自称大夫」という記述には、中国人がそのとき受けた大きな衝撃が凝縮されているのです。「(周の)成王の時、天下太平。倭人は鬯草を貢ぐ。」という論衡の記述には、光武帝時代に平和が訪れ、千年の時を越えて倭人が再び現れたというめでたさが含まれている。つまり、倭へのあこがれは、自分たちが失ってしまった「泥棒もいないような礼節の守られた暮らし。周初期の天下太平」に対するノスタルジアであって、神仙思想によるものではありません。論衡は次のように書いています。「太平の時、人民は百歳ほどの長寿であった。和やかな気分の生むところである。」 太古の帝の年は百歳以上や九十数歳との計算結果を続けて、それは事実だと示します。
 そういうことから、陳寿は、帯方郡使の「その人寿考、或いは百年、或いは八、九十年」、「その俗は国の大人はみな四、五婦。下戸は或いは二、三婦。夫人は淫せず妬忌せず。盗竊せず。諍訟少なし。」という帯方郡使の報告を重要だと考え、倭人伝に組み込んだのです。近年、争うようにはなったが、中国の春秋戦国に比べればたかがしれている。まだまだ、その遺風は残っているのだというのでしょう。陳寿のデータ選択は合理的かつ論理的です。清張氏の言うような主観的、観念的記述は一切ありません。

第二章は「倭」と「倭人」
●三世紀の朝鮮とか、蓋国とか書いていますが、地理関係が全くでたらめです。漢文を正確に把握できていないから、何を書いても的はずれ。史書には書いていないことまで書いてある。勘違いなのか、意図的なねつ造なのか?困った。こまごまとかいてあることを全部否定しなければならないのに、とりとめがなくてまとめにくい。
 まず、弁辰を任那の位置に置いている地図が間違い。魏志韓伝には、「辰韓は秦の労役を逃れて馬韓にきた部族で、馬韓が東の土地を割き与えた。」、「弁辰は辰韓と雑居している。」と記されています。雑は「入り混じる。」という意味で、馬韓の東、後の新羅の位置で、辰韓と弁辰は国境など定められないくらいバラバラに混じって住み分けていたのです。合わせて二十四(二十六)国が記されていますが、辰韓と弁辰を入れ混ぜて書いてあります。そして、弁辰涜盧国の南に倭があり、倭人が帯方東南大海の中にあるのです。
 だから位置関係は「西に馬韓」、「東に辰韓・弁辰(弁韓)」、「辰韓・弁辰の南に倭」、「朝鮮半島南の海中に倭人」となります。これは後の百済、新羅、加羅(任那)、日本の位置関係にそのまま受け継がれます。新羅は、ほぼ対等の力をもつ辰韓と弁辰の融合国なので、政治環境が非常に複雑になり、王家が何度も入れ替わっています。倭は現在の慶尚南道の大半を領有したと思われます。狗邪韓国(弁辰狗邪国)が海岸沿いにあることから、全羅南道の一部は、馬韓ではなく、弁辰に含まれていたことになります。以上のことは史書をたんねんに読めばわかることなのです。
 山海経の「葢国は巨燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す」も山海経だけで考えていればわからない。倭は中国内部になってしまうと書いていますが、前漢成立時の燕国は朝鮮半島北部まで領有していました。その頃の記録なのです。葢(カイ)は濊(カイ)と同一です。漢書では穢と記していますから、カイともワイとも聞こえるような音、クヮイという国名だったのでしょう。
 濊(蓋、高句麗東に蓋馬大山あり。)は、元々は、燕の南の朝鮮半島中央部を領有していました。ところが武帝が東方進出して玄菟、楽浪などの四郡を建てたため分裂した。北方に逃れた者が夫餘を建てたのです。夫餘王は「濊王の印」を授けられていた。「古の亡人」(昔の逃亡者)と言い伝えている。国(中国、おそらく玄菟郡)には濊城という名の古城があるから、おそらく元は濊貊の地で、夫餘王はその中にいたのだろう。自ら亡人というのは理由があるのだという記述が夫餘伝にあります。
 中国人が単に「国」というときは、中国を意味することがある。倭人伝の「於国中有如刺史」も、「国中に於ける刺史の如く有り。」と読み下します。国は中国(魏)です。こういうことは専門学者でさえ気づいていないので、清張氏を責めるのは酷かもしれません。陳寿が「濊(カイ、ワイ)」と記したのは、山海経の「蓋(カイ)」、漢書の「穢(ワイ)」との整合性を取るためか、「濊王之印」という文字の確実なデータを得たためでしょう。
 清張氏は夫餘が北方から南下してきたと書いていますが、間違いです。魏略が高句麗始祖伝承を夫餘のものと誤解した。裴松之注としてそれが夫餘伝に付け加えられていますが、何のチェックもなく鵜呑みにしたようです。実際は、高離(高句麗)が夫餘から逃亡して南下したのです。これは三国史記高句麗本紀を読まなければわからない。

●「倭」と「倭人」の区別は清張氏の対談本から知り、自分で倭人伝を読んで、正しいと確信するに至ったのですが、言いだしたご本人が正確に把握できていないことを知りました。「倭人は」という書き出しのみの区別、朝鮮半島南部の倭との混同を避けるために陳寿が編み出した区別です。とうぜんながら、陳寿は「楽浪海中有倭人」という漢書地理志の文を意識しています。
 「郡より倭に至るには海岸に循って水行し、韓国を歴て乍南乍東。その北岸、狗邪韓国に到る。」この文のどこから「倭はどこにあるのか。」という疑問が出るのかと思いますが、清張氏には難しい。目的地は「郡使、往来し常に駐する所」という伊都国で、その土地が倭です。狗邪韓国が北岸だから海を渡った南岸にある。大河の渡りを想像すれば簡単です。途中の小さな中州二つ、つまり、対馬や壱岐に立ち寄っても、そこは目的の南岸ではない。だからここでいう倭は九州です。
 帯方郡使の文そのままなので、「倭」と「倭人」の区別には何の関係もありません。帯方郡使の報告を元に魏略が書かれ、魏略を元に魏志が書かれた。魏志は陳寿の文だという最初の設定が、すべてを苦しいものにします。倭と倭人が魏志のすべてにわたって区別されていることになりますから。

●『「倭人伝」でも紹興刊本は「邪馬壹国」になっているが、後漢書では「邪馬臺国」であり、その下に南朝宋の范曄が、《按ずるに今、邪馬堆となづくるは昔の訛なり》と注釈をつけている。』
 別に紹興本だけが特別ではありません。百衲本(紹煕本)でも「邪馬壹国」なのです。とにかく、邪馬臺国と記す三国志は存在しません。
 後漢書に注を入れたのは、唐の章懐太子賢で、范曄というのは間違いです。宋の范曄が編纂し、唐代に注が入れられた。その注の原文は、「案今名邪摩惟音之訛也」です。読み下せば「今名を案ずるに、邪摩惟音の訛なり。」これは百衲本で、後漢書集解では「邪馬推音の訛」となっています。
 現代語訳すれば、「(後漢書の著された宋代から唐まで続く邪馬臺という)今の名を勘案すると、ヤマユイ(ヤマスイ)音のなまりである。」
 訛(なまり)は言葉がすべって変化することをいいます。邪馬堆なんてどこにも書いていないし、昔の訛なんてことも書いていない。魏志が邪馬臺(邪馬堆、ヤマタイ)と書いてあって、後漢書も邪馬臺(ヤマタイ)なら何も変化はない。注自体が必要ないのです。後漢書には邪馬臺(ヤマタイ)と書いてあり、唐代の今の名もヤマタイだ。でもそれはヤマユイ音の変化だというのです。では、ヤマユイ音を記している後漢書より古いよく知られた書があったことになる。
 清張氏の読み方はまったくでたらめです。おまけに「惟」を「堆」に、「音」を「昔」に改竄してしまった。原文を知らない人は、こんなことでも簡単にだまされてしまいます。
 「案ずるに今」、邪馬臺の注に、書いている今、案じることがどういう意味を持つのだろうか?それを書く必要があるのだろうか?それに、そんなときは、今が前に来るはずです。「なづけるのは昔の訛だ」なんて日本語なのか。理解できるように現代文にしてもらいたいものです。

●『弁韓は弁辰と雑居す。』 魏志、後漢書にこんな文はありません。「弁辰與辰韓雑居」(弁辰は辰韓と雑居する)が原文です。

第三章は「虚と実」
●『それにしても『魏志』「倭人伝」には、よく解らないところが多い。それをわたしなりに推測してみよう。 それをよりわけてみると、だいたい 1、いまとなっては三世紀の倭国のことが不明で、十分な解釈ができない。 2、「倭人伝」の資料となった帯方郡の報告が正しくない。 3、原典を長いあいだに次々と書き写しているうちに誤字や行の脱落がおこった。 4、編者の勝手な創作が入っている。』
 以上のようなことを書かれていますが、4はない。これをやると歴史家失格です。 4の例として、「郡より女王国に至る。万二千余里」を挙げ、漢書西域伝から多数の例をあげて、遠方であることを表す観念的な数字だとしています。観念的数字というのは正しいのですが……淮南子に東、西、南、北、中央すべてが万二千里と表されていることを指摘しておきます。当時の中国人の世界観に基づく数字です。それに陳寿ではなく帯方郡使の文だと思われます。陳寿は倭のことを何も知りませんから、それをいえる立場にない。例として多数あげられている漢書の西域諸国の距離にしても班固が勝手に決めたわけではなく、誰かが書いた西域のデータ、当然、西域への旅を経験した人間の残したもの、に基づいているだけです。それを正しいと信じて。
 魏志倭人伝は帯方郡使の報告を元に書かれました。中国人は誰も知らない南方の国の見聞録です。国名をたくさん書いており、メモ程度の記録は残していたのかも知れません。少なくとも私の頭では覚えきれない。しかし、道中日記ではない。帰国してから整理してあるので、距離はすべてすっきりした数字になっています。清張氏は陰陽五行説、陽数などと書いていますが、1、5、10という十進法の基本単位にすぎません。末羅国までの航海全体の距離を一万里と定め、対馬、壱岐と渡った三つの海峡が千里ずつで、三千里。引き算すれば七千里がでます。旅をしながらいちいち足していった距離ではないのです。帰国してから報告書を書くために長旅を思い起こした。海を渡った南岸、末羅国までの航海はどれくらいの距離だったか。一万里くらいで良いか。三つの海峡は千里ずつ。残りは七千里。逆算という発想ができないため混乱するのです。そして、目的地の伊都国へは陸行五百里です。
 方向にしても、現在の正確な地図で考えてはわからない。当時の人々の心の中の地図があるのです。陳寿は、「会稽、東冶の東にある。」と書いており、倭は朝鮮半島の南方から南西諸島のあたりまで島々が連なっていると考えられていました。混一彊理図が実際にその形を見せてくれます。古田氏のところで書きましたが、熱帯、亜熱帯でしか採取できない鬯草(ウコン)を献じるなど、後漢代から、倭は南方万里のはてにある国だと信じられていたのです。帯方郡使はそのイメージに引きずられて南北を間違え、自分たちは常に南方の国に向かっていると考えていました。
 倭人伝、つまり、当時の知識にしたがい、ずっと南方へ旅していることを想定しなければ、「女王国より以北はその戸数、道里を略載できる」とか「女王国より以北は特に一大率を置く」という記述の解釈に四苦八苦することになります。
 奴国をナ国と読んでいますが、読めない。地名は、まず、漢音で記されているか、呉音で記されているか、どちらかに統一して読むべきでしょう。「奴」は、漢音でド、呉音でヌです。ひらがな、カタカナのぬ、ヌはこの文字から作られたくらいで、記、紀でもドと読まれています。ナという読みはどこにもありません。後の地名にあるからと安易な歴史学者が勝手に読んでいる。清張氏はそれに気がつかないで、当然のこととして受け入れています。
 諸国の放射式読み方説は、何の説明もなしに、読者が理解できるか、自分がそんな書き方をするかと考えれば、おのずから結論がでるでしょう。法律でいうなら脱法行為、ルールの隙間をすりぬけるようなごまかしです。

●各国間の距離などが詳しく記されているのは倭人伝だけなので、そこからいろいろ発展させて考えていますが、見当外ればかりです。距離が詳しいのは、実際に旅をした「帯方郡使の報告」そのものの写しだということで簡単に説明できます。あてにならないのは、その報告自体が間違っているからです。時間が経ち、この報告が整理され、原典が失われてしまえば、各国間の距離の表示などは簡単に消えてしまったでしょう。後漢書には万二千里と七千余里しか見られません。陳寿がほぼ同時代の歴史を書いたという幸運がそのことを可能にしました。魏志があるから、他の書物はそれを引用できるのです。

●不弥国から投馬国、邪馬壹国までの距離は日数で示されています。『日数になっている部分は郡使が実際に行っていないところである。陳寿(または魚豢)は、帯方郡からの報告書にもとづき「里」と「日」でその区別をあらわしたのだと、わたしは考えている。』と書いていますが、何も知らない陳寿がデータ自体をいじるわけにはいかない。帯方郡からの報告には何が示されていたというのでしょうか?  距離と日数になっているのは、二度の遣使データのまとめで、記述者が異なっている可能性を示唆します。不弥国以降を旅した使者の方が正直だった。長い距離に見当がつかず、旅の日数で示しました。陳寿がデータにまったく手を加えていないからそうなるのです。逆に言えば、手を加えていないことがわかる。松本清張氏のいう「陳寿の脚色」など、「ない」と断言できます。

●『「倭人伝」の里数、日数は「漢書」の五服の記事から、陳寿がでっちあげた虚妄の数字だと考える。』
 すべてこんな調子で陳寿をおとしめます。古田武彦氏に嫉妬心を持っていて、古田氏が持ち上げた陳寿まで憎いのか?この言葉を敷衍してゆけば、倭人伝自体が虚妄だともいえるでしょう。最終的には歴史がなくなってしまうのです。帯方郡使の報告をもとに魏略が書かれ、魏略を元に魏志が書かれたのなら、数字は帯方郡使の報告にあったはず。魏略も距離の数字を書いていますよ。
 帯方郡を出て、狗邪韓国から奴国までの位置にはほとんど異論はありませんが、七千、千、千、千、五百、百という距離は、それなりに実際の距離に対応しています。倭の知識をもたない陳寿がでっちあげることはできない。なんらかの資料にもとづいていることが明らかで、日数の記述もそう考えなければならないでしょう。さあどうします。魏略には見えない卑弥呼は陳寿の虚妄ではないのですか。証拠・裏付けの提示も、論理もなく、清張氏の胸先三寸ですべてが決せられてゆきます。
 私の判定では、陳寿はすぐれた歴史家です。倭人伝に取り組んだ初期、太伯の後裔という伝承があるのに、魏志倭人伝はなぜ夏后少康の子という越世家を引用するのかという疑問を持った。呉の後裔なら呉太伯世家を引用するのが筋なのに。調べを進めて、邪馬壹国は越の後裔という結論が出た。これですべてが腑に落ちたのです。「夏后少康の子」というのは帯方郡使の文だとわかりましたが、「その道のりを計算するとまさに会稽東冶の東にある」という文は陳寿の解説です。これは越の東と言っているのと同じこと。陳寿は邪馬壹国が越人の国であることを認識しているとわかったのです。魏略は呉の後裔と思っていますから、魚豢より陳寿の方が正確です。おそらく、三国志の様々な場面でそういう差が出ているのでしょう。それで陳寿の評価が高く、正史扱いになって大事にされ現在まで伝わった。対して魏略は唐代に失われてしまったのです。

第四章は「倭の女王」
●『以上は原文にそって忠実に書いたのだが、』となっていますが、卑弥呼の「年已長大」という原文を『彼女はとしごろになり、また年齢がすすんだが』と翻訳している。どうしてこんな文になるのか?「年はすでに長大である」と書いてあるのに。長大はとんでもない婆さんです。普通の老を表す言葉ではない。
 『卑弥呼にはそういう力は少しもない。首長どもが、じぶんたちの揉めごとを中止するために、便宜的にかつぎだした実力なき主宰者であった。いうなれば、やとわれ会長であり、やとわれマダムであった。』
 倭人伝には「鬼道に事えよく衆を惑わす。」、「男弟ありて国を治めるのを補佐している。」、「王となってから面会したものは少ない」と書いてあります。やとわれマダムのイメージはありません。現れるのは、宮室内の居所に奥深く引っ込み、連絡役兼食事係の一人の男子を介して実務を受けもつ弟に指示をだす神秘的な教祖様の姿です。宗教団体が教祖をどう扱っているか考えればいい。清張氏の想像は的はずれです。
 卑弥呼がうら若ければ、その弟はもっと若い。はたして国政を補佐できるのか?補佐役の補佐が必要になるだろうに。それなりに場数を踏んだ人間でなければならないし、卑弥呼の跡を継いだ宗女の壱与は、一族で一番身分の高い娘という意味だから、この男弟の娘と解するのが妥当です。十三歳の娘がいて、政治経験もそれなりに積んでいることになり、年齢は三十代半ばから六十くらいまで。卑弥呼はそれより年上なのです。長大を成人の意味とは考えがたい。

 清張氏の語る虚妄に拍車がかかってきました。文献の内容を正確に把握していないから、それを土台に何を組みたてても幻が生まれるばかりです。
●しつこいほど「帯方郡使の記録を資料に魚豢が魏略を書いた。陳寿の東夷伝は魏略の大部分を下敷きにしている。」と書くのは、その前提がなければ古田武彦氏の邪馬壹国説が成立してしまうから。何としても、倭人伝の国名は帯方郡使の報告ではないことにしたい。
●『卑弥呼には婢千人が仕えているとか、「宮室」に「楼観」「城柵」を加え、これを兵力で守衛しているというのは、中国式の宮殿を頭に浮かべた陳寿のフィクションである。』といいますが、これだけフィクションというのに、卑弥呼はフィクションではないようで、名前はヒムカと読むのだとしています。魏略は女王とするのみ。
 風俗の記述などは、帯方郡使が目撃したことを書いたのだ、迫真性が違うとしながら、政治に関しては陳寿のフィクションです。どう区別しているのかといえば、私は思う、思わない、自分の作り上げたイメージに都合が良い、悪いという感情にすぎないのです。その根拠は何も示されていません。
●清張氏の解釈では景初三年十二月に制紹をだしたのは明帝ですが、明帝は景初三年正月一日に死亡しています。幽霊だ。明帝紀を読めばそれくらいわかるのですが、検証していない。倭人伝の記述通り、制紹は景初二年十二月に出されたのです。明帝は十二月八日に病に倒れましたから、制紹は十二月一日から、八日までの間に出されたと、細かいことまでわかります。
●『倭奴国王が楽浪郡に朝賀したことを郡からの報告によって知り、倭奴国王へ印綬を与えるよう太守にとりはからわせた。』
 原文は「倭奴国、奉貢朝賀、使人自称大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬」です。朝賀の朝は、朝廷の朝です。奴国王は洛陽で光武帝に面会(朝見)している。楽浪郡に来ただけでは、朝賀、朝見という文字は使えない。だから漢書地理志燕地では「献見」になっています。言葉の違いがまったく理解できないようです。安帝永初元年の面土国王帥升は「願請見」(願いて、見を請う)。どこかの役所へ面会を願いでた。朝見とは書いてありませんから、見(面会)は許されなかったのです。厳密に書いてあるものをいいかげんに解釈しておきながら、倭人伝はあいまいだといいます。これは後漢書の文ですが、倭人伝に関しても同じです。文献より、自分の頭を疑ってくれと言いたくなります。

第五章は「北部九州の中の漢」
●『「倭人伝」には、其の国(倭人)には前にもまた男王がいて、その統治が七、八十年つづいた、/げんざいの伊都国には代々つづいている王がいる、とかいてある。』
 「其の国は本また男子を以って王と為す。住七八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年…」が原文の読み下しです。「前にも」ではなく、原文は「本」ですから、「元は」という意味です。統治が続いたのではなく、「住七、八十年」ですから、住むようになって七、八十年という意味になります。住に統治の意味はありません。其の国とは女王国です。女王国になったいきさつを書いてある。「女王国は、元は他の国と同じように男王がいたが、倭国に住むようになって七、八十年で倭国が乱れ、何年も戦った。そこで一女子を共立して王と為した。」わけです。共立の中心は邪馬壹国(女王国)で、その頃から最も勢力が強かったことになります。
 この記述は伊都国とはなんの関係もありません。清張氏が出してきた/から後の伊都国の記述は最初の国々の移動のところに書いてあることで、岩波文庫なら三ページも離れた無関係な文を一続きのように見せている。これもごまかしです。伊都国の王は、「世有王皆統属女王」が原文で、統は「ひとすじに」という意味です。「代々、王がいる。皆ずっと女王に属している。」と書いてある。それを抜かしてもらっては困ります。

●『倭国の乱は後漢の末(桓帝や霊帝の時代)だから、卑弥呼の共立を公孫淵が帯方郡を新しくつくった204年直後と見当をつけたい』
 後漢書には「桓霊の間、倭国大乱」と書いてある。桓帝の時代なら桓帝と書くだけのことで、二人の間にまたがっているから、桓霊の間です。交代したのは168年なので、そこを中心に前後の幅があることになります。データがないので、その幅まではわかりません。しかし、204年は遠すぎるでしょう。ま、見当外れですね。それを前提に推論しても、あとは崩れるばかりです。それに、帯方郡使が卑弥呼を知った景初八年(247)の四十三年も前のことになりますから、即位時の年齢を足したら、卑弥呼はやっぱり婆さんになる。自分が先に書いたことに矛盾していると気づかないようです。

●志賀島出土の金印の「漢委奴国王」も「漢のイト国王」と読みたいらしいのですが、志賀島は古代から福岡市域の勢力圏になっています。最も近い陸が「海の中道」ですから、そちらに結びつくのが自然でしょう。伊都国より奴国領の可能性の方がはるかに強い。志摩半島は倭名抄では筑前国志摩郡です。古代も志麻国で伊都国とは行政地域がことなると思われます。能古島も筑前国早良郡に入るだろうし、伊都国(筑前国怡土郡)と飛び離れた志賀島が結びつく要素はありません。
伊都国がなぜ志賀島へ金印を持って行かなくてはならないのか理由を見つけられないでしょう。「祭祀・信仰のため」、何で無関係な島で祭祀を行うのか?「墓の副葬品」、何で伊都国の陵墓が志賀島に?等々。伊都国と志賀島を結び付けたいなら、どう関係するかという根拠を示していただきたいものです。

●「匈奴単于璽」や「濊王之印」、「滇王之印」などには「漢」の字がない。『これらの諸国は直接的な臣属ではなく、いちおう後漢の外臣の体裁になっていたからであろう。』
 「匈奴単于璽」は新の王莽が取り上げた。つまり新以前に授けられていたことになります。武帝が朝鮮にまで進出したため、濊が分裂して北方に逃れたものが夫餘となった。その夫餘が、濊ではなくなったのに濊王之印を持っているわけですから、与えられたのは武帝以前です。「滇王之印」は武帝が授けました。
 例として挙げられた三つの印はすべて前漢の印で、後漢というのは間違いです。王莽が匈奴単于から印綬を取り上げ、新のものに替えて格下げした。そこで匈奴は腹を立てて反乱を起こしたことが漢書に記されています。「新匈奴単于章」という文であったといいます。つまり、王莽は儒教の大義名分を適用して、周辺諸国の従属的地位がはっきりするような印面に変えたのです。それが後漢にも踏襲され、漢という文字が入るようになったのでしょう。したがって、「漢委奴国王」は後漢の印と、簡単に区別できます。

第六章は「ついたて統治」
●『「一大率」か「一支率」か。』
 一大国が一支国の誤りなら、これも成り立つのだそうです。そもそも、学者がかってに「イキ」と読んでいるだけで、「支」は「章移の切」とされていますから、「シ」と読むのが普通なのです。山海経では月氏国が月支国になっています。「一大」は漢音で読むと「イッタイ」、「一支」は「イッシ」、これは壱岐島の「石田郡」を表します。島の名前ではなく、たどりついた港のあるイシタ国という地域国家名なのに、思いつかない。一大国は文字の誤りではないのです。解答を見つけられない人間が改竄しているのみ。だから一支率ともなりようがありません。「魏志倭人伝の風景」一大国参照)

●『漢語の「大率」とは、「およそ」とか「だいたい」という形容詞または副詞である。これを官名ととって、「一人の大率を置く」とかいしてきたのだが、それだと大率一人を置く「置大率一」とならなければなるまい。』
 べつに、「一人の大率を置く=置一大率」でかまわないのでは。「大率」は、市の官名「大倭」に対応しています。率は「率いる」という意味。帥と同義で、指導者をあらわします。その大物というわけです。卑弥呼が「共立一女子」ですから、一人の大率という解釈は自然ですし、「置一大率」はその表現と同一です。
 大倭の「倭」は日本人の名乗りではなく、中国人の日本人に対する呼称ですから、大倭は日本の官名ではない。中国の官名でもない。実際の官名を知らず、市を監督する、少し地位の高い倭人という意味で「大倭」と表現したのです。「大率」もこの延長上にあります。日本の官名ではないし、中国の官名でもない。その地位を表現するために中国人が便宜的に使用したものです。清張氏は根拠もなく、「大倭」は誤字ではないかと逃げている。その場で書くと「大率」に対応していると読者に気づかれるので、何ページか離れた場所で。
 時代が変われば、言葉の意味や使用文字が変わる。体制が変われば、考え方も変わる。人が変われば、表現が変わる。そういうことを考慮しないで、やみくもに文字や語法を比較したところで、なんの成果も得られないでしょう。同じものを見ても表現は人それぞれ、目を付けるところも違う。自分自身の文章でも表現をかえて工夫する。文章を書く仕事をしていながら、それが頭の中にないのはなぜでしょうか。

●『帯方郡からすると、ツシマ、イキの二島は朝鮮海峡の「橋」であり、倭人を抑える要衝にあたる。二島のうちツシマは馬韓寄りだが、イキは倭人側に面している。倭人を制する地点ならイキである。したがって北部九州沿岸地帯を抑える派遣官の官名を「一支率」としたのであろう。』
 説明になっているのか?北九州にあるはずの女王国で倭人を制するのが一番簡単ではないか。伊都国で治すのに一支率。
 なるほど。 女王国を北九州と解せば、女王国以北に、刺史の如しという強大な権限をもつ一大率が置かれているという状況に矛盾する。女王国の近くに周辺諸国に怖がられるという派遣官を置く必要はないのです。だから魏、帯方郡からの派遣官と解したい。魏の官なのに、官名を書かないのはおかしいから、一人の大率という解釈は具合が悪い。国ごとに市を監督するだけの大倭という官があり、これは明らかに日本の官だ。大率を中国の官とは主張しにくい。一大率という官名でも良いが、一支率にすれば地名を取った官名に解釈できるので、より都合が良い。大倭は書き間違と扱う。
 ここでも思考の順序と記述が逆転させられていて、すべてが、女王国を北九州に置くためにはどうすればいいかという命題から出発しているようです。
 考古学資料では、最も発展しているのは博多湾岸なので、中心は王墓から壁などが出土している伊都国と考えたい。金印をもらった奴国も同系だと思いたい。それには、内陸部にある女王国が強力であってもらっては困る。「(卑弥呼は)貧弱な巫女にすぎない。」という記述になり、女王というのは陳寿の表現で、その幻想に引きずられて宮室、楼観、城柵などを創作したとなり、考古学的発見がないのも当然というわけです。やっと、清張氏の思考が見えてきました。女王国を北九州に置きたいがため、つじつまあわせに苦心惨憺してきたわけです。
 しかし、一大率の役目はと言えば、「王が遣使し、京都(洛陽)や帯方郡、諸韓国へ行く時、および郡使が倭国へ来た時、皆、津(川の港)に出むいて、(ごまかしがないよう)調査、確認する。文書や賜遺のものを伝送して女王にとどけるが、間違いは許されない。」と書いてあります。この王は女王、卑弥呼、壱与です。難升米などを派遣しているのですから。諸韓国などへも遣使し、盛んに外交活動をしていて、貧弱な巫女の様子はありません。一大率は魏帝からの下賜品を女王の元へ伝送するが「不得差錯(間違いはできない)」と、女王の厳しい統制下にあります。これを帯方郡の派遣官といえるのか?清張氏は「混乱させることをしなかった。」と記していますが、誤訳で、「不得」は「できない」という意味です。(不得入=入ることができない)
 伝送は「つぎつぎに伝えて送る」という意味です。伊都国から福岡県南部の邪馬臺国に伝送という言葉を使うほどの距離があるのか?邪馬臺国に行った形跡はないといいますが、帯方郡が伊都国に刺史のごとき一大率を置き、郡使が常駐して中国の管理下にあったという想定なのに、すぐ近くの邪馬台国のようす、宮室、楼官、城柵などを知らないと言い切れるのはなぜか?あまりにも不自然ですが、そういう疑問の解答は示されていません。女王国と狗奴国との戦いに軍事顧問、張政を派遣しているくらいなのに。

●『もっと具体的に邪馬臺国の状況が記事に出ていなければならない。』
 一大率に関する記述以外、占い、集会、葬儀やら、卑弥呼の墓作りやら詳しい風俗はほとんどが邪馬壹国での見聞なのに、気づかないようです。二度目の使者、張政は軍事顧問として派遣され、邪馬壹国に長期滞在しています。
●『「女王国以北」は従来から難問の一つとなっている。文脈上、これは対馬国から投馬国までの七ヵ国にあたるとみなければならないが、これが「女王国以北」というように女王国の外だとすれば理屈にあわない。』
 邪馬壹国が女王の都とするところですから、小さくはそこが女王国です。魏志倭人伝に記された倭国全体をも支配しているから、大きくは倭国を女王国と表すこともできます。そういう使い分けがある。福岡といえば県庁所在地の福岡市を意味することもあるし、福岡県全体を意味することもある。同じように、表現の問題でしかない。前後の文脈からそれが判断できるのに、字面だけを追って文章の内容を把握していないからわからない。というより、普通に解釈すると都合が悪いので、自説に合うように外すのでしょう。
 帯方郡使は南へ南へと旅していると考えていました。当時の人々の知識にしたがわず、現在の知識、正確な日本地図をながめながらどうこう言っても、邪馬壹国へはたどり着けないし、国々の位置関係もわかりません。古代の文献に麒麟という文字を見つけ、高さ5、6メートル、首、足が長いという現在のキリン(ジラフ)の解説を付けるのは愚というものです。それと同じことをやっているから、「難しい、わからない。」になるわけです。

第七章は「外交往来」
●『この(銅鏡)「百枚」を正直に、そのとおりにうけとる人があるが。「百」は「百余国」「径百歩」とともに「多い」という形容の決まり文句にすぎない。』
 魏志のその部分は、明帝の制紹で、陳寿が魏の公文書から発掘したと思われます。「特に汝(卑弥呼)に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜い、みな、装封して難升米、牛利に付す。」と記しています。品物や数字はすべて具体的で、大雑把なものではありません。魏が外交文書として、銅鏡百枚のプレゼントを公言している。銅鏡百枚は最初の使者、梯儁により確実に伊都国に届けられています。そこから一大率が引き継ぎ、女王国まで賜遺の品物を伝送したのです。
 漢書地理志の「百余国」は、中国人が直接それを知りうる状況にありませんから、燕か楽浪郡を訪れた倭人が語ったものでしょう。これは大ざっぱに解して良いかもしれません。
 「径百余歩」は、卑弥呼の墓造りを見た帯方郡使が記したものですから、ほぼ正確な数字と思われます。それぞれ背景があるのに、それを分析することなく、ひとからげに結論するのは安易すぎます。

●『九州北部の沿岸勢力から中国への「朝貢」は、朝鮮の出先機関(郡)の主権者が変わるたびに、すばやくおこなわれている。後漢の光武帝に楽浪郡経由で「朝貢」したのも、光武帝が王莽を滅亡させたと聞いたからである。』
 王莽が滅亡したのは23年。倭奴国の遣使は57年ですから34年もたっています。これがすばやい?思いつきを書きとばすので、データとは全く一致しません。中国の政変が日本に伝わり、反応するまでに最速でも一年はかかるでしょう。ともかく情報の伝達、人の移動に時間がかかるのです。晋の泰始元年にも朝貢しており、魏から晋への王朝交代に反応し、即、交代式典に参列したように解する人もいますが、半年ほど前に日本を出発しなければなりませんから、出発時にそれを知ることはできない。魏へ派遣されたのに、晋へ朝貢する形になったわけです。難升米の時もその形で、公孫氏の帯方郡へ派遣されたのに、魏が占拠していたため、臨機応変に魏へ朝貢することを決断し、帯方郡太守に案内者を求めた。偶然の幸運に出くわした難升米に判断力と勇気があったのです。

●『授けるという意味を原文に「仮授」としてあるので、文字どおり「仮に授ける」と解する説を見うけるが「仮授」は「授ける」ことを中国の事大主義から、もう一つ格を落として表現しているだけである。』
 文字どおり「仮に授けている」のです。それは本人に渡しているのではないから。卑弥呼に仮授した親魏倭王の詔書、印綬や難升米に仮授した黄幢は「帯方郡に付し仮授」されています。「仮」、「仮授」、「拝仮」、清張氏はそういう厳密な言葉の使い分けを理解できずに、こういう文になったのでしょう。「仮」、「拝仮」の「仮」は動詞で「(貸し)与える」の意味ですが、「仮授」の仮は「仮に」という副詞です。

●『正始八年(247)、帯方太守王頎は、みずから洛陽に行って、……』
 原文は「八年太守王頎到官(八年、太守王頎、官に到る)」です。正始八年になって王頎が帯方太守という官に至った。つまり就任したという意味で、洛陽に行ったのではない。簡単な文だと思うのですが。それを誤解しているから、王頎の太守就任は七年末から、八年と続ける。倭人伝には八年とはっきり書いてあるのに。それに、帯方郡から洛陽に到るまでの時間が頭に入っていないようです。往復数ヶ月。帯方郡が安定しているとは言いがたいのに、太守がいちいち洛陽までお伺いに行ったのでは郡の仕事が遅滞してしまうでしょう。

第八章は「南北戦争」
●『狗奴はクナで、クマにあてることができる。』
 「狗奴」は漢音ではコウド、呉音ではクヌになります。奴は「ド」にも「ヌ」にも変化しうる「ドゥ」という音に近かったはず。倭人伝は「その南に狗奴国あり。」と記しています。陳寿は女王国以北に七ヶ国、以南に二十一ヶ国があると思い、女王国の境界、最南端は金印を授けられた奴国(「倭国之極南界也」後漢書)で、さらにその南に狗奴国があると考えていますが、実際には南に接した国と戦っていたわけです。このあたりは「弥生の興亡」を読んでもらうしかない。説明しなければならないことが多すぎます。
 張政が邪馬壹国に至り、長期にわたって軍事顧問として活動したことは間違いありません。壱与に「檄を以って告喩」したり、卑弥呼の墓造りを目撃しています。移動中に方位を見失いましたが、ひとところに腰を落ちつければ、おのずからそれが見えてきます。邪馬壹国から見た方向に関しては信用できるのです。狗奴国は大和の南、和歌山北部に存在しました。クナ国ではなく、漢音で読んだコウド国です。中国北方の住民である帯方郡使が書いた文字は、北方の発音、漢音で読まなければなりません。日本の歴史研究はそういう緻密さ、論理的な思考を欠いています。
 かなりくたびれました。あと二章ほどありますが、不毛の作業がつづくので、このへんで打ち切ることにします。北九州の邪馬台国、狗奴国の対立など成立していない前提をもとに書いています。すべては清張氏の頭の中にしか存在しえない虚妄です。卑弥呼が殺されたとしていますが、それなら「殺卑弥呼」と書かれるだけのことで、「卑弥呼以死」という文から死因はうかがえません。女王国が狗奴国に敗れたともしていますが、壱与は生口三十人を献じ、軍事顧問として派遣された帯方郡使、張政等の帰国を送らせている。張政の任務が片付いたのですから、狗奴国が滅びたと考えるのが筋です。

 歴史のレポートを書こうとすれば、史書などの原典を引っ張りだして、引用したデータに間違いがないかを確認する。松本清張氏はそういう作業をしていません。大量に史書データを並べますが、おどろくほど不正確で、内容も理解していない。漢学者は笑うだろう。そのうえ、自らの意に添わすための曲解、改竄、ねつ造、何でもありで、空想が並べられています。
 この著述の前半は、古田武彦氏の邪馬壹国説を否定すること、邪馬臺国を北九州に置くことを主眼としています。先に結論があり、それを導くためにデータを切り貼りしてある。結論が正しければ証明もスムーズにいくでしょうが、いかないので、論理ではなく、感情ですべてが決められています。空想の上に何を積み上げても、ガラガラ崩れるのみです。この人が取り組んだ歴史関係の書物、「昭和史発掘」なども同じではないか。そういう疑いを持たせました。歴史研究書風の推理小説とでも分類しておきましょう。改竄がないぶん古田武彦氏の方がましです。古田氏なら曲芸的解釈をひねり出すところを、この人は文字を改竄して簡単にやっつけてしまった。古代の人々が書き残してくれた貴重な記録に対する畏敬の念が欠けている。倭と倭人の区別の指摘を除いて(それも中途半端ですが)、歴史研究書としての価値はありません。独りよがりの思いこみが多く、データ調べの参考資料としても役立たない。小説家に歴史は書けない。そう感じさせました。

森浩一氏

 ブログ公開したものを整理しました。「ですます調」から「である調」になって違和感があるかもしれませんが、全文書き直しというのも面倒なもので……

「倭人伝を読みなおす(森浩一氏)」を読む その1
●カバーに「邪馬台国がどこにあったとか卑弥呼とはどんな女王だったかだけに関心をもつ人は、本書を読まないほうがよかろう。というより読んでほしくないのである。」と書いてある。読者を選びたいらしいが、公刊した以上、あらゆる方面から批評のまな板にのせられることを覚悟していただかなくてはならない。小説ではなく歴史という過去の事実を問題にしている。正しいかどうかチェックが入って当然である。卑弥呼の国をどこに置くかで後の歴史が大きく変わってくるから、それに関心をもつ人が多いのは当然ではないか。
●魏志倭人伝の原文を全文載せてある。この人が責任編集した中央公論社「日本の古代1、倭人の登場」では、魏志にありもしない「一支」「邪馬臺」を原文の中に置き換えていた。私は古田武彦氏の項で『修正したということわりはありますが、やり方が逆で、原文通り「一大」「邪馬壹」と書き、他の資料を根拠に「一支」「邪馬臺」が正しいと考える、というふうな解説を付けなければいけない。「日本の古代」が三国志原典に置き換わる可能性はありませんから実害はないのですが、印刷術のない頃、古代の学者がこれをやっていると危ない。勝手な解釈による変更が後世に伝わり、原典が消え去る可能性があるのです。』という批判を書いた。この本の倭人伝原文ではそれが修正されていて、私が指摘したとおりの形、原文に邪馬壹と書き、注で邪馬臺の減筆だと書いている。森氏が私の文章を読むことはないだろうから、誰か進言した者がいるのかもしれない。自分自身で気づいて修正するのは難しいように思える。これ、実は大変なことを含んでいるのである。
 私は、「日本の古代」の魏志倭人伝原文を、自らが正しいと信じた研究者は平気で文字を修正するという証明、身近な実例としてとりあげた。古田武彦氏の邪馬壹国説に対し、隋書、太平御覧などは「魏志の邪馬臺国」と記すというのが有力な反論になっている。しかし、研究者が勝手に文字を修正できるなら話はべつである。「魏志の邪馬臺」と書いているのは唐代以降に編纂された書物。遣隋使が隋を訪れ、隋の使者、裴世清が日本を訪れた後のこと、つまり、日本の都はヤマトだと確認された後なのである。後漢書の邪馬臺が正しい、魏志の邪馬壹は伝世ミスの書き間違えだと判断したなら、当然、邪馬壹を邪馬臺に修正するだろう。間違いとわかった存在しない国名を使う歴史家はいない。以降は邪馬臺一色だ。こういう主張が通ってしまう。
 以上のようなわけで、邪馬臺国説の森氏は、原文の改竄により、邪馬壹国説に強力な反撃材料を与えてしまったのである。自らがおこなっておいて古代の学者は絶対にやらないなどと主張できるはずがない。そういう反撃を受けて、新しい機会に修正したかったのかな?しかし、印刷されてしまった事実は消えない。こちらは現実にこういうことがあると、しつこく取りあげる。
●松本清張氏を評価しているのに驚いた。歴史好きな作家とは見ないで古代史の学者として見ているそうだが、清張氏の書いたものを読んだのだろうか。私が「邪馬台国(清張通史1)」(講談社文庫)を読んで、そのデータのでたらめぶりに仰天し、酷評しているのは松本清張氏の項を読んでもらえばわかる。ともかく、原典を確認せず、うろ覚えで書いている。頭の中で自分に都合の良いように文章が変わってしまうのである。小説家は自らが構築したイメージの世界の中に読者を誘い込み、楽しませなければならない。嘘がうまいほど評価が高くなる。森氏はその小説的世界に導く騙しのテクニック、つじつま合わせのごまかし(清張氏に騙すという認識はないだろうが)を歴史解釈のアイデアだと誤解しているのである。それに乗れば自分が楽になるという理由で。
●総合的に見て言えるのは、豊富な知識や固定観念が足かせとなり、原書類を素直に読むことができなくなっているということである。獲得した膨大な後世の知識とすり合わせながら倭人伝を読むという方法そのものが間違っている。前置きはこのくらいにして、次回から倭人伝の個別事項の検討にとりかかる。


「倭人伝を読みなおす(森浩一氏)」を読むその2
 第一章の「倭人伝をよむにさいして」の第三回「倭人伝はどうして地域を重視したのか」に、「倭人伝はまず対馬国(島)を六四字で記述している。これは邪馬台国の四五字よりも多く、魏の関心が邪馬台国より対馬国にあった。(?ママ)」と書かれている。
 大きな事実誤認があって驚く。その道の権威ともいえるレベルの人をこのような形で批判しなければならないのは意外だし、思い上がりと受け取られるかもしれないが、まず、歴史書がどのようにして書かれるかというごく基本的な部分から思い起こしてもらわなければならない。
 歴史書の書かれかたは現在とそう変わりがない。様々な資料を取捨選択して、その時代の真実を記録しようとする。資料の価値を判定し、資料を整理、統合したり、解りやすく伝えようと知恵を絞るのはそれぞれの史書の編纂者であるから、その過程で自ずから力量というものがあらわれる。魚豢が魏略を書いているが、三国志に注を入れた裴松之は魏略はなんでもかんでも書き込んでいるというような評をしている。私も魏略逸文(魏略は現存せず、魏志の注など他の資料の引用文として現れるのみ)を読んでそう感じる。資料の正誤に関するチェックが甘いのである。魏の史官であった魚豢は資料にたいする思いいれが深く、捨てるという作業が苦手だったのかもしれない。後に、陳寿の三国志は正史扱いされるようになった。陳寿の名文がなんて書いている人がいた。私は名文かどうか判定する力をもっていないが、それで評価されたのではないことはわかる。歴史書としての正確性を評価されたのである。
 歴史書の編纂という、過去の事実を正確に記録し後世に伝えようとする作業には、想像を自由に膨らませる小説とちがって、その時代を記録した様々な資料が不可欠である。資料を引用、要約したり、自らの見解を付したりすることはできるが、ことわりもなく自由な想像を書き込むことは許されない。それをやると歴史ではなくなるのである。だから、陳寿もそういうことはいっさいおこなっていないし、魏略の魚豢にしてもそうであろう。ただ、雑多な資料から正解を抽出しなければならず、資料解釈の間違いなどはいくら注意しても避けられない。百点満点をとるのはおそろしく難しいのである。
 先日、「蹇蹇(けんけん)録」という本を買った。明治期の外相、陸奥宗光が日清戦争時の日本外交を回想したものである。書き残しておかねばならぬという使命感がそうさせたようだ。これなど、外交責任者が書き残したものだから明治史の第一級の史料となる。しかし、別の立場から見た別の見解が残っていたとしたら、どちらが正しいのか、第三、第四の資料を照らし合わせて確認し、結論をださねばならない。文章化にあたって、蹇蹇録をそのまま引用することもできるし、他の資料と統合した要約というのも可能だ。明治史という長いスパンになると、本当に重要なことしか書き残せず、大半は捨てられる。重要かどうか判定は編纂者次第だ。教科書のような薄っぺらい通史になると、日清戦争、陸奥宗光外相、清の李鴻章という名が残るばかりである。そういうふうにさまざまな角度からの熟慮をへて史書は編み出される。倭人伝でも同じことである。
 魏志の著者、陳寿は蜀の出身で洛陽に移住した。倭のことは知るよしもない。陳寿がなぜ倭人伝を書けたかというと、倭人に関する資料が残されていたからである。ほぼ同時代なので、豊富に残っていたであろう。倭人に関し、魏略逸文と魏志がほぼ同じ内容であるのに文章が異なっているのは、魏略の要約がはなはだしいからである。魏志は魏略を参考にして書かれたという人もいるが、魏略とて元資料がなければ書けない。ほとんど同時代なのに、魏略の魚豢が利用できた史料を陳寿が使えないと判断する理由がわからないのである。魏志より魏略の方が先に書かれているというだけなら、あまりにも単純すぎる。二つは同じ資料にもとづいて書かれている。文章を比較すると、魏志を元に魏略は書けても、魏略を元に魏志は書けない。それに加えて魏略は後漢代の資料まで書き込んでいる。
 では、その魏志、魏略の元資料を書いた人間はだれかということになる。倭人が文字を知っていたことは確実だが倭人ではない。表意文字である以上、文字を知ることはその意味も知ることである。自らの国名、女王名に邪(よこしま)、奴(しもべ)、卑(いやしい)など、マイナスイメージの文字ばかり選ぶことは考え難い。これらの文字は韓伝の国名にも普通に見られる。つまり、中国人が倭人や韓人から国名を聞き、その音を表すのに少し軽蔑を込めてこういう文字を選んだということである。明治期の日本人はアメリカンをメリケンと聞き、自らの文字で米利堅と記した。今は米国と略す。蔑視の感情はないから文字にもそれは表れていない。それと同じような形で得られた表記である。倭人の発音を中国人の文字で表す。聞き取りと文字表記という二つの変換過程があり、微妙な誤差は避けられないだろう。
 帯方郡からは二度の遣使がなされた。最初は正始元年(240)で、梯儁等が渡来している。この人々は魏の明帝が卑弥呼に与えた贈り物や、倭という国が献じた布地や生口に対する見返りの物品、親魏倭王という金印などを日本に届けに来た。金印を除く贈り物類は倭の使者、難升米、都市牛利に付すとされているから、形式的にせよ管理責任は難升米にあった。物品が届けられたということはそれに付随して難升米等も海路を案内し帰国したはずなのである。
 銅鏡百枚、布地1500メートル以上、幔幕のようなものもある。これらがすべて装封されていた。つまり箱などに入れて、包まれ封をされて運ばれてきたわけである。難升米が使用した倭船が朝鮮半島で待っていたとしてもすべてを積むことは出来そうもない。帯方郡の大きな船に荷物や人員を乗せて渡来したと考えるのが妥当であろう。船員を含めればかなりの数の中国人が渡来したと想像できる。
 二度目は正始八年(247)で、卑弥呼は狗奴国王の卑彌弓呼素と和せず、戦争中であることを帯方郡に訴えたため、塞曹掾史の張政等が派遣された。倭の要請にこたえたのだから戦争の指導、軍事顧問として派遣されたと思われる。張政等であるから、張政以外にも複数の人間が日本に渡来していた。森氏は張政が19年間日本に滞在していたと考えているし、魏は倭人を東夷の中でも特にすぐれた集団と考え強い関心を持っていたとも考えている。その強い関心を持った国に公務で19年間も滞在した人間に、上部機関が何らかの報告を求めると考えないのはなぜであろうか。不思議である。梯儁にしても物見湯山で日本に渡来したわけではない。公務で来ている。報告書を残したと考えるのが当然ではないか。このことに関して、森氏の考えは安定しない。倭人が文字を知っていたことから、国名は倭人の手になると考えているふしがあるかと思えば、地理情報に関して、帯方郡の役人が日誌風のメモを書いていて陳寿がそれを資料にして書いたのだろうとか。
 しかし、すでに書いたように、倭人が自らの国名、女王名に奴、邪、卑のような文字を選ぶことはありえない。もしそうなら、よほど誇りのない自虐的な民族だ。倭人伝のうち、帯方郡との交渉や魏帝の制紹などの中国側での記録を除いた、倭人の地理、風俗、政治情報は梯儁、張政という二度の遣使の報告書から成り立っているのである。メモを残していなければこれだけの情報を残すことはできない。そのメモをもとに帯方郡使は帰国後に報告書を提出したのである。それを魚豢、陳寿が引用している。特に陳寿は抜粋するのみで原文に手をつけていないように見える。紀行文風の名文とか言っても、それは陳寿の書いた文章ではないのだ。
 伊都国までの国、伊都国の一大率に関する記述を除いた他の風俗、政治情報はすべて張政の邪馬壹国(魏志に邪馬臺という国はない)での経験である。宴会や葬儀、占いなどの風俗、卑弥呼の存在と政治手法など長期滞在しなければわからないようなことがたくさん書いてある。つまり邪馬壹国に関する情報が一番多い。別項に分けてあるだけだ。だから、地理描写がないというだけで、「邪馬台国の記述には臨場感がまったくない」という感想は的外れである。卑弥呼がどこにいたと思っているのだろうか。次に関心があるのは伊都国で、一大率に六十七文字も割いている。対馬国の六十四文字より多いではないか。実際のところ、対馬国にはほとんど関心をもっておらず、通過地の一つとして紹介しているだけである。伊都国以降には地理情報のデータが無かったということにすぎず、それはデータの書き手が異なっているから。つまり、伊都国までは梯儁の報告、そこから先の邪馬壱国までは張政の報告にもとづくのである。陳寿が伊都国以降の地理データを省いたわけではなく、存在しなかったから書けなかっただけなのだ。
 「奴国は春日市とその周辺、不弥国は宇美町とその周辺であろう。」、「以上の六国を倭人伝は紀行文風に記述することに努めている。」と書かれているが、奴国と不弥国の二国は国名、官名、戸数を記すのみで紀行文風の記述はない。北九州六国を一まとめにしたいようだが、間違った前提を元に何かを論証しようとしても無駄なことである。「日本の古代」では伊都国をさかいに記述形式がかわると言って、放射式記述説を紹介していたのに、放棄されたようだ。正確に言えば、紀行文風の記述があり、氏の言う臨場感があるのは対海国、一大国、末盧国の最初の三国に限られる。きちんと「倭人伝を読みなおした」なら、簡単にわかることではないか。
 倭人伝だけが地域重視で書かれているというが、韓や高句麗など東夷伝の他の国々にはそういう書き方をしたデータが存在しなかっただけである。梯儁がたまたまそういう形式の報告を残し、二度目の郡使、張政がその形を踏襲した。陳寿はそれをそのまま採用しているのである。
 歴史書はデータにもとづいて書かれるという最も基本的な意識があれば、そのデータはどういう形で提供されたかという思考へすすみ、森氏のようないきあたりばったりの混乱はおこらない。


「倭人伝を読みなおす(森浩一氏)」を読む その3
 第六回の「帯方郡が冒頭にある意味」に、「もし倭人の住む土地をいうのなら、朝鮮半島南部の『韓の南』とか『弁韓の南』のほうがより適切なのに、どうして帯方としたのだろうか。」 「倭人伝の冒頭に帯方を書いているのは、公孫康が設置した帯方郡の役割の重要さを強調したのである。」という記述がある。そのあたりを考えてみたい。
 「倭人は帯方東南大海の中に在り」というのが倭人伝冒頭の記述である。漢代は楽浪郡が倭人との交流の窓口であったが、魏の時代には、公孫氏がその南方を分割して新たに設けた帯方郡に変わっていた。卑弥呼の使者が訪れたのも帯方郡だし、梯儁、張政も帯方郡から出発している。そこが中心になるのは当然で、べつに強調でもなんでもない。これは「楽浪海中に倭人有り」という漢書地理志燕地の記述を踏襲している。
 韓伝冒頭には、「韓は帯方の南に在り。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。」と書いてある。東西に海が意識されるのに南の海は意識されていない。したがって、倭は韓の南、朝鮮半島に存在したことになる。倭人は海中にあるから、倭と倭人は区別されている。森氏の言うような、「韓の南」や「弁韓の南」は倭人(日本)ではないのである。これは韓伝、倭人伝の地理情報と森氏の想定する地理がまったく異なることから生じた混乱である。

 

右図は私が「魏志倭人伝から見える日本」の中で使用したものである。森氏の地理認識との違いを説明してみよう。




森氏の地理認識の誤り
1、「韓は、東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す」という韓伝の記述に反する。この地図なら「東西南は海をもって限りとなす。」で十分である。
2、「弁辰は辰韓と雑居する。」という弁辰伝の記述に反する。雑居というのは国境など定められないくらい複雑に入り交じっていることを意味する。森氏は国境を定めて、古代の加羅と呼ばれた土地を弁辰と認識しているようだが、ここは陳寿の倭なのである。だから日本の弥生土器や甕棺が出土したり、北九州との結びつきが強い。後の大和朝廷が任那にこだわったのも、こういう前史があるからなのだ。

 辰韓伝には辰韓十二国、弁辰十二国の名が記してある。「已柢国、不斯国、弁辰弥離弥凍国、弁辰接塗国、勤耆国、難弥離弥凍国、弁辰古資弥凍国、弁辰古淳是国、冉奚国、弁辰半路国、弁辰楽奴国、軍弥国、弁軍弥国、弁辰弥烏邪馬国、如湛国、弁辰甘路国、戸路国、州鮮国、馬延国、弁辰狗邪国、弁辰走漕馬国、弁辰安邪国、馬延国、弁辰瀆盧国、斯盧国、優由国」で、弁辰と付いていないのが辰韓の国である。国境が定められないから、国名もごちゃ混ぜになっている。書き方から辰韓が主、弁辰が従であることもわかる。頭を使ってきちんと書いてあるのに読み方がアバウトだから倭人伝、韓伝の豊かな情報を十分に引き出せないのである。
 百衲本の韓伝には「韓伝、辰韓伝、弁辰伝、弁辰伝」と弁辰伝が二つある。実は最初の弁辰伝は辰韓伝の続きなのである。あわてものの古代の研究者が「弁辰亦十二国」という言葉を行頭に持ってきて、余計な弁辰伝を作ってしまったらしい。森氏はこれを真に受けている。「男女は倭に近く、亦文身」という記述も弁辰としているが、実際は辰韓人のことである。「韓、濊、倭が鉄をとる」のも辰韓だ。内容を理解すれば辰韓伝の続きだと簡単にわかるのに、理解しておられない。べつに森氏に限ったわけでもなさそうだが。
 「海岸にそって水行し韓國をへて南に向かったり東に向かったりしながら、その(倭の)北岸の狗邪韓国にいたる。」と正しく翻訳しているが、乍南乍東を馬韓西部の海と考えているようだ。その場合は東西にめまぐるしく移動して島をかわしながら常に南に向かっているであろうに。だから記述としては乍西南乍東南になるはずだ。韓は帯方の南にあり、韓をすぎる方向に関しては記す必要がない。どちらにせよ、氏の言う狗邪韓国(金海)に至るには現実には北方に向かわなければならないという方向の誤認に気づくべきであった。現代の地図を使えば乍北乍東で、古代の人々の頭の中の地図に従わなければ位置関係はわからない。正確な現在の地図とすりあわせながら倭人伝を読むという愚を犯している。三世紀の地理認識と現在の認識は異なる。つまり、三世紀の人々の、心の中の地図は正しくないという単純な事実を認めなければならない。
 金海を狗邪韓国と考えれば、百済方面からの渡来ルートがあるはずなのに、なぜ遠回りの新羅方面からの渡来ルートをとったのかという疑問も出てくる。帯方郡使は百済方面から来ているのである。
 倭国や倭王などの使い分けをくどくど説明しているが、原資料の表現が異なっているだけのことである。陳寿は資料の文字を整理、統一したりしていない。陳寿が生の資料をそのまま提供してくれているので倭人伝は非常に臨場感のある記述になっている。
 卑弥呼最初の遣使は景初二年(238)であるが、神功皇后紀三十九年を根拠に景初三年(239)に修正しておられる。しかし、その記述は「明帝景初三年六月…」となっている。魏志明帝紀を読めば、明帝は景初二年十二月八日に病に倒れ、景初三年正月一日に死亡している。その日に斉王芳が即位した。つまり景初三年は明帝の年ではない。この神功皇后紀の間違いに関しては無言で通り過ぎられるわけである。倭人伝の記述通り景初二年と解さなければ、さまざまな齟齬があらわれる。そのことに関しては「魏志倭人伝から見える日本」で解説している。難升米は魏へ派遣されたという思い込み、固定観念がこういう改竄を引き起こしたのである。まだ健在だった公孫氏の帯方郡に派遣されたと解せばなんの問題も生じない。魏へ朝貢する形になったのは偶然である。だから、朝貢品は斑布二疋二丈(=百尺=24mくらい)、生口十人と、後の遣使の献上品に比べておそまつだ。森氏も同じその固定観念の虜で、それが実に多い。狗邪韓国は金海に決まっている。一支国、対馬国は島全体に決まっているなど。倭人伝には一支国など存在しない。一大国である。


「倭人伝を読みなおす(森浩一氏)」を読む その4
 第三章は「対馬国と一支国」になっている。当然のごとく一支国と書いているが、倭人伝のすべての本が一大国と記す。一支と書くのは隋書や誤字脱字の多い翰苑所載の魏略逸文など。いずれも唐代の著作で、日本との交流が盛んになり、当時の日本の地名が明らかになった後である。森氏は「後漢書は後漢の滅亡の二百年余りあとでの著作だから、どうしても後世の知識がまじってしまい読むときに注意がいる。」と書きながら、そういう部分にまったく注意をはらわない。弥生時代の地名と後世の地名が百パーセント一致するとは限らないのに、この安易な決めつけはなんだろう。これは倭人伝の改竄といってよい。
 それに対馬島や壱岐島ではない。森氏が考えるような島全体が一国という保証はどこにもないのである。後世、対馬には二郡、壱岐にも二郡があった。なにゆえにそうなったのかということを考える必要があるだろう。弥生時代にそんな区別はなかったと断定されているが、弥生時代の対馬、壱岐の記録などどこにも残っておらず、断定には根拠がない。固定観念に支配されて倭人伝を素直に読めなくなっていると書いたのはこういう部分である。
 対馬(対海)国の「良田なく、海物を食べ自活する。船に乗り南北市糴」という記述の南北市糴を、森氏は商業活動の意味だという。糴という文字自体はご本人も書いておられるように米を買い入れるという意味である。一大国には、「耕田なお食するに足らず、また南北市糴。」と記されている。食料が足りないから南北で米を買い入れているわけである。「また」というのは「対馬と同じように」という意味だ。食べ物のことしか書いていない。文字や言葉には定められた意味があるのに、森氏のように拡大解釈すると真実から遠ざかるばかりである。
 延喜式「雑式」に、「王臣家の使が対馬島に到り、私に真珠を買い百姓を擾乱してはいけない。」とあることから、平安貴族が対馬の真珠(パール)を買いあさっていた。対馬はパールの一大産地だと主張される。海に囲まれているのだからパールは取れるに決まっているが、これは日本の暖地の海すべてに当てはまることである。
 倭人伝は倭の産物として「真珠、青玉を出す。その山には丹有り…」と記す。山の産物とは分けられているからこの真珠はパールである。同じ倭人伝の魏帝の制紹の中に「…真珠、鉛丹各五十斤を賜う。」と書いてあるが、五十斤という重さを単位としているし、采物(彩物)とも表されているから、こちらの真珠は赤い辰砂(硫化第二水銀)のことである。陳寿がデータをそのまま引用するのみで言葉を整理していないから、こういう食い違いが出てくる。
 大江匡房(平安時代)の対馬国貢銀記には、「嶋中珍貨充溢、白銀、鉛、錫、真珠、金、漆の類は長く朝貢をなす。」と書かれている。真珠は錫と金にはさまれているし、すべて山の産物ばかりである。そういう点からこの真珠は辰砂と考えるのが妥当である。だから延喜式「雑式」の真珠も辰砂のことで、平安貴族は不老長寿の霊薬として辰砂(真珠)を買いあさったのだと見当がつく。
 文献に現れる「対馬の真珠」は、森氏の考えるパールではなく、辰砂なのである。真珠(パール)を交易品とする対馬の商業活動を考えておられるようだが、前提そのものが成り立っていない。
 韓伝の「諸国には蘇塗とよぶ別邑があり、大木を立て鈴鼓をかけて鬼神につかえる。逃亡者がその中に逃げ込んでも還さないから、好んで賊をつくっているようなものだ」という記述から、壱岐の原の辻遺跡が国邑で、カラカミ遺跡は別邑だと解釈しておられるが、これは馬韓の風俗として記録されたものである。壱岐はいつから馬韓の一国になったのであろうか?倭人伝には犯罪が少なく秩序は守られていると正反対の記述がある。
 国には領域がある。国邑という首都的な集落だけで国が成り立っているわけでもあるまい。カラカミ遺跡は国内にいくつかある大集落の一つであるかもしれないし、それこそ別の国の国邑であるかもしれないのだ。考古学資料からそんなことは何もうかがえない。貯えた豊富な知識が足枷になって文献を素直に読めなくなっていると書いたのはこういう部分である。
 朝鮮半島や対馬、壱岐の考古学的出土物や後世の歴史と、倭人伝、韓伝の記述を無理に結び付けていただく必要はない。倭人伝が書いているのは帯方郡使の知りえた情報のみである。対馬、壱岐と朝鮮半島の交易活動があったことは間違いないが、倭人伝の記述からは、それはうかがえない。海産物と米のことを記しているのみである。近年、奈良県で様々な出土物がある。だからといって邪馬台国と決まっているのかという森氏の主張が、そのままこだまとなって氏に帰ってゆくだろう。最初に倭人伝、韓伝を正確に読むべきなのだ。


「倭人伝を読みなおす(森浩一氏)」を読む その5
 「第四章、玄界灘に臨んだ国々」の主張を考える。末盧国では「草木が繁茂し、行くのに前人を見ない」という記述の解釈で、呼子から唐津へ歩いたように考えておられるが、その距離は無視できるものではない。末盧国から伊都国までが陸行五百里だから、呼子から唐津までならその半分、陸行二百五十里くらいを記されなければならないだろう。だから、呼子を想定することは間違いである。末盧国内を歩くのは、末盧国の港に入港してからなので、集落(国邑)まで少し距離があり、その間が草ボウボウだったのだと思われる。示すほどの距離ではないから書いていない。
 九州本土で、帯方郡使の入った港は末盧国だけである。だから、後の記述に出てくる津というのは末盧国の港のことだ。津は中国では「川の渡し場を意味する文字だから、末盧国の港は松浦川に存在した可能性が強い。ここは外国への旅立ち、外国からの入港のすべてを受け持つ国際港だったらしい。
 末盧国に関する「沈没して魚鰒を捕る」と、入れ墨の習俗に関する「沈没して魚蛤を捕る」の二つの文章がある。鰒(あわび)は磯の産物であるし、蛤(はまぐり)は浜の産物である。どちらの海でも潜水して海産物をとっていたのであろう。大きな蛤はそれなりの深さの所へ行かなければ捕れない。蛤は海人が海に潜って捕る対象ではないと否定されているが、当時、海辺の住民なら、農漁を問わず食料調達のために誰でもそういうことをしていたのではないか。現在のような、蛤を捕る便利な道具は持たなかったはずである。
 伊都国に関して、「どうして倭人伝では一個所に記事をまとめないで、二つに分けたのだろうか。それは陳寿の参考にした元の資料の違いによるとみられる。」と書かれているが、倭人伝は最初に「地理情報」を書き、「風俗・産物」、「社会・政治」、「魏との交渉」というふうに項目ごとに整理している。伊都国の情報が二つに分かれているのは「地理」と「社会・政治」の二項目のデータがあるからだ。邪馬壱国に関しては四項目のすべてににわたる。逆に対馬国には地理情報しかなかった。対馬国を重視しているという森氏の主張がいかに的外れかおわかりいただけるであろう。倭人伝の字面を追っているだけで、構造の分析などは発想そのものすらお持ちでないようにみえる。
 伊都国に良港がなかったから、末盧国の津に入り、一大率の統治する伊都国まで歩いているのに、伊都国の志登に良好な港があったと主張される。現在は埋まって陸地になっているのだから、当時から埋まりがちだったと考えた方が自然ではないか。中国は古くから構造船を発達させてきた。倭のボート系の船とは大きさがまるで違っただろう。そういう大型船が入港できる末盧国の津はきわめて優秀な港だったわけである。あとは歩いて伊都国へ行ったから、帯方郡の船は末盧国に止まりっぱなしである。
 「伊都国後文は難解である。『女王国より北には特に一人の大率を置き諸国を検察する。諸国これを畏憚する。国においては(中国の)刺史のような役割である。』」と書かれているが、べつに難解ではない。
 原文を挙げる 。「自女王国以北、特置一大率検察。諸国畏憚之。常治伊都国。於国中有如刺史」(句読点は私が付けたもの)
 訳すと「女王国より以北は特に一人の大率を置き検察する。諸国はこれを恐れ憚っている。常に伊都国で治す。(魏)国中における刺史のようなものである。」
 森氏の翻訳のおかしいことがわかっていただけるだろう。「国中においては」ではなく「国中における」で国中とは自分たちの国、魏のことである。漢代の刺史がどうのこうのと書かれているが、これは魏志なので関係がない。帯方郡使が魏人に向けて説明した文章である。一大率は魏の刺史と同じような役割だと言っているのだ。魏の刺史は漢代より強化された州の長官で、帯方郡や楽浪郡なども幽州刺史の監督下にあった。森氏が漢の刺史のみをとりあげ魏の刺史について語らないのは、刺史の如き大率の力が強大すぎて不都合なのであろう。
 女王国まではずっと南下していると考えていた。だからその北方の各国、おそらく遠く離れている投馬国は入っていないだろうが、対馬(対海)国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国の六国は女王国が伊都国へ派遣した一人の大率により統御されていた。
 この一大率を魏の派遣官と解するのは松本清張氏のアイデアで、なにゆえにそんな不自然なことを考えたかというと、北九州南部に想定した邪馬台国が、すぐ近くの伊都国に、強大な権限を持ち諸国に畏れられる大率を派遣するのはおかしいという論理に対抗するためである。
 末盧国の港で荷物を検査しているから、梯儁が始めて渡来した時、大率はすでに存在していた。公孫氏時代からすでに倭を支配して大率を設けていたと解釈すればこの矛盾を解消できるというのが、森氏の編み出したつじつま合わせである。実際のところ公孫氏にそんな支配力はない。韓や倭が属していたというのは朝貢という形式的なものである。公孫氏は楽浪郡南部の荒地を分割して帯方郡を作るだけでせいいっぱいだった。韓を支配していたという論拠はどこにもないのに、更に遙か遠く離れた倭まで支配が及ぶとするのはどだい無理である。帯方郡使が倭へ到るまでどれだけの航海をしたか、もうお忘れなのであろうか。軍事力がなければ支配などできないが、倭を支配するにはどれだけの船と軍隊が必要だっただろう。派遣は可能か。何か自由でダイナミックな交易活動があったと考えておられるようだが、そんなものは存在しない。卑弥呼の献上品は、それが最上の贈り物だったと考えられるのに、布地と生口ばかりだ。中国人が欲しがるような産物はない。交易といっても倭人の一方通行、ほそぼそとしたものだろう。中国人にとって、生命の危険を冒すほどの貿易の利はないのである。対馬の真珠は辰砂だとすでに明らかにしたし、北方系民族は金銀錦繍を重んじるが、真珠(パール)はそれほど宝としなかったことが東夷伝の各国の記述からうかがえる。公孫氏や魏は北方系だ。
 一大率が魏の派遣官なら、それを飛び越して卑弥呼はなぜ帯方郡に救援を求めたのか。大率に頼れば良いではないか。魏の派遣官で北九州六国を検察して畏れられていた人間はこの紛争を前に何をしていたのだ。それ以前に、大率はなぜすぐ近くにある女王国まで支配を広げなかったのだろう。中国の官なのに刺史と比較できるのか。この一大率は末盧国の津で、梯儁の運んできた「文書や賜り物を伝送して女王に届けるが、間違いは許されない」のである。大率が女王の支配下にあったことを示しているではないか。倭人の難升米に付された贈り物類が中国人の大率に引き継がれるのはなぜだ。など、派生してくる疑問というものを持たれないのだろうか。だいいち、大率が中国人なら、魏志にそういうことがきちんと書かれるはずなのだ。解釈に自由などない。その場しのぎの弥縫はたちまちほころびてくる。


「倭人伝を読みなおす(森浩一氏)」を読む その6
 「後漢書の成立は五世紀とはいえ原資料の蒐集は三世紀からおこなわれていた節がある。」と書かれているが、宋書范曄列伝には「衆家後漢書を刪して一家の作と為す。」と記されている。范曄は宋代、すでに複数存在していた後漢書を整理・統合したという意味である。文献にきちんと残されている。後漢書倭伝は魏志に頼る部分が多いが、「建武中元二年、倭奴国が貢を奉り朝賀した。使人は大夫を自称した。倭国の極南界である。光武は賜うに印綬をもってした。安帝永初元年……」という独自の記述はその先行後漢書に記されていたと推定できる。
 范曄の時代に衆家後漢書が残っていたわけで、百五十年ほど先立つ陳寿も当然読んでいる。「その使が中国にきたときには皆大夫を自称する。」という記述になってそれがあらわれている。後漢書に比べ、なぜこんな簡単になったかというと、魏志倭人伝は魏の関連事項としての倭を書いているからである。後漢時代の出来事は魏志に関係がない。前代の歴史として簡単に触れるだけですませたのだ。逆に後漢書は魏代の出来事に用はないから、魏志を大量に要約引用しながら、地理、風俗情報に限られ、魏との交渉に関する記述は省かれている。後漢時代に魏の明帝や、梯儁、張政、壹與は存在しないのだから書いてはならない。魏志倭人伝は魏の関連事項としての倭を書き、後漢書倭伝は後漢の関連事項としての倭を書いているという基本的な立場の違いを、森氏に限らず、日本の史家は認識していない。これはきわめて重要なことなのだが。
 有名な学者がこう言ったという記述がしばしば見られるが、無批判に受け入れるのはよろしくない。その主張が正しくなければ意味はないからである。検証してから書いていただきたいものである。私の見るところ根拠のない個人的な想像でしかないものをありがたがっている。
 藤原京で出土した鰯についての木簡の表記で「伊和志」と「伊委之」の二種があり、八世紀まで「ワ」を「委」で書くことがつづいていたと書かれているが、これは日本の八世紀の読みで、五百年前の三世紀の中国、日本の読みと一致するとは限らない。日本と中国で読みが違うという漢字はいくつもある。こういう部分に用心が必要なのである。倭人伝は中国人に向けた中国の書だということも忘れないでいただきたい。金印に漢委奴国王とあることから、委と倭は同音だったことがわかる。現在の発音ではウェイに聞こえるが、古代の発音など誰も聞いたことがない。しかし、「ワ」ではないだろう。「委、萎、崣、蜲。」読みはすべて「ヰ」である。矮も「アイ(ワイは日本の慣用音)」だ。だから母音として「i」音が残るのではないか。
 「対馬国から不弥国までの方向の記載は現在の地理とも矛盾しない。」と書かれているが、はたしてそうなのか。末盧国=唐津から東南陸行五百里で伊都国だ。伊都国比定地の前原市は唐津の東北にある。倭人伝の記載どおりに行くなら伊都国は背振山地を越えた有明海沿岸になる。奴国はその東南百里にあるから福岡・熊本県境あたりか。自らの伊都国、奴国比定地が倭人伝の方向に従っていないのをお気付きでないようだ。不弥国は奴国比定地から倭人伝の記載通り東にあるそれらしい地名、宇美を選んだのだから合っているのが当たり前である。森氏は末盧国から東北へ向かって伊都国へ行き、伊都国から東ないし東北へ向かって奴国へ歩いている。そこまで倭人伝に従っていないのに、次の不弥国へは倭人伝の記載通り行くのはなぜだ?
 上記のように、北九州説も倭人伝の方向を無視しているから、この点で大和説を非難できないだろう。狗邪韓国への行程ですでに述べたが帯方郡使は南北を取り違えている。


「倭人伝を読みなおす(森浩一氏)」を読む その7
 「対馬国から不弥国までがリレー式でつながり、ときには紀行文風に記されていた。ところが投馬国と邪馬台国の記述には臨場感がない。それと狗邪韓国をへて対馬国から不弥国までの方向の記載は現在の地理とも矛盾しない。」と書かれているが、本当に「倭人伝を読みなおした」のだろうか。うろ覚えで書いているのではないのか?
 不弥国から投馬国、投馬国から邪馬壱国(邪馬台と記す魏志はない)へもリレー式でつながっている。森氏が不弥国を内陸の宇美に比定したため船に乗れなくなり、リレーができないだけのことである。不弥国は海岸部に想定しなければならない。倭人伝を読めばそうなる。奴国と不弥国の記述のどこに臨場感があるのだろう。この二つは投馬国、邪馬壱国と同じ書き方である。伊都国からあとは記述方式が異なるといって放射式記述説なるものが考案されたくらいで、ご自身も以前は必ずこれを紹介されていたはずである。実際に伊都国が記述方式の境界になっている。紀行文風の記述があるのも末盧国までである。
 狗邪韓国への方向は南北を間違っていた。末盧国から伊都国へも南北を間違っている。伊都国から奴国へも間違っている。現在の地理とは明らかに矛盾しているではないか。ともかくすべてが検証なしの思い込みで書かれている。
 最初の帯方郡使、梯儁は運んできた卑弥呼への贈り物類などを大率に引き渡している。形式的には難升米から大率に引き渡されたわけである。荷物は大率の責任において女王国まで伝送されることが倭人伝に記されている。したがって、梯儁は女王国へ行く必要がない。伊都国ですべての手続きが終わっている。二度目の張政は狗奴国と戦争状態になり、窮状に陥った卑弥呼を支援するために派遣された。したがって、張政は女王国まで行っている。伊都国までの情報は梯儁の報告にもとづく、奴国以降は張政の報告にもとづくという基本的な事実を認めれば、なんの苦もなく理解できることが多い。そこに陳寿の見解が挟み込まれている。戸数などの表記の違いは二人の表現の違いにすぎないのだ。卑弥呼という女王がいて男弟が補佐している。卑弥呼は鬼道に事え衆を惑わしているなど、そのありさまを見た人間、張政にしか書けないことである。惑わすという批判的な言葉が倭人からの伝聞ではないことを教えてくれる。軍事顧問として長期滞在し、政治の中枢部と接触していた張政ほど倭人の国情を知るものはいないのだ。
 「公孫氏の勢力が強まり、倭と韓の支配のために帯方郡を置いたのである。」なんて書いているが、どんな文献にもそれを思わせる記述はない。韓伝には「公孫康が屯有県以南の荒地を分けて帯方郡となし、公孫模、張敞等を派遣して(元の漢の郡県の)遺民を集め、兵を興して韓濊を伐ったので、旧民(元の漢の郡県の住民)が次第に出てきた。この後、倭、韓は遂に帯方郡に属した。」と記されているのみである。公孫氏は領土を拡張したのではない。楽浪郡の南部を割いて帯方郡を作ったのである。元々楽浪郡だから、帯方郡は楽浪郡に近接している。それは韓の支配のためではなく、辺境防御の色彩が濃い。その帯方郡の安定に成功した結果、倭や韓が朝貢に訪れるようになったのである。漢代から匈奴に印綬を与えてきた。それは中国の冊封体制に組み入れたことを示している。中国側から見れば匈奴は中国に属していることになるが、その土地を実効支配していたことは一度もない。倭や韓が属すというのはそれと同様である。
  末盧国に入港したあと伊都国まで歩いているから、船は末盧国の港にある。伊都国から奴国、不弥国までは、陸行とは書いていないが、船を降りたのだから、これも歩きに決まっている。不弥国から先はまた船に乗る。帯方郡の船を回航したという記述がない以上、不弥国からの航海は倭船によると考えるしかない。このようにデータに書かれていなくても、データから論理的に引き出せることがある。しかし、森氏のように何の裏づけもなく、上記の場合は「この後、遂に倭韓は帯方に属す。」という言葉尻だけをとらえて想像を膨らませていくのは、歴史の真実を探求する手法ではなく、虚構を楽しむ小説の手法である。
 「『女王国に至る万二千余里』は、文脈から見て『女王国界に至る万二千余里』とみられることは前回に述べた。」と「界」という文献に無い文字を勝手な想像で付け加える。こういうことを平気でやる人間は歴史研究者としての資質が不足していると考える。文献というのは基本的に正しいと受け止めるべきである。自由な想像で訂正したりしたら、歴史そのものがなくなりかねない。訂正を主張するには明らかに間違いだと言える証拠の提示が必要だ。たとえば、魏志には「その道里を計るとまさに会稽東治の東にある。」という記述があるが、後漢書には「会稽東冶の東で朱崖儋耳(海南島)に近い。ゆえに法俗に同じものが多い。」とされているし、晋書も会稽東冶である。東治という地名がみあたらず、会稽の東の治所という意味なら会稽の東でこと足りる。中国文献のあり方からして、このような不必要な重複はあり得ない。したがって、魏志の会稽東治は会稽東冶の誤記だと結論できるというような形である。
 森氏は狗奴国の位置が会稽東冶の東だと考えているが、会稽と東冶の間はずいぶん遠い。「その道里を計るとまさに会稽東冶の東にあり。」というのが倭人伝の記述だから、帯方郡から計った倭人、対馬国から女王国、さらにその南にある狗奴国まで含めての距離を会稽から東冶の東だと言っているのである。これは陳寿の見解だ。当時の中国人は、倭人は九州から南西諸島あたりまで島々が連なっていると考えていたことになる。十五世紀初めの李朝の混一彊理図がそれを視覚化してくれている。日本の最南端は儋耳朱崖に合わせられている。(右図は現代図と組み合わせたもの。灰色が彊理図の日本)
 当時の人々がそういう認識の元に倭人伝を書いているのに、現代の地図に合わせようとするからトンチンカンな解釈が生まれるのである。


「倭人伝を読みなおす(森浩一氏)」を読む その8
 「張政は二年前に下されていた難升米への詔と黄幢をもたらし、それらを難升米に仮授した。仮授とは皇帝に代わって授けることである。」
 間違いである。「仮授」の仮は、仮定などと同じ使い方で副詞、仮に授けること。倭人に手渡すのではなく帯方郡に付託された時にのみ使用されている。単独で「仮」と使う時は(貸し)与える時で動詞。印綬などを倭人に授けた時に使われている。これは魏が任命したものだから、不都合があれば取り返しうるので「仮す」である。拝は官を授けること。難升米には詔と黄幢が授けられた。だから「拝仮難升米」と書いてある。帯方郡に仮授されて(預けられて)いた詔、黄幢が倭に届けられ、難升米に拝仮された。詔により官を授け(拝)、黄幢が与えられた(仮)のである。森氏はすべて仮授で済ませていて、「仮」と言う文字の使い分けをまったく理解していない。原文が「拝仮難升米」なのにこういう文章を書くのは、うろ覚えで書いて、倭人伝をチェックしていないということだろう。
 「岡本健一氏は中国史書での『以死』の用例を検討し、…その結果、『以死』の用例は『自然史ではない。刑死や賜死・諫死・戦死・自死・遭難・殉職・奔命(過労死)・事故死などで、その結果”非業の死を遂げた”ものばかりである』とまとめている。」
 時代により言葉の使用法が変わっていることがあるので、魏志だけで検討する。普通の死に方に「死」が使われ、非業の死に「以死」が使われているならこの結論は正しいということになりそうだが、「死」と「以死」の使われ方が違うという証明がない。有力者の伝記である列伝をみると死という言葉を忌んで卒が使われていることが多い。もっと身分が高ければ薨だ。単に「死」と書かれている時は普通に死んでいるかというとそうでもない。袁紹伝には「赴河死(身投げ)」、袁術伝には「発病道死」、崔琰伝には「賜琰死(賜死)」など非業の死が単に「死」と表されている。典韋なんか「瞋目大罵而死(目をいからせ大いに罵りて死す)」と壮絶な戦死だ。公孫度伝には「度死」「康死」と自然死(たぶん死因が解らないのであろう)である。傅嘏伝には「今権以死(今、孫権は死に)」で、孫権は「権薨時年七十一(呉主伝)」だから、「以死」と書いてあっても非業の死とはいえない。「権以死」と「卑弥呼以死」は文章構造がまったく同じである。並べると「以死」と「死」に差があるようにはみえない。死という文字は敬意を払う必要のない一段低い死に方に使われたのだと思われる。蛮夷と一段低く見ている卑弥呼に敬意を払った卒という文字が使われることはなく、死が使われるのは当然だろう。とにかく、「権以死」という文が魏志にあり、非業の死ではないから、岡本健一氏の主張自体が否定される。普通に死んだものには卒、薨を使っているのだから、死、以死に非業の死が多くなるのは当然である。そういうところの比較はどうなっているのだろうか。「以死」しか調べていないのではないか。森氏の引用なので詳しくはわからないのだが。
 吉川幸次郎氏の「漢文の話(ちくま学芸文庫)」には、「(本居)宣長がいうように、漢文の助辞はあってもよく、なくてもよい語である。」、「一則以喜、一則以懼」は「一則喜、一則懼」「一以喜、一以懼」といえぬことはなく、そういっても意味は表現される。それを、現実には一則以喜、一則以懼という。やはりリズムの関係からである。」というような文章がある。「以死」となったのは読む時のリズムの問題で、「死」と差があるのかと疑問に思う。
 このあたりの倭人伝原文は「遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黄幢、拝仮難升米、爲檄告諭之、卑弥呼以死、大作冢、径百余歩、殉葬者奴婢百余人」となっている。
(塞曹掾史の張政等を派遣し、よって詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮した。檄をつくってこれを告諭した。卑弥呼は死んだ。冢を大きく作った。径は百余歩。殉死させたのは奴卑百余人である。)
 親魏倭王、卑弥呼を支援するために張政等が派遣され、難升米に何らかの官位が授けられて黄幢が与えられた。これは軍旗である。だから檄をつくって告諭した相手は狗奴国との戦争の直接の当事者、難升米と考えなければならない。軍事的な支援を確約する励ましだっただろう。女王、卑弥呼が戦争の指揮をとることはないのである。ここまでは張政の行動を書いている。卑弥呼は主語で、以下の陵墓の造営に結びつく。卑弥呼の前で文章が切れている。森氏のように檄を作ったので卑弥呼が死んだ、「以死」は非業の死を表すという解釈は無理である。「卑弥呼は自死したと思いたい。」といわれても、自殺ならそう書かれるだけだし、殺されたなら殺と書かれるだけである。「以死」という文字から死因をうかがうことはできない。このような勝手な想像は歴史をゆがめる。
  上記の文を、わかりやすく現代語訳しておく。 「塞曹掾史の張政等を派遣し、(帯方郡に仮授されていた)詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄をつくってこれを告げさとした。卑弥呼が死んだので墓を大きく作った。直径は百五十メートルほど。殉死者は奴婢百余人である。」


「倭人伝を読みなおす(森浩一氏)」を読む その9
 「卑弥呼の冢が径百余歩もあるのは、多くの殉葬者を埋める空間を必要としたことによるのだろうか。そうであれば冢の径というより墓域(墓田)の広さであろう。」と勝手な解釈を書いておられるが、倭人伝には径百余歩とある。自ら「大作冢」を大々的に作ったと解釈しておきながら、卑弥呼の冢を小さくしようと努める。なぜそういうことをするかと言えば、北九州の邪馬台国比定地に径百余歩クラス(150メートルほど)の大古墳が見あたらないからである。
 「大作冢」も「大いに冢を作る」ではなく「冢を大きく作る」と読み下さなければならない。洛陽伽藍記に「小作冠帽」という言葉があり、これは「冠帽を小さく作った」と翻訳されるから、文章構造の同じ「大作冢」ならその反対である。比較対象があって、それまでの陵墓より大きいのだ。
 「今日見る倭人伝では台与ではなく壹与にしている。この壹は臺の減筆を示すのであろうから、イヨとするよりトヨと発音したと見られる。」
 そのあたりの原文を見ると、「卑弥呼宗女壹與年十三爲王国中遂定政等以檄告諭壹與壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還因詣臺……」となっている。
 壹與が三度も出現している。この三文字の壹のみが臺の減筆というのはどういう状況を想定するのだろうか。しかも後ろに臺という文字が書き分けられている。可能性の薄い現実離れした想定である。
 隋代に遣隋使、小野妹子等が派遣され、隋からは裴世清が渡来し、ヤマトが都だと判明した。以降の書物では後漢書が正しいと判断され、邪馬壹が邪馬臺に改訂されてしまったのである。唐代に編纂された梁書は臺與としているが、これも壹は臺の書き間違えだと単純に考えた結果だろう。太平御覧は、倭という国の項目では邪馬臺、臺擧(與の間違い)としている。しかし、そういうチェックの入らない「珍宝部、珠上」の項目では倭人伝原文をそのまま転写して壹與と書いている。トヨではなくイヨなのである。減筆という根拠はなにひとつない。これを臺與としておかなければ、邪馬臺も邪馬壹が正しいということになりかねない。森氏の根拠のない主張は邪馬臺を守るためであろう。
 「出発点を不弥国とする前提にたっての南となると、投馬国を宮崎県当たり、邪馬台国は鹿児島よりさらに南の海のどこかになると述べた。もっともこの場合の南を聞き間違いとして東とすると近畿地方になるがぼくは倭人伝の原文どおりで読むべきと考える。」
 それはごもっともで原文通り読むべきである。南を東と聞き間違える可能性などない。張政は女王国まで来ている。自らの経験があるのに、なんで方向を聞かなければならないのだろう。渡来した帯方郡使、張政が南へ移動していると方向を誤認し記録したのである。後漢、王充の「論衡」に「周の成王の時、倭人が鬯草を献じた。」という記述がある。鬯草というのはウコン。亜熱帯、熱帯の植物である。漢代から、倭は鬯草を産する南方の国と考えられていた。だから帯方郡使は、北と南を誤認し、常に南方に移動していることを疑わなかったのである。方向の間違いはすべてこれで説明できる。
 倭人伝には末盧国から東南陸行五百里で伊都国と書いてある。実際の地図でみれば伊都国は吉野ヶ里あたりに比定しなければいけない。末盧国の港を呼子に比定することで、唐津まで東南に歩いていると言うつもりなのかもしれないが、それは末盧国内を歩いているだけのことだ。末盧国の東南に伊都国が存在するのである。伊都国を古代の地名に合わせて怡土(前原市)とするなら、呼子の東になる。森氏も倭人伝の記述には従っていない。倭人伝の記述自体に方向の誤認があるから、解釈をこねくり回しても現代の地図とは絶対に合わないのである。
 倭人伝は北と南を取り違えている。当時の認識に従えばすべての面倒が解消する。混一彊理図の形を認めれば良いのである。


「倭人伝を読みなおす(森浩一氏)」を読む その10
 邪馬台国の東遷、250年代と簡単に書いておられるが、大和が無人の荒野だったとでも思っているのだろうか。すでに農耕をしているのに、「土地を空けろ」、「はい、空けます」と簡単にできることなのか。250年代にその移動の痕跡があるとでも?途中の瀬戸内もなかなか簡単には通過させてくれないだろうに。結果には過程というものがある。それを省いた主張にはなんの説得力もない。北九州勢力の近畿への大移動があったとすれば、二世紀の倭国大乱なみの戦乱を想定しなければならないだろう。この頃の緊張は高地性集落の出現となって現れている。筑紫に拠点を置いた五世紀初めの神功皇后の移動は瀬戸内や浪速、大和で抵抗されたことが記、紀に記録されているし、馬具の出土など古墳の副葬品がまったく異なってくるという考古学資料で裏付けられている。壱与の時代の移動、張政がその推進者といわれても、倭人伝がそれに沈黙しているのはおかしいではないか。要するに、そうあって欲しいという森氏の願望の表出、こじつけでしかないのだ。
 森氏が北九州勢力の大和移動の根拠としてあげられるのは、銅鏡を墓へ納めることで、近畿地方の弥生時代には皆無といってよいそうだ。朱を用いることも北九州の弥生時代に始まるという。しかし、この考古学資料は、出雲、北九州連合が、畿内進出を果たした時の戦乱が倭国大乱だという私の主張を裏付けてくれることになる。
 記、紀神代は、出雲の大国主神が大和の御諸山に祭られ大物主神になったことを示す。神の移動は人の移動の象徴である。そしてこの出雲に出自をもつ神が大和の最高神であることは何をものがたるのか、ちょっと考えればわかることである。
 崇神紀では、出雲の振根が筑紫へ行っていた時、弟が崇神天皇の使者に神宝を渡してしまった(=降伏した)ので、怒りがおさまらず、後に弟を殺したという記述がある。出雲と筑紫は強く結び付いていた。つまり、倭人伝の邪馬壱国とは、大和朝廷以前の前王朝、ヤマトを譲った饒速日系=物部系の王朝。出雲・北九州連合の王朝なのである。物部氏の祖神、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(先代旧事本紀)は大汝命(=大国主神)の子であることが播磨国風土記飾磨郡に記されている。
 卑弥呼という女王を共立して大乱はおさまった。大乱は桓霊の間とされているから、後漢の桓帝と霊帝の二代にまたがっている。二帝の交代は168年なので、大乱もこの年を含めた幅で考えればよい。正始八年(247)の卑弥呼最後の遣使はその79年後だから、即位時の卑弥呼は幼女と考えるしかない。したがって、大乱はその父親の時代に当たる。大乱が私の想定通りの大和移動なら、大和へ入って卑弥呼で二代目にすぎないわけである。畿内の弥生古墳に九州、出雲の特長が現れないのは当然ということになる。卑弥呼はヤマトトトビモモソ姫とあらわされた人物、陵墓は箸墓なので、もう前期古墳時代に含められている。
 大乱はその父親、記、紀では孝霊天皇とされる人物の時代である。この天皇には戦いの地方伝承が残っているし、近江の三上山の天御影神の降臨も孝霊天皇時代と伝えられている。孝霊天皇という諡号自体が、桓霊の間という倭国大乱時代の(孝)霊帝にあわされているではないか。
リンク「諡号の秘密」
 以上のように、権力の東遷は事実だが、卑弥呼即位前の倭国大乱時代のできとなのである。このいきさつはすべて「弥生の興亡」に書いてある。弥生時代の邪馬壱国王の陵墓は、大和では卑弥呼の父親の一つのみ。貴族階級のものはいくつかあるだろう。畿内の弥生墓に鏡の副葬や朱の使用がないのは、かえってこちらに好都合である。ほとんどの弥生陵墓は邪馬壱国以前の支配者階級のもの、三輪神と同じく地主神扱いされている倭大国魂神を祭る一族のものと考えられる。


「倭人伝を読みなおす(森浩一氏)」を読む その11
 帯方太守、張撫夷の墓というものがあるそうで、この本を読むまで目にしたことがなかった。大正四年の発掘というからずいぶん古い。墓から発見された塼には漁陽張撫夷とか使君帯方太守張撫夷という名や戊申年に葬られたと書いてあり、それは288年(晋、武帝大康九年)に当たる。撫夷という名は夷を撫す(なつける)という意味だし、倭に派遣されたのだから使君(使いの君)にも該当する。張政がそう呼ばれる可能性は大いにある。森氏の指摘どおり張政の別名と考えて問題ない。おそらく、張政の功績を記念して、こう名乗れと与えられたものであろう。
 塞曹掾史という下級官だった張政が帯方太守に出世していた。帰国後即任命されたのか、順調に昇進したのかそういうところまではわからない。正始八年(247)に派遣されているから、四十一年後の死亡である。派遣された頃は三十代であろうか。
 森氏は「新しく女王となった台与が建国したばかりの晋へ二十人からなる大規模な使節団を派遣した。この遣使の目的は『送政等還』、つまり張政らの帰国を送ることにあった。」、「泰始二年の遣使では倭地での張政の功績を中国側に伝えただろう。」と書かれているが、晋書倭国伝には「宣帝の公孫氏を平らぐやその女王が遣使して帯方に至り朝見した。その後、貢聘は絶えず、文帝が相になるに及び、数度至った。泰始初年、使を派遣し訳を重ねて入貢した。」と記されている。武帝紀、泰始二年にも倭国遣使の記録がある。
 宣帝とは諸葛孔明との戦いで名高い司馬尉仲達のことである。文帝というのは魏の相国となった司馬昭で、これは晋の建国者、司馬炎の父親だ。晋が建国されたのち二人は宣帝、文帝とおくり名された。
 森氏は倭の新女王の壱与が晋の泰始になって初めて遣使したように考えておられるが、晋書倭人伝がそれを否定する。文帝、司馬昭が相国となったのは魏の景元四年。魏の滅亡はその二年後である。相国の間に何度か来たといっても二度がせいいっぱいである。ともかく、魏の終末期に遣使があり、派遣者は壱与と考えるしかない。したがって張政の帰国年は魏の景元四年(263)ということになる。だから魏志の最後に記されているわけだ。張政の日本滞在期間は十六年である。そのあたりのことは「魏志倭人伝から見える日本、ファイル3」で精密に追求している。張政は王朝の交代にも影響を受けなかったらしい。
 張政は親魏倭王、卑弥呼を支援するために帯方郡から派遣された。卑弥呼が帯方郡に支援を要請したのは負けていたからで、使者は「相攻撃するの状を説く」と悲鳴にも似た要請だったことがわかる。張政はその劣勢を建て直し、狗奴国を滅亡に追いやった。それに十六年をついやしていて、いかに困難な戦いだったかがわかる。張政等は任務を完了したことで帰国がかなったのである。壱与がそのとき派遣した使者は二十人でこれまでで最大。献じたものは男女生口三十人、真珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹とこれも最大である。画期的なできごとを疑えない。生口は狗奴国の重要人物と思える。
 森氏は張政が卑弥呼に死を命じて、狗奴国男王を後継者にした。それに反発されたので壱与を後継者にしたというが、根拠はなにひとつなく、倭人伝に書いていないことを勝手に読んでいる。帯方郡の下級官僚にすぎない張政が魏帝の与えた親魏倭王を取り消せるとでもいうのだろうか。親魏倭王だから帯方郡は支援せざるをえなかったのである。この称号を軽くみてはならない。

★森氏の主張がいかにデータから外れているか、こまごまと指摘してきた。氏は倭人伝を正確に読もうとするのではなく、自らが作ったイメージに合わせるための無理読みをしている。検証やら裏付けというものなしに勝手にきめて書きすすめるのだから、これほど楽なことはない。松本清張氏の真似をして想像に走るのは小説の手法であって歴史の叙述ではない。
 それでも専門学者らしく、さまざまなデータをお持ちであった。この本からの収穫は三点。
 一つは、国邑とは国と集落という意味ではなく、首都的な集落を表すということ。これは韓伝の「国邑は主帥ありといえども、邑落は雑居してよく相制御することができない。」という記述から裏付けられる。中国北方には国邑というべきものを持たない遊牧民国家が展開する。その対比として中国人にはよく理解できる意味のある言葉だったのだろう。
 一つは、近畿の古墳時代にみられる鏡の副葬や水銀朱の使用が、近畿の弥生古墳にはみられず、北九州から伝来したらしいこと。要するに、古墳時代の権力者が北九州の影響下にある。北九州勢力が近畿に入ったと考えられること。これは出雲、北九州連合が大和に侵入した時の戦乱が倭国大乱だとする私の主張を補強してくれる資料となる。卑弥呼の一代前のできごとにすぎず、近畿の弥生古墳からはほとんど見つからないだろう。卑弥呼の時代はすでに前期古墳時代に分類されている。
 三つ目は、張政という日本に渡来した帯方郡使が張撫夷と名を変え、帯方太守に昇進して、その陵墓が発見されていること。「夷を撫した」事実がなければこれはありえない。張政は親魏倭王を授けられた女王国を保護するという任務をみごと果たし、その結果として撫夷という名を与えられ、使君と通称されたのであろう。魏志には張政だから、改名と帯方太守就任は晋代と思われる。漁陽という北京よりさらに北方の出身なので、日本は暑く、特に夏のむし暑さは耐え難く感じたであろう。日本を亜熱帯、熱帯の国と誤認したことも当然と思われる。