一大国


魏志倭人伝の風景
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一大国

 石田町印通寺(現在、周辺町村と合併して壱岐市)は、次の末羅国(唐津市)に向かうに当たって最も便利な港と思われ、帯方郡の船もここに入ったと考えられます。対海(対馬)国と同様、島の名前ではなく、訪れた地域国家名が一大です。
 倭名抄や延喜式では、島は石田郡と壱伎郡に二分され、石田郡には石田、物部、特通、箟原、治津の鄕がありました(高山寺本)。帯方郡使はその行政地域名、石田を「一大(イツター)」と聞き取ったわけです。
 壱岐は航路の中継点として立ち寄ったもので、天候待ち、潮待ちの滞在はあったかもしれませんが、そこに何らかの用事があったわけではありません。位置や地形を見ると、入るに早く、出るに早くという点で印通寺が最適です。北方にある原の辻遺跡は大規模弥生集落で当時の一大国の都であろうといわれています。
 魏志では「一大国」となっていますが、梁書は「一支国」と記しています。どちらにしても「イシタ」という発音を写した文字と思われます。支を「キ」と読むのはごくまれで、講談社の大辞典にもすみっこに地名と記されているのみです。「キ」という発音にはそれにふさわしい文字がいくらでもあるわけですから、ここはやはり、「シ」と読むべきです。当時の中国人が頭に思い浮かべる最も一般的な発音、共通認識となっていた音を考えなければなりません。日本人のために書かれたものではないということが、しばしば忘れられています。説文解字の注でも、「支」の発音は「章移の切(*)」です(*/shou+iでshi)。倭人伝には遠くて情報もない国として二十一ヶ国の名が記されていますが、そこから推定すると、「イキ」なら「壹鬼」、あるいは「伊鬼」と表記したと思われます。(鬼は居偉の切、kyo+i=kyi)
 聖武天皇の天平八年(736)二月(旧暦)、阿倍朝臣継麻呂を遣新羅大使に任命、四月、継麻呂等は天皇に拝謁し、六月に出発しました(続日本紀、万葉集)。雪連宅麻呂はこの一行に加わっていましたが、壱岐で病死し、その墓が印通寺西北に残されています。ということは、遣新羅使も印通寺の港を利用していたことになります。
 万葉集(3644)」には、「大君の命かしこみ、大船の行きのまにまに、宿りするかも」という雪宅麻呂の歌がみられますし、「壱岐島に至り、雪連宅満のにわかに鬼病に遇いて死去の時作れる歌」三首と反歌六首も載せられています(3688~3696)。
 反歌の一つは、「伊波多野に宿りする君、家人のいづらと我を問はばいかにいはむ」となっており、ごく親しい人が詠んだ歌のようですが、石田を「イハタ」としていることから、古代は「イハタ」という地名だったのだろうとされています。しかし、これは魏志倭人伝の存在を知らないか、あるいは結び付けられなかったためでしょう。
 弥生時代が「イシタ」で、万葉時代に「イハタ」となり、倭名抄の読みは伊之太ですから、平安時代、また「イシタ」に戻ったとするのは腑に落ちず、「イハタ」の方に不自然さを感じなければなりません。自然の音韻の転訛ではあり得ません。
 松尾社家系図によれば、宅麿は従五位上、宮主月読長官。伊伎島司また神祇官宮主となっています。京都に移住した天児屋根命十八世孫、忍見宿祢が始祖という壱岐の卜部の一族で、系譜ははっきり残されています。父親は伊伎連古麿ですから、この人も伊伎連宅麿のはずなのに、雪に置きかえられているのは不思議な話です。司馬遼太郎さんは、中国風に洒落て自ら雪と名乗ったかのように解釈していますが、まだ新羅に着いておらず、日本人相手にそのような名乗りの必要はないでしょう。表された名も、雪宅麻呂と雪連宅満ですから中国風とはいえない。ここに記録を残した人の意思が働いているのかもしれません。熱に溶けて消える雪のように、宅麿も高熱を発して姿を消してしまったのではないかと思えるのです。そして、こういう感性の持ち主なら、葦(アシ)を忌んでヨシと言うが如く、「石田」のイシ(死)という音を忌んで、イハに置きかえる可能性がありはしないか。
 とにかく、弥生時代、意味不明ですがイシタと呼ばれており、大和朝廷時代になって石田の文字が当てられた。遣新羅使は死に関連する言葉を避けて「宿り」と表現するなど、シ(死)音を忌んでイハに読み替えた。土地の人間にはイシタですから、後の文献ではイシタと読まれるという扱いになります。
 この国も官、副の存在を記すのみで、王は存在しません。北方の壱岐郡、帯方郡使が訪れたなら壱鬼国と表記したであろう土地のことはわかりませんから、王が存在した可能性もあります。後世、壱岐という島名になっていることを思えば、こちらの勢力の方が強かったのかもしれません。
 万葉集、天平八年(736)の遣新羅使の一連の歌とそれに関する記述は、古代の航海を知る上で非常に参考になりますので紹介しておきます。
 一行は夏六月に大阪を出発しました。当時は太陰暦ですから、現在の季節とは大幅にずれていて、七月半ばのことです。備後国長井浦(尾道市)に至るまでの停泊地は記されていません。安芸国長門島(倉橋島)では磯辺に停泊したと記されています。出発は夜で、「自分だけが夜船を漕いでいると思ったら、沖の方で梶の音がする。」という歌がありますから、例外的に、夜間、航海することもあったようです。筑紫館(福岡市)では、七夕の歌を詠んでいますから七月七日。現在の暦では八月二十二日になります。大阪から筑紫まで一月ほど要したことになるようです(出発が六月のいつ頃かにより左右されますが)。筑前国志摩郡の韓停(唐泊)では三日間の停泊。志摩半島をぐるりと回って引津湾に停泊。次は唐津湾を横切って狛島停(神集島)に泊まります。筑紫から後は一日行程と思われますが、それ以前はわかりません。壱岐へ渡って雪宅麻呂が病死します。一日や二日の停泊ではすまないでしょう。対馬の浅茅浦では順風を得ず、五日の停泊です。浅茅浦、竹敷浦では紅葉の歌が盛んに詠まれて、九月という言葉もありますから、今でいえば十月半ばを過ぎました。
 遣新羅使が帰国し入京したのは九年(737)春正月二十七日ですから、現在の暦では三月五日になります。大阪、新羅を往復するのに七ヶ月ほど費やしています。この航海は不調だったようで、「帰ってから見るだろうと思っていた萩やススキが散ってしまった」、「秋がすぎれば帰れるだろうと言っていたのに、まだ着きもしない」というような歌が詠まれています。普通は冬の初めに帰れるというなら、四ヶ月程度で済んだのでしょう。片道二ヶ月です。万葉時代にこれだけの日数を要したわけですから、弥生時代にはもっと時間がかかったことを想像できます(日にちの計算には「日本暦日原典、内田正男編著、雄山閣」を使用)。
 養老二年(718、元正天皇)にも、「(十月)庚辰、太宰府言遣唐使従四位下多治比真人県守来帰。」、「(十二月)壬申、多治比真人県守等自唐国至。」という記述があります。十月二十日、筑紫に着き、十二月十三日に奈良に至ったのですから、九州から五十三日要しています。