奴国


魏志倭人伝の風景
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奴国

 奴国は二万余戸があり、北九州では最大の国です。一つの集落に集中していたわけではないでしょうから、ここに何百、あそこに何十というような形で、福岡市域に広がっていたと思われます。その行政地域名が「奴(ドゥ、ヅ)国」と表されました。これは他の国に関しても同じことがいえます。
 後漢書には「建武中元二年(57)、倭奴国が奉貢朝賀した。使人は大夫を自称。倭国の極南界なり。光武は印綬を賜った。」という記述がありますから、当時すでに、後漢の中央政府にまで使者を派遣できる国力を持っていたのです。魏志の二万余戸は近隣諸国を圧倒するその国力を示しています。しかし、官、副の存在を記すのみで、王は記されていません。志賀島から出土した金印には、「漢委奴国王」の文字がありますから、使者を派遣し、光武帝に印綬を授けられたのは奴国の王です。
 57年に存在した国王が240年代になると姿を消していた。その原因は何かと考えれば、後漢書の「桓霊(*)の間、倭国大乱」という記述に都合良く引っかかります。そういう戦乱なら、敗れた側の王が地位を失う可能性は大です。(*/後漢の桓帝146~167と霊帝168~189の間なので、167から168年を中心とした前後を考えれば良いでしょう)
 後漢書には、「国は皆、王を称す。世々伝統」とされていますから、後漢時代には各国に王がいたらしい。先行する魏志と異なる内容をこれだけきっぱり書けるということは、後漢書の著者、范曄はそれを示す文献を読んでいたに違いありません。范曄は「衆家後漢書を柵して一家となした」と宋書范曄列伝にあり、数種類の後漢書を整理、統一したことがわかりますし、他にも、現在は失われてしまった史料が残っていたはずです。
 魏志倭人伝の伊都国の項には、「世、王有り。皆女王国に統属」とありますから、伊都国も、代々、女王国に従っていました。元々は独立国だったと思われる伊都国が女王国に従属したのはいつかと考えれば、やはり倭国大乱時代がクローズアップされてくるのです。代々といっても七十年ほど、数代にすぎないことになります。
 地図や写真を見て分かる通り、志賀島と海の中道はほとんどつながっています。
 筑前国風土記逸文にも、「志賀島と打ち上げ浜(海の中道)はほとんど同じ土地と言って良い。」という記述がありますから、古代もあまり変わりがなかったようです。島は海の中道を所領としていた国に属すと考えられますし、後の行政地域名も筑前国糟屋郡志珂鄕、現在の地名は福岡市東区です。したがって、倭人伝時代、奴国の所領だったことはほぼ間違いありません。能古島も筑前国早良郡ですから、金印を、地理的に何のつながりもない伊都国に結び付けるのは無理です。
 金印出土地は、現在、金印公園として整備されています。志賀島の集落から少し離れた海岸の急傾斜地で、江戸時代、田の溝を修理中に見つけたといいますが、猫の額ほどの小さなものしか作れない場所です。海岸部に周回舗装道路が設けられていますが、弥生時代は、田もなく、道もない、樹木に覆われた土地だったでしょう。海の中道から島に渡り、右手に向かえば延喜式名神大社、志賀海神社がみられますから、金印公園は集落の広がりと反対方向に存在することになります(弥生時代、住民がいたかどうかは不明)。
 奴国は倭国大乱時、邪馬壱国(女王国)とその同盟国に敗れて滅びた可能性大です。金印を必要としない人物にとっては、ただの金ですから、溶かして加工するなり、いかようにも利用できるはず。金は当時の日本ではめったに手に入らない超貴重品だったでしょう。となると、金印そのもの、「漢委奴国王」という称号が重要だったわけです。したがって、埋めたのは奴国の関係者ということになります。
 魏は漢を換骨奪胎した国ですから、その時代に漢の威光はない。金ではなく金印(漢委奴国王)に価値があるということは、埋納されたのはまだ漢が存続していた時代、220年以前でしょう。漢の滅亡後、組み込まれた柵封体制が無意味になり、遺品として持ち主だった王の墓に納める可能性はありますが、それらしい遺構はなかったようです。他の副葬品も見あたらない。盗掘されたにしては最も貴重なはずの金印のみが残されるのはおかしいとつないでゆけば、墓の副葬品の可能性は消えます。何らかの祭りに使われた可能性もありますが、金印一つだけを、奴国から見れば辺鄙といえるこの場所に残したのはどういうわけか説明がつけられません。金印に価値がなくなっても、金として再利用できるのですから。
 220年以前に、奴国の人間が何らかの事情で志賀島に渡り、金印を丁寧に埋納したわけです。奴国王にとっては、自らが奴国の正統な支配者であることを証明する証拠品で、金印を示すことが出来れば漢の支援を受けて再起も可能だ。と推論してゆけば、倭国大乱で滅亡の危機に瀕した奴国王等が、海の中道を経て志賀島に逃げ渡り金印を隠した。正面に能古島が見えるのは、能古島を目印にしたのではないかとの決論に達するのです。
 後、神功皇后が香椎宮に居し、朝鮮半島へ進出しました。多々良川と宇美川合流点に大きな潟があったように見え、河口部に名島神社があります。灘県の中心はこの辺りだったのかもしれません。そして、記、紀で、改名伝承(*)と結び付けられているこの神功皇后が「奴(ドゥ)」から「灘(ナ)」へと地名を変えたように思えるのです。(*ホムターイザサワケ。ホムタートモ)
 やがて皇后は瀬戸内を傘下におさめ、大和へ進出し、分裂していた皇統を再統合します。魏志倭人伝時代の「邪馬壱国」が、范曄の後漢書の頃(宋代)、つまり、倭の五王時代には「邪馬台国」に変わっていました。それも、倭の五王の始祖といえるこの皇后の仕業ではないでしょうか。なにしろ神様が憑いていた人です。









「金印(漢委奴国王)」