不彌国


魏志倭人伝の風景
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不弥国

 不弥国は奴国から百里の距離にあります。伊都国から奴国までの距離も同じ百里ですから、地図で同程度の長さをとってみれば、おおよその位置を定められるでしょう。古代、長さは尺や歩という単位で測られており、魏の一尺は24.12cm。六尺が一歩で1.4472m。三百歩が一里で434.2mほどになります。しかし、短い長さは物差しや紐で測れても、曲がりくねり、高低差のある長い道のりを測る道具などは存在しません。自ら歩いた距離感を百里などと表しているだけで、心理的なものに大きく左右されます。正確な測量術に支えられた現在の距離感を倭人伝に持ち込むのは禁物です。
 道中、山に登ればそれぞれの国が見える可能性もあり、それなら距離の判定に良い結果をもたらします。右の地図を見れば、伊都国と奴国、不弥国の関係が倭人伝の記述に一致していて、その距離感が正しいように受け取れますが、これも偶然というくらいでちょうど良いでしょう。奴国の中心をどこに置くかでずれが生じます。
 帯方郡使は不弥国から、20日間、水行して投馬国へ至りました。したがって、不弥国には港があったことになります。後世、九州の玄関口として使われたくらいですから、奴国にも港があったはずです。しかし、この時は船に乗るのに何らかの不都合があって通り越した。不弥国から乗船したということは、その不都合が不弥国では消えているわけです。考えられるのが志賀島へ伸びる長い砂州(海の中道)で、これは船の進行を大きく妨げます。瀬戸内へ向かうなら、この砂州を避け、通り越した最初の港を利用したと考えるのが妥当です。
 不弥国は、現在の地名でいえば福岡県糟屋郡新宮町になります。海の中道の付け根といえる位置で、新宮町湊と福岡市東区三苫に安曇氏系の綿津見神社があります。
 磯崎神社祭神は大己貴命。新宮神社祭神は住吉三神です。元々は熊野神社だった神社に住吉神を合祀して新宮とされたようですが、その住吉神はどこからきたのか。
 住吉三神は伊邪那伎命のみそぎの際、綿津見三神と同時に生まれており、これも安曇氏系の神です。香椎宮に居した神功皇后に神懸かりして新羅侵攻をすすめたのはこの住吉三神ですし(記、紀)、志賀島の海人(*)が海の西に国がある可能性を教えています(*/紀。これも安曇氏。志賀島に延喜式名神大社、志賀海神社が存在)
 筑前国風土記逸文では、神功皇后と安曇氏、志賀島、海の中道の結びつきが見られます。糟屋郡香椎鄕の神功皇后は安曇氏を重用していたようです。新宮町一帯と海の中道が糟屋郡安曇鄕だったとすれば、その位置関係(隣)が両者を結び付ける可能性を指摘できます。
 安曇氏は海部ですから、当然、船に乗ります。船に乗るには港が必要で、新宮町には湊や湊川というそれにピッタリの地名があり、川の湊は現役です。

 新宮町には、現在は上と下に分かれていますが、府(ふ)という地名があり、その音も非常に気になります。これは不弥に由来するのでないでしょうか。
 帯方郡使は末羅国で下船したあと、陸行五百里で伊都国に着き、伊都国から奴国を通過して不弥国に至りました。伊都国以降は陸行とは書かれていませんが、船を降りているのですから、水行はできません。そして、不弥国から水行二十日で投馬国です。
 中国の文献は「省略の極致」とか何とか、山本夏彦さんが書いていましたが、解りきったことは書かないのです。日本人のような痒いところに手が届く説明的な親切さはありません。それを考慮しながら読む必要があります。「王は存在しない。」とわざわざことわらなくとも、官の存在を記し、王に何も触れないことで示せるのです。末羅国で帯方郡の船を降りたということは、不弥国から先の水行は倭船ということになります。伊都国の(一)大率は魏から贈られた物品を伝送したとされていますから、帯方郡使も船を何度か乗り換えていたと思われます。安曇氏がすべての航海をとりしきったかどうかは不明ですが、少なくとも次の宿泊地までは安曇氏が案内したでしょう。
 
 津屋崎町にも可能性があります。島のように見える半島が深い入り江を抱え込んでいて、波を避ける絶好の港になりそうです。この辺りは宗像郡ですから、海人としては宗像系を想像できます。ただ、地形的な可能性を指摘できるのみで、新宮町のような可能性の広がりを見出すことが出来ません。