投馬国


魏志倭人伝の風景
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投馬国

 帯方郡使は不弥国から二十日の水行の後、投馬国へ至りました。当時の船は屋根のない大型のボートです。戦国時代に於いてさえ雨天や夜間は航海しないとされていますから、古代はもっと慎重だったでしょう。潮の流れを待つ時間なども必要です。距離の場合と同様、航海日数にも現在の感覚を持ち込むことはできません。
 天平八年(736)の遣新羅使は大阪から福岡まで一月ほどかかったようです。この時代、新宮町(不弥国)から鞆まで二十日というのは妥当な数字だと思えます。
 途中の寄港地はまったく記されていませんから、この国には何か重要な意味、たとえば航行管理責任者の交代など、節目といえるようなものがあったのかもしれません。戸数は北九州最大の奴国を二倍半上回る五万余戸です。
 投馬国は鞆(トモ)の音を写したものと考えられますが、地図を見てわかるように、狭い山肌の土地に五万余戸の大集落を想定することは不可能です。福山市の芦田川流域、津之郷町の本谷弥生遺跡からは新、王莽時代の貨泉が出土しています。平安末期から鎌倉、室町期には、草戸千軒と呼ばれる集落が栄えていました。古代も付近に大集落があったと想像するのは、それほど難しいことではありません。
 鞆を外港とし、福山平野やその奥まで陸路荷物を運ぶ、あるいは船を換えて運ぶという形が考えられます。戸数を考えると行政地域はもっと広かった可能性もあります。
 瀬戸内海という水上交通の大動脈があり、福山を終点としない限り、航行の途中で湾内奥深く入り込むことは時間、労力の浪費になります。鞆という幹線の港から近隣の港へ支線がいくつも走るという形が作られていたのではないでしょうか。
 対馬を「ター」、邪馬壱を「ヤイ」と読むのに、投馬を「トー」と読む一貫しない妥協性は気に入らないのですが、話し手の発音と聞き取り手の耳の問題があり、多少の誤差は許容されるとも考えます。また、弥生時代は「トーマ」と発音していたものが、後世「トモ」に変化した可能性も否定できないでしょう。
 鞆の地形を見ると、両袖が伸びて入り江を抱え込む形をしており、壱岐の印通寺によく似ています。航海の中継点ですから、航路に近いというのが必要条件です。鞆町の案内板には、内海を航行する多くの船は潮に乗っての航法だったので、潮待ちに使われたと記されていました。
 

 この地に式内沼名前神社があります。後世、どの神社か不明になっていたようですが、鞆の渡守神社がそうであろうとされました。祭神は豊玉彦命という海神で、鞆という土地にはふさわしいでしょう。この神社も神功皇后との関連を伝えていますし、焚場町の淀姫神社の祭神、淀姫も神功皇后の妹とされています。写真の石組みの船着き場は文化八年(1811)に築かれたものだそうです。
 この地が神功皇后と関係しているなら、記、紀にある皇后の名前変更伝承が効いてきます。実際、皇后の出発点、福岡は「ド」から「ナ」、入った土地は「ツ」から「ナニワ」(大阪)、「コウド」から「ナクサ」(和歌山)、「ヤマイ」から「ヤマト」(奈良)へすべてが変更されています。「トーマ」から「トモ」への変更もありうるのです。