伊都国


魏志倭人伝の風景
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伊都国

 伊都国は筑前国怡土郡で、糸島半島は志摩郡ですから、魏志の時代にも異なる行政地域、志摩国だったと思われます。
 伊都国と糸島半島との間は海だったとされ、地形を見てもその可能性を感じますし、地図にも、泊、潤、波多江、浦志など港や水っぽさを感じさせる地名が並んでいます。しかし、志登支石墓群という弥生前期の古墳群が平坦地に見られますから、かなり陸地化していたとも言えるようです。海とはいっても、砂浜の広がる浅い海を想像できます。筑前国風土記逸文は、現在、埋まってしまった遠賀川から洞海湾につながる水路を、小舟を入れるに耐えると記していますし、仲哀紀には、洞海湾に入った神功皇后の小船が、干潮のため、底がつかえて動けなくなってしまったという記述があります。ここも洞海湾奥部と同じような状況で、大型の外洋船は利用できなかったのではないでしょうか。帯方郡使は末羅国に入港、上陸後、伊都国まで五百里を歩きました。このことも、伊都国に大船の入れる港がなかった証左とできます 。
 伊都国は女王国の九州の拠点で、大率という高官が置かれ、常に伊都国で治し、諸国を検察したため、諸国は非常に恐れはばかっていたといいます。「国中(=魏)に於ける刺史の如く有り。」と描写しており、刺史は州という広大な地域を管理する長官ですから、大率も女王国の九州に於ける版図すべてを管理していたと考えられます。大率が、九州では最も戸数が多く、発展していたと思われる奴国ではなく、隣のこの国に拠ったのは、国際港のある末羅国を管理するためでしょう。末羅国には官が存在しません。 戸数が千ほどの小さな伊都国に、官が一人、副官が二人という他の国より強い管理体制がとられているのも、そう考えれば理解できます。王も存在しますから、伊都国住民の統治は、以前から、この国の首長だった王に委ねられたでしょう。国の出先機関の長官と地方自治体の首長の関係を考えれば良いわけです。そして、国の長官の方がはるかに大きな権力を持っていたことがうかがえます。
 末羅国、伊都国は大率自身が検察できますが、それ以外の国の副官は卑奴母離に統一されており、その選任が大率の専決事項で、卑奴母離は官を補佐し、また牽制する役割を担っていたと思われます。官は、その名が国毎に異なっていますから、元の支配者階級が世襲的に起用されていたのではないでしょうか。
 前原市のどのあたりが中心だったかということになると、福岡市に近い山寄り、弥生の大規模遺跡が発見されている三雲や、井原、高祖あたりが候補になります。
 近くの平原遺跡からは巨大な国産銅鏡が出土し、伊都国王の陵墓と考えられています。現在は埋め戻されたということで、草原が広がっているばかりでした。
 伊都国王の王宮と、それより大きな大率の役所、二つの主要遺跡があると思われます。地域内の遺跡に違いがあらわれているのではないか。


 怡土郡の式内社は志登支石墓遺跡近くの志登神社だけですが、三代実録、元慶元年(877)に、正六位、高磯比咩神に従五位下を授けるという記述があります。高祖神社の祭神は、現在、彦火火出見尊、神功皇后等となっていますが、本来はこの高磯姫と考えられ、この神社が中央政府にも意識される神社だったということは、周辺の考古学的史料も合わせて、高磯姫を祭る人々が、怡土郡の中心勢力だったということにもなるでしょう。後の怡土県主(仲哀紀に登場します)の祖先が伊都国王だったと思われます。
 「漢委奴国王」の印面を持つ志賀島出土の金印を伊都国に結び付ける説がありますが、地形図を見てわかるとおり、内陸のこの国と志賀島が結びつく要素はありません。志賀島以前に能古島をどう扱うのか?

平成28年3月1日、国内最古級のすずり発見
 福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で、弥生時代のものとみられる国内最古級のすずりの破片一個が出土したと同市教育委員会が発表した。実際に使われたようなすり減りがあるという。昨年12月、弥生、古墳時代の人々が土器を捨てたとみられるくぼ地を調査して見つかった。楽浪郡製の弥生後期とみられる土器が多数見つかっているため、市教委はすずりも同時期の1~2世紀ごろに楽浪郡で作られたとみている。(日経新聞より)
★付近が大率の役所ではないか。魏志倭人伝には、大率が港(末盧国)で臨検して女王国まで下賜物を伝送することが記されていますし、明帝の制紹には、下賜物を「録受=記録して受けとれ」と書いてあります。卑弥呼のもとへ様々な報告文書が届けられていたはず。