天皇号の成立

天皇号の成立と大王(オオキミ)
  聖徳「太子」への疑問(聖徳太子は大王だった)


1、天皇号の由来
2、天皇号の成立(推古朝説と天武朝説)
3、天武朝説に欠けた視点
4、天武朝説を否定する資料(船氏王後首の墓誌)
5、推古天皇と大王(おおきみ)のズレ
6、結論
7、補足
8、問題点の整理
9、参考資料(日本書紀、法隆寺金堂薬師如来像光背銘文、法隆寺金堂釈迦仏光背銘文、天寿国繍帳、道後温泉碑、元興寺伽藍縁起並流記資材帳…原文、和訳と解説)



1、天皇号の由来

 埼玉・稲荷山古墳や熊本・江田船山古墳出土の太刀銘は、雄略天皇を獲加多支鹵(ワカタキェル)大王と記している。和歌山・隅田八幡宮の人物画像鏡には大王の文字が見える。万葉集にも「八隅知之、吾大王…(やすみしし、我が大王)」と記す歌がいくつかある等、天皇位が生まれる以前は、国の最高権力者を、諸王の王という意味で大王(オオキェミ)と呼んでいたらしい。これは衆目の一致するところであろう。

《*注/大王は万葉仮名では於保吉美(オホキミ)と表記されるが、隋書は倭王のことを阿輩雞弥(アハケミ)と聞き取っているから、吉美はキェミという音だった可能性がある。日吉(ヒエ)のように、吉(キ)が「エ」に転訛するのも、「キェ」に近い音だったとすれば疑問はおこらない、日吉は日枝とも記されるので、支も同様に「キェ」と読まれていたのだと思われる。万葉仮名の研究では「甲類のキ」と分類されている。》

 やがて、中国文化の受容が進み「天皇」という称号が採用されるに至ったわけだが、太平御覧、巻七十八、皇王部三、天皇の項には、「洞冥記曰く、天皇十二頭、一姓、十二人なり。」、「項峻始学篇曰く、天地が立ち天皇十二頭あり。号して天霊という。万八千歳を治す。木徳を以って王す。」というような記述がある。現在では見られない文であるが、洞冥記は前漢末の人、郭憲の著作だし、始学篇の著者、項峻は三国時代の呉の人である。太平御覧には他にも三五暦紀など「天皇」を記すいくつかの文献があげられている。越絶書、越絶外伝紀呉王占夢には「越王勾踐は東僻といえども、また天皇の位を繋ぎ得た。」という文がある。勾踐の天皇位を真に受けるのは問題もあろうが、これも漢代に編纂された書物である。上記文献の成立年代や、新の王莽が地皇という年号を用いていることを思うと、前漢代にはすでに伝説の中に天皇が存在し、広く流布、定着していたと考えられる。
 洞冥記は漢の武帝が主人公である。この人は越方などの神仙思想を信じたとされている(史記武帝紀)。同じ漢代に編纂された呉越春秋では、越王勾踐は東皇公、西王母などを祭り鬼神に事えたという。始学篇、三五暦記は三国時代の呉人の作、などと資料を結び付けていくと、天皇という称号は越の神仙信仰に起源があるように思われる。勾踐は呉を滅ぼしたのち、山東半島の琅邪まで北上して都を置き、四代後の翳の三十三年に呉へ帰ったとされている(竹書紀年)。勾踐は中原の覇を目指したという説もあるが、それにしては東へ寄りすぎで、中原制覇にふさわしい場所とはいえない。観臺を建て東海を望んだというから、これはやはり神仙信仰という宗教的な理由に基づいた選択だったのではないか。秦始皇帝時代の徐福も琅邪を根拠地にしていた。勾踐もまた永遠の生命、登仙などというものを求めてあがいていたのかもしれない。
 漢書地理志・燕地に、「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す。歳時を以って来たり献見すという。」と記されているように、日本は前漢代から中国と交流していた。後漢への朝貢で金印を授けられてもいる。当時から中国のさまざまな知識を吸収していたはずである。魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道など、中国の鬼を祭る土俗信仰との類似を見出したからこその命名で、中国ではそれが後に道教に発展している。日本各地から発見されている三角縁神獣鏡を魏鏡とみなせば、魏志倭人伝が卑弥呼の好む物を与えると記す以上、その銘文や画像の神仙思想を卑弥呼の鬼道に結び付けるべきだし、倭鏡とみるなら、中国風神仙信仰の日本への浸透を想定するべきである。いずれにせよ弥生時代の日本に、宗教教団化される以前の道教的信仰の広がりが認められるのである。この信仰がそれ以前の銅鐸の祭りを消したわけだ。
 天皇、地皇、人皇の三氏がセットになっていて、唐、司馬貞の「補史記」では、人皇氏が中国人の祖先という形である。天皇が木徳、地皇が火徳とされているから、人皇は、五行の順に従えば、土徳なのであろう。これは木徳王「伏犠、女媧氏」、火徳王「炎帝神農氏」、土徳王「黄帝」という別の太古伝承の言い換えに過ぎないと思われる。おそらく前漢代に、この三氏に宗教的装飾をほどこして整理された形が天皇、地皇、人皇なのであろう。それ以前の「史記、秦始皇本紀26年」には天皇、地皇、泰皇と記されている。
 日本神話と比べてみると、天皇氏は古事記の天御中主神から天照大神、須佐之男命に到るまでの天神に該当することになる。大国主神などの地祇が地皇で、天降り以降が人皇である。道教的な発想にも抵抗感はないから、最高位の尊称として採用されるのも当然といえるほどで、たいした議論もおこらずに決定されたのではないだろうか。
 北極星を神格化した道教の「天皇大帝」が天皇号の由来だとする説もあるが、日本の天皇と北極星に深い結びつきはないし、最上級の神というわけでもない。日本の最高権威、権力を表わすには役不足と思われる。道教の最高神は原始天尊だから、「天尊」位を選ぶ方がよほど自尊心を満足させるのである。「補史記」の天皇氏なら木星(歳)と関係している。
 結局のところ、道教とは無関係に採用されたのであろう。神話の天皇氏の成立の方がはるかに古く、道教はその名を換骨奪胎しているだけである。

2、天皇号の成立年代(推古朝説と天武朝説)

 日本の天皇号の成立年代については様々な説があるが、戦前は、津田左右吉氏の推古朝説が通説とされていた。現在では東野治之氏等の天武・持統朝説に支持が集まっているという。
推古朝説は元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す丈六仏光背銘(609)や塔露盤銘(656)、推古十五年(607)の作とする法隆寺薬師像光背銘、推古三十年(622)の作とする天寿国繍帳などに天皇という表記が見られることを根拠にする。天武・持統朝説は仏像様式の違いや、天寿国繍帳発見の経緯などから、その製作年代の信憑性に疑義をさしはさんだ。すべてを後世の作、潤飾とみる。唐の高宗は道教に傾斜し、上元元年(674)、称号を「天皇」に代えている。天武天皇の定めた八色の姓(684)の最高位が、道教で仙人を意味する真人であり、道師という第五位の姓もある。諡号は天渟中原瀛真人天皇で、真人が含まれているなど、天武天皇にも道教受容の形跡が濃い。その一環として天皇位も模倣されたと考えるのである。

3、天武朝説に欠けた視点

 しかし、高宗は白村江の戦い(663)などで日本を圧迫した帝である。天智年間に二度、中国へ遣使しているが、それは敗戦処理交渉のためと思われる。
 天智天皇八年(669)に、「この年…大唐は郭務悰等二千余人を遣した。」という記述があり、十年(671)十一月十日には、「使者の郭務悰等六百人と送使、沙宅孫登等一千四百人、合わせて二千人が四十七隻の船で比知島まで来ているが、数が多く、驚かすといけないので、先に通知する。」という予告を受け取った。連絡役は、沙門道久、筑紫君薩野馬(白村江の戦い時の捕虜)等の四人で、唐から来たと記されているから、ほぼ二年近くをかけて日本の目前まで来たようである(天智紀)。この大人数を饗応しなければならず、嫌がらせと言うしかない。それ以前に病を発していた天智天皇は、翌月の十二月三日に崩じる。他意はないと言われても、いつでも軍事侵攻が可能であることを示された。この使者が衝撃を与えたことは明らかである。天武天皇元年(672)といっても、これは大友皇子の近江朝の対応だが、三月十八日に筑紫へ使者を派遣し郭務悰に天皇の喪を伝えたとされ、五月十二日、この一行に絁(ふとぎぬ)一千六百七十三匹(なんと二十キロメートル以上)、布二千八百五十二端(十七キロメートル以上)、綿六百六十六斤(百四十八キログラムほど)を与えている(天武紀)。その前年、新羅王に与えたものは、絹五十匹、絁五十匹、綿一千斤、韋(なめし革)百枚となっていて、桁外れの数量だとわかる。二千人は事実なのだ (単純計算すると、絁は一人あたり0.8匹、布は1.4端)。最低でも三月から五月までの二ヶ月間、筑紫で宿舎や食事などを提供したと思われるが、実際は半年近かったのではないか。負担に苦しんだであろう。
 天武紀には、新羅、高麗、耽羅との交流は盛んに記されているが、唐との交流の記述はない。高宗は新羅を保護し、百済を滅ぼした(660)。白村江の戦い(663)のあと、日本に使者を派遣するたびに様々な圧力を加えていたようである。668年には高句麗が滅ぼされ、最終的には唐がこちらへ向かってくるかもしれないという恐怖におびやかされていた。高宗の称号「天皇」をありがたがって模倣するような心理、環境ではなかったはずである。枕草子も「唐土の帝、この国の帝を、いかで謀りてこの国討ちとらんとて、つねにこころみごとをし云々」と記すくらいで、平安時代にまで尾を引くほどの恐怖であった。歴史書にはこんなことは一切書かれていないが、物語の形をとって伝承されていたのである。
 天武天皇は四年(675)に高安城を視察したり、諸王以下、初位以上のものは各人で兵器を備えるよう発令したりしている。五年(676)には京、畿内で、その命令が守られているかどうかを査察した。八年(679)、初めて竜田山、大坂山に関を置き、難波に羅城を築く。十二年(683)、諸国に詔して陣法を習わせた。十三年(684)、「政治の要は軍事である。文武官の諸人も兵器を用い、騎乗を習え。準備や訓練の足りない者は処罰する」というような詔を出した。この年、八色の姓制定。十四年(685)、前年の訓令が守られているかどうか、京、畿内の武器を査察した。周防に鉄一万斤、筑紫に鉄一万斤と箭竹二千連を送る。徹底かつ真剣に推進されたようにみえるこの戦いへの備えは何のためかという分析はなされていないようだが、西方からの侵入に備える形である。十三年二月には、複数の都を作ろうとし、信濃の地形を視察させてもいる。閏四月にはその報告というか、信濃の地図が提出され、十四年十月には信濃に行宮を作らせた。「束間の湯に行こうと思われたのか。」と紀はいうが、温泉詣でていどに地形視察、地図は大仰すぎる。避難所として考えたのであろう。天武天皇は崩じるまで唐に対する警戒を解いていない。
 高宗が崩じ、則天武后の世になっていることが伝わったのか、その恐怖感の薄れた文武天皇の大宝元年(701)に至るまで遣唐使関係の記述はない。天智天皇が大和防衛のために築いた高安城が廃止されたのもこの年である(続日本紀)。もう不要だと判断されたようである。
 天武朝説はこういう時代背景を見落としている。恐るべき、憎むべき敵であった高宗の模倣は考え難いのである。天武元年(672)五月三十日に郭務悰等は帰途についた。二千人が半年も日本にいれば様々なことを調べ上げられるであろう。威嚇と日本侵攻に備える偵察が任務だったのかもしれない。この一行が帰国し、朝廷に報告するのは一、二年後だから、高宗が天皇を称した上元元年(674)にぴったり一致する。むしろ高宗が日本の天皇位を知り、自らの道教信仰に火が付いて、皇帝より上と感じ、元々、中国の称号だということで改めたのではないのか。偶然の一致の可能性は少ないと思える。高宗の死後、それは受け継がれていない。
 他にも通説化している天武朝説を否定する資料、否定されつつある推古朝説を支持する資料があるので、以下、解説する。

4、天武朝説を否定する資料(船氏王後首の墓誌)

  船氏王後首の墓誌銘に天皇という表記が含まれ、天武朝説否定の資料の一つとして挙げられている。大阪府柏原市の松岳山古墳付近から発掘され、発見年代や経緯は不明だが、明治初期までは古市の西淋寺に所蔵されていたという。重要文化財と覚えていたのだが、今は国宝に格上げされたらしい。短冊形の鍍金銅板に次のように刻されている。

「惟舩氏故王後首者是舩氏中租王智仁首児那沛故首之子也生於乎娑陁宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲勅賜官位大仁品為第三殞亡於阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之宝地也」

【これ船氏の故、王後首は船氏の中祖、王智仁首の子の那沛故首の子である。敏達天皇の世に生まれ、推古天皇の朝に仕え奉りて舒明天皇の朝に至る。天皇はその才が異なるのを知り、仕えて勲功のあるのを正しく見極めて、官位の大仁を賜い、品は第三となした。舒明天皇の末、辛丑の年(641)の十二月三日庚寅に亡くなった。戊辰年(668)の十二月、松岳山の上に、妻の安理故の刀自と共に同墓にして葬り、その大兄の刀羅古首の墓は並べて墓を作った。即ち、安保万代の霊基、牢固永劫の宝地となすものである。】

 墓誌だから、墓の主の名と、誕生、就職、死亡という経歴、墓を作るに至った経緯が記されている。現在は元号で表わすが、当時は……天皇何年という表記法である。敏達天皇の後、用明天皇二年、崇峻天皇五年の在位がはさまるが、その頃、王後首はまだ子供だった。推古天皇の朝に至って初めて官途に就いている。死亡時までそれが続いていただろう。大仁や第三品は最終的な地位、死亡時のものであるから、舒明天皇が授けたと思われる。敏達天皇の何年に生まれたかがわからないので、死亡時の年齢は五十六歳から六十九歳までの幅がある。この墓誌は、おそらく王後首の子息が作らせたもので、父の死から二十七年後に母の死が訪れ、陵墓を考えるにあたって、父を母と同墓に改葬し、伯父の刀羅古首も改葬して墓を並べようと思いついたのである。安保万代の霊基、牢固永劫の宝地という言葉からは、それまでのものよりかなり立派に改葬したことがうかがえる。
 王後首と安理故の刀自の共同墓が作られた戊辰年に該当するのは天智天皇七年(668)で、墓誌だけを後から納めたと主張することもできるが、そこには何の拠りどころもない。死後二十七年もたった人の墓誌である。長期間放置したとは考え難く、改葬を決めた時から準備し、改葬時の儀式の一環として納めたとみるのが妥当である。そうすれば天智天皇七年にすでに天皇と記されていることになり、天武朝説(672~686)は崩れる。天武朝説にしたがえば、高宗が天皇を称した674年以降に日本も天皇を称したと解さねばならないから、668年に墓を作ってから、最低でも六年以上放置したのちに、あらためて墓誌を作って納めたと扱うことになる。持統天皇三年(689)の飛鳥浄御原令で天皇位を正式決定したとするなら、二十一年以上の放置になって、ますます受け入れがたい。古代用語のすべてが判明しているわけでもないのに、使用用語が天智朝に合わないというような主張は無意味である。文献上の初出はその時代に確実に存在したことを教えてくれるが、それ以前の時代に存在しなかったことを保証するものではない。逆に、この天智朝の考古学資料、王後首の墓誌に使用されている用語、文字はすべてその時代に使用されていたという証拠材料にできるのである。
 後代に編纂され、転写により受け継がれてきた史書の類より、その時代を写した金石文の方が、よほど信頼性が高い。たとえば、稲荷山古墳出土の鉄剣銘文が読み取られるまで、雄略天皇(ワカタケル大王)の名はワカタケだと思われていたし、すでに万葉仮名的に漢字が使用されていて、万葉仮名の使用開始時期は万葉時代をはるかに遡ると明らかになったのである。
 次の戊辰年は六十年後の神亀五年で、天皇は、天武、持統、文武、元明、元正、聖武と代替わりしている。船氏一族にしても、ひ孫かその次以下の世代で、八十七年も前に死亡した王後首や、その大兄の刀羅古首を直接知るものはいないだろう。人物に対する関心そのものが薄れていて、もっと身近な親族とその墓はたくさんあるだろうに、遠い特定の夫婦を改葬して同じ墓に入れたい、その兄の墓を並べたいという心理になる動機を見いだせない。二人の間に生まれた息子、伯父を敬愛した甥以外の誰がそれを考えるだろうか。欽明天皇の夫人であった堅鹽姫を欽明天皇陵に改葬したのも二人の娘の推古天皇である(推古紀)。
 以上のような理由から、戊辰年は天智天皇七年(668)と解するしかない。この年すでに天皇は存在したのである。
王後首墓誌関連リンク「弥生の興亡3,帰化人の真実2、文氏・王仁の正体と船氏」

5、推古天皇と大王のズレ

 推古二十年(612)正月七日に、宮中で大宴会が行われ、大臣、蘇我馬子が次のようなお祝いの歌を捧げた(推古紀)。

「やすみしし、我が大王(古音「おほきみ」)の、隠ります、天の八十陰、出で立たす、御空を見れば、万代に、斯くしもがも、千代にも、斯くしもがも、かしこみて、仕へまつらむ、おろがみて、仕へまつらむ、歌づきまつる」

 岩波古典文学大系などは、「我が大君の入られる広大な御殿、出で立たれる御殿を見ると、実に立派である。千代、万代に、こういう有様であって欲しい。そうすれば、その御殿に畏み、拝みながらお仕えしよう。今、私は慶祝の歌を献上します。」と現代語訳している。
 「天の八十陰」や「御空」を「りっぱな御殿」と意訳できるのか、はなはだ疑問である。先学の解釈は尊重しなければならないが、批判精神は必要だ。盲従は研究ということばに値しない。ここは明らかな間違いで、「天の八十陰」とは雲のことである。額田部氏等の祖神に天御影神がみられるが、これも雲の神だ。御殿の神だとでも言うのだろうか。御空に出で立たして、雲である天の八十陰に隠れる。つまり、大王を太陽にたとえている。太陽だから、万代や千代という永遠の観念が引き出せるのである。御殿は老朽化し、いつか建て替えが必要になる。永遠とは結びつかない。天皇は天照大神という太陽神の子孫とされているし、応神記にも「ホムタの日の御子、大雀」という吉野の国主の歌がある。万葉集には「八隅知之、吾大王、髙照、日乃皇子(やすみしし、我が大王、髙照らす日の皇子)」とあり、天皇を太陽に結び付けるのは当時の常識で、その場にいたものにはわかりきったことであった。これは比喩というものを理解できずに生じた誤解である。おそらく、日中、青空と雲の見える場所で酒宴が行われたのであろう。蘇我馬子が機知に富んだ歌を献じているのに、この解釈はちょっと気の毒である。
 したがって、歌は、「(太陽である)我が大王がお隠れになる空の雲や、出てこられる御空を見ますれば、万代にわたってこのように、千代にもわたってこのように、恐れ多くも仕えさせていただきましょう。拝みながら仕えさせていただきましょう。歌を献上いたします。」という意味になる。
 推古天皇がこれにこたえて言った。「曰く」としか書いていないが、言葉のリズムをみると、たぶん歌ったのであろう。

「真蘇我よ、蘇我の子らは、馬ならば、日向の駒、太刀ならば、呉の真さひ、うべしかも、蘇我の子らを、おほきみ(大王)の使はすらしき」

【蘇我の首長よ、蘇我の子らは、馬にたとえれば、すぐれた日向の馬、太刀にたとえれば、中国製のするどい刀、もっともなことであるよ、蘇我の子らを大王がお使いになるのは。】

 という意味になる。人により言葉は違うが、内容的にはこういう解釈にしかならない。しかし、文意がおかしいではないか。蘇我の子らを使うのは自分自身であろうに。「大王がお使いになるのはうなずける」なんて人ごとのような、自分が大王ではないかのような物言いである。
 原文をみれば、「天皇和曰」になっている。「こたえてのたまわく。」と読んでいるが、「天皇は和してのたまわった。」のではないのか。漢和辞典をひもとけば、和の意味は、「やわらぐ、したがう、かなう、むつぶ、むつまし、あわす、あう、あらそわず、わぼく、なかなおり、あたたか、のどか、おだやか、調合す、まぜあわす」などである。(「大字典」講談社)
 天皇は蘇我馬子の歌に返答したのではなく、唱和したのである。矢印で方向を示せば、答えるは → ← という形だが、和す(あわせる)は ← ← である。蘇我馬子が大王に永遠の忠誠を誓い、推古天皇が「大王が蘇我の一族をお使いになるのはもっともだ。」と馬子を誉めた。そして、二人のかたわらに大王がいるという構図が現れる。その大王は誰かとなると、推古天皇が政治のすべてをまかせたとされる聖徳太子(厩戸豊聡耳皇子)しかありえない。
 この歌は、日本書紀、推古元年の「厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子とする。」という記述とは明らかに矛盾する。つまり、太子というのは実情を知らない後世の誤解またはねつ造で、聖徳太子は大王だったのである。では、推古天皇はなんだ?天皇だったのであろう。
 政治には関与しないが、国家主権者としての推古天皇を遇するため、この時代にあらたに天皇位を設けたと推定できるのである。
隋書俀国伝に次の記述がある(俀となっているが、後漢書の倭奴国が隋書では俀奴国と記されており、倭の異体字と考える。倭人字磚の倭に少し似ている)

 「開皇二十年(600)、俀王、姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕…王妻號雞彌…名太子為利歌彌多弗利」

【開皇二十年(=推古八年)、倭王、姓アバ。字タリシホコ。号アハケミが使者を派遣し宮城に詣でた。…王の妻はケミと号する。…太子を名づけてリカミタフリとなす。】

 聖徳太子が大王だったなら、この妻を持つ倭王は聖徳太子ということになり、中国の史書と整合してなんの問題もないことになる。アハケミはオホキミの聞き取り誤差で、姓名はアマタラシヒコの聞き取り誤差である。翰苑は号の阿輩雞彌を「天児の称」と書いているが、誤解である。通訳を介してやりとりする際、行き違いが生じたらしい。アマタラシヒコが「天の血を引く男」の意味で、天児と中国語訳できる。阿輩雞彌をアメキミと読む人もいるが、天を表わすアメ(アマ)は阿毎と記されていて異なる。翰苑を元にこれが天児だと言いたいのかもしれないが、アメキミなら天君そのものであって、天児(天の子)にはならない。タラシヒコをタリシホコと聞いているから、太子のリ音もラ音に改めて、日本ではラカミタフラというような音だと考えれば良いのではないか。
 この遣使は日本書紀には記されていないが、次の、隋、煬帝の大業三年(607=推古十五年)の遣使は両書が一致している。その親書に「日出ずるところの天子、書を日没する所の天子に致す。恙無きや」と書いてあって、これを見た煬帝は「喜ばず」と隋書はいう。「恙無きや」は、「元気ですか」とか「お変わりありませんか」という意味である。これは面識のない相手に使う言葉ではない。以前から知りあっていたわけで、開皇二十年の隋、高祖文帝に対する遣使は事実と考えて良い。隋が代替わりしていることを知らず(煬帝の三年目)、文帝にあてた親書と解せばつじつまが合う。
 紀では607(推古十五年)、608(推古十六年)、614(推古二十二年)、630(舒明二年)という遣使であるが、中国側は隋書の600(開皇二十年、俀国伝)、607(大業三年、俀国伝)、610(大業六年、煬帝紀)、旧唐書の631(貞観五年)という遣使である。630年の遣使は八月に出発しているので、翌631年に中国の都に着いたと解せられる。
 隋書俀国伝では大業四年(608)に裴世清を倭国に派遣し、その帰国を送ってまた使者が来て方物を献じたが(何年か記していない。煬帝紀の610と考えればつじつまが合う。)、「後、遂に絶える。」となっていて、614年の遣使はあり得ないはずである。俀国伝の日本側の遣使に七年の差があるのは紀と共通しており、紀が前の遣使を後ろに持っていったのではないかと思われる。
 「恙無きや」の理由が説明できるし、文帝が使者とやりとりする際の描写を考えると、隋書の600年と607年、610年の遣使が正しいと言わざるを得ない。そして、この使者を派遣したのは太子ではなく、妻を持つ阿輩雞彌(大王)、アマタラシ彦なのである。これは使者が告げた言葉だから間違いない。聖徳太子は用明天皇の子だが、新唐書は「次、用明、また目多利思比孤という。隋の開皇末にあたる。初めて中国と通ず。」と記し、同一視して天皇扱いしている。
 裴世清は608年に渡来し、俀国伝には帰国年が記されていないが、煬帝紀にある610年の帰国である。一年ほどの滞在になるようだが、王と面会し言葉をやりとりしたあと引き下がって、「館に就く」と記されているから、その間、教習所のような建物が設けられていて、大国維新之化を日本に伝授していたらしい。
  原文を訳すと、「その王は清と相まみえて大いに喜んで言った。『私は海西に大隋礼儀の国があると聞き、派遣して朝貢した。私は野蛮人で海の隅に片寄って住み、礼儀を聞いたことがない。そのため境内にとどまり、すぐに相まみえることをしなかったが、今、道を清め館を飾って大使を待っていた。願わくは大国維新の化を聞かん。』清は答えて言った。『皇帝は、徳は天地に並び、その恵みは四海に流れる。王が化を慕うので私を派遣し、やって来てここに宣し論ずるのです。』すでにして、清は引きさがり、館に就いた。その後、清は人を遣わしその王に言った。『朝命はすでに達成した。すぐに帰国する用意をしていただきたい。』そこで、饗宴の席が設けられ、清を送り返し、使者を清に伴わせて方物を貢いだ。この後、遂に絶えた。」ということになる。
 館に就き、煬帝の命令(朝命)を宣論して完遂した「その後」まで、実際は一年くらい経っているのである。聖徳太子に会ったのは最初の一度だけかもしれない。
 日本書紀は、隋書を読み、かなり改変して利用しているようにみえる。隋書では国書と留学僧を送ったのは607年だが、紀では、608年になっていて、その挨拶文も「東の天皇、敬しみて西の皇帝に申し上げる。」になっている。これは「日出ずるところの天子、日没する所の天子に書を致す。」をもっともらしく書き直した後世の作文と思われる。したがって、残念ながら、この文をもって推古朝の天皇号の証拠とすることはできない。
 裴世清に関しても、紀では、608年の八月に渡来し、九月に帰国というあわただしさである。「大国維新の化」を教える時間はない。隋の使者なのに、唐の客。文林郎という地位なのに、鴻臚寺の掌客などと書いてあり、編纂時に創作と言って良いほどの改変をうけている。
 伊与国風土記逸文もまた聖徳太子が大王であることを示唆する。聖徳太子が高麗僧?の恵総や葛城臣等を引き連れて道後温泉を訪れ、温泉の岡の傍らに碑文を立てたことを記しているが、その道後温泉碑文は、「法興六年十月、歳は丙辰に在り(推古四年、596)。我が法王大王は恵総法師及び葛城臣と伊予の村に逍遙(あそ)び、…」となっていて、聖徳太子を法王大王と呼んでいる。現存しないが、これは聖徳太子とほぼ同時代の資料である。法興は法興寺に関連する紀年と思われるが、崇峻四年が元年ということになり、理由は明らかでない。日本書紀の、推古四年に完成したという法興寺関係の記述に誤りがあるのかもしれない。年号自体が日本書紀から消されてしまっている。(もはや聖徳太子と書くべきではないのだが、人物を特定するために便利なので記号的に使用する)
 蘇我馬子が大王にあらためて永遠の忠誠を強調したということは、推古二十年の酒宴は、聖徳太子の大王就任式の伝承だった可能性がある、実際はずっと早く、隋書にある最初の遣使、推古八年(600=開皇二十年)以前の出来事ではなかったか。道後温泉碑文を考慮に入れてもっと絞れば、推古四年以前ということになるだろう。推古天皇の意思ははっきりしていて、推古元年に厩戸豊聡耳皇子を皇太子にしたというから、推古政権成立時から大王だったと考えて問題ないように思える。天皇という称号の成立もここに置けばよい。


6、結論

 以上から、推古朝初期、おそらく元年に、聖徳太子が大王に就任し、就任式で蘇我馬子が永遠の忠誠を誓う歌を献じた。政治は行わないが、国家の首長としての豊御食炊屋姫(推古天皇)を遇するため、中国の文献から「天皇」という言葉をさがしだし、あらたに象徴的最高位として天皇を設けた。政治権力と精神的権威に分けられたのである。聖徳太子の死後、推古天皇が政治の世界に降りてきたため、以降は天皇が国家の政治的、精神的中心になり、オオキミは心理的に格が下がって王の読みにも使われるようになった。という歴史が浮かび上がってくる。
 最初の天皇は推古天皇なのである。聖徳太子死後は大王も兼ねたから、元興寺縁起や法隆寺薬師像光背銘にある大王天皇(おほきみすめらみこと)と呼ばれていた可能性も出てくる。

7、補足

 推古天皇が天皇であり、聖徳太子は大王だったことが明らかになったことから、同時に、大王天皇(推古天皇)と東宮聖王(聖徳太子)と記す法隆寺薬師像の光背銘は後世のねつ造ということが明らかになる。
 法隆寺金堂釈迦三尊光背銘には上宮法皇とあり、道後温泉碑は聖徳太子を法王大王と記している。光背銘には法興元世一年、歳次辛巳(推古二十九年)という年号が記されていて、道後温泉碑の法興から改元されたと考えられる。まったく離れた土地の時間的にも無関係な資料の年号がねつ造で結び付くとは考えにくい。それに、光背銘の文字は法皇で、天皇に通ずる皇の字が使われている。そういう表記法があったということになり、これは本物のようである。
 天寿国繍帳には聖徳太子に関して太子、大王の二つの表記があり、推古天皇は天皇と記す。本物部分と後世の修正が入り混じっているように思われる。
 元興寺丈六仏光背銘は止與彌擧哥斯岐移比彌天皇(とよみけかしきやひめ天皇=推古天皇)と等與刀禰ゝ大王(とよとみみ大王=聖徳太子)と記す。ここまでの分析に一致し、これは間違いなく本物である。
 仏像を作り終えたのが推古十七年(609)で、銘文は同時期か、あるいは、後に入れられたことになるが、そう離れてはいないだろう。日本書紀には、推古十三年(605)に作り始めて、十四年(606)に完成と書いてあるが、五トンの銅を用いた巨大な仏像が丸一年で出来上がったことになり、疑わしい。光背銘では四年かかっていて、こちらの方が信用できる。

  最後に、最も重要な日本書紀に「大王」を「太子」と記す誤解、もしくは、ねつ造があることを改めて強調しておきたい。
 推古天皇の歌を根拠に、太子を否定することで、他の同時代の資料と整合して統一的な大きな歴史の流れが見えてくる。そして、聖徳太子がそれまでの最高権力者の尊号である大王(阿輩雞彌、オホキミ)を称していたなら、後見的立場にいた豊御食炊屋姫はどう処遇されたかという問題が出てきて、答えは自ずから現れるのである。
  日本書紀は、国の始りから天皇位が存在し、別称がオオキミ(大王)という体裁をとった。天皇とオオキミの併存状態は許容できない。聖徳「太子」はその体裁を維持するためのねつ造と言い切っておこう。この時代、国内的には、現在に近い象徴天皇制が存在したのである。聖徳太子は法王大王と記されており、死亡時に贈られた諡号は聖徳法皇と思われる。

8、問題点の整理

●聖徳太子が大王であることを示す資料
1、日本書紀、推古二十年の蘇我馬子と推古天皇の歌(これまでの解釈の根本的な誤り)。
2、隋書俀国伝、遣隋使を派遣した妻を持つ「阿輩雞彌(大王)」「アマタラシ彦」。
3、伊与国風土記逸文の記す道後温泉碑文、「法王大王」。
4、元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す元興寺丈六仏光背銘、「等與刀彌ゝ大王」。
 
●天皇号の天武朝(672~686)高宗模倣説を否定する資料
1、天智紀、天武紀にみる、天皇を称した(674)唐、高宗との根深い対立
2、船氏王後首の墓誌銘=天智朝における天皇号の存在(668)
3、元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す元興寺塔露盤銘=孝徳朝における天皇号の存在(651、孝徳天皇が露盤銘を与える)
4、元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す元興寺丈六仏光背銘
  推古十七年(609)に完成、銘文がこの時すでに入れられていたかどうかが不明であるが、「止與彌擧哥斯岐移比彌天皇」、「等與刀禰ゝ大王」と記し、その時代の呼び名を正しく伝えている。

●天皇号の推古朝成立説を支持する資料
1、聖徳太子が大王だったなら、その上位と考えられる推古天皇はどう呼ばれていたかという問題。
2、法隆寺薬師像光背銘や元興寺伽藍縁起并流紀資財帳は、推古天皇を「大王天皇」と記し、不必要な重複に見えるが、その理由を説明できる。
(=元々、大王と天皇は別で、聖徳太子の死後、推古天皇が大王を兼ねたため。)
3、元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す元興寺丈六仏光背銘の「止與彌擧哥斯岐移比彌天皇」(推古十七年完成)

参考資料

隋書俀国(倭国)伝


【推古紀二十年】
廿年春正月辛巳朔丁亥 置酒宴群卿 是日 大臣上壽歌曰 夜酒瀰志斯 和餓於朋耆瀰能 訶勾理摩須 阿摩能椰蘇河礙 異泥多々須 瀰蘇羅烏瀰禮麼 豫呂豆余珥 訶勾志茂餓茂 知余珥茂 訶勾志茂餓茂 訶之胡瀰弖 菟伽倍摩都羅武 烏呂餓瀰定弖 菟伽倍摩都羅武 宇多豆紀麻都流 天皇曰 摩蘇餓豫 蘇餓能古羅破 宇摩奈羅麼 譬武伽能古摩 多智奈羅麼 勾禮能摩差比 宇倍之訶茂 蘇餓能古羅烏 於朋枳瀰能 菟伽破須羅志枳
「二十年(612)春、正月七日。酒を置いて群卿と宴をした。この日、大臣はサカズキを奉って寿ぎに歌って言われた。『やすみしし 我が大王の 隠ります 天八十陰 出で立たす 御空を見れば 万代に 斯くしもがも 千代にも 斯くしもがも かしこみて 仕えまつらむ おろがみて 仕えまつらむ 歌献きまつる』
 天皇は和して言われた。『真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉のまさひ(真刀) 諾(うべ)しかも 蘇我の子らを 大王の 使わすらしき』

推古天皇は「大王の使わすらしき」と歌う。自分自身が使うのに「大王が使わすらしき」とは言わない。大王(おおきみ)は他者が使う敬称で、自称には使わないだろう。日本書紀研究者は、そのあたりに疑問を感じないのだろうか。蘇我馬子も「やすみしし我が大王」と歌っている。推古天皇は、政治のすべてを聖徳太子にまかせたと書いてある。日本書紀の記述自体が聖徳太子が太子ではなく、大王だったことを白状している。この歌は当時の記録をそのまま引用したのであろう。真実がわかるように、意図的に挿入したのではないか。



法隆寺金堂薬師如来像光背銘文
池邊大宮治天下天皇 大御身勞賜時 歳次丙午年 召於大王天皇太子而誓願賜 我大御病太平欲坐故将造寺藥師像作仕奉詔 然當時崩賜 造不堪者 少治田大宮治天下大王天皇東宮聖王大命受賜 而歳次丁卯年仕奉
「池辺の大宮で天下をお治めになった天皇(用明天皇)が、お身体をこわされたとき、木星が丙午(ひのえうま)に次(やど)る年(586)、大王天皇(推古天皇)と太子をお呼びになり、誓願をなされた。『私の大病が平癒してほしいと思っています。そのため寺と藥師像を造って仕え奉ります。』とのたまった。しかし、その時にお亡くなりになり、作ることができなかったので、小治田大宮で天下をお治めになった大王天皇と東宮聖王が、その大命をお受けになって、木星が丁卯に次る年(607)に仕え奉られた。」

 聖徳太子が実際に東宮(太子)だったとすれば、可能性があるのは崇峻天皇時代だけである。推古天皇と並べて太子や東宮聖王というのは事実に反しているし、文章も紋切り型である。この光背銘文は後世の作と結論できる。仏像も後世の様式だとされている。



法隆寺金堂釈迦仏光背銘文
法興元世一年歳次辛巳十二月 鬼前大后崩 明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆 干食王后仍以勞疾並著於床 時王后王子等及與諸臣深懐愁毒 共相發願 仰依三寶 當造釋像尺寸王身 蒙此願力 轉病延壽 安住世間 若是定業以背世者往登浄土 早昇妙果 二月二十一日癸酉 王后卽世 翌日法皇昇遐 癸未年三月中 如願欲造釋迦尊像幷侠侍及莊嚴具竟 乘斯微福 信道知識現在安隱 出生入死随奉三主紹隆三寶遂共彼岸普遍六道 法界含識得脱苦緣同趣菩提 使司馬鞍首止利佛師造
「法興元世一年、木星が辛巳にやどる(621)十二月、鬼前王后(聖徳太子の母)がお亡くなりになった。明くる年(622)の正月二十二日、上宮法皇が病に伏せり治癒しなかった。干食(かしわで)王后はお疲れになって並んで床につかれた。他の王后や王子たちと諸臣は大きな愁いを深くいだき、相ともに、”三宝(仏、法、僧)を仰ぎよりて釈迦像を王の体の尺寸にあわせて造りましょう。この仏像の願力をいただき、病を転じて寿命を延ばし、世間に安住させていただけますように。もし、これが定められた運命で世を去られるなら、浄土へ登り、すみやかに成仏させていただけますように。”と発願した。二月二十一日(癸酉)に王后が世を去られ、翌日に法皇がお亡くなりになった。癸未年(推古31年、623)の三月中、願のとおりに釈迦尊像と挟持、および荘厳具を作り終わった。このささやかな福に乗り、道を信じる知識(信仰活動に協力する人々)の現在を安らかにし、生を出でて死に入れば、三主(上宮法皇、干食王后、鬼前大后)に随い奉りて、三宝を盛んにさせ、遂に仏教世界を共にして六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)に広く行き渡り、存在するすべての生命が苦縁を逃れて悟りの世界へ向かえますようにと。司馬鞍首止利仏師に作らせた。」

 年号は法興元丗一年と書いてある。法興元三十一年と読む人もいるが、丗は世の一書体で、上宮聖徳法皇帝説の記す法興元世一年が正しい。歳次辛巳は推古天皇二十九年(621)にあたる。
 斑鳩町に幸前(こうぜん)という地名があり、神前という文字が「こうぜん」と音読みされた結果、幸前に変化したものと思われる。古代には「かむさき」だったのではないか。ここに聖徳太子の母、穴穂部間人皇后(用明天皇の妻)の住居に建てられたとされる中宮寺がある。この居住地名により、鬼前(かむさき)大后と呼ばれていたのであろう。天寿国繍帳によれば十二月二十一日に亡くなっている。
 銘文の内容は、亡くなった三人の成仏を願うと同時に、自分たちの生の平安と、死後の成仏を願っている。仏像を作らせた王后、王子等と諸臣の心が現れていて、この文に直接関与していたことは明らかである。同時代のものと考えて問題ない。 したがって聖徳太子の称号、「法皇」も当時の呼び名ということになる。天皇と同じ「皇」が使われている。




天寿国繍帳(上宮聖徳法皇帝説)】
斯歸斯麻宮治天下天皇 名阿米久爾意斯波留支比里爾波乃彌己等 娶巷奇大臣名伊奈米足尼女 名吉多斯比彌乃彌己等為大后 生名多至波奈等已比乃彌己等 妹名等已彌居加斯支移比彌乃彌己等 復娶大后弟名乎阿尼乃彌己等為后 生名孔部間人公主 斯歸斯麻天皇之子 名蕤奈久羅乃布等多麻斯支乃彌己等 娶庶妹名等已彌居加斯支移比彌乃彌己等為大后 坐乎沙多宮治天下 生名尾治王 多至波奈等已比乃彌己等 娶庶妹名孔部間人公主為大后 坐瀆邊宮治天下 生名等已刀彌彌乃彌己等 娶尾張大王之女 名多至波奈大郎女為后 歳在辛巳十二月廿一日癸酉日入 孔部間人母王崩 明年二月廿二日甲戌夜半太子崩 于時多至波奈大郎女悲哀嘆息白畏天之 雖恐懐心難止 使我大王與母王如期從遊痛酷無比 我大王所告 世間虚假唯佛是眞 玩味其法 謂我大王應生於天壽國之中 而彼國之形眼所叵看 悕因圖像欲觀大王往生之狀 天皇聞之 悽然一告白 有一我子所啓誠以為然 勅諸采女等 造繡帷二張 畫者 東漢末賢 高麗加西溢 又漢奴加己利 令者 椋部秦久麻 右在法隆寺繡帳二張 縫著龜背上文字者也
「磯城島宮で天下をお治めになった天皇(欽明天皇)、名はアメクニオシハルキヒロニハの命は、蘇我大臣、名は稲目宿祢の娘、名はキタシヒメの命を娶り大后となし、名はタチバナトヨヒの命、妹の名はトヨミケカシキヤヒメの命を生んだ。また大后の妹、名はオアネの命を娶り后と為し、名はアナホベハシヒト公主を生んだ。磯城島天皇の子、名はヌナクラノフトタマシキの命(敏達天皇)は、庶妹の名はトヨミケカシキヤヒメの命を娶り大后と為し、譯語宮に坐して天下を治めた。名は尾治王を生む。タチバナトヨヒの命(用明天皇)は、庶妹の名はアナホベハシヒト公主を娶って大后と為し、池辺宮に坐して天下をお治めになり、名はトヨトミミの命を生んだ。尾治大王の娘、名はタチバナオオイラツメを娶り后と為した。木星が辛巳にある(621)十二月二十一日癸酉の日の入り、アナホベハシヒト母王が崩じた。明くる年の二月二十二日甲戌の夜半、太子が崩じた。時に、タチバナオオイラツメは悲しみ歎いて、おそれ多き天子に申し上げた。”恐くはありますが、思う心は止めようがありません。我が大王は、母王と約束したように付き従って逝かれてしまいました。苦しみは比べるものがありません。我が大王がおっしゃるには、世間は仮の姿で、ただ仏のみが真実だということです。その仏の法をよくよく考えれば、我が大王は天寿国の中に行きておられるということでしょう。けれどもその国の形は眼に看ることができません。その姿を描いて大王が生きておられるかたちを見たいと思うのです。”天皇はこれを聞き、いたましさでいっぱいになり、”我が子の言うことはまことにもっともです。”とおっしゃられ、諸々の采女等に命じられて、繡帷二張りを作らせた。描いたのは、東漢の末兼、高麗の加西溢、漢の奴加己利。指揮したのは椋部の秦久麻である。右は法隆寺の繡帳二張りにあり、亀の背のうえに文字を縫い付けてある。」

 聖徳太子をしのぶ、太子の妻、タチバナオオイラツメをなぐさめるために推古天皇が作らせたもの。刺繍で天寿国を描いており、四文字ずつ、百個の亀の背中に上記の銘文が刺繍されていたという。現存文字はわずかである。タチバナオオイラツメは推古天皇の孫。
 その父の尾張王、尾張大王という二つの表記が気になる。一つの文中で大王の格が落とされていることになるし、太子という文字もある。天寿国繍帳は断片しか残っておらず、鎌倉時代に補修されているという。この上宮聖徳法皇帝説が元の文をそのまま伝えているのか、どの程度の正確さを持つのかという問題があり、天皇号が使われているが、証拠としての採用は控えたい。作製に至った事情、作製者が記されており、この繍帳自体の推古朝作製を疑う理由はないであろう。




伊予国風土記逸文(釈日本紀巻十四)、道後温泉碑
……以上宮聖徳皇為一度 及侍高麗恵総僧葛城臣等也 于時立湯岡側碑文記云  法興六年十月 歳在丙辰 我法王大王 与惠忩法師及葛城臣 逍遙夷与村 正觀神井 歎世妙驗 欲敍意 聊作碑文一首 惟夫 日月照於上而不私 神井出於下無不給 万機所以妙應 百姓所以潜扇 若乃照給無偏私 何異于壽國随華臺而開合 沐神井而廖疹 詎舛于落花池而化弱 窺望山岳之巗崿 反冀子平之能往 椿樹相廕而穹窿 實想五百之張蓋 臨朝啼鳥而戯咔 何曉亂音之聒耳 丹花巻葉而映照 玉菓彌葩以垂井 經過其下可優遊 豈悟洪灌霄庭意與 才拙實慚七歩 後定君子幸無豈嗤咲也
「……上宮聖徳(法)皇を以て一度とする。お供したのは高麗の恵総(※1)僧、葛城臣等である。この時、湯岡の側に碑文を立てた。記して次のように言う
『法興六年十月、木星は丙辰にある(596、推古四年)。我が法王大王は、恵総法師及び葛城臣と伊予村を逍遙し、まさに神の井(温泉)を見て、世の不思議な現象に感嘆され、その感じたところを述べたいと想われて、とりあえず碑文一首を作られた。”思うに、日月は上に照らし片寄ることがない。神の井(温泉)は下から出て与えないということがない。政治はそれゆえうまくゆき、人々はそれゆえ安心して暮らせる。すなわち照らし与えて片寄ることがないのは、国を長続きさせ華臺に従って開き合わせることと何の違いがあるだろうか。神の井に湯浴みして病を癒すのは、花の池に落ちて、弱いものを強くすることと何の違いがあるだろうか(中国の伝承に基づく文らしい)。山岳の岩の崖を窺い望み、我が身に返って、子平(後漢の向長
※2)のように自在に行きたいと願う。椿の木が覆いあって空のようになり、まことに幾多の衣笠を張ったかのように思う。朝には啼く鳥が戯れてさえずるが、どうして乱れる音の耳にやかましいのをさとるだろうか。赤い花は葉を巻き囲んで照り映え、玉のような実は花を離れて井に垂れている。その下を通り過ぎてゆったり遊べば良い。どうして洪潅や霄庭(※3)の心を悟れるだろうか。才は拙くてまことに七歩の間に詩を作った曹植に恥ずかしい。後世の君子はなにとぞ笑わないでください。』」
(※1)恵総は百済僧。高麗僧の名は恵慈である。
(※2)後漢の向長は字子平、隠者で「五嶽名山に遊び、ついに終わるところを知らず。」とある
(※3)人名らしいが不明  温泉にたいそう感動されたというのはよくわかる。


 恵総は百済僧。国名を間違っているが、碑文そのものには恵総法師とあるのみで、高麗の文字はない。法興六年という年号から、法興一年は崇峻天皇四年(591)にあたることになる。日本書紀には、崇峻天皇元年に「始めて法興寺を作る。」、五年十月に「大法興寺の仏堂と歩廊を起つ。」という記述がある。その前年、おそらく仏教に関する何らかの決定を記念して法興という年号が設けられたのではないか。推古天皇二十八年(620)が法興三十年にあたり、それを一区切りとして、翌621年、法隆寺金堂釈迦仏光背銘文の記す法興元世に改元されたとすればつじつまが合う。大和、伊予と広範囲に関連しているから、おそらく正式年号で、日本書紀が無視しただけであろう。聖徳太子は仏教国家を目指した政治大改革にのりだしているので、こういう年号があってもおかしくない。これが日本の年号の始まりの可能性がある。次の年号は孝徳天皇の大化(645~649)と白雉(650~654)である。
 碑文は聖徳太子のことを「法王大王」と記していて、推古四年に、太子ではなく、より地位が高かったとわかる。




元興寺伽藍縁起並流記資材帳 塔露盤銘(寧楽遺文)
難波天皇之世辛亥正月五日授塔露盤銘 大和國天皇 斯歸斯麻宮治天下名阿末久爾意斯波羅岐比里爾波彌己等之(世?) 奉仕巷宜名伊那米大臣時 百濟國正明王上啓云万法之中佛法最上也 是以天皇幷大臣聞食之宣善哉則受佛法造立倭國 然天皇大臣等受報之盡 故 天皇之女佐久羅韋等由良宮治天下名等己彌居加斯夜比彌乃彌己等世 及甥名有麻移刀等刀彌々乃彌己等時 奉仕巷宜名有相明子大臣為領 及諸臣等讃云 魏々乎 善哉々々 造立佛法父天皇父大臣也 卽發菩提心 誓願十方諸佛 化度衆生 國家太平 敬造立塔廟 緣此福力 天皇臣及諸臣等 過去七世父母 廣及六道四生々々處々十方淨土 普因此願皆成佛果 以為子孫世々不忌莫絶綱紀 名建通寺 戊申 始請百濟王名昌王法師及諸佛等 改遣上釋令照律師 惠聡法師 鏤盤師將德自昧淳 寺師丈羅未大文賈古子 瓦師麻那文奴陽貴文布陵貴昔麻帝彌 令作奉者 山東漢大費直名麻高垢鬼名意等加斯費直也 書人百加博士陽古博士 丙辰年十一月既 爾時使作金人等意奴彌首名辰星也 阿沙都麻首名未沙乃也 鞍部首名加羅爾也 山西首名都鬼也 以四部首為將諸手使作奉也
「孝徳天皇の世、辛亥(651)正月五日、塔の露盤銘を授けた。
 大和国の天皇、磯城島宮で天下を治められた名はアマクニオシヒラキヒロニハ命(欽明天皇)の世、仕え奉る蘇我、名は稲目大臣の時、百済国の聖明王が『万法の中で仏法が最上です』と申し上げて言った。そこで、天皇と大臣はこれをお聞きになり『すばらしい。』と宣い、仏法を受け入れて倭国に作った。それなのに天皇、大臣等はこの報いを受けてお亡くなりになった。そのため、天皇の娘、桜井豊浦宮で天下をお治めになった名はトヨミケカシキヤヒメの命の世、及び甥、名はウマヤトトヨトミミ命の時、仕え奉る蘇我、名はウサコ?(馬子)大臣をはじめ、諸々の臣等が『高い、高い。すばらしい。すばらしい。』と讃えて言った。『仏法を造立したのは父、天皇、父、大臣である。すなわち菩提心を発して、十方の諸仏に衆生の化度、国家の太平を誓願し、つつしんで塔廟を造り建てた。この福力により、天皇、臣、及び諸臣等の過去七世の父母、広く六道四生、生々処々、十方浄土に及ぶまで、あまねくこの願により、みな仏果を成し、子孫が代々忌むことがなく、綱紀を絶つことがないように』と、建通寺と名づけた。戊申(588)、始めて百済王、名は昌王(聖明王の子)に法師及び諸仏等を要請した。あらためて、上釈令照律師の恵総法師、鏤盤師の将徳、自昧淳、寺師の丈羅未大、文賈古子 瓦師の麻那文奴、陽貴文、布陵貴、昔麻帝弥を派遣してきた。作り奉らせたのは、山東漢大費直、名は麻高垢鬼 名は意等加斯費直である。書いたのは、百加博士、陽古博士。丙辰年(596)十一月に終わる。その時、作金させた人たちは意奴弥首、名は辰星。阿沙都麻首、名は未沙乃。鞍部首、名は加羅爾。山西首、名は都鬼である。四部の首を以って將と為し、もろもろの手で作り奉らせた。」


 現存しない。露盤とは塔の屋根の頂部に置く方形の台。上に覆鉢や相輪、宝珠などが置かれる。塔の上に上がって新たに露盤銘を入れることはないだろうから、おそらく修理、交換の必要があって、作り直した時に入れたものと思われる。651年は孝徳天皇の白雉二年である。この時、天皇という言葉が存在した。
 寺を作り始めた戊辰年(588)は崇峻天皇元年。作り終わった丙辰年(596)は推古天皇四年。日本書紀も、この年、法興寺を作り終えたと記している。塔の完成で法興寺が落成したらしい。聖徳太子が道後温泉に遊んだのは落成ひと月前である。大和へ帰ってまもなく、落成式がおこなわれたであろう。最初は建通寺だったというから、崇峻四年に法興寺に改名され、法興という年号が生まれたのかもしれない。




元興寺伽藍縁起並流記資材帳 丈六光銘(寧楽遺文)
丈六光銘曰 天皇名廣庭 在斯歸斯麻宮時 百濟明王上啓 臣聞所謂佛法既是世間無上之法 天皇亦應修行 擎奉佛像經教法師 天皇詔巷哥名伊奈米大臣修行玆法 故佛法始建大倭 廣庭天皇之子多知波奈土與比天皇在夷波禮瀆邊宮 任性廣慈 信重三寶 損棄魔眼 紹興佛法 而妹公主名止與彌擧哥斯岐移比彌天皇 在揩井等由羅宮 追盛瀆邊天皇之志 亦重三寶之理 揖命瀆邊天皇之子名等與刀禰禰大王 及巷哥伊奈米大臣之子名有明子大臣 聞道諸王子 教緇素 而百濟惠聡法師 高麗惠慈法師 巷哥有大臣長子名善德為領 以建元興寺 十三年歳次乙丑四月八日戊辰 以銅二万三千斤 金七百五十九兩 敬造尺迦丈六像 銅繡二軀幷挾侍 高麗大興王方睦大倭 尊重三寶 遙以随喜黃金三百廿兩 助成大福 同心結緣 願以茲福力 登遐諸皇遍及含識 有信心不絶 面奉諸佛 共登菩提之岸 速成正覺 歳次戊辰大隨國使主鴻臚寺掌客裴世淸 使副尚書祠部主事遍光高等來奉之 明年己巳四月八日甲辰 畢竟坐於元興寺
「丈六仏の後背銘に曰く。
(欽明)天皇、名は広庭。磯城島宮におられた時、百済の(聖)明王が申し上げた。『臣はいわゆる仏法は既に世の中で最もすぐれた法と聞きました。天皇もまた修行されると良いでしょう。』と、仏像、経教法師をささげ奉った。天皇は蘇我、名は稲目大臣に詔して、この法を修行させた。それで、仏法は始めて大倭に建てられたのである。広庭天皇の子、タチバナトヨヒ(用明)天皇は磐余池辺宮におられた。ひととなりのままに広く慈しみ、厚く三宝を信じ、魔眼を破り棄て、仏法を受け継ぎ興された。妹の公主、名はトヨミケカシキヤヒメ(推古)天皇が揩井豊浦宮におられて、池辺天皇の志を引き継いで盛んにし、また三宝の理を重んじられた。池辺天皇の子、名はトヨトミミ大王、及び蘇我稲目大臣の子、名はウアコ(馬子)大臣に命じ、道を聞く諸王子に黒、白を教えさせた。そして、百済の恵総法師、高麗の恵慈法師、蘇我ウ大臣の長子、名は善德を責任者として元興寺を建てた。(推古天皇)十三年、歳次乙丑(605)四月八日戊辰、銅二万三千斤、金七百五十九両を以って、つつしんで釈迦丈六像、銅と繡の二躯、並びに挟持を造った。高句麗の大興王は、まさに大倭と親密で、三宝を尊重し、はるか離れた地から、大喜びの黄金三百二十両で、大福の完成を助け、同じ心をもって縁を結び、この福力を以って、天に昇った諸皇からあまねく衆生に及ぶまで、信心があり絶つことなく、諸佛を目の前に拝み、共に菩提の岸に登り、速やかに正しい悟りを得る事を願った。歳次戊辰(608)、大隋国の使主、鴻臚寺の掌客、裴世清、使副の尚書祠部主事、遍光高等が来て、これを拝んだ。明くる年、己巳(609)四月八日甲辰、すべてが終わって元興寺に坐す。」


 現存しない。元興寺伽藍縁起並流記資材帳の文章として残っているだけである。「元興寺を建てる」と記されているが、元興寺は平城京移転後の名である。この銘文自体を後世の作とするか。この部分が改訂されていると考えるかであるが、私は後者を採る。高句麗、大興王の黄金献上の事情が詳しいし、隋使、裴世清のほかに副使の名が記されて、どちらも日本書紀では知り得ないことである。日本書紀が丈六光銘を参照しているのではないか。

崇峻天皇元年(588)建通寺、建築開始
 四年(591)建通寺から法興寺に改名。年号を法興とする。?(法興一年)
 五年(592)法興寺の仏堂と歩廊を建てる。
推古天皇四年(596)十月、法王大王、伊予の温泉で遊ぶ(法興六年)。
 十一月、法興寺落成、蘇我馬子の子、善德を寺司にする。
 (馬子の長子、善德を領と為して元興寺を建てた。丈六光銘)
 十三年(605)釈迦の丈六像を作る。高句麗の大興王、黄金を献じる。
 十四年(604)丈六像を作り終えて、元興寺の金堂に坐せしむ。(日本書紀)
(一年で仏像を作り終えたことになり不自然)
 十七年(609)丈六像完成。元興寺(法興寺)に運び入れる。トヨトミミ大王。
  (推古天皇時代に元興寺は存在しないという矛盾。)
 二十八年(620)(法興三十年)
 二十九年(621)鬼前大后、死去(法興元世一年)
 三十年(622)上宮法皇、死去
   ( ?)天寿国繍帳作製
 三十一年(623)法隆寺金堂釈迦像を作る(上宮法皇)
孝徳天皇、白雉二年(651)塔露盤銘を授けた。
          :
元正天皇、養老二年(718)平城京に移転し元興寺となる。
       養老四年(720)日本書紀完成

 丈六光銘は寺に据えられた609年以降の作製ということになる。仮に丈六光銘が元興寺時代(718~)のものだとしても、日本書紀以降(720~)なら、トヨトミミ太子と書かれるはずである。それ以前の719年以前は、トヨトミミ大王と呼ばれていたことになるし、推古天皇の称号はどうなるという問題が出るのは変わらない。これを後世の作で、天皇号の使用の証拠にはならないと主張しても、トヨトミミ大王で、トヨミケカシキヤヒメ大王は成り立つのか。すべてを捏造と言うしかないであろう。