帰化人 漢氏と文氏

弥生の興亡、3

帰化人の真実、2

 二、文・漢氏
   1、漢氏と文氏
   2、文氏・王仁の正体と船氏
   3、天御影神と額田部氏
   4、文、漢氏の移住の背景
   5、朝鮮半島の文、漢氏
   6、新羅と邪馬壱国の交渉
   7、文・漢氏の年表
  三、魏志倭人伝の官名の再検討



二、文・漢氏

1、漢氏と文氏

 最後の渡来人は、漢氏、文氏(越人)で、最も近い時代に渡来したという意味から、「今来」の漢人と呼ばれています。漢氏は今来だけです。秦氏(楚)は新たに来た人という意味で、アラ来、サラ来とされたようで、河内の讃良(サララ)や信濃の更級(サラシナ)、大和葛城の蛇穴(サラギ)などは秦系の地名と考えられます。最も古い韓人(呉)はフル来、モト来かもしれません。文・漢氏の渡来は、次のように表されています。
 応神紀
「15年●百済王が阿直伎を派遣し、良馬二匹を奉ったので、阿直伎を管理者として、軽の坂上の厩で飼わせた。
●阿直伎は経典を読むのに習熟しており、太子の菟道稚郎子の教育係とした。
●阿直伎に、汝より優れた博士がいるかと尋ねると、王仁という人物がいると教えた。そこで、上毛野君の祖、荒田別、巫別を百済へ派遣して、王仁を迎えた。阿直伎は阿直岐史の始祖である。
 16年2月、王仁が渡来したので、皇太子の教育係とした。これが書首(ふみのおびと)等の始祖である。
 20年、倭漢直の祖、阿知使主とその子、都加使主が、党類十七県を率いて渡来した。」

 百済からの渡来人、阿直伎の居住した軽の坂上は高市郡にあり、軽は孝元天皇の都が置かれたとされる土地で、孝元天皇とは卑弥呼を補佐したという男弟です。そして、阿直伎(アチキ)が王仁を紹介するという親密な関係を持っています。つまり、これは全て邪馬壱国の一族の表現です。
 漢氏の本拠地は高市郡(=古くは今来郡)の桧隈で、宝亀三年(772)四月庚午(二十日)、漢氏の坂上刈田麻呂がこう奏上しています(続日本紀)
「先祖、阿智使主は、応神天皇の御世に十七県の人夫を率いて帰化し、高市郡の桧隈村を賜って住んでいました。およそ、高市郡内は桧隈忌寸及び十七県の人夫が地に満ちて住み、他姓の者は十のうち一、二でした。」
 「記、紀」の記述を信じて、漢氏を応神朝の帰化人とするなら、古代王権の中枢部、高市郡(*/現橿原市、明日香村、高取町)の居住者の十中八、九が漢人とされるのは合点のいかないことです。しかし、邪馬壱国を漢(新)から渡来した越人、文・漢氏の国と解せば、このことも全く問題にならず、かえって、当然と言えるのです。
 既に述べたように、「記、紀」は、政治的要請に従い歴史を再構築した書です。帰化人に関する記述の全てを真実と扱えば歴史が見えなくなります。文、漢氏の渡来が応神・仁徳朝に置かれるのも、神功皇后を卑弥呼に擬したことから派生するもので、漢氏が高市郡に定住したのは、卑弥呼の一世代後と扱われているわけです。神功皇后が新羅、百済を属国にしており、朝鮮半島から人が移住しやすい状況が生まれていました。それに、軽宮の孝元天皇は卑弥呼の男弟ですから、文、漢氏の渡来は神功皇后の次代に置けばいいだろう。そういう、当時の歴史家の思考がみえます。以下、姓氏録から文・漢氏を分析します。

 「新撰姓氏録 右京諸蕃上」
    坂上大宿禰……後漢霊帝男延王より出ずるなり。(漢氏)
    文忌寸…………坂上大宿禰同祖 都賀直の後なり。(文氏)

 漢氏の祖、都加使主と文忌寸の祖、都賀直は同一人物なので(*/雄略朝に使主を改めて直姓になったという・新撰姓氏録逸文)、坂上氏と文氏は、ここに記されている通りの同族です。王仁は書首(文首)の祖とされ、阿知使主、都加使主は漢人の祖とされて、別の氏族のように扱われていますが、実際には、文氏、漢氏はごく近い親戚なのです。また、阿直伎と坂上の厩が結び付いていますから、阿直伎と坂上氏も同族ということになり、阿直岐は漢人の祖、阿智使主の別名とすることができます。
 そして、文・漢氏は文字を知っていました。これも重要で、魏志倭人伝からその可能性を指摘できましたが、邪馬壱国の一族が文字を伝えたことを明らかにしています。
 「記、紀」は、神功皇后を卑弥呼とみなしており、皇后が北九州から畿内に向かい、忍熊王を破って天下を統治するに到るまでの戦乱を倭国大乱に当てはめました。坂上氏は、「桓霊の間、倭国大乱」という後漢書を参考にしたようで、霊帝から出たという姓氏録の主張が真実のはずはありませんが、そうしておけば、渡来時期は大乱の少し後に置かれることになりますから、「記、紀」の応神朝の渡来とうまく結び付くのです。

  

 古代の歴史家は、当時の第一級の知識人です。それなりに理屈っぽく、論理的と言って良いかどうかわかりませんが、その論理を見つけてやれば、謎を解きほぐすことができます。
 姓氏録逸文(坂上系図)には次のような漢氏の祖先伝承が見られます。

 姓氏録第廿三巻曰く 阿智王
「誉田(応神)天皇の御世、本国の乱を避け、母並び妻子、母弟迁興徳、七姓漢人等を率いて帰化。
 七姓第一は段。これは高向村主、高向史、高向調使、評首、民使主首等の祖なり。
   次、李姓。これ刑部史の祖なり。
   次、皂郭姓。これは坂合部首、佐大首等の祖なり。
   次、朱姓。これは小市(をち)、佐奈宜等の祖なり。
   次、多姓。これは桧前調使等の祖なり。
   次、皂姓。これは大和国宇太郡、佐波多村主、長幡部等の祖なり。
   次、高姓。これは桧前村主の祖なり。
…阿智王を号して使主となす。大和国桧前郡郷を賜い、ここに居住した。…阿智使主は奏して言う。『臣が入朝の時、本郷の人民は去って離散し、いま、高麗、百済、新羅等の国にあまねく住んでいます。使者を派遣して呼び寄せていただきたいのです。』天皇は使者を遣して、これを呼び、仁徳天皇の時代に、こぞってやって来た。今、高向村主、西波多村主、平方村主、石村村主、飽波村主、危寸村主、長野村主、俾加村主、茅沼山村主、高宮村主、大石村主、飛鳥村主、西大友村主、長田村主、錦部村主、田村村主、忍海村主、佐味村主、桑原村主、白鳥村主、額田村主、牟佐村主、甲賀村主、鞍作村主、播磨村主、漢人村主、今来村主、石寸村主、金作村主、尾張吹角村主等はその後である。……今来郡を建て、後、改めて高市郡と号した。人が多いのに居住地は狭く、更に分けて国に置いた。摂津、三河、近江、播磨、阿波等の漢人村主がこれである。」

 ここでは、阿智王は本国の戦乱を避け、一族と共に日本に渡来したと唱え、母の弟(叔父)の姓は迁(セン)だとしています。史記趙世家に、「世本いわく、越芊姓なり。楚と同祖是なり。」と注されており、確かに越にもセン姓があって、これは本当のようです。越と楚は親戚筋の苗系民族なのです。ただ、日本に渡来した楚人は堂谿氏が首長となっていて、呉と同祖(姫姓)になります。
 阿智王自身の姓は記されていませんが、阿智は阿千と同音です。楚人の後裔、タイ族は雲南ではセン、セム、サム、シェム、シャンなどと呼ばれており(「雲南」)、日本ではシャムとなります。見比べると、これが千の転訛であることは一目瞭然ですし、高句麗王も同一人物が朱蒙、鄒牟、衆解と表されていました。
 以上から、越王は、騶(スウ)とも千(セン)とも朱(シュ)とも聞こえるシゥームというような音で表されていたと考えればいいようです。

 

 ●阿直伎(漢人の祖=越人=騶姓)は坂上の厩で「馬飼い」となっている。
 ●タイ国はタイであり、サヤーム(シャム)である。こちらは楚の芊姓。/日本ではチとセンになる。
 ●チは「ちいさい」のち、「ちび」のち。

2、文氏・王仁の正体と船氏

 同じ姓氏録逸文(坂上系図)の記述から、以下のような漢人の系譜が作成できます。

 

 阿知使主の子、都賀使主から家系が三つに別れ、そのうちの弟腹に文という文字が集中しています。これが王仁を始祖とする文氏です。兄腹組は全て文部になっているので、弟腹組の下位氏族と考えられます。王仁が中腹組の漢人の祖、阿直伎に推挙され、遅れて渡来したとされるのは、弟腹であることを示すためかもしれません。

延暦十年(791)四月戊戌(八日)、文忌寸や武生連などが奏上します。
「文忌寸等には、もと二家があり、東の文(=漢)は直と称し、西の文は首と号しました。今、東文はこぞって宿祢に昇格したのに、西文は漏れて忌寸に沈んでいるので、できれば同じ栄号を賜りたいのです。(続日本紀)」
 桓武天皇がその本系を明らかにすることを求めると、
「漢の高祖の後を鸞といい、その後の王狗が転じて百済に至りました。百済の久素(貴須)王の時、聖朝(日本)が使を派遣して文人を召したので、久素王は狗の孫、王仁を献じました。これが文、武生等の祖です。」と答えて、文宿祢を授けられています。

 王仁を祖とする文首から文忌寸、文宿祢へと転じたのです。どちらも坂上系図の弟腹に含まれています。文氏と漢氏が同族であることは、坂上系図や、漢に出自を置くこの文氏の奏上から明らかです。漢から百済に至り、さらに日本に渡来したことが述べられていますし、祖先の名は「王狗」として、狗トーテム、ヤオ族であることも同時に示唆しています。
 雄略紀十三年、播磨国御井隅の人、文石(あやし)小麻呂が略奪を働くので、攻めて屋敷を焼かせたところ、白い馬ほどもある大きな狗が飛び出した。刀で斬ると文石小麻呂に姿を変えたという記述があり、文氏は石、白い狗なのです。
 実際に文氏の始祖となった王仁という人物が実在したわけではなく、トーテムの鰐です。そこで、その祖神のオオナムヂ神は鰐神であるという形になり、仏教と習合し、オオナムヂ神を祭神とする讃岐の琴平神社が、インダス川の鰐に結び付けられたりしています。実際は、長江など中国南方の鰐で、鰐のいない日本では鮫に転化しました。オオナムヂ(大国主)神とは、王仁(鰐)や鹿、狗、蛇に結び付く、崇神天皇以前の邪馬壱国の王族、和迩氏、物部氏、大伴氏、春日氏等の、つまり、文・漢氏の神なのです。
 また、続日本紀、延暦九年(790)七月辛巳(十七日)には、以下のような内容の王辰爾にまつわる百済人の渡来伝説が記されています。これは津連真道等が上表したものです。

「応神天皇時代、上毛野氏の遠祖、荒田別を百済へ派遣し有識者を捜させたので、国主の貴須王は宗族から選んで、その孫の辰孫王(一名、智宗王)を派遣し、使者と共に入朝した。天皇は喜んで皇太子の師とした。始めて書籍を伝え、儒風を広め、文教が始まったのである。……辰孫王の子が太阿郎王、その子が亥陽君、その子が午定君で、午定君は三人の男子を生み、長男は未沙、次男は辰爾、三男は麻呂といい、別れて三姓となった。葛井、船、津の連等がこれである。……家は文雅の業を伝え、一族は教育を掌る。……」

 応神天皇時代に上毛野君の祖、荒田別、巫別を百済へ派遣して、王仁を迎え皇太子の師としたという日本書紀の記述に対応しています。しかし、これを事実と考える必要はありません。王辰爾の真ん中の辰を取れば、王爾となります。ここには王仁が重なっているのです。したがって、葛井、船、津氏は文氏の一族です。文雅の業(学問)を伝え、教育職となっているのも文氏という称号そのものでしょう。文字を知っていて、船や港に関係しているということは、船の貢ぎなどを港で確認し文書で管理できるということです。

欽明紀十四年(553年)
「蘇我大臣稲目宿禰は勅を受けて、王辰爾を遣わし、船の賦を数え記録した。即ち王辰爾を以って船長と為し、因って姓を賜いて船史とした。今の船連の祖先である。」

 敏達天皇元年(572年)、高麗がカラスの羽に墨で書いた親書をよこしたが、誰も読み解くことが出来なかった。それを王辰爾が、炊飯の蒸気を当てて絹地に写し取り、みごと読み解いたという記述があり、有能で重んじられたことが記されています。

船氏、王後首の墓誌
「船氏の故王後首は船氏の中祖、王智仁首の子、那沛故首の子である。他田宮に治天下天皇(敏達天皇)の世に生れ(572~585)、豊浦宮に治天下天皇(推古天皇)の朝に仕え奉り、飛鳥宮に治天下天皇(舒明天皇)の朝に至る。……大仁の官位を賜い、第三品と為す。舒明天皇の末年(641)に逝去した。戊辰年(668)十二月、その夫人の安理故能刀自と同墓にして松岳山の上に改葬し、大兄の刀羅古首の墓に並べて作った。即ち、安保万代の霊基、牢固永劫の宝地と為すものである。」

 これは、大阪府柏原市国分の松丘山古墳付近から発見された船氏の墓誌銘で、王後首本人は既に亡くなっていますが、おそらく、その子息が記させたものでしょうから、同時代の身内のことを語っており、記、紀などより遥かに信頼できる史料です。王智仁はワチニと読むようで、王辰爾(ワシニ)に転訛しそうです。

 

 経歴を並べると、船氏王後首の祖父、王智仁と、「紀」の船連の祖、王辰爾は、ぴったりと年代を重ねることが出来ます。船氏は王智仁(王辰爾)首、那沛故首、王後首と続いたのです。王智仁、王辰爾というふうに王仁(ワニ)が重なっているのは、逆に、応神朝に渡来した王仁という学者は、この王智仁という実在の優秀な官僚のイメージとトーテムの鰐を合成して創作されたというべきでしょう。
 墓誌で、王智仁首を船氏の中祖とするのは、船氏の遠祖は遥か以前に渡来していたことを示していますし、衰えていた船氏の一族を再興した特筆すべき人物ということになります。
 欽明紀では、王辰爾は船の税を数え記録したとなっています。これは魏から贈られた財宝や文書を、「津に臨みて捜露し、女王に伝送するにあたって間違いのないようにする。」と魏志倭人伝に記された大率が投影されているようで、船と港を表す姓を持つ、船氏や津氏一族の先祖代々の役割だったのではないでしょうか。大率は国王が別に存在していた伊都国で政務を執り、北九州諸国を統括していました。おそらく、その所領は新宮町から津屋崎付近と想定した不弥国でしょう。フミは、ヤオ語で腕を意味しており(「雲南」語彙表で arm を Pu-min としている)、大和から遠く離れた九州をコントロールする、手の国という意味に受け取れます。手で書くことから、文書をフミというようになり、そして、日本に文字を伝え、大和朝廷で記録を司った一族をフミ氏にしたという順になりそうです。《注…文字の巧いことを「手が良い」と表現しますし、手紙という言葉もあります。》
  文氏、船氏、津氏、葛井(フジイ)氏の伝承は、大阪府の羽曳野市、藤井寺市に濃厚です。藤井寺は葛井氏そのものですし、藤井寺市に津堂、隣の松原市に一津屋(ヒトツヤ)という地名があって津屋崎に共通します。このあたりに津氏が展開していたのではないでしょうか。船氏の本拠地としては、松丘山に近い柏原市国分付近を想定すればいいようです。ここなら河内湖と大和を往来する水運の全てを掌握することになります。その上位氏族と考えられる西(かわちの)文氏の本拠は、羽曳野市の古市付近とされています。
 王後首の墓誌が発見された松丘山周辺は船氏一族の、代々の墳墓の地のようで、「安保万代の霊基、牢固永劫の宝地と為す。」と記していますし、三輪山(大国主神=大物主神)と箸墓を結んだ線の延長上に位置しているのも見逃せません。その地にある国分神社の祭神は大国主神と少彦名命、神系不明の飛鳥大神(河内飛鳥の神)で、飛鳥大神が船氏の祖神と考えられます。
 松丘山古墳の西方には茶臼山古墳が存在し、卑弥呼の三角縁神獣鏡が二枚出土しました。これは、墓の主が卑弥呼に鏡を下賜されるほどの有力豪族だったことを示しています。船氏の祖と扱って良いのではないでしょうか。
 阿智王(漢氏)に率いられて渡来したとされる七姓の氏族のうち、第一位の「段」姓は高向村主、高向史、高向調使、評首、民使主首等の祖とされていますが、調使、民使という姓は使者となって中国へ派遣されたことから与えられたものと推定できます。調は布地などの税を表す文字で、魏志倭人伝ではまさに魏に布地を献上しています。
 段は漢音でタン、呉音でダンという音を持ち、難はダン、ナンという音を持ちます。日本では呉音を使い、魏は漢音を使っていたとすれば、魏でダンと自称した姓に段(タン)は当てはまらず、難(ダン)の字が選ばれる可能性はあります。

 高向村主……「魏武帝太子文帝より出ずるなり。」
 高向村主……「呉国人、小君王の後なり。」
 郡(評)首…「高向村主同祖。段姓夫公(一名富等)の後なり。」
 雲梯連………「高向村主同祖、宗宝徳公の後なり。」

 姓氏録では、上記のようになっていて、高向村主(段姓)は系譜を魏に結び付けています。そして、この一族の桧隈民使博徳(雄略朝)や高向漢人玄理(推古朝)などが史書に登場し、外交官としての活躍もみられます。郡首と雲梯連が始祖の名を富等(フト)、宝徳(ホト)としていること、姓を宗(シュウ、ソウ)としていることにも注目しなければなりません。
 他、魏に系譜を連ねる氏族として、大岡忌寸(倭画師)、穴太村主、幡文造。陳思王植(魏の曹植)の後裔とする河原連、野上連、上村主、河内画師筑紫史、竺志史(竺は筑と同じ)、広階連、平松連がいます。河原連は河内国丹比郡(羽曳野市河原城)、野上連も丹比(羽曳野市野々上)、上村主も河内(柏原市)で、船氏一族の周辺の居住者です。広階連も旧姓は上村主といいます。
 つまり、魏との関連を伝える氏族は、大阪を中心に奈良(大和)、福岡(筑紫)に展開していたことになり、魏との交流に中心的役割を果たした難升米(段姓=難姓)や一大率の同族と解しても矛盾はありません。
 こういった全てを総合すると、船氏、津氏、葛井氏等の祖先は、百済から渡来したと伝える文氏(越人、ヤオ族)で、王族から分家して段姓を与えられ、九州では津屋崎町から新宮町、福岡市北部にかけての所領(不弥国)を持ち、伊都国で九州を管理、邪馬壱国の外交、海運を司ったということになりそうです。そして、安曇氏、高向氏はこの一族なのです。絵描きも多かったようで、これも筆を持つことから派生します。
 卑弥呼により、燕の公孫氏のもとへ派遣された難升米は、魏が帯方郡を支配下に置いた現実を目の当たりにして、独断で魏へ朝貢することにしました。おそらく、当時は油の乗り切った精力的な中堅官僚だったでしょう。その決断は予期以上の大成功を収め、帰国後、重んじられたことは想像に難くありません。そして、狗奴国滅亡後、その臣、河内彦の統治していた河内国分などの水上交通の要衝に進出し、国分神社付近に陵墓が築かれたのだと考えられます。大和朝廷時代になっても、外交、海運、文筆(史)というその役目が踏襲されていたようです。他、製塩にも関係したかもしれません。この地の支配者が「君宜高官」という文字の特記された鏡を与えられたのも理由のあることでした。国分茶臼山古墳の被葬者が船氏、高向氏等の祖、難升米なのです。船氏一族は文献から以下の系譜を作ることが出来ます。

 

 文氏の姓は騶(芊、シゥェーム?)なので、王仁が「論語」と、応神天皇時代には、まだ存在していなかった「千字文」を伝えたという古事記の記述も意味のあるものになります。古事記の編纂者が、「千字文」の不存在を知らなかったわけではなく、文氏が文字を伝えたこと、モン(マン)という民族であること、芊氏であることを残すため意図的に入れたと考えられるのです。

3、天御影神と額田部氏

 坂上系図では、阿智使主に率いられた氏族の中に、額田村主、平方村主の名が見え、これも漢人の素性を知る手掛かりになります。

 播磨国風土記、揖保郡
●意此川(おしかわ)「応神天皇の御世、出雲の御陰大神が枚方の里の神尾山に坐して、常に道行く人を遮り、半ばは死ぬような状態であった。…朝廷は額田部連久等々を派遣して祈らせた。屋形や酒屋を作って祭った。」
●枚方の里「河内国、茨田(まむた)郡、枚方の里の漢人が来て、始めてこの村に住み着いた。故、枚方の里という。」
●佐比岡「出雲の大神が神尾山に在して、出雲の国人が此処を通るときは、半分を留めてしまう。そこで出雲の国人が佐比(斎?)を造ってこの岡に祭ったが、うまくいかなかった。この後に、河内の国、茨田郡、枚方の郷の漢人が来て、敬い祭って、やっと鎮めることができた。」

 以上の三つの話から、揖保郡、枚方の里の神尾山に坐した出雲の御陰大神を祭った額田部連久等々とは、河内国の茨田郡、枚方の里の漢人であることが解りますし、額田村主、平方村主が漢人であるという坂上系図の記述とも一致します。
 また、姓氏録では、額田部湯坐連、額田部河田連が天津彦根命の子、天御影命の末とされていますから、御陰大神とは額田部氏の祖神です。その神を祭る資格のある額田部氏が祈ることで、ようやく御陰神は鎮まったことになります。漢人・額田部氏は阿知使主と共に百済から渡来しました。したがって、祭っている天御影神は出雲に出自を持つオオナムヂ系の神、つまり、出雲から大和へ進出した邪馬壱国系の神です。河内の枚方の里が所属する茨田(マンタ)郡という地名も、マン(蛮)でヤオ族の居住地であることを示しています。天御影神は、「近つ淡海、御上の祝の以ちいつく天御影神(開化記)。」とありますから、近江の三上山の神でもあるのです。野洲町の古冨波山古墳や大岩山古墳から出土した三角縁神獣鏡の銘文を分析しましたが、三上山はその地の神体山で、つまり、付近は卑弥呼に鏡を下賜された額田部氏系の邪馬壱国の大豪族が統治していたことが明らかになります。

天津彦根命 → 天御影命(出雲の御陰大神)→ 額田部氏(茨田郡枚方の漢人)
近江の三上山、三上祝が祀る 額田村主、平方村主(坂上系図)


4、文、漢氏の移住の背景

 漢書の「景武昭宣元成・功臣表」によれば、閩越を継いだ繇王騶居股は、東越王騶余善を斬り、東城(東成)侯となりましたが、衛太子(*)の乱に連坐して死刑となっています。子孫は九江郡に住んでいたといいますから、東成周辺を動いていないようです。《*衛太子/武帝の太子、衛皇后の子。征和二年(B・C90)、反乱を起して自害》
 開陵侯敖は、東越の建成侯でしたが、騶居股と共に余善を斬ったため二千戸の侯となりました。子孫は臨淮という淮水下流(徐州)に居住しています。姓は記されていませんから、王族と同じ騶と考えられます。東越の将軍、多軍は、漢兵が到ると軍を棄て降伏したため、無錫侯となりました。子孫は会稽にいます。これはおそらく会稽郡で、無錫にそのまま居住していたと考えて良いでしょう。
 そして、姓氏録逸文では、阿智王の配下に、「多姓。これは桧前調使等の祖なり」とあり、越に多姓があったことも間違いないようです。これは多氏との関係を想像できます。越人ではありますが、東成(前漢の楊州、九江郡/後漢の徐州、下邳国/魏の徐州、下邳郡)にしても、臨淮(徐州)にしても、長江北岸、春秋戦国時代の呉地から渡来しています。このことに由来するのか、あるいは後に使者として東晋や宋、梁などの江南の国々(三国時代の呉地)に派遣されたことから与えられたものか、呉人(くれひと)や呉勝(くれのすぐり)などとも表現されています。本来の呉人は韓人(からひと)と表記されるので区別しなければなりません。
 阿智王の渡来時期は、後漢書倭伝に、「安帝永初元年。倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、願いて見を請う。」とある紀元107年の少し以前と考えられます。
 後漢の始祖は光武帝で、この帝の末年(57)、倭の奴国が金印を授けられました。後漢書には、二代目、明帝の永平十年に、「春二月。広陵王荊、罪ありて自殺。」という記述があり、広陵は現在の揚州市の近くで、漢人(あやひと)達の居住地の近くに不穏な情勢が見られます。しかし、「十三年、五月。故広陵王荊の子、元寿を広陵侯と為す。」と、その子が降格されながらも跡を継いでいますから、大した混乱ではなかったようです。「十六年(73)夏五月。淮陽王延の謀反が発覚。…連坐者及び誅死者は甚だ多かった。秋七月。淮陽王延を移して阜陵王に封じた。」淮水と黄河の中間地域にある淮陽王の謀反が発覚し、九江郡の阜陵に転国させられています。阜陵は東成の南に位置します。三代目、章帝の建初元年(76)二月に武陵蛮、九月に雲南の永昌、哀牢夷が反乱をおこし、十一月には、阜陵王の延がまたしても謀反、阜陵侯に地位を落とされています。建初三年(78)武陵蛮がまた反乱。章和元年(87)阜陵侯、延を元の阜陵王に戻した。次の和帝の永元四年(92)、六年(94)に武陵蛮が反乱と続きますが、文、漢氏に影響しそうな淮陽王(阜陵侯)の謀反も戦乱になったわけではなく、計画が発覚して処罰されたものです。中国西南では苗系民族がたびたび激しい反乱をおこしてはいるものの、中国東南部に大きな混乱の記述は見当たりません。また、この時期の朝鮮半島にも、該当しそうな戦乱はありません。
 江淮の間に居住していた阿智王の祖先が、十七県の人民と共に、命懸けで海を渡り、本国を捨てなければならないような戦乱があったとするなら、前漢が滅び、王莽の興した新(8~23)も滅びて、光武帝が後漢を安定させるまでの混乱の時代に遡らねばならないようです。それなら、民族移動の圧力となることは十分に想像できます。
 以下は漢書王莽伝を整理したものです。
王莽は漢の外戚の一族で、幼帝の摂政となり、やがて、国を奪って「新」を建国しました。しかし、現実ばなれした儒教の教条を実行に移したため、社会不安の続いていた漢末期の政情をさらに悪化させてしまったのです。漢の印綬を回収して新の印綬を与え、各地の王を格下げしたことから、匈奴の単于は激怒し、西域諸国を従えて、さかんに新の北辺を侵すようになりました。さらに、これを押さえるために高句麗兵を徴発しようとし、高句麗侯騶を殺害したので、高句麗も東方の辺境を撹乱するようになります。雲南の句町王も侯への格下げに怒って従わず、王莽の配下に暗殺されたため、その弟が兵を挙げました。やがて益州(四川省)蛮夷も反乱をおこします。周辺諸国は王莽に反発して立ち上がり、それが拡大して、三辺ことごとく反すと表現される有様になったのです。その軍事費の増加は経済を圧迫しました。天候も不順で災害が続き、農民は困窮していたのですが、王莽はそれに対処する方策を持たず、無理な制度を作ったため、官吏が賄賂を求めるようになったり、切羽詰まって盗賊化した者が横行し、国中が騒然としていました。
 王莽は何度か貨幣制度をいじって人々を混乱させていますが、天鳳元年(紀元14年)、それまでの大小銭を廃止し、長二寸五分、広一寸という貨布や、径一寸という貨銭(貨泉)を発行しました。
 天鳳四年(17)、臨淮の瓜田儀等が盗賊となり、会稽、長州を根城として反乱。山東半島の琅邪では呂母という女性が蜂起し、海曲県を攻め、その長官を殺害します。これには万を数える人々が従ったといいます。
 天鳳五年(18)、赤眉の力子都、樊崇等が飢饉に苦しみ、琅邪で蜂起しました。新は郡国の兵を発して、これを撃ちましたが勝てませんでした。この赤眉は大勢力に発展します。
 天鳳六年(19)、匈奴の辺境を侵すことは甚だしく、青州、徐州の民の多くは郷里を棄てて流亡し、老弱は道路に死に、壮者は賊中に入ったといいます(臨淮は徐州、東成も後漢、魏では徐州に含められている)。
 地皇元年(20)、王莽は莫大な費用を投じて東西南北各四十丈、高さ十七丈という大宗廟などを建て、労役で死んだものは万を数えました。鉅鹿の馬適求等は燕、趙の兵を挙げ王莽を討とうとしましたが、事前に発覚し数千人が殺害されます。南郡(長江中流)の張覇、江夏の羊牧、王匡等が雲杜、緑林で起ち、号して下江兵と言いました。後漢の始祖、光武帝はこの緑林軍から出ています。
 地皇二年(21)、太師犠仲の景尚、更始将軍護軍の王党が将兵を率いて青州、徐州を攻撃しました。
 地皇三年(22)二月、景尚が赤眉に殺されます。四月には、太師(三高官の一つ)王匡と更始将軍、廉丹が十余万の鋭兵を率い鎮圧に向かいましたが、政府軍は放縦で、「赤眉に遭っても太師には遭いたくない。太師はまだいい。更始は我々を猟の獲物のように殺す。」とさえ歌われるくらいです。どちらにも属さない人々は両者から苦しめられたことでしょう。この政府軍も赤眉に大敗しました。戦闘は青州で行われましたが、隣接する徐州が無縁であったとは思えません。
 やがて反乱軍は新を追い詰め、地皇四年(更始元年、23)、王莽は首を落とされ、バラバラに切り刻まれるというみじめな最後をとげ、新は滅亡しました。その後も戦乱は続いていますが、建武元年(25)、光武帝が後漢を興し、徐々に沈静化してゆきました。建武六年(30)には、淮南王(寿春)として自立していた李憲などを破り、山東ことごとく平らぐと記されています。
 これで、文・漢人たちが国を棄てた理由も明らかになったようです。天候不順で穀物が実らず、飢餓に瀕したうえ、赤眉(青、徐州)、緑林(荊州)の乱に巻き込まれたため、座して死すよりはと、蓬莱国を求め東方の海に入ったのです。赤眉とは、味方を識別する目印として眉に朱を塗ったことから与えられた名です。眉に赤土を塗り、濃く描き垂れるという邪馬壱国の越人を、単純に赤眉の被害者とは言えないようでもあります。同族が大量に赤眉に投じていたことでしょう。
 日本で、漢代の五銖銭、王莽時代の大銭五十や貨泉がしばしば発見されるのは、文・漢氏自らが日本まで持ち込んだということで、交易で手に入れたものではありません。貨泉が発行されたのは紀元14年。19年に、青、徐の民は流亡したとあり、新が大軍を派して青州、徐州の赤眉を攻めたのは21、22年です。
 漢書食貨志は、光武帝が細かく煩わしい制度を洗い直し五銖銭を復活させたといいますが、後漢書、光武帝紀によれば、これは建武十六年(40)のことです。貨泉を持って出たことを根拠に、海を渡ったのは、それが貨幣として通用した14~40年の間、徐州が新の政府軍に攻撃された21~22年、特に22年に絞って良いのではないでしょうか。元々、漢の武帝により、先祖代々の江南の居住地から強制移住させられたもので(BC109)、移住してからは、130年ほどしか経っていません。棄てるにしのびないほど愛着のある土地とは言えなかったようです。
 柏原市、茶臼山古墳付近で、三角縁神獣鏡と共に発見された盤竜鏡の銘文を全文挙げます。(銘文は柏原市史による)

  青盖作鏡 四夷服   青蓋が鏡を作った。四夷は服従する。
  多賀国家 人民息   国家に慶事が多く、人民は安らかである。
  胡虜殄滅 天下復   匈奴は殲滅され、天下は元通りになる。
  風雨時節 五穀熟   風雨も時節にかない、五穀は熟れる。
  長保二親 得天力   両親は長生きする。天の力を得て。
  伝吉后世 楽母極   吉を後世に伝え、母としての楽しみは極まる。
      (最後の二句は、寿如金石、保子宜孫と同義)

 胡虜も殄滅も漢書王莽伝に見られる言葉で、当時の常用句だったのでしょう。銘文の内容は、当時の絶望的な社会状況と庶民の願望を反映していると考えられ、この鏡を王莽時代の作とすることにためらいはありません。現実の全てが正反対だったのは、王莽伝に見た通りです。難升米の一族がこの鏡を伝世していたわけで、文、漢人が新の時代に中国を離れたことはもはや疑えません。
 三角縁神獣鏡の、「陳氏が鏡を作った。私自身の経歴を言う。私は元、州の鏡作り師であったが、地を閉ざされ、出ずるを命じられた。……」という銘文から、陳氏は、元々、楊州(九江郡、盧江郡)か、徐州(広陵郡)の鏡作り師であったことがうかがえます。曹操が長江北辺の住民を強制移住させようとした時、その腕を買われて召し出され、仕方なく、洛陽に移住したのでしょう。「杜地命出」という言葉に無念の気持ちが表れています。後漢や魏では、東成も臨淮も徐州ですし、前漢では、東成は楊州の九江郡に属しています。文・漢氏の同族、武帝に強制移住させられた越人が、その周辺に幅広く展開していたと考えられます。
 「あなたがたと同郷なんですよ。」これが陳氏のメッセージだったのです。やはり、陳氏の祖先と邪馬壱国の祖先の間には、鏡作りの注文のやり取りを想像できます。
 州が楊州刺史(長官)の所在地を意味するなら、寿春ということになり、徐州刺史なら下邳です。下邳は長江からかなり離れていて、この曹操の強制移住の混乱とは縁が薄そうです。
 陳氏は、楊州九江郡の寿春で鏡作りをしていたが、洛陽に強制移住させられて、官営工場の尚方局に所属していた。老齢となって引退していたものを、卑弥呼に与える特製の鏡を作るため、景初三年、再び召し出されたと解釈すれば最もうまくつながります。
リンク 補助資料集「三角縁神獣鏡・銘文を考える」
    補助資料集「王の山古墳出土の玉璧」


5、朝鮮半島の文、漢氏

 後漢書(孝)安帝紀には、「(107年)冬十月。倭国遣使奉献。」と記されていますから、倭面土国王帥升が、北九州を離れて洛陽へ向かったのは、107年の四月頃でしょう。奴国と戦ってこれを破り、渡航の安全な春を待ったと考えられますので、呉の太伯の末、奴国を破ったのは、106年ということになりそうです。A・D21~22年に中国を離れたのなら、その間、八十数年をどこかで過ごしていたわけで、最も可能性が強いのは海を渡った対岸の馬韓です。しかし、この国は、その中の一国にすぎなかった百済に統一されてしまったため、その全体史は詳らかではありません。ただ、非常に複雑で、韓を建てた箕氏の滅亡後(*)、統制が取れていなかったことが魏志韓伝に記されていましたし、不弥国、卑弥国という邪馬壱国につながりそうな国名も見られました。《*/B・C195年建国~A・D246年、魏が滅ぼす》
 おそらく、文・漢氏の移動した後漢初期の馬韓は(この頃は箕氏の国)、仇敵の呉人(倭)が優勢だったはずで、元越人のこの一族には居心地が悪かったでしょう。さらに新天地を求め、南へ、南へと移動することになったようです。

 三国史記、新羅本紀
「脱解尼師今が即位した。この時、年は六十二。姓は昔(セキ、シャク)氏。…脱解は元々、多婆那国に生まれている。その国は倭国の東北一千里にある。初め、その国王は、女国の王女を娶り妻とした。妊娠すること七年で大きな卵を生んだ。王は人であるのに卵を生むのは不祥だから棄てるようにと言ったが、王妃は棄てるに忍びず、絹で卵を包み、宝物と並べて箱に入れ、海に浮かべて、その行くところに任せた。最初に金官国の海辺に到ったが、金官人はこれを怪しんで取らなかった。続いて、辰韓の阿珍浦口に到った。始祖、赫居世の在位三十九年のことである。海辺の老母がこれを引き寄せて中を見ると小さな子供が入っていたので、これを養育した。…始め箱が来たときに鵲が飛び、鳴いてこれに従っていたので、鵲の字を省いて昔を氏と為した。」

 この子供が、第四代新羅国王、脱解となりました。出身地の多婆那国は倭国の東北一千里とされ、多婆那国と対馬国が一致することは既に記した通りです。ナが水の意味なら、タバナは珠水国という意味になり、これは苗系語順の可能性があって、現在のアルタイ系語順に直せば水の珠の国。つまり「真珠の国」ということになります。
 また、姓のシャク(昔)は鯰に通じ、これは呉人(倭)か、呉系楚人(弁辰)であることを示しています。
 《注…鯰とシャク/杓子で鯰人形が作られています。シャクの根源は「澤(沢)」という文字のようで、呉音でシャクという音があります。「光潤うなり。(説文解字)」と解説され、「めぐみ」という意味を持ちますから、ぬめぬめ光沢のある鯰にぴったりです。水と目と幸という文字の合成で、目は生物であることを示しています。鯰の粘液から精液が連想され、子孫繁栄、豊穣をもたらす水神として祭られていたのです。このことについては、後に詳しく解説します。》
 
 アカルヒメと天之日矛の神話から、「虹のような日光に感応して産んだ玉(卵)から子供が産まれる。」というのが呉の始祖伝説と推定できましたが、妃となった女国の王女も卵を産んでいます。そして、女国は姫という姓の意味を汲んで名付けたと解することもできますから、呉人(姫氏)の国の可能性濃厚です。つまり、多婆那(対馬)国王は呉系楚人で、先住の、呉人の国の王女を妻とし、脱解を生んだということではないでしょうか。これは、天之日矛の移動を思い起こせば良いわけです。脱解が対馬を出て、最初に流れ着いた金官国は朝鮮半島南部の呉人の国(*)なので、楚人は寄る辺がありません。《*/=倭。この頃、金官加羅はまだ建国していない》。しかし、辰韓(新羅)と雑居していた弁辰は、同じ楚人です。元々そこから、対馬へ移住したのですから、支持勢力があり、後に、担がれて国王になることも理解できるのです。

  《 初期新羅(辰韓)王家と年表 》    
B.C56~5 始祖、赫居世【朴氏=瓢箪】…臣に瓢公という倭人がいる。
  B.C39 弁辰を吸収。その後、弁辰人の一部が日本(対馬も)に逃れる=天之日矛。
  B.C18 タバナ国(対馬国=玉調郷)で脱解が生まれ、新羅に帰る
A.D5~24 南解次次雄【朴氏】…脱解を娘と結婚させる。脱解を大輔となし、軍事、政治を委ねる。
A.D24~57 儒理尼師今【朴氏】…42年に弁辰系の金官加羅が建国された。
A.D57~80 脱解尼師今【昔氏】…祖先は弁辰出身。呉系楚人(姫氏、秦氏同族)

 脱解に関する年表を作ってみると上記のようになります。B・C18年に生れたという脱解が、即位した六十二歳になるのはA・D44年のはずで、十三年のずれがありますし、九十八歳まで生きるのは無理かと思えますので、年号をそのまま受け取る必要はなさそうです。
 魏志韓伝では、三世紀になっても辰韓、弁辰に統一王朝のあった様子はありませんでした。新羅本紀で、王家がしばしば入れ替るのも、その複雑なバランス関係を示唆しています。始祖、赫居世は瓢箪トーテムです。これは地震鯰を押さえつけているものの一つですから、赫居世を越人と扱って問題ありません。最初、辰韓人(越)の王家が三代続いた後に、対馬から出戻りした弁辰系(呉系楚)の脱解が四代目の王位に就いたわけです。

 「(脱解)九年(65)春三月。王は夜、金城の西の、始林の木の間で鶏が鳴くのを聞いた。夜明けに瓢公を派遣してこれを見に行かせると、金色の小箱が木の枝に懸かっており、白い鶏がその下で鳴いていた。……これを開けると小さな男の子がその中に入っていた。その容姿が尋常ではなかったので王は喜び、『これは天が我が跡継ぎに遣わした子だ。』と左右に言い、その子を養育した。長ずれば聡明で知略にも優れていた。閼智(アッチ)と名付け、金の箱から出たことから、姓を金氏とした(新羅本紀)。」

 脱解の時代になって、後の新羅王家となる金氏が唐突に登場します。これまで新羅と無縁であったことは明らかで、閼智という名と阿智王(漢氏)の類似が気になるのです。王莽時代に馬韓に移動(21~22年)した越王の子孫、騶氏がついに辰韓に到達して、その先進文化を背景に地歩を築いたのではないしょうか。三百年ほどの隔たりはありますが、辰韓とは同じ越人(風俗、言語)なので、優遇される可能性があります。
 新羅では最初は朴氏(赫居世の後裔=辰韓系)が強く、第九代以降は昔氏(脱解の後裔=弁辰系)の時代になり、閼智の後裔の金氏が始めて王位についたのは、第十三代の味鄒尼始今(在位262~284)で、ここでも阿智(味)と騶につながる名が付いています。
 その後三代は、昔氏が続き、金氏が王家として安定したのは第十七代の奈勿尼師今(356~402)から後のことです。
 上記の伝説では、閼智と鶏が結び付いており、鶏も邪馬壱国のトーテムに含めていいのかもしれません。漢書に、越方は鶏占いをする旨の記述があります。これは闘鶏ではないようです。

6、新羅と邪馬壱国の交渉

 新羅本紀には、初代の赫居世時代から、倭人が侵入したという記事がいくつか(B.C8、A.D14、73、121)見えますし、倭国と好を結んだ(A.D59)という記述もあります。これは、朝鮮半島南部、あるいは北九州の呉人の国でしょう。そして、第八代の阿達羅尼師今(朴氏)の二十年(173)、事実かどうか、「夏五月、倭女王卑弥呼遣使来聘」の文字があります。

  【年表】
96頃 面土国王帥升(文・漢氏)、北九州に渡来(住む)?
106頃 面土国王帥升が奴国を破る?
107
(安帝、永初元年)
倭面土国王帥升、願いて見を請う 後漢書倭伝
住むこと70~80年、倭国大乱

桓霊の間(=168前後)●←倭国大乱→●卑弥呼共立
魏志倭人伝

後漢書倭伝
173 卑弥呼、新羅へ使者派遣 新羅本紀
238(景初二年) 卑弥呼、魏へ使者派遣 魏志倭人伝

 後漢書倭伝には、「桓霊の間、倭国大乱」とされていますが、霊帝は168年の即位で、それ以前は桓帝の治世です【桓帝(147~167) ―― 霊帝(168~189)】。大乱が治まって卑弥呼を共立したのであろうから、卑弥呼の即位後すぐ使者を新羅に派遣したと解すれば、173年は時期的にうまく一致します。魏志、後漢書に合わせてこの記述を挿入した可能性もあり、油断は禁物ですが、しかし、卑弥呼という名はともかく、倭の女王が遣使してきたというような伝承が残されていたのではないでしょうか。
 卑弥呼の即位が172年で、倭国大乱が167年以前にはじまり、172年まで続いたなら、桓霊の間になりますし、面土国王帥升(文、漢氏)が後漢の安帝に朝貢した107年の前年、106年に日本に移住して奴国を破ったとすれば、住むこと60~70年になり、70~80年に少し不足していますがその許容範囲ではあります。さらに面土国王の渡来をもう十年早めて96年頃に置き、106年に奴国と戦うに至るまで、十年ほどを北九州の津屋崎周辺で暮らしていたと訂正したなら、これは完全に収まってしまいます。
 172年頃に即位した卑弥呼を少女と解せば、65年後の景初二年(238)に生きていても不思議はありませんし、「年已に長大」となるのは当然です。卑弥呼は正始八年(247)か、その少し後に死んだらしく、172年からは75年後。壱与の様に十歳前後で即位したのなら、八、九十歳まで生きたことになります。これは十分可能性があります。長大という言葉は普通の老を表すものではなく、そして、鬼道が不老長寿を希求する宗教なら、卑弥呼はその具現者ですから、神の如くあがめられることになるでしょう。巨大な陵墓が作られるのも納得できます。
 辰韓には近い親戚(閼智一族)がいたわけですから、即位を知らせるのもごく普通の行動です。金氏(閼智の子孫)で、始めて王位に就いた味鄒尼師今(在位262~284)は、邪馬壱国の壱与(阿智王の子孫)の時代に当ります。
 その前後の昔氏(弁辰=呉系楚=狗奴国の同族)の時代には、倭人が侵入したという記事が見えるのに反し、この味鄒尼師今の時代には全く見られず、これは朝鮮半島で分化した文・漢氏の同族だったからだと思えます。また、味鄒尼師今(金氏)が昔氏に代って即位した262年は、狗奴国が滅亡したと推定した年です。何か連動しているのかもしれません。
 味鄒尼師今の跡を継いだ第十四代、儒礼尼師今(昔氏、284~298)の時代には、特に激しく攻めたてたようで、この王家交代に反発したものと考えられます。倭人侵入が十四年間に三度(287、292、294)記されていて、新羅王が悩んでいますから、とにかく邪馬壱国と昔氏はうまくいかなかったのです。これは昔氏が弁辰系(=秦系)で、邪馬壱国と激しく戦った狗奴国の同族であることに起因します。
 味鄒尼師今の一代前、第十二代、沾解尼師今の三年(249)、倭人は昔于老という王族を殺しました。于老が倭国の使者に、「そのうち、お前の国の王を塩作りの奴とし、王妃を飯炊き女にしてやる。」と戯れて言ったため、倭王が怒って派遣してきた軍に焼き殺されたのです。魏志倭人伝には、卑弥呼の死後、男王を立てたがうまくいかず、戦いが起こって千余人が死んだと記されていました。壱与が即位するまで何年か、男王が王位に就いていたと考えれば、この249年の王と王妃を説明できます。したがって、壱与の即位は250年頃に置くことになります。
 壱与と味鄒尼師今(金氏)の間は、本紀では平穏で、戦いの記述はありませんが、于老(昔氏)の老妻が泥酔した倭の使者を焼き殺して昔の恨みをはらしたため、倭人が怒って金城を攻め、勝たずして帰ったという記事が于老伝に見えます。
 第十五代、基臨尼師今(昔氏、298~310)三年(300)には、互いに使者を出して交流し、昔氏と仲直りの様相が見られます。これは邪馬壱国の側に変化があったのかもしれません。つまり、壱与が亡くなって、次の王に交代し、対新羅政策を変えたと思えるのです。狗奴国との苦しい戦いを知らない世代になったということでしょう。壱与の死を、その前年の299年とすれば、299-250+13=62で、このあたりが壱与の享年と考えられます。
 第十六代、訖解尼師今(310~356、昔氏)三年(312)、倭国王が使者を派遣し、子の為に花嫁を求めてきたので、政権最有力者の娘を送ったと記されています。子の為ですから、王には王子がいたことになり、三輪の神の妻となり、独身を守ったと考えられる壱与ではないでしょう。この頃、政権が交代していたことは間違いありません。《注…訖解尼師今は于老の子ですが、249年に殺された于老の子で、当時、幼弱だったとされるこの人物が百年以上後の356年まで生きるはずがありません。系譜に間違いがあるか、後ろに王が一人漏らされているかのようです。》

「 三十五年(344)、倭国が遣使して、花嫁を求めたが、娘は既に嫁にいったと言って断った。 三十六年(345)、倭王は書を送ってきて絶交した。三十七年(346)、倭兵がにわかに風島にやって来て略奪し、さらに進軍して、王都の金城を囲み激しく攻めた。……王は門を閉めて兵を出さず、賊の食料が尽きて退却しようとしたときに騎兵を出して追撃、これを敗走させた。(新羅本紀)」

 新羅は312年の花嫁を求める遣使に対しては友好的でした。しかし、344年の同じ遣使に対しては、すげなく拒絶し、相手を小馬鹿にしたような返事さえ送って、戦争も辞さないという構えです。この断層から、倭国では、この間に王朝の交代があったと推定できます。つまり、312年の遣使は邪馬壱国で、344年の遣使は大和朝廷のものではないか。そう考えれば、この新羅の態度の変化が理解できるのです。新羅からすれば、いきなり未知の相手がふんぞり返って現れ、「どこの馬の骨とも解らない奴がふざけるな。」といった気持ちなのでしょう。それなら、邪馬壱国の滅亡は344年以前ということになり、壱与の死後(299年頃)一、二世代という初めの推定にも一致します。
 これ以降、新羅王家が閼智の子孫の金氏(奈勿尼師今)に交代するのも、邪馬壱国の滅亡と大和朝廷の対新羅政策に関係しているのかもしれません。日本から新羅に逃れた者も多かったでしょう。その後も倭の攻撃は止みません。大和朝廷と新羅(金氏=邪馬壱国の同族)はずっと対立的です。

7、文・漢氏の年表

《辰韓人》
B.C222 越、楚が秦に敗れ、越は秦の会稽郡となる。
B.C221 秦が中国を統一。
B.C213頃 秦が長城建設の為に越人、楚人を遼東に流す。
B.C207頃 秦の滅亡前後、越人、楚人が脱出。
B.C195頃 越人は楚人と共に馬韓に移動、馬韓が割き与えた東の土地(新羅)で雑居し、辰韓と表される。(楚人は弁辰)
 ほぼ同時期に、日本へも移動していたのであろう。主として日本海側へ展開したと考えられ、出雲には、ヤツカミズオミツノの命が、新羅から国を引いたという伝承がある。ヤツカミズオミ(八束水御神)は、「あらゆる水を司る神」という意味で、ツノの命は鹿の角が生えていたのである。オオナムヂ神と同神。国を作り終えた時、「おゑ」と言ったとされており(出雲国風土記)これも「於越」人であることをもの語っている。綱引きのかけ声、オーエスは、この国引きの「おゑっ」から出たようだ。
《文・漢氏》
B.C109 漢の武帝が、越人(*)を東成、臨淮などの江淮の間(楊州、徐州)へ強制移住させる。(*/閩越、東越、越繇王)
A.D14 天鳳元年、王莽が貨幣を改鋳し貨布、貨銭(貨泉)を発行。
18 青州で赤眉が反乱
19 新の天鳳六年、飢饉と戦乱に苦しむ青州、徐州の民の多くは郷里を棄て、流亡した。
21~22 新軍が青州、徐州を攻撃した。
22頃 越人が国を捨て、馬韓へ移動。馬韓に不弥国、卑弥国を作る。
25 光武帝が貨幣制度を洗い直し、五銖銭を復活させる。
65頃 越人が東南に移動して、新羅(辰韓)に達する。首長は閼智と表された。新羅に地歩を築き、後に王家となる(金氏)。辰韓は同族である。
80~100頃 越人が日本に移動。津屋崎付近に上陸して宗像氏(秦系、呉系楚人)と同盟し、奴国(呉人)と対立。
106頃 奴国を戦いで破ったが、(後)漢の属国であることを知り、翌年、慌てて漢に赴く。
107 越人の首長が安帝に面会を求める。倭面土国王帥升と表された。漢は紛争を調停し、奴国を復活させ、帥升に勢力の拡大を禁じる。帥升は一部を津屋崎付近(不弥国)に残し、出雲へ移動。先に国を作っていた辰韓人の上位に入り、海原を照らして現れた大国主神の幸魂、奇魂と表される。
160~172頃 漢が衰え、恐怖感がなくなったのであろう。日本を支配していた呉人に対し、呉系楚人(秦氏、スクナビコナ、須佐之男、姫姓)と同盟して全面戦争に乗り出した。
 戦いに勝ち、少女の卑弥呼を象徴として邪馬壱国が建国され、戦乱は終結。実権は父親の孝霊天皇とされた首長が握っていたであろう。出雲の大国主神は、この間に大和の三諸山に移動し、大物主神となったのである。
 この戦乱は倭国大乱と表され、この間に奴国、末盧国等の呉人の国は滅びた。呉系楚人の伊都国等は王が存続。
173頃 卑弥呼が親戚のいた新羅に使者を派遣し即位を伝える。呉系楚人が和歌山に入り狗奴国を建てる。
238頃 倭国大乱時は同盟関係にあった邪馬壱国と狗奴国(紀伊)が対立。
243 邪馬壱国は狗奴国に押され気味で、魏に軍事援助を求めた。
247 帯方郡は卑弥呼を支援するため、軍事顧問として張政を派遣した。
247~248頃 卑弥呼死す。
248~249頃 男王が即位したが、内乱が起こった。新羅の昔于老を殺す。
250頃 壱与を卑弥呼の後継者とし、男王を補佐役として妥協を図ったのであろう。男王とは開化天皇と表された人物かと思える。兄の大彦と後継を争ったようである。
262 ? 狗奴国が滅びた。卑弥呼の墓、箸墓を築造。
 ? 卑弥呼を補佐した男弟(孝元天皇)の陵墓を築造(現崇神陵古墳)。
263 張政が魏に帰国。壱与は使者に送らせて朝貢した。
265 壱与は恩義のある魏に遣使したが、この年、晋が国を奪っていたため中国との交流を断った。
 新羅の金氏とは近い親類で、親密であったが、昔氏は苦しめられた狗奴国の同族なので、昔氏の新羅には強い敵対的姿勢をとった。
299頃 壱与死す。享年は六十代前半。
300頃 壱与の後継者(ニギハヤヒ、事代主)は新羅との関係改善を図り、使者のやりとりをした。
312 新羅に王子の花嫁を求めて、得る。
 ? 邪馬壱国滅亡。
 大和朝廷の崇神(神武)天皇が南九州から東征して大和を制圧。後に邪馬壱国系氏族 の一部は、帰化人の文氏、漢氏と扱われる。王家は崇神(神武)天皇に王位を譲って物部氏となった。
344 大和朝廷の王(垂仁天皇であろう)が、新羅に(自らの)花嫁を求めたが、断られた。
345 垂仁天皇は激怒して、新羅に絶交状を送る。
346 新羅を攻撃、大和朝廷は邪馬壱国同族の新羅に敵対的姿勢をとる。


三、魏志倭人伝の官名の再検討

 秦氏(狗奴国系)、文・漢氏(邪馬壱国系)の民族と言語、勢力分布がほぼ判明したことにより、倭人伝の官名の解釈にも新たな展開がうまれます。
 魏志倭人伝に記された対海(対馬)国は、秦系(弁辰、楚の姫氏)の国なので、その官、卑狗(ヒコゥ)は秦人の言葉がそのまま用いられた可能性が強いでしょう。邪馬壱国と敵対した狗奴国も秦人の国であることが明らかになりましたが、その臣に狗古智卑狗(魏略逸文では拘右智卑狗)の名が見られます。したがって、卑狗は漢語の語順で考えることになりますから、日子で太陽の子という意味、対応するのが日女(ヒメ)です。対馬、壱岐の卑狗は、後の対馬直、壱岐直につながるでしょう。
 副官の卑奴母離は、やはり、邪馬壱国(一大率)直属の官のようで。諸国が大率を恐れ憚るというのももっともなことです。卑奴母離は苗系言語と思われ、「ヒ」+「ノボリ」、「昇る日」という意味ではないかと思えますが、意義不詳としておく方が良いでしょう。
 魏志倭人伝の、卑弥呼と狗奴国男王の「卑弥弓呼、素、不和」という文は、通常「もとより和せず」と読み下されていますが、これは「卑弥弓呼素、不和」の可能性が強い。不和は素よりではなく、それ以前の倭国大乱時は同盟関係にあったのです。
 既に記したことですが、卑弥が男女の両王に共通していて、王を表す称号のように見えます。弓呼素(キュウコソ)が姫(キー)+古曽と考えるなら、姫氏でコソの王という意味になります(コソ=クサ=名草=和歌山)。熊をキウ(漢音)と発音していたようなのでこちらの可能性もあります。称号が前に来るのは、苗系語順だからで、卑弥弓呼素は邪馬壱国側(ヤオ語)からの呼び名、その臣、拘右智卑狗は秦氏本来の官名、自称(漢語方言)と考えれば矛盾はありません。したがって、卑弥呼を現代の語順に直すと、「呼(コ)というヒビ(ヒミ)」の意味になり、卑弥呼は記、紀では天の服織女
(*)ともされていますから、名前の呼は蚕(コ)の意味かと思えます。《*/須佐之男の乱暴に驚きホトを突いて死んだ=ヤマトトトビモモソ姫と同じ形の死》
 ヤオ語、あるいはトゥチャ語なので、王を意味する称号らしき「ヒビ(ヒミ)」の内容ははっきりしません。巳(ミ)の派生語で、後に君(キミ)となったのでしょうか。ヒビく、ビビる等、振動=雷とも関係しそうです。投馬国は、官が弥弥なので、その副官の弥弥那利(ビビダリ)は「ミミ+下の(=垂る=副)」という意味と解せます(苗系語順、たぶんヤオ語)。
 

続き、「帰化人の真実、3」