弥生の興亡、3

帰化人の真実、3

第二章、各種伝承から探る弥生時代

  一、鯰に関する考察
   1、地震鯰と弁慶と金太郎
   2、鯰とシャクシ
   3、三すくみ
   4、地震鯰と鹿島神(建御雷神)
  二、倭国大乱前夜の日本
   1、九州の漢(大国主)秦同盟(少彦名)
   2、出雲
  三、倭国大乱と邪馬壱国の成立
   1、鯉(鯰、龍)と鰐(蛇、石)の戦い
   2、蛇と蜈蚣の戦い
   3、俵藤太の蜈蚣退治




第二章、各種伝承から探る弥生時代

一、鯰に関する考察

1、地震鯰と弁慶と金太郎

 地震の予知を期待されていながら、さっぱり応える様子を見せてくれない鯰ですが、太古から地震の直前に鯰の騒ぐことが知られていて、その親分として地下の大鯰が想起されたのでしょうか。
 鯰(ナマヅ)に結び付くのは地震だけではありません。「ナメコ」は鯰の様にぬるぬるした茸ですし、「ナマコ」はぬるぬるした海の生物です。「なめらか」は凹凸が無く抵抗の少ない状態をさします。「なめす」も毛を取り去り、毛皮の表面をすべすべにすることです。「ナメクヂ」はぬるぬるして、動いた後に粘液を引き、これは「ナメクヂラ」とも呼ばれていますから、「鯨」ともつながります。鯨は鯰と同じく黒白でウロコのない大魚とみなされるでしょう。「スナメリ」という鯨の一種も、素ナメリで、ウロコのない「白いつるつる」という意味のようです。したがって、イルカやフグもウロコのない同種の魚と扱われることになります。
 鯰やフグが呉の象徴(鯷冠、鮭冠)なら、ナマコ、クジラ、イルカ、ナメクジ等の関連する動物のすべてが呉を表している可能性があり、カタツムリも当然ここに含まれるわけで、呉人はヌルヌル、ツルツル、ネバネバの粘液質にこだわりを持っていました。
 巴人(*)も淮南子では人面魚身無足の鯰に結び付けられています。巴の首長は呉と同じ姫姓ですから鯰神の祭りは周の后稷に由来するようです。《*/氐人。建木と蜀の后稷壟の間に住む》
 
粘液で覆われた鯰は、精液や男性器に結び付く子孫繁栄のシンボルで、且つ、豊穣をもたらす水神だったのです。
 「鯰絵」(C・アウエハント著、せりか書房)という面白い本があります。江戸時代に出現した鯰絵を手掛かりに、日本の民俗を分析していますが、その中で、地震鯰と鯨や龍との置き換え、鯰と武蔵坊弁慶、坂田金時(金太郎)などとの融合が指摘されています。
 鯨、龍は呉人の祭るもので、鯰と等価と解ったが、弁慶に一体何の用があるのかと不審を抱かれるかもしれません。しかし、本当に関係があるのです。弁慶が現れたのは京の五(呉)条の橋です。千本目の刀を手に入れようとして挫折したのは、越の芊氏(阿智=阿千)との対決に敗れたことを示すのでしょう。そして、この戦いの相手で、後に主従となった牛若丸も弁慶と同じ呉+楚の要素に包まれています。《注…牛若丸/鞍馬山の天狗に鍛えられた。鞍馬の由岐神社は紫野今宮韓神、五条天神等同体とされて呉と結び付いています。名前は牛若で、天狗は猿田彦とされ、牛、猿は楚の要素である等。》
 弁慶は紀州、田辺の出身で、熊野別当、湛増の子とされています。そして、田辺史(毛野氏の祖)の系譜は、崇神天皇と木国造アラカワトベの娘との間に生まれた豊木入日子命に結び付けられており、母系で狗奴国王(呉系楚)姫氏につながっているのです。したがって、田辺は、これまでの想定通り呉系楚人の地名と考えて間違いありません。熊野の熊が楚に結び付いていることも合わせて、弁慶は呉系楚人(姫姓、秦氏)と難なく分類できます。《注…豊木入日子/豊は美称で、姫=紀に入った男という意味。》
 紀伊田辺には闘鶏(新熊野)神社があり、楚人の末裔とおぼしきタイ人が闘鶏を好むということもその補強材料にできるでしょう。闘鶏用の軍鶏はタイから輸入されたものだと伝えられていますし、手を使わないタイのキックボクシングは、鶏の戦いを人間のそれに置き換えたものと思えますから、楚人は鶏トーテムでもあったようです。日本最古の相撲の記録として、垂仁紀の野見宿禰と當麻の蹶速(ケハヤ)の対戦が、しばしば引き合いに出されます。しかし、ケハヤは蹴るのが早いという意味で、その戦いの様子は互いに足を挙げて蹴りあい、野見宿禰がケハヤの脇骨を蹴り折り、その腰を踏み砕いて殺したというものです。回し蹴りを横腹に受けてダウンし、うつ伏せになったケハヤの背骨を踏み折った光景が目に浮かんできます。レフリーはいませんが、キックボクシングそのものの描写です。《注…相撲/頭からぶちかまして押し合う現在の大相撲の起源は、漢の武帝が始めたという角抵戯で、これは、元々、牛トーテムの民族の格技です。「漢(新)」から渡来した文・漢人が持ち込んだものと解することができます。背中を付けると負けになるレスリングは、相手に腹を見せて下位であることを示す狼、犬トーテムの民族の格技と考えられます。》
 以上、田辺、熊野、闘鶏との関係から明らかに出来たように、弁慶は鯰トーテムの呉系楚人(堂谿氏=秦氏)なので、同時に鯰でもあるということになり、鯰と重ねられたのです。弁慶の被っている頭巾は、目だけ出して顔を包む「おこそ頭巾」と呼ばれる頭巾に似ており、コソにも結び付いています。これも呉人の被り物だったと考えられます。「こそこそ」、「ごそごそ」という擬態語にも関係しそうです。いい意味の表現ではありませんから、越系が呉系を非難する場合に用いた言葉かと思えます。
 金太郎は、五月五日の端午(タン「ゴ」)の節句に祭られ、鯉や熊に跨っています。鯉は龍門という滝を上れば龍になるとされる魚で、呉のトーテムの龍に結び付きますし髭もある、鯰と等価なのです。そして、熊は楚のトーテムです。この日に用いる茅は、須佐之男に結び付く楚の要素なので、粽にする笹や、風呂に入れる菖蒲もこのグループに含めて良いでしょう。大足とカラはどちらも呉に関係すると既に明らかになっていますが、足柄山の金太郎で、地名はまさにそれに対応しています。持っているマサカリも呉に結び付いていました。体は赤く塗られますが、それも呉の要素と判明しています。相撲を好むのもこの一族の要素に加えることができます。金太郎は成長すると坂田金時と名を変えました。サカ、キン、トキも呉系楚(秦系)の要素で、大坂は狗奴国の臣、河内彦の土地でした。八坂も須佐之男につながる呉系楚の地名です。佐賀県も、元の肥(火)前国で、楚とつながっていて、ここには淀姫という鯰を使いとする神が存在します。時に関しては、時原宿祢という秦系氏族がいます。暦も秦系要素(月読神/太陰暦)です。以上のように、金太郎にも呉系楚の要素が絡みついており、トーテムの鯰と一体化するのです。キンについては後で触れることにします。

2、鯰とシャクシ

 「ナマヅ」は「ナマ」と「ヅ」の組み合わせらしく、ヅはカハヅ、アキヅなどと同じく虫の意味かと思えます。対馬に多久豆玉(タクヅタマ)神社がありますが、大和国葛下郡(大和高田市)では多久虫玉神社となり、「ヅ」という音を表す豆が虫に置き換えられているのです。
 「ナマ」はナマコ、ナメコ、ナメクヂ等との関係から、潤っていて、ツルツル、ヌルヌルした柔らかでつかみ所の無い滑りやすい状態を表すと推定でき、「鈍る」、「訛る」などとつながりそうです。したがって、ナマヅとは「ヌルヌルの虫」、あるいは「水の虫」という意味になります。鉛も金属にしては柔らかく溶けやすいことから与えられた名称のようです。魚の鯰が虫と表現されるのは、苗系民族の祭りの根底に蝶(幼虫も含む)があり、トーテムのすべてが等価であることから導き出されます。蛇=虫、鯰=虫、虎=虫ということになります。ですから、中国では虎のことを「大虫」と呼びます。
 もう一つ、鯰と関係の深そうなのが杓子です。シャクシやシャモジなどと呼ばれていますが、これで鯰人形が作られるくらいですから、形が似ているのです。ヲタマジャクシというのは「小玉シャクシ=小さな玉の鯰の子」なのでしょう。
 ナマはタイ語の水を意味するナームから派生しそうですし、同じくタイ語の鯰(ナマヅ)は、プラー・ヅク(duk)ですから(プラーは魚の意味)、音が非常に良く似ています。ナマヅという魚名が楚語に由来するなら、楚人(東鯷人)の渡来以前に国を作っていた呉人(倭人)は、鯰を別の言葉で呼んでいたはずです。それが「シャク、サク、タク」ではないでしょうか。
 シャクは、元々「澤(沢)」という文字で表されたと考えられ、「光潤うなり。(説文解字)」、「めぐみ」という意味を持ち、ぬめぬめして光沢(=光潤う)のある鯰にぴったり重なることは既に指摘した通りです。 漢音ではタク、セキ、エキ、呉音ではヂャク、シャク、ダク、ヤクという音を持ちます。シャクシは沢子と表記でき、子のシ音と併せて、タクシ、ヂャクシ、シャクシ、ヤクシなどの組み合わせも生まれます。対馬の多久豆玉神社は「沢虫魂」神社と置き換えることができるのです。また、爪工(ツメタクミ?)連という氏族がいて、多久都玉命を祖としていますが、意味は同じく「ナマヅの玉(魂)」でしょう。工(タクミ)という氏族名自体が「タクのミ」で鯰蛇(鯰龍)を表しているのかもしれません。その一族が大工を生業としていたので、工にタクミの訓みが与えられたという順になりそうです。
 以上を整理すれば、多久豆玉命とは呉・楚人の祭る鯰龍=水神であるという結論が出せます。大和国葛下郡の(石薗坐)多久虫玉神社が龍王宮と呼ばれていることも、その証佐と出来るでしょう。地名はイソノで楚に関係しています。
 新撰姓氏録には、以下のような工に関する氏族が見られます。

(左京神別中) 爪工連 神魂命子多久都玉命三世孫…
(和泉国神別) 爪工連 神魂命男多久豆魂命の後なり。…
(未定雑姓) 工首 神魂命の後なり。
(大和国神別) 工造 火明命十世孫大美和都弥の命の後なり。
(右京諸蕃上) 工造 呉国人太利須須より出ずるなり。
(山城国諸蕃) 工造 呉国人田利須須より出ずるなり。

 また、「沢」を「ヤク」と読むなら薬(ヤク、くす)と係わりを持つようになります。クスもまた呉を示す音でした。

(和泉国諸蕃) 蜂田薬師 呉主孫権王より出ずるなり。
(  〃  ) 蜂田薬師 呉国人ツクニリクニより出ずるなり。

 神魂命が呉系楚人の神であることは既に明らかになっていますので、爪工連と工首に関しては問題ありません。工造は別で、邪馬壱国系氏族(越系)のようです。これも工がタクミと読まれるようになってから後に与えられた姓と解すれば矛盾は生じません。
 「シャク」は容易に「サク」に転ずるでしょう。「シャクジン」、「シャゴジ」、「ミシャグチ」、「佐久神」、「御社宮司」、「御社宮神」という正体不明の古い信仰がありますが、これも呉・楚人の祭る鯰神と考えれば謎が解けそうです。シャクジンの神体として男根型をした石棒を祭っている場合があるといいます。鯰が男根と同義なら、ヌルヌルの精液を介して、オタマジャクシとつながることになります。顕微鏡もない時代に、精子の形を知っていたのかという疑問は残るのですが、太陽黒点の存在を知っていた可能性もあり、これを無下に否定するわけにもいきません。
 こうして、「シャクジン」とは、子孫繁栄、豊饒を司る呉・楚系の鯰神、龍神と見当が定まってきます。精液のヌルヌルからナマヅやカタツムリ、フグなどの粘液質の表皮を持つ動物が連想され、さらにウロコのないクジラ、イルカの類にまで拡大されて、それら全てを祭るに至ったようで、呉人が大ナマヅの皮で冠を作っていたのもこのことに依拠するのでしょう。
 澤の右半分、睪(えき、ヤク)は、元々、鯰の象形から生まれた文字と考えられ、サンズイ偏のついた澤はその表面のぬめり、粘液を表します(光潤うなり)。睪は辞書の言うような単なる音符ではなく、その本義は、「次代への引き継ぎを仲介する」ことにあります。
 澤(沢=古くは粘液→精液=人の世代交代を導く)、譯(訳=言葉の変換による仲介)、驛(駅=馬の交換場所)、繹(蚕の糸を引き出す=つないで続けてゆく)等。擇(択=えらぶ)も生殖に関係し、釋(釈=爪でほぐして引き継ぐという形。解く、放つ)は仲介に関係しています。子孫繁栄は懌(=喜ぶ)でもあるでしょう。益(えき、ヤク)という音に通ずるのも当然です。説文解字の睪は、「目にした罪人を官吏に捕えさせること」となっていて、ここでも引き継ぎ、仲介があります。そして精子を作る睾丸の睾にも結び付くのです。ここから、鐸も子孫繁栄、豊穣を祈る祭りで打ち鳴らされたという解釈が可能になりますが、銅鐸がしばしば入れ子状になって出土するのは、その証しではないでしょうか。呉鐸という表現があり、呉の代表的な楽器だったようです。
 飲食物を容器から別の容器へ移し替える「しゃくし」、「しゃもじ」も仲介、引き継ぎに該当します。「シャグジン」、「サグジ」は「三狐神」とも書き表されており、御膳神(ミケツカミ)ともされています。これは食物=豊穣の神ですが、狐という文字が当てられているのも偶然ではありません。狐、稲荷は呉の祭りだったはずです。同音の長野県佐久市の地図を調べれば、滑津川(なめつがわ)があり、「なめつ」という駅もある。社宮司(しゃぐじん)神宮もあって、すべて推定通りでした。
 ●「ハンザキ」とは山椒魚のことですが、「シャク」、「サク」、「タク」が鯰なら、これは半分鯰という意味になります。ハンサクからハンザキに転訛したと考えられるのです。したがって、「ハンシャク」とも言えるはずで、熊本県菊池市の山間部に半尺、班蛇口(はんじゃく)という地名が見られますが、サンショウ魚を意味しているように思えます。
 ●「猫も杓子も」という言葉があって、どうして「だれもかれも」という意味になるのでしょうか。猫が苗系の越人を表し、杓子が鯰の人で呉、楚人を表していると考えれば、その意味が簡単に説明できます。
  ●「しゃっくり」、「しゃくる」、「吐(たぐ)る」も体の中のナマヅがピクピク動くことから、間欠的に表れる症状です。これは咳をするときの動きと同じなので、シャクジンが風邪や百日咳に験があるとされることに通じます。阿蘇開拓神話で、大ナマヅが阿蘇湖をせき止めていたとされたのもナマヅがセキという音に結びつくためだと明らかになります。
 ●「癪にさわる」という言葉も「シャク」が鯰なら解釈可能です。鯰トーテムの呉人は、自分自身もまた鯰なのです。「さわる」は「障る」で、「鯰に差し支える」ということは「自分に差し支える」。故に、「腹がたつ」と同義になります。この言葉は呉人のみに有効な言葉かと思えます。そして、自称が「ワ+タクシ」ということにもなるでしょう。
 ●「持病の癪(シャク)が。」などと言いながら、女性が下腹部を押さえてうずくまっている場面を時代劇でしばしば見かけます。この痛みのことを「差し込み」ともいいますが、シャクがナマヅで男性器を表しているなら解釈も簡単です。男には解りようのない女性器の痛みのはずで、男子はこの言葉を使ってはならない(と思うのです)。
 これ以上、説明の必要もなさそうです。「シャク」、「サク」、「タク」、「ヤク」は鯰の古語で、「サワ」もこれに含めていいかもしれません。そして、シャク、サク、タク、ヤク、サワは呉、楚系の地名ということになります。長野県佐久、佐賀県多久、香川県詫間、屋久島、奈良県當麻町尺土等。
 同じように、「虫が好かない」、「虫が納まる」、「虫の知らせ」も、人(自分自身)と虫(蝶)が一体であるという、人とトーテムの関係から生まれた言葉と説明できます。
 おそらく、原初は、水にあまり馴染みのない北方系民族の祭りだったのでしょう。遥かなる太古に遡ると考えられますが、ヲタマジャクシ(=精子型)は鯰の子と信じられていたわけです。なにしろ色、形、ぬるぬるが似ています。そして、民族の繁栄を願って、その親である鯰(=男根)を祭る人々がいた。呉人はその伝統を受け継いだのです。しかし、いつかは真実が重くなってきます。侃侃諤諤の議論のすえ、不安と戦いながら、神の祭りは続けられ、あるいは改められた。このあたりは何の根拠もない想像にすぎません。ただ、シャグジンの祭りが姿を消し、わずかな痕跡しか残していない理由に見当をつけたかったのです。「オタマジャクシは蛙の子、鯰の孫ではないわいな……」この里謡はいったい誰が作ったのでしょうか。曲は日本のものではありませんが、古代からこういう内容の言葉が歌い継がれてきたのではないでしょうか。鯰とオタマジャクシを祭っていた呉人を揶揄する越人の歌に思えてならないのです。

3、三すくみ

 中国では、蜈蚣、蛇、ヒキガエルを三すくみの動物としています。蜈蚣は蛇に勝ち、蛇はヒキガエルに勝ち、ヒキガエルは蜈蚣に勝って、三者が出会うと身動きが取れません。しかしながら、日本の三すくみではナメクヂ、蛇、ヒキガエルとなっていて、蜈蚣がナメクヂに置き換えられています。これは蜈蚣とナメクヂが等価であることを示しています。蜈蚣が呉を表すことは確実なので、ナメクヂも呉の象徴ということになりますし、葛飾北斎が描いた三すくみの絵には、ナメクヂの代わりにカタツムリを描いたものがありますから、そういう伝承もあったようです。ここまでの分析と何の矛盾もありません。
 三すくみの蜈蚣(ナメクヂ、カタツムリ)が呉で、蛇が越なら、ヒキガエルは楚を意味することになります。これは蟾蜍(センジョ、呉音)といい、楚の姓の芊に通じています。春秋時代の、中国南部の抗争の表現が、そのまま日本にあてはまるわけです。
 中国には、「(九つの太陽を射落とした弓の名人)羿は、不死の薬を西王母にもらいうけたが、その妻、嫦娥がそれを盗んで飲み、月に逃れたところ、ヒキガエル(蟾蜍)に姿を変えてしまった。」という伝説があります。 死んではまた蘇る不死の月と、蟾蜍は結び付いていて、千年を経たものは頭に角があるといいますし、本草綱目啓蒙にも、「数百年を経て形大なるもの、諸州にあり。」と記されていますから、ヒキガエルも祭られる資格がありそうです。どうも、楚人がこれを祭っていたようです。

4、地震鯰と鹿島神(建御雷神)

 常陸国風土記には、蛇の角が折れたこと、あるいは鹿の角で地を掘り、その角が折れたことにちなんで名付けられたという角折れ浜のことが記されています。その常陸国の一の宮は鹿島神社です。祭神は建御雷(たけみかづち)神で、この神は、大和朝廷時代になって物部氏等の邪馬壱国系氏族が衰えた後、祭祀権が中臣氏(=藤原氏*)に移ったため、「記、紀神代」では、天孫のために大活躍しますが、本来は邪馬壱国(文・漢氏、越人)の神なのです。《*/中臣鎌足の母は大伴氏で越系です。祭祀権を奪う根拠があります。》
 邪馬壱国は蛇であり、且つ鹿の一族の国でした。また、犬や鰐、ホトトギスでもあります。その伝統から、この神社を始め、各地に鹿を神使とする神社が数多く存在します。
 常陸国風土記、那賀郡、茨城の里には、「神のヨバイによって産まれた子蛇が、伯父を恨んで電撃(雷)で殺した。父のいる天に昇ろうとしたが、母親に盆(ヒラカ)を投げ当てられ、力を封じられて昇れず、この地にあるクレフシの山に留まった。」という伝承が記されています。古事記の三輪神と大田田根子(*1)、日本書紀の三輪神と箸墓(*2)の伝承を合わせたような話ですが、ただ、生まれた子が人ではなく神なのです。《*1/三輪神のヨバイによって生まれた子。*2/三輪神のヨバイと神は蛇の形をもつこと》
 三輪の大物主神の子孫にして、若く猛々しい蛇神かつ雷神、これがこの地の神、建御雷神です。クレフシという山名は西に臥したという意味らしく、現在の朝房山と比定されていて、この神を祭る大井神社(=鹿島明神)の真西に位置しています(茨城県水戸市)。
 古事記によれば、大田田根子は河内の美努村(*)に隠れていましたが、祟りを為す三輪神を鎮めるために召し出されました。そして、崇神天皇に尋ねられ、こう答えています。「私は、(三輪の)大物主大神が陶津耳の女、活玉依姫を娶って生める子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子である大田田根子です。」《*/日本書紀では茅渟県の陶(スヱ)村》
 大田田根子の行動とこの言葉から、田根子は、崇神天皇に滅ぼされた邪馬壱国の後裔であり、三輪の大物主神の子孫であり、そして、鹿島神社の建甕槌(建御雷)神の子孫でもあるということが解ります。大田田根子の名前の並べ方を見ると、三輪神と建御雷神は同神のようでもあります。
 鹿島神社には要石という石があって、地下に住む大鯰が暴れて地震を起こさないように封じたのだとされています。鯰とは、この辺りに「紀の国」を作っていた呉人、あるいは呉系楚人を表わすことが明白で、征服者の邪馬壱国の越人が石と表されることから、石の下に地震鯰を抑える形、建御雷神が地震鯰を封じる形に描かれたのです。単なる地震封じのまじないではありません。そしてこれは、同じ呉人の末裔である雲南のワ族が地震の神、ゴォラルゥオムゥを祭っていることにも結び付きます。
 「鯰絵」の中で、地震鯰と親密に描かれている要素は全て呉・楚人に関連付けられるものばかりです。以下、それを解説します。
 ●「鯰人」…鯰トーテムは、自身が鯰でもあるので、鯰の形をした人に描かれます。
 ●「蒲焼き」…鯰を意味するインドネシア語はイカン・バウング(ikan-baung)、フィジー語はカボア(kaboa)となっていますから、(南方系)縄文人は鯰をカバと言い、楚人がナマヅ、呉人がシャクと言ったのでしょう。鯰の「蒲焼き」のカバも、元々は鯰本体を意味する語だったようです。「がばがば」という大きく水が揺れる擬声語も地震鯰に関連するでしょうし、鯰(男性器)と女性器の大きさの合わない形容にもなります。「がばっ」という水ごと餌を飲み込む擬声語も生まれます。そして、「かばね(姓)」は「鯰の根」という意味になりますから、鯰トーテムの呉、楚人に由来する言葉とすることができ、これは「人の根源」と同義です。氐人(巴人=姫姓)は不死で、死ねばその体の半分は魚(*)になるとされていますから、「かばね、しかばね(屍)」という言葉も、当然、鯰に関係しています《*/顔が人で体が魚=鯰》。樺(白樺)という木がありますが、外側の粗皮を除けば薄く幾重にも剥げ、「浅褐紅(ベージュ色)にして白斑あり、土人採りて色紙、短冊に作り…(本草綱目啓蒙)」ということで、白斑を持つ鯰(=カバ。癜=ナマヅ=皮膚病)と結び付いたようです。油分が多く、笠や表紙、包装紙に使われたといいます。
 ●「鯰の頭に刀などを突き刺す、頭を要石で押さえる」…蒲焼きにする鯰を開く時には、頭に釘のようなものを打ち込みます。隋書流求国伝(=先島諸島)では、死刑は頭に箸のような長さ三十cmばかりの鉄の錐を打ち込んで行うと記されています。同じ越系の邪馬壱国の死刑法もこの流儀だったのではないでしょうか。つまり、鯰絵では鹿島神や恵比須が鯰(呉・楚人)を死刑にする形になっているのです。カタナ、マサカリに関係する呉の死刑法は打ち首と考えられ、これは雲南のワ族が首刈り族であったことにつながります。
 ●「遊女」…鯰が男性器の象徴である以上、その相手に専業化した遊女が深く係り、親密にあるいは敵対して描かれるのは理解できます。
 ●「滑稽」、「芸能」…これは猿楽、風流に由来し、猿楽の始祖は秦河勝とされていて呉系楚人なのです。猿楽、歩き白拍子、歩き巫女、金叩き、本叩き、歩き横行、猿飼いなどの七種類といいますが、木魚を叩いて歌いながら町を流したり、ボロボロの僧形で放浪して歌う鯰が描かれています。アソぶ(遊ぶ)という言葉自体もアソで楚を表す音ですし、ワラうは呉の民族名につながります。 また、秦河勝(=鯰)を祭る大避神社が兵庫県赤穂市坂越(さこし)にありますが、この地は古くは釈師(シャクシ)と言ったとされていることも、シャクと鯰の関係を示しています。
 ●坊主(=仏教)…日本に仏教を導入したのは蘇我氏で、母系で紀氏につながり、この氏族も呉系楚人と扱われています。テラ(寺)という音や、毛がないというのも、既に呉楚の要素に分類できています。
  ●食事…蒲焼きとも関連しますが、シャクシの語呂合せかもしれません。餅や団子(ねばねば)にも関係し、鯰人が食べていたり、餅つきを見ている絵があります。餅つきの往復運動もナマヅ(男性器)に関係します。また、月で餅をつく兎や月見団子とも結びつきます。月、兎も楚(秦氏)の要素と扱われています。
 ●狐拳…三すくみのジャンケンで狐、庄屋、猟師となります。この三すくみは虫拳のナメクヂ、蛇、ヒキガエルという呉、越、楚の要素を、同系の別のものに入れ替えただけです。

ナメクヂ=狐=鯰
蛇=庄屋=倉持ち=雷(三輪神、建御雷神)
呉系楚 ヒキガエル=猟師=和藤内=職人=火(和藤内は藤原氏に由来する。火は祝融)
 

 ●大工、左官…鯰弁慶の絵がありますが、七種の武器の代りに、大工や左官の道具を持った姿に描かれています。これは工(タクミ)で、鯰と通ずることを既に明らかにしました。
 ●薬屋、酒、盃…鯰が薬屋と化すのは、沢にヤクという音があり、薬と通ずるためです。姓氏録の蜂田薬師はやはり秦系氏族(呉楚)だったようです。また、秦氏の松尾大社は酒の神とされており、酒は百薬の長ということで薬に関係しますし、盃とも結び付きます。平たい土器は秦系要素らしく、建御雷神も盆(ヒラカ)を投げつけられ力を封じられています。深い土器、甕(ミカ)は越系要素になります。
 ●車力…車持氏が田辺氏と同じ豊木入日子命に系譜を連ねており、呉系楚人という関係です。
 ●材木屋、荒物屋、金物屋、草履・草鞋店、引き屋台…材木は木で姫氏に通じる。荒物は須佐之男と関連し、金物は金で坂田金時にも入っている文字です。草鞋(ワラジ)のワラは呉の民族名だと明らかにできています。引き屋台は、ヒキガエルにつながり、タイという楚の民族名も入っています。すべて呉・楚の要素ばかりです。
 ●龍…呉は鯰であると同時に龍でもありました。地震鯰は日本を長々と取り巻く龍形にも描かれており、頭には宝珠を載せています。正しく言うと、巻き貝の殻で、呉人はこれを模した髪型であることを既に示しました。「鯰絵」の著者は、龍の胴全体に足に似た突起が生えていると書いていますが、これはトゲトゲしい背鰭の表現で、背鰭に毒の刺をもつアイゴやオコゼが融合しています。橘のトゲ等、チクッと刺すものも楚に関連することを指摘しましたが、松葉などもここに加えることができます。
 ●鯰人の着物の柄…瓢箪や松葉、麻柄の着物を着ていることはすべて呉系楚の要素であると明らかに出来ています。
 ●剣…地震鯰は尾に剣を持った形で描かれている場合もあり、このことに関連するのは、尾から草薙の剣を出した八俣の大蛇、第七星(尾)が剣を付けた形に描かれる北斗七星(妙見)、そして、尾に針を持つ蜂です。八=蜂=尾針(尾張)=ハリマ(播磨)という連想が可能です。
 ●嘔吐、脱糞、鞠付き、クジラの潮吹き…すべて間欠的な動作で、しゃっくり、咳などにつながり鯰(シャク、サク、タク)と関係しています。またクソ(糞)は呉の関連語です。越人は「クソ」と言って呉、楚人をののしり、呉、楚人は「チェッ」と言って越人に舌打ちするのです。
 ●相撲と力比べも金太郎に見られるように呉系楚人の要素です。河童は鉄(金)を嫌い、猿と敵対的に描かれますから越系要素のようですが、これも相撲を好みます。相撲は共通要素でしょうか。

 呉、呉系楚の地震鯰と対決し、それを押さえつけるものとして、鹿島明神の要石、瓢箪、猿、えびす等が描かれています。「かなめ」という文字は要(エウ)で、瑤(*)と音が一致し、これも越を表す要素と考えられます。ですから、腰は「こし(越)」と訓まれます。《*/瑤族=ヤオ族》
 瓢箪は、苗系民族の始祖がその中から出て来るというもので、蛇、虫(蝶)と共に、呉、越、楚の全てに共通する基本トーテムです。したがって、地震鯰を押さえつける越の要素にも成り得るし、地震鯰自身も瓢箪なので、その柄の着物を着ていたりします。瓢箪から駒も出る(駒は高麗、狛で呉系楚)のです。
 猿は呉系楚人(大山咋神=虁、秦氏)の要素ですが、倭国大乱時には越(文・漢氏)と組んで呉(韓)を滅ぼしています。地震鯰自身であるが且つそれに敵対する形にもなり得るという微妙な立場です。これは他の呉系楚の要素にも言えることで、大工、遊女などもある絵では地震鯰に祈りますが、別の絵では鯰を叩きのめしたり、鹿島明神を拝むのです。しかし、越系要素の鹿島神、要石、恵比須(事代主)、大黒(大国主)、庄屋等の有産階級と鯰が親密に描かれることは、ほとんどありません。歴史の真実が伝わっていたとも思えないのに、江戸時代に到っても、このように弥生時代の民族対立が正確に区別、伝承されているのは驚きです。リンク「鯰絵解説」

二、倭国大乱前夜の日本

1、九州の漢(大国主)、秦(少彦名)同盟

 百済から北九州に渡来した文・漢人は、土地の首長、秦系の宗像氏と修好を結び、津屋崎に橋頭堡を築きました。このことは神代記に、「この大国主神、胸形奥津宮に坐す神、多紀理毘売を娶って生む子は阿遅鉏高日子根神。…今は迦毛大御神というなり。」という記述になって表れていますし、応神紀四十一年にも、「阿知使主(漢氏の祖)等、呉より筑紫に到る。時に胸形大神、工女等を乞うことあり。故に、兄媛を以って胸形大神に奉る。これは即ち、今、筑紫国に在る御使君の祖なり。」と表現されています。
 漢氏と宗像氏は互いに相手の娘を娶ったのです。神の婚姻は、実際には祭祀氏族の同盟、人と人の結びつきを意味しますから、多紀理毘売は無人島の奥津宮の神ではなく、九州本土の宗像大社辺津宮の神と考えたほうが良いでしょう。「紀」の田心姫です。

 

 この兄媛を祭る神社が、玄海町鐘崎にある延喜式名神大社、織幡神社と考えられ、秦系と漢系の融合した御使君の祖神なのでしょう。秦系の男(宗像大神)に、漢系の妻(兄媛)という組み合わせで、秦系と意識されていたことになります。現在の祭神は武内宿禰(秦系)となっていますが、織幡という神社名にはそぐわず、後世に入れ替えられた模様です。延喜式名神大社と非常に神格が高いので、十世紀には既に仲哀・神功、応神朝の功臣、武内宿祢を祭っていたと考えられます。
 神官は、代々、壱岐氏(秦系)、高向氏(漢系)の同族が勤めたとされているので、御使君は、宗像氏(=壱岐氏同族)と高向氏(=一大率同族)の娘が婚姻して生れた氏族と推定できます。また、壱岐直真根子が武内宿祢に瓜二つで、身代わりになって助けたという記述が応神紀にあり、壱岐氏と武内宿祢も親密なのです。こういったことから祭神が入れ替ったものでしょう。
 御使君は、使者として中国に派遣されたという氏族伝承に基づいて与えられた姓と想像できるのですが、それなら、魏に派遣された難升米(ダンショウベイ)や、坂上系図の段姓・高向調使(*)、民使主首と関係することになります。御使君は難升米と母系でつながるわけです。そして、秦氏は牛トーテムを含みますから、難升米と共に魏に向かった、次使の都市牛利というのが御使君の祖先かもしれません。《*調使/布地などの税(=調)を持っていく使いで、中国へ遣使されたことを示すようです。難升米は既に記したように民使主首、高向調使、高向村主等の一族であり、また、六世紀の船氏、津氏、葛井氏等の祖でもあります。》
 上記のような形で秦系の宗像氏と同盟し、津屋崎に拠点を得た文・漢人は続々と海を渡って来ました。これは秦人の大挙渡来(*)に不安を持ち、後漢の光武帝に朝貢(A・D57)して属国となる道を選んだ奴国の韓人(呉人)に、さらなる恐怖を与えたでしょう。そして、奴国はそれを拭わんがため、先制攻撃を仕掛けるに至ったようです。《*/天之日矛。B.C39以降》
 津屋崎町渡にある楯崎神社の縁起では、「夷の鬼神が侵入したが、オオナムヂ、胸方姫大神、自ら神軍を率いて敵を殲滅した。楯崎及び加羅船等の名は、けだしこれより起る。」となっていますから、この紛争の当事者が正確に伝えられています。夷の鬼神や加羅船は、奴国の軍隊の侵入を言うのです。現在の祭神はオオナムヂ命、少彦名命で、胸方姫大神と少彦名命が置き換えられていますが、これは同じ一族の神なので、矛盾はありません。
 文・漢氏、宗像氏連合はこの戦いに勝利を収めました。紀元106年頃のことです。しかし、奴国は「漢委奴国王」という金印を授けられ、後漢の属国として正式に認知されている国です。漢にどう申し開きをすればいいでしょうか。翌107年、漢人の王(倭面土国王帥升、阿智王)は、自ら後漢に赴き、捕虜とした奴国人の生口160人を献じて、その間の事情を説明し、許しを願いました(後漢書、安帝永初元年「願いて見を請う。」)。安帝との面会は許されませんでしたが、後漢はこの紛争を調停し、奴国の復活と漢人の国の承認を同時に行ったようです。つまり奴国は再起しましたが、宗像郡に漢人(=文人)の不弥国が築かれたのです。この頃は津屋崎町からすぐ南の宗像郡福間町辺りまでが版図だったと考えられます。倭国大乱後は、さらに南下して、糟屋郡新宮町付近まで拡大したようで、新宮町に(上の、下の)府という地名が見られますし、南方に大神(おおみわ)神社の存在があります。魏志倭人伝の「奴国から百里」という距離もこちらの方が都合良く、邪馬壱国時代の中心集落は新宮町に設けられていた可能性が強いでしょう。

2、出雲

 九州での勢力拡大をあきらめた漢人は、同族の辰韓人(越人、八束水御神角命=オオナムヂ神)が国を作っていた出雲に至り、その上位に入って融合しました。このことはオオナムヂ神の幸魂、奇魂が海原を照らし出雲に出現したと表されています。
 須佐之男は、須佐之男の娘、須勢理毘売(宗像の多紀理毘売でもある)を背負って根の堅洲国を逃れようとする大国主神に、「汝の庶兄弟を追い払って、宇迦の山本に宮を立てて住め。」という言葉を贈っています(神代記)。
 つまり、文・漢人(=ワニ)の最初の建国地は、出雲郡宇賀郷(島根県平田市)に求めることができるのです。北の十六島(ウップルイ)湾から入ったと考えられ、この山中に鰐淵寺という寺が存在するのは、決して偶然ではありません。
 出雲国風土記は、「天下造らしし大神の命(=オオナムヂ神)が神魂命の子、綾門姫を妻問いしたが、女神は逃げ、隠れてしまった。大神が伺い求めたところがこの里で、それで宇賀というのだ。」と記しています。しかしこれは、土地の秦系住民を追い払ったように受け取れる記述です。
 「宇賀の北の海辺には磯があり、その磯の西に洞窟があって、その中に穴がある。人が入ることは出来ないので深浅は解らないが、夢でこの磯の洞窟のほとりに至ると必ず死ぬ。故に、土地の者は昔から黄泉の坂、黄泉の穴と名付けている。」と続いていて、やはり、大国主神は須佐之男の根の堅洲国(黄泉)から宇賀の北の海辺へ出現したようです。
 一方、面土国王帥升との戦いでは何とか滅亡を免れた奴国も、後に文・漢人が秦人と連携し、倭国大乱を引き起こした時には、遂に滅びます。奴国の王族は志賀島に金印を隠して再起を期しましたが、それを取り出す機会は訪れなかったのです。海の中道へ逃れて志賀島に渡ったと思えるのですが、海の中道が文・漢系の不弥国に含まれていたなら、これは不可能です。したがって、倭国大乱以前の不弥国は宗像郡の海岸部のみを版図としていたと解釈しました。
 伊都国や筑後などの秦系諸国が北上し、南北から挟み打ちにされて、奴国王は海の中道に逃れるより術がなかったのだと考えられます。

 

三、倭国大乱と邪馬壱国の成立

 宇賀に居を定めた文・漢人は、周辺の先住者から圧力を加えられました。これは大国主神がその庶兄弟に迫害されたという記述になってあらわれています(「神代記」)。しかし、鬼道という宗教や医術などの先進文化の魅力か、平和的とは言えないかもしれませんが、やがて他部族を服従させ出雲を統一したようです。その後、しきりに東方への展開を図ります。これは因幡の八上比売を婚(よば)いし、高志の沼河比売を婚うという形で表現されています。相手はいずれも秦系です。
 やがて漢が衰え、その呪縛の解けたこの一族は、より豊かな土地を目指しました。「記」では、正妻の須勢理毘売が沼河比売との婚姻を嫉妬したので、大国主神が詫びて、出雲より将に倭国へ上りまさむとして、装束を整え立つ時に、片手は馬の鞍にかけ、片足はその鐙に踏み入れて歌われたという記述になって現れていますし、「紀」では、大国主神の幸魂、奇魂に「三諸の山に住もうと思う。」と語らせています。倭国大乱の始まりです。

 以下は今昔物語、太平記からの抜粋です。

1、鯉(鯰、龍)と鰐(蛇、石)の戦い

(A)今昔物語 巻第三十一「近江の鯉、鰐と戦う語、第三十六」
「今は昔、近江の国、滋賀の郡、古市の郷の東南に心見の瀬(大津市大石付近)があった。瀬田川にある瀬なのだが、そこに大海の鰐が上ってきて、琵琶湖の鯉と戦った。鰐は敗れて、(瀬田川を)返り下って山背の国の石となって居座り、鯉は戦いに勝ち、(琵琶湖に)返り上って竹生島を取り巻き、そこに居座った。」
 竹生島縁起(群書類従)では、海龍が大鯰に変じて竹生島を七廻りしていたが、難波海から宇治川を遡ってきた大蛇と戦って勝ったと記されていて、今昔物語の鯉は鯰や龍に、鰐は蛇や石に置き換えられるのです。
 意味不明とされているこの説話も、ここまで探り出した歴史に当てはめてみれば簡単に解釈できます。蛇(=鰐=石)はオオナムヂ神を祭る「越(文・漢人)」を表わしていますし、大鯰(=鯉、龍)は鯷冠をかぶる「呉(韓人)」を表わしているのです。
 これは倭国大乱時の出来事で、瀬戸内海から淀川、宇治川を遡ってきた越人と、古くから琵琶湖を支配していた呉人が瀬田川で戦い、越人は敗れて山背(宇治)に退き、そこに定着したという意味になります。《注…宇治は物部系、穂積氏の拠点です。》
 戦場となった心見の瀬には佐久奈度神社があり、佐久は鯰で、奈度は水または川を意味することが既に明らかになっていますから、この神社は「鯰川神社」あるいは「川の鯰神社」と翻訳できるのです。祭神は瀬織津姫(セオリツ姫)で、「瀬下りの姫」という意味になります。これは伝承の大鯰(鯉)に完璧に一致する神名で、琵琶湖の呉人、鯰トーテムの姫氏の戦勝を記念した神社ということになるようです。《*/「ツ」は「の」 と同義》
 「鯉(鯰)は琵琶湖に帰り上って、竹生島を取り巻いて居座った。」とされていて、琵琶湖を支配していた呉人が、この竹生島を祭っていたと扱うことにも問題はありません。この島は角度によっては、真ん中が凹んだ瓢箪型に見えますし、瓢箪は苗系民族の祭りの基本要素の一つです。竹生島には都久夫須麻(ツクフスマ)神社が置かれていますが、筑紫(チクシ)はツクシと読んでおり、竹(チク)もツクという音を持っていたのです。したがって、ツクシ(筑紫)国とは、「竹の人(竹+氏or子)の国」と解釈できます。魏志倭人伝では、呉人の国、奴国が福岡市付近にあり、最も人口の多い中心的な国でしたから、この呉人が「竹の人」ということになるでしょう。
 筑波国も、「古くは、紀の国と言ったが、筑箪(ツクハ)命が自らの名を残すために国名を変えた。」という常陸国風土記に従うより、竹の端(=箪、タン)の国で、呉人の姫氏が支配していた「紀の国」の別名と扱った方が良さそうです。「握り飯」という筑波に冠せられる語も、筑波を竹の箪(ハコ)と解釈すれば、竹製の編み籠に入った握り飯の弁当がイメージ出来ます。従来の、握り飯が「付く歯」という解釈では、握り飯とする理由が弱く、「○○餅」などの方が遙かに似合うでしょう。「ツク」が竹なら、「突く」という言葉に関連することも明らかです。「作る」も竹を編んで道具を作ることから生れた言葉かもしれません。スギナの子のツクシも、まっすぐでフシがあって、感じとして、竹に似ていることに由来するのではないか。
 「大炊寮の飯炊く屋の棟に、つくの穴ごとに、燕は巣をくひ侍る。」(竹取り物語、燕の子安貝)この「つく」は語義未詳とされていますが、穴があるので、竹とすることに不安はありません。屋根の棟に何本もの太い竹棹が使われており、切り口ごとに燕が巣を作っていたのです。
 都久夫須麻神社の祭神は浅井姫、市杵島姫、宇賀御魂で、「背比べして負けそうになった伊吹山の神、多々美比古が、姪の、浅井の岳の浅井姫を切り殺したところ、その首が琵琶湖に落ちて、竹生島が生まれた。」という伝説があります(帝王編年記、元明天皇養老七年)。竹生島縁起は、「孝霊天皇時代に、霜速彦命の子、気吹雄命と坂田姫命、浅井姫命が天降って、気吹雄命と坂田姫命は坂田郡東方に座し、浅井姫命が浅井郡の北に座した。気吹雄命と浅井姫命は勢力を争い、浅井姫は浅井郡北辺を去り、海中に坐して、その海の下からツブツブという音がしたので都布失島という。…最初に竹が生えたので竹生島というようになった。」と記しています。
 背比べは勢力争いを意味します。竹やツブ(タニシ等の小さな巻貝)は呉に結び付いていましたから、島となった浅井姫は呉系の神と解りますし、伊吹の神はそれに敵対した勢力であることも間違いありません。姪と叔父あるいは兄妹とされる同族間の争い、つまり、伊吹の神は呉系楚人(秦人)と解釈できるのです。伊吹山は坂田郡に在り、秦系要素のサカにもつながっています。したがって、竹生島には、原初、呉系の浅井姫が祭られており、倭国大乱後に秦系氏族が進出して、市杵島姫、宇賀御魂神が加えられたと推定できます。
 竹生島縁起では、孝霊天皇という卑弥呼に先立つ倭国大乱時代が当てられていますが、これは正しいでしょう。霜速彦が阿蘇で霜を降らせて祟りを為す鬼八に関係するなら秦系の神です。その子の兄妹の争いとされていますが、やはり、呉と呉系楚の争いと解するのが妥当です。
 浅井姫の居住地、浅井郡北辺の浅井の岳は、東浅井郡浅井町の金糞岳と推定できるのですが、麓に草野川という川が流れ、東浅井郡虎姫町に注いでいます。虎姫町には五や五村、唐国という地名があり、隣接する湖北町には五坪(ごのつぼ)、北の伊香郡にも木之本、余呉の地名があります。このあたりに呉人、虎トーテムの姫氏の展開していた様子がうかがえます。

2、蛇と蜈蚣の戦い

(B)今昔物語 巻第二十六「加賀の国の蛇と蜈と争ふ島へ行きし人、蛇を助けて島に住む語、第九」
「今は昔、加賀国の七人の下衆が、同じ船に乗り込んで、海に出て釣りをするのを業としていた。釣りに行く時でも、弓矢や武器を携えていたという。ある日、沖に漕ぎ出たところ強風に吹き流され、大きな島にたどり着いた。そして、その島の主に、『となりの島の主がこの島を領せんと攻め込んでくるので助けて欲しい。相手も私も人間ではないが。』というふうに頼まれ、七人は手を貸すことにした。巳の刻(十時頃)になると海の中から怪しい光が現われ、やがてそれが十丈(25メートル)ばかりの大ムカデであると解る。島の上からは同じくらいの大きさの大蛇が現われ、島の主が語った通りの戦いが始まった。大蛇は不利な戦いをしていたが、七人が加勢し、弓を射、刀でムカデの手を切って、ようやくそれを退治することができた。戦いの後、島の主はビッコをひいて、傷だらけの姿で表れ、助けてくれたお礼に、島に来て住むようにと招いた。そこで、七人の釣り人は、家に帰り、島に渡りたいものを連れていくことにした。七艘の船に穀物や野菜の種を積み込み、この島に行き、田畑を作り、今も栄えている。この島の名を猫の島という。」
 この話の解釈も簡単です。蛇とは、先の話と同じく、オオナムヂ(大国主)神を祭る、越人=文・漢人のことで、そして、ムカデは蜈蚣(ゴコウ)と書く。つまり、呉人=韓人のことなのです。島の主は、「明日の巳の時くらいから準備をして、午(うま)の時くらいから戦いを始めようと思う。」とも語っていますが、巳は蛇ですし、午はゴと読みます。
 実際の歴史に翻訳してみれば、隣の呉人(蜈蚣)との対立に苦しんでいた越人(蛇)を、加賀の呉系楚人(七人の下衆)が助けたことになります。ということは、これも倭国大乱時代を語ったもので、先の、琵琶湖南部の、瀬田川の大鯰の話に続いてきます。瀬戸内から淀川を遡り、近江に侵入してきた越を撃退した呉も、今度は日本海側から侵入してきた呉系楚と越の連合軍に屈したのです。竹生島の浅井姫の沈没もこの一環と扱うことができます。そして、加賀の呉系楚人は勢力を拡大し、蛇の島に移住しました。その人々は加賀の熊田宮を祭るとしていて、楚人の要素として挙げた熊が含まれています。猫の島をそのあたりの海中に求める必要はありません。農業が可能な豊かで大きな島は存在しないからです。
 蛇の居住地を「猫の島」としているので、蛇と猫を重ねても良いでしょう。ミャオ族を意味すると考えられますが、猫はしばしば狸とも表されています。これは呉の要素、狐と、常に敵対し、騙し合う動物です。元々、中国では山猫の類を意味する文字で、日本ではタヌキに当てられたためミャオというイメージに合わなくなってしまいました。
 「ムカデが蛇の急所を知っている。」、「ムカデを竹筒の中に入れて持ち歩くと、蛇の居所を知らせる。」などという民間伝承が広く存在しており、蜈蚣と蛇は不倶戴天の敵とされていました。元々、中国から伝わったもので、中国にも同形の伝承があります。これは呉、越の歴史を考えれば十分理解できることで、ムカデの方が主語になっているのは、ムカデ側の住民の伝承ということでしょう。

3、俵藤太の蜈蚣退治

(C)太平記(巻十五)
「承平(931~938)のころ、俵藤太秀郷が琵琶湖の瀬田の橋を渡っているとき大蛇に出会い、大蛇を恐れないその武勇を見込まれて、土地を争う敵を討ってくれと頼まれた。三本の大きな矢を用意して待っているうち、夜中になると、雨風、稲妻を先触れに、比良の高嶺からムカデの化け物が現れた。矢を射かけたが二本まで跳ね返され、最後の三本目の矢先に唾を吐きかけて射ると、矢が眉間から喉下まで突き通って、やっとのことでムカデを退治できた。そのムカデ退治のお礼に、口を結んだ俵や鐘など色々なものを貰って、おかげで藤太は豊かになったが、鐘は寺で使うものなので三井寺に献上した。」
 三井寺の鐘の由来を語るため、太平記に挿入された話ですが、これは先の今昔物語と同じ根を持っているようです。俵とは邪馬壱国首邑の所在地として挙げた田原本町と同じ音で、現在の町名自体は、田原本、唐子、阪手などの字に集落を作っていたと考えられる呉系楚人由来の地名のようです。つまり、俵藤太は越人(蛇)に加勢した呉系楚人を表しています。そして、俵藤太は藤原秀郷とされていますから、藤原氏が呉系楚人ということにもなります。
 瀬田のすぐ北には、呉人の地名として挙げた草津(ここには木の川もある)があり、日本海側から琵琶湖東岸へ進出してきた丹波、丹後の越人が草津を越えて瀬田の橋を渡り、呉人を比良山に追い詰めたが、膠着状態になっていたのか、あるいは、山城の越人と加賀の呉系楚人が挟み撃ちにしたという意味なのか。いずれにせよ、この話も、近江に進入した越人と呉系楚人の連合軍が呉人を破ったことを語っているのです。
 矢に唾を吐きかけたことを、毒を塗ったとも表現していて、これがムカデに利きます。したがって、ツバも呉系楚の要素に分類することができます。猿、蛇、牛(=虁)トーテムのこの一族の神、猿田彦が祭られているのは伊勢国一宮、椿大神社です。椿という花の、全体がポトリと落ちる様子は、打ち首というこの一族の要素につながるでしょう。刀剣や釜で、手(ヤオ語でプ・ミン=フミ=文氏)を守る張り出しの部分を、鍔(ツバ)というのも関係しているようです。
 俵藤太の前に現れた蛇は、「両のまなこは輝いて、天に二つの日をかけたるが如し。並べる角鋭くして、冬枯れの森の梢に異ならず。」と描写され、葉を落とした木に似た鋭い二本の角を持っていました。これは明らかに鹿の角で、常陸国風土記に現れた蛇、大和朝廷に追い払われた夜刀の神と同じ形です。
 また、俵藤太のムカデ退治を、滋賀県野洲郡の三上山とする伝承もあります。三上山は、元々、呉人が祭っていたのですが、後に越人、呉系楚人が奪い、自身の神を祭るようになったものと考えられます。野洲は、卑弥呼に三角縁神獣鏡を下賜された邪馬壱国の大豪族の居住地で、御上神社の祭神が天之御影神とされていることから、額田部氏系と既に明らかにできていますが、降臨は孝霊天皇時代とされていて、やはり倭国大乱時に置かれています。

  呉(鯷冠)    越    呉系楚
 鯉(鯰、龍)  鰐(蛇、石) …………… 瀬田川。呉の勝ち。佐久奈度神社
 蜈蚣  蛇 加賀の七人の下衆 猫の島。
越+呉系楚の勝ち
 蜈蚣  蛇+鹿の角  俵藤太
 (藤原秀郷)
瀬田。
越+呉系楚の勝ち
  (B、Cは同じ事件であろう。)

 以上、紹介した三つの話を合わせてみれば、文・漢人は出雲に建国した後、各地の呉系楚人と同盟して瀬戸内海へ進出、さらに摂津(東成郡がある)から淀川を遡って、三上山や比良山、竹生島を祭る呉人の国、近江に入ろうとしたが、瀬田で呉人に敗れ、一時は山城に退却を余儀なくされた。しばらくして、日本海側から加賀などの呉系楚人と連携した別働隊が近江に侵入し、南北から挟みうちにして呉を破り、呉系楚人もまた豊かな近江(猫の島)に移住したということになりそうです。
 近江に、北陸勢力の、移住の跡があるかと言えば、「ある。」 愛智(えち)郡があり、これは越の転訛と考えられるのです。また、隣には能登川町も見られ、これが能登から移動してきたことは明白です。
 越人(文・漢人、大国主、ホト)と呉系楚人(秦人、少彦名、タイ)が卑弥呼を共立し、最も先に渡来して、漢代に百余国を作っていた呉人(韓人、アカル姫、ワラ)に対抗した戦いが倭国大乱です。そして、その戦いに勝った結果、貧しかった俵藤太も豊かになりました。俵、鐘(金)、三井も呉系楚人に関連付けられます。
 「(巨人の)弁慶は三井寺の鐘を、肩に担いだ槍の一方の端につるし、もう一方の端にぶら下げた紙の提灯でバランスをとりながら、寺から逃亡するのである。(「鯰絵」)」
 重い鐘は大人(呉/呉鐸)の要素で、軽い紙提灯は小人の少彦名(楚=ビ=微)の要素とすることができます。槍は天之日槍に関係して、少彦名と同系です。弁慶(呉系楚人、姫姓)は呉と楚の微妙なバランスから成り立っていることを示していますが、三井寺とも結び付いています。そして、三井(御井)の神の別名は木俣の神なのです。俵はタイ+ワラでしょう。大国主(大黒)が俵の上に座るのも、恵比須が鯛を釣るのも全て理由のあることです。

 

続き、「帰化人の真実、4」