弥生の興亡、3

帰化人の真実、4

   4、楽楽福神社
   5、大山津見神の移動
   6、饒速日の大和進出
   7、日光の蛇と蜈蚣の戦い
   8、九州の抗争
   9、邪馬壱国の吉備進出
  10、稲荷の断層




4、楽楽福神社

 鳥取県山間部の日野郡には、孝霊天皇やその妻、細姫、娘の福姫を祭る楽楽福神社があり、孝霊天皇が米子市東部を流れる日野川を遡って、日野郡の鬼を退治したと伝えています。その鬼の名は牛鬼。頭は馬で、胴体は牛、四つ足は猿のようであったといいます。楽楽福神社の祭神は、竹で目を突いて一眼を失ったため、その土地では竹を植えない。御神体が朴の木で出来ているので、朴歯の下駄は履いてはならないというタブーがあるともされています。(「妖怪。鬼伝説の研究」若尾五雄、三一書房。)
 牛鬼は、馬(←プ・マン。午=ゴ)、牛、猿トーテムの合成なので、呉(韓人)と呉系楚(秦人)の融合した勢力を表しているようです。これを呉系楚と同盟した越(文・漢人)の孝霊天皇が退治したことになり、呉のトーテムの竹を忌むというのが理解できます。呉系楚人も一枚岩ではありません。神社名、楽楽福(ササフク)のササは酒や笹につながり呉系楚、フクは越を表す言葉です(*1)
 神体が朴の木というからには、越人は朴(ホホ)の木を尊んでいたと思われます(*2)。また、ホホは頬でもあり、大国主の手に弄ばれていた少彦名が、飛び上がって大国主の頬に噛付いたという「神代紀」の記述の意味もようやく明らかになります。呉系楚人の狗奴国が卑弥呼に反旗を翻したのは既に記したとおりです。(*1)福(フク)/越系とした辰韓の王姓が朴で、これには瓢箪(フクベ)の意味があると三国史記は記します。(*2)「竹を植えない」のは竹の繁殖を妨げる方向で、「朴歯の下駄を履いてはならない」というのは朴ノ木を切らない、保護するという方向。竹は敵視するが、朴は大事にするという正反対の扱いになります。》
 大黒(大国主)、恵比寿(→蝦夷、事代主)、お多福(福姫)、全て頬が大きく膨らんだ瓢箪(ふくべ)顔に描かれ、そして、これはホホホという笑みにも結び付きます。また、朴は榎(えのき、ゑのき=越の木)の意味にも使われますから、全てが矛盾無くつながるのです。
 恵比寿、大黒が大きな耳たぶを持っている(福耳、瓢箪型)ことも、「弥弥」、「耳」という上級の官名に関係しているでしょう。耳は犬の能力の表現なので、ヤオ族とすることにも矛盾しません。また、少彦名の行動は、飛び上がって人に噛付く小さな虫、蚤を思わせますから、野弥宿祢という人物と、その後裔の土師氏を少彦名系(秦系=呉系楚)に分類することもできます。
 孝霊天皇の鬼退治伝説は、邪馬壱国(この頃は邪馬壱国ではない)が、島根県の海岸部から内陸部へ勢力を拡大したことをもの語っていて、近江の戦闘に先立つ倭国大乱時のエピソードとすることができます。この後、中国山地を越えて瀬戸内に進出したことを想像するのは容易ですし、実際に、備中の蟹タケルが、戦わずして、孝霊天皇に降伏してきたという伝承が残っています。蟹は呉系楚人(秦)のトーテムで、赤城山の蜈蚣を助けたという伝承もありますから、呉(韓人)側についていたのです。

 

 蟹トーテムは姫姓で、猿トーテムは楊姓と考えられますが、混血すれば、それぞれ両者の特徴を併せ持つことになります。しかし、その濃淡に差があるようなので、何とか上記のように分離できるかもしれません。入り交じって集落を為していたでしょうから、その時、その当事者の都合でどうにでも入れ代わり得るのですが、楚人のうち、姫姓は同姓の呉を支持するものが多く、楊姓は同民族(ヤオ、トゥチャ族)の越にくみするものが多かったのではないか。

《注…猿と楊姓/捜神記(巻十二)に「蜀中の西南、高山の上に猿によく似たものがいる。身長は七尺。猳国(カコ)とか馬化(バカ、マケ)、あるいは玃猨とか言うが、道行く婦女をうかがい、美しい者をさらって何処かへ消えてしまう。さらわれた女は猳国の妻とされ、男子を生んだものは、抱いて、すぐさまその家に送り帰す。その子供は皆、人間と同じ形である。成長すると人と変らず、皆、楊を姓とする。今、蜀中西南に楊を名乗るものが多いが、これは皆、猳国、馬化の子孫である。」という旨の記述があります。つまり、楊は猿トーテムの姓です。
 中国の隋王朝は楊姓なので、猿トーテム、それに代わった唐は李姓で、虎トーテムと考えられます。したがって、唐の太宗(李世民)が侍臣と馬に乗って遊んだ時、隋の内庫にあった、手を組み合った猿の形をした玉製の馬の轡を嫌って鞭で砕いた(酉陽雑爼)という心理が良く理解できるのです。》

 楽楽福神は片目ということで、天目一箇神との関係も明らかです。この神は越系の鍛冶神で、その後裔氏族が倭鍛冶(やまとのかぬち)と表されました。代表氏族として伊福部氏、久米氏、鏡作氏等が挙げられます。
 「伊福部氏の神は雷神で、落雷によって妹を殺された兄がその仇を討とうとしたが、神の所在を知らなかった。飛んできて肩(カタ)に止まった雉の尾にヘソ(積麻=麻糸を巻いたもの)をかけ、後をたどって雷神を見つけた。」という伝承が常陸国風土記逸文にあります。
 伊福部氏の神は、カタ、雉(姫氏=秦人、韓人)、ヘソに所在を明らかにされ、対立的に描かれています。鍛冶神には金山彦、金山姫もあり、別系統でこちらは韓の鍛冶と表されます。

 

 金山彦系も鋳物をするでしょうし、天目一箇系も鍛造するでしょう。銅鐸は、年代から考えて金山彦系の産物です。上記の分類は、各種伝承でどちらに結び付けられるかということです。製鉄は呉系楚(カラ、カタ)の要素で、刀(カタナ)という言葉も民族名から派生しています。伝承では、鉄は常に蛇と対立する形に描かれていて、三輪神も着物に糸の付いた針を刺されてその正体を暴かれました。以上のように、金は秦系要素に分類され、坂田金時の名にあらわれたわけです。朝鮮では逆に、新羅王家の金氏は文・漢系です。日本ではカネ(鉄)で、朝鮮では黄金なのでしょう。

5、大山津見神の移動

 出雲、伯耆から中国山地を越えて瀬戸内海に進出した文・漢氏(越)は伊予の大三島に大山津見神を祭っています。伊予は重要拠点で、愛媛県の今治市から広島県の三原市、尾道市にかけて、瀬戸内海は大三島などの島嶼に遮られて狭い水道に分かれています。現在、瀬戸内しまなみ海道が設けられていますが、ここを押さえれば瀬戸内海の東西交通を扼することができるのです。卑弥呼の跡を継いだ宗女、壱与は地名を取って名付けられたらしく、伊予国の別名が愛媛とされるのは、壱与に由来すると考えられます。
 その後、文・漢氏は瀬戸内海を東進し難波に到りました。しかし、難波(河内)には最も強力な韓人が控えていて食い込めず、淀川を遡って、摂津の三島(高槻市)に到り、その地の秦人(三島の溝咋)を傘下に加えたのです。《*/(ミソ=微楚)+(咋=虁)=天之日矛系→三島宿禰 》
 伊予国風土記逸文では、「乎知(オチ=越)郡、御島(=大三島)。坐す神の名は大山積神。一名、和多志の大神なり。…この神、百済国より渡り来坐して、津国(摂津)御島に坐す云々。御島と言うは津国御島の名なり。」となっており、大山津見神は摂津の三島から伊予へ移動したため、地名も移されたのだと記しています。しかし、百済からの渡来なら方向が逆で、実際には、伊予から摂津へ移動しているのです。これは、後の、全てが畿内を中心に発展したとする畿内中華思想により、方向が逆転されたものでしょう。
 摂津の大山津見神を祭る神社は、式内社の三島鴨神社で、ここには鴨氏もくっ付いています。三島神は、その後、邪馬壱国の発展と共に伊豆へも移動しました。

 

 以上が大山津見(大山祇)神の眷族ですが、この神は伊予、乎知郡の三島の神で、物部系、越智氏の神です。坂上系図では「朱姓。これは小市、佐奈宜等の祖なり。」となっていましたから、矛盾はありません。百済から渡来したとする文・漢系の神なのです。
 山(山部)の大山津見神と同族で、対になるのが、海の大綿津見神(綿津見三神は安曇氏の神)です。こちらは海部とされました。伊邪那岐、伊邪那美から生まれた順序に従えば、大綿津見神が兄で、大山津見神が弟ということになります。安曇氏や「火明命」後裔氏族という尾張氏が海部の代表です。

6、饒速日の大和進出

 物部氏の祖神、饒速日命は、先代旧事本紀では、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊となっていて、天照、火明、櫛玉と表されているのはすべて同一神で、物部氏の祖神と明らかになりますが、どこからみても太陽神とわかる名です。
 インドネシア、マレー語では太陽をマタハリといい、これは目(マタ)と日(ハリ)の合成語です。つまり、「日の目」が太陽を意味しますから、天目一箇神も「空にある一つ目」で太陽神ということになり、饒速日の別名と考えていいかもしれません。一つ目は同時に竜巻をも表します。したがって、天目一箇神は火と暴風の神、鍛冶神ともなるのです。

 播磨国風土記、飾磨郡
「昔、大汝命の子、火明命は心、行い甚だ強し。是に父神これを患うを以って、之を逃れ棄てんと欲す。……火明命は水を汲み還り来て、船の出で去るを見て大いに怒り、すなわち風波を起してその船に追い迫る。」

 火明命はオオナムヂ神の子で、風と波をおこす神とされています。親子間で皇位に関する争いでもあったのでしょうか。また、印南郡には、「丸部(わにべ)臣等の始祖、比古汝茅(ヒコナムチ)」という記述があり、和迩氏がオオナムヂ神の後裔であることを苗系語順で示しています。宍禾郡には、「伊和の村。本の名は神酒。大神、酒をこの村に醸む。故に、神酒村という。また、於和村という。」とあって、伊和大神が神酒(ミワ=三輪)の神であることを教えてくれます。

 

 ホノニニギ命以下は記、紀に見られる大和朝廷の祖先の系譜ですが、海幸彦、山幸彦など、文・漢氏の大綿津見、大山津見神と同じ形を採っており、邪馬壱国の氏族伝承を改変したことが読み取れます。皇室は縄文系で、自身の古い祖先伝承を持っておらず、邪馬壱国の形を借りたわけです。神祇も素朴な自然信仰で、人格神や体系を持たなかったらしく、やむなく母系から入った太陽神の天照大神(壱与、伊勢神宮)を祭るようになりました。
 製鉄、製銅、狩猟(鹿の角等)は山の民の仕事ですから、漁を左右する針、ヤスなどの漁具の材料も山から供給されることになります。海の民が下位に置かれるようになるのは致し方ないことかもしれません。以下は播磨国風土記に見える伊和大神の系譜です。

 
(大汝命の子)櫛玉火明饒速日命(=伊勢津彦/播磨→大和→伊賀→伊勢へと移動、伊勢の国名となる)

 阿賀比古の存在から、新潟県の阿賀野川は文・漢系の地名と解りますし、越後一宮の弥彦神社(*)には、神だけに見せる一社秘伝の「天犬舞い」が伝えられています。越後の支配層は越人で、ヤオ族と考えて間違いないようです。《*/延喜式の伊夜比古神社=出雲の揖屋につながる》
 これは先代旧事本紀に、高志深江国造は、「道君同祖」となっていて、阿倍氏などの同族とされていることにも合います。阿部氏の祖、大彦は孝元天皇の子とされており、崇神天皇以前の皇統、邪馬壱国系氏族です。
 播磨の伊和大神(オオナムヂ神)の子、伊勢津比古、伊勢津比売を祭る一族が三重県(伊勢)に移動し、神名がそのまま国名となりました。伊勢津彦も風と波を起こす神で、火明命と同じ能力を持ちます。播磨国風土記では、衣縫の猪手、漢人の刀良等の祖が伊勢野の山本に社を立てて敬い祭ったとされていて、漢人の神であることが示されています。したがって、衣縫というのも文・漢氏なのです。姓氏録では衣縫造はニギハヤヒ後裔氏族となっていて、矛盾はありません。伊勢国風土記逸文には「出雲の神の子、出雲建子命。又の名は伊勢都彦命。又の名は櫛玉命。」という記述があり、伊勢津彦命と、出雲の大汝神の子、火明櫛玉饒速日命は同一神です。石龍比古が阿蘇神社の祭神、建磐龍命と同一神であることは既に述べました。
 播磨国風土記は、播磨の漢人が四国(伊予、讃岐)から播磨に移住したことを記しており、漢人は伊予を傘下に収めた後、四国沿いに東進し、日本海側から展開した伊和大神の一族(石作氏など)と連携して播磨に進出したようです。伊和神社は北向きに社殿を作っていますし、出雲と関連する話が多いのもそのためでしょう。播磨(針間)という国名をみると、蜂、橘などチクッと刺すものに象徴される秦人(天之日矛、少彦名系)が開拓していた様子です。そこへ、オオナムヂ系の文・漢人が進出し、抗争の結果、文・漢人が主導権を握ったのです。吉備を素通りしているのは、そこに強力な韓人の国があって、跳ね返されたものと考えられます。
 播磨国、讃容郡、邑宝(おほ)里と久都野に弥麻都比古命の伝承、そして、飾磨郡には、鹿と結び付けられた大三間津日子命の名が見られ、これは御真津日子訶恵志泥(ミマツヒコカヱシネ)命と表された孝昭天皇のことでしょうか。出雲から進出すれば、讃容郡を経て播磨の中心地、飾磨郡へ入ることになるのです(出雲街道)。記、紀では、神武、綏靖、安寧、懿徳、<孝昭>、孝安、<孝霊>、孝元、開化という即位順になっていて、孝霊天皇の代の172年頃?に倭国大乱が収まり、卑弥呼を王として共立したのですから、大乱は三代の首長に渡って続いたのかもしれません。孝昭天皇には春日臣、小野臣、柿本臣等、後裔氏族が多く、近江国造もこの天皇の子、天押帯日子命の子孫とされていて、実在感があります。三上山の天御影神の後裔という額田部氏の祖ともできそうです。大乱は後漢の桓帝(147~167)、霊帝(168~189)の間で、邪馬壱国の一族の渡来後70~80年とされていましたから、文・漢氏の渡来年代を紀元80年頃に置いて、150年代から大乱が始まり、172年頃まで続いたとすれば、住むようになって70~80年、桓、霊の間という二つの条件を満たすことになります。以上から、文・漢氏は紀元80年前後に渡来し、倭国大乱は150年頃から172年頃まで、孝昭、孝安、孝霊の名を与えられた三代の首長に渡って断続的に続いたとしておけばいいのではないでしょうか。
 中国を離れたのが21~22年ですから、馬韓に居住したのは60年ほど。二、三世代です。海を渡った土地の情報を得て、南下したものと考えられます。その頃、東へ分かれて新羅を頼った一族(65年、閼智)が後の新羅王家の金氏となりました。
 播磨を制圧したオオナムヂ(伊和大神)、火明の一族は、摂津の一部(兵庫)には食い込んだものの、難波には強力な韓人が控えていて入れず、淀川を遡って三島(高槻市)を押さえた後、さらに進んで山城(宇治)に拠点を築き、宇治川、瀬田川から近江に進出しようとしました。しかし、近江の韓人も強力で、戦いに敗れ、一時、山城(宇治)に退却を余儀なくされたのです。その後、北陸(加賀、能登)の秦人の協力を得て挟み討ちにし、近江を制圧したことは、今昔物語などの伝承から明らかにした通りです。
 また、摂津の三島進出とほぼ同時期に、淀川の対岸、枚方市や交野市付近も傘下に収めていたようです。ここは古代の河内国の茨田郡や交(カタ)野郡で、楠(クス)葉、園(ソノ)田という郷もあり、延喜式の交野郡二座は片埜神社と久須々美神社です。片埜神社の祭神は須佐乃男命ですから、地名と神祇から見て、秦人の開拓地ということは疑えません。久須々美神社の祭神は、久須々美大神で系統不明ですが、クスは呉楚につながる音だと既に明らかにできています。枚方市、交野市から寝屋川市にかけて、小倉(木地師)、星田(妙見)、太秦(秦氏)、三井(木俣神)、田井(タイ族)、出雲(須佐乃男)、木田(姫氏)、楠根など秦(呉楚)系と扱える地名が散りばめられています。長尾も、倭大国魂神を祭った市磯長尾市の存在があり、秦系の地名です。
 このあたりを制して首長階級となった文・漢人は、物部肩野連、肩野連、交野忌寸となって姓氏録に名を残していますが、その居住地として、枚方市三矢(ミンチャ)、伊加賀(物部肩野連は伊香我色乎の後)、藤田(藤=蛇)、藤阪(漢系+秦系?)、杉(三輪神社神木)、交野市倉治(=熊野の高倉下)、天野ケ原(アマ=海)などの各町を挙げていいでしょう。ただ、地名が古代から受け継がれてきたものかどうかという問題はあります。また、漢人として平方村主の名も見えますが、これが、播磨国風土記の、茨田の枚方の漢人、額田部氏と考えられます。
 枚方から淀川支流の天野川を遡り、私市の奥の山中に進むと、物部氏の祖神、饒速日命が乗って天下ったとされる天磐船を祭る磐船神社に当ります。祭神はもちろん饒速日命です。どこから転がってきたのか、巨大な岩石が積み重なってトンネルを作り、川がその下を流れていて、現在では、この川筋に(旧)国道168号線が走っています。そして、これが北河内から大和へ侵入する最も労の少ない道なのです。天野川流域に安曇氏系の住吉神社が分布していることも考慮に含めると、文・漢氏がこの川筋に沿って大和に侵入したことを疑えません。饒速日は天磐船に乗り、河内国河上の哮峯に天下った後、大和の鳥見の白庭山に移ったといいます。哮峯は河上ですから、天野川水源の山を指すのでしょう。四条畷市、上田原あるいは生駒市、南田原町の生駒山系の一峰を当てはめれば良いようです。田原、俵は秦系の地名で、大和には秦人が先行していました。これは渡来した時期が早いので、当然のことではあります。つまり、文・漢人は淀川から天野川を遡り、天野川河上(哮峯)にある田原に到って、その地の秦人を傘下に収め、途中の私市に磐船の伝承を残した。その後、東の小丘陵を越え、富雄川を下って鳥見の白庭山に移動したという経路になりそうです。
 鳥見は、郡山市境に近い奈良市南端(石木町)に登弥神社があり、延喜式、添下郡の登弥神社に比定されています。トミを冠する氏族には、饒速日(漢氏)を始祖とする登美連、鳥見連と、紀氏(秦氏)の祖でもある豊城入彦命を始祖とする登美首、止美連の二系統があり、神社の祭神も、西本殿に高皇産霊命、誉田別命、東本殿に神皇産霊命、登美饒速日命、天児屋根命となっていて、物部(漢)と中臣(秦)の二祖神が併存しています。誉田別命(応神天皇)は後に加えられたもので、本来は西本殿に高皇産霊命、饒速日命、東本殿に神皇産霊命、天児屋根命という組み合わせが想像できます。この神社は木島(このしま)明神と呼ばれてきたといいますし、神事に筒粥占いがあるので、秦系か韓系(姫氏)の神社に見え、一見、文・漢系の饒速日とは関係がなさそうですが、両者が習合していたのなら、これも問題にならないでしょう。《注…筒粥/竹の筒を入れて粥を炊き、筒の中にどの位入ったかで占う。竹もヌルヌルの粥も呉系の要素です。》
 やはり、この神社は延喜式の登弥神社とみて間違いなく、饒速日の移動したという登弥の白庭山は神社の裏山と考えられます。木島(コノシマ)はキのシマではなくオオナムヂの「子の島」と解釈すべきかもしれません。丹後に火明命を祭る籠(コノ)神社の存在があります。リンク、饒速日の来た道
その後、文、漢氏は登弥から奈良盆地中央部の田原本町付近に移動して、四隅を鏡作神社で囲って邪気を防ぎ、三輪山にオオナムヂ神を祭りました。出雲の大国主(オオナムヂ)神は大和の三輪山に移動して大物主神となり、邪馬壱国が成立したのです。リンク、魏志倭人伝の風景「邪馬壱国」
 卑弥呼を女王とする邪馬壱国の成立は、孝霊天皇とされる時代のことなので、それ以前の文、漢氏の首長は大和には存在しなかったはずです。二代目からの綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安の各天皇の都は、より古くから大和を開拓していた秦人(楚人)、韓人(呉人)の首邑の伝承を記したものかもしれません。次に述べるように、それらしい感触はあります。綏靖天皇の葛城、高岡宮は葛城氏、蘇我氏の拠点とされている秦系の土地です。安寧天皇の片鹽、浮孔宮はカタを含んでいるし、そこにあるのは式内社の石園坐多久虫玉神社で鯰神を祭っています。また、浮穴直という氏族がいますが、「移受牟受比命の後」と所属不明で、地名のイソノから考えると秦系(楚)と思えます。懿徳天皇の軽、境岡宮はカラから転化すると考えられますし、付近に五条野という地名もあります。孝昭天皇の葛城、掖上の宮と孝安天皇の室、秋津島宮も御所市の南方にあり、葛城氏、蘇我氏の居住地です。《注…初代、神武天皇は崇神天皇の大和入りまでの半生を分離したもので邪馬壱国の首長ではありません。リンク「諡号の秘密」

 

 文、漢人と行動を共にした出雲の秦人(少彦名、神皇産霊、須佐乃男、天之日矛、五十猛神)は、邪馬壱国成立後に紀伊、河内へ進出し、そこに展開していた韓人(呉人)を吸収する形で首長となったようです。そう考えれば、紀伊、河内には、邪馬壱国(越人)に敵対的で強力な秦人が生れ、須佐乃男や五十猛、天児屋根など、秦(呉楚)系の神が祭られることになります。
 全ての地域が同じ図式とは思えませんが、大雑把に分けると、倭国大乱は文・漢人(越人、鹿蛇)+秦人(呉系楚人、猿)の連合軍に、韓人(呉人、蜈蚣)+秦人(呉系楚人、蟹)の連合軍が敗れて終息ました。首長として孝霊天皇の幼女、卑弥呼(ヤマトトトビモモソ姫)を共立し、大和に邪馬壱国が成立。紀伊には秦人の狗奴国(姫姓、雉)、河内に狗奴国の臣、コウチヒコ(楊姓?、猿)という勢力分布です。この紀伊の秦人が、邪馬壱国の一族と共に出雲から移動したことは、須佐乃男命が最初、出雲に出現し、その子の五十猛命、大屋都比売、都麻都比売が木種を紀伊国に渡し奉ったとされていることから導き出されます。そして、ここに大国主と共に国作りをしたという少彦名を重ねることもできるのです。秦人(=狛人、韓人、熊襲)の移動経路は以下のようになります。最初、天之日矛は河内、紀伊と近江に入れませんでした。

 

7、日光の蛇と蜈蚣の戦い

もう一つ、「俵藤太」や「加賀の七人の下衆」のムカデ退治とそっくり同じ形の伝承がありますので挙げておきます。

「昔、日光二荒山の神と赤城山の神が水をめぐって争い、初めは、赤城の神が優勢であった。日光の神は鹿島神の助言を得て、自分と血のつながりがある小野猿麿という弓のうまい若者を思い出し、白い鹿に姿を変え、猿麿を招いて援助を頼んだ。赤城の神はムカデに姿を変え、日光の神は蛇に姿を変えて戦い、ムカデが押しぎみであったが、猿麿がムカデの左目を射貫いたので、赤城の神はほうほうのていで逃げ帰った。今でも、日光の二荒山神社では赤城山に向かって弓を射る神事があり、赤城山の麓の神社では日光に向かって刀を振る神事がある。」

 日光二荒山神社の祭神はオオナムヂ神ですから、越系で、鹿島のタケミカヅチ神とつながり、白鹿ともなり蛇ともなります。赤城の神はムカデで呉を表しますが、赤城神社の祭神は崇神天皇皇子という豊城入彦命で、その母は紀の荒川戸辺の娘とされていて、紀(姫)氏に系譜がつなげられています。呉人とすることに問題はありません。赤城は赤+姫なのでしょう。助っ人に頼んだ小野猿麿は、猿で、日吉、松尾大社の大山咋神(秦氏)に結び付き、呉系楚人を表します。小野は和迩系の小野氏ではなく、木地氏の祖とされる小野宮(*)に由来するか、あるいは、猿女君と小野氏が結び付いているので、そこから引き出されたかでしょう。猿女君は後裔に稗田氏がおり、ヒエ(日吉)で秦系とすることができます。《*/小野宮…文徳天皇第一皇子、惟喬親王。母は紀名虎の娘静子。母系で紀氏につながる。》
 武器は、猿の呉系楚は弓矢、ムカデの呉は刀(カタナ)で表され、越は矛です。上毛野に呉人(ムカデ)の有力国があり、下毛野から越(鹿蛇)と呉楚(猿)の連合軍が侵攻して戦い、決着がついたのでしょう。ただ、赤城の神は片目(カタメ)になっただけで逃げ帰っていますから、ムカデが死んだという近江ほどの完勝ではなく、呉系の豪族が大和朝廷時代になっても生き延びていたかもしれません。

8、九州の抗争

 九州の文・漢氏、秦氏(宗像氏)の連合は、奴国を破った後、漢の掣肘により停滞を余儀なくされていましたが、倭国大乱時に北九州から南下し韓人の国を制圧しました。肥前国基肄郡(福岡県鳥栖市)から筑後国御原郡(福岡県小郡市)あたりにも強力な韓人の国が存在したようで、肥前国風土記には、この地の姫社神社の荒ぶる神が祟りを為したため、宗像珂是古が祭祀者となって祭ったという記述が見られます。宗像氏は同じ姫姓なので、この神を祭る資格があったわけです。
 その後、文・漢氏は筑後の三毛(福岡県三池郡大牟田市)に有力国を作り、佐賀県の杵島や熊本県の阿蘇にまで影響力を及ぼしました。ミカ、ミケは越系の地名とすでに分類できています。

 景行紀
「(景行天皇は)筑紫の御木(三毛、三計)に着いて、高田の行宮においでになった。時に倒れた木があって、長さは九百七十丈、役人達はその木を踏んで往来していた。天皇が何の木かを御尋ねになると、一人の老人が答えて申し上げた。『この木は歴木(クヌギ)といいます。昔まだ倒れていない時は、朝日に照らされて佐賀県の杵島山を隠し、夕日にあたって阿蘇の山を隠しました。』」

 景行天皇を事実と考える必要はありません。クヌギも越系要素のようで、三池に越人の建てた国があり、佐賀県杵島郡や阿蘇にまで勢力を伸ばしたが、倒されて大和朝廷の役人達の下に置かれていたという意味になります。この木が千丈に三十丈足りないのは、迁(セン)から三十(ミソ=楚)が抜けてしまったためでしょう。吉野ヶ里遺跡もこの国の勢力圏に含まれそうです。

 今昔物語 巻第二十九 「肥後国の鷲、蛇を咋ひ殺す語、第三十三」
「今は昔、肥後国■郡に住んでいたものがいた。家の前の大きな榎の枝の下に、鷲小屋を作って鷲を飼っていたが、大きな蛇が榎の木を伝い降りてきて、鷲が眠っているすきを窺い、口を開けて鷲の嘴の根元まで呑み、鷲の身体に巻き付いて絞めあげた。鷲は素知らぬ顔をして目をつむっていたが、その気になると簡単に蛇を食いちぎって、何事もなかったかのようであった。思うに、蛇は身の程知らずもいいところであった。自分の手におえない者を滅ぼそうとすれば、このように却って自分の命を失うのである。」

 榎とは夏と木の組み合わせで、そこから蛇が出てくる。つまり、夏后少康から蛇で表わされる越が出てきたことに対応しています。榎(か)を「えのき(和名抄では衣之木)」と読みますが、「越の木」ではないでしょうか。越は「ゑつ」で音が異なるとも考えられますが、恵比須は「えびす」とも「ゑびす」とも表記されています。発音を区別する民族とそうでない民族がいたということにすぎないように思えます。鷲(シウ)は周(シウ)に同じ。呉は周から分かれたという伝承を持っていますし、ワ、ワラは呉の民族名でした。それに加えて、天日鷲命を祖とする氏族は神魂系=秦系です。どうも、肥後の呉人か呉系楚人を表わしているようです。倭国大乱時代、越人は肥後に侵入、一時支配したが、やがて、そこの呉系楚人が目を覚まし勢力を盛り返して、返り討ちにあったという意味にとれます。雉は、体に蛇を巻き付かせておいて、羽の力でぶつ切りにするという俗信にも重なりますので、ここでは鷲と雉は等価のようです。
 三毛のクヌギの大木の話と合わせてみれば良く理解できます。邪馬壹国は福岡県北部の津屋崎から三池まで南下して、さらに肥前、肥後へ侵入し、杵島や山鹿、菊池、阿蘇等を勢力に収めたのですが、おそらく、大和朝廷時代になって、肥後■郡では、秦系一族の逆襲にあったのです。

 

 ここで、もう一度、阿蘇を検証します。上記の系譜になりますが、崇神天皇以前は邪馬壱国の王朝なので、そこに系譜をつなぐ建磐龍命は文・漢人の神ということになります。播磨国風土記、揖保郡に、「伊和大神の子、石龍比古命と石龍比売命」という名が見られます。伊和大神とは、兵庫県宍粟郡の延喜式名神大社、伊和坐大名持御魂神社の祭神、オオナムヂ神のことですから、すでに記したように阿蘇の神、建磐龍命は石龍比古命と同神で、オオナムヂ神の子と扱えます。阿蘇山カルデラに大鯰と表される秦人(呉系楚人)が進出して開拓し、後に、邪馬壱国の文・漢人(越系)、建磐龍命が大鯰を追い落とした、つまり、武力を以って阿蘇の首長になった形です。縄文人や韓人は居たとしても、吸収されて既に意識されない存在となっていたのでしょう。カルデラ南部には熊野神社、日吉宮、年之神社(*)、矢坂神社があり、全て呉楚系の名を持ちます。稲荷神社もあり、これも呉系の神ですし、草部も呉系の地名です。高森町には尺司(シャクシ=鯰)という地名があり、流れている川は白川でこれも新羅につながると、こちらはほとんど秦人で占められていたように見えます。 《*/年禰神とあるが大歳、御年神と同神ではないか?》
 歴史ではごく一般的なパターンですが、文・漢人は前首長の秦人(草部)の娘、阿蘇都姫を妻とすることで、この地に君臨したのです。時代は倭国大乱よりずっと遅れるようで、狗奴国滅亡前後、壱与時代の出来事でしょうか。「紀」で、阿蘇にまで及んでいるとされた三毛(三池)の大木の影は、筑後国風土記逸文では、山鹿までにしか及んでいません。伝承の時間にずれがあって、後に邪馬壱国が狗奴国系の土地、阿蘇に勢力を伸ばした様子がうかがえるのです。

 肥前国風土記
「昔、崇神天皇の頃、肥後国益城郡の朝来名峯(熊本県益城町)に打猿、頸猿という二人の土蜘蛛がいて、180余人の衆徒を率い、皇命を拒んで降伏しようとしなかった。朝廷は肥君等の祖、健緒組を派遣してこれを伐ち、ここに健緒組は勅を奉じて、ことごとくこれを誅滅した。……健緒組の功績を採り挙げて、姓名を賜い、火君健緒純といい、この国を治めさせた。」

 これも、崇神天皇を考慮する必要はないでしょう。朝来名峰のアサは呉・楚系の地名と判明しています。来名はクマの転訛でしょうか。打、頸猿の猿も呉系楚人のトーテムです。打ち首も呉の刑罰と推定しました。対する征服者の肥君は、阿蘇君と同族とされていますから(神武記)、越系の文・漢人と解することができます。したがって、肥後国(=熊本)でも、秦人(打猿、頸猿)が開拓していた後に、邪馬壱国の文、漢人が首長として入ったことになります。八代付近も秦人(八代神社あり)が先に展開し、球磨川を遡って人吉盆地に入り、後に熊襲と呼ばれた。文・漢人がその後を追ったという形になるようです。
 八代神社(妙見宮)境内に置かれた縁起には、「天武天皇時代、妙見神が神変をもって、目深、手長、足早の三神に変じ、中国の明州(寧波)から亀蛇(玄武)に駕して、八代に渡来した。」という旨のことが記されています。しかし、若尾五雄氏は「延暦年間(782~806)、白木山神として草創され、目染検校、手長次郎、足早三郎という三人に現じた。」という別伝を紹介していますから、諸説あるようです。(「黄金と百足」若尾五尾著、人文書院)
 おそらく目染が正しいでしょう。目深では意味をなしませんが、目染なら、目のまわりを赤く染めた雉で、手長は猿、足早は犬を意味することになるからです。新羅人(弁辰人)は雉トーテムが最上位で、猿、犬トーテムが続くという民族なのです。これは呉人(雉トーテム)の堂谿氏が首長で、祝融を祭る楚人(猿トーテムのトゥチャ族)が続き、最下位に長身で多数派の房人(羌族系、犬戎)がいると推定した堂谿の民族構成にそのまま当てはまっています。また、亀蛇の亀と蛇も楚のトーテムですし、祭っているのは妙見神(北斗/斗=ひしゃく)で、北斗は尾にあたる第七星が剣を付けた形に描かれ(揺光、破軍星)、尾に剣を持つ地震鯰と結び付きます。八代という地名の八も楚の要素でした。呉系楚人と扱われている武内宿禰の後裔にも波多八代宿禰という名が見られるのです。全てが、八代は秦系の開拓地であることを示しています。

9、邪馬壱国の吉備進出

 卑弥呼の弟として吉備津彦の名が見られます。吉備の歴史もまた避けて通るわけにはいきません。ここで古代の大国、吉備について検証することにします。古事記によれば、吉備津彦の系譜は下記のようになり、卑弥呼と孝元天皇は異母姉弟なので、年齢が二十くらい離れることは十分有り得ると解ります。名前をそのまま受け取る必要はなく、すべて歴史編纂時に適宜与えられた名です。

 

 卑弥呼の実弟、大吉備津彦と、異母弟、若建吉備津彦の二人が、播磨の氷河の前に忌瓮(神聖な甕)を据え、播磨を道の口(入り口)となし吉備を平定したと孝霊記は記しますが、実際に氷河(加古川)で祭られているのは大吉備津彦のみです。ここは、大吉備津彦単独の軍事遠征と解せば済むようです。幼女で即位したと考えられる卑弥呼より年齢の低いこの人物が一人前の武人となっていることから、吉備への侵攻は卑弥呼が即位してよりずっと後、控え目に見ても15~20年後のことと考えられます。また、卑弥呼が八十歳以上の長大と表現される年齢で亡くなったのなら、その弟の吉備津彦が軍人として活躍できた年代は卑弥呼の在世中と考える他はありません。卑弥呼最晩期の狗奴国の反乱と吉備攻略が連動していた可能性はこれでほぼ排除できます。出雲、筑紫の大国主、少彦名同盟は、大和へ侵攻し、卑弥呼を共立して邪馬壱国が建国され、倭国大乱は終息しました。吉備の平定は、邪馬壱国の成立後しばらくたってからで、大乱の残り火と言うことができます。卑弥呼を補佐した男弟、孝元天皇はまだ少年だったかもしれません。

 

 吉備津彦が進出したという播磨の氷川とは、加古川(印南川)のことで、大吉備津彦は、加古川の岸で軍を集結し、神に祈りを奉げ、士気を高めて吉備を攻めんとしました。延喜式、賀古郡に、日岡坐天伊佐々比古神社(加古川市加古川町大野、日岡山)があり、祭神の伊佐々比古は五十狭芹彦(大吉備津彦)であろうと言われています。しかし、播磨国風土記では、日岡の神は大御津歯命の御子、伊波都比古命となっていて、これは大吉備津彦の別名でしょうか。伊和大神はオオナムヂ神なので、祭祀氏族との矛盾はありません。
 吉備津彦と、楽楽福神社の孝霊天皇の鬼退治伝説(=備中の蟹タケルが戦わずして降伏)を重ねれば、播磨と伯耆の二方面からの吉備攻略が可能ですし、既に安芸も所領としていたのなら、完全な包囲網ができています。安芸には宗像氏(秦系=猿)の市杵島比売の伝承が多く、市杵島比売は雉を嫌い、鹿を尊ぶといいますし、地理的に筑紫、伊予とのつながりも深い。市杵島比売と出雲を結び付ける伝承もあって文・漢系と親密です。 安芸一宮の厳島神社(祭神、市杵島比売)、二宮の速谷神社(祭神、不明)はどちらも佐伯郡にありますが、佐伯氏は大伴氏と同族で、高皇産霊神の後裔としていますから、邪馬壱国と同じ文・漢人です。おそらく、速谷神社祭神が佐伯氏の祖神なのでしょう。古代は厳島神社よりこの神社の方が、神格が高かったとされています。

 

 文・漢人(オオナムヂ)と秦人(少彦名、市杵島姫)連合は、出雲から安芸へ南下し、また、北九州から瀬戸内へ東進して、周防、安芸、伊予を取りました。これは播磨と同様、倭国大乱時に既に決着がついていたでしょう。周防国造は茨木国造と同祖で、天津彦根命の後となっていますから、天御影神、額田部氏へとつながり、文、漢系氏族なのです。瀬戸内では吉備だけが跳ね返せる力を持っていたようです。
 播磨国風土記、印南郡には、「郡の南海中に小島あり。名は南毘都麻という。成務天皇時代、丸(ワニ)部臣等の始祖、比古汝茅を派遣して、国の堺を定めさせた。この時、吉備比古、吉備比売の二人が迎えに参上した。比古汝茅(ヒコナムチ)が吉備比売を娶って生んだ子が印南の別嬢(わきいらつめ)である。……」という記述があります。成務天皇は無視してかまいません。記、紀に国の境を定めたと記されているので、名を出されただけです。丸部臣等の始祖、比古汝茅というのが、鰐トーテム、オオナムヂ神の子孫の若建吉備津彦に当ります。大和から派遣された、その若建吉備津彦が吉備を制して、前首長の娘を娶って生んだ子が印南の別嬢で、これは、大吉備津彦より時代がずっと降って、大和朝廷に入ってからの出来事なのです。景行記にも、「(景行天皇は)吉備臣等の祖、若建吉備津日子の娘、名は針間の伊那毘の大郎子(おおいらつめ)を娶って……」という文がありますし、播磨国風土記、賀古郡でも印南別嬢は景行天皇の恋人とされています。天皇の即位は景行、成務の順なので、風土記印南郡の、「成務天皇時代に、景行天皇の妻となった印南別嬢が生まれた」とする記述は時間的に矛盾しているのです。印南郡を無視して賀古郡や景行紀に従います。比古汝茅を景行天皇以前の崇神、垂仁期の人物とすれば矛盾が解消します。《天皇の即位順/崇神-垂仁-景行-成務-仲哀》

 

 1の系譜の百田大足神と百田弓矢比売は、吉備津神社内宮の祭神で、大吉備津彦に敗れた吉備の地主神と考えられます。百田大足は百手大足もしくは多足で、蜈蚣や大人の足跡伝説の姫氏につながり、呉系の神とすることができるのです。そして、吉備津神社には以下のような伝承があります。

 「垂仁天皇の御代、異国の鬼神が飛行して吉備にやって来た。百済の王子で温羅(ウラ)、あるいは吉備冠者と呼ばれ、新山に城を築き人々を脅かした。この居城を鬼之城(きのじょう)という。朝廷は武将を派遣してこれを討たせたが敗れるばかりであった。そこで、ついに孝霊天皇の皇子、五十狭芹彦命(大吉備津彦)が派遣され、温羅を討つこととなった。命は吉備の中山に陣をとり、温羅と互いに弓矢を射あったが、温羅は不思議な力を持ち、命の射かけた矢は温羅の射る矢と空中で噛み合い、海に落ちるのが常であった。しかし、命が神力を現し、強弓で二矢を同時に射ると、一矢はそれまでのように温羅の矢と噛み合ったが、予想外の残る一矢が温羅の左目を貫いたのである。そのほとばしる血は流れて血吸川となり、傷ついた温羅は雉と化して山中に隠れた。命が鷹となって追いつめると、温羅はたちまち鯉となって血吸川に隠れたが、命は鵜となってこれを噛みあげた。今の鯉喰宮(倉敷市矢部)はその跡である。温羅は降伏し、吉備冠者の名を献上したので、命が吉備津彦命を称するようになった。命は温羅の首を刎ね、串に刺してこれをさらしたが、首は何年も唸り続けて止まない。たまりかね、犬飼建に命じて犬に食わせたが、髑髏となっても温羅は吠え続ける。そこで、命は髑髏を吉備津宮、釜殿の竃の下八尺に埋めさせた。しかし、なお十三年間、唸りは止まなかった。ある夜、命の夢に温羅が現れて、『我が妻、阿曽郷の祝の娘、阿曽媛をして命の釜殿の神饌を炊かしめよ。幸あれば裕かに鳴り、事あれば荒らかに鳴ろう。命は世を捨てて後(死後)は霊神となって現れ給え。吾は一の使者となりて、四民に賞罰を加えん。』と告げた。つまり、吉備宮のお釜殿は温羅を祭ったもので、その精霊を『丑寅みさき』という。これが神秘な鳴釜神事の起こりである。」

 温羅は百済の王子とされていますから、百済(馬韓)の方向から渡来したようです。つまり、同じ百済から渡来したと伝える邪馬壱国の文・漢人より遥かに古い渡来人、韓人(呉人)なのです。この人々はしばしば馬と表されていて、馬韓という国名にも合います。秦人(呉系楚人)なら、新羅や加羅から渡来とするのではないでしょうか。温羅(ウラ)は呉人を表し、浦島子で知ったように民族名のプーランから派生します。鬼之城という城名も姫氏から出たと考えられますし、温羅が雉となり、鯉となるのもこれまでに確認した呉のトーテムに一致しています。そして、秦系の数字、八尺の地下では温羅は鎮まりませんでした。合わないのです。十三が温羅に関係する数字らしく、吉備津彦の夢に現れて祟りを止めています。八(楚)に呉(五)を加えて十三にする必要があったのなら、やはり呉です。吉備津彦が鷹となるのは、母方が秦系でその要素が入ったものでしょう。鷹は宇佐八幡にも見られるので、秦系トーテムのように思えるのです。鵜も、鵜に変身する櫛八玉神が、神皇産霊神に関係しており、秦系要素のようです(神代記)。吉備津彦配下の犬飼はヤオ族と解することができます。吉備津彦の家来に、吉備国人の楽楽森彦がいたとされていて、こちらはササで秦人(呉楚人)です。岡山県邑久郡、長船町土師に片山日子神社があり、吉備津彦と楽楽森彦が温羅討伐について話し合ったという伝承を持ちますが、ここには、ハジ、カタと呉楚系の地名が出ています。おそらく、片山日子とは楽楽森彦のことで、この辺りを所領としていたのでしょう。形勢不利を感じて邪馬壱国側に寝返ったものと見えます。温羅の妻、阿曽郷の阿曽媛も楚人ということになり、阿曽郷は鋳物師の町といいますから、これは秦系(天之日矛系)の韓鍛冶で、金山彦神を祭る一族と考えられます。阿曽女が神饌を炊くという温羅を祭るお釜殿に、三本の大シャモジが吊るしてあるのも呉、あるいは呉系楚の証明です(右イラスト)
 吉備に関する伝承を総合してみると、「阿曽郷の鍛冶集団の秦人(蟹タケルの一族か?)などを従え、何とか邪馬壱国(文・漢人)の攻勢をしのいでいた吉備の韓人(呉の姫氏、温羅)は、周りを包囲され、邪馬壱国から派遣されてきた五十狭芹彦(大吉備津彦)や裏切った楽楽森彦(片山彦。秦人)に鬼之城に追い詰められて籠城していたが、ついに力尽きた。五十狭芹彦は温羅(=吉備冠者)を斬って吉備の首長となり、韓人に対する宥和策として温羅の娘を娶り、温羅の霊を吉備津神社のお釜殿に祭った。このヤマトトビモモソ姫(卑弥呼)の実弟は歴史編纂時に大吉備津比古の名を与えられた。」ということになりそうです。
 こうして吉備は、卑弥呼、孝霊天皇時代に、邪馬壱国の版図に加えられたのです。《吉備津比古の伝承は孝霊記にあります》
 温羅の霊は「丑寅みさき」と呼ばれていますが、吉備津(彦)神社の丑寅(東北)に御崎神社があり、地名が辛川というのも、温羅が韓人であったことを示しています。この付近が首長の居住地だったかもしれません。
 以下は応神紀による系譜で、応神天皇時代に吉備氏が分割されたといい、上道臣も若建吉備津彦の子孫とされています。これに従えば、吉備津神社社家も上道氏の同族、賀屋氏なので、吉備津神社に大吉備津彦を祭る理由はないはずです。祖神の若建吉備津彦でなければなりません。ただ、上道臣と香屋臣が大吉備津彦の後裔という時にのみ、吉備津神社の祭神が大吉備津彦となりうるのです。神社の伝承と古事記を信頼して、応神紀を疑います。

 

 若建吉備津彦は、ヤマトトトビモモソ姫(卑弥呼)の弟ではなく、大和朝廷時代になってから、新たに吉備の首長として大和から派遣された人物です。崇神、垂仁天皇時代に吉備の首長となったのなら、次の景行天皇の妻を出せます。

 

 上記の系譜であれば、全てを矛盾無く説明できます。卑弥呼(又は孝霊天皇)が吉備に派遣し、韓人の国を破って、吉備の首長となったのが卑弥呼の実弟、大吉備津彦で、その後裔の香屋臣、上道臣が吉備津神社、吉備津彦神社に祭って、温羅との戦いの伝承を伝えたということでしょう。そして、大吉備津彦は戦いの前進基地であった加古川でも祭られました。後、大和朝廷が南九州から大和に進出して覇権を握り、吉備へ首長として、若建吉備津彦(比古汝茅)を派遣、若建吉備津彦は大吉備津彦後裔の首長の娘を娶って景行天皇の妻となる印南別朗女を生んだというわけです。若建吉備津彦は、元、邪馬壱国の王族と考えられます。記、紀は、若建吉備津彦を、同じ吉備ということで大吉備津彦と並べてしまったため、混乱して歴史を見失いました。崇神紀に、「吉備津彦と武渟河別を派遣して出雲の振根を殺した。」という記述が見られますので、若建は崇神天皇時代の人物と解せば良いようです。

10、稲荷の断層

 山城国風土記逸文(延喜式神名帳頭註、群書類従)
「風土記は言う。伊奈利と称するは、秦中家忌寸等の遠祖、伊侶臣秦公。稲梁を積みて富裕あり。すなわち、餅を用いて的となせば、白鳥と化して飛翔し、山峯に居り。山峯に子を生ず。遂に社となる。その苗裔、先の過ちを悔いて、社の木を抜き、家に植え、命(幸運)を祈るなり。」

 これは伏見稲荷の縁起です。元明天皇の頃とされていますが、信じる理由はありません。この天皇の母は秦系と扱われる蘇我氏ですから、母系でつながっています。所在地は京都市深草でクサがついており、ここには、元々、后稷神(農神)を祭る韓人(呉人)が居住していたのでしょう。難波(柏)の渡りの神に遮られ、難波に入れなかった秦人(呉系楚人、天之日矛)は淀川を遡り、摂津三島(三島溝咋)に拠点を築いた後、さらに川を遡って山城国、紀伊郡深草郷の伏見に到りました。そして、その地の韓人を傘下に収めたのです。秦伊侶臣は富み奢って、餅を的にして射るという間違いを侵したため、穀神は逃げてしまい、山の上に繁茂し、木も生えて社となりました。伊侶臣の子孫はその過ちを後悔して、その社の木を抜いて家で祭ったといいますが、意味するところは明白で、それ以前にあった韓人(姫氏=狐)の祭祀を秦人(堂谿氏=姫氏=狐)が継承したのです。同姓ですから、同じ神を祭るのに不都合はありません。しかし、粗末にする過ちを侵したため穀神が逃げてしまい、後に後悔して祭ったという言葉から、その祭祀の断層を読み取れるのです。
 その後、秦人は山城から木津川を遡って大和に入り開拓していたようです。木津川沿いの綴喜郡、相楽郡には、田辺、興戸(コウド)、草内(クサウチ)、綺田(カバタ=蟹秦)、吐師(ハゼ=土師)、木津、狛(コマ)、椿井(ツバイ=唾)など秦、韓系に分類できる地名が並んでいます。

 

続き、「帰化人の真実、5」