饒速日命と磐船神社、登弥神社
大和朝廷以前に、天の磐船に乗り天降ったという櫛玉饒速日は、物部氏の祖先神とされています(神武紀)。先代旧事本紀、天孫本紀では「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。またの名は天火明命、またの名は天照国照彦天火明尊、または饒速日命という。またの名は膽杵磯丹杵穂命。」と記されていますから、饒速日命は天火明命、櫛玉命でもある。櫛玉火明命でもかまわない。名前は自由に組み替えられます。
播磨国風土記、飾磨郡には、「大汝命の子、火明命、心行い甚だ強し。ここを以って、父の神これを患い逃れてこれを棄てんと欲す。すなわち、因達の神山に到り、その子を遣りて水を汲ましむ。未だ還らぬさきに船を発して遁れ去る。ここにおいて、火明命、水を汲み還り来たる。船が発し去るを見て、大いに怒り怨む。すなわち、風波を起こし、その船に追い迫る。ここにおいて、父神の船、進み行くあたわず。遂に打ち破らる。」と記されていて、火明命=饒速日命は大汝命の子であることが明らかになります。
大汝命とは出雲の大国主神、大和三輪山の大物主神の別名ですから、饒速日命の出自は出雲にある。出雲から播磨の因達(いだて)=姫路市あたりへ出て、さらに船に乗って大和を目指しました。大和に至るまでが無人の荒野だったわけではない。大混乱があり、この進出過程が後漢書倭伝に「桓霊の間、倭国大乱(二世紀)」と表されているわけです。
「(饒速日命は)天の磐船に乗りて天降り、河内国河上の哮峯に坐す。則ち、遷りて、大倭国鳥見の白庭山に坐す。」
これも、先代旧事本紀、天孫本紀の記述です。生身の人間が天降るはずはありませんから、実際の行動に置き換えれば、磐船神社のある天野川に沿って移動したのだろうということになります。
大阪府交野市私市、京阪電鉄河内森駅付近にある天田神社↑。祭神は表筒男、中筒男、底筒男の住吉三神となっています。私市(きさいち)駅近くの若宮神社祭神も同じ住吉三神です。
海の神が天野川流域に祭られている。アマは海部ということになります。長野県に安曇野があるのと同じ理屈で、海を得意とする部族が内陸へ進出しました。
磐船神社手前の風景です→。新しいトンネルが穿たれ、このあたりは広くなっていますが、私市からここに至るまでは二車線ギリギリの道で、交通量も多く、危険を感じながら歩かねばなりません。右へ分かれているのが旧道で、神社まではもう少しです。右側のトンネルは天野川の分流というか、九割方こちらを流れ、磐船神社付近は景観を維持するために流しているだけのようです。住民の安全を考えれば、こうせざるをえなかったのでしょう。理解は出来ますが、神社の神秘性は大幅に減じました。
←磐船神社。前の旧国道から写したものです。以前はこういう作業には危険を伴ったのですが、今は安全に歩けます。田原側に駐車場が設けられ、ずいぶん観光しやすくなりました。
→拝殿横手にある行場の入り口。こういう大岩がゴロゴロ積み重なり、下を川が流れています。社務所に申し込んで、300円也を払えば中に入れます。川筋の狭い境内は薄暗く、写真を撮ろうとすれば常にフラッシュが作動します。
←磐船地峡を抜けると田原の野が開けます。ブロックは天野川の護岸。さらに南下すると、住吉神社があります。
→上田原の住吉神社。創建は江戸時代ではないかと記されていましたが、はっきりしたことはわからないようです。神社前の道は古堤街道という河内と大和を結
ぶ古道だそうです。
境内には、天野川付近で発見された潔斎のために使った石風呂←が置かれていますから、この位置ではないにしても、古くからこのあたりで神の祭りが行われていたことがうかがえます。(鎌倉時代、大阪府史跡記念物)
←上の地図の黒い矢印方向、天野川上流の風景です。河内国河上の哮ヶ峯とはどの山でしょうか。周辺には小山がたくさんありますが、峯というからには少し高い山、やはり前方にそびえる生駒山地の一峰ということになるのではないか。写真で感じるほど遠くありません。それとも、磐船神社のある辺りの山を哮ヶ峯と呼んでいるのか?
住吉神社のある上田原は大阪府四條畷市(河内国)に属します。古代から天野川が河内と大和の境界になっていたようです。
←同じ橋から、青い矢印方向の風景です。小丘陵を越えると富雄川水系に入ります。付近は大阪、奈良の通勤圏ということで、盛んに宅地開発され、新興住宅が山の中腹まで広がっています。
そのまま富雄川を南下すると鳥見の白庭山や登弥神社に達します。白庭山続きの丘陵を越えて南東に行くと大和郡山市中心部です。
饒速日命が遷ったという登弥の白庭山→。中央付近の住宅の向こう側に神社があります。
神武天皇以前に天降ったという物部氏の祖先、饒速日命は淀川から天野川をさかのぼって田原に入り、東の小丘陵を越えて富雄川水系へ。川筋を南下して登弥の白庭山に移動。
そのまた東の小丘陵を越えて奈良盆地に入り、大和の支配者になったわけです。
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