村屋坐弥富都比売神社(村屋神社)の祭神・三穂津姫とは?

村屋坐弥富都比売神社(村屋神社)

 村屋神社は奈良県磯城郡田原本町蔵堂に所在する。大きな社叢があり、イチイガシを中心とする植物群落が県の天然記念物になっているという説明書きが立てられていた。交通は不便で、バス便があるかもしれないが、どこから、どう乗るのかわからず、いつも近鉄田原本駅から歩いている。往復五キロほど。直線的に、三輪山のふもと、JR巻向駅へ向かっても同じくらいだ。
 延喜式神名帳では、城下(シキのシモ)郡十七座の先頭にこの神社の名が見える。郡内では池坐朝霧黄幡比売神社、鏡作坐天照御魂神社と並ぶ大社である。他に村屋神社二座の名も記されている。

●延喜式神名帳 城下郡 村屋坐弥富都比売神社 大 月次相嘗新嘗
●倭名抄に城下郡室原郷が存在するが、室屋郷の転写間違いとする説もある。文字は似ている。
●大和志料
  祭神…三穂津姫命を祭る、姫は大物主命の配なり。…但し創祀の由来詳らかならず。
    (注 神社明細帳に、三穂津姫命・大物主命を祭るとあり。)
●同じ延喜式内社の村屋神社二座も境内に移されている(元の所在地は不明。祭神は経津主神、室屋大連神、武甕槌神、大伴健持大連=すべて邪馬壱国系の神)。
●天武紀(上)に、「村屋神が祝に着きて曰く『今、吾が社、中道より軍衆まさに至らむとす。故、よろしく社の中道を塞ぐべし。』 未だ幾日を経ずに、廬井造鯨の軍が中道より至る。」という記述がある。

 日本書紀神代下には、「時に高皇産霊命、大物主神にみことのりす。『汝がもし国神を以って妻と為せば、吾は汝に疎き心有りと謂わむ。故に、今、我が娘、三穂津姫を以って汝に配し妻と為す。宜しく八十万神をおさめ、長く皇孫のために護り奉れ。』」と記されている。
 大物主神の妻となった弥富都比売(三穂津姫命)とはどういう神なのか。この神社の存在自体があまり関心を持たれていないから、祭神に関しての考察も同様なのだろう。
 大和には、卑弥呼と目されるヤマトトトビモモソ姫の他にも、三穂津姫という大物主神の妻になった神(人)がいたのである。三穂津姫が卑弥呼の跡を継いだ宗女(一族で最も身分の高い娘)の壱与に重なるのは明白で。所在地の集落名が伊与戸(イヨド)であることも、偶然ではない。通説は唐代に改変された梁書の記述を信じて、卑弥呼の後継者を台与(トヨ)と訂正するが、魏志倭人伝の記述通り壱与(イヨ)が正しいのである。
  
 新撰姓氏録に、伊与部という氏族がみられ、天辞代主神の後裔(右京神別)、火明命後裔(右京神別)と伝えている。どちらも大国主神の息子(記、紀と播磨国風土記)とされる神で、火明命は先代旧事本紀に天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とされ、物部氏の祖神、饒速日命と同一神である。つまり伊与部は物部系氏族ということになる。
 村屋神社も「当社の神職は代々守屋氏が世襲し、その祖先の守屋筑前守は物部守屋の後裔と称して大和国一円の神職取締役であったという。」と伝え(日本の神々4、谷川俊一編、白水社)、大和朝廷に国を譲った前王朝の物部氏と強く結び付いている。
 その物部氏の王朝こそが魏志倭人伝の邪馬壱国なのである。天孫に国を譲った大国主神の幸魂、奇魂である大和、三輪山の大物主神と、物部という名前の類似に気付かねばならない。壱与(=弥富都比売=三穂津姫)は大物主神を祭る物部氏の宗女だったわけである。
 現在の地名は伊与部から伊与戸(イヨヘ)という表記になり、それがイヨドと読まれるようになった結果だと思われる。
 魏志倭人伝の卑弥呼は「鬼道に事え能く衆を惑わす。年は既に長大で、夫婿はいない。」と記されている。これは巫女となり一生独身を守って神の祭りを司ったことをいうのであろう。その後継者、十三歳だった壱与も卑弥呼と同じ道を歩んだと思われる。
 大物主神の妻となったが、神との約束を破り、見放されて、箸でホトを突くという異様な死にかたをした箸墓の主、倭迹迹日百襲(ヤマトトトビモモソ)姫が卑弥呼なら、立場を同じくする壱与の陵墓も三輪山のふもとに築かれたに違いない。
 箸墓後円部は三輪山山頂から2.4キロほどの位置にあるが、ほぼ、等距離に景行陵古墳が存在する(下地図、赤線)。三輪山の大物主神に同格で仕える形になり、箸墓や横並びの崇神陵古墳を上回る巨大さといい、これほど女王、壱与にふさわしい古墳は見当たらない。



   
 (上の写真は同じ珠城山古墳から写したもの。)

 神社は、うっそうとして昼なお薄暗い、この中に入って良いのかとためらうほどの不気味さを感じさせる杜の中に鎮まっていたが、周辺の公園化にあわせて整備したようで、木々や竹藪が伐採され、ずいぶん明るくなった。歴史的な価値は高くとも、ほとんど注目されていないから、いずれ、元に戻るでのではないか。
 地図を眺めていて伊与戸という地名を見つけ、壱与に関係があるのではないか、村屋神社が怪しいぞ、と調べに向かったのが最初で、神社参道に置かれた縁起書きに、「大物主神の配となり」という言葉を見つけて飛び上がったものである。日本書紀にそんな記述があったか?帰って読み返すと、上に書いた記述があった。二度目に訪れたときには、その縁起書きが朽ち果てており、三度目に訪れたときには、鳥居の横に真新しいものが設けられていた。
 神社本殿の右(東)に出ると大和川の堤である。土地の住民には初瀬(はせ)川らしく、あちこちにその表示が見られる。堤からは秀麗な三輪山と箸墓、景行陵古墳が望める。景行陵古墳は後方部から眺める形になり、面積が狭く、背景の緑に紛れて見分けるのに苦労する。地図では景行陵古墳の真西からニ百メートルほど南にずれているが、実際に堤防から見ると、神社の横手、まっすぐという感じを受ける。古墳は山際の高みにあり、石葺きだったなら、よく見えたであろう。ただ、神社の創建年代と木の生え方が問題になる。現在のように開墾されて見通しが良かったかどうか。あいだに巻向遺跡などがあるので、古代、最も開けていた土地だったとは思えるのだが。
 日本書紀、天武天皇元年(672、壬申)に、村屋神の託宣の記述があり、これがこの神社の最も古い伝承で、現在、正一位森屋大明神の呼称が残っている、古代の街道、中ツ道に面するという有力な社だった。

  

 三輪山のふもとにある大神神社、檜原神社は三ツ鳥居という特徴的な鳥居を持っているが、三輪の蛇神、雷神、つまり水神である大物主神を中心に、卑弥呼(ヤマトトトビモモソ姫)、壱与(三穂津姫)という同格の二人の妻、太陽神を配したものと解せられる。
 古墳の位置を考えると、向かって右の鳥居が卑弥呼(ヤマトトトビモモソ姫)、左が壱与(三穂津姫)に当たるだろう。 檜原神社のほぼ正面(西)に箸墓があるし、三輪山山頂と檜原神社を結んだ線を伸ばしてゆくと村屋坐弥富都比売神社に達するから、神社は計画的に配置されている(上記地図、青線)。
 檜原神社の祭神は伊弉諾命、伊弉冊命、天照若御魂神である。記、紀神話では、伊弉冊命は火の神、軻遇突智を産んだ際にホトを焼かれて死んだのだという。箸でホトを突いて死んだヤマトトトビモモソ姫を連想させるので、それに並ぶ天照若御魂神というのは壱与が意識されているのだろう。伊弉諾神はヤマトトトビモモソ姫の夫、三輪山の大物主神に重なる。
 高天原で大暴れした須佐之男命が、機織り部屋の屋根を破り、逆剥ぎにした天の斑馬を投げ入れたため、驚いた天の服織女(はたおりめ)が驚いて杼(ヒ=伊弉冊命の死因、火と同じ音)でホトを突いて死んでしまった(記)とか、天照大神自身が驚いて杼で身を傷つけた(紀、本文)、あるいは、稚日女尊が杼で傷ついて死んだ(紀、一書)とかされている。
 怒った天照大神が天石窟に隠れてしまい、世界は真っ暗になったが、思兼命が知恵をめぐらせ、天照大神をおびきだした。鏡に映った自らの姿を不思議に思った天照大神が少し戸から出たとき、天手力男神が引っ張り出すことで再び太陽は蘇ったのである。
 その鏡は、斎部広成の古語拾遺に「是に、思兼命の議に従ひて、石凝姥神をして日の像の鏡を鋳しむ。はじめに鋳たるは、少に意に合わず。(是、紀伊国の日前神なり。)つぎに鋳たるは、その状美麗し。(是、伊勢大神なり。)」と記されている。少し出来損なった最初の和歌山日前宮の日像鏡が卑弥呼、美しくできた二番目、伊勢神宮の日像鏡が壱与を指すことはいうまでもない。日前宮の相殿には思兼命と石凝姥命が祭られている。
 檜原神社は元伊勢とされている。村屋神社と檜原神社、伊勢神宮は壱与という二番目の太陽神の祭りでつながっているのである。魏志倭人伝の記述から卑弥呼ばかりが話題にされるが、古代の人々には、平和な時代が続いた壱与の方が重要な女王であった。
 出雲に美保神社があり、三穂津姫が祭神なので調べにかかったら、これは後世、記、紀神話を元に入れ替えられたもので、本来は出雲国風土記に登場する御穂須々美命が祭神ということであった。美保という地名自体がこの神の名に由来している。壱与の三穂津姫は尊称の御(ミ)+「ホツ(フツ)」の姫で、ホツ、フツに意味がある。当然、物部氏の祖神の一つ、フツヌシ(経津主)神と同じ意味である。



トップページ

弥生の興亡
1、魏志倭人伝から見える日本 index
2、中国・朝鮮史から見える日本 index
3、帰化人の真実 index
4、縄文の逆襲 index

魏志倭人伝の風景 
邪馬台国(邪馬壱国)九州説の研究
翰苑の解読と分析
徐福は日本へ来たか、亶洲とは何処か?
初期天皇の諡号の秘密(欠史八代の謎を解く)
新撰姓氏録(氏族系統別再編)

★東夷伝(原文と和訳)index★

補助資料集
●蘇民将来と須佐之男神(伝説の起源を探る)
●饒速日の来た道(出雲から大和へ)
●久度、古関
●和邇坐赤坂比古神社と東大寺山古墳
●和泉黄金塚古墳と景初三年銘鏡、富木の大樹伝説
●三角縁神獣鏡の銘文と神仙思想
●金印の真贋を考える
●王の山古墳出土の玉壁
●倭人字磚と曹氏
●堂谿氏と金属器文化
●狸(リ)は狸(たぬき)ではない
●鯰絵解説
●魏志「邪馬壱国」説を支持する資料と解説

天皇号の成立と聖徳太子、推古天皇(聖徳太子は大王だった)