村屋神社・三穂津姫と壱与



村屋坐弥富都比売神社(村屋神社)


 魏志倭人伝の卑弥呼は「鬼道に事え能く衆を惑わす。年は既に長大で、夫婿はいない。」と記されています。これは巫女となり一生独身を守って神の祭りを司ったことをいうのでしょう。その後継者、十三歳だった壱与も卑弥呼と同じ道を歩んだと思われます。
 大物主神の妻となったが、神との約束を破り、見放されて、箸でホトを突くという異様な死にかたをした箸墓の主、倭迹迹日百襲(ヤマトトトビモモソ)姫が卑弥呼なら、立場を同じくする壱与の陵墓も三輪山のふもとに築かれたと考えられます。
 箸墓後円部は三輪山山頂から2.4キロほどの位置にありますが、ほぼ、等距離に景行陵古墳があります(下地図、赤線)。三輪山の大物主神に同格で仕える形になり、これほど壱与にふさわしい古墳は見当たりません。



   
 (上の写真は同じ珠城山古墳から写したものです。)

「時に高皇産霊命、大物主神にみことのりす。『汝がもし国神を以って妻と為せば、吾は汝に疎き心有りと謂わむ。故に、今、我が娘、三穂津姫を以って汝に配し妻と為す。宜しく八十万神をおさめ、長く皇孫のために護り奉れ。』」(日本書紀神代下)

 ヤマトトトビモモソ姫の他にも、三穂津姫という大物主神の妻になった神(人)がいました。三穂津姫が壱与に重なるのは明白で、その三穂津姫を祭る神社が奈良県磯城郡田原本町大字蔵堂字大宮の延喜式内大社、村屋坐弥富都比売神社です。集落名が伊与戸であることも、偶然ではない。通説は卑弥呼の後継者を台与(トヨ)と訂正しますが、魏志倭人伝の記述通り壱与(イヨ)が正しいのです。
 新撰姓氏録に、伊与部という氏族がみられ、天辞代主神の後裔(右京神別)、火明命後裔(右京神別)と伝えています。どちらも大国主神の息子(記、紀と播磨国風土記)とされる神で、火明命は先代旧事本紀に天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とされ、物部氏の祖神、饒速日命と同一神です。つまり伊与部は物部系氏族ということになります。
 村屋神社も「当社の神職は代々守屋氏が世襲し、その祖先の守屋筑前守は物部守屋の後裔と称して大和国一円の神職取締役であったという。(日本の神々4、谷川俊一編、白水社)」と伝えられ、大和朝廷に国を譲った前王朝の物部氏と強く結び付いています。その物部氏の王朝こそが魏志倭人伝の邪馬壱国なのです。天孫に国を譲った大国主神の幸魂、奇魂である大和、三輪山の大物主神と、物部という名前の類似に気付かねばならない。壱与(=弥富都比売=三穂津姫)は大物主神を祭る物部氏の宗女だったわけです。

  

 現在の地名は伊与部から伊与戸(イヨヘ)という表記になり、それがイヨドと読まれるようになったのだと思われます。

●延喜式神名帳 城下郡 村屋坐弥富都比売神社 大 月次相嘗新嘗
  (倭名抄 城下郡室原郷 / 室屋郷の転写間違いとする説もある。文字は似ている。)
●祭神…三穂津姫命を祭る、姫は大物主命の配なり。…但し創祀の由来詳らかならず。
    注 神社明細帳に、三穂津姫命・大物主命を祭るとあり。(大和志料)
●同じ延喜式内社の村屋神社二座も境内に移されている(祭神は経津主神、室屋大連神、武甕槌神、大伴健持大連=すべて邪馬壱国系の神)。
●天武紀(上)に、「村屋神が祝に着きて曰く『今、吾が社、中道より軍衆まさに至らむとす。故、よろしく社の中道を塞ぐべし。』 未だ幾日を経ずに、廬井造鯨の軍が中道より至る。」という文がある。

 神社は、うっそうとして昼なお薄暗い杜の中に鎮まっていたのですが、周辺の公園化にあわせて整備したようで、木々が伐採され、ずいぶん明るくなりました。歴史的な価値は高くとも、ほとんど注目されていませんから、十年もすれば元に戻るでしょう。交通は不便で、バス便があるかもしれませんが、どこから、どう乗るのかわからず、いつも近鉄田原本駅から歩いています。往復五キロほど。直線的に、三輪山のふもとJR巻向駅へ向かっても同じくらいです。
 地図を眺めていて伊与戸という地名を見つけ、壱与に関係があるのではないか、村屋神社が怪しいぞ、と調べに向かったのが最初で、神社参道に置かれた縁起書きに、「大物主神の配となり」という言葉を見つけて飛び上がったものです。日本書紀にそんな記述があったか?帰って読み返すと、上記の記述がありました。二度目に訪れたときには、その縁起書きが朽ち果てており、三度目に訪れたときには、鳥居の横に真新しいものが設けられていました。
 神社本殿の右(東)に出ると大和川の堤です。土地の住民には初瀬(はせ)川らしく、あちこちにその表示があります。堤からは秀麗な三輪山と箸墓、景行陵古墳が望めます。景行陵古墳は後方部から眺める形になり、面積が狭く、背景の緑に紛れて見分けるのに苦労します。地図では景行陵古墳の真西から数百メートル南にずれていますが、実際に堤防から見ると、神社の横手、まっすぐという感じを受けます。古墳が石葺きだったなら、よく見えたでしょう。ただ、神社の創建年代と木の生え方が問題になります。現在のように開墾されて見通しが良かったかどうか。あいだに巻向遺跡などがありますから、古代、最も開けていた土地だったとは思えるのですが。
 日本書紀、天武天皇元年(672、壬申)に、上記の、村屋神の託宣の記述があり、これがこの神社の最も古い伝承で、現在、正一位森屋大明神の呼称が残っている、古代の街道、中ツ道に面するという有力な社でした。

  

 三輪山のふもとにある檜原神社は三鳥居という特徴的な鳥居を持っていますが、三輪の蛇神、雷神、つまり水神である大物主神を中心に、卑弥呼(ヤマトトトビモモソ姫)、壱与(三穂津姫)という同格の二人の妻、太陽神を配したものと解せられます。
 古墳の位置を考えると、向かって右の鳥居が卑弥呼(ヤマトトトビモモソ姫)、左が壱与(三穂津姫)に当たるでしょう。 檜原神社のほぼ正面(西)に箸墓がありますし、三輪山山頂と檜原神社を結んだ線を伸ばしてゆくと村屋坐弥富都比売神社に達する(上記地図、青線)のですから、神社は計画的に配置されています。
 檜原神社の祭神は伊弉諾命、伊弉冊命、天照若御魂神です。記、紀神話では、伊弉冊命は火の神、軻遇突智を産んだ際にホトを焼かれて死んだのだといいます。箸でホトを突いて死んだヤマトトトビモモソ姫を連想させますから、天照若御魂神というのは壱与が意識されているのかもしれません。伊弉諾神はヤマトトトビモモソ姫の夫、三輪山の大物主神に重なります。
 高天原で大暴れした須佐之男命が、機織り部屋の屋根を破り、逆剥ぎにした天の斑馬を投げ入れたため、驚いた天の服織女(はたおりめ)が驚いて杼でホトを突いて死んでしまった(記)とか、天照大神自身が驚いて杼で身を傷つけた(紀、本文)、あるいは、稚日女尊が杼で傷ついて死んだ(紀、一書)とかされています。
 怒った天照大神が天石窟にかくれてしまい、世界は真っ暗になりましたが、思兼命が知恵をめぐらせ、天照大神をおびきだします。鏡に映った自らの姿を不思議に思った天照大神が少し戸から出たとき、天手力男神が引っ張り出すことで再び太陽は蘇ったのです。
 その鏡は、斎部広成の古語拾遺に「是に、思兼命の議に従ひて、石凝姥神をして日の像の鏡を鋳しむ。はじめに鋳たるは、少に意に合わず。(是、紀伊国の日前神なり。)つぎに鋳たるは、その状美麗し。(是、伊勢大神なり。)」と記されています。少し傷のできた最初の和歌山日前宮の日像鏡が卑弥呼、美しくできた二番目、伊勢神宮の日像鏡が壱与を指すことはいうまでもありません。
 檜原神社は元伊勢とされています。村屋神社と檜原神社、伊勢神宮は壱与という二番目の太陽神の祭りでつながっているのです。魏志倭人伝の記述から卑弥呼ばかりが話題にされますが、古代の人々には、平和な時代が続いた壱与の方が重要な女王でした。
 出雲に美保神社があり、三穂津姫が祭神なので調べにかかったら、これは後世、記、紀神話を元に入れ替えられたもので、本来は出雲国風土記に登場する御穂須々美命が祭神ということでした。美保という地名自体がこの神の名に由来しています。壱与は尊称のミ+「ホツ(フツ)」の姫で、ホツに意味があります。



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