翰苑

魏略逸文と魏志倭人伝(比較、分析)


翰苑の解読と分析

「翰苑」は大宰府天満宮に伝世されたもので、唐の張楚金の撰、雍公叡の注です。失われてこれ以外は存在しないという貴重な書で、国宝に指定されています。誤字、脱字の多さが難ですが、後漢書、魏志等からある程度、修復可能です。魏志や後漢書に比べると史料としてのレベルは相当に低いのですが、面白い情報が秘められていて参考になりますので、倭国の条を紹介することにしました。太字が本文、細字が注です。本文はわずかしかなく、ほとんどが注で占められています。
   

 倭国

  

    青は修正 赤は補完

本文
 「山により、海を負い、馬を鎮め、以て都を建てる。」

 臺の字の上部は吉ですが、去となっています。形が似ており、文字の書き癖、かすれ等から誤ることはじゅうぶん想像できます。邪馬臺の邪がどこかへ行って、馬臺にされてしまいました。これは間違いではなく、著者、張楚金が意図的に変えたものです。理由は後に明らかになります。
 

 「後漢書曰く、倭は東南大海の中に在る。山島に依り居す。およそ百余国。武帝が朝鮮を滅してより使訳が漢に通じるのは十(卅)余国。王を称す。その大倭王はに治す。楽浪郡境はその国を去ること万二千里。の地はおおよそ会稽(東冶)の東にあり、朱、儋耳と相近い。」
 「魏志曰く、倭人は帯方東南にある。地を問すれば、孤立して海中の島々の山(魏志は上)にあり、あるいは離れ、あるいは連なり、巡り巡って五千余里ほどである。四面はともに海にまる。営州より東南、新羅を経てその国に至る。」

 注の中の誤字や脱字は、後漢書を正しく写したのではなく、注者が言い換えた部分があることを示すのかもしれません。後漢書の「居を為す」が「居す」、「使駅」が「使訳」、「三十許国」が「三十余国」になっています。意味は変わらず、青字にはしませんでしたが、修正しようかどうかと迷うところです。「翰苑」の本文自体も、過去の史書を要領よくまとめただけの文ですから、そのまとめる過程において、著者、張楚金の解釈が色濃く入っています。
 後漢書には「会稽東冶の東」と書いてありますが、後漢代には会稽郡が設けられていて、東冶も会稽郡に含まれていますから、会稽の東でも間に合います。東冶の脱落と解すべきか、注者、雍公叡の修正と解すべきか。
 「魏志曰く」に含まれていますが、「四面ともに海に極まる」という記述は、隋書俀国(倭国)伝の「その国境は東西五月行、南北三月行で各海に至る。」という記述から導き出されたものです。
 営州は現在の遼寧省の一部、遼東半島北方で、唐初期に設けられた行政地域です。したがって、「営州から東南、新羅を経て倭に至る。」は、この「翰苑」が書かれた唐代の知識が付け加えられていることになります。



  
 

本文

  を分け、官を命じ、女王を継いで、部を並べる。」

統は血統、伝統、系統と同じ、「すじ」の意味で用いられたものです。卑弥呼、壱与と女王が続きました。 関連事項ですが、後漢書は東晋、義煕九年(413)の神功皇后の遣使によって得たと思われる資料(推定)にもとづき魏志倭人伝を修正して要約引用しています。魏志の女王国がずっと続いていて、神功皇后は卑弥呼の後裔と考えたわけです。翰苑の「統女王」という言葉の中には神功皇后も含められているでしょう。このことは「弥生の興亡 1.魏志倭人伝から見える日本 ファイル1の邪馬台国か邪馬壱国か」で解説していますから参照していただければと思います


 「魏略曰く、帯方よりに至るには、海岸に従い水行する。韓国を過ぎ(魏志では歴)、枸耶韓国に到る。七余里。始めて一海を渡る。千余里。対馬国に至る。その大官は卑拘といい、副は卑奴(母離)という。良田はない。南北に糴している。南に海を渡り一支国に至る。官を置く。対馬と対馬)同じ。土地は三百里四方。また、海を千余里渡って末羅国に至る。人は上手に魚を捕る。うまく水に浮き沈みしてこれを取る。東南五里、伊都国に到る。万余戸。爾支という官を置く。副は洩渓觚(魏志では泄謨觚)、柄渠觚という。その国王は皆女王に属している。」

 魏略は現在失われてしまって、どのような書き方をしていたか定かではありません。魏志で卑奴母離となっている対馬国の副官を卑奴としています。これを魏略からの欠落と判断して良いのかどうか、母離を補うべきなのかどうか。
 魏志の陳寿は、梯儁、張政という二人の帯方郡使の報告と思われる文書を文体を変えずにそのまま使用していますが、魏略は著者の魚豢が自らの頭でかみ砕いた文を記しているようです。魏志に比べて原資料を要約したという趣があります。しかし、これも魚豢の文そのままなのかどうか。「魏略曰く」と注した雍公叡の手になる可能性もあるのです。
 魏略逸文の「人善捕魚、能浮没水取之」という部分は、「人は魚を捕らえるのが巧みで、上手く水に浮き沈みしてこれを取る。」という意味になりますが、魏志では「好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之」となって、「魚やアワビを好んで取り、水の深浅にかかわらず、皆、沈没してこれを取る。」、つまり、魚やアワビが好きだという意味に解せられるのです。魏志には「今倭水人好沈没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以飾」=「今、倭の水人は沈没して魚蛤を捕るのを好み、入れ墨はまた以って大魚や水鳥を追い払うためであったが、後にはしだいに飾りとなった。」という文もあり、好んで頻度が多いから、入れ墨で身を守る必要が出てくると文意が後ろにつながります。この好は「好む」という意味です。
 「善」と記すのは魚豢の解釈の結果と判断して良いでしょう。注者、雍公叡がこれほど文章を変えるとは思えないのです。列子、説符第八に「呉之善没者能取之(呉の善く没する者は能くこれを取らん)」という言葉がありますから、善、能という表現はここから採られたようです。倭人は太伯の後という伝承が残っていたことから、魚豢は邪馬壱国は呉人の国だと解釈していたことがうかがえます。(実際は越人の国で、魏志の著者、陳寿は正確にとらえています。)
 魏志の方が原資料に忠実、信頼がおけるようで、これが魏志が現在に残り、魏略が失われた理由かもしれません。高句麗の始祖伝説を扶余に組入れたり、魏略逸文には不正確な部分があります。
 魏志で千余戸とされている伊都国の戸数が万余戸と一桁違っています。これも行政機関が大きいのに人口が少ないのはおかしいと魚豢が判断して書き換えたものかもしれません。



  

本文

 卑弥娥は惑翻して群情にかない、與は幼歯でまさに衆望にかなう。」

 魏志、後漢書によれば、卑弥呼は鬼(神)道につかえ能く衆を惑わした女王でした。惑翻は惑わし翻弄したという意味です。卑弥呼が卑弥娥になっており、文字の密度、イメージが違いすぎて、これを転写間違いとするのは苦しいでしょう。この娥は神功皇后=息長帯姫(おきながたらしひめ)の「が」を写したものと考えられます。卑弥(ヒミ)はヒメによく似ていますし、中国風に一文字で表せば「娥」となったのではないか。
 すでに述べたように、後漢書は東晋、義煕九年(413)の神功皇后の遣使によって得られた資料から、魏志倭人伝を修正して引用しており、朝鮮半島の狗邪韓国を倭領にしたり、東方の狗奴国が敵対したり(魏志では南方)、邪馬壹を邪馬臺としたり、魏志倭人伝とは異なる記述が見られます。これはすべて神功皇后時代の政治環境が反映されたものです。
 後の時代の史書は後漢書に従っています。「記、紀」の神武天皇の東征の記述が示すように、王朝が交代し、後は邪馬臺(やまと)という国名がずっと続いていたのですから、邪馬臺と記す後漢書の方が正しいと判断するのは当然です。「記、紀」も卑弥呼が神功皇后であるかのように装いました。
 その流れを受け、魏志で壹與(壱与)と表記されている卑弥呼の後継者の名も、梁書(唐、姚思廉撰)は臺與(台与)と訂正しており、翰苑も臺與になっています。唐代すでに、現在の通説と同じように、「壹」は「臺」の転写間違いと考えられていたのです。しかし、歴史とは関係しない、「太平御覧、巻八百二、珎宝部一、珠上」の項では、修正は意識されず、魏志をそのまま引用して壹與と記しています。
 研究者が書き起こした後世の史書などには、研究の成果が反映され、すべて後漢書の邪馬臺を採り、「魏志の邪馬臺」と書いたりするが、機械的に転写された魏志倭人伝そのものには、邪馬壹、壹與という本来の形が維持されたわけです。

注 
 「後漢書曰く、安帝永初元年、面上国王升が至る有り。桓の間、倭国大乱、さらに相攻伐し歴年主なし。一女子あり。名は卑弥呼という。/死してさらに男王を立てる。国中不服。さらに相誅。また卑弥呼の宗女、臺與、年十三を立てて王と為す。国中ついに定まる。その国の官は伊支馬がある。次は弥馬升といい、次は弥馬獲(支)といい、次は奴圭鞮という。」

 倭面上国王となっていますが、宋本通典にある面土国王が正しいと考えられます。面土は漢音で読めばベント、呉音で読めばメンツで、これは越の表現(越南をベトナムという)と考えられるのです。このことは「弥生の興亡 1.魏志倭人伝から見える日本 ファイル4の三角縁神獣鏡に関する考察」で触れています。
 「後漢書曰く」となっていますが、上記文中で後漢書の記事は「名は卑弥呼という」までで、残りは魏志倭人伝の記述です。これが元からのものなら、かなりいいかげんな注です。
 後漢書は後漢時代の歴史を記した書ですから、卑弥呼の死後男王を立てた、さらに壱与を立てたという魏代の記述には用がありません。ですから、魏志の要約引用は倭国の地理情報や風俗に限られ、魏との交流に関する記述はばっさり切り捨てられています。国々の位置や風俗は時代が変わっても変化はないと判断したのでしょう。倭国大乱は後漢の桓帝、霊帝の間なので、後漢書の対象になります。奴国が光武帝に印綬を授けられたという記述も後漢始めのことで、これも後漢代を記した何らかの資料により得られたものです。范曄は「衆家後漢書を柵して一家と為した」と宋書范曄列伝にありますから、当時、複数の後漢書が流通していたようで、それが原典かと思われます。
 後漢書に記された、徐福のことは史記にありますし、会稽海外の東鯷人の記述は漢書にあります。つまり徐福、澶洲は秦代、東鯷人は前漢代の話なのです。夷洲は三国時代に呉の孫権が求めさせていて、それ以前から伝承されていた土地だとわかります。
 後漢書の構成要素は以下の四つに限られます。(当然、范曄の価値判断が入っています。)

秦、前漢代の資料(夷州?、澶洲、東鯷人)
後漢代の資料
(奴国の印綬、倭国大乱、「国は皆王を称し、世世伝統」という記述)
魏志倭人伝の後漢代の事件と地理風俗情報の要約引用
(卑弥呼の即位、地理、風俗)
神功皇后の遣使から得られた資料による魏志倭人伝の修正
(神功皇后を女王国の後継者と考えたため)
(狗邪韓国を倭領に、南の狗奴国を東へ、邪馬壹を邪馬臺に=神功皇后時代の政治環境に合わせて修正してある)

 秦、前漢代の資料にしても、倭国に関係するかもしれない会稽海外東方の土地の情報です。このように非常に論理的に書かれており、魏志倭人伝も同様です。魏志は、逆に、後漢代の資料には用がなく、范曄の時代に残っていたのですから、百五十年ほど前の陳寿も、当然、目にしたはずですが、奴国の印綬の記事、倭国大乱などを無視して、「漢の時、朝見する者有り。」と簡単に触れるのみです。

 魏志の構成要素は以下の四つです。

前漢代(旧百余国)、後漢代(漢時有朝見者)の過去の歴史の要約
梯儁、張政という二度の遣使の報告書
魏の政府公文書、資料
陳寿自身の見解

 どちらも日本の歴史を記したものではなく、「後漢の関連事項としての倭」、「魏の関連事項としての倭」を記しています。そのあたりのことが区別されていない。後漢書や魏志があいまいとするのは読み手の側に問題があります。
「魏志倭人伝の構造分析」 「後漢書倭伝の構成要素」



  

本文

 「文身點面 (なお)太伯の苗と称す。」

 隋書では黥臂點面文身となっており、點面というのは、顔に点々を集めて形になるような入れ墨をしていたのかもしれません。実際、中国西南方の少数民族にそういう入れ墨がみられます。文身點面は隋書から採られたようです。魏志では黥面文身になっています。認識のしかた、表現は記述者によって異なりますから、點面と黥面が同じ形かどうかまでは解らない。
 史記趙世家では「黒歯雕題」、つまり黒い歯をして額に入れ墨するのが呉人の風俗とされています。呉人は越人ほど派手な入れ墨ではなかったようなのです。太伯の苗裔というのは呉人で、周の王族、太伯が弟に国を委ねて呉に逃れたと伝えられています(史記呉太伯世家)。

注 
 「魏略曰く、女王の南、また狗奴国あり。男子を以て王と為す。その官はコウチヒコという。女王に属さず。帯方より女(王)国に至る。万二千余里。その俗、男子は、皆、點にして文。その旧語を聞くと自ら太伯の後という。昔、夏后少康の子は会稽に封じられ、断髪文身して、蛟龍のを避けた。今、倭人はまた文身し、もって水害をはらう()。」

 魏志、魏略では、狗奴国は女王国の南ですが、後漢書は「女王国の一海を渡った東」と書いています。これは後漢書の著者、范曄が、いにしえの奴国(福岡県の香椎宮)を根拠地とし東方の大和と戦った神功皇后を卑弥呼の後裔と考えたことから帰結するもので、単なる不注意ミスではありません。意図的な訂正です。
 拘右智卑狗はコウチヒコ(河内彦)です。魏志では狗古智卑狗となっていて、右のナの部分がかすれなどで短くなり+と誤ったものでしょう。ここは魏略逸文が正解と考えられます。太平御覧で狗石智卑狗となっていることも右が本字であることを示します。
 倭人は自ら「太伯の後」と言っているのですから、呉人が渡来していたことは明らかです。そして、「夏后少康の子が会稽に封じられた」というのが越人の祖先伝承で、魏志に記された倭人の風俗には越系の要素が色濃く現れます。つまり呉、越、両方の民族が日本に渡来していた。このことは「弥生の興亡」で精密に追跡しています。



  

本文

  「阿輩雞弥、自ら天児の称を表す。」

 「俀王の姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞弥……」と隋書俀国伝にあります。阿輩雞弥(アハケミ)は大君(オホキミ)の音を写したもので、「き」を「け」と聞いていますから「Ki」ではなく「Kye」というような音だったのかもしれません。大君はアマタラシヒコと称し、これは天児という意味になりますが、阿輩雞弥(大君)が天児の称ではありません。どこかで行き違いがありました。

注 
 「宋死弟。宋書曰く。永初中、倭国王あり。讃という。元嘉中に至り、讃死し、弟の珎が立つ。自ら『使時節都督(倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事)安東大将軍倭国王』と称す。順帝の時、使を遣し上表していう、『昔、(祖)禰より、東は毛人五十五国を征し、西は衆夷六(十六)国を服し、渡りて海北九十五国を平らぐ。』 今、案ずるに、その王姓はアマ、国は号して阿輩雞(弥)となす。中国で言う天児である。父子は王を相伝える。宮女六、七百人あり。王の長子は(利)カミタフリと号す。中国の太子である。」

 最初の文は意味を為しません。以下は、宋書の「倭の五王の遣使」の一部です。宋の永初二年(421年)、倭王讃が遣使しました。元嘉二年(425)も讃の遣使です。その後、讃が死に、弟の珍(珎は略字)が即位し、元嘉二十年には次の王の済が遣使していますから、珍の遣使は元嘉中ということになります。順帝の時は昇明二年(478)で、倭王武の遣使です。
 せっかく案じてくれたのですが、姓と字を合わせたアマタラシヒコが天児(天の子)の意味で、称号の阿輩雞弥とは関係ありません。阿輩雞弥を「アメキミ」と読む人がいますが、アメキミは天君であって天児ではない。
 隋書は「太子を名して利歌彌多弗利となす。」としているだけですから、王の長子というのは注者の早合点です。



  

本文

 「礼儀によりてをしるす。すなわち智信、もって官を命じる。」

 仁義禮智信という徳目を官名にして秩序を整えました。

注 
 「括地志いわく、倭国、その官は十二等あり。一はマヒトキミという。中国の大徳である。二は小徳という。三は大仁という。四は小仁という。五は大義という。ろくは小義という。七は大礼という。八は小礼という。九は大智という。十は小智という。十一は大信という。十二は小信という。」

 聖徳太子の定めた冠位十二階で、隋書俀国伝でも第一等の官は大徳となっています。「真人」は天武天皇の定めた八草の姓の第一です。括地志は唐初期の地理書で天武朝より先立ちますから、後世の修正、おそらく遣唐使が伝えたもの、が入ったと解するのが妥当でしょう。



  
 

本文

 「邪は伊都に届き、傍ら斯馬に連なる。」

 女王国(邪馬壱国)は伊都国に九州を統治する拠点を置き、その南には斯馬国があると考えられていました。伊都に届く国というなら隣の奴国と考えられます。しかし、邪が奴の間違いかというとそうではない。ここで「山に憑き、海を負い、馬臺を鎮め、以って都と為す。」という最初の文を呼び戻さねばなりません。どこかへ行ってしまった「邪」がこんなところにある。
 奴国の位置に邪があり、大和と考えられる馬臺を鎮めて(押さえ込んで)都となし、斯馬に連なったのです。
 これは神功皇后が筑紫の香椎宮(いにしえの奴国)から出て、瀬戸内を通り、畿内を武力鎮圧したという記、紀の伝承に対応しています。簡単に云えば、当時、皇統の分裂と再統合という事件があったのです。応神天皇を擁した神功皇后は九州で独立してしまった。当然、正統後継者は大和にいます。傍流が武力をもって国の支配者になったがゆえに、神功、応神と、諡号に神が入り、神武、崇神と並ぶ始祖王扱いになっています。神功皇后は新羅を馬飼いにしたと記されていますから、馬は新羅から入れている。古墳の副葬品ががらりと変わるのも、この神功・応神朝が異端であったことを示しています。騎馬民族の征服王朝というようなものではありません。
 旧唐書はこういいます。「倭国は古の倭奴国なり。」、「日本国は倭国の別種なり。その国は日辺にあるを以って、故に日本を以って名となす。あるいは曰く、倭国は自らその名が雅でないのをにくみ、改めて日本となした。あるいは云う、日本はもと小国、倭国の地を併せた。その人で入朝した者、多くは自らおごりたかぶって実を以って答えない。故に中国はこれを疑う。」
 当時の日本の支配者は神功皇后の後裔ですから、「倭国は昔の倭奴国である」というのは真実です。「日本はもと小国、倭国の地を併せた」というのも真実。すべて大和朝廷、神功皇后以降の出来事を語っています。魏志倭人伝の邪馬壹国ではありません。遣唐使は尋ねられてもすべてを明確に伝えず、ごまかそうと尊大にふるまったため、このような疑いの記述が生まれました。
 翰苑は唐代の書ですから、当然、この情報は入っており、邪と馬臺を分割する結果になったようです。


 「広志いわく、国東南陸行五百里、伊都国に到る。また南、邪馬嘉国に至る。女(王)より(自)以北は、その戸数、道里を略載できる。次ぎは斯馬国、次は已百支国、次は伊邪国。案ずるに、西南海行一日に伊邪国あり、布帛なし。革をもって衣となす。けだし伊耶国なり。」

 「広志」は晋の郭義恭の著作。博物誌のようなものだったと思われます。伊都国の南に邪馬嘉国があります。これを邪馬臺の間違いとして良いものかどうか。実際、熊本県に山鹿という土地があるからです。唐代に新たな地理情報が加えられ、混同されたのかもしれません。伊邪久国は隋書流求国伝にあり、宮古島のことです。革を衣類にするというのは魏志韓伝の済州島に関する記述に見られます。翰苑の注者、雍公叡はこの二つを同一視しているようです。



  

本文

  「中元の際 紫綬の栄誉」

 光武帝の建武中元二年に「倭奴国」が朝貢し印綬を授けられたと後漢書にあります。これは志賀島から「漢委奴国王」と刻まれた金印が発見されていることから事実と解ります。後漢書が記しているのは、下の注にあるように、光武帝が印綬を賜ったというだけです。紫綬とするのは、記述自体は正しいことを言っているのだと思いますが、魏志倭人伝の制詔にある金印紫綬から類推したものと思われます。この時代に、それを示す何らかの文献が残されていたなら、後漢書の注(唐、李賢注)に、こういう文献にこういう記述があるというふうにあらわれたはずです。
 前段と関係しますが、奴国と女王国(邪馬台国)を区別していないことが解ります。

注 
「漢書地(理)志いわく、扶余、楽浪海中に人有り。分かれて百余国をなす。歳時をもって献見す。後漢書、光武中元二年、倭国が貢ぎを奉り朝賀し、使人は大夫を自称した。光武は賜うに印綬を以ってす。安帝(永)初元年、升等、口百六十(人)を献じる。」

 漢書地理志には楽浪海中のみで、漢代の扶余は地理的に内陸過ぎて樂浪海中や倭人に結び付けられない。百済が扶余の後裔と称していますから、百済のことらしく思われます。漢書地理志そのままの引用ではなく、唐代の知識を加えたようです。唐代には楽浪郡がありませんから、時の中国人にわかりやすく配慮したのかもしれません。



  

本文

 「景初の時、模様入り錦のささげものを奉る。」


 「志いわく、景初三年、女王は大夫難升利等を派遣し、男の生口四人、女の生(口)六人、布二疋二尺を献じた。詔して以って魏倭王となし、金印紫綬を与えた。正始四年、倭王はまた大夫伊聲耆、邪拘等八人を派遣し、生口を献上した。」

 魏志では景初二年のことです。使者の難升米と都市牛利という名が混ぜられてしまいました。献じた斑布は二疋二丈(=百尺)となっています。