魏略逸文と魏志倭人伝


魏略逸文と魏志倭人伝、記述の違いからわかること

 魏略は、魏志より成立が早く、よく似た記述が見られることから、魏志倭人伝の原典とする説があります。その全貌がわかれば大助かりなのですが、残念ながら、唐代に失われてしまったため、他の書物に「魏略曰く」と引用される形の逸文しか残っていません。逸文の大半は翰苑(唐代、張楚金著)に付された雍公叡の注によるものです。その解説は「翰苑の解読と分析」に譲ることにして、ここでは、魏略逸文と魏志倭人伝の記述の差違から抽出できる両書の思考の違いや、成立の経緯を考えることにします。

魏略、魚豢(生死年不明)撰
 魚豢は京兆郡の人、戦国時代でいえば秦の中心部出身です。隋書経籍志では典略八十九巻、魏の朗中、魚豢撰と記され、旧唐書経籍志には魏略三十八巻、典略五十巻が魚豢撰と記されています。巻数を見ると、隋書の典略の中に魏略が含まれているのかもしれません。魏略は魏末期から晋初期に書かれたようですが、はっきりしたことはわからない。魏志賈逵伝の裴松之注が魏略の甘露二年(257)の記事を引用しています。それ以降の引用がないのは、魏の終末までカバーしていないからなのか。単に引用されていないだけなのか。最終段階が未完のまま終わった可能性もありますから、魏末期の記事が、今、見あたらないからといって、著述が魏代と決めつけるわけにもいきません。

魏志、陳寿(233~297)撰
 陳寿は巴西郡、安漢の人。蜀の観閣令史となっていたが、時の権力者におもねらなかったため冷遇された。蜀が滅びた(264)のち、しばらく沈滞していた。晋の武帝代(265~290)に採り上げられて著作郎となり、魏蜀呉三国志六十五篇を撰した(晋書陳寿伝)。晋が呉を滅ぼして中国を統一した(280)のちに書き始めたとされていますから(華陽国志)、魚豢の最晩年の頃に着手しています。魏略が先行することは間違いないでしょう。ただ、十五~二十五年程度の時間差です。

 魏略は魚豢、魏志は陳寿が書き記したわけですが、当時、考古学などはなく、歴史書はすべて過去の記録類、つまり様々な文献を探しだし、その正誤を勘案して編纂されています。編纂者自身が当事者にインタビューするというのは、その人物に会わなければならないから、時間的にも地理的にも難しく、例外的なもので、ほとんどが文献に基づくと考えて差し支えないでしょう。「あの時はこうだった。」とか「あの人がこう言った。」とかいう当事者やそれに近い人物が書き残した雑多な文書類、おそらく宮廷書庫等に集積されたものを分析、総合しているわけです。そのあたりの行動は、図書館、ネットなどで文献を漁る現在の歴史研究者と何ら異ならない。
 何が正しいかを判定するのは編纂者なので、史書には編纂者の思考、個性といったものが色濃くあらわれ、同じ資料を使いながら異なる結論に到ることすらありえます。
 魏略も、当然、何らかの資料に基づいて書かれているわけですから、魏略の成立の方が早いという理由で、魏志は魏略に基づいて書かれたと言い切るのは単純すぎます。文献の存続をどうこう言うほどの時間差はなく、魏から晋への王朝交代も禅譲という形で、戦乱はないのだから、魏略が使用できた資料は、後発の魏志も使用できたと考えられます。つまり、魏志は、魏略を参考資料のひとつとした可能性は残りますが、魏略に頼る必要はなかったと考えられるわけです。
 前置きはこのくらいにして、魏略逸文と、魏志倭人伝の同一箇所を併記し、その分析にとりかかることにします。

魏略逸文(漢書地理志燕地、唐、願師古注)

(魏略云)倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種

「魏略はいう。倭は帯方東南、大海中に在る。山島に依り国を為している。海千里を渡るとまた国があり、みな倭種である。」
魏志

倭人在帯方東南大海中依山島為国/………/女王国東渡海千里復有国皆倭種

「倭人は帯方東南、大海の中に在る。山島に依り国邑を為している。………女王国の東、海を渡ること千里でまた国があり、みな倭種である。」
魏志曰倭人在帯方東南 (翰苑、唐、雍公叡注)

「魏志曰く、倭人は帯方東南にある。」

 出だしが、魏略が「倭」で、魏志が「倭人」になっています。この文から「魏志倭人伝」と呼ばれているわけです。「倭」でも何ら問題はなく、陳寿がわざわざ「倭人」という言葉を採用した可能性があります。おそらく、「樂浪海中有倭人(樂浪海中に倭人有り)」という漢書地理志燕地の記述から採ったものでしょう。そうした理由は「魏志倭人伝から見える日本3、3c」の「魏志における倭と倭人の使い分け」の項で解説していますので、参照していただければと思います。
 願師古注の魏略逸文では、魏志の青字で示した「之、邑」の二文字が省略されています。陳寿があってもなくても良いような文字をわざわざ付け加える可能性は少ないでしょう。魏略が簡略化されていたのか、魏志と同形だったものを願師古が省略したか。
 魏略逸文の赤字にした部分は、魏志では千三百文字ほど離れたところにあり、ここでも魏略が「女王国東」と「余」を省略しています。魏志がくっついていた文を千三百字も切り離して、大量の記述をあいだに挟むことは考え難いし、魏志の書き方のほうが、筋が通ってわかりやすい。最初の文と同様、魏略そのものがこういう形だったか、願師古が整理したのかということになりますが、願師古が無くても問題のない、離れたところにある記述を、「魏略は云う」という形で、わざわざ付け足すことも考え難い。魏略をそのまま引き写したと見るべきでしょう。魏志よりも魏略を引用する方が、簡単で情報量が多いと考えたのではないか。
 この部分の比較だけで、魏志は魏略を典拠にしているという説が疑わしくなります。共通の原典が存在し、魏略はずいぶん簡略化されていたように思われます。

魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注)

帯方至倭循海岸水行歴韓国到拘邪韓国七千里

「帯方より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を過ぎて拘邪韓国に到る。七千里。」
魏志

至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東其北岸狗邪韓国七千

「郡より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を過ぎ、南に行ったり東に行ったりして、その北岸の狗邪韓国に到る。七千余里。」

 魏志は最初に「倭人は帯方東南」と書いており、帯方と書かなくてもわかるから、「郡より倭に至るには」ですみます。漢書地理志の魏略逸文(願師古注)に「倭は帯方東南」が残っていますから、魏略もそう書けるはずですが、魚豢が「郡」ではわかりにくいと思って「帯方」に置き換えたのかもしれません。もうひとつ、魏略逸文に「帯方」、魏志に「郡」と書かれている文があります。
 魏志にある「乍南乍東」や「その北岸」、「余」という記述が魏略逸文では省かれています。「乍南乍東」は、直訳すれば「たちまち南、たちまち東」です。つまり、目まぐるしく方向を変えながら南東に向かったという意味です。陳寿自身がそういう知識を持つわけがなく、歴史という過去の事実の編纂である以上、自らの勝手な想像を書き加えることはできない。魏略を土台に何か別の文献から得たデータを付け加えたか、共通のデータがあって、魏略が省略した文を、原典のまま採用したか、あるいは魏略の原本は魏志と同等で、引用者の雍公叡が省略したかということになります。
 魏志が魏略に別データを追加したというなら、それは何かという問題が出ます。ほぼ同時代、15~25年くらいの時間差しかない魏略は、何に基づいて書かれたのか。青字にした部分は補助的なもので、黒字部分がなければ意味を成さない。魏志は「魏略+何か」と考えても、「何か」には黒字部分が必要不可欠ですから、書かれている。とすれば、魏志は魏略に頼る必要はない。魏略より詳しい「何か」を引用すれば十分なわけです。ここでも魏略より詳しい共通の基礎資料の存在を推定できます。問題として、雍公叡が省略した場合のみが残ります。

魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注)

始度一海千余里至対国其大官卑狗副曰卑奴無良田南北市糴

「始めて一海を渡る。千余里。対馬国に至る。その大官は卑狗で、副は卑奴という。良田はなく、南北で交易して穀物を買い入れている。」
魏志

始度一海千余里至対国其大官卑狗副曰卑奴母離所居絶島方四百余里土地山嶮多深林道路如禽鹿径有千余戸無良田食海物自活乗船南北市糴

「始めて一海を渡る。千余里。対海国に至る。その大官を卑狗といい、副を卑奴母離という。居する所は絶島で、方四百余里。土地は山が険しく深い林が多い。道路は鳥や鹿の道のようである。千余戸がある。良田はなく、海産物を食べて自活している。船に乗り南北で交易して穀物を買い入れている。」

 魏略逸文では恐ろしく文が切り詰められています。ただ魏略原本がこういう形だったか、引用者の雍公叡が省略したかがわからない。翰苑には魏志、後漢書の引用文もありますが、かなりの省略がありますから、魏略逸文に関しても雍公叡の省略があると考えなければならない。翰苑本文に対する注ですから、必要と思ったところだけを切り取ったり、要約したりしているのでしょう。翰苑が日本にもたらされて以来、ずっと書き写して伝世されてきたので、その間の誤写や脱落というのも考慮に入れなければなりません。

魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注)

南度海至一置官与対(馬)同方三百里

「南、海を渡り一支国に至る。官を置く、対馬と同じ。地は三百里四方」
魏志

南渡一海千余里名曰瀚海至一官曰卑狗副曰卑奴母離三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食又南北市糴

「また、南に一海を渡る。千余里。瀚海という名である。一大国に至る。官は卑狗といい、副は卑奴母離という。およそ三百里四方。竹や草むら、林が多く、三千ほどの家があるが、いくらかの田地があるが、食べてゆくには足らないので、対馬のように南北で交易して米を買っている。」

 対馬と同じように、土地の観察の記述が省略されています。魏略逸文では、官名は「対馬と同じ」と書いていますが、魏志がそれで解るのに、わざわざ字数の多い方向へ書き直したとするのは考え難い。魏志が本来の形を写し、魏略逸文が要約していると見るべきでしょう。それが雍公叡の要約なのか、魚豢・魏略そのものの要約なのかという判別ができません。

魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注)

又度海千余里至末盧国(有四千余戸浜山海居草木茂盛行不見前)善捕魚能浮没水取之

「また、海を渡る。千余里。末盧国に至る。人は魚を捕るのが上手で、うまく水に浮き沈みして、これを取っている。」
魏志

又渡海千余里至末盧国有四千余戸浜山海居草木茂盛行不見前人.好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之

「また、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれの所に住んでいる。草木が盛んに茂り、行くとき、前の人が見えない。魚、アワビを捕るのを好み、水の深浅にかかわらず、みな沈没してこれを取っている。」

 ここでも魏略逸文は国の地理描写に興味を見せません。旅程、官名、風俗のみに絞って要約していたように見えます。逸文の「人善捕魚能浮没水取之」の「善」は、魚を捕るのが「上手い」という意味ですが、魏志の「好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之」の「好」は「好む」という意味で、内容の違いがあります。要約したとしても、文字をこれほど変える必要はありませんから、魏略そのものにこう書かれていたと見るべきでしょう。
 魏志では「前人を見ず」ですが、魏略は「前」で区切って、「人」を次の文章の先頭に置く解釈だったようです。倭人の「沈没して魚を捕る」風俗の前に、魏志にある地理描写の「前人」という言葉が存在したと考えられ、ここでも、魏略より詳しい共通の基礎資料の存在を推定できます。もはや、雍公叡以前の魏略本体の要約がはなはだしいと言い切っても良いでしょう。

魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注)

東南五百里到伊都国戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其国王皆属女王也

「東南五百里。伊都国に到る。万余戸。(官を)置く。爾支といい、副は洩渓觚、柄渠觚という。その国王はみな女王に属すなり。」
魏志

東南陸行五百里到伊都国曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千余戸有王皆属女王国郡使往来常所駐

「東南陸行五百里。伊都国に到る。官は爾支といい、副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸がある。代々、王があり、みな女王国に統属している。郡使が往来するばあい常に滞在するところである。」

 魏略逸文は戸数を書いてこなかったのに、取って付けたように、ここだけ書いてあります。王の存在を記しているのは伊都国だけで、そのうえ官と二人の副官が存在する。ここまでの国より規模がずっと大きそうなのに千余戸という戸数は少なすぎる。おかしいということで、魏略が訂正する意図を込めて、万余の間違いだろうと強調したのではないか。やはり、魏略逸文は魏志を要約した形になっています。魏志は原典をほぼ正確に引用し、魏略は自分の解釈で縮めた文を書いたわけです。

魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注)

女王之有狗奴国男子為王其官曰拘右智卑狗不属女王

「女王の南、また狗奴国があり、男子を王としている。その官はコーウチヒコーという。女王には属さない。」(「女男子」の女は以の転写間違いらしい)
魏志

其南有狗奴国男子為王其官有狗古智卑狗不属女王

「その南に狗奴国があり、男子が王となる。その官にコーコチヒコーがある。女王には属さない。」

 魏志、魏略逸文とも狗奴国は女王国の南と書いています。後漢書では女王国の東ですから、後漢書が間違ったか、修正したかということになります。
 狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗(コーウチヒコ-)」ですが、魏志では「狗古智卑狗(コ-コチヒコー)」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。

魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注)

帯方至女国万二千余里其俗男子皆点而文聞其旧語自謂太伯之後昔夏后少康之子封於会稽断髪文身以避蛟龍之害今倭人又文身以厭水害也

「帯方から女王に至るには、万二千余里。その風俗では、男子はみな点々の入れ墨をする。その過去の話を聞くと、自ら太伯の後と言う。昔、夏后の帝、少康の子は会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨をして蛟龍の害を避けた。今、倭人もまた入れ墨して水害をはらう。」
魏志

至女王国万二千余里男子無大小皆黥面文身自古以来其使詣中国皆自称大夫夏后少康之子封於会稽断髪文身以避蛟龍之害今倭水人好沈没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽

「郡から女王国に至るには、万二千余里。男子は大人子供の区別なく、みな顔と体に入れ墨している。昔からその使者が中国へ来たときはみな大夫を自称する。夏后の帝、少康の子は会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨して蛟龍の害を避けた。今、倭の水人は沈没して魚や蛤を捕るのを好み、入れ墨はまた大魚や水鳥を追いはらう。」

 魏略逸文では、「男子は点の入れ墨をしている。自ら太伯の後裔だと言う。」となっているところを、魏志は、「男子は大人も子供も顔と体に入れ墨をしている。いにしえからずっと、その使者が中国を訪れたとき、みな大夫を自称した」ですから、内容がまったく異なっています。
 「夏后少康の子が断髪文身して蛟龍の害を避けた。」というくだりは漢書地理志粤地にあり、魏略、魏志の両書に書かれているということは、原典に書かれていたということでしょう。夏后少康の子は越の始祖で、文身も越の風俗。魏志には「その道のりを計算するとまさに会稽・東冶(=越)の東にある」という記述もありますから、魏志は女王国を越人の国ととらえていたわけです。
 魏略にある「太伯」は、周の王位を弟に譲り、南方に逃れた呉の始祖ですから、その前にある「点にして文」も呉の風俗ではないか。先にあった「人捕魚浮没水取之」という文は、列子・説符第八にある「呉之没者取之(呉の善く没する者、能くこれを取らん)」という文から採られた組み合わせと思われます。魏志の裴松之注にある魏略逸文には、「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(その風俗では、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を数えて年紀としている。)」と書かれています。春耕秋収を数えて年紀とするのは、中国周初期も同様で、史記周本紀には、穆王が即位したとき「春秋すでに五十」と記されていますし、孔子も「春秋」という歴史書を編んでいます。このように魏略は周の分家という位置づけになる呉関係のデータを集めている。つまり、魏略は女王国を呉人の国と考えていたことが明らかになります。
 「太伯の後」という重要なデータが原資料にあったなら、陳寿がそれを見落としたり、無視したりすることは考え難い。
 魏志よりも、原典を大幅に簡略化していた魏略が、呉関係のデータのみ増やすのは、何か別の資料から持ってきたということではないか。最も可能性が感じられるのは、後漢書、光武帝、建武中元二年の倭の奴国の朝貢です。倭国の最南端にある国で、使者は大夫を自称した、光武帝は印綬を賜った、などと記されています。大夫は周代の官名です。後漢の中央政権に朝貢したのだから、この時期のデータが残されていたのかもしれない。それ以前は、都からはるか離れた燕を訪れていたという漢書地理志燕地の伝承しかありません。
 「太伯の後」が後漢代のデータなら、魏志には関係がないし、女王国は越人の国と考えた陳寿が無視したことも理解できます。魏略が女王国を太伯の後、呉系の国と解するのを読んで、「違うよ」ということで、訂正する形で「古からずっと、その使者が中国を訪れたとき、みな大夫を自称した」という文を入れたのかもしれません。後漢書の奴国の朝貢に「使人自称大夫」がありますし、女王の使者も大夫難升米と書かれていますから、それをまとめたようです。「自古」から「大夫」までは陳寿の解説でしょう。

魏略逸文

●点にして文(?呉の風俗か)
●自ら太伯の後という(太伯は周から分かれた呉の始祖)
●春耕秋収を数えて年紀としている(周初期と同じ年紀)
●使人自称大夫(後漢書、倭奴国、大夫は周代の官名)
★夏后少康之子
(これは漢書地理志からの引用。魏略は呉と越の始祖の話を併記している。)
魏志

★夏后少康之子(越の始祖)
★(黥面)文身(越の風俗)
★会稽・東冶の東にある(=越の東)
●使人自称大夫(後漢書、倭奴国、大夫は周代の官名)
▲古より以来、その使……自称大夫
(魏志は越の始祖のみ)

 では、魏略、魏志の共通の原典とは何かということになります。帯方郡から倭へ、二度の遣使がなされています。最初は正始元年の梯儁を責任者とする一行。魏帝の贈り物など大荷物があり、帯方郡の船で渡来したと考えられるので、人数が多かったと思われます。二度目は正始八年の張政等。女王国から軍事援助の要請があって、それに応えたものでしょう。少人数なので、倭船で渡来したのかもしれない。女王、壱与が使者を派遣して帰国を送りました。この二人が報告書を残した可能性が強い。
 魏志倭人伝には、帯方郡から女王国までの行程が詳しく書かれています。航海中に方向を見失ったため、後の解釈を混乱させてしまいましたが、対馬、壱岐の地理描写は今でも納得がゆくものです。国ごとに入れ墨が異なることや、食べ物が口に合わない不満(ショウガ、山椒などがあるが、それを使ってうまみを出すことを知らない)を書いている。これは国内の移動と長期の滞在を示す記述です。
 特に、二度目の張政は、危機に瀕した女王から緊急援助の要請を受けて派遣されたもので、 その任務は軍事指導と思われます。十数年(正始八年247~景元四年263)に渡って政権中枢部と接触していた彼らほど女王国の内情を知るものはいないのです。檄を作って新女王、壱与を励ましたりしている。女王、卑弥呼とその宮廷の様子や、卑弥呼が神を祭り、その弟が政治を補佐すること、卑弥呼死後の中央政治の混乱など、単なる交易商人や旅行者が書けることではありません。中国、元代、東方見聞録を著したマルコ・ポーロのような例もありますが(但し、中国側の史料にはマルコ・ポーロは影も形もない)、存在したかどうかわからない人間を想定するより、親魏倭王の金印や卑彌呼への贈り物を届けに来た梯儁、長期にわたって軍事指導に当たっていた張政の観察と考える方が簡単かつ妥当です。国命を受けて派遣された二人に、管理者である帯方郡がその顛末、報告書を求めると考えないほうが難しい。信頼できる人間の残した記録だから、史書にも採用されるわけです。得体のしれない本当かどうかわからない個人の文章が史書に採用されることなどないでしょう。信頼できる人間が聞いた伝聞という形で残される。東沃沮伝の玄菟太守、王頎が聞いた東沃沮の古老からの伝聞、東沃沮東の海中の島の話のように。
 元々、帯方郡使が帯方郡に提出した報告書だったなら、「帯方」と書かずに、単に「郡」と書いていたことにも説明が付きます。

魏略、魏志の違いを整理すれば、次のようになります。

魏略逸文

●「魏略」は帯方郡使の残した報告書に、後漢代の奴国の朝貢のおりに得られた情報を加えて「倭伝?」を組み立て、後漢の情報を重視して、女王国を太伯の後の呉人の国と考えた。かなり簡約化している。
魏志

●「魏志」は帯方郡使の残した報告書を比較的忠実に引用した。女王国を越人の国と考え、参照した魏略の間違いと対比させるため、魏略の「太伯の後」と同じ位置に「古より以来、その使、中国に詣ずるはみな大夫を自称す。」という文をはめ込んだ。




魏志倭人伝の構造

●採用資料別色分け
●帯方郡使梯儁と張政の報告の区別に関しては、リンクの「魏志倭人伝から見える日本」を参照してください。

1,陳寿の解説、補足
2,最初の帯方郡使、梯儁の報告に基づくと思われる文
3,二度目の帯方郡使、張政の報告に基づくと思われる文
4,裴松之の加えた注
5,魏の公文書の写し(原型そのままと考えられる)
6,魏中央政府の何らかの史料から得た文の要約

倭人在帯方東南大海之中 依山島為国邑 旧百余国 漢時有朝見者 今使訳所通三十国 従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 七千余里 始度一海 千余里 至 対海(対馬)国 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶島 方可四百余里 土地山険多深林 道路如禽鹿徑 有千余戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴 又南渡一海千余里 名日瀚海 至一大国 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴 又渡一海千余里 至末盧国 有四千余戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆沈没取之 東南陸行五百里 到伊都国 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千余戸 世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐 東南至奴国百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二万余戸 東行至不弥国百里 官日多模 副日卑奴母離 有千余家 南至投馬国水行二十日 官日弥弥 副日弥弥那利 可五萬余戸 南至邪馬壱国 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日弥馬升 次日弥馬獲支 次日奴佳鞮 可七万余戸 自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳 次有斯馬国 次有巳百支国 次有伊邪国 次有都支国 次有弥奴国 次有好古都国 次有不呼国 次有姐奴国 次有對蘇国 次有蘇奴国 次有呼邑国 次有華奴蘇奴国 次有鬼国 次有為吾国 次有鬼奴国 次有邪馬国 次有躬臣国 次有巴利国 次有支惟国 次有烏奴国 次有奴国 此女王境界所盡 其南有狗奴国 男子為王 其官有狗古智卑狗 不属女王 自郡至女王国 萬二千余里 男子無大小 皆黥面文身 自古以来 其使詣中国 皆自称大夫 夏后少康之子封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沈没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸国文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在会稽東治之東 其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連 略無縫 婦人被髪屈紒 作衣如単被 穿其中央 貫頭衣之 種禾稲紵麻蠶桑 緝績出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鉄鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同 倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟臥息異処 以朱丹塗其身体 如中国用粉也 食飲用籩豆 手食 其死有棺無槨 封土作冢 始死停喪十余日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬 挙家詣水中澡浴 以如練沐 其行来渡海詣中国 恒使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之為持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不勤 出真珠青玉 其山有丹 其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香 其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷 不知以為滋味 有獮猴黒雉 其俗挙事行来 有所云為 輒灼骨而卜以占吉凶 先告所卜 其辭如令亀法 視火坼占兆 其会同 坐起 父子男女無別 人性嗜酒(魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀)見大人所敬 但搏手 以當跪拝 其人寿考或百年或八九十年 其俗国大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫不妬忌 不盗竊少諍訟 其犯法 軽者没其妻子 重者没其門戸及宗族 尊卑各有差 序足相臣服 収租賦有邸閣 国国有市 交易有無 使大倭監之 自女王国以北 特置一大率検察 諸国畏憚之 常治伊都国 於国中有如刺史 王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯 下戸與大人相逢道路 逡巡入草 傳辭説事 或蹲或跪 両手據地 為之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾 其国本亦以男子為王 住七八十年 倭国乱相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治国 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓観城柵厳設 常有人持兵守衛 又有侏儒国在其南 人長三四尺 去女王四千余里 又有裸国黒歯国 復有其東南 船行一年可至 参問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千余里 景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都 其年十二月 詔書報倭女王曰 制詔 親魏倭王卑弥呼 帯方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利 奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帯方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順 汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤労 今以難升米為率善中郎将 牛利為率善校尉 假銀印青綬 引見労賜遣還 今以絳地交龍錦五匹絳地縐粟罽十張倩絳五十匹紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八両 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鉛丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受 悉可以示汝国中人使知国家哀汝 故鄭重賜汝好物也 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王 并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝恩詔 其四年 倭王復遣使 大夫伊聲耆掖邪拘等八人 上献生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等壱拝率善中郎将印綬 其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡仮授 其八年太守王頎到官 倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝仮難升米 為檄告喩之 卑弥呼以死 大作冢 徑百余歩 徇葬者奴婢百余人 更立男王 国中不服 更相誅殺 當時殺千余人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 国中遂定 政等以檄告喩壹與 壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹

魏略逸文の構造

1,最初の帯方郡使、梯儁の報告に基づくと思われる文の要約
2, 奴国の朝貢により得られた後漢代の史料に基づくと思われる文の要約
3,二度目の帯方郡使、張政の報告に基づくと思われる文の要約

倭在帯方東南大海中 依山島為国 度海千里復有国皆倭種 従帯方至倭 循海岸水行歴韓国 到拘邪韓国七千里 始度一海千余里至対馬国 其大官卑狗副曰卑奴 無良田 南北市糴 南度海至一支国 置官与対同 地方三百里 又度海千余里至末盧国 人善捕魚能浮没水取之 東南五百里到伊都国 戸万余 置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚 其国王皆属女王也女王之 南又有狗奴国 女男子為王 其官曰拘右智卑狗 不属女王 自帯方至女国万二千余里 其俗男子皆点而文 聞其旧語自謂太伯之後 昔夏后少康之子封於会稽 断髪文身以避蛟龍之害 今倭人又文身以厭水害也 其俗不知正歳四時 但記春耕秋収為年紀 倭国大事輒灼骨以卜 先如中州令亀 視坼占吉凶倭 南有侏儒国 其人長三四尺 去女王国四千余里


  魏志倭人伝から見える日本
  後漢書倭伝の構造