魏略逸文

魏略逸文と魏志倭人伝


魏略逸文と魏志倭人伝、記述の違いからわかること

 魏略は、魏志より成立が早く、よく似た記述が見られることから、魏志倭人伝の原典とする説があります。その全貌がわかれば大助かりなのですが、残念ながら、唐代に失われてしまったため、他の書物に「魏略曰く」と引用される形の逸文しか残っていません。逸文の大半は翰苑(唐代、張楚金著)に付された雍公叡の注によるものです。その解説は「翰苑の解読と分析」に譲ることにして、ここでは、魏略逸文と魏志倭人伝の記述の差違から抽出できる両書の思考の違いや、成立の経緯を考えることにします。

魏略、魚豢(生死年不明)撰
 魚豢は京兆郡の人、戦国時代でいえば秦の中心部出身です。隋書経籍志では典略八十九巻、魏の朗中、魚豢撰と記され、旧唐書経籍志には魏略三十八巻、典略五十巻が魚豢撰と記されています。巻数を見ると、隋書の典略の中に魏略が含まれているのかもしれません。魏略は魏末期から晋初期に書かれたようですが、はっきりしたことはわからない。魏志賈逵伝の裴松之注が魏略の甘露二年(257)の記事を引用しています。それ以降の引用がないのは、魏の終末までカバーしていないからなのか。単に引用されていないだけなのか。最終段階が未完のまま終わった可能性もありますから、魏末期の記事が、今、見あたらないからといって、著述が魏代と決めつけるわけにもいきません。

魏志、陳寿(233~297)撰
 陳寿は巴西郡、安漢の人。蜀の観閣令史となっていたが、時の権力者におもねらなかったため冷遇された。蜀が滅びた(264)のち、しばらく沈滞していた。晋の武帝代(265~290)に採り上げられて著作郎となり、魏蜀呉三国志六十五篇を撰した(晋書陳寿伝)。晋が呉を滅ぼして中国を統一した(280)のちに書き始めたとされていますから(華陽国志)、魚豢の最晩年の頃に着手しています。魏略が先行することは間違いないでしょう。ただ、十五~二十五年程度の時間差です。

 魏略は魚豢、魏志は陳寿が書き記したわけですが、当時、考古学などはなく、歴史書はすべて過去の記録類、つまり様々な文献を探しだし、その正誤を勘案して編纂されています。編纂者自身が当事者にインタビューするというのは、その人物に会わなければならないから、時間的にも地理的にも難しく、例外的なもので、ほとんどが文献に基づくと考えて差し支えないでしょう。「あの時はこうだった。」とか「あの人がこう言った。」とかいう当事者やそれに近い人物が書き残した雑多な文書類、おそらく宮廷書庫等に集積されたものを分析、総合しているわけです。そのあたりの行動は、図書館、ネットなどで文献を漁る現在の歴史研究者と何ら異ならない。
 何が正しいかを判定するのは編纂者なので、史書には編纂者の思考、個性といったものが色濃くあらわれ、同じ資料を使いながら異なる結論に到ることすらありえます。
 魏略も、当然、何らかの資料に基づいて書かれているわけですから、魏略の成立の方が早いという理由で、魏志は魏略に基づいて書かれたと言い切るのは単純すぎます。文献の存続をどうこう言うほどの時間差はなく、魏から晋への王朝交代も禅譲という形で、戦乱はないのだから、魏略が使用できた資料は、後発の魏志も使用できたと考えられます。つまり、魏志は、魏略を参考資料のひとつとした可能性は残りますが、魏略に頼る必要はなかったと考えられるわけです。
 前置きはこのくらいにして、魏略逸文と、魏志倭人伝の同一箇所を併記し、その分析にとりかかることにします。

魏略逸文(漢書地理志燕地、唐、願師古注)

(魏略云)倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種

「魏略はいう。倭は帯方東南、大海中に在る。山島に依り国を為している。海千里を渡るとまた国があり、みな倭種である。」
魏志

倭人在帯方東南大海中依山島為国/………/女王国東渡海千里復有国皆倭種

「倭人は帯方東南、大海の中に在る。山島に依り国邑を為している。………女王国の東、海を渡ること千里でまた国があり、みな倭種である。」
魏志曰倭人在帯方東南 (翰苑、唐、雍公叡注)

「魏志曰く、倭人は帯方東南にある。」

 出だしが、魏略が「倭」で、魏志が「倭人」になっています。この文から「魏志倭人伝」と呼ばれているわけです。「倭」でも何ら問題はなく、陳寿がわざわざ「倭人」という言葉を採用した可能性があります。おそらく、「樂浪海中有倭人(樂浪海中に倭人有り)」という漢書地理志燕地の記述から採ったものでしょう。そうした理由は「魏志倭人伝から見える日本3、3c」の「魏志における倭と倭人の使い分け」の項で解説していますので、参照していただければと思います。
 願師古注の魏略逸文では、魏志の青字で示した「之、邑」の二文字が省略されています。陳寿があってもなくても良いような文字をわざわざ付け加える可能性は少ないでしょう。魏略が簡略化されていたのか、魏志と同形だったものを願師古が省略したか。
 魏略逸文の赤字にした部分は、魏志では千三百文字ほど離れたところにあり、ここでも魏略が「女王国東」と「余」を省略しています。魏志がくっついていた文を千三百字も切り離して、大量の記述をあいだに挟むことは考え難いし、魏志の書き方のほうが、筋が通ってわかりやすい。最初の文と同様、魏略そのものがこういう形だったか、願師古が整理したのかということになりますが、願師古が無くても問題のない、離れたところにある記述を、「魏略は云う」という形で、わざわざ付け足すことも考え難い。魏略をそのまま引き写したと見るべきでしょう。魏志よりも魏略を引用する方が、簡単で情報量が多いと考えたのではないか。
 この部分の比較だけで、魏志は魏略を典拠にしているという説が疑わしくなります。共通の原典が存在し、魏略はずいぶん簡略化されていたように思われます。

魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注)

帯方至倭循海岸水行歴韓国到拘邪韓国七千里

「帯方より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を過ぎて拘邪韓国に到る。七千里。」
魏志

至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東其北岸狗邪韓国七千

「郡より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を過ぎ、南に行ったり東に行ったりして、その北岸の狗邪韓国に到る。七千余里。」

 魏志は最初に「倭人は帯方東南」と書いており、帯方と書かなくてもわかるから、「郡より倭に至るには」ですみます。漢書地理志の魏略逸文(願師古注)に「倭は帯方東南」が残っていますから、魏略もそう書けるはずですが、魚豢が「郡」ではわかりにくいと思って「帯方」に置き換えたのかもしれません。もうひとつ、魏略逸文に「帯方」、魏志に「郡」と書かれている文があります。
 魏志にある「乍南乍東」や「その北岸」、「余」という記述が魏略逸文では省かれています。「乍南乍東」は、直訳すれば「たちまち南、たちまち東」です。つまり、目まぐるしく方向を変えながら南東に向かったという意味です。陳寿自身がそういう知識を持つわけがなく、歴史という過去の事実の編纂である以上、自らの勝手な想像を書き加えることはできない。魏略を土台に何か別の文献から得たデータを付け加えたか、共通のデータがあって、魏略が省略した文を、原典のまま採用したか、あるいは魏略の原本は魏志と同等で、引用者の雍公叡が省略したかということになります。
 魏志が魏略に別データを追加したというなら、それは何かという問題が出ます。ほぼ同時代、15~25年くらいの時間差しかない魏略は、何に基づいて書かれたのか。青字にした部分は補助的なもので、黒字部分がなければ意味を成さない。魏志は「魏略+何か」と考えても、「何か」には黒字部分が必要不可欠ですから、書かれている。とすれば、魏志は魏略に頼る必要はない。魏略より詳しい「何か」を引用すれば十分なわけです。ここでも魏略より詳しい共通の基礎資料の存在を推定できます。問題として、雍公叡が省略した場合のみが残ります。

魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注)

始度一海千余里至対国其大官卑狗副曰卑奴無良田南北市糴

「始めて一海を渡る。千余里。対馬国に至る。その大官は卑狗で、副は卑奴という。良田はなく、南北で交易して穀物を買い入れている。」
魏志

始度一海千余里至対国其大官卑狗副曰卑奴母離所居絶島方四百余里土地山嶮多深林道路如禽鹿径有千余戸無良田食海物自活乗船南北市糴

「始めて一海を渡る。千余里。対海国に至る。その大官を卑狗といい、副を卑奴母離という。居する所は絶島で、方四百余里。土地は山が険しく深い林が多い。道路は鳥や鹿の道のようである。千余戸がある。良田はなく、海産物を食べて自活している。船に乗り南北で交易して穀物を買い入れている。」

 魏略逸文では恐ろしく文が切り詰められています。ただ魏略原本がこういう形だったか、引用者の雍公叡が省略したかがわからない。翰苑には魏志、後漢書の引用文もありますが、かなりの省略がありますから、魏略逸文に関しても雍公叡の省略があると考えなければならない。翰苑本文に対する注ですから、必要と思ったところだけを切り取ったり、要約したりしているのでしょう。翰苑が日本にもたらされて以来、ずっと書き写して伝世されてきたので、その間の誤写や脱落というのも考慮に入れなければなりません。

魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注)

南度海至一置官与対(馬)同方三百里

「南、海を渡り一支国に至る。官を置く、対馬と同じ。地は三百里四方」
魏志

南渡一海千余里名曰瀚海至一官曰卑狗副曰卑奴母離三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食又南北市糴

「また、南に一海を渡る。千余里。瀚海という名である。一大国に至る。官は卑狗といい、副は卑奴母離という。およそ三百里四方。竹や草むら、林が多く、三千ほどの家があるが、いくらかの田地があるが、食べてゆくには足らないので、対馬のように南北で交易して米を買っている。」

 対馬と同じように、土地の観察の記述が省略されています。魏略逸文では、官名は「対馬と同じ」と書いていますが、魏志がそれで解るのに、わざわざ字数の多い方向へ書き直したとするのは考え難い。魏志が本来の形を写し、魏略逸文が要約していると見るべきでしょう。それが雍公叡の要約なのか、魚豢・魏略そのものの要約なのかという判別ができません。

魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注)

又度海千余里至末盧国(有四千余戸浜山海居草木茂盛行不見前)善捕魚能浮没水取之

「また、海を渡る。千余里。末盧国に至る。人は魚を捕るのが上手で、うまく水に浮き沈みして、これを取っている。」
魏志

又渡海千余里至末盧国有四千余戸浜山海居草木茂盛行不見前人.好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之

「また、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれの所に住んでいる。草木が盛んに茂り、行くとき、前の人が見えない。魚、アワビを捕るのを好み、水の深浅にかかわらず、みな沈没してこれを取っている。」

 ここでも魏略逸文は国の地理描写に興味を見せません。旅程、官名、風俗のみに絞って要約していたように見えます。逸文の「人善捕魚能浮没水取之」の「善」は、魚を捕るのが「上手い」という意味ですが、魏志の「好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之」の「好」は「好む」という意味で、内容の違いがあります。要約したとしても、文字をこれほど変える必要はありませんから、魏略そのものにこう書かれていたと見るべきでしょう。
 魏志では「前人を見ず」ですが、魏略は「前」で区切って、「人」を次の文章の先頭に置く解釈だったようです。倭人の「沈没して魚を捕る」風俗の前に、魏志にある地理描写の「前人」という言葉が存在したと考えられ、ここでも、魏略より詳しい共通の基礎資料の存在を推定できます。もはや、雍公叡以前の魏略本体の要約がはなはだしいと言い切っても良いでしょう。

魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注)

東南五百里到伊都国戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其国王皆属女王也

「東南五百里。伊都国に到る。万余戸。(官を)置く。爾支といい、副は洩渓觚、柄渠觚という。その国王はみな女王に属すなり。」
魏志

東南陸行五百里到伊都国曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千余戸有王皆属女王国郡使往来常所駐

「東南陸行五百里。伊都国に到る。官は爾支といい、副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸がある。代々、王があり、みな女王国に統属している。郡使が往来するばあい常に滞在するところである。」

 魏略逸文は戸数を書いてこなかったのに、取って付けたように、ここだけ書いてあります。王の存在を記しているのは伊都国だけで、そのうえ官と二人の副官が存在する。ここまでの国より規模がずっと大きそうなのに千余戸という戸数は少なすぎる。おかしいということで、魏略が訂正する意図を込めて、万余の間違いだろうと強調したのではないか。やはり、魏略逸文は魏志を要約した形になっています。魏志は原典をほぼ正確に引用し、魏略は自分の解釈で縮めた文を書いたわけです。

魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注)

女王之有狗奴国男子為王其官曰拘右智卑狗不属女王也<

「女王の南、また狗奴国があり、男子を王としている。その官はコーウチヒコーという。女王には属さない。」(「女男子」の女は以の転写間違いらしい)
魏志

其南有狗奴国男子為王其官有狗古智卑狗不属女王

「その南に狗奴国があり、男子が王となる。その官にコーコチヒコーがある。女王には属さない。」

 魏志、魏略逸文とも狗奴国は女王国の南と書いています。後漢書では女王国の東ですから、後漢書が間違ったか、修正したかということになります。
 狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗(コーウチヒコ-)」ですが、魏志では「狗古智卑狗(コ-コチヒコー)」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。

魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注)

帯方至女国万二千余里其俗男子皆点而文聞其旧語自謂太伯之後昔夏后少康之子封於会稽断髪文身以避蛟龍之害今倭人又文身以厭水害也

「帯方から女王に至るには、万二千余里。その風俗では、男子はみな点々の入れ墨をする。その過去の話を聞くと、自ら太伯の後と言う。昔、夏后の帝、少康の子は会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨をして蛟龍の害を避けた。今、倭人もまた入れ墨して水害をはらう。」
魏志

至女王国万二千余里男子無大小皆黥面文身自古以来其使詣中国皆自称大夫夏后少康之子封於会稽断髪文身以避蛟龍之害今倭水人好沈没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽

「郡から女王国に至るには、万二千余里。男子は大人子供の区別なく、みな顔と体に入れ墨している。昔からその使者が中国へ来たときはみな大夫を自称する。夏后の帝、少康の子は会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨して蛟龍の害を避けた。今、倭の水人は沈没して魚や蛤を捕るのを好み、入れ墨はまた大魚や水鳥を追いはらう。」

 魏略逸文では、「男子は点の入れ墨をしている。自ら太伯の後裔だと言う。」となっているところを、魏志は、「男子は大人も子供も顔と体に入れ墨をしている。いにしえからずっと、その使者が中国を訪れたとき、みな大夫を自称した」ですから、内容がまったく異なっています。
 「夏后少康の子が断髪文身して蛟龍の害を避けた。」というくだりは漢書地理志粤地にあり、魏略、魏志の両書に書かれているということは、原典に書かれていたということでしょう。夏后少康の子は越の始祖で、文身も越の風俗。魏志には「その道のりを計算するとまさに会稽・東冶(=越)の東にある」という記述もありますから、魏志は女王国を越人の国ととらえていたわけです。
 魏略にある「太伯」は、周の王位を弟に譲り、南方に逃れた呉の始祖ですから、その前にある「点にして文」も呉の風俗ではないか。先にあった「人捕魚浮没水取之」という文は、列子・説符第八にある「呉之没者能取之(呉の善く没する者、能くこれを取らん)」という文から採られた組み合わせと思われます。魏志の裴松之注にある魏略逸文には、「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(その風俗では、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を数えて年紀としている。)」と書かれています。春耕秋収を数えて年紀とするのは、中国周初期も同様で、史記周本紀には、穆王が即位したとき「春秋すでに五十」と記されていますし、孔子も「春秋」という歴史書を編んでいます。このように魏略は周の分家という位置づけになる呉関係のデータを集めている。つまり、魏略は女王国を呉人の国と考えていたことが明らかになります。
 「太伯の後」という重要なデータが原資料にあったなら、陳寿がそれを見落としたり、無視したりすることは考え難い。
 魏志よりも、原典を大幅に簡略化していた魏略が、呉関係のデータのみ増やすのは、何か別の資料から持ってきたということではないか。最も可能性が感じられるのは、後漢書、光武帝、建武中元二年の倭の奴国の朝貢です。倭国の最南端にある国で、使者は大夫を自称した、光武帝は印綬を賜った、などと記されています。大夫は周代の官名です。後漢の中央政権に朝貢したのだから、この時期のデータが残されていたのかもしれない。それ以前は、都からはるか離れた燕を訪れていたという漢書地理志燕地の伝承しかありません。
 「太伯の後」が後漢代のデータなら、魏志には関係がないし、女王国は越人の国と考えた陳寿が無視したことも理解できます。魏略が女王国を太伯の後、呉系の国と解するのを読んで、「違うよ」ということで、訂正する形で「古からずっと、その使者が中国を訪れたとき、みな大夫を自称した」という文を入れたのかもしれません。後漢書の奴国の朝貢に「使人自称大夫」がありますし、女王の使者も大夫難升米と書かれていますから、それをまとめたようです。「自古」から「大夫」までは陳寿の解説でしょう。

魏略逸文

●点にして文(?呉の風俗か)
●自ら太伯の後という(太伯は周から分かれた呉の始祖)
●春耕秋収を数えて年紀としている(周初期と同じ年紀)
●使人自称大夫(後漢書、倭奴国、大夫は周代の官名)
★夏后少康之子
(これは漢書地理志からの引用。魏略は呉と越の始祖の話を併記している。)
魏志

★夏后少康之子(越の始祖)
★(黥面)文身(越の風俗)
★会稽・東冶の東にある(=越の東)
●使人自称大夫(後漢書、倭奴国、大夫は周代の官名)
▲古より以来、その使……自称大夫
(魏志は越の始祖のみ)

 では、魏略、魏志の共通の原典とは何かということになります。帯方郡から倭へ、二度の遣使がなされています。最初は正始元年の梯儁を責任者とする一行。帯方郡の船で渡来したと考えられるので、人数が多かったと思われます。二度目は正始八年の張政等。女王国から軍事援助の要請があって、それに応えたものでしょう。この二人が報告書を残した可能性が強い。
 魏志倭人伝には、倭から女王国までの行程が詳しく書かれています。航海中に方向を見失ったため、後の解釈を混乱させてしまいましたが、対馬、壱岐の地理描写は今でも納得がゆくものです。国ごとに入れ墨が異なることや、食べ物が口に合わない不満(ショウガ、山椒などがあるが、それを使ってうまみを出すことを知らない)を書いている。これは国内の移動と長期の滞在を示す記述です。
 特に、二度目の張政は、危機に瀕した女王から緊急援助の要請を受けて派遣されたもので、 その任務は軍事指導と思われます。政権中枢部と接触していた彼らほど女王国の内情を知るものはいないのです。女王、卑弥呼とその宮廷の様子や、卑弥呼が神を祭り、その弟が政治を補佐すること、卑弥呼死後の中央政治の混乱など、単なる交易商人や旅行者が書けることではありません。中国、元代のマルコ・ポーロのような例もありますが、存在したかどうかわからない人間を想定するより、現実に軍事指導に当たっていた張政の観察と考える方が簡単かつ妥当です。
 元々、帯方郡使が帯方郡に提出した報告書だったなら、「帯方」と書かずに、単に「郡」と書いていたことにも説明が付きます。

魏略、魏志の違いを整理すれば、次のようになります。
●「魏略」は帯方郡使の残した報告書に、後漢代の奴国の朝貢のおりに得られた情報を加えて「倭伝?」を組み立て、後漢の情報を重視して、女王国を太伯の後の呉人の国と考えた。かなり簡約化している。
●「魏志」は帯方郡使の残した報告書を比較的忠実に引用した。女王国を越人の国と考え、参照した魏略の間違いと対比させるため、魏略の「太伯の後」と同じ位置に「古より以来、その使、中国に詣ずるはみな大夫を自称す。」という文をはめ込んだ。

  魏志倭人伝から見える日本
  魏志倭人伝の構造
  後漢書倭伝の構造