弥生の興亡1 魏志倭人伝から見える日本3

魏志倭人伝から見える日本、3

三、倭国の政治と社会、事件

   1、統治機構
   2、使訳の通じない謎の土地
   3、魏志における倭と倭人の使い分け
   4、万二千余里の根拠
   5、魏との交流
   6、卑弥呼の死と箸墓について
   7、三輪山の神が南方系風俗を持つこと
   8、壱与の即位と張政の帰国

四、その後の邪馬壱国



三、倭国の政治と社会、事件

 

1、統治機構

  収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之
「祖賦を収め、邸閣あり。国国は市ありて、有無を交易す。大倭をしてこれを監ぜしむ。」

「租税を収め、高床の大倉庫がある。国々に市があって有無を交易し、大倭にこれを監督させている。」

 祖は田地に対する税で、賦は布などのそれ以外の税と考えられる。その税を収納する邸閣が設けられていた。「魏書、徐胡二王伝」等では、軍事用の食料貯蔵庫を邸閣と表現しているし、邸は大きな建物、閣は足つきの構造物をいう文字なので、邸閣とは、高床の大倉庫を意味する(注126)。弥生集落にある高床の小屋程度にこのような表現は使わない。中国人が邸閣と扱うくらいの大きな建物が存在したのである。
 邪馬壱国は、市で有無を交易する、貨幣のない物々交換の世界であった(注127)。対馬や壱岐では、朝鮮半島との交易の必要にせまられて、鉄を貨幣代りに使用していた可能性があり、地域差を感じ取れる。もっとも、対馬、壱岐でも住民間は物々交換だったかもしれない。
 倭というのは、日本人自らがそう名乗っていたわけではなく、中国からの呼び名なので、大倭も、平民よりちょいと身分の高い、市を監督する官吏という意味で中国人が便宜上使用したものである。実際の官名ではない。国々にある市なので、「市を監ぜしめた」大倭の上司は、国々の「官」か「副」ということになるだろう。

  自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
「女王国より以北は、特に一人の大率を置き、検察す。諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中における刺史の如くあり。」

「女王国より北は、特に一人の大率を置いて検察する。諸国はこれを恐れはばかっている。常に伊都国で政務を執っている(注128)。(魏)国中に於ける刺史の如きものである。」

 刺史とは、いくつもの郡や国から成る州の長官のことで、魏志毋丘倹伝等には、幽州刺史、毋丘倹が玄菟(郡)太守、王頎に高句麗攻撃を命じたという記述がある(注129)。ちなみに幽州とは、楽浪郡、帯方郡、遼東郡、玄菟郡、昌黎郡、遼西郡、右北平郡、漁陽郡、燕国、上谷郡、代郡、范陽郡を含んでいて、現在の遼寧省と河北省北部、さらに朝鮮半島の一部を加えたという広大な地域である。帯方郡使が最も意識するのは、直属の上司たる幽州刺史であろう。それに似ているというのだから、大率は九州を統括する軍事権を持つ知事といった役どころで、後の太宰帥と同じ形になる。
 地理的に離れている投馬国(鞆)が、大率の検察する女王国以北の国に含まれる可能性は少なく、その副官は弥弥那利で、大率直属と考えられる九州各国の副官、卑奴母離とは異なっている。瀬戸内では投馬国にしか立ち寄っていない。投馬国の官、弥弥が中国地方を統括する役目を持っていたからではないか。
 一大率と記されているが、先に出た大倭に対応しているようだし、卑弥呼を一女子と表現しているので、一人の大率と解釈できる。したがって、これも倭の官名ではなく、中国人が、魏の刺史の如き役職の高級軍人を表すため、ふさわしい文字を選んで与えたものである。
 率善中郎将や率善校尉という官名も倭人伝に見られ、率は指揮官を意味する(注130)。大倭は市ごとにいたので、その数を記していない。

  王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国
  皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯

「王が使を遣はし、京都、帯方郡、諸韓国、及び郡使が倭国に詣るに、皆、津に臨みて捜露す。文書や賜遣の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。」

「(邪馬壱国の)王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に行く時、及び帯方郡の使者が倭国へやって来た時には、いつも、(この大率が伊都国から) 港に出向いて調査、確認する。文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。」

 上記のように、伊都国には、女王国の対中国、朝鮮外交に重要な役割を果たす出先機関が置かれていた。外交活動という国家レベルの政治が存在したのである。
 北九州では四国が紹介されたが、帯方郡の船が入ったのは末盧国だけである。次の伊都国から不弥国までは陸行なので、この文の「津」は末羅国にしか存在し得ない。そして、末盧国と考えられる唐津には、現在、松浦川河口部に大きな自然の潟があるから、位置的にはもう少し南方にずれていたと思えるが、おそらく当時もそれが存在して、港(津)が設けられていたのであろう。津とは説文解字には「水渡也」とあり、大辞典には「川の渡し場」とある。
 この国は伊都国の管理下に置かれていたらしいので、常にそこで政務を執っていたという大率が調査に赴くのも理解できる.
 魏帝からの文書や贈与品を港で検査、確認し、使者を案内して役所のある伊都国まで運んだ。この行程が「東南陸行五百里、到伊都国」と表されたのである。荷物は大率の責任において、さらにそこから女王国まで伝送されることになる(注131)
 初めて派遣され、倭ヘ向かった帯方郡使は、伊都国で役目が済んでいる。後に邪馬壱国まで急いだのは、何か別の、より重要な案件があったためと解さねばならない。

  下戸與大人相逢道路 逡巡入草
  傳辭説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾

「下戸は、大人と道路で相逢えば、逡巡して草に入る。辞を伝え、事を説くには、或いは蹲り、或いは跪きて、両手は地に據し、これを恭敬となす。対応の声は噫といふ。比して然諾の如し。」

「下層階級の者が道路で貴人に出逢ったときは、後ずさりして(道路脇の)草に入る。言葉を伝えたり、物事を説明する時には、しゃがんだり、跪いたりして、両手を地に付けうやうやしさを表現する。貴人の返答の声は『アイ』という。(中国で承知したことを表す)然諾と同じようなものである。」

 こういう些細な日常の描写は、実際にその光景を目の当たりにしなければできなかったであろう。大人と共に細い道を歩いていて、下戸が道を譲るため、退いて草むらに入るのを何度も見たのである。逡巡を「まごついて」などと心理解釈してはならない。単に、顔をこちらに向けながら後ろに下がるという具体的動作を表現したもので、習慣化した風俗と考えられる。大人と出会った下戸の誰も彼もが、いちいち行動に迷うはずはないのである(注132)
 しゃがんだり、跪いたりして両手を地に付け、目上の者に報告するという形も後代に残っているし、貴人の承諾の返事も「ハイ」という現在の言葉につながるというか、発声のh音が聞き取れないだけで、全く同じではないか。

  其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
  乃共立一女子為王 名日卑彌呼 事鬼道能惑衆 
  年已長大 無夫壻 有男弟佐治國

「その国、本はまた男子を以って王と為す。住みて七、八十年、倭国は乱れ、相攻伐して年を歴る。すなはち、一女子を共に立て王と為す。名は卑弥呼と曰ふ。鬼道に事へ、よく衆を惑はす。年、すでに長大にして、夫婿なし。男弟有りて国を治むるを佐く。」

「その国は、元は男子を王としていた。居住して七、八十年で、倭国は乱れ、互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という。鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わした。非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。」

 邪馬壱国も血生臭い戦闘の結果生まれた国である。国を支えるに足るような官僚機構が整備されていなかった頃、国の成否は、王個人の能力に頼らざるを得ない。「一女子を共立して王と為した」という言葉から、卑弥呼を帽子のように、単に頭に乗っていただけの実権の無い軽い存在と扱うのは間違っている。衆をたくみに惑わし支配した人物なのである。弟が統治を助けていると記されているが、判断に迷うような事態に陥れば、卑弥呼自身が、神のお告げを受けて最終的な決断を下したことであろう。
 卑弥呼は神の意志を伝える者としてあがめられ、人々はその言葉に従う。「能く衆を惑わす。」という言葉からは、卑弥呼自身が信仰の対象だったような気配すら感じられる(注133)
 また、共立という言葉が通用するのは同盟国間だけで、奴国王のように、国を奪われてしまった者も数多かったに違いない。末盧国など、伊都国や不弥国の四倍の戸数を有し、国際港まで持つという重要拠点である。ここに統治組織が無いのは不自然で、邪馬壱国に敵したため、王はその地位を追われ、伊都国の大率の直轄下に置かれていたと解釈できる。
 伊都国以外の九州各国の副官は卑奴母離に統一されていたが、官には、地位を引き下げられた元の王族がそのまま滑り込んでいた可能性があり、その官名が国毎に異なっているのは、元々、各国が独立していたことを示すのだろう。後漢書は、「漢に使訳の通じた国は三十国ばかりで、国は皆王を称す。世々伝統」として、伊都国にのみ王が存在するという魏志とは異なる内容を記している。これは後漢代の何らかの資料に根拠を持つと思われる。
 桓帝と霊帝の間(147~188)に大乱があり、歴年主無しという状況が続いた後、卑弥呼が即位したといいうから(後漢書)、卑弥呼は最も遅く考えても188年には王になっていた。魏の正始八年(247)、卑弥呼最後の遣使がなされているので、その差は59年。つまり、最低限でも59年間、君臨していたわけである。十歳で即位したとしても七十歳近い年齢になり、実際は、それをはるかに上回ると考えられるから、確かに、「年すでに長大」という表現はふさわしい。これは普通の老を表す言葉ではないはずである(注134)。子供の頃はともかく、ずっとただの帽子であってはもたない年数と思われる。
 松本清張氏のように「年すでに長大」を成人という意味に解せば、うら若い女王に、それより若い弟が補佐として付く形になる。諸国の共立で生まれた国の運営体制として、現実にはあり得ないであろう。

  自為王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處
  宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛

「王となりてより以来、見(けん)有る者少し。婢千人を以(もち)ひ、自ずから侍る。ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝へ、居所に出入りす。宮室、楼観の城柵は厳く設け、常に人有りて、兵を持ち守衛す。」

「王となってから、朝見のできた者はわずかである。侍女千人がいて、(指示もなく)自律的に仕え(注135)、ただ男子一人がいて、飲食物を運んだり言葉を伝えたりするため、女王の住んでいる所へ出入りしている。宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に武器を持った人が守衛している。」

 女王の住まいと重要施設のみが、厳重に囲われ警護されていた。七万余戸という国の全てを城柵で囲うのは不可能である。これは奈良盆地全体の戸数と考えられるが、九州の吉野ケ里遺跡などより、遥かに大規模な集落の存在を想定して良いであろう。
 宮というものの意味、あり方を考えれば、卑弥呼の居所は宮室の奥に付随していたに違いなく、王となってから、その姿を見た者はわずかだとされているから、宮の中でさえ、ウロウロしたりしなかったらしい。居所に閉じこもって、非常に禁欲的な生活をしていたことがうかがえるが、千人の女官は、その目や耳となっていたかもしれない。高齢者が、誰ともしゃべらず、たった一人で生活するのは難しい。衣料品の用意、清掃等の日常や、神祀りなどに、様々な補助をするものがいたはずなのである。女性間の秘密のコミュニティーが存在したのではないだろうか。「見有る者少し」という描写は帯方郡使の接した官僚や武人からの伝聞で、宮室内の女性には当てはまらないと思われる。
 たった一人、出入りを許された男子は、配膳係兼要人との連絡役で、信頼出来る身内の若者ではなかっただろうか。
 樓観は物見櫓といったような軍事施設ではなく、宮室に付随する、神を祭るための高層の建築物と考えられる。国の政祭の中心に物見櫓は必要ないはずで、外敵を発見するための施設なら、国の外周部に置かねばならない(注136)

 

2、使訳の通じない謎の土地

  女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
「女王国の東、海を渡ること千余里で、また国有り。みな倭種なり。」

「女王国の東、海を渡って千余里、また国が有り、皆、倭種である。」

 この文も倭人からの伝聞を記したもので、そこへは行っていない。行ったなら国名を書けるはずである。
 女王国(大和)の東にある海といえば伊勢湾で、それを渡ると表現しているから、対岸へ行くのである。渡る先は、距離も近く、尾張か三河と考えて問題ない。そこから先にも倭種の国々が存在した。しかし、この記述からは、狗奴国のように敵対している様子も感じられず、女王国とは無関係の別国に見える。
 おそらく、伊勢湾を望む土地まで行き、海の向こうにもここまでと同様の国がいくつもあるということを聞いたのであろう。対岸が見え、対馬や壱岐の航海と同じくらいの距離に感じて千余里という表記になったのではないか(注137)
 そして同時に、伊勢湾まで邪馬壱国(女王国)の支配が及んでいたということになり、卑弥呼時代の邪馬壱国の版図は、所々の空白域を含むと考えられるが、対馬から三重県までと確定できるのである。帯方郡使は大阪湾に入れず、北方に迂回して大和入りしたらしいので、淡路島対岸を除く兵庫(播磨)、京都(山城)を所領としていたことも確実である。

  又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
  又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至

「また、侏儒国あり、その南に在り。人長は三、四尺なり。女王を去ること四千余里なり。また裸国、黒歯国あり。またその東南に在り。船行一年にして至るべし。」

「また、侏儒国がその(女王国の)南にある。人の背丈は三、四尺(72cm~96cm)で、女王国を去ること四千余里。また裸国と黒歯国があり、またその(女王国の)東南にある。船で一年ほど行くと着くことができる。」

 大和から陸路はるか南へ向かうと(四千里)、熊野に至り、侏儒国とはその付近を指すことになる(注138)
 また、東南一年の航海で裸国、黒歯国に到る。伊勢湾からこの方向に該当するのは伊豆諸島である。小笠原諸島も存在するが、無人島だったとされているので、伊豆諸島に限定して良いであろう。
 このことは倭人から聞くのみで、どういう航海かもわからず、船行という表記になったか、伊勢湾を渡り、その後、伊豆あたりまで水行し、さらに島へ渡るのを聞き、合わせて船行(渡る+水行+渡る)になったかだと思われる。ただ、伊豆諸島まで一年もかかるのかという疑問は残る。
 それとも、身長三、四尺などというこれらの国々は、現実ではなく、倭人の心の中に存在した国なのであろうか。

 

3、魏志における倭と倭人の使い分け

  參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
「倭地を参問するに、絶へて海中の洲島の上に在り。或いは絶へ、或いは連なり、周(あまね)く旋りて、およそ五千余里なり。」

「倭地を考えてみると、孤立した海中の島々の上にあり、離れたり連なったり、すみずみまで巡って五千余里ほどである。」

 これは陳寿の見解である。帯方郡から女王国までの全体の距離が万二千余里。帯方郡から海を渡る手前の狗邪韓国までが七千余里とされていたから、倭地は引き算した帯方東南海中の島々で、五千余里ということになる。
 倭人伝には、「今使訳通ずるところ三十国」という文が見られたが、その紹介する国は全部で三十一を数えた。しかし、狗邪韓国は韓で、海中にある倭人に、そして、その記録である倭人伝に含まれない国と考えれば、ピッタリ三十国に収まり、陳寿の計算に一致している。そのため、倭人伝は狗邪韓国に関する内容を何も含まないのである。
 倭人伝の最初に狗邪韓国が登場するが、「その北岸、狗邪韓国に到る」と記されていたように、文字どおり、倭の北岸、韓の端の区切りとしての意味しか持っていない。
 ここでいう倭地とは、狗邪韓国を離れてから、女王国に至るまでの距離を単純計算したものである。(万二千余 ― 七千余=五千余)
 松本清張氏が、倭人伝の書き出しが「倭」ではなく、「倭人」になっていることに着目していた。こちらは非常に面白い問題である。「倭」でいいはずなのに、陳寿はなぜ「倭人」と表記したのであろうか。「烏丸鮮卑東夷伝」全体の記述形式を比較してみる。

 夫余伝………夫余は長城の北に在り。
 高句麗伝……高句麗は遼東の東千里に在り。
 挹婁伝………挹婁は夫余の東北千余里に在り。
 東沃沮………東沃沮は高句麗の蓋馬大山の東に在り。
 韓伝…………韓は帯方の南に在り。
 倭人伝………倭人は帯方東南大海の中に在り。

 濊(カイ)伝のみ「濊は南は辰韓と、北は高句麗、沃沮と接す。」と在を用いていないが、他はすべて同じ形式で、国名の後、その位置を「在」と書いている(注139)
 韓伝は「東西は海を以って限りとなし、南は倭と接す。方四千里ばかり。三種あり。一は馬韓といい、二は辰韓といい、三は弁韓という。」と続く。そして、弁辰(弁韓)伝に「其の瀆盧国(トクラ国、以下涜盧国と記す)、倭と界を接す。」と記されているので、これは同じ内容をより詳しく語ったものであろう。
 辰韓伝には、「国は鉄を出す。韓、濊、倭は、みな従って(許可を得て?)これを取っている。…また、楽浪、帯方二郡にも供給している。」という記述が見られる。つまり、濊や倭は辰韓の鉄を取りに行けたのである。鉄を取っているとされた韓には馬韓、弁韓も含まれるであろうし、辰韓の北にある濊も取っているところをみると、かなり広範囲に産したと思われる。これら周辺全ての国が採取可能な辰韓の鉄の産地ということになると、朝鮮半島南部中央から東北方に連なる小白山脈に求めれば良いのではないだろうか。濊には太白山脈が走っているが、鉄は産出しなかったようである(注140)
 辰韓と弁辰は、馬韓の東の土地に雑居していたとされていて、辰韓の国の隣に弁辰の国があり、そのまた隣に辰韓があるといったような状態で、複雑に入り混じっていたらしい。そのことを表現するため、辰韓と弁辰の二十四(二十六)国をひとまとめに入れ混ぜて書いている(注141)
 以上を整理すると、倭は弁辰の涜盧国と境界を接した南側にあり、辰韓の西部山岳地帯に出る鉄鉱石あるいは砂鉄を取って、製鉄していたことになる。
 倭人伝に記された国のうち、朝鮮半島に最も近い対海国(対馬国)では、千戸ばかりの家が、おそらく海産物を以って南北に交易し、穀物を買い入れていたという程度なので、辰韓の鉄を取る倭の根拠地は、やはり朝鮮半島に求めなければならない。
 どうも、倭とは、朝鮮半島最南部に存在した国を指すようである。倭人伝冒頭に、「倭人は帯方東南大海の中に在り」と記されているから、陳寿は、よく似た国ではあるが、朝鮮半島に在る倭と区別するため、大海の中に在るものを倭人と表現したらしいのである。
 倭と倭人が使い分けられているという松本清張氏の主張には、確かに、納得できるものがある。しかし、この区別は、あくまで晋代に三国史をまとめた陳寿独自の方法であることを強調しておかねばならない。魏志の原資料の記述者や他の歴史家にとっては、あずかり知らぬところである。

  倭人は帯方東南大海の中に在る 《位置》(注142)
  山島に依り国邑をなす 《地形》
  旧百余国、漢の時朝見する者有り 《過去》
  今使訳通ずる所三十国 《現在》

 整理すると上記の形になるが、すべて同格で倭人を説明している。東夷伝諸国の記述形式からも明かだが、倭人伝冒頭の倭人は、人ではなく、明らかに、内に小さな国を含んだ地域名として使用されている。
 陳寿は便宜上、朝鮮半島の国は「倭」と呼び、大海之中にある国には「倭人」という名称を与えた。これは韓伝の「東西は海を以って限りとなし、南は倭と接す。」という記述の「倭」と区別するために採らざるを得なかったのであろう
 朝鮮半島の国は一文字の「倭」で表され、海中の国は「倭人」と記された。それにもかかわらず、海中の国に倭人王ではなく、親魏倭王や倭王、倭女王という表記が見られるのである。これでは朝鮮半島の倭の王という意味になってしまうが、魏帝が与えた倭王という称号を、勝手に訂正するわけにもいかない。陳寿は、自身の見解を表わす記述以外、資料は順序を整えて抜粋しただけで、語句を統一したりせず、ほとんどそのまま使用している。倭と倭人の区別は、倭人伝冒頭に現れるのみである。
 その位置を特定するため、陳寿がせっかく編み出した倭と倭人の使い分けも、後世の理解するところとはならなかった。長い間無視されていたのは少々気の毒だが、気付きにくいこともまた事実で、これは、人間を意味する「人」という文字を、国名、土地名に使用した陳寿の失敗である。おそらく「楽浪海中に倭人有り」という漢書地理志燕地の記述を踏襲したのであろう。
 韓の東西は海に尽きているが、南の海は、存在するにもかかわらず無視され、倭と接すとされている。おそらく、倭とは、後漢に朝貢した倭の奴国の同族で、「倭と界を接する」弁辰涜盧国の南から海までを領域とし、「記、紀」では、任那と呼ばる土地なのであろう。
 この部族は、古くは楽浪海中の土地でも主導権を握っていた。しかし、倭国大乱の後、新たに覇者となった女王国(邪馬壱国)が、海中の対馬国以南を領有したため、昔の「倭」と区別する必要に迫られ、陳寿はそれを「倭人」と表記したのである。
 倭と境界を接した弁辰涜盧国は、現在のテーク(大邱・慶尚北道、現在は広域市として独立)のようで、慶尚南道の大半が倭ということになる。この形なら倭が辰韓の鉄を取ることも可能である。
 帯方郡使が海を渡る時、朝鮮半島の倭の手前の、狗邪韓国(弁辰狗邪国、光陽)からの航路を利用したとすれば、邪馬壱国には敵対的であったと考えられる倭に入らずに済み、すべてがうまく説明できるし、金海は倭の領域になるから、そこからの航海も想定できないことになる。

 韓は東西は海を以って限りとなし南は倭と接す。
               (南に海がない)
 弁辰涜盧国(大邱=倭と界を接す)

 倭(任那)は邪馬壱国に滅ぼされた奴国の同族
  「漢の委の奴国王」
   魏志に倭の記録はない。

 倭人=女王国、帯方東南大海の中

 

4、万二千余里の根拠

 帯方郡から女王国までの全体の距離、万二千余里から、帯方郡から狗邪韓国に至る七千余里を引いた倭地は五千余里である。
 さらに、狗邪韓国から三千里の海を渡って末羅国に至り、その後、七百里を陸行した不弥国までの合計、三千七百里を引けば、九州の不弥国から女王国までは、わずか千三百里ということになってしまう。これは対馬海峡の半分にも満たない距離である。
 邪馬台国北九州説は、このこともその拠り所の一つとするのだが、続く水行、陸行、あわせて二ヶ月という長旅がどこかに消えてしまった。
 元々、七千余里もいい加減な数字なのだが、この狂いの最大の原因は、万二千余里という修辞である距離から引き算を始めていることにある。
 魏の使者が書き残した距離は、不弥国までの一万七百里だけで、後は「水行二十日」「水行十日+陸行一月」という時間に変わっているから、里では表現のしようがない。女王国までの距離、万二千余里は、旅の行程を足して出された数字ではなく、いきなり与えられた数字なのである。いったい誰がそれを測ったというのだろうか。これは誰も知らないはずの距離である。
 つまり、万二千余里は、西方の大夏などに与えられた距離と同様、何らかの別の理由から機械的に与えられた根拠のない数字と言うことができる(注143)。それを基準に計算すれば、結果が当てにならないのは当然であろう。
 漢代に編纂された「淮南子」の時則訓に、「東方の極。碣石山より朝鮮を過ぎ、大人の国を貫き、東、日出の次、搏木の地、青土樹木の野に至る。大皞、句芒の司るところ。万二千里。……南方の極。北戸孫の外より顓頊の国を貫き、南、委火災風の野に至る。赤帝、祝融の司る所。万二千里。云々」という記述がみられる。(注144)
 地は方形とされており、東、西、南、北、中央、距離は全て万二千里で統一されている。これが倭人伝の万二千余里の根拠で、実際の距離ではなく、当時の常識、当時の中国人の世界観に基づく信仰的な距離なのである。とにかく、世界の果てにある国の距離は万二千里と定められていた。しかし、帯方郡使の考えでは、倭は東南に当たるからというので、万二千に余が加えられたのかもしれない
 後漢書は、楽浪郡から狗邪韓国までの距離は魏志の七千余里をそのまま引用したが、女王国までの距離に関しては、余を省き、淮南子のように、きっちり「万二千里」に改訂している(注145)
 こういう微妙な言葉の変化にも、作者の思考が反映されているのである。范曄が「余」を見落としたわけでも、伝写時に抜け落ちたわけでもない。

 

5、魏との交流

 魏志倭人伝を読み進め、ここまで、邪馬壱国を分析してきたが、この国は未熟ながらも、すでに(慣習)法や組織を備えた連邦国家であると断言できる。
 首長国の邪馬壱国には、女王、卑弥呼と、政治的実務を取り仕切ったであろう補佐役の弟がいる。その下には何層かの官僚組織が存在した。そして、伊都国に国の出先機関を設けて、九州を統括する大率を派遣し、その下には九州各国の王や官僚組織がある。各国の市には、これを監督する下級官の大倭が置かれている。税もまた徴収され、大倉庫に保管されていたのである。

 これはれっきとした国家である。しかも中国、江南地方の匂いのする。あまりにそれが強いため、陳寿は女王国を会稽、東冶(=越)の東に置くことに何のためらいも感じなかった。
 大夫を自称したり、中国の官名も良く知っていたようである。邪馬壱国の官にはそれらしきものが見当たらないし、大夫は他の官名に比べて異質すぎる。自らの官としての地位を中国人に解りやすく翻訳したものであろう。使者は中国のみならず、諸韓国にも派遣されていた。国際感覚や外交感覚というのもまた持ち合わせていたらしく、これまで想定されていた歴史より、日本は遥かに早くから開けていたようである。

  景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻
  太守劉夏遣吏将送詣京都 其年十二月 詔書報倭女王曰

「景初二年六月、倭の女王は、大夫の難升米等を遣はして郡に詣り、天子に詣りて朝見するを求む。太守、劉夏は吏を遣はし、将(ひき)い、送りて京都に詣る。その年の十二月、詔書は倭女王に報いて曰く。」

「景初二年(238)六月、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米等を京都(洛陽)まで引率して送りとどけさせた。その年の十二月、詔書が倭の女王に報いて、こう言う。」
 以下は、魏の政府公文書をそのまま写したようである。

  制詔 親魏倭王卑彌呼 帶方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利
  奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到
  汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝
  今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順

「制詔、親魏倭王卑弥呼。帯方太守、劉夏が使を遣はし、汝の大夫、難升米、次使、都市牛利を送り、汝が献ずるところの男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉り以って到る。汝の在する所は遠きを踰(こ)ゆ。すなわち、使を遣はし、貢ぎ献ずるは、これ汝の忠孝なり。我は汝を甚だ哀れむ。今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装ほひ封じて帯方太守に付し、仮りに授く。汝は(それ)種人を綏撫し、勤めて孝順を為せ。」【「其(それ)」は語調を整える無意味の助辞】

「制詔、親魏倭王(注146)卑弥呼。帯方太守、劉夏(注147)が使者を派遣し、汝の大夫、難升米と次使、都市牛利、汝の献上した男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈(注148)をささげて到着した。汝の住んでいる所は遠いという表現を超えている。すなわち使者を派遣し、貢ぎ献じるのは汝の忠孝のあらわれである。私は汝をはなはだいとおしく思う。今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を与え、装い、封をして帯方太守に付託することで仮りに授けておく。汝は部族の者を安んじ落ち着かせることで、(私に)孝順を為すよう勤めなさい。」

 生口は、辞書には、軍中の捕虜とあり、ここでは、戦いの結果、獲得した奴隷を言うようである。
 仮という文字に「貸す」という意味はあるが、「やる」という意味はなく、あくまで、魏がその地位に任じて貸し与える称号と印綬であり、不都合があれば、いつでも取り返し得るということらしい。実際、「新」の王莽は、匈奴などに与えた印綬を取り戻し、格下げした印綬を与えたため反乱を招いている。(注149)
 孝順は、親に仕えるように素直に従うことをいう。魏が親で、女王国が子という関係が作られた。

  汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞
  今 以難升米為率善中郎将 牛利為率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還
  今 以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 倩絳五十匹 紺青五十匹 荅汝所獻貢直
  又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口
  銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利
  還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

「汝の来使、難升米と牛利は、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為す。銀印青綬を仮し、引見して労ひ、賜ひて、還し遣はす。今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、倩絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献じ貢いだ所の値ひに答ふ。また、特に、汝に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜ひ、みな装ほひ封じて難升米、牛利に付す。還り到らば録して受け、悉くを汝の国中の人に示すを以って、国家が汝を哀れむを知らしむべし。故に、鄭重に汝の好物を賜ふなり。」

「汝の使者、難升米と牛利は遠くから渡ってきて道中苦労している。今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為す。銀印青綬を与え、引見してねぎらい、下賜品を賜って帰途につかせる。今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、倩絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献じた貢ぎの見返りとして与える。また、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を下賜し、皆、装い、封じて難升米と牛利に付託する。帰り着いたなら記録して受け取り、これらの総てを汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝に好物(注150)を賜うのである。」

 親魏倭王という地位は官職なので、それに付随する金印紫綬は、魏帝の代理人たる帯方郡太守に預けられた。しかし、邪馬壱国に対する返礼品や、卑弥呼個人に対する贈り物は、邪馬壱国の使者、難升米、牛利に付託するということのようである。筋を通して区別は厳格である。卑弥呼の欲しがる物(好物)は、難升米が伝えたであろう。
 魏の一尺は24センチ程度とされていて、一匹は四十尺だから、9.6メートル。布地すべてを合わせれば百五十八匹なので、1500メートル以上になる。
 罽は毛織物で、これは十五張。張って使う幔幕のようなものか、あるいは敷物か。太平御覧では、罽は「西胡毛布也」とされているから、ヤクの毛の織物のように思われる。
 銅鏡は百枚。百枚を一人で使う状況は想像しにくい。国中の人に示して、魏の支援があることを周知しろと言っているのだから、配布しろということかもしれない。これは数量の多い布地にも当てはまる。
 貝の作る真珠、パールは、倭人伝の末尾に白珠五千孔と表されているし、鉛丹と並べて五十斤という重さで表されているから、ここでいう真珠は朱色の顔料となる硫化水銀(辰砂)のことである(注151)。十キロほど。制詔のいう真珠(真朱)と、先に出た、帯方郡使の報告する倭の産物としての真珠(パール)は中身が異なっている。鉛丹は鉛の酸化物で、これも赤い顔料や薬となった。同じく十キロ。次の記述に見られる采物(色物)とは、真珠と鉛丹のことである。刀の長さは1.2メートルほどで、金は百グラム強。
 これらの全てがきちんと装封されていたなら、装封の具合にもよるが、最低限、防水、防虫の必要があり、かさはかなりのものではないだろうか。
 おそらく、魏の国家的な体面から、一つ一つが豪華に梱包されていたと思われる。百枚の銅鏡は、厚さが2ミリしかない。破損事故を避けるには、クッションや鏡を包む布地と百個の木箱が必要であろう。さらに、運搬の便をはかるための大きな木箱という形になりそうである。倭船なら、いちどきに運べない。

  正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王
  并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 荅謝詔恩

「正始元年、太守、弓遵は建中校尉、梯儁等を遣はし、詔書、印綬を奉りて倭国に詣り、倭王に拝仮す。並びに、詔を齎(もた)らし、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を賜ふ。倭王は使に因って上表し、詔の恩に答へて謝す。」

 「正始元年(240)、(帯方郡)太守、弓遵は建中校尉の梯儁等を派遣し、梯儁等は詔書、印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬)を捧げ持って倭国へ行き、倭王に授けた。  並びに、詔(=制詔)をもたらし、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を下賜した。倭王は使に因って上表し、詔の有難さに感謝の意を表した。」

 帯方太守は劉夏から弓遵に交代しているが(注152)、先の卑弥呼を親魏倭王と為し、金印紫綬を仮す、布地や鏡等の好物を授けるという決定が実行に移されたのである。
 制詔が下されたのが景初二年(238)十二月。それに、金印や鏡などの製作時間、魏都から帯方郡までの移動時間を加え、冬の帯方郡からの航海は避けたと考えれば、春になって正始元年。この間、景初三年(239)正月に明帝が急死し、斉王芳が即位するなど、魏の朝廷にも大混乱があった。帯方太守の交代も政権交代に付随する人事異動かもしれない。ともかく、迅速に処理したとしても、これくらいの時間はかかりそうである。
 これが、帯方郡使が、海を渡り、初めて日本を訪れた時の情況である。最初の使者が伊都国で旅を終えたのは、既に指摘しているし、伊都国から大率が津(末盧国)に赴き、魏帝からの文書や下賜品を、女王の元に伝送するに当たって間違いがないよう捜露することもまた記されていた。
 したがって、倭王に拝仮したというのは、伊都国で倭王(卑弥呼)の代理人たる大率にそれを引き渡し、邪馬壱国に居る卑弥呼の元に届ける(伝送=帯方郡使の関与から離れている)よう依頼したことを意味する。実際には、末盧国の港(津)で荷物の引き継ぎと確認作業(捜露)が行われたのである。
 大率は、梯儁の立会のもと、装封を解いて検査し、自ら目録を作ったか、魏から与えられた目録と物品を照合するかしたのであろう。「還り到らば、録して受け…」という魏帝の制詔をそのまま受け取るなら、自ら記録したことになる。
 そして、歓迎式典など様々な手続きのため、共に役所のある伊都国まで、五百里を歩いた。倭人伝の伊都国までの記述は、この梯儁派遣時の報告に基づくものなのである。
 「仮」という文字の解釈に苦しんだが、「仮授」は、動詞の前にあり、「仮定」などと使うように、「かりに」という意味の副詞。単に「仮」というときは動詞で、「貸す」という意味から転じて「与える(取り返し得るので、仮に)」の意味と見当がついた(注153)
 倭王に拝仮したというのは、詔書によって、親魏倭王という官位を授け(拝は官を授けるという意味)、その地位に見合う金印紫綬を与えた(仮)という意味である。
 制詔は、下賜品を難升米、牛利に付すと記しているから、梯儁が詔書、印綬、下賜品を届けると共に、難升米、牛利を送り、海路の案内を求めたのであろう。形式的には、鏡等の下賜品は難升米から大率に引き継がれたことになる。
 卑弥呼は伊都国に使者を派遣し、魏帝あての感謝の礼状を梯儁に託した。上表は「自分の意見を官に文書で奉ること(大字典)」とされている。梯儁は魏帝を代理する官なので、この場合も当てはまるのである。そうすると、梯儁は返書を携えた卑弥呼の使者の到来を、伊都国で四ヶ月ほども待たされていたことになる。
 「倭女王は大夫難升米等を遣はした」とされていて、十人の生口を連れていたから、次使、都市牛利以外にも複数の下級官が派遣されていたはずである。持衰もそこに含まれていたであろう。何人かが先に帰国し、事前に準備を整えていた可能性は認めることができるが、やはり、四ヶ月以上待っていたとするのが正解ではないか。
 陳寿が「郡使往来し、常に駐する所」と記したのは、長期に渡る滞在を含めていたのである。このように、外交上の手続きのすべては伊都国で行われた。
「倭王は使に因って上表。」という文の「使」は、梯儁と誤解されることが多いようだが、卑弥呼は梯儁を使役できる立場にない。梯儁は魏帝を代理する、帯方郡太守の使、郡使なのである。このあたりは明確に区別される。
 百歩譲って、使を梯儁と解しても、帯方郡の地方官僚である梯儁自らが、帰国後、魏都の洛陽まで上表文を届けたとは考えられない。また、卑弥呼の使者が魏まで礼状を持って行ったとすれば、倭の返礼使の朝見として年号を付けて魏志に記されたであろう。となると、「使に因って上表」の場所は洛陽ではないわけである。倭王が上表し、詔恩を答謝したのは正始元年という同じ年なので、洛陽はおろか帯方郡と考えることさえ、時間的な無理を生じる。
 以上から、「使によって上表」は、卑弥呼が大和から使者を派遣し、伊都国で待つ梯儁の元へ上表文を届けたと解するしかないのである。
 おそらく、九州各国の代表者を伊都国に呼び集め、魏帝に支援された卑弥呼の権威を思い知らせるべく盛大な儀式、宴会が催されたことであろう。そこで魏帝の制詔が発表され、卑弥呼の上表文が梯儁に託されて(=卑弥呼の使者が梯儁に上表して=使に因って上表)、外交手続きが完了する。
 梯儁が女王国まで赴くのなら、大率が港(末羅国)で捜露する必要はなかった。女王に送り届けようとする下賜品の装封を解き、途中で検閲するのは礼を失することになるから、大率は出迎えるだけでよかったはずである。
 邪馬壱国が北九州に存在したのなら、梯儁が直接、女王の元へ赴けばすむことで、大率が、すぐ近くの国に荷物を伝送しなければならない理由が説明できないし、そしてまた、魏の刺史の如しと表された大率という官自体も必要としないのである。このことは、邪馬壱国が、外国使節受け入れ口の伊都国から遠すぎる位置にあったことを間接的に証明している。
 もう一つ気にかかるのは、上表である。上表という言葉自体が、文書でなされたことを意味しているから、口頭ではなく、魏帝あての礼状を託している。そうすると、邪馬壱国には上表文を書ける者がいたことになる。また、魏帝の制詔を届けるということは、それが読まれるということでもある。大率が下賜品を録受するには文字を書く必要がある。つまり、庶民は知らなかったであろうが、倭人の一部は漢字、漢文を知っていたことになる。
 景初二年、難升米が派遣された当時の、朝鮮半島や中国の政治状況を、魏書明帝紀、韓伝、倭人伝、晋書宣帝紀を合わせて詳しく語れば以下のようになる。
 後漢王朝最後の帝、献帝の建安年間(196~220)、遼東の半独立国を支配していた公孫康は、楽浪郡の屯有県以南の荒地を分割して帯方郡を作った。そして、この後、韓や倭は帯方に属していたとされている。《*/公孫氏…公孫度が遼東太守となってその地歩を築き、公孫康、公孫淵と続く。》
 これは、魏志倭人伝をほんのわずか遡った時代のことで、倭では、倭国大乱が既に終息し、卑弥呼が即位していた。倭が帯方に属していたということは、卑弥呼が公孫氏と交流、形だけではあるが、臣従していたという意味になる(注154)
 景初元年(237)七月、魏との対決姿勢を鮮明にした公孫淵は、自立して燕王を称した。それに怒った魏の明帝は、景初二年(238)正月、大尉の司馬宣王に遼東攻撃を命じる。《*/司馬宣王=司馬懿仲達。子孫の司馬炎が晋を建国したため、後に晋の宣帝と諡された。蜀の諸葛孔明との戦いで名高い。》
 司馬氏は四万の軍勢を率いて遠征に旅立った。行きに百日、帰りに百日、攻撃百日、休息に六十日、合わせて一年というのがその見積もりである。情勢を良く知る幽州刺史、毋丘倹がその副官とされた。
 当然、この情報は公孫淵に伝わり、軍の大部分は魏軍の襲って来る北方に移動したであろう。南方は手薄になる。そこで、明帝は公孫淵の虚をついて、劉昕、鮮于嗣等を極秘の内に派遣し(潜軍と記す)、海を渡って楽浪、帯方郡を急襲させたのである。
 これは景初中のこととされているが、軍事常識から考えて、景初二年正月の司馬氏の出兵決定後、つまり、北方に圧力をかけた後であることは明らかである(注155)
 司馬宣王の率いる魏軍は六月に遼東の戦場に着いたと記されている(魏志、公孫度伝)。しかし、楽浪、帯方では、どうもそれ以前に決着がついていたようである。こうして、二郡は魏の所領となり、二人は太守に任ぜられた。そして、その直後の景初二年六月に、卑弥呼の使者、難升米が帯方郡を訪れたのである。
 公孫淵はまだ健在で、北方、遼東郡の襄平に籠城していたが、西と南から圧迫されて、身動きできない状況に追いやられ、景初二年(238)八月八日、ついに司馬宣王は淵を破り、その首を京都(洛陽)に送り、海東諸郡はすべて平定されたという。つまり、八月以前に楽浪郡、帯方郡は平定されていたわけである(注156)
 以上のデータを見ると、帯方郡が魏の所領となったことを、難升米が知っていたとは考え難い。おそらく、前年の景初元年(237)七月、自立して燕王となった公孫淵を祝賀するために派遣されたのではないか。これはその十一ヶ月後のことで、情報が倭に伝わり、冬季は海を渡れず、春になって、倭から使者が移動するのにちょうど一致する時間なのである。難升米は朝鮮半島の旅の途中か、帯方郡到着後に実情を知り、臨機応変に、魏へ朝貢することを決断したようである。
 魏帝に献じたものは、生口十人と班布二匹二丈《=100尺=24m》のみで、大夫難升米と次使都市牛利の二人だけが貴族階級だったらしく、官位を授かった。次の正始四年の遣使では、献上品は生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木拊短弓、矢と大幅に増加しており、官位も八人に授けられている。あまりにも貧しい最初の遣使の献上物は、公孫氏に対するものだったとすれば、理解しやすいのである。
 帯方太守、劉夏(劉昕)が、官吏を付けて、難升米等を都へ案内し、そして、卑弥呼や難升米、都市牛利への処遇が決められ、景初二年十二月に、制詔が下された。
 難升米が、いつ頃、洛陽に到ったか明らかではないが、この戦争と無縁であったはずはない。「遠きを渉り、道路勤労す。」という魏帝のねぎらいの言葉には、この間の事情が含められているのであろう。
 明帝は自らの作戦が当たり、突き刺さっていた公孫淵という小骨が抜けてご機嫌であった。そこへ、すぐさま東夷の小国が朝貢して来たのである。これは帝の徳が、世界の、東南の果ての辺境にまで及んだというめでたい知らせである。こういう明帝の高揚した心理が、卑弥呼に思わぬ厚遇をもたらしたように思える(注157)
 一ヶ月後の景初三年正月一日に明帝は急死し、斉王、芳が即位した。こうした混乱や、鏡、金印、布地等の製作時間を考慮すれば、一年何ヶ月か遅れた正始元年になって、帯方郡使、梯儁が派遣されたことにも納得できるのである。そして、四~五月に帯方郡を出港したのなら、卑弥呼への下賜品が、魏都から帯方へ移送されるのは、二月頃でも構わないことになり(大軍が遼東まで百日なので、もっと早く着くはず)、正始元年という三角縁神獣鏡に見られる年にもギリギリ間に合う。
 梯儁の渡来は、前を行く人が見えないほど草木が繁茂している、夏の終りに近い八月末(年表=旧暦では七月)と解すれば、正始元年銘鏡の作製にもう一段の余裕が持てる。以下のような年表が出来そうである。


   《年表》
景初元年(237) 七月 遼東太守、公孫淵が自立して燕王と称す。
景初二年(238) 正月 魏の明帝は司馬宣王に公孫淵の討伐を命じた。
?? 帯方太守、劉昕と楽浪太守、鮮于嗣が密かに海を渡って楽浪、帯方郡を急襲。
両郡は魏が攻め落とした。
六月 卑弥呼の使者、難升米、都市牛利が公孫淵の独立を祝賀するか、あるいは、軍事援助を要請するために帯方郡に到着。
実情を知った難升米は、急遽、魏へ向かうことに変更して帯方太守、劉昕(劉夏)に案内を求めた。
帯方太守は、劉昕が諱(実名)で、劉夏は字と思われる。
八月 公孫淵が滅びる。この時まで難升米は動けなかったであろう。
?? 難升米が洛陽に到着。
十二月 魏の明帝の制詔が下され、卑弥呼を親魏倭王と為し、難升米を引見してねぎらうことが発表された。
十二月八日 明帝が病に倒れる。
景初三年(239) 正月一日 明帝が崩じ、斉王芳(八歳)が即位した。
正月二十七日 明帝を葬る。
?? 魏は制詔を実行に移すため、鏡や金印の制作に取りかかる。
正始元年(240) 正月 「東倭重訳納貢」という記述が晋書宣帝紀に見られるので、斉王芳が難升米等を引見したようである。難升米に銀印青綬を授ける、引見してねぎらうなど、内定していたことが実現した。明帝は急な病で引見できなかったと考えられる。
二月頃? 難升米は鏡等の下賜品と共に洛陽を離れる。
七月? 帯方郡の使者、梯儁が難升米を送って末盧国に到り、証書、印綬、鏡等をもたらす。

(月、日は当時の太陰太陽暦によるもので、現在の太陽暦とはひと月ほどのずれがある。正月一日は現在の正月下旬から二月上旬に当たる。 日にちの換算は、「日本書紀暦日原典」、「日本暦日原典」、内田正男編著(雄山閣)による。)

 魏志に景初二年六月と記されている難升米の派遣を、日本書紀等の後世の書物を頼りに、景初三年六月に改変する説がある。
 しかし、それに従えば、制詔がその年の十二月に発表され、六、七ヶ月後の正始元年の夏、梯儁と共に帰還したことになってしまう。洛陽から日本に至る時間を半年とすれば、正始元年の二月頃には洛陽を離れなければならない。行事の多い正月を含むわずか二ヶ月ほどで、金印や百枚の鏡、布地等の全てを準備し装封したことになり、これでは、あまりにあわただしすぎて、作っている時間がない。
 また、帯方太守、劉夏も制詔の起こされた十二月には、まだ太守の地位にとどまっていたことが明らかなのに、梯儁が帯方を離れた翌年の春には既に弓遵に交代していたという扱いになる。太守交代の辞令が届く時間や、移動の距離を思うとこれも時間的に苦しい。後に、帯方太守、弓遵が戦死し、玄菟太守、王頎が帯方太守へと転任したが、着任まで七ヶ月以上を要している(注158)
 上記の二点で、どちらも少ない可能性に賭けなければならないのである。景初三年と解した場合は以下の年表になる。


   《年表》
景初二年(238) 八月 魏が公孫淵を滅ぼす。
景初三年(239) 正月 明帝死去。斉王芳の即位。
六月 難升米、帯方郡に至る。
十二月 魏帝の制詔が下される。この帝は八歳の斉王芳という解釈になる。
帯方太守は劉夏
正始元年 正月 「東倭重訳納貢(晋書宣帝紀)」、斉王芳、難升米を引見。
★鏡、布地等の卑弥呼の好物や金印を準備。時間が短かすぎて苦しい。
二月頃 難升米が洛陽を出発。
四月頃 難升米が帯方郡に到着。帯方太守は既に弓遵に代わっている。
★交代の辞令の届く時間+太守着任までの移動時間が障害となる。
七月頃 帯方郡使、梯儁が難升米を送り、伊都国に至る。

 しかし、難升米は魏に派遣されたのではなく、公孫氏の帯方郡に派遣されたと解せば、魏志の記述通り、制詔も含めて、景初二年で何の問題もない。帯方郡創設後、倭や韓は帯方(公孫氏)に属していたと韓伝に記されているのである。
 「難升米は、道中、苦労しているので、引見してねぎらう。」と、大人の思いやりを見せた魏帝は、八歳の斉王芳より、死亡時、三十六歳(三十四?)で、沈着剛毅(注159)と評される明帝のほうがふさわしいし、卑弥呼に対する厚遇にも説明を見付けやすいであろう。
 魏との交流を求めて難升米が派遣されたという短絡が誤りの元で、「紀」もこれを犯し、つじつま合わせに魏志を改竄して引用したようである。
 倭人伝に戻る。

  其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
  上獻生口倭錦絳靑縑緜衣帛布丹木拊短弓矢
  掖邪狗等壱拝率善中郎将印綬

「その四年、倭王はまた使の伊聲耆、掖邪拘等八人を遣はし、生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木拊短弓、矢を上献す。掖邪狗等は率善中郎将、印綬を一拝す。」

「その(正始)四年(243)、倭王はまた使者の大夫伊聲耆、掖邪狗等八人を派遣し、生口や倭の錦、赤、青の目の細かい絹、綿の着物、白い布、丹、木の握りの付いた短い弓、矢を献上した。掖邪狗等は等しく率善中郎将の官位と印綬を授けられた。」

 斉王芳紀の正始四年条にも「冬、十二月。倭国女王、卑弥呼が遣使し奉献した。」という記述が見える。
 木拊短弓は、現在の弓につながる短下長上の邪馬壱国の弓とは明らかに形状が異なっている。
 伊聲耆、掖邪狗等の使者八人には、すべて率善中郎将と印綬が授けられた。景初二年の難升米と同等で、都市牛利より上位の官僚だったようである。難升米も長旅に耐えられる壮年の中堅官僚ではなかったか。おそらく帰国後、出世していたであろう。

  其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授
「その六年、詔して倭、難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮綬す。」

「その(正始)六年(245)、詔して倭の難升米に黄色い軍旗(注160)を賜い、帯方郡に付託してそれを仮に授けた。」

 これは、倭から軍事援助の要請があって、それに応えたものである。先の正始四年の、伊聲耆等の派遣はこのためで、弓矢の献上は、邪馬壱国が戦争状態になっていることを訴えるためであったらしい。
 伊聲耆は、正始四年の十二月、洛陽に着いているから、六年初め、帯方郡にこの黄幢が届けられたと解すれば、対処するに一年少しとなり、妥当な時間であろう。
 魏は、正始五年の前半、蜀との戦いに全神経を集中していた。この時まで倭をかまう余裕がなかったようである(注161)
 しかし、帯方郡も、正始三年から六年にかけて、高句麗王の位宮と断続的に戦っていたし(注162)、正始七年(246)には、辰韓の八国を楽浪郡に編入しようとしたことが原因で、韓(=馬韓、箕氏)と戦うに到った。最終的には韓を滅ぼすことになったのだが、この戦いで帯方太守、弓遵が戦死するくらい苦戦している(注163)。朝鮮半島は不安定な状態が続いていて、黄幢は帯方郡に留められたままであった。

  其八年太守王頎到官
  倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
  遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之

「その(正始)八年、太守、王頎官に到る。倭女王卑弥呼は狗奴国男王、卑弥弓呼素と和せず、倭載斯烏越等を遣はし、郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史、張政等を遣はし、因って、詔書、黄幢を齎(もたら)し、難升米に拝仮し、檄を為りてこれを告諭す。」

「正始八年(247)、(弓遵の戦死を受けて)王頎が帯方郡太守に着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあっている状態であることを説明した。(王頎は)塞曹掾史(注164)の張政等を派遣した。因って詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。」

 制詔や下賜品を全国に示し、卑弥呼が魏に支援されていることを伝えよという魏帝の意思表示にもかかわらず、狗奴国はこれを無視し続けたらしい。この年には、二国の対立はますます激しく、抜き差しならないものになり、苦境に陥った卑弥呼は、急使を派遣して帯方郡に援助を求めざるを得なかったのである。帯方郡はこれに応じ、張政等を派遣した。
 詔書により、難升米に官位が授けられた(拝)ようで、おそらく、何とか将軍というものであろう。その地位を示す黄幢(黄色い旗)も受け取った(仮)。これは六年の、帯方郡に付し、仮授された黄幢が届けられたと解せられ(注165)、朝鮮半島の面倒が全て片付いて、帯方郡にも、ようやく余裕が生まれていたのである。
 この時、張政が邪馬壱国に到ったのは間違いない。大和の邪馬壱国と紀伊の狗奴国が争い、軍事援助の要請を受けて派遣されたのに、九州の伊都国に居座って倭人の戦況報告を聞いたところで何にもなりはしない。なにしろ、報告から、次の指示が伝わるまで四ヶ月近くかかる。
 魏の使者が邪馬壱国まで至ったのは、この時が初めてで、以後もない。先に、魏志倭人伝の伊都国までの報告者と、それ以降の報告者が異なっていることを述べた。伊都国までの使者、梯儁に余裕が感じられたのは、親魏倭王の金印や、鏡等の物品を届けるだけの気楽な任務だったからで、二度目の使者、張政が、投馬国以外の国には立ち寄らずに瀬戸内を大急ぎで通過し、何も観察していないのは、戦争の指導という緊急かつ重大な任務を抱えて、それどころではなかったからなのである。
 しかし、一大率に関する記述を除く、倭人の風俗、制度等の描写の大半は、この張政の長期に渡る滞在によって始めて可能となった。末盧、奴、不弥、投馬の各国には、通過、宿泊するのみで、ほとんど滞在していないと考えられるから、記録の対象外であろう。服装や入れ墨の様に、すぐ目につくもの以外の、住民の中に入って見聞する必要のある風俗の描写は、九分九厘、邪馬壱国での経験と考えて差し支えない。
 邪馬壱国に着いた張政は、早速活動を始める。「檄をつくり、これを告諭す。」どのような檄だったであろうか。邪馬壱国には「魏帝の全面的な支援があるぞ、頑張れ。」と伝えたであろう。狗奴国に対しては、「邪馬壱国と戦うことは、中華である魏と戦うことである。過ちを悔いて速やかに降伏せよ。」などと諭したであろう。
【檄=人の攻撃、弁護や自分の主張などを書き、多くの人びとに訴えて決起をうながす文書。(学研国語大辞典)】
 それだけで相手を屈服させられるはずもないが、兵法などというものを発展させた国の専門家だし、帯方郡は、つい先年まで、韓や高句麗と戦い続けていたのである。その知識、経験を生かして様々な献策を為したにちがいない。
 しかし、どんなにすぐれた策であっても、卑弥呼が神のお告げ受けて反対の決定を下せば、為政者や国民は唯々諾々とそれに従う。「こいつらは、何を考えているんだ。」という苦々しい思いが、「鬼道につかえ、よく衆を惑わす。」という表現につながったのではないだろうか。
 それでも邪馬壱国は、この張政たちの援助を得て、狗奴国との戦いに勝利を収めたようである。それは、狗奴国を支配していた紀氏の地位を落とし、紀ノ川流域の豊かな土地を手に入れたことを意味する。

   《年表》        
正始元年(240) 梯儁渡来。卑弥呼が親魏倭王の制詔、印綬を受ける。
正始三年(242) 魏は高句麗王の位宮と戦う。
正始四年(243) 12月 卑弥呼は伊聲耆等を魏へ派遣。木拊短弓を献じ軍事援助を要請。
正始五年(244) 2月~5月 魏は蜀を攻撃。倭のことは対処できず。
正始六年(245) 魏は四年の倭の要請に応える。難升米に黄幢を授け、帯方郡にそれを付託した。
魏は再び高句麗の位宮と戦う。幽州刺史、毋丘倹の命を受け、玄菟太守、王頎は東沃沮まで位宮を追って日本海に達した。
正始七年(246) 魏は辰韓八国を楽浪郡に編入しようとしたことが原因で、馬韓と戦う。
馬韓(箕氏)を滅ぼしたが、帯方太守、弓遵が戦死(5月以前)。
主家を失った馬韓は統制のとれない混乱状態に陥る(注166)
正始八年(247) 王頎が帯方郡太守に転任。卑弥呼は狗奴国と戦い、帯方郡に急使を派遣して軍事援助を要請した。それを受けて、塞曹掾史の張政等が倭に派遣され、帯方郡が預かっていた難升米の黄幢が届けられた。
狗奴国が滅びる。


6、卑弥呼の死と箸墓について

   卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
「卑弥呼、以って死す。冢を大きく作る。径は百余歩なり。徇葬者は奴婢、百余人なり。」

「卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は奴婢、百余人である。」

 卑弥呼の陵墓が作られた時点では、狗奴国はすでに衰えていたか、あるいは、滅びていたであろう。「冢を大きく作った」と記すのはそのあらわれで、邪馬壱国には大土木工事に取りかかる余裕があったのである。これは国の存亡を揺るがす戦時中や、戦いに敗れた場合には不可能な作業である。
 「大作冢」の大という文字は、作にかかる副詞で、大きいという意味の形容詞ではない。したがって、「冢を大きく作る」とか、あるいは「大々的に作る」などと翻訳できそうだが、前者を採る。洛陽伽藍記に「小作冠帽」という言葉があり、これは冠帽を小さく作ったという意味なので、大作ならその反対になる。出来上がりは同じだが、「大きな冢を作った」という文なら「作大冢」と記される。「大作」は、それ以前のものより大きくという比較対象のある表現であろう。
 卑弥呼は「年すでに長大」と表されていた人なので、その死に関して、別に不審はない。魏志中の、「死」と「以死」の使用法に違いがあるかを調べてみたが、何も見当たらなかった。傅嘏伝には「今権以死…」という同じ表現があり、「今、孫権は死に…」と翻訳される。「以」は漢文の泰斗、吉川幸次郎氏が言われるように、リズムの充足のために添えられる意味のない言葉なのであろう(注167)。列伝に表れるような有力者の死は薨や卒と記され、これは礼制の規定に従ったものである。呉王、孫権の死は、呉本紀ではなく呉主伝だし、薨と表されていて、魏帝の死の崩より一段下げられた諸侯扱いである。傅嘏伝では、話し言葉なので、「以死」となったらしい。
 卑弥呼が殺されたと勝手な想像を書く人もいるが、それなら「殺卑弥呼」と記されるだけで、ここにある「以死」という文字からは、死因はうかがい知れない。
 作られた冢の径は百余歩。中国古代の基本単位は尺で、六尺が一歩(左右の足を一度ずつ出す、日本の二歩)になる。体が大きくなったというより、増税のためなのか、尺は徐々に増加し、歩もそれに伴い、魏の一歩は1.452mということなので、直径150m程度の土盛りを表すことになる(注168)
 中国人は、ここまで見た通り、文字を選んだ正確な表現を姿勢としており、前方後円墳であるなら、その祭祀の場の前方部は、冢の付属物と見て、冢の寸法に含めなかったと解することも許されるであろう。前方後円墳ならという但し書きが必要だが、全長300m近い大古墳を想定できるのではないか。
 ここから舞台を「記、紀」に移さねばならない。崇神紀に、ヤマトトトビモモソ姫が三輪の大物主神の妻になったと言う記述があり、この姫と卑弥呼が何らかの関係を持つと考えられるからである。 ヤマトトトビモモソ姫は孝霊天皇の子とされていて、その天皇の治世は76年。孝元天皇の57年、開化天皇の60年を経て、崇神朝まで生き延びたことになっている。これは現実にはあり得ないことである(注169)
 実際は、「記、紀」に「初国知らしし御真木天皇」と表される崇神天皇が、大和朝廷初代の大王で、ここで王朝が交代した。
 「ミ マキ イリヒコ イニエ」という崇神天皇の名を分析すれば、ミ(御)は尊称で「マキに入った男イニエ」という意味になる。マキとは三輪山の麓にある纏向である。
 二代目、垂仁天皇の名は「イ クメ イリヒコ イサチ」。イはミの転訛で同じく尊称の接頭語。「久米に入った男イサチ」の意味がある。久米とは畝傍山南方の地名である。この両者の名は崇神天皇系が大和への新たなる侵入者であることを示している(注170)
《崇神天皇と木国造、荒河刀辨の娘との間に生まれた皇子の名は豊木入日子命で、豊は美称、キに入った男の意味を持つ。》

 そして、このことから逆に、ヤマトトトビモモソ姫は、崇神天皇以前、大和朝廷以前の伝承に出自を持つ人物と解るのである。
 「紀」は、この姫に大物主神が神憑りしたり、物事を予知する能力があることを述べた後、崇神天皇十年から、地方制圧のために四道将軍を派遣しようとしたこと、山背と大坂から起こった反乱を鎮圧したことなどを挙げ(注171)、そして、「この後、ヤマトトビモモソ姫、大物主神の妻と為る。」と続けている。
 それまで崇神天皇の何年、何月と書いていたものを、突如、「この後」と取って付けたように、前後の文脈を無視して挿入しており、それは「この後」のことなどではなく、関係のない話を無理矢理ねじ込んだのだということを教えてくれるのだが、以下の様な記述が続く。
 「神が夜中にしか現れないので、朝まで留まって顔を見せてくれとせがむと、神は『櫛入れの中に入っているから、その姿に驚いてはいけないよ』と言って承知した。夜が明けてから中を見ると、小さなヘビがいた。姫が驚いて悲鳴をあげたところ、神は人の姿に戻り、『恥をかかせた』と怒って、虚空を踏んで御諸山に登ってしまった。姫が仰ぎ見て、後悔し、どすんとへたり込んだ時、箸で陰部を突いて死んだので、大市に葬った。故に、時の人はその墓を箸墓と呼んだ。この墓は日中は人が作り、夜は神が作った。大坂山の石を運んで造り、それは、山から墓に至るまで人民が互いに並び、次々に手渡して運んだのである。」(注172)
 箸墓という名前の由来を説明するために、奇妙な死に方を考えたものだが、墓の話なので、生きている人間は当然そこに入れるわけにはいかない。死と結び付けて、「ハシ」という墓名を説明するのに、それが最も簡単だったのであろう。
 これは墓に付属していた伝承なのである。昔から「ハシハカ」と呼ばれていた大古墳があり、そこに葬られた人は三輪の大物主神の妻となった人で、不思議な能力を持っていた。上記のようにして墓を作ったと語り伝えられていたわけである。日本書紀は、それを大和朝廷の歴史と装って崇神紀に組み入れた。
 箸墓の記述は崇神天皇十年に置かれているが、それ以前の崇神天皇五年には、疫病のため死者が多く、逃亡者や反乱者も出たので、翌年(六年)、日本大国魂神を皇女に祭らせた。しかし、神の意に添わず、髪の毛が抜け落ち、やせ細って、祭ることができなかったと記されている。そして、七年になって、天皇自身が大物主神の神託を受け、茅渟県の陶村に潜んでいた大田田根子という人物を探し出して大物主神を祭らせ、市磯長尾市(注173)という人物に日本大国魂神を祭らせて、やっと国が治まったのである(注174)
 「神は他部族の祀りを受けないし、民は他部族の神を祀らない(春秋左氏伝)」「神はその宗君やその祀りしか受けつけない(史記、晋世家)」という言葉が中国にあるが、これは日本でも有効だったようである。
 大和朝廷の皇女には、地主神たる大物主神や日本大国魂神を祭る資格がなかった。大物主神の妻となるということは、巫女となって神に仕え、その言葉を人に伝えるということであろうから、それが出来たヤマトトトビモモソ姫は大和朝廷の人間では有り得ない。この姫は、崇神天皇を恐れて河内に隠れていた大物主神の祭祀者、大田田根子の方と繋がっている人物なのである。
 卑弥呼は「鬼道につかえ、よく衆を惑わす」「年すでに長大なるも夫婿無く」と表されている。これは神の妻、巫女となって独身を守ったことを表すのであろう。そしてまた、箸墓の古い伝承が、紀の編纂時まで、かくも濃厚に残っていたのは、そこに葬られた女性が、時代を越えて語り伝えられるほどの、強烈な個性と能力とエネルギーの持ち主だったからではないか。
 箸墓は全長275メートル。後円部の直径は150メートルで、倭人伝の径百余歩に一致し、大物主神の鎮座する三輪山に最も近い巨大な前方後円墳である。築造当時は他を圧倒的に陵駕する最大の古墳だったであろう。これも「墓を大きく作った」という倭人伝の記述に合うのである。
 径百余歩というような大古墳は、人為的に破壊されない限り、現在でも、必ずその姿を留めているはずである。昔からこの墓は卑弥呼の墓ではないかと疑われているし、そして、そう考えるに足る十分な根拠がある。
 古事記には、ヤマトトトビモモソ姫と箸墓の伝承は記されていない。三輪の地名説話と、大物主神の子孫という大田田根子に神を祭らせて、疫病などの祟りが止み、国が治まったことを載せているのみである。ただ、孝霊天皇の皇女として、ヤマトトモモソビメの名は記されているから、この人は記録しなければならない人だったのであろう(崇神紀にはヤマトトトビモモソ姫、ヤマトトト姫の二つの表記がある。)
 埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣銘文に関連するかもしれないと、日本書紀で活躍する毛野氏の動向を知りたくなり、古事記を探ってみたが何も記されていなかった。他の氏族も同様である。つまり、古事記は帝記(注175)という記録を元にした大王家の歴史であり、日本書紀はそれに氏族の伝承をすりあわせ、政治的配慮で濃厚に味付けして出来上がった歴史書というわけである。
 古事記に無視され、日本書記にのみ採用されたこのヤマトトトビモモソ姫と箸墓の由来話は、氏族の伝承で、大田田根子後裔の大神(おおみわ)氏一族が語り伝えたものと考えられる(注176)

 

7、三輪山の神(=大物主神、大国主神、オオナムヂ神)が南方系風俗を持つこと

 古事記の三輪の地名説話は、大田田根子(意富多多泥古)を神の子とする理由や、三輪という地名の由来を説明しているが、また別の意味で非常に興味深いものがある。

 「その母の(河内の)活玉依毘売の所へ、姿や物腰の立派な男が、夜半に、いつとは知れないうちにやって来た。そして、愛しあい共に過ごすようになり、まだいくばくも経ないうちに姫は身ごもった。姫の両親は、娘が身ごもったことを不思議に思い、事情を尋ねると、姫は、『その名も姓も知らない人が、夜毎通ってきて、一緒に過ごすうちに身ごもってしまったのです。』と答えた。両親はその人を知りたく思い『赤土を寝床の前に散らし、巻いた麻糸を針に通して、その人の着物の裾に差しなさい。』と教えた。
 姫が言われた通りにして、夜が空けてから調べると、麻糸は戸の鍵穴を抜け通り出て、残っている糸は三勾(みわ=三重巻き)だけであった。そして、糸をたどって尋ねて行くと、(大和の)美和山の神の社に行き着いた。そういう訳で、大田田根子は神の子だと解ったのである。その麻の三勾残ったことから、そこを名付けて美和という。」

  河内に隠れていたという大田田根子は、その母、活玉依毘売の一族に匿われていたらしい(注177)。興味深いと書いたのは、三輪の地名説話のことなどではない。地名説話というのは、ほとんどが後世になってからの語呂合せと扱える。
 ここでは、「三輪の神が、鍵穴を通り抜けて女性の元に通う」ことと、「三輪の神が、よばいする」ことが興味深いのである。
 大物主神は、妻となったヤマトトトビモモソ姫(卑弥呼)に対しても、夜間に姿を現すのみであった。この姫は箸墓に葬られたが、前方後円墳なので、鍵穴を通って会いに来るという表現がぴったり当てはまる。大物主神は衣紐ほどの太さ長さで(「紀」の記述)、鍵穴を抜け通り、櫛入れの中に収まるくらいの小さな蛇神と考えられていたことも、ついでに明らかになる。
 倭人伝の「父母兄弟臥息異処」は若者組の表現と述べたが、それに関連して、若者が夜間に女子の元へ通う、「よばい(注178)」という風俗があることにも触れた。これは南方系民族の要素なのだが、大和で最も権威のある三輪山の大物主神もまた南方系風俗に染まっている。つまり、大和でその神を祭っていた人々は、神と共に南方から渡来したことを示しているのである。
 夜しか姿を見せない、箸墓は夜は神が作った。虚空を踏んで三諸山に登ったので姫が仰ぎ見た。三輪神は夜行性で、虚空に浮かぶ能力があり、人が仰ぎ見る。以上から、三輪神は月神と結論できるが、鍵穴を抜け通るのもまた月光の能力である。
 再び倭人伝に戻る。卑弥呼の死後、大きな墓が作られたという記述の続きである。

 

8、壱与の即位と張政の帰国

  更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
  復立卑彌呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與

「さらに男王を立てる。国中服さず。さらに相誅殺し、当時、千余人を殺す。また、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。政等は檄を以って、壱与に告諭す。」

「新たに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。また、卑弥呼の宗女、壱与(イヨ)、年十三、を立てて王と為し、国中が遂に治まった。張政たちは檄をもって壱与に教え諭した。」

 卑弥呼の死後、権力闘争が起こり、同じく神に仕える少女を選んで王としなければ、収拾がつかなかった。邪馬壱国の政治基盤は脆く、鬼道という宗教の力によってかろうじて結び付けられていたようである。卑弥呼には夫婿がいない。したがって、宗女は一族で、且つ、最も身分の高い娘という意味になる。「檄を以て壱与に告喩す。」だから、張政は壱与と対面している。

  壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人 送政等還
  因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹

「壱与は倭の大夫、率善中郎将、掖邪拘等の二十人を遣はし、政等の還るを送る。因って、臺に詣り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢ぐ。」

「壱与は倭の大夫で、率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた。そして、臺(中央官庁)に参上し、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、模様の異なるさまざまな錦二十匹を貢いだ。」

 たて続けに壹與の名がみられ、臺が書き分けられているのはこのあたりである。三つの壹を、全て臺の写し間違いと見るのは困難で、唐代に書かれた梁書は臺與と記しているが、梁書が間違ったか、あるいは、壹を臺に修正した後漢書に習って改変した可能性の方が強い。おそらく後者であろう。
 張政は正始八年(247)、帯方郡から軍事顧問として派遣され、狗奴国との戦いに尽力し、卑弥呼の墓作りを見た後、卑弥呼の死後起こった内乱を静めるのに奔走、政情が落ち着いて、ようやく帰国できることとなった。
 壱与が派遣した使者や、献上した生口、物品はこれまでで最大の数字である。狗奴国を滅ぼし、その土地と財宝を奪って国家の安定した様子が感じらる。
 献上物の全てが狗奴国からの戦利品ではないか。生口も大量三十人で何か画期的な出来事に由来することを疑えない。狗奴国の完全支配と考えればこれを理解できるし、そして、それを献上するのは明らかに魏の支援に対するお礼で、結果を見せる為であろう。「今、使訳通ずる所三十国。」狗奴国は使訳の通じる国になったのである。
 すべて数字には単位や助数詞が付けられており、孔も白珠五千の助数詞と解せる。持ち運びや計算の便を図るため、真珠に穴を開けて紐を通していたのではないかと想像できる。青大句珠は「青い(=緑)大きく曲がった玉」という意味になるので、翡翠の勾玉のことである。
 晋書倭人伝には、「(倭人は)文帝(晋の司馬昭(注179))が相となるに及んで、また数(しばしば)至る。泰始初年(266)、使者を派遣し、訳を重ねて入貢した。」という記述があり、これも壱与の遣使と考えられる。
 司馬昭が魏の相国となったのは魏王朝最後の帝、陳留王奐の景元四年(263)十一月で、二年後の咸煕二年(265)八月に死亡した。
 長子の司馬炎が晋王と相国の地位を引き継ぎ、四ヶ月後の十二月、年号を泰始と改め、魏から晋への禅譲の儀式が行われた。晋書武帝紀には、「壇を南郊に設け、百僚は位にあり、及び匈奴南単于、四夷、会者は数万人。(注180)」となっていて、「泰始初の遣使」というからには、壱与の使者もこれに参加したのであろう。四夷に含まれていることになる。
 咸煕二年を改めて泰始元年と為したもので、二つは同じ年(265)である。したがって、「文帝(司馬昭)が相となるに及び」という年代に該当するのは、景元四年十一月以降から咸煕元年を経て、咸煕二年(泰始元年)八月までの間しかない(注181)
 倭の使者が何度か(数(注182))やって来たと言っても、二度が精一杯で、一度だけということもないわけである。

 上のように、倭の使者が、魏の景元四年(263)の十一、十二月頃、洛陽に着いたとする。この時期なら司馬昭は相国となったばかりである。用を済ませて、翌、咸煕元年(264)に帰途につけば、日本にたどり着くのは夏前であろう。
 しかし、その使者の帰りを待たず、春に次の使者を出発させていたとすれば、咸煕元年の冬、洛陽に到着して、司馬昭が相であった時代に間に合い、「数至る」という表現が可能になる。そして翌年の春にも遣使すれば泰始元年十二月の王朝交代の儀式に参加できる。
 しかし、魏から晋への交代は、予定されていたものではなく、司馬昭(文帝)の死と、司馬炎(武帝)への相続に起因するから、それに合わせた祝賀と解するのは無理である。
 景元四年(263)に遣使したのなら、正始八年(247)、張政が渡来して以来、十六年後のことで、これはやはり、狗奴国との戦いが終って平和が訪れ、張政の任務が完了した直後と解すべきであろう。 この年は、まだ魏が存続していたので、魏志倭人伝の末尾に記され、晋書に記されることはなかったのだが、滅亡間近で記録に混乱があったのか、年代を入れることが出来なかったのだと思われる。
 司馬昭が相国となった魏の滅亡二年前、263年が張政の帰国年である。狗奴国の滅亡は前年の262年に置けばよいであろうし、箸墓の築造もこの年と解せられる。
 泰始元年(265)の遣使者の帰国で、存亡の危機を救ってくれた魏が、晋に国を奪われたことを知り、壱与は中国との交流を絶ったのかもしれない。

   《年表》        
景元三年(262) 狗奴国滅ぶ、箸墓の完成。
景元四年(263) 十一月 司馬昭が魏の相国となる。壱与が使者を派遣し、張政等の帰国を送る。 生口、勾玉、真珠などを献上。魏志倭人伝末尾に記される。
咸煕元年(264) 壱与が再び使者を派遣。壱与は、この頃、二十代後半。
景元四年の使者帰国。
十一月頃 春の使者、洛陽到着
《文帝(司馬昭)が相となるに及び、また数至る。=二度目》
咸煕二年(265)(=泰始元年) 壱与、三度目の使者派遣。
前年の使者、帰国。
八月 司馬昭が死亡。
十一月頃 春の使者、洛陽到着。
十二月 司馬炎が晋を建国し、泰始と改元。
壱与の使者はこの王朝交代の式典に参加し、晋書倭人伝に記された。
泰始二年 (266) 壱与、使者を派遣。前年の使者はまだ帰国していない。
夏頃 泰始元年の使者が帰国。魏が滅ぼされたことを知って怒り、壱与は中国との交流を断つ。?
十一月五日 春の使者が洛陽到着。倭人来たりて方物を献ず。(晋書武帝紀)

【壱与は年に一度の割で朝貢していたらしく、要服という年に一度朝貢する遠方の友好国の姿勢をとっていたようである。/梯儁は倭人に送られていないので、魏の船で渡来し、帰国したと考えられる。】

 魏志倭人伝はここで終わる。帯方郡の使者が、海を渡って日本を訪れたのは、わずかに二度。梯儁等が伊都国まで、そして張政等のみが邪馬壱国に到ったのである。
 張政と帯方郡の間では、連絡のため、何度か使者のやりとりが行われたかもしれないが、しかし、それは外交の使ではないから、記録に留められることも、倭人に関する報告を書くこともなかったであろう。あるいは、倭人が連絡に当たったのか。どうもこちらの可能性の方が強そうである。
 魏志倭人伝は、梯儁、張政の二度の遣使の報告と、魏政府公文書等を、陳寿自身の見解に従って整理編纂したもので、ほとんど同時代のことを書いているため、その信頼性は極めて高いと言える。233年生まれの陳寿は壱与と同世代の人間なのである(注183)。三国志を著したのは、晋が呉を平らげた後と記されているから(華陽国志)、280年以降で、その死は297年である。
 邪馬壱国が畿内大和に存在したことは、既に証明できたと考えている。そして、その住民の倭人は、古事記や日本書紀中の大王達とは明らかに異なった風俗を持つ南方系民族であった。
 中国(華北)人が、倭人や中国南方の民族から連想する動物は蛇だが、三輪の神が蛇身を持つことを軽く見てはならない。女王国は大和(邪馬壱国)を中心とし、オオナムヂ(大国主、大物主、八千矛神、顕し国魂神)という蛇神を祭る中国南方系民族、蛮夷と表される民族が作った国だったのである。矛が主武器であったことも、八千矛というこの神の別名に現れている。
 三輪の神は蛇神であると同時にまた雷神でもあった。蛇行という表現を用いるように、ヘビの動きは川の流れにも結び付く。イナヅマは稲の妻と書く、日照りに雨をもたらす有り難い兆しだったわけで、どうやら、三輪神は、農耕に欠かせない水神のようである。水神ということは、陰の精の月神ということでもある。ゆえに、三輪神は夜にしか姿を現さないし、虚空を踏んで三諸山にも登る。鍵穴を抜け通ってヤマトトトビモモソ比売の所へも通える。月神と夫婦になったヤマトトトビモモソ比売は陽の精、太陽神ということにもなる。
 そして、記、紀には、神武天皇の東征という大和の先住部族を征圧した記録が残されている。その関連を詳らかにせねばならない。


四、その後の邪馬壱国

 壱与は卑弥呼と同様、夫婿なく神の妻となり、その死に際しても、同じ様な大きな冢が作られたであろう。神の妻なので、陵墓は神の住まいの近くになる。
 卑弥呼の墓を箸墓とするなら、壱与のそれも同じく三輪山の麓に求めるべきで、最も可能性が高いのは景行陵古墳である。地図を見れば明らかだが、この古墳後円部と箸墓後円部は三輪山山頂から2.4km(10000尺、ちょっと驚き)ほどの等距離に位置している。三輪の神の妻となった卑弥呼と同格ということになり、これほど壱与にふさわしい古墳は見あたらない。山麓にある三輪神社と檜原神社の三ツ鳥居の意味も簡単に説明が付く。中央の大きな鳥居が三輪の大物主伸で、古墳の位置を考えると、向かって右の鳥居が卑弥呼、左が壱与である。
 魏志に続いて、中国の正史に倭人が登場するのは、晋書武帝紀の西暦265年と266年。これは壱与の三、四度目の遣使にあたる。
 その次は、晋書安帝紀(東晋)413年の神功皇后の遣使で、壱与の最後の遣使からは147年後のことである。その後、宋書倭国伝421年の倭王讃(応神天皇=ホムダワケ命)の遣使と続く。
 西暦250年前後の、即位当時13歳だった壱与の世が、50年ほど続けば西暦300年あたり。讃が応神天皇なら、大和朝廷になって崇神→垂仁→景行→成務→仲哀(神功皇后)→応神と、応神天皇が六代目で、それまでの五人が20年ずつ続いたと考えると100年。
     421(応神)- 100=321(崇神)
 つまり、大和朝廷初代の崇神天皇(321)と壱与(300)との年代差は21年で、あまり変らないことになる。壱与が何事もなく天寿を全うしたという前提付きではあるが、そうなるのである。
 大和朝廷の一代が二十年という計算は過大と思えるので、実際は、もう少し開いていたかもしれないが、それでも一、二世代の違いでしかない。邪馬壱国は壱与の死後、求心力が衰え、一、二代後に滅びたと考えられる。

続き、「魏志倭人伝から見える日本、4」