第三章、卑弥呼の鏡
1、三角縁神獣鏡銘文の解釈、分析
2、邪馬壱国は越人の国であること、その移住時期
3、再び三角縁神獣鏡について
第三章、卑弥呼の鏡
1、三角縁神獣鏡銘文の解釈、分析
各地の古墳から三角縁神獣鏡が大量に出土しています。銘文中に景初三年、正始元年等の魏の年号が見られることから、卑弥呼に下賜された百枚の銅鏡にあたるのではと論争の種になっていますが、この鏡についても分析しておかねばなりません。
以下は、大阪府柏原市、国分茶臼山古墳出土、径22.25cmの三角縁神獣鏡の銘文です。
1、吾作明竟【君】真大好 浮由【官】天下 ■四海【高】 用青同 至海東【宜】
「私は明竟(鏡)を作る。まことに大いに良い品である。天下を浮遊し四海に(■=敖?遊ぶ。)青同(銅)を用いる。海東に至る。」
(「君宜高官」と逆回転の四文字が入っている)
最初に作者の自負をのべ、次いで鏡のことを語っています。荘子、斉物論篇に「至人は神である。…かくのごとき者は雲気に乗り、日月に騎して四海の外に遊び…(注184)」という文があるので、「浮遊天下、敖四海」は、鏡に描かれた神仙の能力を表すと考えられます。古代中国人の世界観では、地は方(四角)であり、その外側は全て海なので、それを四海と表現します。神仙は、人間には行けない世界の果てまで飛びまわって自由を楽しんでいた。鏡の原料には青銅を用い、鏡は海東に至るのです。
朝鮮半島に三角縁神獣鏡は見当たらないといいますし、倭は越(会稽、東冶)の東に位置すると考えられていましたから、海東という表現に疑問の余地はありません。日本を考えるのみです(注185)。
中国の歴史家、王仲殊氏は、日本に移住した中国、呉の鏡師が三角縁神獣鏡を作ったのだと唱えています。しかし、この銘文では、海東に至るのは鏡と解するしかありません。
「浮遊天下、敖四海」の後に、「至海東、用青銅」と続いているなら、吾が天下を浮遊し四海に遊んだ後、海東に至り、青銅を用いて鏡を作ったという解釈、白髪三千丈的な中国的表現と解することも可能になりますが、吾が青銅を用いて鏡を作ってから、海東に至るという順序です。海東の倭では、この鏡を作れない矛盾があります。いずれにせよ、用青銅、至海東の主語は、吾ではなく、明鏡です。
銘文の文字は反時計回転に書かれ、逆向きの時計回転で「君宜高官」という文字が挟まれています。「君は高官によろし」と読み下せるので、「君子は高官になれる」というような意味の吉祥句でしょう。
この「君宜高官」が四角の枠で囲まれ、ほぼ九十度に銘文を四分しています。銘文中で最も重要な語句らしいのですが、その向きが時計回転になっていて、最初に円を四分割し、時計回転のこの四文字の位置を定めたあと、副次的に「吾作明鏡」以下の反時計回転の文を挿入していったことになります。
滋賀県野洲郡野洲町、大岩山古墳出土、径25.7cmの鏡の銘文は次のようになっています。
2、 鏡陳氏作 甚大工 荊莫周■ 用青同 君宜高官 至海東 保子宜孫
「鏡は陳氏が作った。甚だ大いに技巧を凝らしたものである。型模(鋳型)は彫啄?し、青銅を用いる。君子は高官になれる。海東に至る。子を保ち、孫によろしい(=子孫は繁栄する)。」(不明部分■は啄ではないか注186)
陳さんが作った鏡なのです。分業して作っていたと考えられるので、この人は鏡作りの責任者でしょう。鏡の作り方を記した後、吉祥句が続きます。
「君宜高官」「保子宜孫」という鏡の効能を示す語句に挟まれて、「至海東」が書かれているし、記述内容は全て鏡に関することなのに、「海東に至る」のみが、陳氏の個人事情を表すと解するのは唐突で筋が通りません。やはり、海東に至るのは鏡です。
この二鏡の銘文から、鏡は魏帝の卑弥呼に対する下賜品と断定できます。作る前から、交通もままならない海東に至ることが定まっていた輸出用の鏡など存在しなかったはずです。陳氏はこの鏡が海東に至ることを良く知っていた。つまり、親魏倭王、卑弥呼に与える鏡を作るよう命ぜられたのです。
銘文は時計回転で、当時、日本にはいなかったという馬と、その結果あるはずのない馬車が描かれていますから(右図)、倭人の手になるものでないことは明らかです。銅鐸に描かれた人や鹿などの単純な線描画に比して、表現力は桁違いで、技術的な隔絶感があり、突如、日本にこのような技術が出現したのは、海外からもたらされたと考えるしかありません。また、江南には馬と狼がいないとされているので、馬や馬車は北方系の動物、乗り物、モチーフと言うこともできます。
上記二鏡の銘文の音を比較すると以下のようになります(但し、漢音)。
1、 ごさくべいけい しんたいかう
ふういうてんか がうしかい
ようせいとう しかいとう
(逆回転、くんぎかうくわん)
2、 けいちんしさく しんたいこう
けいぼてうたく ようせいとう
くんぎかうくわん しかいとう
はうすぎそん
1の鏡は、韻こそ踏まれていませんが、真大好(しんたいかう)、敖四海(がうしかい)、至海東(しかいとう)と句の後ろの音を受け継ぐ形の遊びがあります。韻よりこちらの方が難しいかもしれない。この文章を当時の倭人が作れるかということになると否定的気分に傾きます。
2の鏡では鏡(けい)と型(けい)で始まり、作(さく)、啄(たく)?と揃えているし、工(こう、呉音ク)、銅(とう、ヅ) 東(とう、ツ)の韻が踏まれています。
1と2を比較しても「真大好(しんたいかう)、甚大工(しんたいこう)」と音が揃えられていて、用青同、君宜高官、至海東の三つの共通の語句が見られます。そして、呉音で読んだ場合は、真大好(しんだいかう)、甚大工(じんだいく)と型崩れしてしまうので、この銘文は漢音で記されたと主張することもできるのです。
以上のことから、大阪(柏原)、滋賀(野洲)という遠く離れた土地から出土したこの二枚の鏡は、同じ時期に、同一人物(陳氏)によって立案された姉妹鏡で、しかも漢音を使用する中国北方で製造されたことが読み取れます(注187)。書体が異なっているので、型の彫刻者は別人かもしれません。
王仲殊氏は、中国では同形の鏡が見つかっていないこと、三角縁神獣鏡の銘文から、陳氏が故郷を離れた土地に住んでいると推定できることを合わせて、何らかの事情で倭に逃がれた、中国、呉の鏡師が作ったのだという結論を出しました。
しかし、既に述べたように、海東(倭)に至るのは鏡であって、陳氏ではない。次に挙げるのがその根拠とされた銘文です。(群馬県高崎市柴崎蟹沢古墳出土、径22.7cm)
3、■始元年 陳是作鏡 自有経述 本自州師 杜地命出 寿如金石 保子■■
「(正)始元年、陳是が鏡を作った。私自身の経歴があるので述べる。元、私は楊州の鏡師であったが、地を閉ざされ、出ずるを命ぜられた。寿は金石のごとし。子を保ち■■」
後の二句は、金石の如く長生きし、子孫は繁栄するという意味の吉祥句で、鏡の効能を記したものです。前の句と離れているように感じますが、そういうこともあったが、自分は長生きして、子孫は栄えていると言っているのかもしれません。ここでも述(じゅつ)、出(しゅつ)と韻が踏まれています。
陳是の是(漢音シ、呉音ジ)は、氏の代わりに使われた文字で、漢書地理志・秦地の唐、顔師古注に「氏與是同古通用字(氏は是と同じ。古くは通用した字)」とあります。王仲殊氏は州師を楊州の州都、寿春の鏡師と解釈しています。運命に弄ばされた自己の経歴を書いた銘文に合わせたのかして、その図柄は、神仙、神獣を順序良く並べた他の鏡とは大きく異なっており、神獣が這いつくばって混乱しています。
1の「吾作明鏡…至海東」の鏡が出土した柏原市、国分茶臼山古墳からは、他にも二面の鏡が出土しています。一つは径14cmほどの小さな盤竜鏡で、銘文に青盖という作者名と「胡虜殄滅、天下復」という言葉が含まれていて、「胡を全滅させて、天下は元通りになる。」の意ですから、匈奴に苦しめられた「新」の鏡だと見当がつきます(注188)。あと一面は三角縁神獣鏡で、びっしり銘文が刻まれています。
(銘文は「柏原市史」による。径23.2cm)
■作明竟 幽煉三剛 銅出徐州 師出洛陽
彫文刻鏤 皆作文章 配徳君子 清而旦明
左竜右虎 転生有名 師子辟邪 集会並
王父王母 游■聞■ ■■子孫
「■(吾=私は?)明鏡を作る。三種の剛い金属を精妙に錬りあげた。銅は徐州に出で、師(鏡師)は洛陽に出ずる。模様を彫り(神獣)、刻んで散りばめ(三角模様、放射線、ジグザグ線)、皆、文章(銘文)を作る(注189)。徳を君子に配り、清くして明るい。左に竜、右に虎。転生して獅子、辟邪
最後の句は、中国出土の尚方鏡銘文から類推すると「長宜子孫」かと思われます。「長じて子孫によろし」と書き下せるので、長生きして子孫は繫栄するという意味でしょう。
神獣の表現や文字の癖は、1の鏡と非常に良く似ており、同一グループの作品と考えて間違いありません。幽はノーハウというような意味と思えるのですが、「融」の借字かもしれない。三種の金属は銅、スズ、鉛と考えられます。
ここで注目すべきは、「銅は徐州に出で、(鏡)師は洛陽に出ず」という文です。用青同と青銅を用いたことを記していましたが、その銅は徐州産と明言し、鏡師の陳氏自身は魏都の洛陽(注190)に住んでいるというのです。漢や新の鏡には「漢(新)有善銅出丹陽(漢には善い銅があり、丹陽から出る)」と書いてありますが、最有力産地だったらしい丹陽は現在の南京市(丹陽)を中心とした郡で、長江の南にあり、この時代には呉領になっていました。
現在の地図を見ると、徐州市(三国時代の彭城)のすぐ南に銅山の文字が見えるし、ここは魏の徐州に含まれていますから、この文言を疑う理由はありません。陳氏一族も元は徐州産の銅を用いて鏡を作っていたが、命ぜられて洛陽に移住したと解釈できるのではないでしょうか。
獣の模様のうち、左のものが竜で、右が虎と説明していますから、鏡には上下左右があります。そして、東王父、西王母が並び、鏡には邪を追い払う機能が想定されているのでしょう、辟邪という神獣の名が見えます。
ここでも韻が踏まれていて、剛(かう、カウ)、陽(やう、ヤウ)、章(しゃう、シャウ)、明(べい、ミャウ)、名(べい、ミャウ)、並(へい、ヒャウ)です。今度は呉音の方が完璧な一つの韻になり、辞書に従って単純にすっぱり、漢音、呉音と分けることはできないようでもあります。漢音なら二種の韻になります。
野洲町の古冨波山古墳出土、径21.8cmの三角縁神獣鏡は次の銘文を持ちます。
陳氏作竟甚大好 ちんしさくけい しんたいかう (Kau)
上有越守■■虎 しゃういうゑつしう(きふりょう)こ (Ko)
身有文章口銜巨 しんいうぶんしゃう こうかんきょ (Kyo)
古有聖人王父母 こいうせいじん わうふぼ (Bo)
渇飲玉泉饑食棗 かついんぎょくせん きしょくさう (Sau)
これも上有、身有、古有と揃えた中の三つの句は韻を踏んで終わっているし、残りの句も別の韻を踏んでいます。虎の呉音は「ku(ク)」なので、ここでは呉音を考えるとせっかくの韻が消えてしまうのです。
「陳氏が鏡を作った。甚だ大いに好いものである。(鏡の)上には越守及び龍虎がある。その体には模様があり、口には巨(差し金)を銜える(注191)。いにしえには東王父、西王母という聖人がいて、喉が渇くと玉泉を飲み、腹が減るとナツメを食べた。」という内容です。気になるのは越守という言葉で、越の守り神という意味でしょう。西王母、東王父の横にいる小さめの神像がそれらしい。なぜ越守がでてくるのか?
紹介したいくつかの銘文は、陳氏の鏡師としての自信を示した後、鏡の作り方、材料、描かれた神獣、鏡の効能などを説明していて、知らないかもしれないから教えてやるという教育的な配慮が感じられます。
作者の芸術的個性というのも、また、隠しようがなく、同じ竜虎を描いても、人により表現法は全く異なっていて、上記の三角縁神獣鏡に見られる銘文や神獣の形は、明らかに同一人物の頭脳から出たことを確信させる類似性があります。先の青盖作「胡虜殄滅」の盤竜鏡に描かれた竜と並べれば、作者(デザイナー)の違いは一目瞭然です。
特に、3の正始元年銘鏡で、陳氏は自らの経歴を述べている。これは海東の国の住民にあてた個人的メッセージで、何故、このように経歴を銘文化して、自己紹介する気になったのかが不可解です。そこには、それを告げたくなるような何か特殊な事情が介在していたのではないか。「作者としての自身の名を残したい」というような欲、以外のものが強く感じられるのです。
三角縁神獣鏡の銘文から浮き上がってくる陳氏は、元は楊州の州都、寿春で鏡作りをしていたが(州師)、その腕を買われて召し出され、不承不承、一族と共に住み慣れた郷里を去り(杜地命出)、魏都、洛陽に移住した、国の仕事を任されるほどの一流の鏡師です(京師)。
三国志呉志、孫権伝に、「初め曹公(曹操)は、長江近くの郡県が呉の孫権に奪われることを恐れ、内(北)へ移すよう命令した。住民は驚きが広がって、廬江、九江、蘄春、広陵から十余万戸が、長江を東へ渡って呉に逃れ、江西には住民がいなくなってしまった。合肥以南では皖城だけが残っていた。」という記述があります。魏志、蒋済伝によれば、これは後漢の建安十四年(209)の出来事です。
陳氏の「杜地命出(地を閉ざされ、出ずるを命ぜられた)」という経験は、この曹操の強制移住の命令を語ったものと考えられ、正始元年(240)から三十年ばかり前のことで、三角縁神獣鏡の製作時、陳氏はやはり老齢になっていたようです。徐州の州都、下邳は淮水の北にあり、この混乱とは縁が薄そうなので、やはり、州師は楊州の州都、寿春(九江郡)の鏡師と思われます。
漢の尚方銘鏡との銘文の類似が王金林氏に指摘されていますし(注192)、「本自京師」という句を持つ三角縁神獣鏡もあるので、本(元)、自(陳氏)は京師(魏の洛陽、尚方局で鏡作り)をしていたのだが、既に引退していたところを引っ張り出されたのかもしれません。三角縁神獣鏡作製時は京師ではなかったわけです。
長江流域からは、黄武七年、黄龍元年(228~229)という呉の紀年を持つ平縁の陳氏鏡が発見されています。一族で、この混乱時、別れて呉に逃れたものが、これを作ったと解せば矛盾は生じません。
その銘文は同じ内容を語っていても、三角縁神獣鏡とは表現法が全く異っていて、個性の違いが明らかです。三角縁神獣鏡が「寿如金石」や「位至三公(位は三公に至る。)という言葉を使っているところを、黄龍鏡は「その有服者は命久富貴(寿命が長く、富貴になる)」としているし、陳氏や陳是ではなく、師陳世と表記しているのです。個々の神仙、神獣の描き方こそ同系と思われますが、図案の全体像をながめるとまったく類似性が感じられません(注193)。
当時、魏では銅が不足気味で、鉄鏡が用いられていた。魏で制作したとするのは疑問だという王仲殊氏の指摘もありますが、日本よりは、はるかに豊かだったでしょう。魏帝の制詔には銅鏡百枚が明記されています。それくらいの製造は何の問題にもならないということです。陳氏も徐州の銅を用いたとわざわざその産地を記して、良質の材料で作った高級品と保証しているのです。これは現在の18金やステンレスなどという刻印の意識と変わりません。
倭の女王に与える特製の鏡を百枚製作せよと命ぜられた陳氏は、おおわらわでその仕事に取りかかり、知恵を絞って何種類もの意匠を考え出さねばなりませんでした。短期間でいちいち異なる図形や銘文をひねり出すのは大変なので、いきおい良く似た形が現れることになります。
三角縁神獣鏡の特徴は、その名が表わしているように三角断面の盛り上がりが鏡の外周部をめぐっていることです。鏡は、汝の好物を与えるとして卑弥呼個人に授けたものである以上、卑弥呼が喜ぶようなデザインが選ばれたでしょう。難升米等が洛陽に滞在しており、それを知る機会は十分にありました。
銘文に、王父、王母という文字が見られることから、三角縁は西王母の住む崑崙の表現と解することができます。また、内部の神守や神獣はその神仙世界を、ぎざぎざや細かい三角模様の連続は、鏡の放つ破邪の光芒を表すと考えられます(注194)。そして、これを卑弥呼が好んだのなら、卑弥呼の鬼道は、道教の先駆的なものと言えそうです。
「青山四方に周れり(神武紀)」という、山に囲まれた広い平地、大和を都城の地としたのは、理想郷、崑崙(チベット高原)を模していたのかもしれません。右の写真を見てわかる通り、チベット高原は、ひときわ高い山岳地帯に丸く囲われています。山海経などの古書では「崑崙の虚」と書かれ、後世には「崑崙の虚なんて無かった」と否定されたのですが、宇宙から眺められる現在、確かに、それが存在していることがわかります。
中国江南地方では、後漢代に三角縁の鏡(注195)が使用されていました。それを根拠に、倭人は江南と深い繋がりがあり、魏もその事情をよく呑み込んでいたという解釈も成り立ちます。そして、それは決して有り得ないことではありません。倭人伝に登場する倭人達は、極めて南方的で、陳寿が、確信を持って、日本を会稽(=現在の紹興)、東冶(福州)の東に置いたくらいです。
令亀法に似た占い方をする。春秋で年を数える。大夫という周代の官名を自称する。葬儀の後に沐浴する。つまり、倭人は中国の文化、それも魏より古い時代の文化を吸収しているのです。直接その影響を受けた土地から渡来したと考えても不都合はありません。
魏略逸文は「(倭人に)その昔の話を聞けば、自ら太伯の後と言う。(聞其旧語自謂太伯之後。翰苑所載の魏略逸文)」と記しています。太伯とは、春秋時代の呉の始祖王とされる人物ですから、自ら江南地方の出だと語っていたことになります。
また、後漢が奴国王に与えた金印には、蛇のつまみ(蛇鈕)が付いていますが、この蛇鈕は中国南部に居住した蛮夷と表される部族に対して与えられたものらしいのです。蛮という文字の下半分の虫は蛇を意味し、そして、漢は倭人をそれと同一の意識で捕らえていました。漢を引き継いだ形の魏でも、その認識は変わっていないでしょう。
邪馬壱国の倭人は中国、江南地方から移動してきたと考えても、何ら矛盾点のない民族です。三輪山の神はオオナムヂという蛇神だったではありませんか。
鏡の製造に当って、それを考慮することは十分有り得ます。命を受けた担当官僚は、鏡を作る職人の選定にとりかかるでしょう。誰が良いか。出身地が近く、江南の地方風俗をよく知る老練の鏡師にその役目を担わせれば、よりふさわしい贈り物ができるのではないか。
選ばれた陳氏は張り切って仕事に取り組みます。今までに無い珍しい形の大量注文です。陳氏は遠い海東の国に、知る人も無い未開の国に、自分自身の過去や、自作の優れた鏡に秘められた神仙的能力を正しく伝えたい。そういう思いで、この三角縁神獣鏡の懇切丁寧な銘文を彫り込んだのでしょうか。
いや、本当を言うと、私はもっと別のことを考えています。何故、陳氏がかくも異例の個人的伝言にこだわったのか。
「私は故郷の楊州、寿春から魏都、洛陽に強制移住させられた鏡作りで、元は尚方局に所属していた。今、再び召しだされて、倭人の為に海東に至る鏡を作っているのだ。」と伝えることで、倭人の方にも、「おお!そういう訳か。」とひざを打って喜ぶ何かがあったのではないか。
つまり、邪馬壱国の倭人の何代か前の祖先と、陳氏の何代か前には接点があったのではないか、という思いが消せないのです。
昔のお得意先だったのではないか、邪馬壱国を築いた倭人達が江南の地を離れて、それほど時間が経っていないのではないだろうかと。
2 邪馬壱国は越人の国であること。その移住時期
魏志倭人伝に、「その国、本はまた男子を以て王と為す。住七、八十年、倭国乱れ、相功伐すること歴年」という記述が見られました。その国とは女王国(邪馬壱国)です。
初めは男の王がいて、「とどまること七、八十年」と、考えなしに、受験生時代に覚えた読み方、解釈を長い間踏襲してきましたが、「住」という文字が選ばれているから、ここは「倭国に住むようになって、七、八十年で倭国が乱れた。」と解釈するべきではないか。
倭国大乱は桓霊の間(147~188)とされていますから、男の王が倭国に移住した年代は、その七、八十年前。およそ紀元67~118年の間に収まります。そうすると、後漢書倭伝のある記述が大きな意味を持ってくるのです。
建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬
安帝永初元年 倭国王帥升等 獻生口百六十人 願請見
桓霊間倭国大乱 更相功伐 歴年無主 有一女名曰卑弥呼…
「建武中元二年(57)、倭の奴国が貢ぎを奉げて朝賀した。使者は自ら大夫と名乗った。倭国の最南端にある。光武帝は印綬を賜った。」
前半は、奴国の朝貢と、後漢がそれに応じて与えた待遇に関する記事で、志賀の島で発見された金印をそのまま当てはめることができます。このことは既に奴国のところで解説しました。
後漢書倭伝はその内容の三分の二ほどを魏志倭人伝に依存しています。しかし、奴国の印綬に関する独自の記述は、考古学的に真実であることが裏付けられていますから、後漢時代の資料が豊富に残っていたことは間違いありません。范曄は「衆家後漢書を刪(さん)して一家と為した」とも記されています(宋書范曄列伝)。当時、何種類か流通していた後漢書を整理したわけで(注196)、だから、後半もかなり信用していいのではないか。問題は、こちらの文です。
「安帝、永初元年、倭国王帥升等が、生口百六十人を献じ、願いてまみゆることを請う。桓霊の間、倭国大乱……」
この永初元年(107)の朝貢と、邪馬壱国の一族が日本に渡来したとおぼしき年代(67~118)が一致するのです。
そして、生口を百六十人も献じました。これは魏志倭人伝にあらわれた生口数の最大値より五倍以上も多い数字です。何らかの大紛争を疑う余地はありません。
「願いて、まみゆることを請う」のは倭国王帥升等となっていますから、使者ではなく倭国王帥升自身が来ていたのです。光武時代の遣使には、使人と記されていて、相手が誰であるかは常に正確に把握されています。
国王が国を空けることまでして、中国への危険な旅を試みた。この異常な出来事を見逃すわけにはいきません。
これは奴国等の各国が連合し、一国の王である帥升を代表として派遣、異常事態を訴え、緊急援助を要請したことを表しているのか、あるいは、逆に、この事件を引き起こした新興勢力の王が、何かを頼みに行ったということなのか。
「願いて見を請う」と記すのみで、金印を与え優遇した奴国に比べ、漢の応対はまことに冷ややかです。朝見が許された雰囲気はなく、後者の可能性が強いでしょう。使者の大夫が「遠路、ごくろうさん」という扱いなのに、それより格上の国王自身に対して、この処遇はきわめて異様に映ります。
北宋本「通典」は倭面土国王帥升(右図)や面土地王帥升など、翰苑は後漢書曰くとして、面上国王師升と記しています。後漢書倭伝には「国は皆、王を称し、世々伝統」と記されていて、当時、倭国といえるような統一王朝は存在しませんでした。面土という小国名の入っている方が信用できるのです。翰苑は文字の誤りが多く、通典の面土が原形と思われます。
面土国(漢音ベント、呉音メンツ)の所在地に関する手がかりは全く得られません。しかし、ここにはベトナムのベトがくっついてきます。
越南をベトナムと言っているのだから、ベト(メツ)は越ということになります。そして、面(顔)と土の組み合わせは、顔に赤土を塗る邪馬壱国の風俗に一致しているのです。これは、明らかに音と意味の両面を考慮して選ばれた文字です。《日本語の「ベトベト」という擬態語も赤土を塗ることから派生した可能性を感じさせる。》
一つは、魏志倭人伝に見られる、帯方郡使が倭人から聞き出した倭人の歴史。(元は男王がいたが、住むこと七、八十年で乱れ、長期間戦った)
もう一つは、後漢時代の何らかの資料から引き出された後漢書の記述。(安帝永初元年、倭国王帥升等……。桓霊の間、倭国大乱)
この二つの史料の一致が意味するところは明白です。安帝、永初元年(107)の少し以前、新たに越人(面土国)の集団が渡来し、奴国などと戦い、北九州に大混乱を引き起こしたのです。彼らは命がけで海を越えて倭に移動しましたが、既にそこは固められていて、安住の地は得られなかった。最終的には、武力に訴えることになります。
面土国はその戦いには勝ったものの、敵方の奴国が、五十年前に(後)漢から金印を授けられていることを知りました。これでは漢に弓を引いたに等しいではないか。そこで、釈明と何らかの解決策を求め、王自身が大慌てで漢に赴かねばならなかったのです。
帥升は捕虜百六十人を引き連れて漢の都にたどり着き、安帝に朝見を求めましたが、漢はすでに「奴国」を属国とみなしており、冷たくあしらわれただけでした。おそらく、漢はこの紛争を調停し、敗れた奴国を復活させた上で、面土国を承認、そして、その勢力の拡大を禁じたでしょう。こうすれば漢の面目は保たれ、面土国も存続を許されて何とか妥協出来るのです。
漢の意向に逆らうわけにはいかず、この一族は一部を九州に残し、新天地を求めてまた船に乗り、そして、ついに出雲に到ります。邪馬壱国(オオナムヂ神=大国主神)の国造りはそこから始められました。七、八十年後の倭国大乱は、この一族が引き起こした征服戦争と考えられ、この間に、出雲の大国主神は大和の御諸山(三輪山)へ進出したのです。
このことは、「記」では、大国主神が稲羽の八上姫、高志の沼河姫を妻問いした後《同盟を意味する》、「出雲より将にヤマト国に上り坐さむとして」と表されていますし、「紀」では、出雲に出現した大国主神の幸魂、奇魂に「ヤマト国の御諸山に住もうと思う。」と語らせています。(倭国大乱は、瀬戸内、畿内の高地性集落の出現という考古学的資料となって現れている。)
奴国は倭国大乱中に滅び、王は金印を志賀島に隠して再起を期しましたが、遂に果たせませんでした。後漢に朝貢していたこの奴国が、自ら呉の太伯の後裔と唱えていたようで、つまり、奴国は呉人の国なのです。これで、陳寿が倭(呉)と倭人(越)を区別した謎が解けたことになります。
これまで不明であった魏志、後漢書の意味も、古代の人には自明の事であったらしく、梁書はこの安帝永初元年(107)年に70~80年を加えて(住むこと七、八十年で倭国乱れ)、大乱は霊帝の光和中(178~183)と計算しています。裏付けのない、机上の計算でしょうから、光和年間という記述に従う必要はなさそうです(注197)。
魏志韓伝には以下の記述が見られます。これは後漢時代の出来事なので、陳寿もまた後漢の資料を活用していたことになります。
「桓帝(147~167)霊帝(168~188)の末(注198)には、韓、濊が勢力を強め、郡(楽浪郡)や県(郡の下部組織)は制することが出来ず、その人民の多くが韓国に流入した。後漢の建安中(196~220、献帝)、公孫康は屯有県以南の荒地を楽浪郡から分かち、帯方郡を作った。公孫模、張敞等を帯方郡に派遣し、残っていた人々を集め、軍を組織して、韓、濊を攻撃したので、もと郡や県にいて、韓に流出した中国人がようやく出てくるようになった。この後、倭や韓は遂に帯方郡に属した。」
桓帝、霊帝時代に朝鮮半島は乱れ、漢末には遼東太守の公孫氏が半独立国を作って、その支配を朝鮮半島中部にまで広げ、帯方郡を創設しました。そして、倭や韓は帯方に属するようになったといいます。倭国の大乱(桓霊の間)は、漢が衰え、その影響力が弱まった時代に重なっているのです。
面土国王帥升(越王)が自ら漢都へ赴き、安帝に面会を求めた時、漢は先住していた呉人を支持しました。「漢の委の奴国王」の金印を与えたということは、そこを属国と認知し、漢の保護下に入れたことを意味しているからです。しかし、その力が衰え、恐怖心が無くなると同時に、先進文化を持っていた越人の押さえつけられていた憤懣が爆発、一気に勢力の拡大を図りました。
出雲に国を作っていた越人は、大和へ移動して邪馬壱国を建て、その同盟国と女王、卑弥呼を共立して、公孫氏の帯方郡に保護を求めたのです。卑弥呼と公孫氏の関係は事実と考えて差し支えありません。漢は卑弥呼一族の敵で、それと対立した公孫氏と結ぶのは必然と言って良い。奈良県天理市櫟本町にある東大寺山古墳から、「中平(184~188))」という年号の記された鉄刀が出土しており、公孫氏との交流を示唆しています。霊帝の184年、黄巾の乱が起こり、これ以降、漢は大混乱に陥って支配力を失います。漢、中央政府との交流は考え難いのです。
景初二年(238)、魏の明帝が兵を送り公孫氏は滅びました。ほぼ同じ頃、帯方郡に至った邪馬壱国の使者、難升米は、好機と見て機敏に方向を変え、魏に朝貢して援助を求めたのです。その結果、邪馬壱国は歴史にその姿を留められることになりました。
中国側も、倭に関して、乏しいながらも常に何らかの情報を握っていたという気配です。年代は確定出来ませんが、「有倭人、以時盟不(倭人有り、時を以って盟するか?)」という文字の刻まれた「倭人字磚」と呼ばれる磚(レンガのようなもの)が、中国、後漢代の会稽曹君とされる曹操の一族の陵墓から出土しています。「時が解決して、(戦いを止め)会盟するだろうか。」という意味なので、倭国大乱の頃の会稽郡太守で、その調停に悩んだ人物の陵墓かもしれません。会稽へ使者を派遣した部族もいたらしい。この文言からは、「どうしようもない」というあきらめが感じ取れます。魏の王家、曹氏が、卑弥呼以前から倭国と係わりを持っていたことも、卑弥呼に対する厚遇に結びついたでしょう。
「漢の委の奴国王」「親魏倭王」という称号や印綬は、ただの形式ではなかったようで、これを与えたことにより、後漢や魏には、その国を保護しなければならない義務が生じたのです。
魏略逸文は、女王国に関して、系譜につながりのない「太伯の後」と「夏后少康の子」を併記していますが、魏志は越の祖先という「夏后少康の子(注199)」しか引用していません。陳寿は邪馬壱国が越人の国であることを明確に認識しています。おそらく「太伯の後」は後漢代の文献の記述で、魏の関連事項としての倭を書く陳寿に無視されたのだと思われます。
3、再び三角縁神獣鏡の銘文について
陳氏の三角縁神獣鏡の銘文は、私信といった類のものを含み、単純に製作者や吉祥句、図形の意味を連ねた通常の銘文とは著しい違いを見せています。
陳氏は、鏡の使い手は、中国人ではなく、海東の倭人だと認識していたわけで、しかも、何か懐かしさがあって私信を入れたようなのです。つまり、それを使う相手が特定されていて、且つ、文字が読めるというわけです。
景初二年十二月に、銅鏡百枚の下賜が発表され、正始元年の盛夏に、梯儁がそれを携えて末盧国に到りました。おのずから、鏡の製作期間は景初三年中から正始元年の春までに限定されます。
梯儁が八月(陰暦七月)始めに渡来したとすれば、逆算して、帯方郡を出たのは五月(陰暦四月)、洛陽から帯方までの輸送時間を引くと、正始元年の三月頃(陰暦二月)までが精一杯なのです。
「景初四年 五月丙午之日 陳是作鏡(注200)」という銘文を持つ径16.8cmの鏡が、京都府福知山市の広峯15号墳から出土しています。景初は三年までで、翌年は正始と改元されていますから、この景初四年は存在しない年号です。しかし、先に紹介した三角縁神獣鏡には、正始元年の銘が見られ、当然のことながら、陳氏は景初から正始への改元を知っていました。
おまけに、この福知山の鏡は陳氏の陳の字が裏返っています(右図
)。鏡を作るときは型を作って溶けた青銅を流し込むわけで、型の文字は印鑑のようにすべて逆に彫っておかねばなりません(荊莫周啄)。何か手違いがあって彫り損なったというなら、魏帝が贈り物にするほどの高級品にしてはあまりにおそまつだし、第一、作り慣れた自分の名を間違えるでしょうか。他の文字はすべて正しく書かれているのに、この文字だけが別扱いで、これは「私は陳氏ではない」という意志表示のようにすら感じられます。
この鏡は景初三年銘の陳氏鏡を手本として倭で作られた品物です。卑弥呼が鏡を入手後、さらに誰かに下賜され、その鏡の形式を真似て作ったのですが、改元を知らずに、次の年の年号を入れてしまったものと解せられます。卑弥呼の元で作られたなら、改元を知っているわけで、こうはなりません。これは、景初三年銘の鏡を手に入れた福知山付近の地方豪族が、下賜された次の年に作らせたものと思われます(注201)。
他にも銘文に関して気にかかることがあります。中国尚方鏡は時計回転の銘文を主とするように見えるのです。
現在、横書きの文章は必ず左から書き始め、縦書きなら右からです。逆であれば、非常に読みづらく、どうにも落ち着きが悪い。これは長年の習慣から身に付いた感覚です。
銘文に陳氏や景初三年等の文字が見られても、それが反時計回りに記されている場合は、倭人が自らの感性に合うよう、文字の回転を逆向きに入れ替えて作ったものではないか。陳氏の時計回りの銘文に馴染めず、コピーするに当たって修正したように思えるのです。
反時計回転の銘文を持つ鏡としては、先の福知山の景初四年銘鏡や、書物によく取り上げられている出雲の神原古墳出土の景初三年銘鏡(注202)などを挙げることができます。
神原古墳出土の鏡は、神獣を描いた部分から外周の三角縁まで、文字部も含めて何層かの模様を持っていますが、銘文を紹介した魏鏡に比べて一つ、二つ少ない。これは神獣あるいは光芒模様を小さく表現出来ないという、技術的な未熟さがもたらしたものです。銘文も、並べていった最後に大きな空白が生じて、兮という文字を入れてごまかしています。これは事前に文字を割り付けるというノウハウを持たなかったことを示します。十数文字多い柏原市、国分茶臼山古墳出土の「■作明鏡」鏡がきちんと書かれているわけで、陳氏の鏡には有り得ないことなのです。文字の形も他の陳氏のものとは明らかに異なっており、並びも反時計回転である。以上のことから、この鏡は、魏鏡を模倣した倭鏡と分類できます。景初三年や本自京師という文字が見られるのは、手本となった鏡に、その年号と語句が刻まれていたということになるでしょう。その図柄には「本自州師、杜地命出」と記す正始元年銘鏡と同様の混乱が見られ、統一した意志の元に描かれたことが明らかです。
魏帝から贈られた鏡は、全て三角縁で、大きさも魏の一尺に規格化されていたように思われます。(注203)。これは卑弥呼の主導する、鬼道という一つの宗教思想に基づいて作られた形だからです。そして、そのデザインの発想が愛でられ、盛んに模造されたため、各地の古墳から大量に出土することとなりました。三角縁神獣鏡にもそれぞれの履歴があります。発見されている数百枚を、ひとくくりに語ることは許されません。
銘文は「天王日月」のみという秀麗な三角縁神獣鏡があります(沖ノ島出土、宗像神社)。魏鏡と思われるのですが、卑弥呼に授けられた陳氏鏡とは明らかに様式が異なっていて、「皆、文章を作る」という銘文の内容からも外れています。これは、おそらく、壱与に与えられたものでしょう。
また、何人もの使者が魏を訪れており、個人的に鏡を入手可能であったことも考慮に含めておかねばなりません。卑弥呼の使者では、官位を授けられた者だけでも十人を数えるし、壱与は、最初の遣使の時、二十人を派遣して張政を送らせているのです。
卑弥呼の使者、難升米と都市牛利は一年数ヶ月に渡って中国に滞在していたと考えられます。そして、壱与の遣使は計四度。いずれにしても中国内を長期間移動していたのだから、鏡を求めるには十分な時間があります。京丹後市で出土した青龍三年(235)銘方格規矩四神鏡は、そういう類の鏡と思われます。
魏鏡か否かは、既に述べたように、銘文が時計回転を主とするということ、陳氏は韻を踏んだ正統的な文章を作るということから区別できるでしょう。句の一部を欠いているようないいかげんな鏡、文意の混乱している鏡は模倣した倭鏡です。文章の意味を知らず、パターンの一部としての認識しか持っていないものも多い。王氏や張氏作鏡とする三角縁神獣鏡も発見されていますが、これも模倣品です。呉人、越人が王、張という姓を持つのは不思議でも何でもありません(注204)。そして、王、張と製作者が異なることを明らかにしながら、銘文や神獣を陳氏と同じ形に作り、職人としてのプライド、創造性を放棄しました。これは技量や芸術性に感嘆した下級者が、あこがれて模倣しようとする態度に他なりません。ほんのわずかだけ自らの創意を加えて。 現在でも、デザイン分野で、有名ブランド品に対する同じよう風潮がありますから理解しやすいでしょう。
三角縁神獣鏡に記された年号が、景初三年、正始元年の二つにとどまるのは、それが魏帝からの下賜品という証です。現在、発見されている陳氏鏡の一部のみが卑弥呼の鏡なのです。おそらく、そのうちの何割かは箸墓に眠っていると思われます。