弥生の興亡1 魏志倭人伝から見える日本5

第四章、魏志倭人伝の補足

  1、倭人とは何か
  2、鬼道とは何か
  3、卑弥呼は何処に住んでいたか
  4、狗奴国と紀の国
  結び
  参考文献


 

第四章、魏志倭人伝の補足

1、倭人とは何か

 中国、春秋時代の後半、長江河口部には「呉」という国が栄え、南方の「越」や西方の「楚」、北方の「斉」と激しく対立していた。
 淮南子「原道訓」や荘子「刻意」では、干(カン)は呉の別表現とされ、呉越は干越と表記されている(注205)。また、春秋左氏伝、哀公九年には、呉王夫差が邗に城を築き、長江と淮水を結ぶ邗溝という大運河を掘ったことが記されており、後の広陵の韓江がこれであるという(注206)。どうも長江河口部北方、呉の領域に干という地名が存在したようである。
 魏志鮮卑伝には、「鮮卑王、檀石槐が烏侯秦水までやって来たが、川に魚が見えるのに捕えることができない。汗人が魚を捕えるのに巧みであると聞き、東方に軍を出して汗国を討ち、千余家を捕えて烏侯秦水のほとりに移住させ、魚を捕えて食料不足をしのいだ。今に至るまで、烏侯秦水の付近には汗人数百戸が住んでいる。」という裴松之の注が見られる。
 烏侯秦水が何れの川を指すのかはっきりしないが、鮮卑は中国に北接する国で、東は遼東に至り、夫余、貊(高句麗か?)に接すとある。
 檀石槐が軍を東に出して汗人をさらったというこの記述に従えば、朝鮮半島北部に汗人が展開していたことになる。魚を取るのに巧みだというのが略取の理由なので、この汗人を干人(呉人)と扱っても不都合はない。時代は後漢の霊帝、つまり、倭国大乱の頃で、後漢書では、この汗人が倭人に置き換えられているのである(注207)
 三国史記、高句麗本紀には、高句麗王の弟が、倭山で二度、狩猟した旨の記述があり(132、146)、倭山という地名が高句麗内に存在したことを教えてくれる(注208)
 山海経、海内北経は「葢(カイ)国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。」と記している。葢国とは、朝鮮半島東北部の葢馬大山付近に存在した国を指すようで、これは濊(カイ)と考えられるが(注209)、倭という民族は、北は遼西、遼東、高句麗領域から、南は日本列島に至るまで大きく広がっていたのである。
 そして、そのうちの楽浪海中の倭人が、時折、楽浪郡か燕を訪れて挨拶していたことになる(漢書地理志、燕地)。
 福岡県の奴国が「倭の極南界なり」という後漢書の記述もある程度正しい。それが呉人の国らしく、呉人=汗(干)人=韓人=倭人というわけである。
 呉の滅亡は紀元前473年で、越王勾踐が呉王夫差を破った。この二人の確執は臥薪嘗胆という言葉になってよく知られているが、その後、生き残りの王族に率いられた呉人が、海を渡って東方に逃れることを想像するのは難くない。南方から追い上げられた形になるし、北方は、敵対していた、言葉も通じない習俗もまったく異なる「斉」という国だから、呉人は山東半島などから東方の海へ逃れるより術がなかったのである(注210)
 国を失った呉人の一部は、越人との同化を拒み、朝鮮半島や日本に移住して新たな国を作った。稲作やそれに付随する文化を伝え、新しい時代が幕を開けたのである。
 現在、紀元前三世紀の弥生式土器を基準に時代区分しているが、縄文晩期とされている呉の滅亡後まもなく、紀元前五世紀を一つの大きな断層、新しい時代の始まりと扱うべきである。
 三々五々と人々が移住してきたのではなく、国家の滅亡に際し、指導者に率いられて、国そのものが移動してきたのである。弥生時代は最初から、小さいながらも国があり、身分があり、そしてまた、神の祭りがあった。三百年近くを経た漢代には、人口も増加し、縄文人を吸収して楽浪海中に百余国を為していたわけである。
 朝鮮半島の倭人の上位には、燕人、衛満に追われて北方から逃れてきた朝鮮の箕氏が王となって被さり、「韓」を建国した(注211)
 これは前漢初期 (B.C195)のことだが、以降、この地の倭人は韓人となる。朝鮮半島南端に残った倭(=任那)は、これに属さなかった地域であろう。王家こそ異なるが、倭(任那)と(馬)韓は民族的には同じ、朝鮮先住民と同化した呉人の後裔なのである。鮮卑の檀石槐の話からは、朝鮮半島西部を海岸、河川沿いに、かなり北方まで展開していたことが想定される。
 呉人の移住以前にも、海に逃れて日本に渡来した人々がいたことを想像しても許されるから、より古い水田や米が出てきても驚くには当たない。ただ、人数とその影響力の問題があるだけである。

 呉の建国は殷の末期に当たる。周の古公亶父の子、太伯と仲雍は、父の望む末弟の季歴に国を譲るため、口実を設けて南方の荊蛮に出奔した。断髪文身の土地の風俗に合わせ、用いてはならないことを示して季歴を避け、呉の始祖になったという。
 「委」の意味は、「ゆだねる」、「捨てる」、「去る」、「任す」、「従う」等で、まさにこの二人の行為に一致しているのである。
 「倭」とは、「ゆだねる」という意味の委に、人を表すニンベンを付けて、「父の望みに従い、国をゆだねて去った人」=太伯、仲雍とその後裔の呉人に与えられた別称である。したがって、ワ人ではなくヰ人と読まねばならない。
 倭人に関する最も古い伝承は、後漢の王充の著した「論衡」に見られる「周の時、天下太平。越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢ぐ」「(周の)成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢(鬯)を貢ぐ」というものである(注212)
 殷を倒し、天下を取った周の武王は、荊蛮に移住した仲雍の後裔を探し出し、呉王、虞王に任じた。そして、次代の成王の時、この王位を委ねた人の子孫、倭人(呉人)は、黒黍で作る鬯という酒に入れる香り草を献じてきたのである。この酒は宗廟(宗廟=祖先の霊を祭ったところ)に供えるものという。周の宗廟は、倭人にとっても自らの宗廟であり、祭りの神降ろしの際に使う酒のための香り草を献じてきたことになる(注213)。 太伯、仲雍、季歴という兄弟から、わずか二代を降るにすぎないので、武王の捜索は十分可能である。
 図のように系譜中にこの出来事をぴったりと収めることができる。
 史記、呉太伯世家は、太伯には後嗣がいないとするが、呉人自らは太伯の後裔と唱えているので、こちらが正しいのかもしれない。いずれにせよ、太伯、仲雍を記念して、呉人を倭人と表したことは明らかで、敬愛の念が込められているようである。
 竹書に、「(成王の)四年、春、正月。初めて廟に朝す(三年間の喪が明けた)。」「十年、越裳氏(ベトナム)来朝(注214)。」という記述が見られるので、この「論衡」の倭人の記述も真実と考えられ、成王三年末の出来事、翌年の喪明けに初めて行う宗廟の祭りのため、供える酒に入れる鬯草を献じたと解することができる。呉の南方の越は「二十四年、於越来賓」の文字が見え、於越と表記される。
 魏政府は、倭を帯方東南海中の地名、住民名と扱っているが、陳寿は倭の本来の意味を掴んでいたのではないだろうか。魏志が、倭地に新たに生まれた越人の国を、倭人と表記したのは、同じ土地に全く異なる呼び名を与えることから起こる無用の混乱を避けたものと考えられ、深い思慮が働いていたようである。それに、日本から呉人が消えてしまったわけでもない。地位は下げられてもこちらが多数派である。
 太伯の後裔(倭)という血筋なら、何処へ移動しようと変わらないが、呉という土地から離れてしまった以上、呉人とは記せないだろう。
 檀石槐が誘拐した部族を、范曄の後漢書が倭人と記し、裴松之の三国志注が汗人と記すのは、複数の資料が残っていて、採用したものが異なっていたためと考えられるが、どちらも正しいのである。時代が降るに従い、全てが見失われて、倭は帯方東南海中の土地名、住民名に固定してしまった。

 2、鬼道とは何か

 紀元前494年、会稽で呉王、夫差に敗れ、降伏した越王勾踐は、呉の一諸侯に身を落として再起を図った。この時、越の大夫、種は、呉を伐つための九術を勾踐に伝授する。その一は「天を尊び、鬼に事え、以ってその福を求める。」ということである。
 勾踐は、さっそくそれを採用した。「東郊を立て、以って陽を祭る。名は東皇公という。西郊を立て、以って陰を祭る。名は西王母という。会稽に陵山を祭り、江州に水沢を祀る。鬼神に事えること一年。国は災いを被らず。越王いわく『善きかな。大夫の術。その余りを論ずるを願う。』(呉越春秋(注215))」
 越王勾踐は新興の東王父、西王母の祭りを採り入れた。魏志倭人伝の「鬼道に事え、よく衆を惑わす。」という卑弥呼の鬼道は、この東王父(東海の扶桑に治すという)、西王母(崑崙に居す)の信仰、つまり、先駆的な道教なのである。伝授した大夫、種は楚人とされているので、起源は楚にあるらしい。
 これは既に三角縁神獣鏡の銘文から知った通りだが、東西の移動なので、日(陽)、月(陰)も関係してくるだろう。三角縁神獣鏡に「天王日月」という銘文の見られたことも結び付いてくる。
 事実かどうか、「竹書紀年」帝舜九年という中国黎明期に、既に西王母の朝貢の記述が見られるし、「山海経」や、周の穆王の西域遠征を記録した「穆天子伝」にもその名が現れているから、長い時間をかけて徐々に発展してきた信仰のようである。そして、江州に祭られたという水沢の神が蛇神、鰐神のオオナムヂ神かもしれない
 史記封禅書や漢書郊祀志第五下などには、以下のような記述がある。
「(漢の武帝は)この時、既に両越(東越、閩越)を滅していた。即ち、越人の勇之(人名)は、『越人の土俗は鬼を信じ、その祠には全て鬼を見ます。しばしば効があり、昔、東甌王は鬼を敬い、寿命が百六十歳でした。後世は祭りを怠ったため衰え減じたのです』と言った。即ち、越巫を命じて越祝祠を立てた。臺(高殿)を作るのみで、壇(土を盛り上げて作った祭壇)は無い。また天神上帝、百鬼を祭り、鶏占いをする。武帝は之を信じ、越祠、鶏卜はここより始めて用いたのである。公孫卿は、『仙人は見ることができます。お上はいつも突然思い立って行かれるので見たことがないのです。今、陛下は侯氏城の様な観を作り、干し肉、ナツメを置けば、神人を招くことができます。また、仙人は楼居を好んでいます。』と言った(注216)。ここに於いて、武帝は命じて長安に飛廉館、桂館を作らせ、甘泉には益寿館、延寿館、通天臺などを作った。……勇之は、『越の俗では、火災が有れば、建て直す時、必ず元より大きくして、火災に勝服します。』と言った。ここに於いて建章宮を作った。」
 「越方(注217)」と呼ばれた信仰が、いかに漢の朝廷深く食い込んでいたかを良く伝えてくれる文である。卑弥呼の鬼道は、この越方そのものであろう。遡れば、東王父、西王母の信仰は、越王勾踐の時に採り入れられているから、武帝当時でさえ既に三百年の歴史を有していた。
 武帝は甘泉宮に神仙の為の観を作り、ナツメを供えている。これは「古に東王父、西王母がいて、渇けば玉泉を飲み、飢えればナツメを食べた。」という三角縁神獣鏡の銘文そのままの形である。
 また、越祝の祠は臺のみで壇はないとされていて、飛廉館(注218)は高さ四十丈、通天臺も高さ三十丈と記されている。これもオオナムヂ神を祭った出雲の杵築大社が、古代は高さ三十二丈もあったとされることに通じるのである。
 仙人、道士の居所は観と呼ばれており、邪馬壱国の城柵で厳重に守られていたという樓観も、こういった高層の宗教施設と考えて間違いない。物見やぐらは、兵士が登って使うものであり、警備して守るものではない。
 桂館は、「死んではまた蘇る」不死の月に生えているという桂から(注219)名を取ったものである。益寿、延寿という他の館名を合わせると、漢の武帝は神仙にあこがれ、不老長寿を願っていたことが明らかで、卑弥呼の鬼道もまたそれを目指していた。年すでに長大という卑弥呼は、百六十年も生きたという東甌王のごとく、その具現者だったわけである。その信仰故に、最大の苦難に出会った時、越人は、東方海中に浮かぶという仙人の島、蓬莱を求めることになったのかもしれない。


 3、卑弥呼は何処に住んでいたか

 三輪山の麓に纏向という土地がある。纏(まき)は、おそらく「まっすぐ」の意味で、これは古事記の「笠沙の岬を真来通りて(笠沙の岬に道がまっすぐ続いて)」という言葉から導き出せる。
 三輪山正面が、この纏向なのであろう。三輪山山頂からこの方向に線を伸ばせば、田原本町八尾の鏡作神社(鏡作坐天照御魂神社)に当たり、そして、その遥かな延長線上に出雲がある。三輪山は、出雲にまき(真来)向いているのである。
 この「鏡作に坐す天照御魂神社」の位置には、元々は、その名から考えて、鏡作麻気神社が存在したかと思える。鏡作神社の神域に後から入った天照御魂という意味で、「鏡作りに坐す」と表現されたのではないだろうか。麻気神社は、現在、天照御魂社の百メートルほど東方に鎮座(移動?)している。そして、三輪の神の妻となった卑弥呼(ヤマトトトビモモソ姫)は鏡を好物としていたから、鏡作坐天照御魂神社、鏡作伊多神社(田原本町保津)、孝霊神社(=廬戸神社、田原本町黒田)、鏡作神社(三宅町石見)という四つの神社に囲まれた三輪山正面と考えられる土地が、邪馬壱国主邑の候補地として非常に魅力的である。問題になるのは黒田の孝霊神社だが、旧社地は、近鉄黒田駅西方の法楽寺内で、神仏分離令により現在地に移ったというから、これも元は鏡作神社だったのではないだろうか。(注220)
 法楽寺は、現在、わずかに一堂を残すのみで寂れているが、往時は二十五坊の大寺だったということで、この位置に設けられていた鏡作神社が、寺内に吸収されていた可能性は大である。
 その縁起では、慶雲四年(767)に黒田寺法性護国王院の号を賜り、弘仁九年(818)、弘法大師が法楽往生院と名付けたとされていて、勝軍地蔵を祭っている(注221)。「勝軍、護国を祈る往生」というのは、狗奴国との戦いのさ中に死んだ卑弥呼に似合いそうである。そして、法楽寺と三つの鏡作神社はきれいな長方形を描く形になり、魔除けのために四隅に鏡作り神社を置いた計画的な都市作りのあったことがうかがえる(護国に通じる)し、驚いたことに、法楽寺と鏡作坐天照御魂神社という長方形の対角線を延長していくと、卑弥呼の陵墓と目される箸墓後円部に到るのである。
 
 黒田はヤマトトトビモモソ姫(卑弥呼)の父、孝霊天皇の都(黒田廬戸宮)(注222)とされる土地なので、卑弥呼の居所をこの付近とすることに何の矛盾もない
 孝霊天皇は大和朝廷ではなく、滅びた邪馬壱国の王、神武天皇に国を譲ったニギハヤヒ系(=物部氏)、天孫に国を譲った大国主系の王なのである。
 そして、次代の孝元天皇が、卑弥呼を補佐した男弟に当ることになる。おそらく、その陵墓は崇神陵古墳であろう。卑弥呼の陵墓、箸墓と同じ山頂、三輪山の隣の弓月ヶ岳に向けて作られている。箸墓の方が三十メートルばかり大きく、やはり、卑弥呼が女王である。弓月ヶ岳には中国の軍神、兵主が祭られていた(延喜式名神大社)。現在もふもとに穴師坐大兵主神社がある。邪馬壱国が兵主を知っていたのか、帯方郡使、張政等が教えたのか?
 卑弥呼を共立して倭国大乱が収まったというから、大乱はその父親の時代に当たる。ヤマトトトビモモソ姫の父、孝霊天皇に、鬼退治などと表される戦いの地方伝承が多いことも倭国大乱の主人公の証左である(注223)
 この大乱は桓帝、霊帝の間とされていたが、霊帝の伝記は、後漢書では「孝霊帝紀第八」との表題が付されている。孝霊天皇という謚号は、倭国大乱時代の後漢の帝にきっちり合わされていて、これは偶然の一致では有り得ない。つまり、謚号の与えられたという奈良時代末期まで、歴史の真実が、密かに伝えられていたことは確実なのである。
Link「諡号の秘密」
《「記、紀」二代目の綏靖から、九代、開化まで、欠史八代とされる天皇は、邪馬壱国の王朝を加えたもので、初代の神武天皇は、崇神天皇が大和入りするまでの事績を分割して作られた。したがって、ハツクニシラス天皇という同一名で表される神武天皇(神武紀元年)と崇神天皇(崇神紀十二年九月)は同一人物である。
 邪馬壱国が八代続いたというわけではなく、崇神天皇を区切りのいい十代目に持って来るよう数を調整したのであろう。崇神天皇時代に治安が乱れ、国情が不安で、各地に軍を派遣したり、大和の地主神を祭る資格のある人物を探し出さねばならなかったとされることは、この天皇が新たなる侵入者、征服者であったことを示している。(注224)

 鏡が魔除けになることに関しては、三角縁神獣鏡の銘文に「辟邪」の文字が見られたし、常陸国風土記、久慈郡に次のような言葉がある。「昔、魑魅あり。集りて、鏡をもてあそび見て、すなわち自ずから去る。俗に言う。疾き鬼も鏡に向かえば、自ずから滅ぶ。」
 寺川に沿う、一部、三宅町にかかる田原本町西部、三つの鏡作神社を頂点として描いた長方形の中(もう一つの頂点は自動的に定まる。近鉄黒田駅付近、法楽寺境内)。
 ここが、卑弥呼の宮室、楼観が置かれた土地の最有力候補地である。特に、天照御魂という太陽神を祭る鏡作坐天照御魂社付近か、法楽往生院という法楽寺付近にその気配を強く感じる。
 弥生の楼観を描いた土器が発見された鍵・唐古遺跡は、寺川を挟んだ向かい側にある。卑弥呼の楼観が建てられたのは倭国大乱が終息して間なしだったとしたら、168年より少し後、2世紀の終わりころ。卑弥呼の樓観そのものを写した可能性がありはしないか。写真は土器の絵を元に復元した建物だが、画力が拙かっただけで、実際はもっと立派だったであろう。大倉庫(邸閣)を建てる建築力を持っていたのである。


 4、狗奴(コウド)国と紀の国

 紀伊国風土記逸文
 「タヅカユミ」トハ、紀伊国ニ有。風土記ニ見エタリ。弓ノトツカヲ大ニスル也。其ハ紀伊国ノ雄山ノセキ守ノ持弓也ト云ヘル。」

 雄山は、大阪府泉南市から和歌山方面に抜ける道、現在ではJR阪和線や阪和自動車道が通っているが、その和歌山県岩出町の山中に「雄ノ山峠」という地名を見つけることができる。野上町の生石高原からは、紀ノ川流域やその遠方の壁のような和泉山脈を一望できるのだが、山脈がペコンとへこんだ所から高速道路が伸びていて、やはり、この雄ノ山峠が一番侵入しやすそうである。旧熊野街道というから、やはりメインストリートだったらしい。古代、奈良方面から来た旅人は、生駒山地を超え、河内湖で船に乗り、男之水門(おのみなと、大阪府泉南市男里)で船を降りて、そこから山越えしたのであろう。山越えの三本の道(孝子峠越え、雄山峠越え、金熊寺川道)が男里で合流している。地名からも解るが、男里と雄山はつながっているのである。大阪最南部は紀伊に含まれていたらしく、雄略天皇時代の紀小弓宿祢の陵墓(西陵古墳)も大阪府岬町に作られている。
 雄山に、大阪方面から攻めて来る敵を防ぐべく、狗奴国側の関が設けられていたと考えても不都合はないし、邪馬壱国が、河内彦の大阪を手中に収めた後、和歌山を攻めたと考えれば矛盾も生じない。
 そして、その雄山の関守は、タヅカユミと呼ばれる特徴のある弓を使っていた。弓の手束(トツカ)を大きくしたものとされているが、手束とは、普通弓束(ユヅカ)と呼んでいる弓の握りのようである。このようなことを書くのは、正始四年の、卑弥呼の遣使の献上物に「木拊短弓」という文字が見られたからである。拊(注225)とは握りを意味する。
 木拊短弓とは、別の木で作った握りを、糸か竹で縛り付けて、弓束を太くした弓と解釈できるのだが、「木弓短下長上」と表わされ、現在にまで受け継がれている邪馬壱国の弓とは明らかに形状が異なっている。
 雄山の関守の手束を大きくしたタヅカユミと、卑弥呼の献上品の木拊短弓が同じもので、生口と同様、狗奴国からの戦利品なら、狗奴国が紀ノ川流域に存在したという説を補強することになる。
 そして、貴志川町(紀の川市)には神戸(コウド)という地名が見られる。紀ノ川の支流、貴志川を数キロ遡った位置に有り、北へ行けば紀ノ川で、その東西は紀伊水道や大和につながっている。神戸から西へ向かう陸路を取れば和歌山市(名草)へ通じ、途中から和田川という水路が合流している。そのまま貴志川を遡って南に行けば、野上町に達し、西の海南市に向かう道と亀の川、日方川が有り、貴志川沿いに東の高野山へ登る道もある。南に向かえば、山を越えて有田川に出会い、吉備町や、有田市、湯浅町に繋がってゆくのである。古代は交通の要衝であったと考えられるし、敵が雄山を越えてくると、この神戸は、すぐさま脅かされることになり、そこに関を設けるのも合点がいく。
 「記」は、木の国造、荒河刀辨(あらかわとべ)の娘が、大和朝廷初代の崇神天皇の妃になったとしている。政略結婚で、紀氏の最高権力者の娘を相手としなければ、その意味がないから、荒河刀辨の木の国造という地位については問題無いであろう。その名は居住地から採られたと考えられるのだが、実際に、安楽川(アラカワ)という地名が、貴志川と紀ノ川合流点近くに存在するのである。
 南の高津(タカツ)もコウヅだし、貴志川対岸の神田(コウダ)もコウドに近い。神戸周辺の地名は、紀氏の最高権力者が、当時、この付近に居住していたことを思わせる。貴志川町から桃山町にかけての貴志川流域(現紀の川市)、ここが狗奴国(コウド国)の心臓部だったのではないだろうか。神田にある三船神社は、崇神天皇皇女、豊鉏入比売命の創祀と伝えられ、安楽川荘中の産土神として祀られていた。紀伊国神名帳では、正一位、御船大神と記され、祭神は木霊屋船神である。この格式の高さについても説明を見つけやすい。
 そして、神戸のすぐ奥(南)には、国主(クニシ)と言う土地があり、貴志川に面して大国主神社が設けられている。この神社は村の鎮守といった風ではなく、三輪山のように山を神体とし、貴志川の水上交通に、にらみを利かしているように見える。
 狗奴国は邪馬壱国に滅ぼされたわけで、邪馬壱国はその土地に進出し、自らの神、出雲の大国主神(=三輪の大物主神)を祭って住民を支配したと考えれば、全てが符合するのである。
 和歌山県北部には、大国主神を祭る神社が四つあるという。貴志川町神戸のこの大国主神社、海南市多田の国主神社、下津町方の栗島神社、初島町里の国主神社。この四つは、ずばりとまではいかないが、三輪山と金剛山を結んだ線の延長線縁辺に位置しているから、配置の計画性を感じられる。
 これら大国主神社の存在は、邪馬壱国の勢力が、確かに紀ノ国(狗奴国)に及んでいたことを教えてくれるのである。すべて、神社の起源を遡れないのだが、古事記神代には、「大国主命が出雲に帰れば、兄の八十神に滅ぼされてしまう」と母親の神が憂慮し、木国の大屋毘古神の元へ逃がしたという記述が見られる。これが、出雲の神の紀伊進出を暗示しているようで、神社もとてつもない古さを持っているのであろう。国主の大国主神社が記録に現れるのは嵯峨天皇の弘仁九年(818)が最初らしい。京都に住む天皇が、わざわざ、この神社の社を建て、祭ったのである。そこいらにある神社ではないことがわかる。元々の地主神は、摂社として祀られている市杵島姫だという。
 また、考古学的資料からも、大和の邪馬壱国が紀ノ川流域の狗奴国を従えたという説を補強できる。「日本の渡来文化」という座談形式の書(中公文庫)で、考古学の森浩一氏は、「紀ノ川河口部では、日本で農耕文化が始まるとまもなく、非常に多くの弥生集落が出現する。 それにもかかわらず、その次の時代の前期古墳はほとんど残っていない。しかし、前期古墳時代の住居はむしろ増えているくらいである。」という奇妙さを語っておられる。
 つまり、弥生時代の始まりとともに発展していた紀ノ川流域には、前期古墳時代になっても、その特徴である前期古墳がほとんど見当たらず、かといって、生産力が衰え人が居なくなったわけではなく、人口が増加し順調に発展しているというのである。
 このことを最も単純に解釈すれば、土地が栄えていても、前期古墳を築けるような実力者が存在しなかったということになるだろう。
 前期古墳時代とは、卑弥呼と壱与あたりからはじまる時代である。魏志倭人伝に記された、径百余歩の卑弥呼の冢(箸墓)が作られ、張政の活躍で狗奴国が滅び、壱与の安定政権が生まれた時代なのである。
 狗奴国王、紀氏。この紀ノ川流域の元王者は、流行の大古墳を作れるような境遇にはなかった。紀ノ国を支配していた邪馬壱国系豪族の墳墓は、その本拠地の大和に作られたと解せば済んでしまう。紀氏は張政が指導した邪馬壱国に敗れ、地位を落とされていたのだが、何十年か後、熊野になだれ込んだ大和朝廷の始祖王、崇神天皇(=神武天皇)と同盟することで、その地位を回復したと解せば全てが明快になる。崇神天皇は紀氏が積極的に招いたものかもしれない。
 崇神記は、次のように記している。「此の天皇、木国造、名は荒河刀辨の女、遠津年魚目目微比売(とおつあゆめまくわしひめ)を娶して、…」
 次妃は尾張連の祖、意富阿麻比売となっているのみで、崇神天皇時代から、大和朝廷の始まりから、木(紀)の国には国造という土着性の強い首長が認められていた。
 ほとんどの豪族が二文字の氏族名を名乗っているのに、紀氏のみが一文字で不思議に思われているが、元々「キ」と呼ばれる氏族で、「キ」が支配していたから紀ノ国になったと考えれば良いのである。「木がよく茂るから木の国と呼ぶ」とされているが、それは後世の付会、語呂合せというものである。

 そして、呉王の姓が「姫」だということが問題になる。(注226)

 狗奴国の男王は卑弥弓呼素とされていたが、卑弥は女性の卑弥呼と共通し、王を表す称号のように見える。弓呼素がその名ではないか。張政等にはキューと聞き取られていたらしいのである。
 卑弥呼が魏に献上した木拊短弓や、雄山の関守のタヅカ弓と同形の弓はミャンマにも存在する。私が図鑑(「武器」、マール社)で見つけたのは、矢を飛ばす弓ではなく、石を飛ばす弾弓だが、確かに木拊短弓と表現できる。そういう南アジアにつながる弓を用いていることから、狗奴国の支配者、紀氏も、やはり南方系部族と言えるのではないだろうか。
 以下は常陸国風土記、筑波郡の記述である。
「古老が言うには、筑波の県は昔、紀ノ国と言ったが、崇神天皇の御代、采女臣の同族、筑箪命(つくはのみこと)を紀ノ国の国造として派遣した。その時、筑箪命は、自らの名を国につけて後世に伝えたいと思うと言い、元の名を改め、筑波としたのである。」

 崇神天皇以前の時代ということは大和朝廷以前である。紀ノ国は関東にまで広がっていた。海流に乗れば簡単で、呉人が初めて渡来した紀元前5世紀から、崇神朝に至るまで、優に七百年は経っている。筑波まで広がるには十分な時間があった。もっとも、崇神天皇云々はあまり当てにできず、単に、遥かなる昔と解釈しておけば済みそうである。

 常陸国風土記、行方郡
「ここより南に芸都里(キツ里)がある。昔、名を寸津毘古(キツビコ)、寸津毘賣(キツビメ)という二人の土民がいた。」(「ツ」は「の」と同義)(注227)

 キの彦、キの姫という意味なので名前というわけにはいかないが、姫氏であることを疑うには十分である。キツ里も「キの里」の意味になる。以上から、常陸国まで呉人が展開していたことを想定できるが、おそらく、それ以北にも進出していたであろう。
 奈良時代、平安時代になっても、出雲と紀伊の国造だけは、その代替わりの時、朝廷で就任式が行われたという。
 大和の三輪山の神でもある大国主神(オオナムヂ神)の祭祀者、出雲国造は、「神賀詞(かんよごと)(注228)」という服属の誓いを述べなければならないのだが、紀伊国造にはそのような義務はない。元々、大和朝廷の同盟者だったからである。それでも、出雲同様、野放しには出来ない勢力ということなのであろう。
 日向、高千穂山中に天下り、大国主一族の支配する地上を譲り受けた、ニギハヤヒからヤマトを譲られたという皇室は縄文系で、出雲国造、紀伊国造は弥生人(越、呉)の代表なのである。
 しかし、出雲国造(天穂日命後裔)も、出雲で邪馬壱国系の祭祀者が途絶えたため、大国主神の祭祀を受け持ったようで、実際は紀氏系(狗奴国系)氏族である(注229)
 出雲国造の祖先の名は岐比佐都美(キヒサツミ、垂仁記)となっているし、その本来の祭祀は、古代、出雲大社より権威があったという意宇郡の熊野神社と考えられている。ここでも紀伊(熊野)と強く結び付くのである。

  結び

 魏志倭人伝、後漢書倭伝等の中国の史書に何が書かれているか、ごく一般的、常識的な判断を積み重ねて読み通すだけで、思いもよらぬ日本が見えてきた。立て続けに三度記された壹與(壱与)の名を、全て見間違える可能性の方が少ない。壹與という記載は正しいのではないか、臺與(台与)に訂正する必要があるのかと疑うのは、ごく常識的、確率的な判断である。
 西暦413年の倭国の遣使を、貂皮や人参を献じていることから、朝鮮半島に進出したと伝えられる倭王讃の母、神功皇后の遣使と見ることも妥当だろう。ただ、この記述は晋書安帝紀の原典をひもとき、注を読まねば発見できない。膨大な太平御覧のデータから直接引き出すのは難しいと思われるが、晋書に日本関係の記述があることはよく知られている。これまで誰も言及していなかったのは、地道で面倒な原典の確認作業を避け、安易に過去の研究者を踏襲してきたのではないかと、疑念を持たざるを得ない。
 北方の魏は漢音を使い、その使者も漢音を使い、陳寿の晋もまた漢音を使っただろうから、倭人伝の国名、官名、人名を漢音で読むというのも単純で素朴な結論といえる。これを否定する場合は、呉音と漢字を知っていた倭人が、漢字を書いて教えたという面倒な条件を付けなければならないのである。但しこの場合でも、倭人が呉音を知っていること、漢字を書けることは認める必要がある。
 狗邪韓国をコウヤ韓国、対馬国をタバ(タマ)国、一大国をイシタ国と解釈するのも、漢音で読んだ場合の順当な結果で、対馬から一番近い対岸に決まっている、島の名前に決まっているという早呑み込みの固定観念が真実を遠ざけていた。
 それ以下も、漢文を書かれているとおりに忠実に翻訳しただけで、間違いはあるかもしれないが、つじつま合わせの姑息なごまかしは一切行っていないつもりである。
 世界は閉じられてはいない。海東遠く離れている日本も、時として大陸の民族移動と無縁ではいられなかった。大きな戦乱が起こるたび、行き場をなくした部族は、座して滅びるよりはと、新天地を求め移動する。これはアジアのみならず、世界全域に当てはまる言葉であろう。今で言う政治難民である。しかし、行き着く先々も無人の原野ではない。先住民族と友好的に融合し、あるいは反目して戦い、様々なドラマが演じられてきたのである。魏志倭人伝を初めとする中国の史書は、日本で起こったその種の出来事の一端を生き生きと蘇らせてくれた。

 弥生人の大半は、中国江南地方から朝鮮半島を経由して移住した呉人、越人であることが判明した、日本を知るには、中国、朝鮮の古代を知る必要がある。

続き、「中国、朝鮮史から見える日本、1」

参考文献
中国、朝鮮原書類 (三国志、漢書、後漢書、宋書、晋書、梁書。隋書、史記、淮南子、論衡、山海経、竹書紀年、呉越春秋、越絶書、穆天子伝、太平御覧、洛陽伽藍記、春秋左氏伝、旧唐書、水系注、三国史記) 魏志倭人伝、史記、春秋左氏伝(岩波文庫) 三国志(ちくま学芸文庫) 倭国伝(中国の古典17、学習研究社) 史記、淮南子(新釈漢文体系、明治書院) 古事記・祝詞、日本書紀、風土記(岩波古典文学大系) 大和志料 三国史記(平凡社東洋文庫) 入唐求法巡礼行記(中公文庫) 日本の古代(中央公論社) 日本の歴史(読売新聞社) 日本の神々(白水社) 日本書紀、古事記(講談社学術文庫) 日本の渡来文化、日本の朝鮮文化、古代日本と朝鮮、 朝鮮と古代日本文化(中公文庫) 日本陶磁体系3埴輪(平凡社) 柏原市史(柏原市) 大岩山古墳群とその周辺(野洲町歴史民族資料館) 歴代紀元編(台湾中華書局) 原像日本(旺文社) 弥生文化と古代中国(王金林著、学生社) 弥生人と祭り(石田日出志編、六興出版) ヨーロッパ文化と日本文化(ルイス・フロイス著、岩波文庫)   辞書類 大字典(講談社) 日本暦日原典。日本書紀暦日原典(内田正雄編著、雄山閣) 改訂総合日本民族語彙(平凡社) 民俗学辞典(東京堂出版) 倭名類聚抄(臨川書店) 中国歴史地図集、 説文解字、 本草綱目 武器(マール社)