弥生の興亡、2

中国、朝鮮史から見える日本、1

 弥生人の大半は、中国江南地方から朝鮮半島を経由して移住した呉人、越人と判明しました、したがって、中国、朝鮮の古代を知ることは日本を知る一助となるはずです。両国の歴史、伝承から日本を探ってみます。


第一章、中国古代を探る

   一、「補史記、三皇本紀」と日本の伝承、民俗行事の類似
      1、蛇と大人
      2、太陽のカラス
   二、江南の国々
      1、呉の歴史
      2、越の歴史
      3、呉、越の風俗に関する考察
      4、楚の歴史
      5、楚のトーテムと言語
      6、日本語にみる楚人渡来の形跡
      7、岡県主は楚人か?
      8、江南の地名と日本の地名の比較
      9、堂谿氏(呉系楚人)の渡来
     10、東鯷人とは何か


 

第一章、中国古代を探る

一、「補史記、三皇本紀」と日本の伝承、民俗行事の類似

1、蛇と大人

 司馬遷の「史記」は、黄帝に始まり、漢の武帝に至るまでの中国の歴史を記しています。その後、唐代に、司馬貞が史記の欠を補い、「補史記、三皇本紀」を加えました。これは、司馬遷が「歴史ではない。」と切り捨てた中国太古の伝説です。
 「大皞庖犠氏は風姓。燧人氏に代って天を継ぎ王となった。母は華胥という。大人の足跡を雷沢(地名)で踏み、庖犠を成紀(地名)で生んだ。庖犠氏は蛇身人首(体は蛇で、首から上は人)で、聖人の徳があった。(補史記、三皇本紀)
 続く、女媧氏も庖犠(伏犠)氏と同じ蛇身人首の姿を持ちます。その次の炎帝神農氏は人身牛首と表されました。呉人、越人の渡来した日本にも、これと同型の伝承が残っており、その痕跡を常陸国風土記に見ることができます。

《 行方郡 》
「古老が言うには、継体天皇の御代、箭括(やはず)の氏の麻多智という人がいた。郡の西の谷の葦原を切り、耕して開き、新たに田を治めた。この時、夜刀(ヤトゥ、ヤチ?)の神が仲間を引き連れ、何かをする度にやって来ては邪魔し、作業させなかった。そこで、麻多智は大いに怒り、甲鎧を着け、自ら矛をとり、夜刀の神の群れを打ち殺して追い払った。山口まで至って、境界の堀に大きな杖を置いて標とし、夜刀の神に告げて言った。『ここより上は神の土地とすることを許す。ここより下は人の田を作る。』」

 この後に、「ちゃんと祭ってやるから、怨んでくれるな。」という言葉が続くのですが、これは、六世紀の初め、大和朝廷の手先が、武力を背景に先住民の土地を奪い、水田に適さない高地に追いやったことをものがたっているのです。真実はこのような「きれいごと」であったはずはなく、開墾されていた田地を奪おうとする麻多智と、田を拓いた先住民=倭人の抵抗と敗北の歴史だったでしょう。そして、夜刀の神には、「土地の人は蛇のことを夜刀の神とする。その形は蛇身で頭に角が生えている…」という注が入っています。

《 香島郡 》
「その南にある平原を角折れ浜という。昔、大蛇がいて、東の海に行きたいと望み、浜を掘って穴を作り、蛇の角が折れ落ちたことにちなんで名付けられたという。」、「倭武(ヤマトタケル)天皇が、水を求めて鹿の角で地を掘り、その角が折れたのだと言う人もいる。」と文が続きます。

 以上の常陸国風土記の記述から、古代、霞ケ浦周辺には、「鹿の角の生えた蛇神、夜刀の神」の伝承のあったことが明らかになります。先に挙げた中国の庖犠氏、女媧氏は蛇身人首、神農氏は人身牛首です。これは人とそのトーテムを融合させたもので、龍の形を生む原型となります(「中国神話」聞一多著、平凡社東洋文庫)。この三氏を合わせれば、中国風に言えば蛇身牛首となり、蛇の体に牛の角が生えた形も生まれるわけです。
 筑波は、古くは「紀ノ国」と呼ばれていたことも記されていて、呉人の開拓地だったことがうかがえますが、鹿島周辺に伝承を残した部族もまた弥生人だったようで、発想は太古の中国と同一です。
 新治郡には「東の夷の荒ぶる賊、山賊」、茨城郡には「山の佐伯、野の佐伯」、行方郡には「古、佐伯ありき」。常陸国風土記は、常陸国が大和朝廷からみれば異民族の土地であったことと、それを武力で制圧したことを濃厚に記録しています。
 また、那賀郡には、「平津の駅の西十二里に岡があり、名を大櫛と言う。大昔、人がいて、体は極めて長大で、身は岡の上にありながら、手は海辺の大蛤を取った。その食べた貝が積もり集まって岡となった。時の人、大くじりの義を取って、今、大櫛の岡という。その踏んだ後は、長さ三十余歩(約46m)、幅二十余歩(約31m)。尿の穴の直径は二十余歩ばかりである。」という記述がみられます。
 これは、貝塚の成り立ちの不思議を解説しようとした文として、しばしば取り上げられていますが、足跡の大きさも記されています。人が歩いたか、立ったかのような形に大きな窪みが並んでいて、近くの池を尿の穴としたものでしょう。
 三皇本紀筆頭の伏犠(庖犠)氏の母は、大人の足跡を踏んで妊娠し、伏犠氏を生んだといいます。そして、周の始祖、后稷もまた、母親が大人の足跡を踏んで妊娠し、生まれたという同じ形の伝承を持っているのです。呉は周の分家です。したがって、この常陸国の「巨人の足跡」伝説は呉人の伝えたものと解することができます。
 鹿児島県などには、大きな藁人形やワラジを作る祭りがあり、その人形の名は大人弥五郎とされていて、ここでも「ゴ」に結び付いています。これはダイダラ坊とも呼ばれており、巨人伝説は日本の各地にみられるといいますから(*)、弥生時代の呉人の展開もそれだけ広範囲に渡ることになり、倭人が「分かれて百余国を為す」という漢書の記述に間違いはないようです。《*/「改訂総合日本民俗語彙」平凡社》

2、太陽のカラス

 「人皇氏は九人。雲の車に乗り、六羽に引かせて、谷口(地名)を出た。」 これは、三皇本紀の異説として紹介された文の一節です。六羽とは、六羽のカラスのことで、有史以前から、太陽黒点の存在に気付いていたのか、あるいは日食から導き出されたものなのか、中国には、太陽の中にカラスが住むという伝説がありました。馬王堆出土の帛画(漢代)にも太陽の中に烏が描かれていますし、山海経、大荒東経は、「一日はまさに至り、一日はまさに出ずる。みな烏に載る。」と記しています。
 日本でも、カラスは太陽に結び付けられていて、カラスを御先神(ミサキ神=神の使者)として祭り、御供えを与える風俗が各地に残っています。その本義は、カラスにお供えを届けてもらうということで、使者のカラスではなく、その主の太陽を祭っているのです。カラスのついばむ米を見て、その年まく米を、早、中、晩のいずれにするか占う地方もあるようで(*)、これなど、明らかに太陽、つまり、日照と米の生育の関係を象徴しています。カラスが太陽神の意向を伝えてくれるわけです。(*/「民俗学事典」柳田国男監修、東京堂出版)
 太陽の中にカラスが住んでいるという中国の伝説に基づく習俗が、日本の農村で生きつづけていました。何の支持基盤もない、伝説のみの伝播で、その祭りが日本に定着したと解するのは困難でしょう。人の交流もほとんど無く、容易に持ち運べる書物なども存在しなかった時代のことです。したがって、中国から日本へ伝説を持って移動し、太陽とその使者のカラスを祭っていた部族の存在を考えねばなりません。これが稲作の到来に付随するのは明白です。鳥の止まった建物が描かれた土器や、屋根に鳥が止まっている家の埴輪がありますが、この鳥は、ただ鳥として加えられたものではなく、太陽神の使いのカラスで、神聖な建物であることを表わしているように思えます。
 また、記、紀の神武東征伝説にも、八咫烏(*/八咫は大の意味)が登場します。熊野で道に迷った神武天皇の軍勢を導くため、天照大神が八咫烏を遣わすのですが、何故、カラスかと言えば、上記の様に、太陽神アマテラスの傍らにカラスが控えていたからなのです。この場合は、「八咫烏を御先として、太陽神の子孫が行く」という構図になります。
 江南から日本に渡ってきた氏族の伝承が、日本の官製史書の中枢部に取り入れられている。ということは、この伝承を伝えた人々が、中央政界で力を持っていたこともまた想像しなければなりません。それぞれ部族により異なるものを持っていたはずで、何の力もない一族の伝承なら無視されるだけでしょう。
 「(帝)尭の時に十日が並び出て禾稼を焦がし、草木を殺して、人は食べるものが無かった。そこで、尭は羿(げい)に命じて十日を射させた。」
 上記は淮南子の記述です。九日までは矢を命中させて、カラスは羽を落としましたが、一日だけあわてて逃げ隠れたといいます。「羿の射日神話」と呼ばれていますが、こちらも日本の風俗に直結しています。
 淮南子、説山訓には、「越人は遠射を学び、天に向かって矢を射た。的が五歩の内にあっても、そのやり方を変えない。世の中が変っているのに昔のやり方を守り続けるのは、この越人の射的のようなものである。」という記述があります。越人が弓を扱えなかったはずはなく、おそらく、越人が祭祀の際、初めは空に向けて矢を放つという風俗を守り続けたため、このような記述が生まれたのでしょう。これは、現在でも日本の各地の神事で見ることができ、かえって日本の風俗から説明で きます。年の始めに、九日を射て、日照りの無いことを願う神事なのです。この弓の神事では、的の裏に右図のような形を描く場合があります。甲乙ムと読まれていますが、これは日と九とムの組み合わせで、日が甲のように見えるのは、矢が下から日を貫いている象形なのです。これは「九日(貫いて)無(ム)し」と読めます。的の表は三重丸でカラスの目玉を表しています。年の始めにこの的を射れば、一日だけが残り、古代のように他の九日が同時に出て、人々を苦しめたりすることがなくなる。これは、弥生時代から連綿と受け継がれてきた、越人の日照りを避けるまじない法なのです。
 火災にあえば、より大きな建物を建ててこれに勝服するなど、鬼道(越方)という方術は、こういうまじない術等の集成と考えられます。十世紀の太平御覧では、方術として、「養生、医、卜、筮、相、占、巫、祝、符、術、禁、幻」を挙げています。邪馬壱国の神、オオナムヂ神(大国主神)の事績として、日本書紀、神代上に、「人民と畜産の為に、病の療法を定め、また、鳥獣昆虫の災異を払う為、その禁圧法を定めた。百姓は今に至るまでその恩頼を蒙っている。」と記されていますが、この二つは医と禁に分類されるのでしょう。大国主神が因幡の白兎を治療したのもその恩頼の一つで、これも鬼道の一項目なのです。卜は「骨を焼いて占うが、その言葉が中国の令亀法に似ている。」と魏志倭人伝に記されていました。

二、江南の国々

1、呉の歴史

史記、呉太伯世家第一
「呉の太伯と弟、仲雍の二人は、周の太王の子であり、王季歴の兄である。季歴は賢明で、その上、飛び抜けて優れた昌という子を持っていた。太王は季歴を王とし、その後を昌に継がせたいと望んでいた。そこで、(父の気持ちを思いやり、)太伯、仲雍の二人は南方の荊蛮の地に走り、入れ墨し、髪を切り、地位を捨てることを示して季歴を避けた。その結果、季歴が即位して王季となり、季歴の子の昌は(後に)文王となった。太伯は刑蛮の地に逃がれるや、自ら句呉(こうご、クゴ)と号した。住民はこれを正しい行いであるとし、帰服するものが千余家あり、王として立て、呉の太伯と為した。」

 以上が呉の起源です。この記述は殷代の話で、その後、ここに出ている昌(文王)の子、武王が殷を滅ぼして周王朝が成立し、春秋、戦国、秦、漢、新、後漢、そして魏、蜀、呉の三国時代へと続くわけですから、その時の隔たりに気の遠くなる思いがします。そんな時代の伝承が残っているのです。
 周から分れたと称することから「コウゴ(クゴ)」王は、周室と同じ「姫(キ)」という姓を名乗っていました。コウ(ク)は意味のない発声の音、つまり接頭語とされています。そして、倭人伝の世界に戻ると、紀氏(国造)の国の名は「狗奴(コウド)国」でした。その音の何と似ていることか。「コウゴ」が国名であったのなら、紀ノ川中流、和歌山県高野口町に応其(オウゴ)と言う地名があります。呉の都城の所在地を姑蘇(コソ、クソ)といったのですが、応其のすぐ近くに名古曽(ナゴソ)が見られるのは偶然とは思えません。これは九度山の川を越した真向かいです。南海電鉄九度山駅のすぐ側に古曽部団地と記している地図もありますから、そのあたりは古曽部という地名だったのでしょう。呉を思わせる地名が、この紀ノ川中流域にも集中して存在しています。コウドからクドへも転訛しそうです。
 周の武王は殷を破った後、太伯、仲雍の子孫を捜し、周章を見つけました。しかし、既に呉の王となっていたため、そのまま呉に封じ、その弟の虞仲を虞(グ)に封じたといいます。虞は中国(周の北方)に位置した国ですが、春秋時代のB.C655年、晋の献公に滅ぼされています。

  
 
 呉は夷蛮の地にあり、虞が滅びて二代後、太伯より十九代、寿夢に到って始めて強盛となりました。その後の系譜は次の通りです。

    

 太伯、仲雍は文身断髪という土地の風俗に合わせたとされていますし、寿夢も夷蛮にあって椎髻を俗としていました。しかし、寿夢元年、周に朝し、楚で諸侯の礼楽を見た後、鍾離(楚の地名)で魯の成公に面会して、周公の礼楽を深く問い質したといいます。 この時、自らの無知、野蛮を恥じたらしく、どうも寿夢の代に、冠や髷など、礼に適う独自の制度が取り入れられた気配です(呉越春秋、呉王寿夢伝第二)。春秋左氏伝にも、魯の成侯十五年(B.C576)、「呉に鍾離に会す。」という記述がみられます。
 王位は寿夢、諸樊、餘祭、餘昧、僚と受け継がれましたが、僚の五年、楚の宮廷の内紛に巻き込まれて父兄を失った伍子胥が亡命してきました。呉越春秋では、子胥は呉に入ると、「被髪佯狂、跣足塗面、行きて市に乞う。」となっていますから、髪を額に垂らし、裸足で、顔を塗り、気狂いを装って市に現われ、乞食をしていたようです。跣足(はだし)、塗面(顔を赤く?塗る)は、魏志倭人伝中の邪馬壱国の風俗に一致しますし、被髪は越人の習俗とされるものです。そして、これが気狂いと感じさせる格好なら、呉の風体ではないことにもなります。すべて越の風俗なのです。
 僚の十三年、諸樊の長子、公子光は、諸樊の子の自らが王であるべきだと、その地位をうかがっていたのですが、ついに僚を暗殺し、即位して呉王闔廬となりました。闔廬は伍子胥を採りあげて行人となし、共に国事を謀ります。将軍は孫子の兵法で名高い孫武でした。
 闔廬九年(B.C506)、呉は唐、蔡と共に楚を攻め、大勝して、楚の国都、郢(エイ)に侵入しました。楚の昭王は都を捨てて逃れ、闔廬は楚の後宮をことごとく妻とし、伍子胥は楚の平王の墓をあばき、その屍に鞭うって父兄の無念を晴らしたといいますから、楚は滅亡の一歩寸前までいったわけです。
 闔廬十年(B.C505)、闔廬が国を留守にしていた隙をみて、越王允常は呉に侵入しました。また、秦が楚の為に救援軍を派遣したため、呉は東西に兵力の分散を余儀なくされ、苦しい展開を強いられることになります。この時、闔廬の弟、夫概は、秦、楚連合軍と戦って敗れた後、密かに呉に逃げ帰り、闔廬が楚に留まったまま帰国しないことに付け込んで自立、呉王を称しました。しかし、それを知った闔廬がすぐさま兵を帰して夫概を伐ったため、夫概は、ほんの少し前には敵国であった楚に逃げ込みます。郢に帰還した楚の昭王は、夫概を堂谿に封じ、堂谿氏と為しました。夫概の内乱で、闔廬は呉に帰国せざるを得なくなり、結果的に、楚を救った功労者ということになるようです。ここでは呉系の楚人と分類できる堂谿氏を記憶に留めておかねばなりません。
 闔廬の十五年には、孔子が魯の宰相となっています。とにかく、日本はまだ縄文時代なのです。闔廬十九年(B.C496)、呉は越を攻めましたが、越王勾踐はそれを押し返し、姑蘇で呉を破りました。闔廬はこの時矛で突かれた傷が悪化して命を落とします。太子の夫差が復讐を誓って王位を継ぎ、その二年、越を攻撃しました。勾踐は会稽山に追い詰められて降伏、呉の一諸侯に身を落として、再起を図ることになるのです。

2、越の歴史

史記、「夏本紀第二」
「禹は是において遂に天子の位につき、南面して天下を治めた。国号は夏后という。姓は姒(*)氏。」《*/姒は漢音で「シ」、呉音で「ジ」、意味は兄嫁、姉》

史記、「越王勾踐世家第十一」
「越王勾踐。その先祖は禹の後裔にして、夏后の帝、少康の庶子である。会稽に領土を与えられ、祖先の禹の祭祀を行い守った。身に入れ墨し、髪を切り、草の荒地を開いて、村と為した。その後、二十余代を経て允常に至った。允常の時、呉王闔廬と戦い、互いに怨んで攻撃しあった。允常が亡くなり、子の勾踐が即位し越王となった。」

 これが越の起源です。越は夏后王朝の子孫なのですが、「シ」姓を名乗っていたかどうか史記は記していません。后とは君という意味で、始祖の禹も、元々は、帝舜の諸侯の一人にすぎず、封じられた土地が夏であったため夏后禹となり、史記以外の書では、帝となった後の国号もそのまま夏后と記されています。夏后は五代続いて、一旦滅びた後、帝少康が再興しました。少康は会稽に葬られた禹の祭祀が途絶えることを恐れ、その庶子の無餘と号する者を「於越」に封じたといいます。しかし、勾踐の父、允常に至るまでの二十余世の歴史は明らかではありません。越人は無壬を共立して越君の後と認め、禹の祭祀を復活したとされていますが、これは勾踐よりわずか三代を遡るにすぎないのです。
 允常の代から呉と対立していましたが、勾踐は遂に呉王夫差に敗れて会稽山に追い詰められ、恥を忍んで降伏を申し入れました。夫差は、北方の斉を攻めたいと望んでいたので、これを受けようとしたのですが、それに反対し、夫差を諌めた伍子胥の言葉は多くの史書に採用されています。それぞれに表現が異なっていて、呉語には、「越が小さな蛇の間に除いてしまわないで、もし大蛇になったらどうしますか。」という意味の言葉が見られますから、越は小蛇であったことが解ります。呉越春秋には、「呉は辰に在り。その位は龍なり。…越は巳地にあり、その位は蛇なり。」という言葉があり、呉は龍、越は蛇と表されています。呂氏春秋では、「斉は呉と習俗が異なるし、言葉も通じません。たとえ、その土地を得ても住むことはできないし、その民を得ても使役することはできないのです。しかし越は、呉と境界を接し、交通も容易で、習俗も同じ、言葉も通じますから、我々がその地を得れば住むことができるし、その民を得ればこれを使うことができます。これは越の側からいっても同じことで、呉、越は両立できないのです。」と語っており、越絶書でも、「呉越二邦、同気共俗。」となっていますから、呉、越は民族的にはほとんど異なっていなかったようです。根底に、荊蛮や蛮夷と表される被髪文身の民族があり、呉王に周室と同祖の姫氏が入ったため、言語、習俗をわずかに変え、寿夢が髷や冠などの礼制を採り入れた、という違いにすぎないのでしょう。
 結局、伍子胥の激しい反対にもかかわらず、降伏は受け容れられ、勾踐は夫差の兵となって、会稽を中心とした百里の土地を与えられました。紀元前494年のことです。そして、勾踐は密かに復讐の牙を研ぎ、大夫、種の示した呉を伐つための九術のうち、三つを試みて、自己の強化、呉の弱体化を図りました。
 第一術は鬼神を祭ることで、東皇公、西王母などが祭られています。続いて第二術。勾踐が良材を贈ると、夫差は二百里を見渡せるという姑蘇臺の建設にとりかかりました。五年を費やして完成したのですが、怨嗟の声は絶えず、民は疲れ、士は苦しみ、人は生きていることを願わないという有様になって、越はほくそ笑んでいます。これは、夫差の建築好きを利用したものです。第三術は、薪売りをしていた美女、西施と鄭且を見出し、三年の淑女教育のあと、呉に献じるというものです。夫差の好色につけ込み、その心を政治から遠ざけようと試みたのです。
 B・C486年、呉王夫差は長江と淮水を結ぶ、邗溝と呼ばれる大運河を掘り、斉との戦いに備えます。二年後のB・C484年、夫差は伍子胥の度重なる諌めを無視し、魯と結んで斉を攻撃、これを艾陵で破りました。戦勝を誇った夫差は、呉の滅亡を予見して自らの子を斉に託した子胥の裏切りを疑い、子胥に自害を命じます。「我が目を東門に懸けよ。以って越の入城、呉の滅亡を見ん。」という怒りの言葉が、子胥の置き土産です。
 B・C482年、呉は再び北征します。夫差が河南の黄池で諸侯と会盟し、晋の定公と盟主の坐を争っていた隙をついて勾踐は呉に侵入。その太子を殺害し、姑蘇台を焼き払いました。夫差が背伸びに背伸びを重ねているうち、足元は静かに崩されていたのです。この頃から、呉、越の形勢は逆転しています。
 そして、その四年後、勾踐は命運を賭けた決戦を決意しました。「王は、宮中に入って夫人に命じた。王は屏に背を向けて立ち、夫人は屏に向かう。王いわく。『今日より以降、内政は出ずることが無く、外政は入ることが無い。内に恥があればあなたの責任であるし、外に恥があれば私の責任である。私があなたに会うのは今日限りである。』王は外に出、夫人は王を見送って屏を出なかった。左の扉を閉じて土で固定し、かんざしをはずし、正座せずに坐り、掃除をしなかった。」(呉語)
 夫人は喪に服するような生活をしたのです。そして、これは生死に係るような大事を為すときの縁起担ぎの習俗かと思えます。魏志倭人伝に「喪人の如し」と表された持衰と同じ意識でしょう。勾踐は夫人に対し、すれ違う形で横に並んで宣言していますので、それで始めて効力を持つようです。内政に責任を持つ大夫にも、同じような形で宣言していますから、これは決められた作法に基づく、神に対する誓いでもありました。おそらく、邪馬壱国の倭人が航海に出る際にも、持衰となる者に対し、このような形式の宣言がなされていたのでしょう。神はその宣言に基づいて判定を下し、旅行者の命運を左右することになります。魏志倭人伝の、「先に何を占うかを告げる。その言葉は令亀法のようである。」という記述に見られたように、口に出して、あらかじめ神の耳に入れておかねばならなかったのです。
 勾踐が呉征討の軍を発して三年、度重なる出征や大土木工事、食料難(*)で、その頃既に疲弊しきっていた呉は自壊してゆきました。《*/「稲蟹、種を残さず」とありますから、稲を切ってしまう蟹が異状発生したようです。》
 紀元前473年、「(この世のことを)死んだ者が知らないなら、それでいいが、もし死んだ者でも知っているなら、私は何の面目があって員(伍子胥)に会えようか。」という言葉を残して夫差は自害します。
 この後、越の支配を嫌い、指導者に率いられた一部の呉人が、朝鮮半島や日本に逃れて国を作っていたのです。
 勾踐は呉を滅ぼした後、淮水を渡って、斉、晋などの諸侯と徐州で会盟、周に貢ぎを献じ、伯(爵)の地位を与えられました。この時、越兵は江淮の東に横行し、諸侯は越を賀して、勾踐を覇王と呼んだといいます(史記)。しかし、竹書では、ずっと於越子と記されていますから、子(爵)であったのかもしれません。勾踐はさらに北上し、山東半島の南の付け根にある琅邪に都を置きました。
 越の成功と同時に、勾踐の執事、范蠡は斉に去り、大夫、種に手紙を送ります。「飛ぶ鳥がいなくなると、良弓はしまいこまれ、ずるい兎を取り尽くしてしまえば、猟犬は煮られます。越王の人となりは長頚烏喙(首が長く、カラスのクチバシ)です。これは、苦しみを共にすることはできても、楽しみを共にすることができない相なのに、あなたは、何故、越を離れないのですか。」種はこの手紙を読んで出仕を止めましたが、勾踐は種に剣を賜い、「お前は、私に呉を伐つ九術を教えた。私はその内の三つを用いて呉を破ったが、残りの六術は、まだ、お前の胸の内にある。私の為に地下の先王(允常)を助けて、それを呉の前人(闔廬)相手に謀れ。」という言葉を与えて、種を自殺させました。
 このように呉、越(南方系)では、死者の魂は地下の冥界へ行きます。北方系民族の天に昇るという思想とは正反対で、日本の記、紀ではその両者が混在しています。
 勾踐が卒した後、鹿郢が立つ。鹿郢が卒し、不寿が立つ。不寿は殺され、その子の朱句が立つ。朱句が卒し、その子の翳が立つ。翳の三十三年には、琅邪から呉に遷ったとあります。莽安、無顓と続き、無顓の後は無彊が継ぐ。無彊は斉や楚と戦い、楚の威王に大敗して殺害されました。
 「楚の威王は兵を興して之を伐ち、大いに越を破り、越王、無彊を殺した。浙江に至るまでの昔の呉の地をことごとく取り、北は斉を徐州で破った。こうして、越は散り散りになり、諸々の一族の子孫が争って立ち、王となったり、君となったりして江南の海に沿って住み、楚に服従し朝貢した。」というのが、越滅亡時の描写です。
 紀元前334年、呉、越を含めた中国南部は全て楚の所領となったのです。

3、呉、越の風俗に関する考察

史記「趙世家第十三」
  夫 翦髪文身 錯臂左衽 甌越之民也 黒歯雕題 却冠秫絀 大呉之国也
「それ、髪を切り、体に入れ墨し、腕を飾り、左衽の服を着るのは甌越の人々である。歯を黒くし、額に彫り物をして、小さな冠を被り、服を荒く縫うのは大呉の国である。」

 わかりにくい文で、古代から既にそうであったらしく、注がゾロゾロ入っています。錯臂左衽の意味は、その注を頼りに何とかたどりつけます。甌越の民は、体や腕に入れ墨しており、右肌を脱いで入れ墨を誇示したのです。左衽というのは、着物が左の肩から、たすき掛けにされていることを意味します。左衽(えり)しかないわけで、別の言葉で言うと右袒(右肌を脱ぐこと)になります。東南アジアの僧侶や、インドのサリーに似た形を思い浮かべれば良いのでしょう。西域も同じく左衽と表されていて、こちらは現在のチベット族等の、長袍(上着)の右袖に腕を通さないという着方に踏襲されています(右図)。
 「遠山の金さん」は、片肌を脱いで桜吹雪を見せる時、利き腕を自由にする右肩を脱ぎます。つまり、左衽して、文身、錯臂を誇示するという形になり、これは、遥かなる古代越人の伝統を受け継ぐしぐさのようです。
 注には、甌越は南越に属していて、秦の時代には西甌と呼ばれた国で、楚と同祖の「芊(セン)姓」であるなどとも記されていますが、戦国時代の趙が、呉と並べて話題にするのは勾踐の越に決まっています。戦国時代には南越は存在せず、その現在の広東省や広西壮族自治区のあたりは中国人の意識外の土地でした。
 竹書では、越は全て「於越(オヱツ)」と表記されており、於の代りに甌(オウ)が代用されただけのように思えますが、後に、越の地に東甌という国が生まれていますので、民族名に関係するのかもしれません。この場合は、ミャオ族、ヤオ族という苗系民族が候補に浮かび上がってきます。
 景初八年、狗奴国との戦いに苦しみ、帯方郡に救援を求めて派遣された邪馬壱国の使者は、「倭載斯烏越」となっていました。烏越は於越と同義です。載斯(サイシ、タイシ*)は官名か、あるいは、太子を意味するのかもしれません。最初の倭は中国側が付けたもので、烏越という国名が付されていることを見ると太子の可能性は強そうです。《*/載は戴に通ず。》太子なら、卑弥呼の死後即位したが、うまくいかなかった男王ということになるでしょう(卑弥呼の男弟ではありません)。
 このように、越では、「オ」という発声の言葉、意味のない接頭語が用いられていました。現在の日本語でも、お弁当、お金、お正月等、普通に使われています。これは越系言語の名残で、そして、この形をお上品とするのは、越系の身分が高かったことを示しています。対する、呉の接頭語は「コウ」、「ク」で、楚の接頭語は「ア」だったようです。どちらも日本語にその片鱗を見つけることができます。
 大呉の国の特徴、「黒歯」を「おはぐろ」に結び付けるのは容易です。雕題は額に入れ墨することで、文選、呉都賦にも、「雕題の士、鏤身の卒」という言葉があります。おそらく、文選の記述は、三国時代の江南を支配した呉の風俗で、額に入れ墨する呉人の身分が高く(士)、身に龍蛇を入れ墨する越人の身分が低かった(卒)ことを示しているのでしょう。《注…呉の王家、孫氏は、春秋時代の呉王闔廬の軍師、孫武の子孫かという。この人は孫子の兵法で名高い。》
 「却冠秫絀」の却(キャク)は、「節制する、しりぞく」という意味がありますし、洛陽伽藍記、巻二には、「呉人は冠帽を小さく作り、衣装を短く製す。…口は檳榔を嚼む。…」という記述が見られますから、却冠は小さな冠と解釈できます。檳榔の実を噛むと歯が黒くなるそうですから、呉人が黒歯ということもまた間違いありません。山海経、海外東経の注にも、「西屠(*)が歯を染めるのは、この国(=東海の黒歯国)の人に倣ったものである。西屠は草を以って歯を染め、白を染めて黒となす。」という記述が見られます。《*/西屠=ベトナムに存在した国》
 三国時代の呉が、晋に破れた時(280)、ベトナム方面に逃れた呉人が大量に存在し、その習俗が伝わったと解せばいいようです。このように、ベトナムは、呉人と先住のマライ・ポリネシア系民族等が融合して生まれた国です。したがって、ベトナム語やその風俗を探れば、日本と共通するものが見いだせるはずです。
 戦国策(趙策)では、「却冠秫絀」が「鯷冠秫縫」となっていて、大ナマヅの皮で冠を作ったのだとしています。 これは同じものを別の角度から表現しただけで、大きさに注目するか、材料に注目するかの違いでしかないように思えます。合わせて、呉人は大鯰の皮で小さな冠を作っていたと解釈できます。
 この鯷冠を鮭冠とする一本もあるということで、鮭は、中国では、サケではなくフグを意味していますから、呉人はフグ皮の冠もかぶっていたかもしれません。フグとナマヅは、ずんぐりで、ウロコが無く、ぬめぬめして何か印象が似ています。秫縫は、長い針で縫い目の荒い服を縫ったのだとされています。
 以上を総合すれば、呉人は縫い目の荒い、そして、丈の短い服を着て、大鯰かフグ皮の小さな冠を被っていたことになります。
 「魯人で冠作りが得意で、妻は履(クツ)織りの上手な者がいたが、越に引っ越して、大いに困窮してしまった。その得意とすることを不用にしている土地では、求めることを得ようとしても難しいのである。」という記述が淮南子、説山訓にみられます。越では、冠作り、履物作りで生計を立てることはできませんでした。つまり、越人は冠を被らず、裸足で暮らしていたわけです。

 爾雅、釈地
「中に枳首蛇あり。」(晋、郭璞注…岐頭蛇なり。あるいは言う。今、江東は両頭の蛇を呼びて越王の約髪となす。また、弩弦と名す。)

  江東(呉)では、両頭の蛇を越王の約髪や弩弦と呼んでいました。約髪は束ねた髪という意味ですから、越王は両頭の蛇型に髪を束ねていたことになります。これはTを逆にした⊥という形で、紐で両端をくくって垂れ下がらないようにしていたと思えますから、弩弦と表現することも可能です。そして同時に、魋結(椎髻=槌形の髷)という髪型にも重なってきます。漢書の西南夷両粤朝鮮伝では、椎結に、唐の顔師古が次のような注を入れています。「師古曰く、椎の音は直追の反(*)、結は読みて髻(けい)という。髻を椎の形の如く為すなり。陸賈伝及び貨殖伝は皆、魋の字に作る。音義は同じ。耳この下。朝鮮伝また同じ。」《*/椎/直追の反=ChokuとTuwiを合わせてChuwiとなる。これはチやシイに転化しそうです》
  鍵になるのは、「耳この下」という文で、耳が下にあるということは、椎髻がその上にある。槌のような形に束ねた髪が耳を覆っていたのです。武人埴輪に数多く見られる髪型で、これも日本からその具体像を掴めます。(右/倭人支配者階級の想像図 )
 椎髻(魋結)や越王の約髪とは、一体で、頭部が二つに分れた蛇形に描かれる苗系民族の祖神、伏犠、女媧の姿を写したものに他なりません。魋が鬼と椎を組み合わせて作られているのは、鬼道との関係を示しているのです。そして、これを「越王の約髪」と呼ぶ呉人は、この髪型ではないということもまた、同時に教えてくれるわけです。呉が、寿夢の代に、椎髻を俗となす自らを恥じて、周の礼制を採り入れたらしきことは既に指摘しました。
 「越の習俗では、珠を以って上宝としている。女を生めば之を珠娘といい、男を生めば之を珠児という。呉越の間の俗説では、明珠一石は玉の如く貴いとする。合浦には珠市がある。」(述異記)
 呉越では、このように珠玉を宝としていました。タマ(真珠)のような娘、タマのような子という表現は日本語と共通です。ここでは女、男という順に記されていて、呉、越人が苗系民族であることもまた示唆しています。《注/ミャオ、ヤオ語では女を先に言う》
 呉語に、「今、呉の民は既に疲れ、土地が荒れ果てて飢饉が続いています。市には赤米が無く、国の倉庫も空っぽです。その民は必ず、蒲蠃に就いて(貝を求めて)東海の浜に移っているでしょう。」という言葉がありますから、呉では赤米が主食だったようです。越語に、「稲蟹、種を残さず。(呉の飢饉を語ったもの)」という記述もあり、水田耕作の民ということになります。赤米は古米のことだと注されていますが、注者が赤い米の存在を知らなかったのではないかと疑わしいのです(*)。呉人が日本に渡来していたことは、自ら名乗っていたくらいで明らかですし、弥生時代初期の米は赤米だったとされていますから、これも日本から正解を出せるのではないでしょうか。《*/倉庫に赤米がないというなら、保存してあった古米の可能性が強くなりますが、日常取引の場である市に赤米がないというのですから、赤米そのものが一般的に流通していたと考えられるのです。》
 対して、越は粟が主食だったようです。こちらは焼畑の民族です。「越が粟を返すと(*)、呉王、夫差はその見事さにため息をつき、呉でその粟を種蒔かせたところ、蒸して殺した粟だったので、芽が出ない。呉は大いに飢えた。」という旨の記述が呉越春秋にあります。《*/飢饉に瀕していると騙して、呉に粟を援助してもらっていた》


  《 》内は日本の風俗、伝承   【 】内は魏志倭人伝の記述
日本
額に入れ墨(雕題)《?》 文身(入れ墨) 【黥面文身】
黒歯………《おはぐろ》 塗面 【おしろいの様に朱、丹を塗る】
小さな冠(鯰皮、フグ皮 冠を被らない 【露紒+はちまき】
服は荒く縫う。裾が短い《?》 左衿 【結ぶだけでほとんど縫わない】
跣足(裸足) 【徒跣】
被髪、翦髪
(前髪を額で切りそろえる)
【被髪屈紒(女子)】
越王の約髪=両頭のヘビを模した髪型(椎髻) 埴輪武人像
《赤米》
オオナムヂ神(蛇)
珠、玉を宝とする 珠、玉を宝とする 珠のような娘、子
接頭語はク 接頭語はオ ク栗、ク刺? お上品

 鯰皮の小さな冠は、山伏の兜巾のようなものを想像すれば良いのでしょうか。以上が中国の文献から明らかにできた呉越の風俗ですが、越は魏志倭人伝の邪馬壱国の風俗にほとんど重なっています。

4、楚の歴史

史記「楚世家第十」
「楚の先祖は帝顓頊高陽から出た。高陽は黄帝の孫で、昌意の子である。高陽は称を生み、称は巻章を生み、巻章は重黎を生んだ。重黎は帝嚳高辛の為に火を司る官(火正)となって、甚だ功があった。その功はあまねく天下にゆきわたり、帝嚳は重黎を祝融と呼ばせた。共工氏が乱を起こすと、帝嚳は重黎にこれを討伐させたが、その命を果たすことができなかったので、帝は庚寅の日に重黎を誅罰し、その弟、呉回を重黎の後継者とした。同じく火正に就いて、祝融となった。」

 荊楚歳時記には、「五経異議にいう。…祝融は竃神となる。姓は蘇(ソ)。名は吉利(キッリ)。…」とあり、楚の始祖、火正の祝融が竃神になったことを記しています。
 祝融という文字を分析すれば、「炊飯の蒸気が上に出るのを祝う」という意味になり、確かに竃に関係しています。火正というのもそういう役職だったのでしょう。「祝融は天地の光をあきらかにあらわして、しなやかな良い材木を生んだ者である(鄭語)。」ともされているので、植林とも結び付いています。火正は今風に言えば、「資源エネルギー大臣」ということになりそうです。
 「呉回は陸終を生んだ。陸終は六人の子を生んだ。母親の体を裂いて生まれた。……第六子を季連といい、羋(ビ)姓で、楚はその後裔である。……」伝説では、母親の右脇をひらいて六人の子が生まれたといいます。楚は第六子、季連の苗裔で、姓は「羋(ビ)」とされていますが、同じ楚世家に芊(セン)姓とする記述もあり、史記の中でバラバラに使用されています。通説は羋姓をとりますが、私見では芊(セン)姓です。季連の後、何代もの王名が続けられています。熊延、熊勇、熊厳、熊霜、熊徇、熊咢、熊儀等、ほとんどに熊という文字が含まれていて、熊が入っていないほうが例外です。おそらく、この一族は熊をトーテムとしていたのでしょう。
 「熊繹は周の成王の時にあたる。成王は、以前の文王、武王時代に貢献のあった氏族の子孫を取り挙げて用いたので、熊繹は楚蛮に領土を与えられ、子(爵)や男(爵)と同じくらいの田地を与えられた。姓は羋氏。丹陽に住んだ。」
 こうして、楚は南方に拠点を得ました。呉の建国と時代的にはほとんど変わりません。季連の芊姓(羋姓×)の同族には夔、越、蠻芊があります。夔は楚の西隣の国ですが、祖先の祝融、鬻熊を祭らないことをなじられ楚に滅ぼされています。

 

 長江中流域の丹陽からその第一歩を踏み出した楚は、次第に強盛となりました。(楚の)文王は都を丹陽から、長江を少し下った位置にある郢(エイ)に移し、成王の代には、南方千里の地を領有するまでに発展しています(BC634)。

 

 恵王十三年、呉王夫差が強く、楚を伐ちましたが、わずか三年後、呉は越に敗れて滅びます。恵王の母は越人《*/勾踐の娘ともいう》なので、楚と越は親密だったでしょう。しかし、越は呉の領有していた長江、淮水の北には勢力を伸ばせず、海岸部を山東半島の琅邪にまで進出していただけだったようで、その内陸部の空隙は楚が東進して埋めることとなりました。威王の時代になって、越王無彊が楚を攻めましたが、これを逆に攻め滅ぼします。懷王の頃には、秦に対抗するか結ぶかという合従、連衡の同盟関係を作るべく、蘇秦、張儀が各国を目まぐるしく動き回って活躍しています。楚(荊)は秦に押される一方で、領土を奪われ、東へ東へと追い詰められてゆきました。

 

 以下、史記「秦始皇本紀」の記述です。「二十四年、王翦、蒙武は荊(=楚)を攻め、荊軍を破る。昌平君死す。項燕は遂に自殺す。」「二十五年、……王翦、遂に荊、江南の地を定め、越君を降し、会稽郡を置く。」紀元前223年、ついに楚と越君はたたきのめされ、秦が江南の地を平定したのです。

5、楚のトーテムと言語

 屈原の楚辞には「橘頌」という橘をほめ称えた詩があります。橘を称えたというより、「楚王に、どんなに冷たくあしらわれようとも、私は、古の伯夷のように清廉で心を揺るがさない橘を手本にして、その忠節を変えない。」という自らを励ます歌です。
  
 「后皇嘉樹 橘来服兮  受命不遷 生南国兮」
  楚の君の嘉する木、橘は来たりて服し、命を受け(他国に)遷らず、南国(楚)に生える。

 橘は、淮河を越えて北へ行けば枳(カラタチ)に変ってしまうとか、江北にゆけば、化して橙になるとか言われている木です。つまり、当時は楚が独占していました。国が荊や楚と表され、橘を后皇が誉め称えるのです。荊、楚、橘という、「トゲのある潅木」が、楚人と密接に結び付いています。(荊、楚はイバラという意味)

 荘子、秋水篇
「荘子が濮水で釣りをしていると、楚王が大夫二人を派遣して、楚に仕えるようにもちかけた。荘子は尋ねた。『楚には、死んでから三千年にもなる神亀が、布に包まれ箱に入れられて、廟堂の上に納められていると聞きます。しかし、亀は死んで骨を大事にされることと、生きながら尾を泥の中に引きずっていることのどちらがいいでしょうか。』
 使者は『生きて泥の中に尾を引くことでしょうね。』と答えた。『お帰りください。私も、今、尾を泥の中にひきずっているんですよ。』と荘子は言った。」

 荘子の寓話には、常に何らかの下敷きがあるようです。ここでは、楚が亀を祭っていた様子がうかがえます。

 荘子、徐無鬼篇
「呉王は江に浮かび、猿(原文、狙)の山に登った。多くの猿は驚いて深い茂み(原文、深蓁、シンシン)の中に走って逃げたが、一匹の猿が悠々と木の枝をつかんで、王にその巧さを見せびらかすようであった。王がこれを射ても、すばやく矢をたたき落とした。そこで、供をしていた者(原文、相者)に命じて射させると、猿は木から落ちて死んだ。王は友人の顔不疑を振り返って言った。『この猿は、その巧さを誇り敏捷さをたのんで、予をからかったためこういう目にあった。これを戒めよ。ああ、君は尊大な顔をして、人に驕ってはいけないよ。』……」

 何故、呉王をあざけって殺されたのが猿なのでしょうか。野生動物が実際にこういう行動をとることはあり得ません。呉が江に浮かび達することができる土地は楚で、呉王闔廬は、楚から亡命してきた伍子胥(相者)を用い、楚を滅亡の寸前にまで追い詰めたことがあります。楚は秦に救援を求めて(深蓁に逃げ込む)、ようやく助けられたのです。楚を狙(猿)と表現しているのではないでしょうか。
 楚と同族に夔(Kui)という国がありました。夔は、「人面猴身一足で能く言う」とされる神を表す文字です。また、楽器の演奏も得意でした。「牛のような形で青い体、角がなく、一足、水に出入りすれば必ず風雨がある。その光は日、月の如し、その声は雷の如し」という別伝もあります(山海経)。あるいは、木石の怪ともいいます(孔子家語)。
 一足は蛇トーテムを意味しますから、夔の要素として、蛇、猿(猴)、牛、青、雷電(日月の如き光=稲妻)、石、木、楽器があります。これは楚自身のトーテムでもあったのではないでしょうか。日本語になればクィと発音されることになります。
 秦を滅ぼした楚の項羽は、「関中(秦の故地)は守りやすく、土地も豊かで、都とするには最適です。」という韓生の主張に対し、「富貴になって故郷に帰らないのは、奇麗な着物を着て夜行くようなものだ。」と答えます。韓生は、「楚人は猿が冠を被っているのだ(沐猴而冠)と人は言うが、果たしてその通りだ。」との言葉を吐いて、項羽に煮殺されました(漢書、項籍伝)。楚人を猿トーテムと解せば、韓生のこの言葉が理解しやすいのです。沐の意味は、洗うことや濡れることですから、「沐猴」とは、水浴びをする猿の意味になります。これは、楚人が猿の水神(猿蛇、猿龍)を祭ることから生れた言葉かと思えます。
 以上の伝承から、楚のトーテムを整理すると、猿、牛、蛇、雷電、青、石、楽器、亀、橘ということになり、それに、熊や竃神の祝融も付け加えなければなりません。
 楚人の基盤は、呉、越と同じく、荊蛮と表された苗系民族でした。初期の楚王(熊渠)自身が、我は蛮夷だと語っていますし、言語にもその痕跡が残っています。
 楚辞、天問には、「雨の神はどういうふうに雨を起こすのだろう。」という句があり、その後に、「撰體脅鹿 何以膺之」と続いています。「鹿を合わせた体をそなえ、何を以ってこれに応じる。」と読めばいいようで、「両頭の鹿の体を持つ風の神は、どうしてこの雨の神に呼応するのだろうか。」という意味になります。語順は「そなえる、体、鹿を合わせた」となっていて、体を形容する脅鹿が後ろに置かれているのです。「驚女采薇、鹿何祐 北至回水 萃何喜」という句もあり、「采薇の女を驚かせ、鹿は何をたすく。」と読み下せます。ワラビ取りの女が鹿に驚いて、北の回水まで逃げたところ、そこで何か良いことがあって喜んだという伝承を語ったものらしいのですが、體脅鹿と同じ形で、修飾する采薇と被修飾語の女の位置が、漢語とは逆です。また、龍虬という表現もあり、被修飾語+修飾語という形で、漢語の語順なら虬龍ですから、これも逆転しています。楚辞を捜せば他にも見つかるかもしれません。これは、楚に古くからある言い回し、苗系語順がそのまま表出したものでしょう。
 しかし、戦国期には、楚辞のほとんどの句がそうであるように、ほぼ漢語化していました。楚の将軍、荘蹻は雲南に「滇」を建国しましたが、その後裔が、唐代に、松外諸蛮と表されています。西洱河のあたりに居住し、言葉は、少し訛りはあるが漢語に近いとされているので、やはり、楚の言語は漢語方言と扱って良いようです。松外諸蛮は現在のぺー族の祖先かと思えます。
《注…滇国/秦が南下して巴、蜀や楚の西部を奪い、楚は東方の寿春に移動しました。そのため、当時、雲南を攻略していた将軍、荘蹻は帰路を断たれ、仕方なく滇に引き返して国を建てたといいます。後裔が、漢の武帝の頃、滇王の印という蛇紐の金印を授けられ、それが滇池近くの古墳から出土しています。奴国の金印にしても、滇国にしても、祖先の中国王侯という地位がものをいったようです。越の後裔、邪馬壱国も金印紫綬です。》

 説苑、説善篇には、楚の令尹(=相)、鄂君子皙が越人の船頭の歌を理解できず、楚の言葉に翻訳してもらったという記述があります。呉、越は言葉が通じるとされていましたが、同じ苗系民族でも、地理的に中原との接触の多かった楚は漢語化し、呉、越とは相通じなかったのです。
 したがって、呉、越は古来の苗系言語が色濃く、呉には太伯、仲雍のもたらした北方アルタイ系(羌族系)要素が加えられていたと想定できます。
 越が苗系言語ということは、邪馬壱国が苗系言語ということになり、被修飾語の後に修飾語が続く、その語順の痕跡を「記、紀」に見つけることができます。彦ホホデミ命(←→大彦命)、秀真(ホツ・マ=真に優れたという意味。アルタイ系語順ならマ・ホツ)などがそうで、媛タタライスズ媛命に至っては、苗系とアルタイ系語順の両者が共存しています。そして、「妹背」、「めおと」と女性を先にいう語順もそうなのです。魏志倭人伝の「載斯烏越」も、「太子+於越」で苗系語順と考えられます。王の称号らしき「卑弥」が前にあり、「呼」という名が続くのも苗系語順です。
《注…卑弥呼=コという名の卑弥。コは蚕を意味するのではないでしょうか。狗奴国男王、卑弥弓呼素=キュウコソという名の卑弥》

6、日本語にみる楚人渡来の形跡

 楚の古典文学、屈原の「楚辞」は、兮(ケイ)という語を多用していることに特徴があります。兮は句調を整えたり、感情を表わす間投詞として用いられるもので、項羽が劉邦の漢軍に包囲されたとき歌った、有名な「抜山蓋世」の詩にも含まれています。ついでに音も記しておきます。(但し呉音)

  力抜山兮気蓋世   力、山を抜き(ケイ)、気、世をおおう
  時不利兮騅不逝   時、利せず(ケイ)、騅ゆかず
  騅不逝兮可奈何   騅ゆかず(ケイ)、如何すべき
  虞兮虞兮奈若何   虞(ケイ)、虞(ケイ)、汝を如何せん

  リキ バチセン   ケイ   ケ ガイセイ
  ジ  フ  リ   ケイ   スヰ フ セイ
  スヰ フ セイ   ケイ   カ ナイ ガ
  グ ケイ  グ   ケイ   ナイニャクガ

 こうすれば、少しばかりこの時の気分を感じ取ることができるかもしれません。そして、この人もまた楚人なのです。こういったことから、楚人は日常生活でも兮をよく使ったのではないかと思えてきます。荊と表記されるのも理由があったのではないか。
「大隅肝属郡方言集(*)」の一部を引用します。ここは曽於と呼ばれた土地です。 《*/柳田国男編、野村伝四著、国書刊行会》
 
「ケイ  動詞の下につける助詞。気取った人が往々使う。ユタケイ……言ったんだ。 キタケイ……来たんだ。スルケイ……するんだ。」

 これは、おそらく、語調を整える兮でしょう。このケイが転訛してケンやケ、カになり、「やるケンね」などと、現在でも面白おかしく使用されているのではないでしょうか。
 陶淵明の「帰去来の辞」冒頭に、「帰去來兮」という句があります。「かえりなん、いざ」と翻訳されていますが、河内弁に改めれば、「さあ、帰ろケー」となりそうです。「さあ、帰ろう」という言葉と意味に相違はありませんから、この「ケー」は語調を整えているだけの語です。けんかの時に「やったろケー」と怒鳴るのは、項羽の句のように感情がほとばしり出たものです。方言とされているこのような言葉は、楚の伝統を受け継ぐのではないか。ガラが悪いと感じるのは、いくつかの民族の言語が混合して生まれた日本語の、中軸となった言語と異なるからでしょう。つまり、言葉はさげすまれ、民族は下層に置かれたのです。
 三国史演義では、蜀の南方、現在の貴州、雲南省あたりの住民である南蛮王、猛獲の夫人の名が祝融夫人となっていて、祝融の子孫と名乗る楚人の血を引くことを暗示しています。これは滇国を建てた荘蹻の後裔ということにもなります。また、祝融夫人の弟は帯来(たいらい)洞主とされ、その楚人がタイと呼ばれる民族であることもまた示唆しています。この民族は後にインドシナ半島まで南下し、土地の先住民と融合してタイ国を作りました。したがって、日本に楚人が渡来していたなら、日本語とタイ語にも何らかの類縁関係を見出せるはずです。
 三国志演義は小説で、正確な歴史の証言というわけにはいきませんが、南蛮と表された蜀南方の地理、風俗を詳しく描写していて、その中には、現在でも雲南の中国少数民族間で見られる水懸け祭りなどの風俗に結び付くものがあります。したがって、何らかの頼りになる資料に従ったことは確実で、祝融夫人や帯来という名も信用していいように思えます。以下はタイ語から説明しなければ解けない日本語です。
●大隅肝属郡方言集では、青大将のことを「ウグッナオ」としていますが、これはタイ語で蛇を意味する「ングー」と「アオ」の合成されたもので、「蛇+青い(=緑)」という意味になります。文法もタイ的(=苗的)です。古代は緑と青が区別されていませんでした。青を意味するタイ語はシー・ファー、あるいはシー・ナムングンですが、緑がシー・キアオとなっていて、こちらが日本語のアオに対応しています。(シーは色を意味する)
●ナームは水を意味しますが、動詞化すると「舐むる」という言葉になります。水(唾)で濡らすことを意味しているのです。「飲む」という言葉もナムに関連する語でしょう。水面のうねりを「波(ナミ)」といいます。「生(ナマ)」はみずみずしい状態を表します。タイ語のナムターは「水+目の」という語順で、日本では「なみだ」です。長野県に奈川という川がありますが、これは水という意味の「ナム」から転訛した「ナ」が、そのまま川の名前になって定着したと解することが出来ます。滑川もそうかもしれません。ミナ(水)も巳(御)+ナでしょう。したがって、オオナムヂ(大己貴=大国主、大物主)という神名も、オオは美称で、ナは水、つまり、水の神という意味になります。蛇の姿を持つ雷神の別名としてふさわしい名で、大己貴と書かれていますが、己は巳の誤りかもしれません。しかし、己(おのれ)を蛇の属と考えるなら、己と巳の区別の必要がなかったとも言えるようです。
 そして、難波(なには)は、「水の庭」という意味になり、これは、古代の大阪に存在した河内湖を指す言葉になります。難波には、「津の国の」、「葦が散る」、「押し照るや」の三つの枕詞があります。「津の国の」は当時の大阪の呼び名で、港が設けられて繁栄していたことを示していますし、水の庭には葦が群生していたにちがいありません。「押し照るや」は、光り輝くという意味ですから、河内湖の水面の光の反射の美しさを称えた言葉になります。生駒山地から見下ろせばさぞ見事だったでしょう。「波が速いから波速の国とした」という神武紀の記述を鵜呑みにすれば、この枕詞は解釈不能です。
 筑紫の儺県も水の県という意味に解せられ、紀ノ川河口部の名草も水の豊かさに基づくと考えられます。「なづく」は水に漬かるという意味ですし、雪崩(ナ+ダレ)は水のように流れ落ちることを表しているのでしょう。「いな(水稲)」、「さかな(魚)」の「な」も水に関係しているのではないでしょうか。
●タイ語で雲をメークといいますが、東雲と書いて「しののメ」と読むのも偶然とは思えません。雲が「モクモク」、「ムクムク」と出ることにも関係するでしょう。「めきめき」もこの派生語です。出雲の「モ」もこれに由来するようで、クモは「接頭語のク+モ」と分解できます。

 先に、楚は漢語化していることを述べており、「ウグッナオ」など、文法的に矛盾を生じますが、北方の王侯、貴族階級の公用語が漢語方言で、南方の庶民は、昔からの苗系あるいはタイ系言語と扱えばこれを解消できます。楚は広大な国で、そう解釈するほうが自然なのです。

7、岡県主は楚人か?

 話は変わって、仲哀紀に移ります。ここには、「熊襲が叛いて朝貢しなかったので、熊襲の国を討とうとした。」という記述がみられます。熊トーテムの楚人なら、熊襲と呼ばれても不思議はないでしょう。

「(仲哀天皇の)八年、春、正月二十八日に筑紫においでになった。その時、岡の県主の祖先、熊鰐が、天皇のお出ましを聞き、よく茂った枝の多い榊を抜いて、九尋の船の舳先に立て、上の枝には白銅鏡、中の枝には十握剣、下の枝には大きな玉を掛けて、周防国の佐波浦(山口県防府市付近)に参上して迎えた。熊鰐は天皇を案内し、山鹿岬を回って岡浦へ入ったが、水門に到ると船が止まってしまった。天皇が『なぜ、進まないのか。』とお尋ねになると、熊鰐は、『この浦の入口に大倉主とツブラ姫という神がいて、きっとこの神の仕業でしょう。』と答えた。そこで、天皇は伊賀彦という人物にこの神を祭らせ、ようやく船を進めることができた。」

 背いた熊襲の一族、岡県主の祖、熊鰐は、自ら周防までおもむき、三種の神器を捧げ、恭順の意を表して天皇を迎えました。しかし、遠賀川河口部、西岸の芦屋あたりに、大倉主という敵対勢力があり、それを伊賀彦の説得で帰順させたということになるようです。《注…当時の岡県主は遠賀川東岸を所領としていたようです。》
 しかし、何故、岡県主の名として熊鰐が選ばれたのでしょうか。実名では有り得ず、紀州の田辺にも南方熊楠という人がいましたが、これはやはり、楚の伝統を引いているように思えます。もし、熊襲が楚からの亡命者なら、同様に「クマ」や「ソ」に関連する球磨、阿蘇、曽於、熊野なども楚人の開拓した土地という可能性が強くなってくるのです。そして、楚王の祖先は、祝融という火の神、竃神とされていて、熊本県も古代は「火の国」と呼ばれていますから、ますますその感が強まります。
 「阿」の意味は「折れ曲がって入り込んだ所、奥まった所」ということなので、阿蘇は「奥まって隠れた所にある楚」とも受け取れるし、各地にアソという地名が見られることから、「阿」を単なる接頭語と解することもできます。また、阿は「くま」と読まれるので、熊襲と解することも可能です。
 どういうわけか、熊襲は九州南部に居住した野蛮な部族という 印象を植え付けられてしまいましたが、「紀」では、神功皇后は福岡県、中、南部の熊襲を帰順させ、あるいは攻め滅ぼして、北九州を統一しています。
 夜須郡の荷持田村(甘木市野鳥、似鳥付近)にも、羽白熊鷲という名前に熊を含んだ首長がいました。甘木とは橘のことで、これも楚のトーテムと扱ったものです。
 皇后は御笠(太宰府付近)から南下して夜須郡、さらに西の山門郡へ進んで、熊襲を討っていますから、この頃、福岡県南部は、熊襲(楚人)が首長階級となって支配していたようです。

8、江南の地名と日本の地名の比較

 人々は地名を持って移動する。ニューヨークしかり、ニューイングランドしかり。そう思いながら世界地図を見回したところ、スペイン系の土地では、聖人の名を冠したものこそ数多くみられますが、居住地名を移すということは行わないようです。これは特定の民族だけが持つ習慣なのかもしれません。
 日本では、地名は新天地への移住に連動していたようで、各地に同じ地名を見つけることができます。もし、倭人が中国に出自を持つ民族なら、その性癖から考えて、中国から日本へ地名を移してきた可能性を認めても良いでしょう。
 以下は、三つの国が、その時々で、攻めたり攻められたり、互いに奪い合っているので、この国と特定できないものもありますが、主として、史記の呉、越、楚、三世家に記されたものです。日本の地名との類似を探ってみます。
 地名は、江南の発音を漢人が表記したものか、それとも、江南人が漢字表記したものを採り入れたのか、どちらかが解りません。前者なら漢音で読み、後者なら呉音で読むことになります。二つの表記があるものは、かなが漢音、カタカナが呉音です。一つしかないものは共通の音を持っています。

 呉…延陵(えんりょう)、朱方(しゅはう)
   雩婁(うろう、ウル)、姑蘇(こそ、クソ)
   浙江(せきかう、セチカウ)、笠沢(りふたく、リフジャク)、卑梁(ひりょう)

 「雩婁」…呉音のウルなら潤、潤野、潤ケ野。「姑蘇」は、呉の王城のあった土地とされています。勿来や名古曽、古曽部などの地名が日本の各地にみられるのですが、崇神紀には、「はかま屎の処をクソバカマという。いまクスバと言うのは言葉が訛ったものである。」と記されています。これは戦いに敗れた軍勢が、脅えて恐怖のあまり、脱糞しながら逃げた様子を語った後に続く文です。単なる語呂合せなので、この描写を真実と扱う必要はありませんが、「クソ」が「クス」に訛ったとしていて、実際、姑蘇の呉音「クソ」は容易に「クス」に転訛します。そして、それに係る地名ならたくさん有りそうです。また、「クサ」もそうではないかと疑っています。紀ノ川河口周辺に散らばる名草、楠見、楠本、来栖。滋賀県の草津などに、その可能性があります。三重県にも楠町があり、隣接する四日市市に小古曽(オコソ)が見られますから、本来は一つの「コソ」という集落だったのでしょう。大阪の楠葉も、福山市の草戸もこれに含めることが出来ます。こうしてみると、狗奴国の貴志川町神戸(コウド)には古代の国名が保存されていただけで、姑蘇に係ると推定した地名が四つも重なっていますから、都は紀ノ川河口部にあったとするべきかもしれません。ただ、貴志川に面した大国主神社と紀の国造、荒河戸辺の存在は非常に重たい。
 全てが該当するとは言えないにしても、コソ、クス、クサは捜せば驚くほど各地に広がっていますから、都ではなく、単なる集落を意味する言葉と解せば問題はありません。沖縄の城を意味する言葉、「グスク」とも関連するようです。狗奴国男王、卑弥弓呼素の呼素(コソ)もこの地名と考えられます。卑弥(王を表す称号)+弓(姫)+呼素(居住地名)と分解できます。
 「卑梁(ひりょう)」は広に通じるでしょうか。「りょ」は「ろ」に転訛しやすいようで、呉王の闔廬(かふりょ)も呉音で読めば(カフロ)です。和歌山県に広川町広がある他、広島県にも広があります。広(ヒロ)を北方人が文字に表わせば卑梁になったということか。また、呉には松江という川があって、島根県の松江という地名に一致しています。鱸が名物というのも共通です。

 越…夫椒(ふせう)、会稽(くわいけい、エカイ or くわつけい、クワチカイ)
   豫章(よしやう、シャシャウ)、檇李(すいり、ズイリ)、姑蔑(こべつ、クベチ)

 「会稽」……会を(かつ、カチ)と読めば、勝につながりそうです。越の温州には、「甌江」という川がありますが、出雲の「意宇川」に対応しており、これは確実と思えます。

 楚…居巣(きょさう、コゼウ)、鍾離(しょうり、シュリ)、六(りく、ロク)
   潜(せん、ゼン)、舒(じょ、ソ)、雲夢(うんぼう、ウンム)
   郢(えい、ヤウ)、隕(うん)

 「鐘離」…呉音でシュリ。沖縄県に首里があります。また、修理(しゅり、スリ)と表わされる土地にも一致します。「郢」は楚の首都でした。兵庫県に江井ヶ島、江井(淡路島)、鹿児島県揖宿郡に頴娃があります。ここから、楚人は魚のエイを尊ぶかもしれません。
 他、楚には次のような地名が見られます。
  方城(はうせい、ハウジョウ)、城父(せいふ、ジョウブ)、稷(しょく、シキ)
  白(はく、ビャク)、魯陽(ろやう)、商(しやう)、於(お、ウ)
  析(せき、シャク)、番(はん、ボ(バ)ン)、鄂(がく)、申(しん)
  陘山(けいさん、キョウセン)、乾谿(かんけい、カンカイ)
  不羹(ふうかう、フキョウ)、巫(ぶ、む)、鄧(とう、ドウ)
  穣(じゃう、ニャウ)、宛(えん、オン or うつ、ウチ)
  黔中(けんちゅう、ゲンチュウ)、酈(れき、リャク)
  西陵(せいりょう、サイリョウ)、宗胡(そうこ、スゴ)
  寿春(しうしゆん、ジユシユン)、夏路(かろ、ゲロ)、龐(はう、バウ)
  州(しう、シユ)、長沙(ちゃうさ、ヂャウシャ)、竟沢(けいたく、キョウヂャク)
  蒼梧(さうご(ぎょ)、サウゴ)、重丘(ちょうきう、ジュク)
  鄀(じゃく、ニャク)、鄢(えん)

 中国南部の河川は長江、龍江等、江という文字で表わされていて、日本でも「江の川」や「神ノ川(こうのかわ)」などにその痕跡が残っています。これは、南方系の人々が水の流れを表わすのに使った「コウ」と、「カワ」を重ねたもので、川の川という意味になります。「カワ」いう呼び名が広がって優勢になり、コウと呼ばれていた元の意味を見失い重ねられてしまったものでしょう。「コウ」は川ですから、甲賀、古賀なども川沿いの土地を意味する地名のようです。そして、カワの方は中国の華北の言葉、「河(カ)」につながっているらしく、遣唐使以後の新しい言葉と解することができます。
 漢代に、ベトナム北部は交阯(コウシ、ケウシ)郡となりましたが、それは高志に対応するのではないでしょうか。交阯の文字を分析してみれば、丘が止まって交わる所という意味ですから、必然的に丘に沿って流れていた川に挟まれる土地になります。河内と同じ意味のようです。江南人は川に挟まれた土地をコウチやコウシと呼んだ。そのコウシが越(コシ)に転訛したとすれば、九頭竜川流域などがうまく合いそうです。該当しそうな地名に河内、高知、越、合志、オーチ(落)などがあります。
 以上、日本の地名が古代から継続しているかどうかはっきりしませんし、漢字という同じ文字で表わされるので、少し割り引かねばならないにしても、呉、越、楚、三国の地名の一部が、日本の地名に対応しているという感触は得ることができました。

9、堂谿氏(呉系楚人)の渡来

 堂谿 (たうけい、ダウカイ)
「堂谿」は、呉音の「ダウカイ」と読むなら、福岡県に洞海湾があります。「紀」は洞をクキと和訳しています。筑前国風土記逸文に「クキド」と表されていますから、元々「クキド」と呼ばれていた海に洞の文字を当てたのだと思われます。「岫(クキ)」という文字があって、それを用いれば済むはずですし、気に入らないなら、万葉仮名で久岐と書けばいい。それなのに、ホラと読むべき「洞」を無理にクキに当てている。これには何か特別な意味が込められているに違いありません。
 堂谿氏は、呉王闔廬の弟、夫概が楚に逃れ、所領を与えられて始まりました。権力闘争に敗れて楚に移住した呉人です。したがって、姓は呉王と同じ「姫」で、母系から楚の要素が入り込んだと考えられます。神の祭りは、呉と楚を合わせたものになるでしょう。堂谿は元、房子国で、呉を封じた為、呉房とも呼ばれています。洞海湾付近の領主もその後裔というわけで、これが先に登場してもらった岡の県主なのです。
 「仲哀紀」
 皇后別船 自洞海(洞此云久岐)入之 潮涸不得進 時熊鰐更還之 自洞奉迎皇后
「皇后は別の船で、洞海 (洞、これはクキという) より岡に入られたが、潮が涸れて進むことが出来なかった。その時、(岡の県主)熊鰐は改めてここに引き返して、洞(クキ)から皇后を迎え奉った。」

 穴門の豊浦宮(下関市)を出た神功皇后の小舟は、仲哀天皇の船と別れて波の静かな洞海湾へ入り、岡の港を目指しました。しかし、元々、水深の浅い海なので、干潮に遭って立ち往生してしまったのです。「潮が満ちると岡の津に泊まった。」という記述が続いています。「皇后の船は底がつかえて動けなくなってしまったが、すぐさま魚や鳥を集めてミニ水族館を作ったので、皇后のご機嫌が直った。」と書いてありますから、熊鰐は冷や汗をかいたようです。
 筑前国風土記逸文には、「風土記に曰く、岡の県の東側に大川の口があり、名を岡の水門という。大船を容れるに堪える。そこより島、戸畑に通じており、名を『くきど』という。小船を容れるに堪える。」という記述があります。
 いずれにせよ、「紀」の記述から、洞海湾が岡の県主の勢力圏であったことを読みとれます。祖先の居住地名を当てはめるのは十分有り得ることで、この岡の県主は、堂谿氏の後裔、つまり、呉系の楚人と解することができるのです。
 魏志倭人伝に登場する伊都国ですが、伊都国の首長(県主)、五十迹手もまた仲哀天皇に帰順する際、穴門の引島(下関市の先端部、彦島)まで来ています。三種の神器を捧げるという岡県主と全く同じ降伏の仕方で、その勢力圏内に現れていますから、岡県主とは親密な関係にあったことがうかがえます。つまり、伊都県主も岡県主と同族で、呉系の楚人、熊襲かつ姫氏(紀氏)なのです。
 日本書紀は、伊都は、元、イソで、それがイトに訛ったと記しています。魏志倭人伝で既に伊都国とされているのに、昔はイソだったと言い、伊都県主の後裔に伊蘇志臣(*)の姓まで与えられているのは、何か根拠があったのでしょう。《*/仲哀天皇が伊都県主に「伊蘇志(よく勤める)」と言ったと記されています。そんな言葉が後の時代まで残されていたとは思えず、伊蘇志臣と関連づけるために記されたことは明らかです。》
 倭名抄の怡土(イト)郡には託杜(タカソ)郷があり、高磯(タカソ)姫を祭る高祖神社があります。曽根という地名も存在していますから、元はソだったという記述に信憑性が感じられるのです。イソからイトへ変わったことがはっきり伝えられていたわけで、何かそうしなくてはならない事情があったと考えるべきではないでしょうか。
 古代の曽於の地である鹿児島県、大隅、肝属郡の方言では「糸」のことを「ソ」と言っています(大隅肝属郡方言集) 。「ソ」と「イト」が同義なら、伊都国の隣は後漢の御墨付きを得た奴国という呉人の強国ですから、その矛先を避けるため、「自分達も元はあなたがたと同族の呉人ですよ。」ということで、ソと名乗るのをはばかって、同じ意味を持つイトに国名を変えたのではないかと想像しています。
 さらにその後、越系の邪馬壱国に席捲された北九州で、伊都国にのみ王が存続し得たのは、この民族の違いに起因すると考えられるのです。越の不倶戴天の敵である奴国、末盧国など、呉の直系は、王として存続を許されませんでした。それなら、同じ呉系楚人(熊襲)である岡県主も、その地位を保っていたと考えることが可能で、大和朝廷時代にまで生き延びて、仲哀紀に登場することとなったわけです。
 呉人の奴国(姫姓)に隷属していた呉系楚人(姫姓)の伊都国、岡国(こちらは魏志倭人伝に無い)等が、倭国大乱後は、越人の邪馬壱国に従い、伊都国で九州を統括した大率の検察を恐れて縮んでいた。さらに時代が降って、縄文系の大和朝廷に服したという順序になります。
 新撰姓氏録は、伊都国王の後裔氏族、伊蘇志臣が紀直に繋がっていることを記しており、矛盾は全く見られません。和歌山の紀氏の祖、狗奴国王も、呉人ではなく呉系楚人(熊襲)の姫氏だったようです。和歌山県に伊都郡や熊野と言う地名があり、熊野神社という重要な神社が存在することもそれを補強します。
 《 新撰姓氏録 》
 大和国神別  伊蘇志臣…滋野宿禰同祖。天道根命之後也。(伊都県主の同族)
 右京神別下  滋野宿禰…紀直同祖。神魂命五世孫天道根命之後也。
 河内国神別  紀直………神魂命五世孫天道根命之後也。

 この一族は天道根命、神魂命の子孫となっていますから、二神は呉系楚人の祖神と扱うことができます。また、伊都県主は天之日矛の後裔とも唱えていますので(筑前国風土記逸文)、天之日矛も呉系楚人の神ということになります。堂谿の別名が呉房ですから、牛蒡(ゴボウ)を尊ぶことになるようです。

10、東鯷人とは何か

 漢書地理志、呉地には、「会稽海外に東鯷人あり。分れて二十余国を為す。歳時を以って来たり献見したと云う。」という文が見られます。北方の燕へ通った倭人と同じ頃から、東鯷人は南西諸島沿いに漢の会稽郡と交流していました。
 韓は韓と表されますし、位置的にもずれていますから、会稽海外の東とは日本を考えるほかはなく、二十余国という数字は、沖縄のみと解するには多すぎるでしょう。
 呉人の風俗は「鯷冠秫縫」と表され、鯷(=大鯰)の冠を被っているとされていました。そして、東鯷人も同じく大鯰に関係していますが、倭人と表された呉人ではなく、区別されています。作っている国も、倭人の百余国に比べて二十余国と少なく、渡来の時期が遅れていたような気配です。このことから、東鯷人を呉系楚人と解することができるのではないでしょうか。
 阿蘇はその名から楚系の地名のように思えます。そして、熊本県上益城郡嘉島町には、鯰という土地があり、阿蘇の神が西の山を蹴落として阿蘇湖を乾かした時、湖の主の大鯰が切られ、流失してここに止まったのだという次のような伝説があります。

「阿蘇へやって来た建磐龍命が、外輪山を蹴破って阿蘇湖を乾かそうとしたが、湖の神の大鯰がそこへ引っ掛かって、水を塞き止めていた。あまりにも大きいので落とそうにも落ちない。命が大きなツルを牛の鼻ぐりの様に、鯰の鼻に通して大岩に結び付けると、さしもの大鯰も弱ったので、三段に切ってようやく落とすことができた。こうして阿蘇は水が引いて人の住める土地となったのである。大鯰が流れて漂着したところが、益城郡嘉島町の鯰という所である。」

 阿蘇と鯰は深い因縁を持っていて、この伝説は、阿蘇を支配していた鯰トーテムの東鯷人(草部)が、後に阿蘇に進入してきた邪馬壱国の一族に追い落とされたことを示唆しているようです。夔から導き出されたように、牛も楚の有力トーテムの一つなので、大鯰に牛の鼻ぐりのようなものを付けるという形が理解できます。
《注…阿蘇の神、建磐龍命は阿蘇都姫草部吉見姫を娶って阿蘇国造の祖となったといいます。先住部族の首長の娘を娶ったわけです。建磐龍(タケイワタツ)命の、タケは強さを表す尊称ですから、石龍比古(イワタツヒコ)神と同神でしょう。石龍比古は伊和大神の子で、伊和大神とは播磨国一ノ宮、伊和神社に祭られたオオナムヂ神の別名です。したがって、邪馬壱国系の神ということになります。石龍比古、伊和大神の二神は播磨国風土記に見られます。クサは呉に関連する音だと既に明らかになっています。》
 また、鬼八という地付きの従者が反抗したので建磐龍命が斬りすてたという別の伝承もあり、鬼が堂谿氏の姓、姫(紀)に通じています。
 阿蘇神社の火焚き神事は、上役犬原、下役犬原、高原の三部落から選ばれた一人の少女が火焚殿にこもって、五十九日の間、火を焚き続けるというものです。これは鬼八の怨霊が霜を降らせて祟りをなすので、鬼八を祭って霜害を防ぐのだとしています。ここでも鬼(キ)は霜(ソウ)という音に結び付いています。(参考資料 「熊本の伝説」 角川書店)
 地名や神社名、祭神を分析すると、阿蘇カルデラの南郷谷に鯰トーテムの呉系楚人(東鯷人)が展開し、北の一の宮や内牧に首長階級となった越人が展開したことがうかがえます。
 地震が起こるのは地下に住む大鯰が暴れるからだという伝承もあり、日本には鯰に畏敬の念を抱く人々がいたことは間違いありません。堂谿氏という呉系楚人の存在を認めれば、東鯷人、大鯰、阿蘇が見事に絡まってしまうのです。東鯷(とうてい)は堂谿(たうけい、漢音)という音と、その民族の特徴(*)の両方を考慮して選ばれた文字のようです。《*/中国の海東に住み、大ナマズを祭る》

 続き、「中国、朝鮮史から見える日本、2」