弥生の興亡、2


 中国、朝鮮史から見える日本、2

   三、漢代の越人
     1、越の後史
     2、越の民族とそのトーテム
        <ヤオ(徭)族>
        <ミャオ(苗)族>
        <ミンチャ(民家)族=トゥチャ(土家)族>
     3、越語に由来する日本語


 

三、漢代の越人

1、越の後史

 楚に敗れ、江南の海岸に散居して王や君を自称していた越王の後裔には、まだ歴史が残っています。
 越王無彊の七代後の騶無諸と騶搖は、秦の始皇帝時代、王号を取り上げられ、閩中郡の君長とされていたのですが、越人を率いて諸侯と共に秦を滅ぼしました。しかし、秦に代って実権を握った楚の項羽は、無諸や搖を王としなかったため、楚には恨みを抱いて距離を置いていたようです。そのため、漢の劉邦が兵を起こし項羽と戦うに至るや、無諸と搖は一、二もなく漢にくみしました。そこで何らかの功を挙げたのでしょう。その地位を回復したことが記されています。

史記「東越列伝第五十四」
「閩越王、無諸と越東海王、搖は、皆、越王勾踐の後で、姓は騶氏である。……漢が項籍(項羽)を攻撃すると、無諸と搖は越人を率いて漢を助けた。漢の五年(B.C202)、無諸を復活して立たせ、閩越王と為した。王は閩中旧地の東冶を都とした。 孝恵帝の三年(B.C192)、高祖(劉邦)の時の越の功をとりあげて、閩君の搖は手柄が多く、その人民も親しみ従っているといい、すなわち、搖を立てて東海王と為し、東甌を都とした。世の人は東甌王と呼んだ。」

 越王勾踐の子孫は漢代になって復活しました。東海王(東甌王)は東甌(温州)を都とし、閩越王はさらに南の東冶(福州)に都を置いたのです。姓は「騶(シゥ、スウ)」氏。「閩、東越は蛇種で、故に、文字は虫に従う。閩の音は旻(びん、ミン)である。」という注が入れられており、これは、蛇トーテムという意味です。ミンというのは巳(ミ=ハミ、ヘミ。ヘビ)と考えて問題ないでしょう。
 春秋戦国時代の越からかなり南下していて、古代、その都の置かれていた会稽は、漢の故鄣郡となっています。
 数代後の孝景帝三年(B・C154)、呉楚七国の乱が起こり、呉王劉濞は閩越を味方につけようとしましたが、閩越が承知しないうちに東甌のみが呉に従いました。呉が敗れた後、東甌は漢の誘いを受け丹徒で劉濞を殺したため、その地位を失わずに済み帰国します。
 越絶書では、「越王の弟、夷烏将軍が濞を殺す。東甌王は彭沢王と為り、夷烏将軍は、今、平都王に為る。*」となっています。
 武帝の建元三年(B・C137)、この閩越と東甌の二国が戦いました。圧迫された東甌は国を挙げて中国に移住することを願い、全住民、四万を引き連れて江淮(長江と淮水)の間の廬江郡に移動したといいます。《*…彭沢は彭蠡湖の南、平都は現在の江西省安福市付近。ただ秦の行政区分では、どちらも廬江郡に含まれています。》
 
建元六年(B.C134)、閩越は南越を攻撃しました。攻められた南越は漢に救援を請い、漢はそれを容れて閩越を攻めんとしました。この時、閩越王の弟、騶余善はこう語ります。「今、王を殺して天子に謝罪すれば、天子は咎めず、戦を止めるから、当然ながら我が国は無事である。もし、聞き届けてくれなければ、力の限り戦い、勝てなかったら海へ入って逃れるまでのことだ。」彼らは戦いに敗れたなら、海に逃れればいいという思考回路を持っていたのです。そして、配下の者を納得させたこの言葉通り、王を殺して謝罪することで戦いは回避されました。
 漢は、一族の騶丑のみ、反乱にくみしなかったという理由で繇王に任じましたが、住民の支持は王を殺した王弟、騶余善にあり、漢も後にこれを公認せざるを得なくなって、余善を東越王と為しました。やがて、東越の余善は反乱を起こして滅びます。その住民は全て江淮の間へ強制移住させられ、東越は無人になったと史記は記しています。時は、紀元前109年。漢の武帝の元封元年です。
 繇王は一万戸の東成侯(*)に封じられ、九江郡に居住しました。《*/東成/東城とも書く。前漢では楊州の九江郡、後漢では徐州の下邳国、魏でも徐州、下邳郡に属しており、江淮の間の楊州と徐州の境界付近に位置しています。》
 倭面土国王帥升が生口160人を献じ、願いてまみゆることを請うのは、後漢の安帝、永初元年(107)で、その216年後のことになります。後漢代に新たに日本に移住した越人がいたとすれば、この江淮の間に移住した繇王(東成侯)の子孫か、東甌(東海)、閩越、東越の末と考えるほかありません。
 史記の著者、司馬遷は、騶氏を江淮の間へ移した武帝と同時代の人です。武帝が越方を信じたため、当時、越人は中央政界に深く食い込んでいました。爾雅、釈地の「中に枳首蛇あり。」という記述はこのことを言います。騶氏に関する資料は豊富に残っていたと考えられ、この越王の騶という姓(発音)は信用して良いでしょう。
 帥にはシュツ、スヰという音がありますから、面土国王帥升は、越国王騶升(シゥショウ、スウショウ)の表現と解することができるのです。
 以下、史記、東越列伝に記された越の国名、地名を分析します。ひらがなが漢音、カタカナが呉音です。

「閩越(びんゑつ、ミンヲチ)」
 越の呉音は、オヱツからヲツ、ヲチへと転訛したようです。 閩(ミン)はミ(巳=蛇)です。三島、箕島、三好などミの付く地名は、この閩に由来するのかもしれません。これはミヅ(水)のミ、カミ(神)のミ、尊称のミ(御)でもあるようです。体を意味するミ(身)にも一致しますから、日本人は蛇身を持っていることになります。

「東冶(とうや、ツヤ)」
 ここでも、驚いたことに、東冶を呉音で読めばツヤだったのです。倭人伝の不弥国は津屋崎周辺と推定しましたが。津屋崎のツヤは閩越の東冶からきていました。面土国王帥升、言い換えれば越王の騶升(スウショウ)に率いられた越人は、この津屋崎から新宮町付近までを支配していたのです。そして、国をつくる過程で隣の奴国との間に騒乱を引き起こしました。後漢に献じられた生口百六十人は、この戦いで得た捕虜でしょう。その後、後漢の調停を受け入れ、一部をその地に残し、主力は再び開拓地を求めて出雲へ去ったわけです。

「東海(とうかい、ツカイ)」
 現在でも東海地方と呼ばれている土地がありますが、大和から見て東の海ということで東海になったらしく無関係のようです。東山道や西海道、南海道に対応しています。

「丹徒(たんと、タンヅ)」…これは丹という国、丹波、丹後が該当するかもしれません。

「東成(とうせい、ツジャウ)」
 大阪に東成区、古代の東生郡があります。その縄文語訳が「ひむがしなり」で、西成はそれに付随した地名と考えられます。確実です。

「東甌(とうおう、ツウ)」、「東越(とうえつ、ツヲチ)」
「番寓(はんぐう、ホング)」、「武林(ぶりん、ムリン)」

 国王の姓は騶で、騶氏の越は騶越(スウヱツ)。大阪の首長はスエツミミと表されています(崇神記、紀)。津の国(大阪)に摂という文字が添えられるのも理由があるのです(摂津)。そこから須恵(陶)に転訛します。摂津に東生郡が存在することも見事に一致していますし、須恵器もこの部族の考案した焼き物と解せられます。
 こうして地名を並べてみると、最も遅れて後漢代に渡来した弥生人、越人(邪馬壱国)は、九州に一部を残して出雲へ向かい、倭国大乱時に、丹波、摂津の二方面から大和へ侵攻した様子がうかがえます。後に、東海へ抜けて常陸まで達しているのは確実ですが、おそらく、その先へも伸びていたでしょう。
 閩越のさらに南、現在の広東省や広西壮族自治区のあたりには南越という国が存在しました。そこも住民は越人ですが、秦代に桂林、南海、象の三郡がおかれ、秦の滅亡後、その官僚が自立して建てた国です。後に、漢に攻められた時、船に乗って西へ逃がれたとされていますので(B.C110)、日本史とは無関係のようです。
 秦に敗れて南下した呉人、越人は、さらに漢に追われ、その一部は遥か離れたベトナムや雲南にまで到達しました。そして、ベトナム(交阯)は三国時代には、呉の所領だったのです。東海の黒歯(呉)の風俗が、ベトナムの西屠国に伝わったとされるのも、儋耳、珠崖という海南島の風俗が邪馬壱国に似ているのも、みな故あることなのです。

2、越の民族とそのトーテム

 民族学的データに関しては、「雲南」(H・R・デーヴィス著、古今書院)、「中国少数民族の信仰と習俗」(覃光広等編著、第一書房)、「中国神話」(聞一多著、平凡社東洋文庫)、「日中文化研究3」(勉誠社)から多くを得ました。

<ヤオ(瑤)族>

 越東海王騶搖、繇君騶丑、越繇王、繇王騶居股。越の首長に、「騶」という姓と並んで目立つのは、「エウ(搖、繇)」という音です。そして、「瑤(エウ)族」と表記される苗系民族、狗トーテムのヤオ族がいます。
 つまり、越王勾踐の子孫は、犬を祭るヤオ族という民族でした。勾踐(こうせん)の勾は狗(こう)に同じ、小さな犬を意味しています。勾踐は犬の王位につく、犬の先頭という意味を含むのでしょう。その父、允常の允(いん)は引に同じ。長く引くものを連想します。常(じょう)は状に同じ。合わせて長い形という意味になりますから、允常は蛇です。つまり、勾踐や允常は実際の名前ではなく、人物を特定するために付けられた符合のようなものなのです。
 古代、呉越は文字を持ちませんでした。北方の民族がその歴史を記すに当たって、適当な文字を選んで名が作られたのでしょう。勾踐の後は鹿郢で「鹿の裔」という意味になりますし、次の不寿は暗殺されたので、この名が与えられました。朱句は赤い狗を意味します。山東半島の琅邪を維持できず、呉に引き返さざるを得なかった翳は「かげり」ですし、滅びた無彊は「強くない」となります。鹿郢という名があり、勾踐も首が長くて烏のクチバシと表現されていましたから、越のトーテムに、カラスと首の長い鹿を付け加えてよさそうです。
 「ヤオ」というのは他民族からの呼び名で、「マン」と呼ばれることもあります。これは蛮の呉音のようです。ヤオ族の始祖は槃瓠という名で、太古の帝、嚳の飼い狗でした。反乱を起こした犬戎の房王の首を噛み切り、帝嚳の危機を助けたため、恩賞として、帝の娘と所領を与えられ、税を免除されたと言い伝えています。
 そして、自称は「ミエン」で「免」、人を表すヤオ語は「ト・ミエン(*)」で「徒免」と漢字表記できます。これは「我々は税を免除された人である。」という意味になり、槃瓠の伝説に起源を発することが明らかです。《*/「雲南」語彙表による》
 また、ヤオ語の「徒免」を漢語の語順に改めれば「免徒」となり、面土にも一致しますし、越という音にもつながってきます。オヴェントゥ(オ+メェンツ)というような原音が於越と表記されたのではないしょうか。
 盤瓠は、「帝嚳の妃の耳から生まれた蚕のような黄色い虫が狗となった。」とされているので、「記、紀」で首長らしき人物に耳(ミミ)という称号が付けられていることにも関係するでしょう。犬は耳にその能力を象徴されていますし、鹿は角で代表されています。魏志倭人伝では、投馬国の官が弥弥とされていましたから、この国やスヱツミミという首長の居た河内の美努国(陶村。騶越の耳という意味)など、ヤオ族の首長を戴く国と解することができます。他、丹波にも玖賀耳の御笠という有力者がいます。
 句には、「直角三角形」、「かがむ」という意味がありますので、犬を意味する「けもの偏」をつけて狗とすれば、坐って三角になった犬の姿が出てきます。ここから小型の犬の意に転用されたようで、狗は三角にも関係しています。
 以上のようなわけで、邪馬壱国の越人のトーテムを絵にすれば「犬の耳のはえた蛇」や「鹿の角のはえた蛇」ということになります。蛇になったり、犬や鹿になったりする神を祭るわけです。鹿の角の生えた蛇、常陸国風土記の「夜刀の神」も越人の神だったのです。これは鹿島神宮の祭神、タケミカヅチ神でもあります。

 仁徳紀
「備中国の川島河の川俣に、大虬(みつち)がいて人を苦しめた。そこで、笠臣の祖先、県守が三つのヒサゴを投げ入れて、こう言った。『お前は、たびたび毒を吐いて道行く人を苦しめた。お前がこのヒサゴを沈めることが出来たなら、私は何もせず、ここを去ろう。もし、沈めることが出来なかったなら、お前を斬る。』時に、みつち、鹿と化し、以って、瓢を引き入る。瓢沈まず。即ち剣を挙げて水に入り、みつちを斬る。」

 読み下し文のリズムが心地好く、最後に少し書いてみましたが、みつち(蛇)は鹿と化して、ヒサゴを水中に引き入れようとしています。吉備にも、鹿になったり蛇になったりする神を祭る邪馬壱国系の首長が居たのです。それが笠臣の祖先によって滅ぼされたという意味なのか、あるいは、笠臣自身がこの鹿蛇だったかです。それに加えて、この鹿はただ鹿であるというだけではありません。

 播磨国風土記 宍禾(しさは)郡……………「大鹿、己が舌を出して…」
 播磨国風土記 賀毛郡 鹿咋(かくい)山……「白き鹿、己が舌を咋て…」

 長い舌を出した白い鹿なのです。これも舌をチョロチョロ出す蛇の姿と合成したものでしょう。白い鹿ですから、この邪馬壱国の越人は白を尊しとしていました。川島河とは、現在の高梁川のことらしく、山陽新幹線や山陽自動車道が川を渡っているあたり、高梁川が二つに別れて、倉敷市街程度ならすっぽり収まってしまうほどの大きな島があります。川俣とはその川が分かれる地点で、現在では清音町や真備町となっています。
 高梁川下流に邪馬壱国が拠点を置いていました。これはヤマトトトビモモソ姫(卑弥呼)の弟とされる吉備津比古の国、鹿と化した虬はその後裔と解釈できます。投馬国の官、弥弥もそうだったかもしれません。
 聞一多氏(1889~1946)の「伏犠考」には、ヤオ族に関する以下のような清代の文が引用されています。(「中国神話」 聞一多著、平凡社東洋文庫)
●「歳首(*)に槃瓠を祭る。魚肉を木槽(狗の食器)に揉み、槽を叩き、群号して以って礼と為す。(峒谿繊志)」
 群号というのは、犬の吠え声を真似ることで、食器を叩いて合図し、自らも祖先の姿となって吠え、正月一日に槃瓠の霊を招いたのです。
●「狗王は惟れ、狗搖之を祀る。正朔(*)にあう毎に、家人は狗を負い、囲炉裏の回りをめぐること三度。然る後、家の男女すべてが、狗に向かい両手を挙げ、地に伏して拝する。この日は、食事をする時、必ず槽を叩き、地にうずくまって食べ、以って礼を尽くすとなす。(嶺表紀蛮)」 《*/1月1日》
 日本でも、神に供えた御飯を扇の上に載せ、手を使わずに食べる神事を持つ土地があります(=犬を真似て)。これは古代ヤオ族の祭祀の発展型でしょう。この神事は、扉をすべて閉め切り、よそものに見られないようにして行われていたらしく、ヤオ族の信仰が禁じられ、見つかると処罰されたことを思わせます。
 「玄中記曰く。昔、高辛氏(=帝嚳)の時、犬戎が乱を起こした。帝は、これを討伐した者には美女を妻として与え、三百戸の長に封ずると言った。槃瓠という名の帝の犬は、逃れて、三ヶ月後に犬戎を殺し、その首を持ってきた。帝は娘をこれの妻とし、会稽東南海中の土地、三百里を得て封じた。男を生めば狗となし、女を生めば美人とする。封じて狗氏国と為した。(太平御覧)」
 これは、現在も福建省(古代の越地)に居住している槃瓠の子孫、ショオ(シェー)族の祖先伝承を採り挙げたものと思われます。魏、蜀、呉の三国時代は山越と呼ばれており、しばしば呉と戦っています。魏が卑弥呼に破格の待遇を授けたのも、このこと(山越と同族)が加味されているかもしれません。
 ショオ族という呼称は近年のもので、自称はサンハ(山客)といいます。古代のヤオ族の一支と扱って問題なく、日本に移住したのは、現在、中国内陸西南部に居住するヤオ族ではなくこちらです。サンカという日本の山々を漂流した部族との関連を感じさせます。玄中記は晋の郭璞(276~324)の作ですから、ヤオ族が、かなり古い時代から、越に展開していたことは確実で、帝嚳の頃というのが事実なら、夏后や殷を遡る中国黎明期のことです。
 漢の武帝は、平地住まいの越人の主力を江淮の間へ移住させましたが、山間部で焼き畑をしながら移動する部族にまでは手が回らなかったと見えます。シェー族の槃瓠は犬頭龍躯牛蹄、あるいは龍麒と表現されるということで(*)、犬、蛇(龍)の他、牛、麒麟(斑点のある鹿がその根底にある)もヤオ族のトーテムに含めることができそうです。《*/「揺れるエスニック・シンボル」曽士才著、日中文化研究3、勉誠社》
 しかしながら、その内容には自ずから濃淡があり、日本の様々な伝承を考慮すると、越のヤオ族の中心的なトーテムは「蛇、鹿、狗、鰐、ホトトギス」に絞ることができます。八尾という地名や、犬を冠せられた地名の多くは、このヤオ族に由来すると考えられますし、ヤオ族は犬をクロ、ミャオ族はクリといいますから、「黒」、「栗」の付く地名にもその可能性があります。卑弥呼の都の候補地とした田原本町、三宅町の鏡作神社に囲まれた土地の小字名は、黒田、宮古、保津、八尾、石見(*)などとなっていて越人ヤオ族に結び付き、ますます、その可能性が強まります。(*/伊和大神はオオナムヂ神)
 「中国少数民族の信仰と習俗」(第一書房)は、「風、雲、雨、雷を司る大神をヤオ族の人々はきわめて崇敬し、社を建てて定期的に祭祀を行ってきた。」、「奇怪な巨石、常緑の大樹をも神聖なものとみなし人々を守護すると考えてきた。」と記していて、このことも雷神、水神のオオナムヂ神を最高神とする邪馬壱国の祭祀に一致しています。巨石、常緑大樹も日本各地で祭られていますが、しかし、これはヤオ族に限らないようです。

<ミャオ(苗)族>

山海経、海内経
「人有り苗民という。神有り。人首蛇身。長さは轅(*)の如し。左右に首有り。紫の衣に赤い冠。名は延維(=委蛇)という。」《*/轅…ながえ。馬車などの左右から前につき出た長い柄。それに馬等をつなぐ。大きさは轂(こしき)の如しとされていて、車輪の中心にある丸い軸受け部と同程度の太さとされている。》
 中国南方には、噛まれると百歩も行かないうちに死んでしまうという猛毒を持つ蛇、百歩蛇(右図、ウィキペディアより)がいて、「鼻上に鍼あり。大は百余斤。一名反鼻虫。」と記されています。鼻先が反り返り、針の様に尖った形になっているのです。中国でいう蝮とは、この蛇を指しますが、日本には存在しないので、文字は小さな毒蛇、蝮(マムシ)に当てられてしまいました。百余斤(20キロ以上)の重さがある百歩蛇は、太めの蛇で、「大は轂の如し」が合います。長さも1.5メートル程度で、「轅(ながえ)の如し」に一致し、ミャオ族の左右に首のある蛇神、延維の土台となった蛇と考えて間違いないようです。
 荘子達生篇にあらわれる委蛇(ヰイ)も、紫衣に朱冠となっていて同じものですが、雷車(*)の音を嫌って、鎌首をもたげるとされていますから、雷とは対立的です。そしてこのことは、「雷が大洪水を起こし、二人の妹兄を除くミャオ族全てを滅ぼしてしまった。」というミャオ族の神話にきっちり対応しています。《*/雷車…雲の中を車がガラガラ激しく走り回っているのです。甲骨文字の雷も車が激しく動き回る姿を写していて、雷は回と通じます。稲妻は鞭と表現され、淮南子に「電は以って鞭策となし、雷は以って車輪となす。」という言葉があります。これは文字を作り、車になじんでいた北方系民族の発想で、南方民族は雷を太鼓の音と捕えています。》
 ヤオ族の越王も、ミャオ族と同じ伏犠、女媧の二神を表す双頭の蛇を祭り、越王の約髪と表現された髪型(椎髻)でそれを示していました。しかし、越人の建てた邪馬壱国の神、オオナムヂ神は蛇神かつ雷神で、蛇と雷の間にわだかまりはありません。ミャオ族の神とは、同形でも内容がわずかに異なっていて、これはミャオ族とヤオ族の対立関係を示しているようです。ヤオ族の祖、槃瓠が黄色い蚕のような虫から犬に化したということは、蝶のさなぎから出てきたわけで、蝶をトーテムとするミャオ族が根底にあり、犬トーテムで雷神を祭る別の部族が征服者として被さり、ヤオ族が生まれたと推定できるのです。両者は近いが対立的な民族でした。聞一多氏は、同系の支族であるにも係らず、ヤオ族が洪水伝説を持たないことに不審を持っていますが、ヤオ族が洪水をもたらした雷神そのものなので、被害を受ける話にはなりようがないと解ります。
 タイ族はミャオ族のことを「メオゥ」、または「カメオゥ」と呼んでいます(「雲南」)。東甌の甌(オウ)はこれに由来するのでしょうか。閩越から東甌が分離され、後に争い、東甌が国を挙げて漢に逃れたのは、民族の違いに起因するように思えるのです。漢族はミャオ族を「ミャオズ」と呼びます。自称は「モン」です。
 名字、大明司、妙寺(みょうじ)などという日本の地名の起源は、この民族名に由来するようです。門(モン)という地名や、そこから派生した「かど」にもその可能性があり、門司や賀茂氏の居住した山城の葛野(かどの)等が該当するでしょう。カメも関係しそうで、賀茂もカメオゥの転訛かもしれません。また、カンボジアのクメールもこれに由来するようです。
 閩が門の中に蛇を意味する虫を入れるのも、蛇トーテムの苗系民族ということを表すためです。日本語の「者」、「諸」や大物主神の「物」も自称のモンを写しているようで、モンとは存在を意味する言葉かと思えます。
 ミャオ族の別の神話では、ミャオ族は「楓(ふう、フ)の木から生まれた蝶のメイパン・メイリュウが、水の泡と結婚して生んだ卵から生まれた。」ことになっています。(「日中文化研究3」鈴木正崇、伊藤清司 勉誠社)
 楓の木で太鼓を作り、服に蝶の刺繍を入れるということで、蝶トーテムの民族です。相手の水は蛇につながっています。当然ながら、楓も神木として祭っていました。中国の楓は、日本のカエデとは異なるマンサク科の木ですが、葉の形や紅葉という性質が似ているため区別されなかったらしく、魏志倭人伝にも、当時の日本には存在しないはずの楓香樹の名が記されています。紅葉狩りなど、紅葉を喜ぶ伝統はここに由来するのでしょう。
 アジアに幅広く分布している蛇ノ目蝶という蝶がいて、「蛇ノ目」と呼ばれる丸い斑紋を持っています。幼虫は細長く、蛇と同じ様に脱皮して大きくなります。冬になると姿を隠し、春になって蘇るのもまた同じです。蛇はとぐろを巻きますが、蝶も螺旋形の口吻を持ちます。蝶と蛇は無関係ではありません。倭名抄には、「鳳車」とあって、一名「鬼車」。和名「保之天布(ほしちょう)。形、蝶(もんしろ蝶か?)に似て大、或は斑紋あるものなり。」と記されています。鳳車は色鮮やかなアゲハ類のことと考えられますが、鬼車には蛇ノ目蝶類も含むようです。《注…鳳車、鬼車/「鳳車は一名鬼車。江南の柑橘園中に生まれる。」という記述が太平御覧にあります。「正月夜は鬼車鳥多し。」と荊楚歳時記にあり、この鳥は夜行性の九首の妖怪です。蛇ノ目蝶類がフクロウを思わせる何対かの目玉模様を持ち(九対のものもある)、そこからこの鳥が想起されたのでしょう。鬼車のような鳥で、ここでいう鬼車は蛇ノ目蝶を指します。》>
 日本ではホシ蝶と呼んでいるので、蝶の斑紋は星辰にも係ってきます。大白星(金星)のことを「和名、由布都都(ゆうつつ)」としており、昆虫のハンミョウ(斑猫)のことを「和名、爾波都都(にはつつ)」としていますから、ミョウの斑が星(つつ)であることは明らかです。こうして、蛇、蝶、星、ミャオ族がくっついてしまうのです。ツツ、ホシなどという地名もミャオ族の開拓地のようです。
 この民族の蛇を絵にすれば、星を表す斑点を持った蛇や、何か蝶の特長を持った蛇ということになります。蝶の羽が生えた蛇を想像するのは少し難しいですが、蛇の三角のウロコ紋がそのまま蝶の羽につながると考えて差し支えないでしょう。
 また、百歩蛇の斑紋は、上からみれば、羽を広げた蝶の形と表現できます。志賀ノ島から発見された金印の蛇紐には、丸い斑点が付けられています。このことに関係するなら、奴国の呉人の根底はミャオ族と言えそうです。
 茨城県勝田市中根にある虎塚古墳の石室奥壁の装飾には、 大きな赤い蛇眼紋が二つあって、その真ん中上部に、つながった二つの三角形が描かれています(右図)。この三角は蝶が飛んでいる姿を写したものです。蝶が羽を閉じて止まっているなら三角は一つで済みます。また、横から見た百歩蛇はきれいに連続する三角模様を持っていて、同じ虎塚古墳の奥と左右の壁上部にそれを思わせる連続三角が描かれています。(右下図)赤くつぶした円形も見られ、こちらは星を表しているようです。天井は真っ赤に塗られていて、これは紅葉(楓)の色である等、全てが、ここまでに挙げたミャオ族の要素(百歩蛇、蝶=△、星=●、赤=紅葉=楓)に重なっています。
 したがって、この古墳の主はミャオ系と推定できるのです。楓の葉は、紅葉して落ちた後、春になると蘇りますから、死者の再生を願うにはもってこいの色ということでしょうか。

「上毛野君田道は蝦夷を伐ったが、伊峙水門(*)で逆に殺された。……蝦夷は、後に田道の墓を掘ったが、大蛇がいて、目をいからせ、墓から出てこれを食ってしまった。蝦夷はことごとく蛇の毒を被り、一、二人が逃れたのみで、多くが死んだ。」と仁徳紀に記されています。この虎塚古墳の装飾にぴったり当てはまる描写で、地理的にも近く、これが上毛野君田道の墓という可能性は大です。 《*/イシ港、茨城県那珂湊市磯崎付近?》
 そこから、上毛野氏(紀氏系)はミャオ系と推定できます。仁徳天皇という時代は借りられているだけで、当時、このような氏族名は存在しませんでした。後の雄略紀に於いてさえ、上毛野氏の祖という田辺史の姓で登場しているのです。これは大和朝廷が東国に激しく進出した七世紀半ばの古墳や事件と考えられます。
 沖縄では蝶のことをハブラといいますが、ハブという蛇がいて、蝶と蛇はほとんど重なっています。首飾り等に使う緑の曲玉はアゲハの幼虫を思わせますし、子持ち曲玉なら、より蝶や蛾の幼虫に近い形をしています。神社の千木もアゲハの幼虫の角を写したもののように思えるのです。古代、青虫からさなぎ、そして、蝶へという変態は、神の技を見るような驚きだったでしょう。蝶になると思っていたさなぎから、蜂やハエが生まれることさえあります。それを目の当たりにすれば、蝶や蛇の卵から人間が生まれることも想像できるのではないでしょうか。

皇極紀
「(三年)秋、七月。東国、富士川の辺の人、大生部の多が、『これは常世の神である。この神を祭る人は豊かになり、長生きができる。』などと言って村人に虫を祭ることを勧めた。巫覡達も神のお告げと偽って、『常世の神を祭る者は、貧しいものは富み、老人は若返る。』と言い、人々に財産をはたかせ、酒をふるまわせ、野菜や六畜を道端でふるまわせて、『新しい富が入ってくるぞ』と連呼させた。 町でも、田舎でも、常世の虫を取って清めた場所に置き、歌って舞い踊り、福を求めて珍財を捨てた。益するところは無く損費は甚だしかった。そこで、葛野の秦造河勝が、人々が惑わされるのを憎み、大生部の多を打ったので、その巫覡達も恐れて、常世の神の祭りを勧めるのを止めた。……この虫は、常に橘樹や曼椒(山椒)に生じる。その長さは四寸余で、その大きさは親指ほどである。その色は緑で黒い点がある。その形は蚕に非常に良く似ている。」

 ここでいう常世の虫とは、百パーセント、アゲハの幼虫です。これはミャオ族の古い信仰を復活させようとした大生部の多を、その上位に位置する秦の河勝が取り締まったという図になります。先にヤオ族の信仰が禁じられていたらしきことを指摘しましたが、ミャオ族の信仰もまた禁じられていたのです。
 日本という多民族国家を一つにするため、信仰の統一が図られていたようで、思い当るのは、仏教を興隆したという聖徳太子と蘇我馬子の政策です。それぞれの部族の信仰は、聖徳太子の時代に禁じられ、津々浦々に至るまで、仏教が強制されたのでしょう。しかし、内心それを拒む人々は、こっそり自分達の信仰を守り続けていました。大生部の多は、おおっぴらに復活させたため、咎めをうけることになったようです。

播磨国風土記 揖保郡 阿豆(あつ)村
「一に言う。昔、天に二星あり。地に落ちて石に変りき。…… 」

 昔、中国、杞の国の人が、天が崩れ落ちて身を寄せるところが無くなってしまうのではないかと心配し、夜も寝られず、食べ物ものどを通らずという有様になってしまいました。これが「杞憂」という言葉の起源です。天が壊れるかと思うくらい、流星の激しかった時期があったようですが、この播磨国風土記に見るように、星は地に落ちると石に変じます。蛇=蝶=星=石なのです。石が神の寄り代となることにも納得させられます。もっとも、太古には、武器や生活必需品が石で作られていましたから、石はどの民族にとっても祭らねばならない大切なものだったでしょう。ヤオ語では、石を「Yao」というので(「雲南語彙表」)、石性はヤオ族が一番強いのかもしれません。

<ミンチャ(民家)族=トゥチャ(土家)族>
 閩という文字は、漢音、呉音でそれぞれ、「びん、ミン」、「ばん、マン」、「ぶん、モン」の三音を持ちます。ヤオ族はマンと呼ばれていますし、モンはミャオ族の自称ですから、閩越にはもう一つ、ミンと呼ばれる民族がいて、系統的に近い三種の民族が雑居していたようなのです。このビン(ミン)はトゥチャ族の可能性濃厚です。トゥチャ(土家)族は、後の時代、巴郡、南郡蛮(*)と表された楚人の中核で、史記で、楚の姓とされた羋(ビ)は、この民族のビツカ(畢茲卡)という自称を写したものと考えられます。羋は姓ではなく、民族名の表現なのです。《*/楚の首都、郢は南郡にあります。》
 荘蹻の滇建国により、分岐した雲南省では、ミンチャ族(民家族)とされていて、「び、ミ」という漢音、呉音にきっちり対応しています。《注…20世紀初頭に書かれた「雲南」はミンチャとしていますが、現在はぺー族と呼ばれています。》
 楚は江南全域を領有する広大な国でした。一枚岩というわけにはいきません。楚の言語が、漢語化した上流階級の北方トゥチャ語と、タイ系に近い本来の南方トゥチャ語に分かれていたと考えるのは、むしろ自然で、そうすれば、日本に渡来した楚人の言語も、漢語方言とタイ語に近い苗系言語の二種を想定できることになります。雲南省でも、この二種の言語の存在を認めれば、楚の荘蹻の末と考えられるミンチャ族(ぺー族)の漢語に近い言語と、三国志演義から、祝融(楚の始祖)の後裔と推定したタイ族などの言語に分かれることを無理なく説明できるのです。
 そして、ミンチャ族の自称は「ポツォ」とされていますから(「雲南」)、日本語になれば、ホツ、ホトに転訛するでしょう。保津という地名や、古事記で、神武天皇(実際は崇神天皇)の皇后になったとされているホトタタライススキ姫のホトはこの民族名に由来すると考えられます。
 大和に侵攻した神武(=崇神)天皇が娶るのは、前王朝の王族の娘以外には有り得ず、その名がホトタタライススキ姫ということは、前王朝(邪馬壱国)の後裔である物部氏、和邇氏、春日氏等もまたミンチャ族として良いかもしれません。

《 越の系譜 》
 

 系譜で気になるのは、閩越王と東越王に繇の文字が見られないことで、これは配下の民族の違いを表しているように思えます。そして、東甌王は繇ではなく文字を変えて搖としている。これにも理由があるのかもしれません。勾踐や不寿、無彊と同じく、上記の越王の名は、その本名とは思えないのです。
 王は全て越王勾踐の後(=夏后少康の後裔)で、東甌の住民はミャオ族中心、閩越、東越はトゥチャ(ミンチャ)族中心、繇君がヤオ族を率いていたと推定できます。繇君の存在感は希薄で、ヤオ族が最も少数派と考えられますが、しかし、身分的には最上位だったようです。繇君は繇王に昇格し、閩越の祭祀を引き継いでいるくらいですから、ヤオ族とトゥチャ族の間には何か親和性があったらしく、融合してほとんど一体となりました。
 日本では、「塚」を、中国風に「チョウ」と読まず、「つか」と読んでいます。多分、文字を土と家の合字と扱ったからで、「土」の漢音、呉音は「と」、「ツ」、家はそれぞれ「か」、「ケ」ですから、土家はトカ、トケ、ツカ、ツケと読め、トカラ列島や柘植を始め、日本の地名の由来が説明できるのです。これはビツカ族(土家族)が日本に渡来していたという証しではないでしょうか。
 そして、ビツカは「微土家」で、「ビの土地の住民」、あるいは「小柄な土地の住民」という意味らしく、氐(てい、タイ)につながってきます。「ビッカ(ミッケ)」から「ミカ」、「ミケ」へと転訛するようです。
 おそらく、西方から発展したこの民族が長江を下り、太古から呉、越の地に展開していたと思われます。しかし、B・C334年、楚が越を滅ぼした後に、楚人が移住する可能性もありますし、秦に西北方から追われて東南隅の越に移動した可能性もまた排除できません。ミンチャ族の自称「ホト」は、日本語から考えれば、「秀れた人(秀徒)、地位の高い人」という意味らしく、語順が漢語的なので、秦に追われ逃亡した楚人と解せば最も問題が少ないようです。《注…ホ/稲穂や穂高岳など最も優れ高い位置にあるものをいいます。》
 以上から、漢代の「越」は、ヤオ(ショー)、トゥチャ(ミンチャ)族を中心とし、ミャオ族が少し距離を開けた苗系の複合民族国家というイメージが固まります。
 勾踐時代の越とは少し民族構成が異なっていたかもしれず、越人と南下した楚人の融合した形を考えれば最も都合が良いようです。
 日本に移住した邪馬壱国王家はヤオであり、且つホツであったようなので、この両者を区別する必要はないでしょう。犬の名に「ポチ」が与えられるのも、犬トーテムとこの民族名に由来するかと思えます。
 呉、越は言語が通じるとされていたので、呉の民族構成も基本的には同じ形だったでしょう。ただ、呉はミャオ族が中心で(奴国の金印の蛇紐の斑点)、そのトゥチャ族は、太古に長江河口部に展開した本来の苗系言語を使う部族(荊蛮、夷蛮)を想定できます。さらに、上位に太伯、仲雍という周人(羌族)が入って言語の一部を変え、呉王、寿夢が礼制を取り入れ、習俗を変えていたと考えられます。
 
全て、根底に蛇トーテムがあります。トゥチャ族は蛇中の蛇ということになるようです。

3、越語に由来する日本語

 「越絶書」には、いくつかの越語とその漢訳が記されていますが、以下は日本語として説明可能なものです。
●「越人は船を謂いて須慮(しゅりょ、スロ)となす。」
 これはシュラで、金比羅船々がシュラシュシュシュと走ることに、こういう秘密が隠されていました。讃岐の琴平神社の祭神はオオナムヂ神で、越系の神なのです。古代の石を運ぶ道具、修羅も、その形と使用法からこれに該当すること間違いなしです。スラスラ、スルスルという擬声語も、船と水との関係から導き出されます。船で川下りする場面を想像すれば最も簡単なようです。隋書俀国伝では「葬に及べば、屍を船上に置き、陸地でこれを引く」と記されていますが、船とは修羅のことかもしれません。
●「極怒粉粉は怒る貌なり。」と、越人は激しくプンプン怒ります。

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