弥生の興亡、2

中国、朝鮮史から見える日本、3

  四、呉の民族とそのトーテム、言語、信仰
  五、水と川を意味する言葉に関する考察
  六、呉、呉系楚、越の要素(概要)



中国、朝鮮史から見える日本、3

四、呉の民族とそのトーテム、言語、信仰

 越王勾踐の勾には狗(小型の犬)の意味が隠されていました。呉王夫差、こちらにも何かあるかもしれません。「フ」という音を持つ漢字を分析してみます。
 甫は「大なり」という意味です。趺は「足」を意味します。合わせれば「大きな足」になり、呉は周から出て、その始祖、后稷が「大人の足跡」を踏んだ母から生まれたという伝説に対応することになります。富は「富む、多い」という意味なので、趺と組み合わせると「足が多い」という言葉が出てきます。ムカデや蟹、クモ、タコ等が該当しそうです。婦は「おんな」で、甫と組み合わせれば「大きな女」。夫は「男」なので「大きな男」も成り立ちます。これは最初の「大きな足」と同じことです。斧と甫を合わせれば「大きな斧=マサカリ」もつながってきます。付は「くっつく」、布、譜、敷、膚は「平らに敷きのべる」意味を持ちますから、鳧や鮒は数が多く群広がっている鳥や魚であることを示すのでしょう(鳧はカモ、鮒はフナ)。
 差は「合わない」ことを意味しますから、夫差は「足の数が多くて合わない、間違っている。大きさが合わない」という意味を内包しています。ムカデは蜈蚣(ごこう、ゴク)と記され、本草綱目の注には、別録曰くとして、「蜈蚣は大呉川谷及び江南に生ず。」となっています。これは多くの体節がくっ付いている虫です。とにかく、呉王夫差をムカデ、大人トーテムとすることに全く不都合がありません。
 夫差の父、闔廬(かふりょ)には部屋という意味があり、自らは地下室に隠れて、王僚を暗殺させたことから与えられた名だと思わせます。闔と同音の狎は「犬をならす」というのが原義で、廬は「粗末な家」という意味。したがって、闔廬はイヌ小屋も連想させます。代わりに侶(りょ、ロ)を与えれば、犬をならして伴うという意味になります。旅(りょ)には軍隊と旅(たび)の意味があり、これも楚に深く侵入したことと結び付くのです。
 その前王の僚(レウ)は仲間を意味します。この文字からは何も感じ取れません。瞭なら「明らか」とか「見抜く」。了なら「悟る」、「終わる」の意味です。暗殺を察して警戒しながらも、それを許してしまったことから選ばれたものでしょう。
 その前が余昧(ヨマイ)で、余埋なら「余って埋める」となりますから、ここでも狗に結び付きます。もう一代前の余祭は、句余としている書もあるようで、それなら「犬が有り余る」です。呉の基礎を作り、礼制を取り入れた寿夢は命の長い夢という意味で、兄弟相続により君子と評された末子の季札に国を伝えよという遺言に由来するのでしょう。
 呉の王名は、ムカデや大を思わせるものだけではなく、犬にも係りがありそうで、狩猟に犬を使っていたという気配です。越絶書の越絶外伝記、呉地伝第三に、「秋冬は城中に治し、春夏は姑胥(姑蘇)之臺に治す。」とあり、これは闔廬のことですが、「朝は紐山に食し、昼は胥母に遊ぶ。■陂に射し、遊臺に馳せる。楽を■■に興じ、犬を長洲で走らせる(走犬長洲)。」と結び、遊興にふけったことが記されています。(長洲は呉の南部、蘇州の長州県)
 呉系楚人の国、狗奴国は紀ノ川流域に発展していました。そして、その地の犬、紀州犬は猟犬として名を知られています。このことはまた、今昔物語、巻二十九の、陸奥国の狗山の狗が主人を襲おうとする蛇を噛み殺したという話に結び付いてきます。狗山とは、狗の群れに獣を追わせ、噛み殺させて捕る狩猟法といいます。その狗が越を象徴する蛇を噛み殺した。したがって、蛇と戦う狗山の狗はヤオ族の狗では有り得ない。呉人が犬の集団(狗山)を使って狩猟していたと解せば、これを矛盾なく説明できるのです。
 大阪を制し、和泉山脈を越えようとする邪馬壱国と、狗山を使う狗奴国の戦闘が、泉佐野市の犬鳴山付近でも行われたらしく、今昔物語と全く同形の伝承が残っています。雄山と同様、和歌山へ通じるこの道筋にも狗奴国側の関が設けられていたとみえます。沿道の延喜式内社、火走神社の祭神は、火の神、軻遇突智命で、火は楚の要素という分類に矛盾しません。
 呉王、闔廬の弟は、闔廬と共に楚に攻め入りましたが、敗戦の混乱に乗じて、こっそり帰国しました。自立して王を称したものの、引き返してきた闔廬に敗れたため、楚に逃れて堂谿に所領を与えられました。これが堂谿氏となった夫概です。慨には嘆くという意味が有り、外、涯と重ねて、国を失った夫概の心情を表せるでしょう。 「不甲斐ない(思い通りにならない情けない状態であること)」という言葉は、この夫概の境遇から生まれたものかもしれません。「夫概なす」から「ふがいなし」に転じたように思えるのです。
 夫差、夫概、大きな足、多くの足に係る「フ」という音に結び付きそうな民族に、蒲蠻(プ・マン)族がいます。「雲南」はプ・マン族の自称が「ワラ」であることを明記しており、言語系統を同じくする民族には、ワ族、ラ族、パラウン(ドアン)族等があるといいます。近接して居住するワ、ラ、ワラ族(プ・マン族)が、元来、一つの民族であったのは、その民族名の類似から想像できます。モン・クメール系と分類される言語の使い手です。
 今後もしばしば引用することになりますので、一般にはあまり馴染みのない「雲南」という書を、このあたりで紹介しておくことにします。これは19世紀末から20世紀初頭にかけての雲南の、政治、地理、産物、民族、言語、服装などに関する報告書で、著者が鉄道建設のための調査を主目的としていたため、描写は通過者としてのそれに留まっていますが、その鋭い観察力や分析力、洞察力には驚嘆させられます。苗系言語とモン・クメール系言語は共通の起源を持つことを指摘していますが、越人は東方に展開した苗系民族で、呉人はそれにアルタイ系(羌族系)要素を加えた形であることが明らかになっていますから、呉人の西方移動によって生まれたと考えられるプ・マン族等のモン・クメール系言語と、苗系言語が共通の基盤を持つとするのは正しいのです。苗系言語が土台にあります。
 また、現在の中国では、チベット・ビルマ語属のイ語支と分類されているミンチャ(ぺー)語を、「語彙の四分の三と、文法の大半を他の言語から借用している言語を、モン・クメール語類とみなしてよいかどうかは、勿論問題であるし、ある程度議論のわかれるところであろう。といって、ミンチャ語を他の語類に分類するのは明らかに困難だ。」として、疑問を呈しながらもモン・クメール系に分類しています。
 しかし、この言語が、ほぼ漢語化していた楚語(苗系言語、トゥチャ語=こちらは中国でも苗系に分類される)を基盤とすることは、楚辞や楚の荘蹻(戦国時代)、松外蛮(唐代)の伝承から明らかですし、苗系とモン・クメール系は縁戚関係にあるので、ここでも「雲南」の著者、H・R・デーヴィス氏に軍配が上がるのです。氏の分析が正しいなら、楚語は苗系にアルタイ系要素の加えられた形で、漢語化していたと解することができます。そうすれば、苗系言語よりむしろ呉語(苗+アルタイ)の影響を受けたモン・クメール系に近くなり、矛盾が生じません。

 

 プ・マン族の本来の自称が「ワラ」というのは、この「雲南」以外では確認できないのではないでしょうか。日本の文明開化以来のここ百年の歴史を思うと、近年の中国の変化も過去数百年分に相当する激しいものでしょう。清朝時代の雲南を伝え、巻末には充実した語彙表も付されているという貴重な書なのです。
 呉人(倭人)の渡来していた日本に、ワやワラ(われ、われら、わたし、わろ→まろ等)と自称する民族がいたことも間違いなく、同じ呉人の西方移動により現在のプ・マン(ワラ)系民族が生まれたとすることに確信を与えてくれますし、そこからまた、新たな解け口が開けてきます。
 プ・マンは日本ではフマ、ウマに転訛するでしょう。ワラはワタ、ワダに転訛します。現在はプーラン(布郎)族と呼ばれているので、フラ、ウラ、フロにも関係しそうです。
 能登の輪島など、その音から、ワ・ワラ系民族の居住地と推定できますし、その南にある鳳至(ふげし)も呉に係りがありそうです。また、ミャオ族はラ族のことをカラと呼んでおり、これはワラの転訛のようです。日本ではカラからカタにも転訛しています。古代、朝鮮半島には、高句麗、百済、新羅と並んで加羅という国が存在しました。三国時代には、その大部分は魏志倭人伝中の、弁辰涜盧国と界を接した「倭」に含まれていたと考えられますが、これは中国人の呼称で、越人の国、邪馬壱国では当時から「加羅」と呼んでいたのではないでしょうか。このワラ=カラ=カタ族の存在は、朝鮮半島南端の「倭」は呉人の国であるという説を補強してくれるのです。「加羅」はカラ族(他称)の国、ワラ族(自称)の国、姫姓の王族を戴く呉の末裔の国ということになります。
 同時に、倭(ヰ)が「わ」と読まれるようになった理由も、倭(呉人)がワやワラと自称する民族だったとすることで解決できるのです。大和から山城にかけて流れる木津川を、古代は「ワカラ川」と呼びましたが、その理由も上記の民族名を当てはめるだけで済み、余分な説明を要しません。木津川も「紀(=姫)の川」の意味かもしれません。この川沿いの京都府、田辺町にも興戸(コウド)が存在していますし、草内という土地もあります。コウド、クサは呉、呉系楚の地名として挙げましたが、紀氏系氏族の毛野氏の祖に田辺(タナベ)史がいるので、タナベもおそらくそうです。このあたりは山城国綴喜郡で、北の紀伊郡につながっており、紀(姫)氏の一大居住地だった様相をみせています。
 カタ+ツムリは、「呉人の頭」という意味に解せますが、カタツムリが殻(音は「コク」、読みは「から」)を持つのも偶然でないことになります。つまり、呉人はカタツムリの殻型に髷を結っていた。これは沖縄の女性に見られる髪型で、ツブカラ巻きなどと表現されています。ツノグリという髪型もカタツムリを模しており、同じ源から発したものでしょう。さらに加えて、ツブとは田螺のことですから、この民族は水神の申し子として田螺も祭っていたと想像できます。各地に田螺が婿入りして幸せになる「つぶ長者」という民話が伝えられており、これも呉人の伝承と考えられるのです。ひっくるめて言えば、呉人は「巻貝」を祭っています。
 播磨国風土記、飾磨郡手刈丘には、「一に言う。韓(カラ)人等、始めて来たりし時、鎌を用いることを知らず。ただ、手を以って稲を刈る。故に手刈村と言う。」という記述があります。韓人が始めて渡来した時代は、鎌を持たない遥かなる古代でした。これは、弥生時代の初期から中期にかけて、呉人や呉系楚人が、稲の根元から刈る鎌を持っておらず、稲穂のみを石器で摘んでいたという伝承を記したものでしょう。
 呉人の風俗として、黒歯(日本では「おはぐろ」)が挙げられていましたが、プ・マン(プーラン)族の女性もまたビンロウの実を噛み、歯を黒くする習俗を持ちます。中国諸民族服飾図鑑(柏書房)に見るワ族の男子は、柄の長い斧(マサカリ)を持った形に描かれています。ミャオ族はその特徴である笙を持った姿にされていますので、このマサカリは画家の単なる思い付きではないようです。本家の周の姫氏も斧とつながっており、これは太伯、仲雍を介して呉に入った要素と考えられます。北方系民族は何か断ち切ることに執着があるらしく、南方系は突き刺すという形です。原始時代の平原と森林という居住地の風土と、そこから生まれた主武器(石と木)を反映しているのでしょうか。
 ワラ族と同系のパラウン(ポンロン)語では、棺に船の意味があり、舟形の木棺を作って死者が三途の川を渡るのに供するといいます(中国少数民族の信仰と習俗)。日本でも、隋書俀国伝に、「葬に及べば屍を船上に置き、陸地でこれを牽く。」という記述があって、同じ発想が見られます。そして、雲南語彙表で「boat(ボート)」を意味するパラウン語が「ka-le」となっていることと、仁徳記に、船の名として「枯野(カラノ)」が与えられていることが一致し、棺桶を意味する「からひつ」という語のあることに結び付くのです。「からひつ」とは「船のような入れ物」という意味になるようです。パラウン族の他称ポンロンはホロ、オロと転訛しそうです。カラ人(=呉人=倭人=汗人=韓人)は以下のような移動経路を想定できます。

 

 プ・マン(プーラン)、ワ、ラ系の諸民族は、モン・クメール系と分類される言語を使い、雲南からインドシナ半島に居住しています。呉という国を無くし、南方からやがて西方へ逃れた一族が、流れ流れてベトナム、雲南に達し、マライ・ポリネシア系先住民の上位に融合して生れた民族と扱うことになります。
 勾踐の越に、南方から追われた呉人(干人)は、北方や東方に逃れざるを得ず、東の海を渡って汗や倭と表されましたが、雲南の呉系民族は後の時代、秦、漢、晋(三国時代の呉を滅ぼした)などに追われて、西南に移動した呉人でしょう。現在のモン・クメール系民族は、基盤となった苗系に近い文法と、マライ・ポリネシア系の単語、さらに加えてアルタイ系(太伯、仲雍)の単語を持つと推定できます。かなり形を変えていると考えられますが、「カラノ」を例として挙げることができたように、日本語とは接点を持っています。
 「雲南」語彙表のワ語やラ語では、水牛は「Ka-rak」となっており、ウイグル語(西域のアルタイ系言語)の牛が「Kala」なので、これをアルタイ系単語の入っている証左とできるかもしれません。日本語のカラダに通じ、日本人は蛇身でありますが、牛体も持っているのです。魏志倭人伝には、日本に牛のいないことが記されています。このカラという名詞が、実体の見えないまま何百年間も日本の呉人間に受け継がれていたと解するのは難しく、日本に牛が入ってからカラダという言葉が生まれたのではなく、渡来以前から、牛トーテムに由来するカラという身体を意味する呉語があったと解せば矛盾をきたしません。最後のダはやはり蛇でしょうか。
 「神代紀」では、大人とかいてウシ(*)と読んでいます。これが牛(ゴ)という漢字の訓みに重なるのも、大人の後裔である呉人、カラ人との関係と説明できます。大人=うし=牛(ゴ)=呉人(干人)=韓人=Kala(牛)です。《*/ウは大、シは人を意味するようです。氏か?》

 

 牛と幹が一体になることに関しては、梓の木から出た神牛(水牛)の話が「捜神記」に見えます。武都故道という甘粛(西域)の話なので、北方系の伝承かと思いましたが、被髪(=越人の風俗)を恐れて水から出てこなかったとされています。
 プーラン族の祭るものは、竜神、竃神、土神、山神、祖先とされています。生活を依存する水、火、土、山と自らの祖先なので、これは、どの民族も似たり寄ったりかもしれません。しかし、ワ族の信仰については、「中国少数民族の信仰と習俗」に面白い記述があるので引用します。
 「天地、太陽、月、山河、鳥、獣など自然物も人間同様、「精霊」に支配されている。自然界の最大の神はムゥイジィといい、万物を創造した人類の最高支配者で、彼には五人の子供がいた。すなわちゴォラルゥオムゥは地震を司り、地震神といわれる。プゥロンはダアチョとも呼ばれ、雷を司り、雷神または火神といわれる。ダリジィは大地を開いた神、ダルゥアンは天空を開いた神であり、ゴォレイヌオはワ族の祖先である。」

 

●自然神の頂点には、ムゥイジィという神がいます。日本語になればムジ(ムヂ、ムチ)です。これが日本のオオナムヂ(大己貴)、オオヒルメノムチという神のムチに対応しているのです。他には、八島牟遅(ヤシマムヂ)という神名も見られます。そして、ムチには神や尊ではなく貴(キ=姫に通じる)という文字が当てられています。オオヒルメノムチは、日本書紀に「一書に曰く」という形で記されており、その名を伝えたのは、神のことをムヂ(ムチ)と呼ぶ一族だったということになりますから、これは呉人です。それに加えて、水をナムと言うのはタイ語(楚)ですから、オオナムヂ、オオヒルメノムヂは、呉系楚人の縄文語化(アルタイ系語順化)した言葉か、あるいは、漢語語順と結論できます。オオ(美称)+ナ(水)+ムヂ(神)です。
 狗奴国は呉系楚人の国で、本国の和歌山は名草(なくさ)といい、難波(なには)は、その臣、コウチヒコの領土でした。また、福岡の儺県(なあがた)も呉系楚人の言葉に起源があるのでしょう。全てがうまくつながるようです。
 日本に、水をドゥ(ミドゥ)と呼ぶ民族がいたことも間違いなく、奴(ドゥ)国は古い呉人の言葉で、同じく「水の国」の意味と解せられます。奴をナと発音したのではなく、大和朝廷、おそらく、そこを根拠地とした神功皇后時代に、奴(呉系)から、同じ意味の儺(呉楚系)へと地名が変化したのです。オオヒルメノムチとオオナムヂは対応しており、ヒルメ(*)は昼の目で、太陽を意味しますから、前者は太陽神、後者は水を司る月神ということにもなります。オオナムヂ神の幸魂、奇魂は海原を照らして出雲に出現したのですが(神代紀)、これは月明かりの表現です。 夜しか姿を見せない、虚空を踏んで三諸山に登るとされたのも月だからこそです(崇神紀)。鍵穴を通り抜けて女性の元へ通うのも月光の能力です。《*/ヒルメ…インドネシア語で太陽をマタ・ハリといいます。これは「目+日の」という意味で、太陽は日の目なのです。つまり、「日の目を見る」と「おてんとうさまを拝む」は全く同義ということになります。太陽は空の一つ目、ヒルメです。月は夜目でしょう。》
●巨大な鯰に関係する呉人(ワ族)が、地震の神、ゴォラルゥオムゥを祭っていることは、鹿島神宮の建御雷神と要石(越系要素)に押さえつけられている地下の地震鯰に対応します。地震のことを「なゐ」と言いましたが、これはナマヅが居る、転じてナマヅ神という意味かもしれません。ナマヅが水神なら、水を表すナ、ナムと完全に一致してもいいはずです。「なゐふる」で「ナマヅ神が震う=地震がおこる。」ということでしょうか。地面を深く掘れば必ず水が出てきます。地下には三途の川や黄泉もあって水浸しですから、大鯰も生息可能なのです。そして、「后稷壟は建木の西に在り。その人は死してまた蘇る。その半は魚である(*)。その間(=巴)に在り。」(淮南子)と、周の后稷は人面魚身無足の鯰に結び付けられています。后稷の子孫の呉も鯰と結び付くわけです。《*/…人魚とは山椒魚のことですから、足を取れば人面魚身無足という鯰の形になります。体の下半分が魚で、顔が人間です。鯰の髯と横長の口から、人の顔のイメージを導き出したのでしょう。》
●火神、雷神のプゥロンはフロに転訛しそうです。フル、フラもまたその関連語のようで、つまり、日本語の「風呂(火と水)」や「振る」、「震る(振動=雷)」、「(雨が)降る」の起源を説明できます。「古い」も呉人が最初に渡来した弥生人であることに由来するのかもしれません。
●天地を開いた神ダリジィ、ダルゥアンに対応するのではないかと思わせるのは、ダイダラボウという巨人伝説です。この巨人を大人弥五郎とする土地もあり、呉(五)と結び付いているのは既に指摘した通りです。これは中国の天地を開いた神、盤古の伝説(「三五略記」呉の徐整著)や、楚の始祖ともされる「重、黎」(山海経)に対応しており、盤古は槃瓠の転訛でしょうから、呉人の根底に苗系民族を置いたのはやはり正しいことになります。
 斎部広成の古語拾遺(*)は、記、紀神代を「説盤古に似たり」と評していますが、日本人と祖先を同じくするので、もっともなことです。《*/古語拾遺/伊邪那岐の左目から太陽神、天照大神が生れ、右目から月読神が生れるという日本の天地開闢神話が、盤古の神話に類似していることからこう評した。》
●そして、ワ族の祖先はゴォレイヌオですから、これも、呉という国号に関連しはしないか。地震神もゴォという音を持っており、ワ族は地の中の地震神に一番近いようで、地(土)から生れて来たというのかもしれません。それなら、女媧氏が土をこねて人を作ったという伝説に対応しますし、后土という土地神にも結び付きそうです。地響きの「ゴォ―」という擬声語もくっついてきます。
 ワ族の神名と、日本の伝承や日本語との完璧な一致から見て、ゴォ…という大人の一族(周の姫氏)と蛮夷(苗系民族)の融合した民族がプーラン族、ワ族等の祖であることは間違いないようです。この民族の巫師はすべて男性らしく、越系の邪馬壱国とは正反対の様相を見せています。
 ワ族は百年ほど前までは、首狩り族でした。豊饒を祈り、木柱の上を穿って、首を収め、上に石の蓋を被せた首柱を立てたとされています(「中国少数民族の信仰と習俗」)。そして、楚辞「招魂」に、「魂よ、帰り来れ。南方は止まるべからず。額に入れ墨し、歯を黒くし(雕題黒歯)、人肉を得て以って祀り、以ってその骨を醢(塩から)とする。」という句があって、呉人は人を犠牲として神に奉げる習俗を持っていたことがうかがえるのです。
 魏志東沃沮伝には、日本海に一島があり、その習俗では常に七月に童女を海に沈めると記されていますし、日本にも人身御供の伝承が沢山残っていますから、これは事実でしょう。伝説では、常に、犬やシケン(子鵑=ホトトギス)という越系要素(邪馬壱国)でそれを封じる形が採られています。
 呉の祭る蝸(カタツムリ=呉人の頭)の漢音はクワで、呉音はケですから、姫姓の呉人はクワラ(カラ)であると同時に、ケ、ケラ、ゲラでもあったようです。始祖の后稷は、農業神でケ(食)の神とされています。キツツキをケラツツキ(木=姫=ケラ)というのもここに由来するし、柿(コケラ)は木を削った細片を意味しますから、小+木(ケラ)と解釈できます。文無しのことを、「おけら」というのですが、これは接頭語の「お」に「から(空)」と同義の「けら」が付いたもののようです。螻蛄(ロウコ)とは昆虫の「けら」のことですが、和名抄には、「また、殻にも作る。(螻殻)」という注があり、これも「から(殻)」の転訛であることが解ります。大笑(ワラ)いの声は、カンラカンラ、カラカラ、ケラケラ、ゲラゲラ、ケタケタ、ワハハなどと表現され、すべて、この民族名と係っています。クスクスもまた笑い声で、これも呉の要素としたコソ、クソ、クスに結び付いているのです。水木しげるさんの「日本妖怪大全(講談社文庫)」には、「ケラケラ女」という妖怪が紹介されています。さびしい道を歩いていると、突然、大女(巨人)が後ろからケラケラと笑い声をたてるのだそうで、ここでも姫氏の要素の大女と結び付くのです。
 弥生時代の民族間の軋轢が、様々な民間伝承に姿を変えて、ごく最近まで残っていました。敵対する勢力を、悪さをする妖怪や悪鬼などと表現したわけで、それが、もし、好意的なものなら、自分達の象徴ということになります。
 テラも呉を表す要素に加えて良いようで、テラツツキもまたキツツキの古名とされていますし、テラテラはナマヅ、フグ(鯷冠、鮭冠)、カタツムリ(髪型)など粘液質のものが光る形容です。そもそも、この粘液質を祭るというのが呉の根源的な要素で、これは精液から導き出されます。
 わずかに笑う、「笑み」は、エヘヘ、オホホ、ウフフで、こちらは越系の恵比寿(えびす、ゑびす=事代主神=えみし=大国主神の子)、大黒(=大国主神)、お多福(福姫)に対応しています。
 春秋左史伝の僖公五年(B.C655)、晋の王位継承が乱れることを予見して、「狐の皮衣(狐裘)は乱れている。一国に三公がいる。私は誰に仕えようか。」と歌われました。ここでは、姫姓の晋を「狐の皮衣」と表現しています。他にも同様の記述がいくつか見られ、姫姓は狐と表現されています。周の文王は四乳があったとされていて、これも狐の表現です。ここから、日本語の「キツネ」は「姫の根」の意味であろうと推定できます。狐はまた野干とも表記されていて、呉の民族名の干にも結び付いています。
 呉王、闔廬の冢には、「闔廬を葬って三日後、白虎がその上に居ついたので、号して虎丘と言う。」(越絶書)とされていますし、呉の兄弟国、虞は虎と呉を組み合わせた文字ですから、呉には虎トーテムも顕著です。
 「今、呉中は雉を食べず。毒故なり。」という記述が述異記に見られ、これも呉の姫氏が雉トーテムであるなら、食べることを忌むのは理解できます。日本語が雉(ち、ヂ)をキジと訓むのもそれを示しています。
 左史伝、成公十六年には「姫姓は日なり。異姓は月なり」という言葉がありますから、呉は太陽です。それ故、祭りは太陽が顔を出す夜明けから日中に行われたでしょう。越や楚は月で、その祭りは日没から深夜にかけて行われることになります。
 周の色は赤で、これも呉に受け継つがれました。そして、太陽はアサや、朝栄暮落(*)の花、ムクゲとも結び付きます。《*/朝栄暮落…朝、花が開いて、暮れに落ちる。》
 ここまでに判明したことを整理すると、日本では、呉の姫氏はフラ、ウラ、フマ、ウマ、カン、カタ、カラ、ケラ、ゲラ、テラ、ホロ、オロ、ワ、ワラ、ワタ、ワダ、コソ、クソ、クス、クサという音や、鯰、フグ、鯨等の粘液質であるか無毛の動物。カタツムリなどの巻き貝。足の多い蜈蚣、蟹、蜘蛛、タコ。その他、狐、雉、虎、龍、巨人、斧(まさかり)、太陽、アサ(麻、朝)、ムクゲ、雲、土神(后土)、農業神(后稷)、数字の五などに結び付くことになります。
 鯉も髯を持つことから鯰とくっついて呉の要素となったようです。また、竹も呉の要素です。鮒、鴨もここに入れて良いのかもしれません。
 農業神(后稷)の祭りと狐が融合すれば稲荷となり、色は赤でピッタリと符合しますし、竹と姫を合わせたものなら「かぐや姫」があります。竹薮も虎を出すのです。また、クダギツネと言って、竹筒の中に入る細長い狐の伝承もあり、竹と狐と蛇が合成された伝承もあります(「改訂総合日本民族語彙」、平凡社)。
 「呉鐸は声を以って自ずから毀る。(音を出すことで、自ら壊れる)」と淮南子、繆称訓にあり、呉の産物として、鐸(大鈴)が挙げられていますから、鐸(タク)も呉の要素に含めることができます。以上は、全て呉系楚人(堂谿氏)の要素ともなります。

五、水と川を意味する言葉に関する考察

 呉王闔廬の弟、夫概は、闔廬との権力闘争に敗れ、楚に逃れました。堂谿に所領を与えられて、堂谿(たうけい、ダウカイ)氏となったのですが、この後裔に、福岡県の洞海湾を勢力範囲とする岡県主がいます。
 「雲南」の語彙表では、川を意味するプーラン語はオング(Ong)、ワ語はクローング(Klawng)、ラ語はクロング(Krong)となっています。そして、これは、岡の県主の所領内にある遠賀(オンガ)川に見事に一致しているのです。元々、オングやオンガと呼ばれていた水の流れに、川を付したものでしょう。したがって、呉系楚人は水をナ、川をオンガ(Onga)と言っていたことになります。オングは、江の転化と考えられ、江は Kong という音だったと考えられます(接頭語のク+オングか?)。

              《越のTondaは「雲南」語彙表のヤオ語Tomーdaiより》
 NからD、さらにRに転化  NがDに転化し、Dが脱落(原形Nung→Dung→Ung)?

 ワ語、プーラン語と同じモン・クメール系に分類されているベトナム語では、水はヌック(Nuok)で、川はソング(Song)となっていますから、ドゥ(呉音はヌ)、コング(Kong)という推定呉語の組み合わせに対応しています。ただし、雲南語彙表では、プーラン語の水はウング(Ung)、ワ語はロウム(Rowm)となっています。これは最初にあったDが脱落したり(原型、Dung→Ung)、DがRに転化した(原型、Dowm→Rowm)ものと思えます。奴の漢音がド(Do)で、呉音がヌ(Nu)であることを思えば、NとDは転訛しやすいと言えますから、全てをひっくるめた原形として「ヌング」、「ナング」というような言葉を想定できるかもしれません。サンスクリット語のナーガ(水神)につながりそうです。モン・クメール系ではソ語、ソウェ語の水が「Doi」や「Do」、タライン語が「Daik」となっていて、「(ミ)ヅ」に近いのですが、「雲南」は、どういう民族か、どの辺りに居住する民族かを記していません。
 呉、呉系楚、越の三系統の水を表す言葉をドゥ(ヅ)、ナ、ミ(ビ)と想定することで、ミドゥ、ミナ、ナミ、ナドゥ、ドゥナ、ドゥミの組み合わせが生まれることになります。日本語として、ミドゥ(ミヅ)とミナに関しては何の問題もありません。ナミも「なみなみと注ぐ」という擬声語があって、元来は水に関係していたと解することができます。注がれるのは波ではないでしょう。「ナビく」も水の流れに関係していて、枕詞は「玉藻なす」、「沖つ藻の」ですし、「ナビやか」、「ナビらか」は流れるように柔軟でなめらかな様をいいます。ナドゥ(ナヅ)には、海草を意味する「ナヅの木」という言葉があります。「ナヅさふ」は水の表面に引っ付いていることです。ドゥナは綱と表記されるかもしれず、長野市の飯綱山山頂に泉が湧き出していて聖地とされていたということなので、このヅナを水と解することは可能です。安曇(アヅミ)も接頭語のア+水(ヅミ)という意味でしょうか。井戸(イド)、淀(ヨド)のドも水を表すようで、「井+水の」「ヨ+水の」と言う苗系語順と解せられます。「ヨ」は「節(フシ)」を意味するのでしょう。そうすると、流れの速い「瀬」も竹の茎から出た言葉と推定でき、引っ掛かりのない背と同一起源のようです。「ヨド」と「セド(瀬戸)」は対応しています。ドンブラコやドドッ、ドブンという水音の擬声語や、ドブ(溝)、ドップリという言葉も水を意味する「ド」という言葉のあったことを思わせますし、ドンドン、ヅンヅンも進行の容易な川の流れに結び付きます。
 山代の伊豆美川(現在の木津川)は、より古い時代には伊杼美(イドミ)川と言ったという記述が崇神記、紀にあり、滋賀県の安曇(アド)川も、文字から安曇氏を連想していましたが、ここは呉人(韓人)の濃厚な土地で、単に、水を意味するその言葉が残ったものかもしれません。ミャオ、ヤオ、ミンチャの苗系三民族(越人)の言葉は以下のようになります。

 

 「雲南」所載の十九世紀末の雲南の言葉が、弥生、古墳時代の日本の言葉と全く同じというわけにはいかないでしょう。また、トゥチャ(土家)語の資料がなく、ミンチャ(民家)語と同一と解していいかどうか、不安は隠せませんが、日本語からみればこれは有効です。
 ミャオ語のナトゥリは宮城県に名取川があります。ナツ(リ)、ナテ(リ)、ナタ(リ)、ナリ、ナルなどと転訛しそうで、そこから、灘(ナダ)とは海流が速くて、川と呼ばれていた海であろうと見当がつきます。雪崩もナダリの転で、川のように流れると解釈した方が良いかもしれません。
 延喜式神名帳、近江国栗太郡に佐久奈度神社があり、瀬田川がサクナダリ落ちることから名付けられたとされていますが、これは「サク+川を意味するナド(ナダリ)、ナヅ」です。
 「なだめる」も川に関係し、怒りや悲しみを速やかに流してやることを意味します。そこから、起伏の少ないことを意味する「なだらか」という言葉が派生するようです。川の水面は、地面に比べれば、いくら波立っていたとしても平らかなものです。「撫づ」も手を流し滑らせて、感情を和らげています。どうも、心に川を働かせる(水に流す)ことで、心はエネルギーを奪われて正反対の動きの少ない、引っ付く意味に転じてしまうらしく、。「なつく」、「なづむ(=とどこおる)」などがこれに該当します。さらに、「とどこほる」は、「とど+凍る」の意味らしいので、「とど」は水か川に関連し、水を意味する「ド、ドゥ」という言葉があったことを再確認できるのです。おそらく、これは「止+ど(水)」という古い苗系か漢語の語順で、それが語幹となってアルタイ系言語に取り込まれた結果、「とどまる」、「とどのつまり」などの言葉が生まれたということでしょう。「届く」も流れが止まった最後を表します。形の良く似た海獣で、最も大きいものをトドといいますが、鯔が成長して最も大きくなったものもトドといいます。流れが止まってその先へは進まないのです。そして、「轟(とどろき)」は、水の流れが止められて鳴り響く音を意味することになります。滝壷に落ちる滝や、岩打つ波を思い浮かべれば良いようです。
 川を意味するヤオ語のトムダイは日本語ではトンダ、トダに転訛しました。和歌山県などに富田川という川がありますし、大阪の石川沿いに富田林があります。どちらも流域にヤオ族の居住地が存在したことは確実です。
 ミンチャ語のチャウチャウは、茶が「チャ、サ」という音を持つので、同様に、チャブから、サブ、ザブ、サムに転訛したと解することができます。これは水の音や洗濯の擬声語となって残っています。水や湯を「(オ)ブ」、お茶を「ブブ」というのも、ここに起源があるのではないでしょうか。「しゃぶる」という言葉もくっつきそうです。神奈川県に寒川という地名がありますが、川を意味するサムに重複して川が付けられたようです。そして、「チャチャ」から「ササ」、「ソソ」、「スス」、「セセ」への転訛も考えられ、「ささ(水が勢いよく流れる表現)」、「注ぐ」、「濯ぐ」、「すする」、「せせらぎ」などが、川を意味するこの言葉の派生語と考えられます。微(ビ)と表される民族なので、小さな流れの表現として残ったようです。また、「茶々を入れる」は「水を差す」と同義ということにもなります。
 ミンチャ語の水はスイとなっていて、これは漢語を採り入れたものです。本来の言語としてミ(ビ)があったのではないでしょうか。

六、呉、呉系楚、越の要素(概要)

 日本には呉、呉系楚(楚)、越の三系統の弥生人が渡来していました。実際にはもう少し複雑かもしれませんが、他は歴史に対する影響力、その痕跡を見出すことができません。渡来した人数と力が問題になるわけです。
 縄文人はこの中に吸収され、掻き消えてしまったらしく、皇室、皇族を除けば全く不明で、わずかに別(ワケ*)という氏族にその可能性が感じられるのみです。中央政界に有力者はいません。《*/別=景行天皇の七十人の子を諸国に封じたとされている。》
 最初に渡来した呉人は倭国大乱で敗れたため、呉系楚人や越人に吸収され、下層階級に置かれてしまったようで、これも後裔氏族が見つかりません。(呉系楚人はさらに呉の要素をすべて含むことになります。)

   関連要素       
呉系楚
倭(汗、韓)東鯷人(熊襲)倭人(陳寿のみ)
奴国、末廬国 伊都国、(岡国)、狗奴国 邪馬壱国、面土国
(姫氏、滅ぶ 紀氏(姫氏)、岡県主、上毛野氏 物部氏、三輪氏、大伴氏
苗系+アルタイ系単語 漢語方言、タイ系単語 苗系言語、漢語方言
黒歯雕題、小冠、巻き貝の殻型髷 椎髻?(楚人の建てた滇の髪型) 黥面文身、塗面、椎髻
鯰、蜈蚣、狐、竜、牛、赤 鯰、猿、牛、雷、亀、橘、熊、青蛇、雷、鹿、鰐、狗、子規、白
接頭語=ク
句呉
接頭語=ア、
接尾語=ケイ(下品)
阿楚
接頭語=オ(上品)
於越
稲荷
ミャオ族+羌=ワラ
男が神を祭る
神産巣日神、天之日矛
呉+トウチャ族+タイ系民族
男が神を祭る
オオナムヂ神、武甕槌神
ヤオ、トウチャ族融合
女が神を祭る

  続き、「中国、朝鮮史から見える日本、4」