弥生の興亡、2

中国、朝鮮史から見える日本、4

 第二章、日本周辺の国々の伝承

   一、亶洲と夷洲
    1、亶洲
    2、夷洲
   二、朝鮮半島の歴史と民族
    1、朝鮮北部(夫余、高句麗、東沃沮)
    2、朝鮮南部(馬韓、辰韓、弁辰)
    3、辰韓、弁辰の国名
    4、朝鮮の民族移動と日本
   参考文献


第二章、日本周辺の国々の伝承

一、澶州と夷州

後漢書倭伝
「又、夷洲と澶洲がある。秦の始皇帝が方士(*)、徐福を派遣し、男女数千人の子供を引き連れて海に入り、蓬莱神仙を求めたが出来なかった。徐福は誅されるのを恐れて、あえて帰らず、遂にこの島に止まったということが伝えられている。代々受け継がれて数万家がある。その人民が、時折、会稽の市に至る。会稽東冶県の人で海に入って行き、風のために漂流、澶洲に着いた者がいる。その所在地はあまりにも遠く、往来することはできない。」《*/占い、仙術、医術等を行う人。越方は越の方術》

1、澶州(たん州)
 和歌山県新宮市に徐福が到ったという伝説があり、蓬莱という地名まで設けられています。後者はこの伝説を根拠に、後世、作られたものと考えられますが、運があれば日本に漂着しますので、後漢書倭伝のこの記述も無視するわけにはいきません。
 徐福の記事は、史記、秦始皇本紀に見られます。中国を統一した始皇帝が、江南を巡幸して帰途につき、「北、琅邪に至る。」という文の後、「方士徐市(*1)等、海に入りて神薬を求め、数歳得ず。費多し。」と続きますから、徐福は山東半島の琅邪を根拠地としていたようです。また、史記、「淮南・衡山列伝」には、徐福が始皇帝を騙した経緯が描写されていて、「少年、少女三千人と五穀の種子、百工(*2)を載せて船出したが、平原と広沢のある島に着き、徐福はそこで王となり、帰国しなかった。」と続けられています。《*1/徐市(ジョフツ)、徐福ともいう。*2/器物、道具類》
 蓬莱神仙を求め、琅邪を出港した徐福は、土地の斉人のようです。そして、琅邪から海に乗り出したなら、日本に着く以前に耽羅(たんら)と呼ばれた済州島に引っ掛かります。済州島は火山島で、広い平原があり、海岸部に湧き水が豊かだといいますから、澶洲の地理的描写にぴったり重なるのです。魏志「韓伝」には、以下の文があります。
「また、州胡(*)がいる。馬韓の西の海中の大島に住んでいる。その人々はやや背が低い。言葉は韓と同じではない。みな鮮卑のように髪を剃っているが、ただし、(鮮卑と違って)なめし皮を着ている。好んで牛やブタを飼う。その服は上があって下がなく、ほとんど裸のようである。船に乗って行き来し、韓国で商いして色々なものを買っている。」《*/州は島、胡は北方系の民族。鮮卑に似ていると考えたためか?》
 この記述は済州島を語ったものですが、この島の住民の風俗が、倭、韓、中国南方の諸民族と全く異なっていることは注目に値します。どこから、どのようにしてやって来たのか、周辺の国々から完全に孤立しているように見えるのです。このことは、帯状に点々とその足跡を残してゆく民族の移動ではなく、船に乗った少数の跳躍的な移住を考えれば、うまく説明できるのではないでしょうか。
 済州島の伝説では、「元は人がおらず、良乙那、高乙那、夫乙那という三神人が初めて降った。猟に出たところ、海浜で三人の娘や諸駒、子牛、五穀の種を得て、娘を娶り、得た物を分け、水が豊かで土地の肥えたところに別れて住んだ。」とされています。
 五穀の種子等を積んだ徐福の一行が、耽羅に漂着したと解することに何の障害もありません。土地の先住民の中へ溶けこんでいった様子がうかがえますが、木の箱から娘が出てきたという別伝もあるらしく、それなら船ということになって、ますますその感が強くなります。斉人、徐福がたどり着いた島、澶洲(タンシュウ)は、やはり耽羅(タンラ)、済州島です。民族的には、古い先住民+呉+斉と考えれば良いのかもしれません。(Link「徐福と亶洲」

2、夷州

隋書流求国伝
「流求国は海島の中に居す。建安郡(福建省福州)の東にあたり、水行五日で着く。土地は山と洞窟が多い。その王の姓はカンシ氏。名はカツラツトウ。どこから来たか、国が何代続いたかを知らない。土地の人は王をカロウヨウと呼び、その妻をタハツトという。住んでいる所を波羅檀洞(ハラタントウ)という。堀と柵は三重で、環状に水を流しイバラを植えて垣としている。」

 流求国王の住んでいる波羅檀洞は、洞窟ではなく、三重の水濠と柵、トゲのある樹木の生け垣で丸く囲われていました。ハラタンは平地を意味する言葉かと思えます。洞とは防御施設を持った集落らしく、三国志演義では、南蛮王、猛獲が諸葛孔明との戦いに敗れ、逃げ込むところ全てが洞の名で呼ばれていて、流求国と共通しています。三国時代の南蛮(蜀の南)には、秦や漢に追われた楚人、越人(タイ系、苗系民族)が雑居していた可能性が強く、この洞という言葉そのものを流求に当てはめることができるのではないでしょうか。土地に山洞が多いとなっていますが、こちらは洞窟のことでしょう。
 そして、建安郡(福建省福州付近)の東、水行五日という流求国の王の居住地は、沖縄本島ではなく先島諸島の宮古島であり、ハラタン洞というのは、現在の平良(ヒララ)市に当たるようです。
「隋の煬帝は、海に入り異民族を求めさせた。命を受けたものは流求国に到ったが、言葉が通じず、一人をさらって帰った。翌年、再び使者を派遣して、流求を服属させようとしたが、流求はこれに従わなかったので、その国の(麻)布製のよろいを奪って帰った。ちょうどその時、倭国の使者(遣隋使)が来ていて、これを『夷邪久(イヤキウ)国の人が使うものである。』と語った。煬帝は兵を義安郡(広東省潮安県)から派遣し、これを攻撃させた。高華嶼に至り、また東行二日でクヘキ嶼に至り、更に一日で流求に至る。南方諸国の人を従軍させていたが、その中で崑崙人が流求の言葉を非常に良く理解した。(隋書流求国伝)」
 遣隋使の派遣年なので、隋の流求侵攻は607年~608年とすることができます。中国南方の広東省潮安付近の港から出て、最初に着いた高華嶼とは高雄、嘉義という地名のある台湾でしょう。そこに到るまでの日数を記していないのは、既知の島だったからです。漢代から既に儋耳、朱涯として海南島を支配していました。台湾は九州ほどの大きさが有り、見過ごすにはあまりにも大きすぎて、700~800年も後の隋代に全く知られていなかったとは考えにくいのです。住んでいるのはマライ・ポリネシア系言語を使う高山族(高砂族)です。
 ○○嶼(*)は、句と黽、辟と黽を上下に組み合わせた文字を使用していますから、クヘキ嶼と読むのでしょう。上部の句と辟が中国語の反切を意味しているのなら、「 K 」 u+H 「 eki 」 で 「 Keki 」 ケキです。《*右図 》これには石垣島が当てはまります。文字の下部にある黽はカエルを意味していて、「ばう、ミャウ」、「びん、ミン」、「べん、メン」の音がありますから、蛙トーテムの苗系民族を表すのかもしれません。
 想定できる航路は、まず、義安から出港して台湾南部(高華嶼)に着く。それから南の岬を回り、台湾の太平洋岸を北上し、北端に近い宜蘭のあたりから東の太洋に乗り出して、水行二日で石垣島(ケキ嶼)に至る。それからまた東へ一日の航海で波羅檀洞(平良)のある宮古島(夷邪久、ミャーク、流求)です。帰りは台湾まで、行きと同じ三日をかけて引き返し、捕虜数千人と戦利品を積んでいたため帰国を急いだのでしょう、潮安には戻らず、台湾北部から最短距離の福建省、福州へ直行する。それが水行二日。 合わせて建安郡(福州=東冶)の東、水行五日という記述になり、距離と日程が完全に一致します。
 中国南方諸国の崑崙人には、貴州、雲南省の民族を当てはめることができますが、苗系民族の移動は既に指摘した通りなので、流求の言葉を理解するというのもうなずけます。どちらも他民族との交流が困難な土地で、古来の言語をあまり変えずにいたと考えられるのです。
 煬帝は「海に入りて異俗を求訪せしめた。」となっていますから、流求国という表題は、文字通り、海流の中に求めた国という意味で、そう名乗る国が存在したわけではありません。隋書のいう流求国とは、台湾(高華嶼)と先島諸島(宮古島、石垣島、西表島等)の総称で、その中の先島諸島が、宮古島を中心として国を作っていた夷邪久国こと、夷洲なのです。「南境は風俗が少し違い、人が死ぬと、集落の人がみんなでこれを食べてしまう。」とも書いており、台湾とは当時から風俗が異なっていたようです。熊、羆がいたり、杉が生えていたりと台湾の描写もありますが、台湾とは思えない方の例を挙げます。
 ●「国には、王の下に四、五帥がいて諸洞を統率し、洞ごとに小王がいる。所々に村が有り、村ごとに鳥了帥がいる。」、「犯罪は鳥了帥によって裁かれるが、不服のあるときは王に上申し、王は臣下に協議させ、これを決定させる。」となっていますから、洞とは防御施設の施された大きな集落なのです。
 国家組織があり、<王 …四、五帥(将軍)…小王(諸洞)…鳥了帥(村)…住民> という何層かの階級があります。
●「男女は皆、白い紵(*)の縄を髪に巻き付け、頭の後ろから額までぐるりと回す。」これはハチマキで、木綿で頭を縛るという邪馬壱国の風俗に一致しています。《*/麻の一種》
●「婦人は薄地で模様の入った白い布をかぶり物としており、その形は正方形である。闘鏤樹(ガジュマル)の皮ならびに様々な色の麻、雑毛を織って衣服としている。そのデザインは単一ではない。」
 埴輪にも、四角い板状の物を頭に乗せた女姓像が数多くみられます。厚くて板のように見えてしまいますが、この薄い正方形の布の表現だと気付かされました。これは花頭ヤオ族などに見られる風俗です。
●「その耕地は良く肥えて、先に火を以て焼き、それから水を引いて注ぐ。稲や粟、○きび、麻、豆、アズキ、胡豆、黒豆などが良くできる。(○は意味不明)」
 江南は火耕水褥と表されていましたが、流求国の、「火で焼き、水を注ぐ」 耕作法と変わりません。もちろん現在の日本とも変わりません。稲以外は焼き畑作物のようです。
●「石の刃をつけた、長さ三十センチばかり、はば数寸(一寸は3センチ)ほどの一本の挿を持ち、田を耕す。」
 挿とは差し入れるという意味ですから、先端に石の刃を付けた短い棒状の農具を土に突き刺し、種をまく部分のみほじくっていたようです。もう少し便利な道具を工夫できそうに思えますが、ずっと後の時代まで、これが続いていました。15世紀、与那国島に漂着した済州島の漁民が残した記録には、「小挿で田をほじくり、草をよけて粟を植えている。」となっているそうで、これは司馬遼太郎氏の「街道をゆく」から拾ったものですが、15世紀の与那国島の農具は、この7世紀の隋書流求国伝に記された一挿と同じ物でしょう。石器を使っていたのは、石灰質で出来たこの島が鉄を産しないからで、「刀、長い矛、弓、矢、剣、刃のある矛などがある。この国には鉄が少なく刃はみな薄く小さい。多くは骨角で補助している。」という記述があります。したがって、鉄は交易で得たものと考えられます。
 流求は隋に従わず、官軍(隋軍)を拒み逆らったので、「しきりに戦い皆破る。その宮室を焚き、その男女数千人を虜とし、軍実を載せて還る。これより遂に絶ゆ。」と結ばれています。漢代から中国へ渡り、交易していたため、澶州と同様、その存在が中国政府に伝わっていたらしく、侵略の対象となってしまいました。既に、三国志呉書に、呉の孫権が夷州と亶州を求めさせた。亶州は発見できなかったが、夷州を見つけて数千人を捕えて帰ったという記述があります。
 台湾と風俗が少し異なるのは、苗系民族や縄文系北方民族が入っているかいないか、あるいはその濃度の違いに起因するのでしょう。後漢書の唐注にも、夷州は臨海(郡)東南とあって、先島諸島の位置に重ねられています。台湾なら臨海の南と表現しなければなりません。「四面これ山谿」という描写もありますが、台湾は西南方にかなりの平地を持ちますし、四面と一口で表すには島が大きすぎます。これは西表島に最も良く似合う表現なのです。
 宮古島には、漲水嶽という神嶽から平良の娘にヨバイする蛇神の伝説があり、三輪山と同じ形を持ちます。(「沖縄昔話集、宮古島の三輪山伝説」奥里将建著)
 総合的に見て、先島諸島(夷州)は越系の国と解して良さそうです。対して、沖縄本島の琉球王朝(15世紀)は、その船の上部を黒く、下部を白く塗り分けて目玉模様を描き、鯨か鯰を思わせる形に作っていますし、帆柱には蜈蚣の旗を高く掲げています。これは中国船を模したようですが(おそらく呉の伝統を受け継ぐ)、それをそのまま受け入れる素地があったということではないでしょうか。ツブカラ巻きなどの風俗も合わせると、呉系楚人(東鯷人)の様相が濃厚です。
 隋書の、流求国(夷州)の起源は全く伝わっておらず、孤立していた様子なので、船団からはぐれた少数の越人が偶然漂着し、マライ・ポリネシア系+アルタイ系?(=縄文系)先住民の上位に入ったと解すれば良いのではないでしょうか。
 邪馬壱国の同系部族が、東冶(福州)の東の海中、先島諸島にも国を作っていました。中国はそのことを昔から知っていたわけで、ここで、日本を会稽、東冶の東に置いた、陳寿の誤解の背景がいっそう明確になります。

二、朝鮮半島の歴史と民族

1、朝鮮北部 (扶余、高句麗、東沃沮、濊)

 朝鮮半島北方には、夫余が展開していました。夫余は、東胡というアルタイ語族の一支が南下したもので、山海経に「胡有り。不與の国。烈姓」という記述があります。さらに、東胡とは、大柄で紫髯緑眼などと形容される西域の胡の分岐なのでしょう。西域から東方へ進出して夫余となる過程で、中国諸民族との混血があり、その特徴が少なからず薄められていたようです。これは後の満州族の基盤をなす民族と考えられます。この夫余が朝鮮半島へ南下して、高句麗や濊、東沃沮などに分化しました。

●夫余
 夫余は長城の北、玄菟郡(現在の瀋陽、撫順付近)を去ること千里といいますから、現在の中国、吉林省あたりの平原に位置した国です。南は高句麗、東は挹婁、西は鮮卑と接していました。戸数は八万。その住民は定住して農耕しており、既に遊牧民としての性格を失っていたようです。大柄で、性格は強く勇敢、しかし、温厚で、他国に攻め込んで盗むようなことはしない。兄が死ぬと、弟が兄嫁を妻にするという匈奴と同じ風俗を持つ。死者は手厚く葬るが、槨だけで、棺は無いとされています。
 夫余は、元々、漢から濊王の印を授けられていました。しかし、古老が自らを亡人(逃れて来た人)と言い、中国には濊城という名の古城があるということですから、玄菟、楽浪などの四郡を置いた武帝の東方進出に追われて北方に移動したようです。したがって、濊と民族的には同一です。山海経は、「葢国は鉅燕の南、倭の北に在り。」と記していますし、高句麗本義では、夫余王の名を解夫婁としていますから、濊はワイではなくカイと読みます。

●高句麗
 高句麗は遼東の東千里。南は朝鮮(中国領、楽浪、帯方郡)、濊貊と、東は沃沮と、北は夫余と接しています。丸都山の麓に都を置き、国土は二千里四方で、三万戸がありました。国の広さは扶余と変わりませんが、戸数は八万戸という扶余の半分にも満たない数です。山岳地帯で、農耕に苦労していたらしく、その結果として、性凶急で略奪を喜ぶと評されることになったようです。鬼神(西王母等)や霊星、社稷(土地神、后土と農業神、后稷)を祭るとされていて、中国の文化が色濃く入っています。
 婚姻は、話が決まった後、婿が新婦の実家に入り、生まれた子が大きくなった後、妻を連れて家へ帰るといいますから、若者達が一つ屋根の下で共同生活し、娘の所へヨバイする南方系風俗とは全く異なっています。邪馬壱国の越人なら、記、紀をみる限り、子供が先に出来て、父母の事後承諾という形にならざるを得ません。
 国民は気力があり、戦闘に慣れていて、沃沮や濊はみな高句麗に従っていました。高句麗の別種を小水貊と呼んでいますから、高句麗と貊も同民族です。
 高句麗本紀は、始祖の東明聖王、朱蒙(鄒牟)が、夫余から逃亡して建国したという伝承を記していて、朱蒙の母親は夫余王の婢(越人の可能性大)だったようです。
 十月に天を祭り、国中の各地で賑やかに集まる。それを東盟と称していますから、これは天神である始祖王の祭りでしょうか。あるいは、武帝以前の漢代は十月を歳首(年始)にしていましたから、それが取り入れられていたのかもしれません。
 以下は、漢書王莽伝や魏志高句麗伝を整理した高句麗初期の歴史です。「新(漢と後漢の間に短期間存在した国)の王莽は、初め高句麗兵を徴発して匈奴を伐った。行きたがらないのを郡が脅迫したが、皆、塞を逃げ出し、法を犯して寇となり、遼西大尹、田譚はこれを追撃したが、逆に殺されてしまった。郡はその咎を高句麗侯、騶に帰したが、厳尤は奏言した。『貊人は法を犯し従いません。騶に悪心があるのは確かですが、州、郡に命じてこれを慰安すべきです。今みだりに大罪を被せると、恐れて遂に叛くでしょう。夫余の属には必ずこれに呼応する者があります。匈奴に未だ勝っていないのに、夫余、濊貊が起てば、これは大憂であります。』王莽は聴かず、厳尤にこれを討たせた。厳尤は高句麗侯の騶を誘い出して斬り、その首を長安に伝送した。王莽は大いに喜び、更に高句麗を名付けて下句麗となし、此の時に(独立国としての地位を奪い)侯国となしたのである。」
 首長の騶が切られ、国名を下句麗と変えられてしまった後、貊人はますます辺境を犯すようになったといいます。ここでも高句麗と濊貊は区別されていません。高句麗本紀は、朱蒙を継いだ二代目の瑠璃明王(類利)時代のことで、将軍、延丕の首が切られたのだと記しています。しかし、朱蒙は一名、鄒牟(スウム)、あるいは衆解とされており、騶と同音です。ここは漢書の記述通り、その王が斬られたと解釈できます。漢書は王莽から一世紀も離れていない後漢代の書物なので、信頼度もそれだけ高いのです。
 後漢の光武帝の建武八年(A.D32)、高句麗は使者を派遣、朝貢し、王と称しました。建武は三十一年まで続き、その後、建武中元と改元されたのですが、その二年(57)、「春正月辛未、初めて北郊を立て后土を祀る。東夷、倭奴国王、遣使奉献。」という記事が後漢書、光武帝紀に見えます。
 順帝、桓帝の頃、高句麗は帯方郡の令を殺し、楽浪郡太守の妻子を誘拐するほど強勢でした。霊帝の頃には、少し衰えて、漢の玄菟郡に従属しています。しかし、安定というにはほど遠い状態だったことでしょう。
 ここでの一番の問題は、高句麗王の姓が、騶(スウ)とされていることで、これは越王騶氏に完全に重なっています。また、国号の「クリ」も苗系言語では犬を意味する語です。日本の神社には高麗犬と称するものが置かれています。高句麗の首長は越系、狗トーテムのヤオ族の可能性濃厚です。

●東沃沮
 東沃沮は高句麗の蓋馬大山の東で、日本海に沿って住んでいます。その地形は東北に狭く、西南に長い。およそ千里ほどで、北は挹婁、夫余と、南は濊貊と接していました。戸数は五千。大君主は無く、それぞれの集落ごとに世襲の長がいる。その言語は高句麗とほとんど同じで、わずかに違いがある。食飲、住居、衣服、礼節も高句麗に似たところがあるとされているので、高句麗の同系民族と扱って問題ありません。
 高句麗に臣属し、税として貊布や魚、塩、海中の食物を高句麗まで運び、その美女を送って高句麗の婢妾としていたが、奴隷のように扱われていたといいます。
 婚姻時は、夫の家が幼い妻を迎え、成人まで育てた後、妻の実家に帰り、何年か働いて約束の対価を支払ったようです。ここも、歌垣などで好きあった者同士が結婚するという南方系の形とはまったく異なり、親が全てを決めています。
 「その葬には大木槨を作る。」とあって、棺がなくて槨だけです。その槨の長さが十余丈とされていて、二十四メートル以上もあることになります。大木一本分ということでしょうか。具体的イメージをうまく作れません。一方に入り口を設けて米などを供えています。
 「新たに死者が出ると、仮の埋葬をしてほんの少しだけ埋める。皮や肉が腐って無くなると骨を掘り出し、槨の中に置く。家族は、皆、同じ槨に納められた。」
 ここでは、高句麗と同じく北方系に基盤を持つと考えられる民族の埋葬法が、「列子」に記される楚の南方に居住した炎人(蛋民、タンミン)の風俗に一致しているという不思議があります。高句麗は土地の北方系先住民にヤオ族が融合し、この東沃沮はタイ系民族が融合した国なのでしょうか。タンとタイの発音が良く似ていますし、楚の南方にこの民族が居住していたのも間違いないところです。漢代には東沃沮に不耐城があり、不耐濊侯も存在しました。

●濊(カイ)
 濊は南は辰韓と、北は高句麗、沃沮と接し、東は日本海に窮まる。朝鮮(中国領)の東は皆その濊の土地です。戸数は二万。大君主はいないとされています。ここも高句麗の同族と唱えていました。言語や法俗はほとんど高句麗と同じで、衣服に違いがある。真珠や玉は宝としません。
 武帝に追われた「濊王の印」を持つ一族で、北方に逃れた主力が夫余となり、東方に移動したものがこの濊になったと解釈すればいいようです。
 濊はおそらくタイの転訛で、楚人が先住の北方系民族の上位に入って建国した国かと思えます。朝鮮民族の祖とされる檀君は熊から生まれたとされていて、楚の熊トーテムに一致しています。濊は虎トーテムだったらしく、虎を祭って神としています。これは熊と同時期に、人間に変りたいと穴にこもったが、途中で挫折して失敗したとされている動物ですから、熊トーテムの下位に置かれていた部族と見当が付けられます。中国では虎のことを李父や李耳といいますから、濊の首長階級は李姓と考えられ、そして、これはトゥチャ族(=巴の李氏は虎トーテム)の可能性濃厚です。今昔物語には、新羅へ渡った人の「虎と鰐の戦い」の目撃談が記されています(巻第二十九「鎮西の人、新羅に渡りて虎に値ふ語、第三十一」)。これは事実ではあり得ない。虎トーテムと鰐トーテムの部族の争いの寓話と考えられます。。
 夫余は北方系民族(東胡)に楚人が融合した熊トーテムと考えられますが(*)、そこに狗トーテムの越王の血が入り、朱蒙(鄒牟=騶)が南方で独立して高句麗を建てた。夫余から分かれて東方に展開した濊は、その下位氏族で虎トーテムだったという順序になるようです。(*/高句麗本義では、天帝の子と名乗る夫余王、解慕漱が熊心山に結びつけられています。)

2、朝鮮南部(馬韓、辰韓、弁辰)

「韓は帯方郡の南、東西は海をもって限りと為し、南は倭と接している。広さはおよそ四千里四方。三つの国があり、一は馬韓といい、二は辰韓といい、三は弁韓という。辰韓は昔の辰国である。(魏志韓伝)」
 辰国の辰は東南を表し、朝鮮半島東南の国という意味のようです。弁韓(弁辰)の弁が辨の略字なら、分かつ、区別するという意味ですから、辰韓とは別の国であることを表していることになりますし、辮の略字なら、編むという意味ですから、辰韓に入り交じって編みこまれた国という意味になります。

●馬韓
 馬韓は西に在って、黄海に面していました。後の百済の位置と言えば理解しやすいかもしれません。その住民は定住して農耕する。養蚕を知り、綿布を作る。国ごとに権力者がいて、山海の間に散らばって住み、城郭などはなかったといいます。大国は万余家、小国は数千家で、全部で十余万戸があり、その一国の月支国を治める辰王は、馬韓にあって、辰韓十二ヶ国を統治していました。
 魏志韓伝には、馬韓の五十余ヶ国が記されていますが、その中に伯済国があり、これが百済の前身です。百済は高句麗から分かれたとして、夫余とも名乗っています。
 また、馬韓には卑弥国、不弥国という国名も見られ、倭人伝の卑弥呼、不弥国と共通の文字が用いられています。この二つは越人の国の可能性が感じられますから、邪馬壱国は馬韓(百済)から渡来したとできるかもしれません。
 殷が周に滅ぼされた後、殷の王族、箕氏は朝鮮に移住し国を建てました。おそらく、その土地には、先住民として、北方、平原地帯から南下したアルタイ語族が散居していたでしょう。その後、殷の箕氏の後裔は、四十余世代にわたって朝鮮を支配し、燕と国境を接していたのです。周が衰え、燕が王を称するに及び、朝鮮の箕氏も同様に王を称しました。しかし、戦国時代終盤には燕に押され弱体化していたようです。秦が中国を統一すると、その勢力は遼東にまで及び、朝鮮王、(箕)否は、秦を恐れて服属する体を装いましたが、しかし、決して朝会することはありませんでした。否が死に、その子の準が立つ。二十余年後、陳勝や項羽が秦に背いて天下が乱れ、燕、斉、趙の住民で朝鮮へ逃亡するものが増えてきたため、準はこの人々を国の西部(海岸部)に居住させました。この時、新たに中国人の植民地が生まれたわけで、これが楽浪郡や帯方郡のきっかけとなったようです。
 漢が興ると、高租(劉邦)は将軍、盧綰を燕王に封じ、燕は平壌を流れる大同江を境界として、朝鮮と接していました。その後、盧綰は謀反の嫌疑をかけられ、北方の匈奴に逃亡します(前漢十二年=B.C195)。その時、燕人衛満は蛮夷の習俗に合わせ、朝鮮に亡命してきたといいます。漢の咎を恐れるのですから、燕の高級軍人だったのでしょう。
 衛満は、「西方に住み、中国からの亡命人を率いて、朝鮮を守る垣根にしたい。」と説得したため、準はこれを信じ、博士という官を与え、百里の土地に封じて西辺の守備につかせました。しかし、衛満は亡命人を誘い、数が増えるに及んで、「漢兵が攻めて来たので、王宮に入って守護する。」と偽り、兵を向けてそのまま準を攻撃したのです。朝鮮王準は、側近や宮人と共に船で南方に逃れ、そこで韓王と号しました。準の後裔は絶えてしまったが、今(おそらく陳寿の今=晋代)に及んでもその祭祀を続ける者がいると記されています。
 韓は、漢代には楽浪郡に属して、しばしば朝謁していました。後漢の桓帝(147~167)、霊帝(168~188)の末になると、韓、濊は勢力を強め、郡県は制御することができず、韓国に流入する中国人が多かったのですが、建安年間(196~220)、公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡となし、政情も安定したため、中国人が戻って、この後、韓や倭は帯方郡に属していたといいます。
 魏の正始七年(246)、魏は辰韓の八国を楽浪郡に編入しようとしたことが原因で、韓と戦うに至り、これを滅ぼしたとされていますから、この時、韓王家の箕氏が滅びたのです。以上が、魏志韓伝や裴松之注の記す魏略逸文、史記、漢書から浮き上がってくる朝鮮半島中、南部の歴史です。
 魏志韓伝には、「風俗は綱紀が少なく、国に権力者がいるといっても、集落ごとにバラバラに暮らし、うまく制御することができない。跪拜の礼はない。」、「北方は帯方郡に近く、諸国はやや礼儀を知っているが、郡から離れた所では、囚人や奴隷が集まっているようなものである。」とあり、王家を失った馬韓は、民族的に複雑で統制がとれなかった様子です。しかし、豪族間には、それなりの序列が残っていたらしく、月支国王が辰王となって辰韓を統治していても、独立することは認められず、馬韓の一国の王に過ぎませんでした。後に、伯済国が台頭して百済となります。
 隋書百済伝には、百済では、新羅、高句麗、倭等が混じりあって住んでいると記されていますが、350年ほど以前の魏代から、既に同じ様な状況だったようです。
 金銀が宝で、珠玉を宝としないという北方の風俗に対し、馬韓では、逆に、金、銀、錦、繡を宝とせず、珠玉を以って財宝と為し、衣服に縫い付けたり、首飾りや耳飾りにします。珠玉を宝とするのは呉、越等の南方系風俗で、韓には南方系要素がより強く入り込んでいました。入れ墨する者がいるとも記されています。死者を葬るときは、「棺に納めるが槨はない」というのも倭人伝と共通で、夫餘や東沃沮の槨に葬る習俗とは違いをみせます。
 「住居は草の屋根と土の部屋を作り、(中国の)墓のような形をしている。戸口は上にあって、家を挙げて、いっしょにその中に住んでいる。長幼、男女の区別はない。」、「牛や馬に乗ることを知らず、牛、馬はみな副葬に使ってしまう。」となっていますから、乗馬は馬韓には入っていません。馬の韓というのは音を採っただけでしょうか。
 鬼神を信じ、国ごとに一人を立てて天神の祭りをつかさどる。これを天君と呼んでいました。また、諸国に蘇塗(ソト)と呼ぶ特別な集落が在り、鈴や鼓を懸けた大木を立てて、神の聖域であることを示し、政治権力の及ばない治外法権地帯と為しています。日本の神社も同様の機能を持っていたようで、雄略紀などには、追われる者が神社に隠れようとする記述が見られます。

●辰韓
「辰韓は馬韓の東にある。その老人は、代々、次のように言い伝えている。むかし秦の労役を避けて、韓国にたどり着いた亡命者で、馬韓がその東の土地を割いて与えてくれたのである。(魏志韓伝)」
 辰韓は馬韓の東ですから、日本海側、後に新羅となる位置に存在した国です。その十二国の中に斯盧(シラ)国があり、これが新羅(シラギ)の前身とされています。裴松之の注にある魏略逸文は、「秦は天下を併せ、蒙恬をして長城を築かしめ、遼東に到る。」と記していますから、秦の労役とはこのことを指すようです。
 「城柵がある。その言語は馬韓と同じではない。国のことをハウ、弓をコ、賊をコウ、酒宴することをカウシャウと言い、御互いを呼ぶにはトと言う。秦人の言葉に似たところがあり、単に、(近くの)燕や斉の呼び名が伝わったというものではない。」
 辰韓には倭人伝と同じ城柵があります。秦の言葉に似ているといいますが、お互いを徒(ト)と呼ぶのは、ヤオ族の言葉でもあるのです。
 「楽浪人のことを阿残と呼んでいる。東方の人は自らのことをアと言い、楽浪郡の人はそこに留まった同族だと言うのである。今、辰韓を秦韓とする者がいる。始めは六国であったが、次第に別れて十二国となった。弁辰もまた十二国ある。」「辰韓の十二国は辰王に属している。辰王は常に馬韓人を用いて王とし、代々相続している。辰王は自立して王となることができない。」
 馬韓の記録では、その月支国の王が辰王であるとされています。辰韓は辰王(月支国王)に従属していて、そして、その辰王は馬韓の中の一つの国を統治する王にすぎなかったというわけです。馬韓は十余万戸で、辰韓は四、五万戸となっていますから、人数的に圧倒されていましたし、国を分けてもらったという負い目もあったのでしょう。
 秦の始皇帝に遼東半島へ駆り出され、長城建設に酷使されていた民族が、秦の滅亡後、楽浪郡へ南下し、その一部がさらに馬韓に逃れて、その東方に辰韓を建国、馬韓の辰王に従属していたということになります。
 「土地は良く肥えて、五穀と稲を植えるのに適している。養蚕を知っており、目の細かい絹を織る。牛や馬に乗ったり、車を引かせたりする。婚姻の礼儀や風俗に男女の区別がある。大きな鳥の羽を使って死者を送る。死者が天高く飛び立てることを願ってのことである。」
 日本の神話では、日本武尊が白鳥になって天に昇っていきます。それを思い起こさせる記述で、死者の魂の行く先として天を意識するのは、北方系の習俗です。
 「男女の区別がある」というのも北方系の要素でしょう。倭人伝では、会同に男女の区別はないとされていましたし、馬韓にもありません。韓ではこのように南北の風俗が複雑に入り混じっていたのです。
 また、辰韓には早くから乗馬が入っていて、これは三国史記、新羅本紀の「東沃沮が馬を献上してきた。」という記述からも裏付けられます。
 「子が生まれると、石でその頭を圧迫して狭くしようとする。今、辰韓人の頭は皆狭くなっている(褊頭)。男女は、倭人とあまり変わりが無く、同じ様に入れ墨をしている。歩いて戦うのが得意で、兵器は馬韓と同じである。その風俗では、歩いているものが出会えば、みな立ち止まって道を譲る。」
 褊頭というのは、頭の後頭部に石を当てて、絶壁頭を作ったことを言うのでしょう。そして、このために石枕を使ったのではないかと思い当たるのです。起きているときに、石で頭を圧迫するうまい方法を思い付きません。
 入れ墨しており、歩いている者が出会えば、立ち止まって道を譲るという記述は、大人と行き会えば、後ずさりして草むらに入り、道を譲るという倭人伝の記述を思い起こさせます。城柵を作ったり、「男女は倭に近く」としているように、辰韓には、邪馬壱国との共通要素が非常に多くみられます。

●弁辰
「弁辰は辰韓と雑居している。また城郭がある。衣服や住居は辰韓と同じである。言語や法俗も良く似ているが、鬼神を祭る方法に違いがあり、かまどをみな家の西側に作る。弁辰の瀆盧国は倭と境界を接している。」、「弁辰の十二国にも王がいる。弁辰人はみな体が大きい。衣服は清潔で、髪を長く伸ばしている。また、広幅の目の細かい布を作る(広幅細布)。法俗は特にきびしい。」
 砦の作り方が、辰韓は城柵で、邪馬壱国と共通の表現が採られているのに、弁辰は城郭と表されていますから、木の柵を使っていないようです。土塁でしょうか。
 後に新羅となった朝鮮半島東南部で、辰韓と弁辰が雑居していたわけで、これは国名というより民族名とした方がいいようです。辰韓人の国の隣に弁辰人の国があり、そのまた隣に辰韓人の国があるというような形です。
 辰韓人は、秦の労役を逃れて馬韓の東へ来たと伝えていました。おそらく始皇帝死後の騒乱にまぎれて脱出したのでしょう。何処かから、長城建設のため強制移住させられたのです。
 弁辰瀆盧国(テーク)と界を接した南の倭は、倭人伝や史記などを分析して、呉人中心の国であるとの結論に達しました。辰韓人は男女とも倭
(*)に近く文身しています。立ち止まって道を譲るという風俗も、邪馬壱国の倭人に似ているし、砦も城柵という表現で倭人伝と共通です。それなら、この人々は越系ではないか。《*/この倭は日本のことです。報告者に陳寿のような倭と倭人の区別はありません。》
 もし、呉人であれば、南の倭に合流した方が安全を確保できるでしょう。そうせず、辰韓が別の国を建てているのは、言語、風俗が少し異なり、呉と敵対的であった越人だからではないかと思わせるのです。楚や越君は秦に最後まで抵抗した国なので、その住民が徴発されて、万里の長城建設に酷使された可能性は十二分にあります。そして、弁辰人と辰韓人は、おそらく、時を同じくして馬韓に逃亡して来たのでしょう。つまり、秦に征服された別の土地から遼東へ連れてこられたということで、だからこそ、馬韓が割き与えた東の土地に雑居していたのではないか。
 弁辰と辰韓は衣服、住居、言語、法俗が良く似ているとされていて、大きく異なるのは宗教です。似ているが、少し系統の違う民族でした。そして、竈を必ず家の西側に作ると言う弁辰人は、竃に特別な意味を与えていたらしく、これは、竃神、祝融の子孫と唱える楚人を想起させるのです。
 いずれにせよ、馬韓、辰韓、弁辰(弁韓)の三つの国は、基盤となった北方アルタイ語族と春秋晩期以降に大挙移住した江南の勢力が、異なった割合で、複雑に混交しており、習俗も混乱しています。秦代から、この魏代まで、既に450年を経ていますが、同化というには時間が足りなかったようです。

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軍弥国=亀尾(クミ)?

瀆=涜





3、辰韓、弁辰の国名

「已柢国、不斯国、弁辰弥離弥凍国、弁辰接塗国、勤耆国、難弥離弥凍国、弁辰古資弥凍国、弁辰古淳是国、冉奚国、弁辰半路国、弁辰楽奴国、軍弥国、弁軍弥国、弁辰弥烏邪馬国、如湛国、弁辰甘路国、戸路国、州鮮国、馬延国、弁辰狗邪国、弁辰走漕馬国、弁辰安邪国、馬延国、弁辰瀆盧国、斯盧国、優由国」

 以上が辰韓、弁辰の二十四ヶ国です。実際には二十六記されていますが、同名の国が見られるので、それは一つと数えたのでしょう。軍弥国と弁軍弥国(これは軍弥国から分れたという意味になる。)、馬延国が二つ。
 辰韓、弁辰は馬韓の東の地(後の新羅)に雑居していたので、国名も入れ混ぜて書いています。表現が正確なのです。前に弁辰と断っていないのが辰韓の国ということになります。書き方から、辰韓が主、弁辰が従であることもわかります。

4、朝鮮半島の民族移動と日本

 おそらく、朝鮮半島では、有史以前から、大柄の北方アルタイ語族が南下し、北上する小柄なマライ・ポリネシア系民族と混血する過程を繰り返していたのでしょう。南方系が多数派で、首長階級として北方系が上位に入れば、小柄でアルタイ系言語を使う民族の生まれることを想定できます。日本の縄文人の主力も同系と解せば、現在、アルタイ系に分類される日本語と縄文人の小柄な体格を説明しやすくなるのです。
 やがて、周の建国時に殷人が朝鮮に移住し、その後、春秋末期に、王族(姫姓)に率いられた呉人が大挙移住しました。呉人(倭人、汗人)は朝鮮半島の西部から南部に色濃く展開していたようです。越王勾踐は琅邪まで進出していますので、呉人は北方から東方へ追い詰められ、山東半島先端部から海を渡ったと考えるのが最も自然でしょう。韓というのも、呉人に対する一表現なのです。この韓人(日本ではカラヒト)は、日本にまで足を伸ばして弥生時代を開きました。《注…現在の時代区分では縄文晩期とされています。》
 やがて、秦の始皇帝25年に楚、越は平定され、翌年、斉が滅びて春秋戦国の長い戦乱に決着がつきます。始皇帝32年、「秦を亡ぼすは胡なり。」という方士の言葉を信じた始皇帝は、将軍、蒙恬に胡を討たせ、34年には長城の建設にとりかかりました。この時、長期に渡って抵抗を続けた楚人、越人を、遼東半島に強制移住させ、長城建設に酷使する方策を採ったのです。
 その労役に数年間苦しんだようですが、始皇帝死後の混乱に乗じ、この人々は各地に逃亡しました。西方に向かった者は濊(=蓋。夫余)を建国しましたが、南方に逃がれた者は馬韓に達し、馬韓が割き与えた東部の土地に雑居して集落を作っていたのです。越人は辰韓、楚人は弁辰と呼ばれています。この弁辰人(楚人)は、楚の各地からかき集められたと考えられますが、呉系の堂谿氏(姫姓)がその首長となっていたようです。堂谿(呉房)は秦に近く、その戦いの時には最前線といった位置にありますから、秦には目障りに写ったことがあったのかもしれません。秦から渡来したことから、この一族は秦人(秦氏)と呼ばれています。始皇帝やその王族に系譜をつなぐのはともかく、秦氏が秦に出自を持つのは事実なのです。そして、呉人ですから韓人(カラヒト)であり、楚人ですから園人(ソノヒト)でもあります。延喜式の宮内省に坐す神三座は、韓神社二座、園神社とされていて、呉+呉系楚と考えれば計算がぴったり一致します。
 さらに時が流れ、漢の武帝により、江淮の間に強制移住させられていた越人が、新たに朝鮮半島、馬韓に移動しました。数代を経て、この人々が後漢の安帝、永初元年(107)の少し以前、面土国王帥升に率いられ、福岡県の津屋崎周辺に渡来し、奴国と戦ったことは既に記した通りです。その後、出雲に移動し、そこで勢力を培ったこの一族は、大和に進出して覇権を握り、邪馬壱国を建てたのです。漢に出自を持つことから、漢氏。あるいは、文字を伝えたことから文氏と呼ばれています。それ以前に、同系の辰韓人も日本に渡来して、出雲に国を作っていたらしく、オオナムヂ神が出雲で国造りをした後、海原を照らしてその幸魂、奇魂が出現したと表され、出雲ではオオナムヂ神が二重になっています。後から来た幸魂、奇魂が御諸山に住みたいと言って大和に移動したわけで、この過程が倭国大乱と表された戦乱に他なりません。
 漢氏、文氏が同族であることは坂上系図から明らかに出来ます。倭国大乱は、越人(オオナムヂ)と呉系楚人(スクナビコナ)が同盟し、先住の呉人に対抗したものです。呉人の国を滅ぼした後、卑弥呼率いる邪馬壱国の越人(騶氏=迁氏)と、卑弥弓呼素率いる狗奴国の呉系楚人(姫氏=紀氏)が仲間割れした。オオナムヂ、スクナビコナは共同して国造りをしたが、やがて、スクナビコナは粟茎にはじかれて常世の国へ行ってしまった(記、紀神代)。つまり、スクナビコナは破れた。そのあたりの出来事が魏志倭人伝に記されているわけです。

魏志東夷伝等を整理すれば、朝鮮半島における民族移動は以下の様な形になります。
 
   

韓人(汗人=倭人=呉人) B.C473の呉の滅亡後渡来。姫姓。奴国、末廬国等>
秦人(韓人+園人=呉系楚人) 弁辰=新羅から渡来。堂谿氏=姫姓。狗奴国、伊都国等
(越人1) 辰韓=新羅から渡来。騶(芊=千)姓
漢人、文人(=越人2) 新から馬韓(百済)を経て渡来。騶(千)姓。邪馬壱国、不弥国等


 縄文系の皇室にとって、新たに渡来した弥生人はすべて帰化人でした。前王朝の邪馬壱国はヤオ・ホツ族の国、物部氏の国、越系の帰化人、文氏の国だったのです。帰化人とされた人々について知らなければなりません。

    続き、「帰化人の真実、1」


参考文献

中国、朝鮮原書類 (史記、漢書、山海経、淮南子、春秋左氏伝、呉越春秋、越絶書、国語、呂氏春秋、荘子、 竹書紀年、文選、戦国策、爾雅、楚辞、述異記、荊楚歳時記、孔子家語、説苑、太平御覧 隋書、列子、三国史記)
風土記、日本書紀、古事記(岩波古典文学大系)
新釈漢文体系(史記、国語、淮南子、楚辞、文選/明治書院)
岩波文庫(史記世家、春秋左氏伝、荘子、列子)
三国史記(平凡社東洋文庫)
中国神話(聞一多著、平凡社東洋文庫)
三国史演義(岩波文庫)
熊本の伝説 (角川書店)
雲南(H・R・デーヴィス著、古今書院)
中国少数民族の信仰と習俗(覃光広等編著、第一書房
) 日中文化研究3(勉誠社)
日本妖怪大全(講談社文庫)
大隅肝属郡方言集 国史大系、延喜式(吉川弘文館)
新撰姓氏録の研究、本文篇(佐伯有清著、吉川弘文館)
群書類従(続群書類従完成会)
倭名類聚抄(臨川書店)
今昔物語(新潮日本古典集成)
沖縄昔話集(奥里将建著)
改訂総合日本民俗語彙(平凡社)
民俗学事典(柳田国男監修、東京堂出版)
タイ語常用6000語(大学書林)
中国諸民族服飾図鑑(柏書房)