: 徐福は日本へ来たか、亶洲(澶洲)は何処か?

徐福は日本に来たか、亶洲(澶洲)は何処か?


 史記、封禅書には「斉の威王、宣王、燕の昭王以来、人を海に入らせ、蓬莱、方丈、瀛州を求めさせた。この三つの神山は渤海中にあると伝えられている。人を去ること遠からずだが、むずかしくて、船が側へ行くと風で引き戻されてしまう。仙人が住み、不死の薬などがある。」と記されている。
 山東半島沖合に蜃気楼が見えて、海中に島があるのに、たどり着けない、近寄れば消えてしまうという不思議な現象を解釈した結果、こういう結論になったらしい。越王勾踐が都を琅邪に移し観台(琅邪台)を築いたとされるのも、三神島の伝承を受けてのことだろう。
 秦の始皇帝陵の、現実世界を模した大規模な副葬品を見ると、始皇帝も不死を希求したことは明らかである。斉人、徐福の言を入れて、この三神山を求めさせた。徐福は使命を果たすことができず、平原、大沢のある島を見つけ、そこで王になり帰国しなかったという。その島を亶洲(澶洲)と呼んでいるが、日本に擬せられたりして、日本史にかかわってくるわけである。

以下は史記に見られる徐福関係の記述である。
 【史記、秦始皇本紀第六】
二十八年…南登琅邪 大楽之留三月 乃徒黔首三万戸琅邪臺下…斉人徐市等上書言 海中有三神山名曰蓬莱方丈瀛洲僊人居之 請得斎戒與童男女求之 於是遣徐市発童男女数千人 入海求僊人 始皇還過彭城斎戒祷祠 欲出周鼎泗水使千人没水求之弗得…
「二十八年…(始皇帝は)南、琅邪に登る。おおいにこれを楽しみ留まること三ヶ月。人民三万戸を琅邪台の下に移した。…斉人、徐市(ジョフツ)等は上書し、『海中に蓬莱、方丈、瀛洲という名の三神山があり、仙人がここに居ます。(始皇帝の)斎戒と子供の男女を得て、これを求めさせていただきたい』と言った。ここに於いて徐市を派遣し、子供の男女数千人を出発させ、海に入り仙人を求めた。始皇帝は還り、彭城を過ぎ、斎戒して神々に祈って祭った。周の鼎を泗水から出そうと、千人を使って水に潜らせ之を求めたが、得られなかった。…」
★史記正義注(唐、張守節)に、「呉人外国図云亶州去琅邪万里」(呉人外国図は、亶州は琅邪を去ること万里という。)と記されている。

三十五年…始皇聞亡乃大怒曰 吾前収天下書不中用者盡去之 悉召文学方術士甚衆 欲以興太平 方士欲練以求奇薬 今聞韓衆去不報徐市等費以巨万計終不得薬 徒姦利相告日聞…
 「三十五年…始皇帝は(侯生と盧生が)逃げたのを聞き、大いに怒って言った。私は、以前、天下の書を収め役立たないものはすべて棄てた。文学、方術士をことごとく招き、はなはだ多数であった。それで太平の世を興したかったからである。方士は練磨して奇薬を求めたいと望んでいた。今、韓衆は逃げて報告しないし、徐市等の費用は巨万を数えるが、ついに薬を得ることができなかったと聞いた。不当な利益をいたずらにしているという告発が日ごとに聞こえてくる。…」

三十七年…還過呉従江乗渡並海上北至琅邪 方士徐市等入海求神薬数歳不得費多 恐譴乃詐曰 蓬莱薬可得 然常為大鮫魚所苦故不得至 願請善射與倶 見則以連弩射之 始皇夢與海神戦如人状 問占夢博士 曰水神不可見以大魚蛟龍為候 今上祷祠備謹而有此悪神當除去而善神可致 乃令入海者齎捕巨魚具而自以連弩候大魚出射之 自琅邪北至栄成山弗見 至之罘見巨魚射殺一魚 遂並海西至平原津而病…七月丙寅始皇崩於沙丘平臺…」
「三十七年…(始皇帝は)還って呉を過ぎ、江乗から並んで(船団を組んで)海上を渡り、北、琅邪に至った。方士、徐市等は海に入り神薬を求めたが、数年たっても得ることができなかった。費用は多額であった。(徐市は)咎めを恐れ詐って言った。『蓬莱の薬は得ることができますが、常に大鮫魚が苦しめるためたどり着くことができません。願わくは射撃の名手を伴わせていただきたいのです。見つければ連弩でこれを射ます。』始皇帝は海神と戦う夢をみた。人の形をしていた。夢占いの博士に尋ねると、こう答えた。『水神は見ることができません。大魚、蛟龍がそのきざしです。今、お上は神々に祈って祭り、備え、謹まれておりますから、この悪神があるのをとうぜん除去すべきです。そうすれば善神を招くことができます。』そこで、海に入るものに巨魚を捕らえる道具を持っていくよう命令し、自らは連弩を以って大魚が出ればこれを射ようとした。琅邪から北の栄成山に至る。巨魚を見ることがなかった。之罘に至り、巨魚を見て、(そのうちの)一魚を射殺した。遂に、海に並び、西の平原津(黄河を遡った川港)に至って病んだ。…七月丙寅、始皇帝は沙丘平台で崩じた。……」

 【史記淮南衡山列伝第五十八】(伍被が、反乱を企てる主君の淮南王劉安を諫めた言葉)
…又使徐福入海求神異物 還為偽辞 曰臣見海中大神 言曰汝西皇之使邪 臣答曰然 汝何求 曰願請延年益寿薬 神曰汝秦王之礼薄得観而不得取 則従臣東南至蓬莱山 見芝成宮闕 有使者銅色而龍形 光上照天 於是臣再拝問曰 宜何以献海神 曰以令名男子若振女與百工之事即得之矣 秦皇帝大説遣振男女三千人 資之五穀種種百工而行 徐福得平原広沢止王不来…
「…(始皇帝は)また、徐福に海に入らせ神秘的な珍しいものを求めさせましたが、徐福は帰るとでたらめを言いました。『私は海のなかで大神を見ました。神がおまえは西の皇帝の使者かというので、私はそうですと答えました。おまえは何を求めているのかというので、寿命を延ばす薬をさがしていると答えますと、おまえの秦王の礼が薄いので、見ることはできても取ることはできないと言われ、私を東南の蓬莱山へ連れて行ってくれました。宮殿以外の場所は霊芝で占められているのを見ましたし、銅の色で龍の形をした使者がいて、光が立ち上り天を照らしていました。そこで、私は再拝し、何を献上すれば宜しいのでしょうと尋ねると、海神は、良家の男女の子供と様々な道具類の仕えをもって、これを得ることができるといいました。』秦の皇帝は大いに喜び、童男女三千人とこれを支える五穀の種々、様々な道具類をのせて派遣し行かせましたが、徐福は平原と広沢のある所を得て王になり、とどまって帰ってきませんでした。…」

 仙人は、修行の最初に五穀を断ち腸を清めなければならないとされているから、穀物を必要としない。干し肉とナツメを供えるので、それがあれば生きられるということであろう。三角縁神獣鏡の銘文にも「渇けば玉泉をのみ、腹がへればナツメを食べた。」という文がある。百工は五穀の種の後ろに書かれ、人数も記されていないから、工人ではなく、様々な道具類のことである。
 始皇帝の死はB・C210年。司馬遷の史記の完成は前漢、武帝の末で、孝武本紀には太初三年(B.C101)までの記述があり、「その後五年(天漢三年、B.C97)、また泰山に至り封を修む。」と飛ぶ。
 その間の天漢二年(B.C98)に自身が投獄され、宮刑という辱めを受けている。釈放されたのは太始元年(B.C95)なので、他のことは調べて記録する気になれなかったのかもしれない。ともあれ、史記は徐福から百十年ほど後に記されたわけである。平成十八年現在の日本から振り向けば明治後期くらいにあたり、記録としてはかなり正確に残っていたと思われる。徐福は伝説上の人物ではない。
 始皇帝28年(B.C219)、徐福は数千人の子供を引き連れ、海に入って蓬莱神仙を求めた。しかし、始皇帝死亡直前の37年(B.C210)に徐福は失敗の言い訳をしている。帰国しているわけである。平原、広沢を得て王になり、帰国しなかったというのが事実なら、始皇帝37年に再び、子供三千人を徴発して海に乗り出したことになる。淮南衡山列伝では「始皇帝の礼が薄い」というのが神の言葉なので、一度目の航海の童男女数千人というのは三千人を下回っていたのかもしれない。しかし、始皇帝37年に大鮫魚が邪魔をするのでたどり着くことができないと言っているのだから、淮南衡山列伝の徐福が蓬莱山へ行ったという描写は矛盾している。伍被という人物の語る諫めの言葉なので、そこに何らかの脚色が入ったのか。伍被の読んだ書物にそういう描写があったのか、司馬遷の引用した文献にそういう言葉があったのか。いずれにせよ物語的な作為性が強く感じられる。はたして始皇帝がこれを信用するだろうか?

 史記以外のデータには以下のようなものがある。
 【漢書蒯伍江息夫伝第十五】(伍が伍被。漢書の著者、班固は後漢の人)
…又使徐福入海求仙薬 多齎珍宝童男女三千人五種百工而行 徐福得平原大沢止王不
「…また、徐福を海に入らせ、仙薬を求めさせました。珍宝を多くもたせ、童男女三千人、五穀の種子、百工とともに行きましたが、徐福は平原、大沢を得てとどまり、王となって帰ってきませんでした。」

 【三国志呉志呉主伝第二】(三国志の著者、陳寿は晋の人)
…(黄龍)二年…遣将軍衛温諸葛直 将甲士万人 浮海求夷洲及亶洲 亶洲在海中 長老伝言 秦始皇帝遣方士徐福将童男童女数千人入海求蓬莱神仙及仙薬 止此洲不還 世相承有数万家 其上人民時有至会稽貨布 会稽東県人海行有遭風流移至亶洲者 所在絶遠卒不可得至 但得夷洲数千人還
 「…黄龍二年…(呉王孫権は)将軍、衛温と諸葛直を派遣し、兵士万人を率いて海に浮かび夷洲と亶洲を求めさせた。亶洲は海中に在り、長老は、秦の始皇帝が方士、徐福を派遣し、童男と童女数千人を率いて海に入り、蓬莱神仙と仙薬を求めさせたが、この島にとどまり帰らなかった。代々受け継がれて数万家がある。その島の人民が時おり会稽の貨布(漢代の銭名、後漢書を参照すると市の転写間違いか)にやって来た。会稽東の県人で、海に行き風にあい流れ移って亶洲に至ったものがあると言い伝えている。その所在はきわめて遠く、ついに得ることはできなかった。ただ、夷洲数千人を得て還った。」

 【呉志陸遜伝】…(孫)権遂征夷州得不補失
「……孫権は遂に夷洲を征圧した。得たものは失ったものを補えなかった。…」
 ★捕虜として連れ帰った数千人以上の犠牲を出し、戦利品以上の出費があったらしい。

 【後漢書倭伝】(後漢書の著者、范曄は南朝宋の人)
…又有夷洲及澶洲 伝言秦始皇遣方士徐福将童男女数千人入海求蓬莱神仙不得 徐福畏誅不敢還 遂止此洲世世相承有数万家 人民時至会稽市 会稽東冶県人有入海行遭風流移至澶洲者 所在絶遠不可往来
「また、夷州及び澶洲がある。秦の始皇帝は方士、徐福を派遣し、子供の男女数千人を率い海に入り蓬莱神仙を求めさせたが、できなかった。徐福は処罰されるのを畏れあえて帰らず、ついにこの島にとどまった。代々受け継がれて数万家がある。その人民が時おり会稽の市にやって来る。会稽東冶県の人で海に入ってゆき風にあい流されて澶洲に至ったものがあると言い伝えている。その所在はきわめて遠く往来することはできない。」

 文を並べてみると、呉志に、
「徐福のたどり着いた島の住民が時たま会稽の市にやって来た。」
「会稽東冶縣(後漢書に従う。原文は会稽東縣)の人が風に流され、その島に着いたことがある。」
「島には数万家がある。」
という後日談が付け加えられているのみで、史記を上回る内容はない。後日談はいずれも漢代の伝承と思われる。
 後の時代の徐福関係の記事となると、秦、漢代の資料が新たに発掘された可能性はますます遠のき、根拠の薄い想像を加えた史記の焼き直しにすぎないであろう。

 後漢書は呉志と史記をまとめて整理したらしい。范曄は倭に関係するかもしれない会稽海外東方の情報と判断し、夷洲、亶洲(澶洲)を倭伝の最後に組み込んだ。范曄の後漢書編纂前の宋代(421,425年)や一時代前の東晋代(413年)に倭から使者が派遣されている。秦に出自を持つという秦氏の存在も伝わっていたかもしれない。いぶかしく思いながら倭伝に付け加えた可能性がある。徐福は秦代の話なので、年代的には最も先立つ。倭伝の先頭に書くべき話を最後にもってくるのはそういうことではないか。
 日本に渡来した裴世清の報告と思われるが、隋書倭国伝には「はるかな大海の中にある都斯麻国(ツシマ国)を経て、また東の一支国(イキ国)へ至り、また竹斯国(チクシ国)へ至る。また東の秦王国に至る。その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。」と記している。秦王国は秦氏の開拓地と思われる。「中国と同じ」と言うからには、まだ、中国語やその風俗を保持していたのかもしれない。熊野や佐賀など、徐福が渡来したという日本各地に残る風説も、秦から渡来したと伝える秦氏の存在ゆえで、日本側が伝えたものと思われる。秦氏が秦に出自を持つというのは事実なのだが、応神紀の弓月君(秦氏の祖)の渡来伝承から明らかなように、朝鮮半島から百二十県の人民と共に大挙移住している。徐福とは関係がない。(「弥生の興亡、帰化人の真実」参照
 徐福の出港地は記されていないが、山東半島周辺の海域に現れる三神山を求めるのだから、琅邪と考えるのが妥当である。そして、平原と大沢のある島にたどり着いた。琅邪から出航したなら、日本に至る以前に済州島に引っかかる可能性が大きい。この島は漢拏山を中心とする火山島で、東西の傾斜は非常に緩やか、多孔質玄武岩に覆われ、雨は地下にもぐって海岸部に湧出するという。朝鮮半島に進出したモンゴルは、この島を直轄領とし、馬を放牧したくらいで、適地の草原があった。大規模な湿地もあり、「平原、大沢」という描写に合うのである。日本は「山島」と表現されており、実際、「平原、大沢」に合致するような島は思い当たらない。平原という描写が日本には当てはまりそうもない。日本は平地でも樹木に覆われていただろうし、樹木がない所は湿地だったであろう。
 会稽の市に亶洲人が訪れる、会稽や東冶の人がこの島まで漂流するという記述に対しても、位置的に見て、済州島の方が有力である。
 説文解字では、亶の意味は「多穀」とされている。音は多(Ta)旱(Kan)の切なので、タン(Tan)と読む。この島が古代「耽羅(たんら)」と呼ばれていたことも補強材料となる。

 【魏志韓伝】
又有州胡 在馬韓之西海中大島 上其人差短小言語不與韓同 皆髠頭如鮮卑 但衣韋 好養牛及豬 其衣有上無下略如裸勢 乗船往来市買中韓
「また、州胡がある。馬韓の西海中、大島の上に存在する。その人はやや体が小さい。言語は韓と同じではない。みな頭を剃っていて鮮卑のようである。ただし、なめし革を着ている。好んで牛や豚を飼う。その服は上があって下がなく、ほとんど裸のようである。船に乗り往来し中国や韓と交易している。」

 この島の住民の言語、風俗は馬韓と全く異なっている。島が馬韓近くに位置したなら、馬韓に吸収され、独自の文化を育むことは不可能と思われる。したがって、馬韓からかなり離れていて往来不便なはず。済州島は馬韓の南南西にあるが、馬韓の西には大島と呼べるほどの島は存在しないので、州胡は済州島の住民と考えて問題ない。海路で直接、中国と交易していたことから、韓半島と中国の間、つまり韓の西に存在すると考えたのであろう。
 同時代の魏志倭人伝には牛馬がいないと記されている。この島には牛がいて、胡と表す以上、馬も存在した可能性がある。なめし革の服を着ていても、下半身までは覆っていない。裸に近いと言うから、ふんどしでも付けていたのか。頭を剃るなど、倭、韓、中国等、周辺諸民族の風俗とは全く異なる孤立感のある民族である。隋書流求国伝の夷洲の住民も「体中の毛をすべて除去する」という記述があるので、おそらく、朝鮮半島北方から済州島や日本、沖縄へと展開した太古の北方系縄文人が髠(頭を剃る)という習俗を持っていたのだと思われる。
 「市買中韓」と表現され、中が先に来ているので、中国のことであろう。三国志呉志の「会稽の市に時々やって来る。」という記述に一致している。資料がなかったのか、魏志は島名には思いが及ばず、住民のみを州胡と表記した。後漢書は「中韓」を「韓中」に改めているが、その根拠が明らかではない。意味が解らなかった、たぶん、中国へ来ることはなかろう、魏志の転写間違いという判断と思われる。済州島山地港遺跡(済州市)からは五銖銭、貨泉、大泉五十、貨布など、漢、新代の貨幣が出土しており、中国と交易していた可能性が強い。
 
 【高麗史地理志】
耽羅縣在全羅道南海中 其古記云 大初無人物三神人従地聳出 長曰良乙那次曰高乙那三曰夫乙那 三人遊猟荒僻皮衣肉食 一日見紫泥封蔵木函浮至于東海濱就 而開之函 内又有石函 有一紅帯紫衣使者随來 開石函出現青衣處女三及諸駒犢五穀種 乃曰我是日本国使也 吾王生此三女 云西海中嶽降神子三人将欲開国而無配匹 於是命臣侍三女以來 爾宜作配以成大業 使者忽乗雲而去 三人以年次娶之 就泉甘土肥處 射矢卜地 良乙那所居曰第一都 高乙那所居曰第二都 夫乙那所居曰第三都 始播五穀且牧駒犢日就冨庶 至十五代孫高厚 高淸昆弟三人造舟渡海至耽津 蓋新羅盛時也
 「耽羅県は全羅道南海中にある。その古記はいう。大初、人物はいなかった。三神人が地から立ち出た。長を良乙那、次を高乙那、三を夫乙那という。三人は荒れ果てひなびた土地で狩猟し、皮の衣、肉食で暮らした。ある日、紫泥で封蔵した木函が浮かび東海の浜辺に着いたのを見た。そこへ行きこれを開くと、内側にまた石の函があった。赤い帯、紫の服を着た一人の使者が随い来ていた。石の函を開くと、青い服を着た未婚の娘三人とさまざまな若馬や子牛、五穀の種が現れた。使者は私は日本国使だと言う。我が王はこの三人の娘を生んでこう言った。『西海中の高山に、神の子三人が降り国を作ろうとしているが、配偶者がいない。』そこで私に命じ、三女に侍らせ、ここにやって来た。あなた方は宜しく配偶して、大業を成しなさい。使者はたちまち雲に乗って去った。三人は年の順に娘を娶り、泉がうまく、土が肥えたところへ行き、矢を射て地を占った。良乙那の住んだところを第一都といい、高乙那の住んだところを第二都、夫乙那の住んだところを第三都と言った。始めて五穀を播き、子馬、子牛を飼い、日ごとに豊かになった。十五代子孫の高厚、高清の兄弟三人が舟を造って海を渡り、耽津に至った。おそらく新羅の盛時のことである。」

 新羅本紀では文武王二年(662)に、「耽羅王、佐平(百済の官名)の徒冬音律が来降した。耽羅は武徳(618~626、唐の年号)以来、百済に臣属していたので佐平を官号としていた。この時降って(新羅の)属国となった。」という記述がある。百済が滅びたため(660)、新羅に臣属したわけである。地理的に百済が最も近く、その属国となるのは理解できる。しかし、唐の武徳年間のこととされ、それまでの独立性が明らかで、新羅本紀も耽羅王と表記している。
 魏志韓伝の州胡は、なめし革を着るとされているが、この済州島伝説でも皮衣、肉食となっていて、風俗が一致する。州胡はやはり済州島住民である。漂着した木の箱とは、船の表現であることが明らかで、その中から娘と若馬、子牛、五穀の種が出てきた。州胡は、倭に牛がいない時代(魏志倭人伝)、すでに牛を飼っている。もし、牛が船で運ばれてきたのなら、それは三世紀(魏志韓伝)より古い時代のことになるし、倭に運ぶ能力がなかった牛を載せられる船の大きさはどこからもたらされたかという疑問も生じてくる。付き従ってきた赤帯、紫衣の使者は日本国使と唱えたがが、牛、馬が存在しないのにこれはあり得ない。島の東岸に着いたという伝承と、後の日本(倭ではなく)との交流が結び付けられたものであろう。
 三千人の子供を一艘の船に乗せるとは考えにくく、船団を組んだのだと思われる。それには多数の船員が必要である。子供の世話をする人間も付き添っていたにちがいない。しかし、すべてが、無事、島にたどり着けたかどうか。当時の航海を思うと犠牲はかなり多かったのではないかと思われる。呉志は夷洲、亶洲を求めたときの損失が獲得を上回ったと書いていた。
 徐福が平原、大沢のある島に着き王になったという情報は誰かが伝えたわけで、帰国した船が存在したのかもしれない。徐福が始皇帝の誅罰を恐れるのは当然でも、方士でもない、動員されただけの人間にその心理はないはず。徐福に恨みはあったとしても忠誠心はないであろう。家族のいるところへ戻ろうとするのではないか。
 童男女の生活を支える五穀の種、百工を持っていったとされているが、それは代表的にあげられたにすぎないであろう。子供達の衣服類なども大量に必要である。これらは人間を超越した存在である仙人のために用意されたものではない。したがって、若馬、子牛が積まれていた可能性は大いにある。史記には、仙人が百工を要求したように書いてあるが、人間が理想とする高い文明を持っていると考えられていたのだから、人間が使うレベルの道具類も必要ないだろう。五穀の種と同じく、子供達の将来の生活に備えたもの(資する)と解するのが妥当である。
 徐福の年齢が気になる。王になったというのが事実だったとしても、その期間はどれほどなのか。三人の娘を連れてきて、口上を述べた後、すぐに雲に乗って姿を消してしまった使者は徐福を思わせる。ほどなく亡くなったのではないか。派遣を命じた王は始皇帝と解釈できる。そして、子供達は土地の先住民の中へ溶け込んでいった気配が濃厚である。
 想像は際限なく広がってゆくが、これ以上続けても、もはやデータの裏付けはなく、歴史というより小説の領域に入ってしまう。

【結論】
「徐福の移動した島、亶洲は済州島である。」
「日本の徐福伝承地は秦系氏族の展開した土地である。」


  《根拠のまとめ》
徐福は平原、広沢のある島に着いたが、これは済州島の地形に一致する。
済州島は、日本以上に、徐福の出航した琅邪や会稽、東冶と地理的に結び付きやすい。
澶洲(たんしゅう)という地名が、耽羅(たんら)という後の済州島の国名に一致している。
済州島の伝説から、牛や五穀の種子は海外から船でもたらされたと考えられるが、魏志韓伝の州胡は既に牛を飼っており、その伝来は三世紀以前になる。豚は運べても牛を運べなかった、当時の倭、韓の船にくらべ、かなり大型と想像でき、秦の船ならその可能性を認めることができる。
済州島の伝説に現れる木の箱に随っていた使者(身分の高さを表す紫衣を着ている)と派遣を命じた国王が、徐福と始皇帝の関係に対応している。使者は雲に乗り飛び去っており、徐福は王になったとしても、ほどなく亡くなったと思われる。
済州島(タンラ)の住民、州胡が中国と交易していたことが魏志韓伝に記され、呉志の亶洲人が会稽の市を訪れ交易していたという記述に一致する。中国の貨幣が出土していることもそれを裏付ける。
後漢書倭伝に夷洲、亶洲の伝承が記されているのは、後漢書の著者、范曄が、会稽海外東方の倭に関係するかもしれない土地の情報と判断したためで、それを証明するデータが存在したわけではないので、遠慮がちに倭伝の最後に付け加えられている。確証があれば、時間的には最も先立つわけで、先頭に置かれたであろう。

夷洲に関しては、「中国朝鮮史から見える日本、4」へ