*126 邸閣
【魏書徐胡二王伝(王基)】 取雄父邸閣収米三十万斛…南頓有大邸閣計足軍人四十日糧
 「雄父邸閣、米三十万蔛を収るを取る。…南頓に大邸閣有り、軍人四十日の糧に足るを計う。」
【蜀書後主伝】 冬亮使諸軍運米集於斜谷口治斜谷邸閣
 「冬、(諸葛)亮は諸軍をして米を運び斜谷口に集めしめ、斜谷邸閣を治した、」


*127 物々交換
わらしべ長者には「交換用の絹(かはり絹)」が出てくる。貨幣はないが、何か貨幣代わりの物や相場があったかもしれない。(宇治拾遺物語九十六「長谷寺参籠の男、利生に預かる事」)


*128 畏憚
王の存在する伊都国も畏憚していたことになる。中央政府の高官と地方自治体の首長の関係を当てはめれば良いようである。中央政府の高官の方が権力が大きかった。


*129 刺史
【魏志毋丘倹伝】
(正始)六年復征之宮遂奔買溝倹遣玄菟太守王頎追之…
「正始六年、またこれを征した。(高句麗王)宮はついに買溝にはしり、(毋丘)倹は玄菟太守、王頎を遣してこれを追った。)
【魏志扶余伝】
正始中幽州刺史毋丘倹討句麗遣玄菟太守王頎詣扶余
「正始中、幽州刺史、毋丘倹は句麗を討ち、玄菟太守、王頎を遣わして扶余に詣る。」


*130 率、帥
部族の頭を表わすのに、毋丘倹伝は「渠率」
       東沃沮伝、辰韓伝は「渠帥」としているから率と帥は同義である。
三少帝紀には「率種」
原資料の記述者が異なるため表記も様々な形で現れている。 漢書匈奴伝には将率という言葉がある。王莽の新では、将の下に五人の率が置かれていた。
後漢書韓伝には、「大率皆魁頭露紒」という文がある。大率が中国語であることは明らかで、倭の他の官名と並べれば違和感が際立つ。


*131 伝送
伝送=次々に伝えて送る。
「不得差錯(差錯するを得ず)」だから非常に厳しい管理体制が敷かれていたことになる。女王国にはそれを維持できるだけの権力、権威があった。


*132 逡巡
個人の日記ではないから、「大人と歩いていたら、出会った下戸が、どうしようか、ためらいながら草の中に入った。」などと書いているのではない。倭人全般に「後ずさりして草の中に入り、道を譲る」という特長があるぞと報告しているのである。辰韓伝にも同様の記述がある。
【辰韓伝】
男女近倭亦文身…其俗行者相逢皆住譲路
「男女は倭に近く、また文身している。…その風俗では、行く者が出会えば、皆、止まって路を譲る。」


*133 鬼道に事え能く衆を惑わす
「怪力乱神を語らず」という儒教の徒である帯方郡使にとって、鬼神の祀り・鬼道は軽蔑すべき淫祀である。かなりの嫌悪感を持っていたようで、「よく衆を惑わす」という言葉や 卑、奴、邪、狗という文字の多用にそれが現れている。狗(小犬)は、いやしい者のたとえに使われる。
惑=今風ならマインドコントロール。
 信仰により正常な判断力を失わせた状態をいう。その中心に卑弥呼がいる。帯方郡使の常識とのずれから生まれた言葉である。


*134 年すでに長大
「其人寿考或百年或八九十年(倭人は長生きで、或いは百年、或いは八、九十年)」で、これは普通の長生き。長大と表された卑弥呼は百歳をかなり上回る年齢と考えられていた。


*135 自ずから
自=みずから、=おのずから
みずからと訳せば「自分の意思で」という意味になり、おのずからなら「自然に」。後者を採る。日本語ほど明確な区別はないと吉川幸次郎氏は述べている。(「漢文の話」筑摩学芸文庫)


*136 居所、宮室、樓観
「居所」は卑弥呼が生活する私的空間。「宮室」は公的な場所と考えられる。
千人が侍るという建物の広さはどれほどのものか。一つの建物では無理と思われ、広い敷地の中にいくつも並んでいた可能性がある。
 高床住宅は二階建てのようなものだから、樓観はそれ以上の高さと思われる。


*137 海を渡った東の倭種国
隋書俀国伝に「夷人は里数を知らない」とあるので、伝聞では千余里を表記できないはず。自ら体験したと思われる。


*138 侏儒国
「其の南」、「其の東南」の其をどこと解すべきか。
女王国の東の倭種の国とすれば、複数あるわけで基準となる位置が確定できないし、その南は太平洋だから、四千余里と表記できる土地も存在しない。「女王を去る」という言葉もあるので、女王国と解する。女王国から東、南、東南という順に書いている。
 四千余里は帯方郡使が自ら体験しなければ書けない距離である。それにしては身長三、四尺という数字が腑に落ちない。そんなに小柄な部族が熊野にいたのか?


*139 東夷伝
夫余  在 長城之北
高句麗 在 遼東之東千里
挹婁  在 夫余東北千余里
東沃沮 在 高句麗蓋馬大山之東
韓   在 帯方之南東西以海為限南與倭接
倭人  在 帯方東南大海之中
濊 南與辰韓北與高句麗沃沮接


*140 辰韓の鉄
【魏志辰韓伝】
国出鉄韓濊倭皆従取之諸市買皆用鉄如中国用銭又以供給二郡
「国は鉄を出す。韓、濊、倭はみな許可を得てこれを取っている。諸市で買うときには、中国が銭を用いるように、皆、鉄を用いる。また(楽浪、帯方)二郡にも供給している。」
【神功皇后摂政紀五十二年九月】
神功皇后に七支刀などを献じた百済使は次のように語る
「我が国の西に川があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠きことは七日を行っても及びません。まさにこの水を飲み、この山の鉄を取って、永遠に聖朝に奉りましょう。」 ★百済の西にある川といえば、黄海に注いでいるわけで、その上流、百済東方の山岳地帯から鉄が出たとわかる。辰韓に水源をもつなら南漢江や錦江が該当して小白山脈から出ている。北漢江の水源は濊である。時代が異なるので、別の場所に鉄山が発見された可能性もあるが。


*141 辰韓と弁辰の国
【魏志弁辰伝】
弁辰與辰韓雑居(弁辰は辰韓と雑居する。) 境界が明確であれば雑居という表現にはならないであろう。
【魏志辰韓伝】 辰韓と弁辰の国名が混ぜられている。
巳柢(シテイ)国、不斯(フウシ)国、弁辰弥離弥凍(弁辰ビリビトウ)国、弁辰接塗(弁辰セフト)国、勤耆(キンキ)国、難弥離弥凍(ダンビリビトウ)国、弁辰古資弥凍(弁辰コシビトウ)国、弁辰古淳是(弁辰コシュンシ)国、冉奚(ゼンケイ)国、弁辰半路(弁辰ハンロ)国、弁楽奴(ヘンガクド)国、軍弥(クンビ)国、弁軍弥(ヘンクンビ)国、弁辰弥烏邪馬(弁辰ビヲヤバ)国、如湛(ジョタン)国、弁辰甘路(弁辰カンロ)国、戸路(コロ)国、州鮮(シウセン)国、馬延(バエン)国、弁辰狗邪(弁辰コウヤ)国、弁辰走漕馬(弁辰ソウサウバ)国、弁辰安邪(弁辰アンヤ)国、馬延(バエン)国、弁辰瀆盧(弁辰トクロ)国、斯盧(シロ)国、優由(イウイウ)国


*142 「有」と「在」
漢書地理志燕地は「楽浪海中有倭人」
 この場合は、楽浪海中が倭人を有する。「楽浪海中に倭人がいる。」 楽浪という既知の土地の海中に、未知であった倭人の存在が明らかになった。無に対応する。
魏志の「倭人在帯方東南大海之中」は、「倭人は帯方東南大海の中にいる(ある)。」
 倭人は既に既知の存在となっており、その所在地を説明する形になる。否定語は不在。


*143 万二千余里
【漢書張騫李広利伝第三十一】 大夏 去漢 万二千里 居西南
【漢書西域伝第六十六上】 烏弋山離国王 去長安 万二千二百里……
             大月氏国治監氏城 去長安 万一千六百里…
             大宛国王治貴山城 去長安 万二千二百五十里


*144 「淮南子、時則訓」万二千里
東方之極 自碣石山過朝鮮貫大人之国東至日出之次搏木之地青土樹木之野大皞句芒之所司者
     万二千里……
南方之極 自北戸孫之外貫顓頊之国南至委火災風之野赤帝祝融之所司者万二千里……
中央の極 自崑崙東絶両恒山日月之所道江漢之所出衆民之野五穀之所宜龍門河済相貫以息壌
     水之州東至於碣石黄帝后土之所司者万二千里……
西方之極 自崑崙絶流砂沈羽西至三危之国石城金室飲気之民不死之野少皞蓐収之所司者
     万二千里……
北方之極 自九澤窮夏晦之極北至令正之谷有凍寒積氷雪雹霜霰漂潤群水之野顓頊玄冥之所司
     者万二千里……


*145 余里
【後漢書倭伝】 …楽浪郡徼去其国万二千里 去其西北界狗邪韓国七千


*146 親魏大月氏王
親魏倭王は、西方の大月氏と同格である。
大月氏王波調遣使奉献以調為親魏大月氏王(魏書明帝紀、太和三年、A.D229年)
 「大月氏王波調が使を遣わし奉献す。調を以って親魏大月氏王と為す。」


*147 諱(いみな)と字(あざ)
韓伝では帯方太守は「劉昕」、劉夏と劉昕は同一人物である。
 当時は諱(本名、いみな)と字があり、日常は字で呼ばれた。倭人伝の劉夏は字で、昕が諱であろう。制紹の作られた時、劉夏は生きていたわけだから諱は避けられる。
 曹操は、「姓は曹、諱は操、字は孟徳」と記されている。生きている間は曹孟徳と呼ばれていたわけである。


*148 二匹二丈
二匹二丈は百尺になり、二十四メートルほど。百ということは、倭人は中国の単位を知っていたことになる。偶然、百尺に一致したとは考えにくい。


*149 匈奴の印とその格
 王莽は、漢の印文に「匈奴単于璽」とあったのを「新匈奴単于章」に変更したという。単于の不満は、諸王以下には漢の文字があり章と言ったので、「璽」を除き、「新」を加えた印綬では、臣下と区別がつかないということである。(漢書匈奴伝第六十四下)
 この記述から、漢代の匈奴諸王は、「漢匈奴…王章」という印面であったと想像できる。中国雲南省から出土した前漢代の「滇王之印」と比較すると、「漢委奴国王」という後漢の印文は、地方政権という理由で漢が入れられたのかもしれない。時代が異なるので、印制も異なるかもしれないが、大倭王の卑弥呼は「親魏倭王」でかなり格上に感じられる。


*150 好は「好む」
良いものと訳す人がいるが、魏帝の下賜品にいいかげんなものが有ろうはずはない。そんなわかりきったことをわざわざ書かないだろう。「また、特に汝に…を賜う」と記されているから、魏がいとおしんでいることを示す、卑弥呼に配慮した特製品と考えられる。
★「全唐文」の第684巻(清代1814年編纂)に「昔魏酬倭国止於銅鏡鉗文…」という文章がある(聖徳大学の山口名誉教授の発見)。「昔、魏は倭国にむくゆるに銅鏡における文を鉗するのを止め、…」と読み下せる。「鉗」は「首かせ」で、「文」は「模様」を表す。要するに、銅鏡の模様の規制(首かせ)をはずしたという意味である。卑弥呼の好物、もっとも望ましい鏡を作るため、ここまで気を配ったのである。布地などにも、卑弥呼が喜びそうな、象やラクダなど、日本では見られない珍しい模様が入っていたのではないか。


*151 真珠
対馬国貢銀記では、対馬の産物として、「白銀、鉛、錫、真珠、金、漆の類」を挙げており、山中の鉱物や漆の中に真珠が混ぜられているから、これも辰砂であろう。
「魚蚌の珠と禹貢の琅玕(青緑色の宝玉)はみな真珠なり」(説文解字「琅」、段玉裁注)
真珠はパールにも石にも使われている。


*152 帯方太守の交代
景初二年 太守、劉昕(=劉夏と思われる。)、明帝により潜軍として楽浪・帯方を急襲。
      帯方太守となる。
     六月、難升米、帯方郡に至る。(太守、劉夏)
     十二月、魏帝の制詔が下される
景初三年 (おそらく太守交代、弓遵)正月の明帝急死後に人事異動があったと思われる。
正始元年 太守、弓遵。帯方郡使、梯儁を倭へ派遣。
正始七年、太守、弓遵、韓との戦いで戦死。韓滅びる。
正始八年、太守、王頎。玄菟太守から転任。帯方郡使、張政を倭へ派遣。


*153 
天子太祖節鉞録尚書事 「天子(献帝)は、太祖(曹操)に節鉞と録尚書事を仮した。」
曹操は軍事権、刑罰権と上奏権を与えられたのである。(魏志武帝紀)


*154 東大寺山古墳出土の鉄刀銘文
奈良県天理市和爾にある東大寺山古墳から、「中平■年(184~189)」という銘のある鉄剣が出土している。付近には和爾坐赤坂比古神社、和爾下神社があり、和爾氏の居住が想定されているが、古墳は四世紀後半のものというから、和邇氏間で伝世されていたものが埋められたようである。中平は後漢末期、霊帝(中平1~5)、献帝(中平6=189)時代の年号で、中平元年に黄巾の乱が起こり、中平六年に、公孫度が遼東太守になっている。後漢はその後も戦乱が続き、遼東地方までかまう余裕がなく半独立状態であった。
 この鉄剣の入手が中平六年以降で、それに近い時代という条件付きの話になるが、この頃、日本から使者が派遣されたとしても、後漢の都まで達することは考えにくく、遼東太守、公孫氏の元へ派遣されたか、そこでストップさせられたかだと思われる。少し後になるが、「建安中(196~220)、公孫康が楽浪郡南方を分割して帯方郡を創設し、韓や倭は帯方に属した」と魏志韓伝にある。この鉄剣は卑彌呼時代の倭と公孫氏の交流を示す証拠品であるかもしれない。和邇氏の祖先がその遣使に関係していたということになるのではないか。


*155 潜軍
魏志韓伝
景初中明帝密遣帯方太守劉昕楽浪太守鮮于嗣越海定二郡
「景初中、明帝は、密かに帯方太守、劉昕、楽浪太守、鮮于嗣を派遣し、海を越えて二郡を定めた。」
おそらく、太守という地位を与えて派遣されたのであろう。


*156 海東諸郡の平定
魏志明帝紀 (景初二年)秋八月…丙寅(八日)司馬宣王圍公孫淵於襄平大破之傳淵首于京都海東諸郡平
「秋八月、丙寅。司馬宣王は公孫淵を襄平に囲い、大いにこれを破る。淵の首を京都に伝え、海東諸郡は平らぐ。」(海東諸郡とは、楽浪、帯方、遼東の三郡)


*157 倭の朝貢
●周の時、天下太平、倭人は鬯草を献じる。(論衡)
●前漢の平和な時代、楽浪海中の倭人が燕地を訪れていた。(漢書地理志燕地)
●後漢の光武帝時代、王莽とその後の混乱を鎮め平和が訪れたため、倭奴国が朝貢した。(後漢代のデータ)
★今回、海東諸郡を平定した。倭が朝貢してきたのは平和の訪れる前兆だ。中国統一に一歩近づいたという心境であろう。


*158 太守交代の所要時間
●七年春二月幽州刺史毋丘倹討高句麗 夏五月討濊貊皆破之韓那奚等数十国各率種落降(魏志三少帝紀)
「(正始)七年、春二月、幽州刺史、毋丘倹は高句麗を討つ。夏五月、濊貊を討ち、みな之を破る。韓、那奚等、数十国の各率種は落ち降る。」
●八年太守王頎到官 「(正始)八年、太守、王頎、官に到る。」(魏志倭人伝)
★七年五月に韓が降伏しているから、前太守弓遵が韓との戦いで戦死したのは五月以前ということになる。後任の王頎は早くても八年正月の着任だから最短でも七ヶ月かかっている。


*159 明帝の評
魏書明帝紀
評曰沈毅断識任心而行蓋有君人之至概焉。
「評して曰く、沈着剛毅で決断力、識見があり、心意気で行動する。おそらく、君主として最高の器量があった。


*160 黄幢
幢は筒型の旗。儀仗や指揮に用いる。
魏は土徳と称していて土の色、黄色には重要な意味がある。邪馬壱国に対する魏の全面的な支援を、狗奴国に示す意図があったと思われる。


*161 蜀との戦い
(正始)五年春二月詔大将軍曹爽率衆征蜀…
   五月丙午大将軍曹爽引軍還(魏書三少帝紀)
「五年、春二月。詔し、大将軍、曹爽は衆を率い、蜀に征す。
    (五月)丙午。大将軍、曹爽は軍を引き、還る。」


*162 魏と高句麗の戦い
【魏書高句麗伝】
正始三年宮寇西安平 其五年為幽州刺史毋丘倹所破語倹伝
「正始三年、(位)宮は西安平を寇す。その五年、幽州刺史、毋丘倹の破る所となる語は倹伝に在り。」
【魏書毋丘倹伝】
正始中倹以高句麗数侵叛督諸軍歩騎萬人出玄菟従諸道討之……六年復征之宮遂奔買溝遣玄菟太守王頎追之
「正始中(おそらく五年)、(毋丘)倹は高句麗がたびたび侵し叛くを以って、諸軍の歩と騎、万人を督し、玄菟を出て諸道よりこれを討つ。……六年、またこれを征し、宮はついに買溝に奔る。玄菟太守、王頎を遣し、これを追う。」


*163 魏と韓の戦い
【魏志韓伝】
部従事呉林以楽浪本統韓国分割辰韓八国以與楽浪…韓忿攻帯方郡崎離営時太守弓遵楽浪太守劉茂興兵伐之遵戦死二郡遂滅韓
「部従事の呉林は楽浪郡が昔韓国を統御していたことを理由に辰韓八国を分割し、楽浪に組み入れた。…韓は怒り、帯方郡の崎離営を攻めた。その時、太守弓遵と楽浪太守、劉茂は兵を興してこれを伐った。(弓)遵は戦死。二郡は遂に韓を滅ぼした。」


*164 塞曹掾史
塞は「ふさぐ」「とりで」「国境」というような意味。曹は三国志に功曹、賊曹、東曹掾というような官名が見られ、管轄を表す文字。したがって、塞曹とは辺境管理の役職と思われる。掾史は長官に採用された属僚。地位はあまり高くない。
張政は、軍隊ではなく少人数で渡来しているから、軍事作戦の立案などにかかわる指導力のある人物と思われる。


*165 難升米に授ける
四年に派遣された使者は、伊聲耆、掖邪狗等だが、黄幢は難升米に授けられており、難升米が責任者という位置づけらしい。帰国後、地位が上がったと思われる。


*166 韓の滅亡
【魏志韓伝】
侯准既僭号称王為燕亡人衛満所攻撃将其左右宮人走入海居韓地自号韓王其後絶滅今韓人猶有奉其祭祀者…
「(朝鮮)侯の(箕)准は既に僭号して王を称していたが、燕の亡命人、衛満の攻撃するところとなった。(准は)左右の宮人をひきいて海に逃れ、韓地に居住し、自ら韓王と号した。其の後裔は絶滅した。今、韓人でなおその祭祀を奉るものがいる。」…

韓忿攻帯方郡埼離営時太守弓遵楽浪太守劉茂興兵伐之遵戦死二郡遂滅韓
「韓は忿り、帯方郡の埼離営を攻めた。時に、太守の弓遵と楽浪太守の劉茂は兵を興し、これを伐った。(弓)遵は戦死。二郡はついに感を滅ぼした。」
★韓王家の箕氏が絶滅させられたのはこの時である。しかし、その後も祭祀を続ける韓人が存在した。馬韓、辰韓には王が記されていない。この時、地位を追われたのであろう。弁辰に王の存在が記されているのは、この戦いと無縁で、地位を保全されていたということか。


*167 
【「漢文の話」吉川幸次郎著、ちくま学芸文庫】
「一則以喜 一則以懼」は「一則喜 一則懼」一つには則ち喜び、一つには則ち懼る。もしくは、「一以喜 一以懼」一つには以って喜び、一つには以って懼る。といえぬことはなく、そういっても意味は表現される。それを、現実には、「一則以喜 一則以懼」という。やはり主としてリズムの関係からである。……
 それとともに知らねばならぬことは、かく助字は、しばしばリズムの充足のために添えられるものであるから、はっきりした意味を追求しにくいことが、しばしばである。……またリズムの充足という以外、意味の上からのはっきりした説明は、むつかしそうに思われる。


*168 尺の長さの変化
一尺の物差しが発見されており、戦国、秦、漢は23.1㎝、魏は24.2cm。唐は31.6cmとされている。同じ魏代のうちでも変化があり、甘粛省から23.8㎝の魏の尺骨が出土している。一歩は六尺のままなので歩は人間の歩幅のサイズと合わなくなってきた。名目は同じでも実質は多い。増税を図って尺が増加されたようである。穀物を計る量も同じように増加している。24.2*6なので、魏の一歩は145.2cm=1.452m。百余歩は150mくらいになる。


*169 年すでに長大
57+60で最低限でも117歳。孝霊天皇が何歳の時に生まれたかにもよるが、その治世は76年だから、ヤマトトビモモソ姫は百数十歳になる。これは長大と言うしかない。いや、魏志に長大とあるから、こういう年齢にされたのか?


*170 イリヒコ、イリヒメ
崇神朝になって、突如、入彦、入姫という名が大量に現れる。
【崇神記】
御真木入日子印恵命坐師木水垣宮
「ミマキイリヒコイニエの命はシキ水垣宮に坐す。」★纏向も磯城に含まれる。
崇神天皇の御子
豊木入日子命(トヨ キ イリヒコ命)トヨは美称、紀に入った男の意味。母が紀氏。
豊鉏入比売命(トヨスキイリヒメ命)
大入杵命(オオイリキ命)、八坂之入日子命(ヤサカノイリヒコ命)、沼名木之入比売命(ヌナキノイリヒメ命)、十市之入比売命(トオチノイリヒメ命)、伊玖米入日子伊沙知命(イクメイリビコイサチ命=垂仁天皇)
【垂仁紀】
五年冬十月己卯朔、天皇幸来目居於高宮
「五年冬十月己卯朔、天皇はクメにいでまして、高宮に居(ま)します。」


*171 大坂と山背からの反乱
山背(京都)と大阪を支配できていない。ということは、崇神天皇は南の和歌山方面から大和入りしたことになる。


*172 箸墓の話の挿入
●十年九月壬子(九月二十七日)に武埴安彦とその妻の、山背と大阪からの反乱が発覚して戦闘。鎮圧。
●「是の後」とヤマトトトビモモソ姫、箸墓の話の挿入。
●十年十月朔(十月一日)に四道将軍の出発命令。
★四道将軍の派遣は武埴安彦等の反乱からわずか四日後である。その間に箸墓の由来話を挟んでいる。墓造りは何日でできたのか? 無関係な箸墓の話を無理やり挿入したとわかる。


*173 市磯長尾市
奈良県葛城市(旧當麻町)に長尾神社があり、付近に市場、南今市、磯野の地名がみられる。おそらく、このあたりの首長であろう。


*174 崇神朝初期の全国的な混乱
正統継承者であるはずの崇神天皇初期の大和は大混乱である。大坂、山背と戦ったり、地主神を祀ろうとしたのに祀れなかったり。四道将軍を派遣したり。畿内も地方も従っていないし、神々ともぎくしゃくしている。これは崇神朝が入彦、つまり、侵入征服者であった証左である。


*175 帝紀、旧辞
●敏達紀に「天皇は仏法を信ぜずして、文史を愛す」という記述があり、この天皇あたりから国史が意識されたのではないか?
●推古紀二十八年(620)に、「天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部併せて公民等の本記を録す。」とある。(推古天皇は敏達皇后)
 古事記は712年、日本書紀は720年の成立とされているが、日本書紀は疑わしい。ずっと改訂作業が続けられていた形跡がある。


*176 大神氏の伝承がなぜ崇神紀に
古事記だけなら、名のみで、何の印象も残らない孝霊天皇の皇女、ヤマトトトビモモソ姫を箸墓、大物主神と結び付けて詳しく語る。日本書紀が伝えようとしたのは何か。大いに疑問を感じなければならないことである。
饒速日命を祖先とする物部氏の前王朝の歴史と、大和朝廷の歴史を齟齬なくつなぎ合わせるために様々な工夫がなされている。


*177 大田田根子
大田田根子は茅渟県の陶邑(古事記では河内の美努村)で発見された。母の活玉依毘売は「陶津耳の娘」「奇日方天日方武茅渟祇の娘」(崇神紀)
陶村は大阪府堺市付近(泉北丘陵)が想定されている。


*178 ヨバヒ
「呼ぶという語から出て、その動作の継続を示す名詞である。古代には婚・娉・結婚などという漢語を以てこの語の対訳としていたほどであり、男が求婚し、またそれ以後も女のもとにかようことを意味し、それは正常なる求婚手段もしくは婚姻生活であった。」(民族学辞典、柳田国男監修、東京堂出版)


*179 文帝(司馬昭)
【晋書倭人伝】 及文帝作相又数至泰始初遣使重訳入貢
(司馬昭は晋の建国後、文帝と贈り名された。)


*180 晋への遣使
【晋書武帝紀】 泰始元年冬十二月景(丙)寅設壇于南郊百僚在位及匈奴南単于四夷会者数万人


*181 司馬昭、 相国となる
【魏書三少帝紀(陳留王)】 景元四年
冬十月甲寅復命大将軍進位爵賜一如前詔又固辞乃止
「冬、十月甲寅、また大将軍に位爵を進め賜いものを命じる。ひとしく、前の詔の如し。また固辞し、すなわち止む。」
★大将軍、司馬昭の昇進、加増(相国、晋公、九錫の礼、十郡の所領)が命ぜられたが、以前からずっと固辞していた。
十一月大赦自鄧艾鐘會率衆伐蜀所至輒克是月蜀主劉禅詣艾降巴蜀皆平
「十一月、大赦す。鄧艾、鐘會が衆を率いて蜀を討ち、至る所でたちまち勝ち、この月、蜀主、劉禅が(鄧)艾に詣りて降る。巴蜀みな平らぐによる。」
★蜀が滅び、固辞する理由を失ったようで、司馬昭は相国になったと思われる。
咸煕元年二月進晋公爵為王封十郡並前二十
「咸煕元年、二月、晋公の爵を進め(晋)王となす。十郡を封じ、前に併せ二十とす。」
★公から王になり、所領も倍増
夏五月庚申相国晋王奏復五等爵
「夏、五月庚申。相国晋王は五等の爵を復すを奏す。」
★相国の初出
【魏書王衛二劉伝、裴松之注】
文王以景元四年鐘鄧平蜀後始授相国位
「文王は景元四年、鐘(會)、鄧(艾)が蜀を平らぐ後、初めて相国位を授かる。」
【晋書武帝紀(司馬炎)】
…咸煕二年五月立為晋王太子八月辛卯文帝崩太子嗣相国晋王位
「…咸煕二年、五月。晋王太子となる。八月辛卯、文帝崩じ、太子が相国、晋王位を嗣ぐ。」


*182 
数=若干の。二、三の。五、六の。
数人…二、三人より五、六人までを言う。(大字典)


*183 壱与と陳寿は同世代
●卑弥呼の死が正始八年(247)頃
●男王が即位、その後戦乱。
●壱与、十三歳の即位
 壱与の即位年はわからないが、250年とすれば、237年の生まれになる。