弥生の興亡、1

第一章、邪馬台国か邪馬壱国か

  1、はじめに
  2、邪馬台国か邪馬壱国か
  3、漢音か呉音か    




1、はじめに

 「我々の祖先は何処からやってきたのか。そして、どのような暮らしをしていたのか。」 これは、誰もが感ずる素朴な疑問なのでしょうか。司馬遼太郎さんは、ローマ時代に遡る家系の始まりを持ち出したドイツ人を描いていますし(*)、祖先を捜す「ルーツ」という小説が、アメリカのベストセラーになったこともあります。お隣の中国は言わずもがなですから、自らの存在の根元を尋ねるのは、洋の東西を問わない、人類が普遍的に持つ性癖といったものかもしれません。《*/「街道をゆく、愛蘭土紀行1」、朝日文庫》
 そして、その点では、古代日本人も何ら変わりがなかったようです。古事記、日本書紀等の存在がそれをものがたっています。特に日本書紀は、皇室や氏族の伝承、古老に対するインタビュー等、かき集めた膨大な資料を編纂した、当時の歴史家の努力とその困難がしのばれる労作です。諸資料を照らし合わせて真実を探る。方法的には、現在の歴史家とそれほど異ならないことをしているのですが、国家の意思という、とてつもなく大きな重石がありました。その意味での困難です。
 西欧文化を吸収した明治以降は、文献資料をひもとく「歴史学」のみならず、物質的史料を研究する「考古学」、生物としての人類とその文化を研究する「形質人類学」、「文化人類学」、民間伝承などを採集する「民俗学」、そのほか「言語学」など、さまざまな方向から、日本人と国家の起源が探られ、それぞれに成果をあげてきました。
 なかでも、しばしばマスコミをにぎわす近年の考古学的成果は、まことに目覚ましく、その出土物の研究により、縄文時代にまで遡って、人々の営みが垣間見えるようになってきています。ただ、考古学には、思想や言語など、無形のものをまったく認識できないという限界がありますから、金石文、木簡等の文字資料が出土しないかぎり、誰が、いつ、何をしたかまでは知ることができませんし、何百、何千年の長きに渡って土中に埋もれていた遺跡や遺物に、生活の全てが保存されているわけでもありません。覗けるのは、ぼんやりした大まかな風景のみで、焦点をぴったり合わすことのできない隔靴掻痒のもどかしさは拭いきれないのです。
 弥生時代の中盤頃に至って、ようやく文献上の追跡も可能になります。「楽浪海中に倭人有り」と記す中国の史書、漢書がその初出で、続く後漢書は、一世紀半ばに、中国中央政権に朝貢する者が現れたことを伝えています。さらに三世紀なると、倭人との交渉も増えて、三国志魏書には、邪馬台国(邪馬壱国)を中心とする国々やその風俗、女王卑弥呼の存在など、当時の倭国の様相が、二千余文字を割いて紹介されるに至りました。



 日本という国の成り立ちを知りたいと願えば、魏志倭人伝と通称される、この著名な文献に係わらざるを得ません。漢書はわずか十九文字の表記にとどまります。後漢書は魏の前代の歴史を伝えるとはいえ、五世紀の南朝、宋代に遅れて編纂されたもので、その倭伝は内容の大半を魏志に依存しています。魏志倭人伝ほど、古くて、当てに出来る、まとまった文献は他に存在しないのです。
「邪馬台国は何処にあったのか。女王、卑弥呼とはどんな人だろう。三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡か。庶民の暮らしむきは?……。」
 たった二千余文字で全てを語ることはできず、問いは尽きることがありません。それを知ったところで、何の役に立つわけでもないのですが、こういう興味を知的好奇心と言うようです。そして、同じく好奇心に突き動かされた人々が、自らの思い入れを大量に注ぎ込み、次から次へと魏志倭人伝の解釈を試みた結果、現在では、邪馬台国は東北から沖縄までの各地をさまようという羽目になってしまいました。もっとも、大局的にみれば、昔ながらの「大和説」、「北九州説」の二つに絞り込んで問題ないようです。
 私自身はと言えば、子供の頃から、邪馬台国は奈良県と信じてきました。これは小学生の時に、邪馬台国に触れた歴史図鑑か何かをもらったせいで、稲を刈る人々の絵と、弥生時代は平和なのどかな時代であったという解説が付されていたように思います。定かとは言い難い、頼りない心象ですが、おそらくそんな風に、何の抵抗もなくごく自然に、「大和の邪馬台国」が、脳細胞の何処かにこびりついてしまったものでしょう。正直に言うと、大阪育ちの私にも、やはり、郷土意識らしき気分があって、その結論に満足していたことを白状せねばなりません。「邪馬台国を郷里に」という我田引水をあざ笑えば、たちまち我が身に跳ね返ってくることになりそうです。
 とにかく、これまで何十冊となく古代史関係の書物を読み漁ってきましたが、どれを取りあげても、あちらを立てれば、こちらが立たずの矛盾が感じられ、納得がいかないという不満はくすぶり続けていました。やがて、漢文で書かれた原典ではなく、歴史家の著したフィルター越しの世界を眺めているに過ぎないと気が付きます。「それなら、自ら原典の中に、真実を求めるしかあるまい。」 魏志倭人伝は研究され尽くして、もう何も出てこないという発言もしばしば見られますが、果たしてそれは正しいのかどうか。全てを白紙に戻して、精密に分析すれば何かが見つかりはしないか。かくして、私も、この「興味深い謎解きに囚われた」人々の並びに加わり、歴史の迷路をさまよいながらこの一文をしたためるのです。(翻訳文に疑問をもたれた場合の確認のため、原文も記しておきます。)

2、邪馬台国か邪馬壱国か

 魏志倭人伝の著者は、(西)晋の人、陳寿です。書名を正確に言えば、「三国志、魏書、烏丸鮮卑東夷伝第三十」の中の一節、倭人というこ とになります。しかし、岩波文庫所載の原文影印(百衲本)には、わざわざ一行を分けて、「倭人伝」と見出しが付けられていますから、古くは小項目、倭人伝だったのかもしれません。
 この頃の中国は、魏、蜀、呉の三国が鼎立していました。西暦263年、西方の蜀が最初に滅び、二年後、北方の魏が、その臣下の司馬氏に乗っ取られて晋が建国され(265)、最後に、晋が南方の呉を制して、中国を統一しま した(280)。
 陳寿は蜀の出身で、晋代に、滅びた前王朝三国の歴史を編纂しています。つまり、これから行う作業と同じ様に、過去の雑多な文献を歴史の流れに沿った順序に整えて引用、転記し、自らの見解を加えて一巻の書と成したわけです。記録、史料の取捨選択は、陳寿という個性に依存しますが、表現の全てが陳寿の頭脳から生まれたわけではない、ということを心に留めておかねばなりません。想像に任せた小説ではなく、歴史という事実の再構成なので、必ず、より以前の、信頼に足ると判定した文献、資料を典拠としていて、その表現を得ているはずです。
 魏志倭人伝の原文をたどって、当時の日本を検証していくことにしますが、あらかじめ二つの問題を解決し、地ならしした上で取りかからねばならないようです。
 誰もが、子供の頃から、邪馬臺(邪馬台、ヤマタイ)国という国名を覚え込んで、もはや一般常識とも言えます。しかし、不思議なことに、魏志倭人伝中にはこの文字はなく、邪馬壹(邪馬壱、ヤマヰ)国と表記されているのです。書物は筆記されたり、木版刷りにされたりして、後世に引き継がれてきました。倭人伝もその節目で間違えられ、いつしか「臺」から「壹」へ変化したのだろうと簡単に考えていたのですが、些細な、思わぬ発見が、それに疑問を抱かせたのです。
 岩波文庫「魏志倭人伝」所載の、「後漢書倭伝」(范曄撰。唐章懐太子賢注)原文影印には、次の文があります。(百衲本)

   大倭王居邪馬臺国 (案今名邪摩惟音之訛也)
 「大倭王は邪馬臺国に居す。(今の名を案ずると、ヤバユヰ音の訛ったものである。)」

 驚いたのは、括弧の中に入れた唐の章懐太子の注の部分です。今はヤバタイ(漢音)と発音するが、これはヤバユヰが変化したものだと記しています。
 後漢書が著されたのは南朝、宋の時代。つまり、倭の五王が中国へ遣使したと伝えられている時代です(宋書倭国伝)。 西晋の頃書かれた魏志より百五十年ばかり遅れていますので、後漢書倭伝の記述の大半は、魏志倭人伝のそれを引き写しているように見えます。魏の帯方郡から、倭へ向けて使者が派遣されていますから、その知見に基づいて書かれた魏志倭人伝が信頼されるのは当然でしょう。しかし、後漢書の著された頃、長い間、交流を絶っていた倭王が、新たに使者を派遣し朝貢してきました。そして、自分達の国をヤマダイ(呉音)と発音したので、その著者、范曄は、魏志倭人伝の邪馬壹(ヤマヰ)国を訂正し、「ダイ」という音を表わすのに、わざわざ「壹」に似た「臺(*)」の字を選んで使用したらしいのです 《*/この文字は魏志倭人伝中に見つけることが出来ます》
 魏志は壹と臺を間違えていると判断したか、あるいは、今はヤマダイに変わっているから、こちらを採るべきだとか考えたのかもしれません。後漢書に注を加えた章懐太子賢は、より古い魏志に、邪馬壹国と表記されている同じ土地が、後の時代、邪馬臺国に改訂されたのは何故かを考え、ヤバタイという今(唐代)の名はヤバユヰ音が変化したのだという結論を下しました(*1)。 つまり、注が入れられた七世紀(*2)の唐代から、魏志には邪馬壹国、後漢書には邪馬臺国と別の文字が書かれていて、現在伝わっている形と全く変わらないことになるのです。
《*1/但し、学者に研究させています。魏志が邪馬臺国と記していた場合、このような注は必要なかったはずです。ずっとヤバタイで訛っていません。》 《*2/儀鳳元年676》
 私の使用した二種の魏志倭人伝の原文は、どちらも邪馬壹(邪馬壱)国です。邪馬臺国(邪馬台)と記す魏志倭人伝に言及する書物はありませんから、邪馬台国は、後漢書倭伝や、それ以降の時代に書かれた歴史書、他の資料中の引用文に登場するだけなのでしょう。肝心の魏志倭人伝自体には、邪馬台国など存在しないのです。
 唐代に著わされた隋書俀国伝は、隋の使者、裴世清等が、日本を訪れた時の状況を記録しています。遣隋使、遣唐使も多数派遣されて、交流が盛んな時代だったので、それだけ信頼性も高いのですが、邪靡堆(ヤバタイ)国としていますから、国名は倭の五王時代のそれが継続しています。
 弥生時代の邪馬壱国が、歴史書に空白のある百五十年ほどを置いた後の、倭の五王の頃には、邪馬台国となっていました。それは、王朝の断絶を示す痕跡ではないでしょうか。古事記(記)、日本書紀(紀)には、神武天皇の東征とされる王朝の交代が記録されているのです。
 古田武彦氏が「邪馬台国はなかった」という本を書かれ、「邪馬壱国」が正しいとされていました。詳しい内容は存じませんが、確かに、魏志倭人伝時代には邪馬壱国です。ただ、後漢書の著わされた南朝、宋代以降は、確実に邪馬台国が存在していますから、この表題自体は誤りということになります。支配層が変り、同じ土地をすこし違う名で呼ぶようになったらしく、敗者の地名は変えられてしまったのです。
 卑弥呼の後継者、女王となった少女の名は壹與(壱与)と記されています。通説は唐代に著された梁書などを根拠に、臺與(台与)が正しいと改めますが、意識してながめると二行に三回もその名が現れます。この全てを伝写時に誤ったものと扱い、倭人伝のどこにも見当たらない臺與(台与)が正しいとするのは無理が多すぎます。まして、その一、二行後に「臺(=中央官庁)に詣で、男女の生口三十人を献上…」という臺が正しく書き分けられているというのに。

《原文…立卑弥呼宗女與年十三、為王。国中遂定。政等以檄告喩與。與遣倭大夫率善中朗将掖邪狗等二十人、送政等還。因詣献上男女生口三十人……》

 後漢書の記述のうち、魏志を引いた部分は五百二十文字ほどで、そのほとんどは、言葉を置き換えた単なる要約にすぎません。しかし、以下に挙げる文は、その意味する内容にまで変化が及んでいます。これはどういうわけでしょうか。

 其大倭王居邪馬臺国(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其国万二千里 去其西北界狗邪韓国七千余里
「その大倭王は邪馬台国にいる(今の名を勘案すると、ヤマヰ音の訛ったものである)。楽浪郡境はその国を去ること万二千里、その西北界、狗邪韓国を去ること七千余里」

 ヤマイをヤマダイに修正しただけではなく、魏志が邪馬壱国(女王国)の北岸、朝鮮半島にある別の国とする狗邪韓国を、邪馬台国の西北境界の国として、邪馬台国に含めてしまいました。

  犯法者没其妻子 重者滅其門族
「法を犯すものは、その妻子を落しめて奴隷とする。重者は、その一門を滅ぼす。」

 魏志では、重犯者も「没其門戸及宗族」となっていて、奴隷にされるだけですから、後漢書の方が刑罰は重くなっています。没と滅は文字の形が大分異なっていますが、これは魏志の方に伝写の誤りの可能性があるかもしれません。没、滅となっていたのを、没、前の字に引っ張られて没という具合に。後漢書の方が間違えたとは考えにくいでしょう。没、没とあるのを没、滅とするには、滅というそのあたりに見あたらない文字を、勝手に思い浮かべて書き込まねばならないからです。ここは、後漢書が没から滅に訂正したか、魏志倭人伝の伝写間違いのどちらかと考えられます。
 《注…魏志の異本では、後漢書と同じく「滅」となっています。但し、後漢書の方にも「没」とする異本があるからややこしい。しかし、魏志が「没」、後漢書が「滅」という形が本来のもののようです。理由は説明できますが、迂遠になりすぎますので、ここでは取り上げません。「没」は、魏志夫余伝に、「殺人者は死。その家人を没して奴婢となす。」という記述があり、身分を奪って奴隷に落とすことを意味します。》

  自女王国 東度海千余里 至狗奴国 雖皆倭種 而不属女王
「女王国より、東に海を渡ること千余里。狗奴国に至る。皆倭種といえども女王に属さない。」

 魏志が単に女王国の南と記す狗奴国を、女王国の東、海を渡った向こうの国と言います。後漢書倭伝は、自らの言葉に置き換えながら、魏志倭人伝を四分の一ほどに要約しました。したがって、著者の范曄が魏志を通読し、同じ意味を持つ言葉を探して推敲したことは明らかなのに、内容の違いが、こういうふうにいくつも現れるのは不可解です。
 特に、この狗奴国に関する記述は不審を抱かせます。魏志のその部分は、解釈に迷うような難解な文ではありません。それにもかかわらず、「南に狗奴国があって女王に従っていない。」、「東に海を渡って千余里で、また国がある。皆、倭種である。」という四十行ほど離れた位置にある無関係な記述を合成して、魏志では、方向が異なった全く別の国と認識される二つを重ねているのです。
 これを、単なる勘違いとして済ますのは軽率と言うべきでしょう。現代日本人である私でさえ、簡単にその内容を読み取って間違わない文です。「若くして学を好み、経史を広く渉り、善く文章を為す。隷書に長け、音律に明るい。(宋書范曄列伝)」と評された秀才范曄が、その程度の解釈を誤る凡庸な頭脳の持ち主とはとても思えませんから、そう書いたのは、何かしらの根拠があって、魏志倭人伝を修正したと考える他ないのではないか。范曄がうっかりまとめそこなったとするより、後漢書を記すにあたって、倭の五王の遣使によって得られた新たな資料と照合した。そして、魏志倭人伝は間違っているという判定を下し、訂正したとする方がよほど説得力を持ちます。魏志の真珠を白珠に改めたり、丹を丹土としたり、後漢書には明らかな訂正の跡が見られるのです。
 倭の五王と書いてしまいましたが、范曄が後漢書を著わしたのは、元嘉元年(424)の冬に左遷された後で、数年間の志を得ない時期とされています(宋書范曄列伝)。したがって、五王のうちで、利用できるのは讃の遣使時(421、425)の資料だけということになります。ただし、それ以前の、東晋の義煕九年(413)にも、王名を欠いた倭国の遣使が記録されています(晋書安帝紀)。
 倭王「讃(*)」は応神天皇のホムダワケという名の漢訳の可能性が強く、それに八年先立つ413年の遣使なら、その一世代前の王、つまり、讃の母、神功皇后の遣使と解することができます《*/讃=ほめる。古語=ほむ》
 そして、「その西北界狗邪韓国(*)」、「東の狗奴国が女王に属さない」という後漢書の記述は、この413年の遣使の資料を得て魏志を改めたもの。神功皇后時代、西北は朝鮮半島の狗邪韓国に至るまでを領有していたが、東方に抵抗勢力があってようやく制圧したという、当時の政情を反映させたものと考えられるのです。《*/倭は狗邪韓国の東南に存在することになります。》
 神功皇后は卑弥呼、壱与以来続く女王国の後継者と誤解され得ますし、北九州(福岡県)に拠点を置き、朝鮮半島へ進出した後、瀬戸内を通って畿内へ攻め上ったことが「記、紀」に記されていますから、狗邪韓国を領し、一海(瀬戸内または関門海峡)を渡った東方の国が敵対するという、後漢書の伝える状況と完全に重なるわけです。
 范曄が、「海を渡った東方の国が従わず、長い間戦っていた。」という皇后の使者の残した言葉と、魏志倭人伝中の女王に属さない狗奴国の記述を結び付けたと解せば、全てが氷解します。
 この女帝の実在を疑う向きもありますが、「記、紀」の記述は存在感にあふれ、「紀」の編纂者が、神功皇后を卑弥呼に比定するという誤りを冒すほどです。おかげで年代が、170~180年ほど狂ってしまい、後の時間と合わせるのに苦心惨憺しています。

 【年表】    
391 神功皇后、朝鮮に侵攻。(高句麗広開土王碑/記、紀=香椎宮)
 ? 難波の忍熊王と対立し制圧。(記、紀/=「海を渡った東方」)
413(義煕九年)神功皇后、東晋に遣使(晉書安帝紀)。
421 応神天皇(倭王讃)宋に遣使。応神天皇は三十歳
424頃范曄、後漢書を著す(宋書)。新たな資料を得て魏志倭人伝を訂正。前王朝時代(東晋)の文献にしたがったと考えられるので、邪馬台国はその文献に記された文字かもしれない。
425 応神天皇、宋に遣使(宋書)


 【女王・卑弥呼と神功皇后の誤解を誘う類似点】            
卑弥呼(魏志倭人伝) 神功皇后(記、紀)
年すでに長大なるも夫婿なし 仲哀天皇と死別
鬼道に事える 神託を受ける、鮎占い
中国へ使者を派遣 (238)(243)(247) 中国へ使者を派遣(413)
  テン皮や人参を献じる
(これは朝鮮の産物です)
南の狗奴国と戦う。東に倭種の国 難波(一海を渡った東)の忍熊王と戦う
  (後漢書はこれを狗奴国とみなす)
倭国大乱後、王として共立される 畿内進出。応神天皇の摂政
(記、紀は忍熊王との戦いを倭国大乱と扱う)
邪馬壱国 邪馬台国

晋書安帝紀…「この歳(義煕九年、413)、高句麗、倭国及び西南夷銅頭大師、並びて方物(*)を献ず。」《*/地方の産物》
 以下の注が入れられています。 「御覧九八一、義煕起居注曰く。倭国は貂皮、人参等を献ず。詔して細笙、麝香を賜う。」 /この記述自体は太平御覧(983)、巻981の「麝」の項に見られるものです。/起居注とは天子の日常の出来事を記録した文書をいいます。/
 倭国が方物として、貂皮や人参等の朝鮮半島の産物を献上しました。そして、高句麗、広開土王碑には、「辛卯の年(391)、倭が海を渡り来て、百済、■■、新羅を破り、以って臣民となした」という記述がみられます。神功皇后が新羅、百済を属国にしたという記、紀の記述にぴったり結びつき、全てが真実であることを示しています。日、中、韓、三つの国の無関係な史料が同じ方向を指しているのです。東晋へ遣使した413年の少し以前に畿内へ進出し、神功皇后の政権が安定したと思われます。】

 神功皇后は魏志倭人伝中の卑弥呼を思わせる女傑でした。にわかに夫を失い、子を孕むという大変な状況の中で、神託を受け、国の舵をとり、そして、成功したのです。しかし、単にそれだけのことで、神功皇后が卑弥呼に擬せられたわけではありません。范曄の訂正により、後漢書倭伝の記す 「卑弥呼の邪馬台国」 を取り巻く時代環境が、神功皇后のそれと、完璧に一致しているという事情にも拠るわけです。
 「記、紀」は、神功皇后と忍熊王(*)の戦いを、卑弥呼の即位前に長期間続いたという倭国大乱に当てはめていることになります。《*/忍熊王は仲哀天皇の子、皇后の義理の息子。391年の朝鮮侵攻時に九州にいた神功皇后が413年の少し以前に大和へ移動したのなら、20年以上対立していて、これは大乱と言えるでしょう。》
 「紀」は、その編纂者が、中国の史書と日本の伝承を分析し、神功皇后が卑弥呼ではないかと疑っている体を採りました。しかし、すべてを知りながら、後漢書の誤解を利用して、神功皇后を卑弥呼に見せかけた可能性は非常に強い。というより見せかけたのだと断定しておきます。
 再び「壹」と「臺」の区別のことに戻りますが、この二文字の空間密度とバランスの違いは、瞬時に別の文字であることを認識させるように思えます。レタリングの経験者、つまり、文字を書く訓練を受けたものにとっては極めて容易な知覚で、部分的な形は似ますが、はたして、間違えやすい文字と言えるでしょうか。それに加え、魏志は数行のうちに壹と臺を書き分けていますから、転写時に誤りがあったとは信じ難いのです。立て続けに三文字見られる「壹與」の壹が、すべて臺の写し間違いで、「臺に詣ず」の臺のみが正しく記されたという扱いになる通説は、何を頼みとするのでしょうか。後漢書が、壹から臺へと、より手数のかかる複雑な方向に間違えるというのも合点がいかず、やはり、范曄が、自信を持って「壹」から「臺」に訂正したと見るしかないようです。
 隋書や太平御覧など、魏志倭人伝を引用した後代の書物に、邪馬臺国という文字が見られても、その引用者が魏志を確認、あるいは、信頼してそのまま使用したかどうかが保証されません。隋書は「魏の時」と言いながら引用しているのは後漢書です。
 後漢書の著者、范曄は、神功皇后の413年の遣使によって得られた新たな情報を加え、魏志倭人伝を訂正した。そして、これ以降の歴史書は、全て後漢書倭伝に習ったというのが、この項の結論です。王朝の交代と地名の変化が知られていなければ、交代後ずっと続く「邪馬臺(ヤマト)国」を記した後漢書に引きずられるのは当然でしょう。壹、惟が後の時代に臺、堆へと改変されてしまったのです。
 以上のことから、「魏志倭人伝に記された文字は正しい」という立場をとって書き進めて行くことにします。邪馬臺(邪馬台)国ではなく、邪馬壹(邪馬壱)国。臺與(台与)ではなく壹與(壱与、イヨ)です。伊予国の別名が愛比賣(*)であることも、必ずこれに関係しています。《*/愛比賣=エヒメ=可愛い姫=壱与は即位当時13歳》
   
1 「邪馬壹」と表記したのは帯方郡使(魏志)
2 神武天皇による王朝の交代(記、紀)
3「邪馬臺」は神功皇后の使者から資料を得た東晋の文献。後漢書の范曄はこれに従う(後漢書)
4 以降の文献は後漢書に従う。王朝交代で地名が変化しており、こちらが正しいと判定したため
5「邪靡堆」は隋の使者、裴世清か遣隋使から情報を得た隋の文献(隋書)
6 「邪摩惟」は唐、章懐太子賢に後漢書の注を入れるよう命ぜられた学者(後漢書、注)
7 唐以降はすべて後漢書、隋書に従う。邪馬壹が邪馬臺に、邪摩惟が邪摩堆に改変された


3、漢音か呉音か

 もう一つ、魏志倭人伝を読み進める前に明らかにしておかねばならないのは、倭人伝中の国名、人名等が北方の漢音で記されているか、南方の呉音で記されているかということです。
 邪馬臺は漢音で読めば「ヤバタイ」、呉音で読めば「ヤメダイ」となります。「ヤマタイ」国のように、漢音、呉音を無原則に取り混ぜて使用するのは、御都合主義というものでしょう。
 古代、中国南方には三苗と表される民族が幅広く展開していました。これは現在の中国少数民族、ミャオ族、ヤオ族、ショー族、トゥチャ族、ぺー族、チワン族、タイ族等につながる民族で、根底に民族や言語の相違があったため、同じ文字を発音するにも華北とは少し異なっていたのです。現在でも、福建語と北京語が相通じないということから、多少、それがうかがえますが、日本人にとって、英語のRとLの発音の区別が困難であるのと同様、真似ても正確に発音出来なかったらしく、北方のバビブベボは、南方ではマミムメモに転訛しています。他、ダヂヅデドとナニヌネノにも対応関係が見られます。
 魏は北方で発展した国なので、漢音に近い音が使用されていたと推定できますし、陳寿の晋もそれを引き継いでいますから、やはり、魏志倭人伝は、原則的に漢音で読むべきです。安易な妥協は排さねばなりません。当時の発音と辞書に記されている漢音が同じものかどうか、倭人の発音に対する聞き取りの精度がどの程度かという問題はありますが、他に拠り所もないので、単純に漢和辞典に従うことにします。(「大字典」講談社を使用)
 倭人伝の地名や官名には、いやしいという意味の「卑」、地位の低いことを表す「奴」、正道から外れていることを意味する「「邪」が多用されており、中国人が表記したことは明かです。いくらわかりやすい文字だといっても、自らの女王を卑弥呼と書いたりしないでしょう。韓伝の国名にもこれらの文字が用いられています。
 王朝も交代し、社会環境も大きく変化しました。倭人伝の地名が、そのまま後世に保存されているかどうかは請け合えず、記、紀などの地名を当てにしても、うまく一致するとは限りません。「奴国」という国を例に挙げれば、漢音はドで、呉音はヌ
(乃都の切→Dai+To=Do Nai+Tu=Nu) となっていますから、元来はドゥ(ヅ)という音に近かったと推定できます。
 通説のように、後の地名
(*)に合わせて、これを「ナ」と読めば、倭人伝の奴婢を「ナヒ」、夫余伝の匈奴を「キョウナ」と読まねばなりません。《*/奴国の位置に儺県が設けられた》果たして妥当でしょうか。同じ書の同じ文字を別の発音で読まねばならないというなら、それは承服しかねるのです。万葉仮名でもこの文字はヌと読まれていて、ナと読む例を見ません。カタカナやひらがなの「ヌ」、「ぬ」はこの文字から作られたくらいです。奴国と記して、ナ国と読ませることが出来なかったからこそ、儺や那が使用された。つまり地名自体が「ドゥ」から「ナ」へ変化したのです。以下は倭人伝に現れる国名、人名、官名の一部を呉音と漢音で対比したものですが、北方系の漢音を使用して倭人伝を読み進めることにします。卑狗など漢音で読めばヒコ(彦)で、そのまま意味が通じます。

現代名 文字 呉音 ●漢音
つしま 對海 ついかい たいかい
對馬 ついめ たいば
いき 一大 いちだい いつたい
一支 いちし いつし
まつら 末盧 まちろ ばつろ
いと 伊都 いつ いと
な? ど(どぅ)
不彌 ふみ ふうび
投馬 つめ とうば
やまと? 邪馬壹 やめゐ やばゐ
狗奴 くぬ こうどぅ
ひみこ 卑彌呼 ひみこ ひびこ
ひこ 卑狗 ひく ひこう
狗古智卑狗 くこちひく こうこちひこう
 

続き、「魏志倭人伝から見える日本、2」