弥生の興亡1 魏志倭人伝から見える日本1

第一章、邪馬台国か邪馬壱国か

  1、はじめに
  2、邪馬台国か邪馬壱国か
  3、漢音か呉音か    




1、はじめに

 古事記、神代に、知名度がかなり低く、大半の人が気にも止めずに通り過ぎると思われますが、大事忍男(オホコトオシヲ)という神が登場します。日本の祖神、伊邪那伎(イザナギ)命と伊邪那美(イザナミ)命は、於能碁呂(オノゴロ)島に天降り、大八島などの国々を生み終えたあとに神々を生んだとされています。その最初に生まれたのがこの神なのです。石、土、砂、家屋という身近な生活圏の神や、海、野山などの大自然の神に先立つということは、かなり基本的なことにかかわる神なのでしょう。
 本居宣長の「古事記伝」は、「日本書紀の一書に現れる、事解之男(コトサカノヲ)と同神、国生みという大事をなし終えたことを表す。オシ(忍)はオホシ(大)の詰まったもので美称」と説明しています。しかし、その解釈では「大事」の「大男」神というだけになり、何のことやら。存在意義が不明です。それに、二祖神が国生みの最後に生んで切りをつけたのならともかく、次の場面に移っているのに、前場面を引きずって最初に現れるのは解せない。
 同一神だという事解之男は二祖神の離婚、つまり、関係の解消にかかわる神です。「事を解く」は満了、成就ではなく中途解約だから、縁起の良い神ではないはず。約束固めの神、速玉之男とセットで現れているし、神々の先頭で生まれるにしては、あまりに存在が軽すぎる。等々、同一神と扱える要素はまったく見当たりません。なんのかんの理屈をつけても決定的なものはなく、結局のところ、大事忍男は名義未詳というのが通説になっています。
 コトサカ・ノ・ヲと並べてみるとよくわかるのですが、宣長のいうオホコト・オシヲではなく、オホという美称の付いたコトオシ・ヲが本体でしょう。オホ・コトオシ・ヲ(大・事忍・男)を言葉どおりに受け取ると、「大なる、事を押す、男」という意味になります。私は時間の神ではないかと考えています(注1)
 そんな想像を許すほど、時間はあらゆるものを押し流し、無に返してゆきます。自分自身の記憶でさえままならない。それにあらがうため、忘れてはならない重要なことは、口に出し、心に唱え、反復して覚え込んだり、トーテムポールのような象徴的な何かを作ったり、文字に書きつけたりという作業を人々は続けてきました。
 中国では、司馬遷が史記を著して以来、歴代王朝の歴史が書き継がれています。記録を残すこと自体は、司馬遷以前からの、どこまで遡るかわからないほど古い時代からの伝統です。文字のない頃は口承や結縄などで受け継がれてきたのでしょう。山海経や楚辞天問、淮南子、補史記三皇本紀(注2)などに、そう考えるしかない太古の伝承が残されています。巨大な神々が跋扈し、怪異はひきもきらない。伝説と扱い、歴史データとしての検討は放棄されがちですが、伝説も何らかの史実や思考の反映とみれば、簡単に切り捨ててよいのかという思いがつきまといます。さいわい、「怪力乱神を語らず(注3)」を実践する儒者ばかりではなかったので、現在まで保存され多くの研究者をわずらわせています。
 文字は黄帝の時代、その臣、蒼頡が鳥の足跡を見て思いついたといいますが、これも伝説の類に含めて良いでしょう。しかし、いつ、誰とは言えないにしても、文字を案出した人間がいたことはまちがいなく、殷(商)の時代には確かに存在したことが考古学資料から明らかになっています(注4)
 国号が現れるのは夏(夏后)の時代からで、殷(商)、周(西周)、春秋戦国(東周)、秦、漢と続きました。歴代王朝には記録やその保管をつかさどる史官が置かれており、史実と言い切るのはためらわれますが、呂氏春秋や竹書紀年は紀元前十七世紀頃の夏王朝の終末期、すでに太史令(注5)という官が存在したと伝えています。
 春秋左氏伝には、「斉国の臣、崔杼がその君の荘公を弑したが、大史が『崔杼、その君を弑す』と記録したため、崔杼はこれを殺した。大史の三人の弟が次々に同じことを記録したので、崔杼もあきらめた。大史兄弟が全員殺されたと聞いた南史氏は、同じ文を書いた簡策を手にして出かけたが、すでにその通りに記録されていると聞いて引き返した。」という記述があります(注6)。南史氏と史が入っているからには、この人も史官でしょう。命をかけるほど正確さにこだわりをもっていた。
 史官は、祭祀や賞罰等、国家管理の必要上から、天文現象をはじめとした記録全般をつかさどっていたようですが、そういった断片的な記録や伝承を整理・統合して一つの通史(注7)、時代史にまとめあげるという試みは、やはり後世に資するという意識なしには生まれなかったでしょう。司馬遷は史記の太史公自序で「往事を述べ来者を思う(過去を述べ未来を思う)」と記しています。後世が姿勢を正すための鏡の役割を期待したようです(注8)
 欧米で、歴史の父と評されるヘロドトス(B・C5世紀)は、「人間界の出来事が時の移ろうとともに忘れ去られ、ギリシア人や異邦人の果たした偉大な驚嘆すべき事績の数々-とりわけて両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情-も、やがて世の人に知られなくなるのを恐れて、自ら研究調査したところを書き述べた。」と書いています(注9)。ヘロドトスになると翻訳本に頼るしかなく、原文から直接読み取れる何かが欠けてしまうかもしれません。しかし、ここにあるように、消え去りかねない真実を後世に伝えたいということのみであるなら、司馬遷とは少し意識が異なるようです。
 足元の日本へ戻れば、古事記、太安万侶の序は、天武天皇が、諸家に伝わる帝紀や本辞に多くの虚偽がまじり、その誤りを正さなければ滅びてしまうと危惧して、「いつわりを削り、まことを定めて後葉に伝えようと思う。」と語ったのが撰録の端緒だと記しています(注10)。少し遅れて成立した日本書紀(注11)は、皇室や有力氏族の伝承、古老に対するインタビュー等(注12)、かき集めた膨大な資料を編纂した、当時の歴史家の努力とその困難がしのばれる労作です。諸資料を照らし合わせて真実を探る。方法的には、現在の歴史家とそれほど異ならないことをしているのですが、国家の意思という、とてつもなく大きな重石を乗せられていました。その意味での困難で、大きな歪みが生じています。同時に、後世がその歪みを認識し、修正できるような書き方をしており、それが彼らの歴史家としての良心の表出、精一杯の努力の成果、議論の末の妥協の産物だと伝わってきます。(注13)
 地域、時代は異なっても、歴史書は、上記のように、後世に“真実”を伝えるという強い意志の元に、あらんかぎりの知力を注ぎ込んで編まれてきました。しかし、書かれて二千数百年~千数百年を経てバトンを渡された後世の立場からすれば、言葉や風俗の変化でわかりにくくなったことが多いし、残された他の文献や諸資料との整合性の問題から、疑義を差しはさまねばならないことも多い。鵜呑みにするわけにはいかないぞ、研究して確認しなければならないぞということになるわけです。
 日本では、西欧文化を吸収した明治以降、文献資料をひもとく「歴史学」のみならず、物質的史料を研究する「考古学」(注14)、民間伝承などを採集する「民俗学」、生物としての人類とその文化を研究する「形質人類学」「文化人類学」、そのほか「言語学」など、さまざまな方向から日本人と国家の起源が探られ、それぞれに成果をあげてきました。なかでも、しばしばマスコミをにぎわす近年の考古学的成果はまことに目覚ましく、その出土物の研究により、徐々に、断片的に、縄文時代にまで遡って、人々の営みが垣間見えるようになってきています。ただ、考古学には、思想や言語など、無形のものをまったく認識できないという限界があり、金石文、木簡等の文字資料が出土しないかぎり、「誰が」「いつ」「何をしたか」までは知ることができないし、何百、何千年の長きに渡って土中に埋もれていた遺跡や遺物に、生活の全てが保存されているわけでもありません。覗けるのは、ぼんやりした大まかな風景のみで、焦点をぴったり合わすことのできない隔靴掻痒のもどかしさは拭いきれないのです。
 歴史を知るには文献にしくはないわけですが、日本でそれが可能になるのは弥生時代も中盤を過ぎてからになります。「楽浪海中に倭人有り」と記す中国の史書、漢書がその初出で、続く後漢書は、一世紀半ばに、中国中央政権に朝貢する者が現れたことを伝えています。さらに三世紀なると、倭人との交渉も増えて、三国志魏書には、邪馬壱国(邪馬台国)を中心とする国々やその風俗、女王卑弥呼の存在など、当時の倭国の様相が、二千余文字を割いて紹介されるに至りました。
 日本という国の成り立ちを知りたいと願えば、魏志倭人伝と通称される、この著名な文献にかかわらざるをえません。漢書はわずか十九文字の表記にとどまるし、後漢書は魏の前代の歴史を伝えるとはいえ、五世紀の南朝、宋代に遅れて編纂されたもので、その倭伝は内容の三分の二を魏志に依存しています。魏志倭人伝ほど、頼りになる、まとまった文献は他に存在しないのです(注15)


 世界の広さ、人種、風俗の多様性などが容易に認識できる時代になり、伝わってくる情報から国民性の違いなども明確に感じられるようになりました。
 テレビで見かけるフランス警官の楯は、ギリシアの壺に描かれた円形の楯に似ているし、使用法も同様で、片手で楯を持ちながら、もう一方の手に持った武器で攻撃しています。日本の警官の、長方形の楯は、出土した木製の隼人の楯の形を踏襲しており、使用法もたぶん古代と変わらないでしょう。大きな楯で全身を隠しながら相手にジリジリ迫るのです。言葉通り「タテ」て使われます。その背景に戦闘法の違いがあるようです。敵と入り交じる肉弾戦を得意とするか、弓矢による遠くからの攻撃に備えるかという違いです。後者は肉弾戦になった場合は楯に頼れない。つまり、防御をかえりみないということでもあります。防御的な姿勢を旨としながら、それがうまくいかない時は玉砕覚悟の突撃という精神を生む素地になりはしないか。第二次大戦時の日本陸軍の行動を考えると、ついそういう想像をしてしまいます(映画で見ただけ!)。
 欧米映画で、靴を履いてからズボンをはくという奇妙なシーンを見かけることがあります。日本人の目には、大きな靴に細いズボン、はきにくくなるのがわかっているし、ズボンの内側が汚れるのに何故?ということになります。犬の糞でも踏んづけていたらどうする。しかし、古代ヨーロッパの家は石造りで内部でも土足。ベッドから降りた時、足が冷たいし、衣服は大きな布きれを巻いたような形ということを思い起こせば、これも説明できそうです。履物(サンダル)を先にして床の上に立ち、それからおもむろに衣服をまとっても不都合はありません。騎馬民族から導入したズボンや靴が主流になっても、履物を先に身につけるという形が残るのではないか。古代の日本人は裸足で生活していたし、高床住居で履物を脱ぐ生活が主流になります。寝具は直接床に敷く布団だから、衣服を先に身につけ、家を出る時に履物という順序が生まれます。
 以上は私の思いつきに過ぎず、確証はありませんが、民族の伝統から生まれた習俗、感覚はいたるところに残っていて、そうとう根深いものがあるようにみえます。
 日本人とその国家や文化の始まり、背景に何があるのか。根本的なところから知りたくて出版物をずいぶん読み漁ったのですが、素朴とも思える程度の疑問すら解消に至りませんでした。ありがたいことに、日本、朝鮮の史書も漢文で書かれており、辞書を頼りに自ら探求するという道が残されていました。同時に、高校時代に受けた(眠っていた)教育が、数十年を経て効いてくるとは夢にも思わず、教育というものの難しさも痛感させられた次第です。

 江戸時代の末期、鎖国破りの外国船がしきりに渡来するようになります。二百年の太平の夢を揺さぶられた日本人は、国家、国防、民族というものを強く意識させられ、その精神の拠り所を記、紀、万葉などの古典に求めました。その結果として、国史の研究は、国粋主義的な宗教的色彩を帯びることになります。諸外国に対抗する、民族の精神的な支柱としてのイデオロギーを付加されてしまったのです。これが第二次大戦の敗北まで続きました。戦後はその皇国史観に対する意趣返しのような唯物史観が幅をきかせましたが、どちらも特定の枠にはめて歴史を解釈しようとするから本来の形は見えません。歴史の真実の中に何らかの傾向性を見出すことはできるでしょうが、あらかじめ決められた枠に合うように押し込めたり、切り捨てたり、伸ばしたりだから、生産物は歴史ではなく、個人的思想というべきものです。真実の探求者は、史観というような枠を破壊し、素直に、資料の語るところを歩いて行かなければなりません。
 資料を疑うことは簡単ですが、自分が知らないから怪しい、思わないなどと否定してしまえば歴史そのものが無くなってしまいます。古代の人々が書き残してくれた資料を尊重する、記述をそのまま受け取ることが基本で、否定的なデータがあるときのみ改めるという姿勢も必須でしょう。
 歴史は人間活動の記録です。その当時に於いては現実だったわけで、データの解釈も現実的、常識的な範囲で必要十分です。現実的、常識的という言葉にあいまいさはありますが、他に言いようもありません。隙間のあるデータを完璧に説明することなど不可能でしょう。
 この一文では、上記三つの心構えを旨として、最も信頼できる弥生終末期から前期古墳時代にかけての文献資料、魏志倭人伝から出発し、さまざまな角度からの研究成果を踏まえつつ、「日本古代史の真実」という一点を追求します。


2、邪馬台国か邪馬壱国か

 魏志倭人伝は、(西)晋の人、陳寿が編纂しました。書名を正確に言えば、「三国志、魏書、烏丸鮮卑東夷伝第三十」の中の一節、倭人ということになります。数種類の異本があり、百衲本(注16)には、わざわざ一行を分けて「倭人伝」と見出しが付けられています。百衲本の元本は宮内庁書陵部が所有するもので、ネットで閲覧可能です。宋版、補写、秘閣本(秘閣=日本の宮中書庫)と書いてありますが、百衲本には「日本帝室図書寮蔵宋紹煕刊本」と記されています。この版本のように、小項目に一行の見出しを与えて読みやすくしているものはわずかしかありません(注17)。他の書では、複数の小項目をまとめて書いてある場合、目的の小項目がどこから始まるのか、句読点などなく、漢字のみの羅列ですから、行頭にあっても、見つけるのにひと苦労します。宮内庁本と百衲本は二文字(郡支国→都支国、黄憧→黄幢)の違いがあり、写真に撮ったはずなのに不思議なことになっています。何か別の写本により修正したのだと思われますが、その根拠は明らかではありません。岩波文庫も百衲本を採用しており、入手しやすく、原文の確認が容易なので、百衲本を使用することにします。
 この頃の中国は、魏、蜀、呉の三国が鼎立していました。西暦263年、魏が西方の蜀を滅ぼします。二年後、その魏が、臣下の司馬氏(司馬炎)に国を奪われて晋が建国され(265)、最後に、晋が南方の呉を制し、中国を統一しました。(280)。
 陳寿は蜀の出身で、晋代に、滅びた前王朝三国の歴史を編纂しています。(注18) つまり、これから行う作業と同じ様に、過去の雑多な文献の中から有用部分を選択し、歴史の流れに沿った順序に引用、転記して、一巻の書と為したわけです。記録、史料の取捨選択は、陳寿という個性に依存しますが、表現の全てが陳寿の頭脳から生まれたわけではない、ということを心に留めておかねばなりません。想像を膨らませて書く小説とは異なり、歴史という事実の再構成なので、必ず、より以前の、信頼に足ると判定した文献、資料を典拠にしていて、その表現を得ているはずです。要するに、小説はデータを改変しようと自由ですが、歴史書ではそれが許されない。やれば歴史家ではなくなる。文章は原典により、大きく制約されているということです。著作という言葉を使うので誤解されがちですが、陳寿はデータを集め、自らの価値判断の元に、整理、統合した。編纂したのです。同じ倭人伝内で真珠と書いたり、白珠と書いたり、その真珠はパールを意味する場合もあるし、丹砂を意味する場合もある。これは、原典の用語をそのまま引用し統一していないことを意味します。おそらく、三国志全体の編纂姿勢としてそれがあるはずです。(注19)
 陳寿の三国志は評価が高く後に正史扱いされるようになりました。「陳寿の名文が…」などと書いている人も見かけますが、上記の説明から解るように的外れです。陳寿その人の文章かどうかは吟味しなければわからない。文章力が評価されたのではなく、史書としての正確性を評価されたのです。歴史編纂者は膨大な資料の中から歴史の真実を探り著述します。読んだ人々が様々な角度から検証して評価を下す。そして、陳寿が最も高く評価されたわけです。
 魏志倭人伝の原文をたどって、当時の日本を検証していくことにしますが、あらかじめ二つの問題を解決し、地ならしした上で取りかからねばならないようです。

 多くの人が、子供の頃から、邪馬臺(邪馬台、ヤマタイ)国という国名を覚え込んで、もはや一般常識とも言えます。しかし、不思議なことに、魏志倭人伝中にこの文字はなく、邪馬壹(邪馬壱、ヤマヰ)国と表記されているのです。
 書物は筆記されたり、木版刷りにされたりして、後世に引き継がれてきました。倭人伝もその節目で間違えられ、いつしか「臺」から「壹」へ変化したのだろうと簡単に考えていたのですが、些細な、思わぬ発見が、それに疑問を抱かせました。百衲本「後漢書倭伝」(范曄撰。唐章懐太子賢注)の原文影印には、次の文があります。

 大倭王居邪馬臺国 (案今名邪摩惟音之訛也)
 「大倭王は邪馬臺国に居す。(今の名を案ずると、ヤバヰ音の訛ったものである。)

 驚いたのは(括弧の中に入れた)邪馬臺国に対する章懐太子賢(李賢)の注の部分です。今はヤバタイ(漢音)と発音するが、これはヤバヰが変化したものだと記しています。(注20)
 後漢書が著されたのは南朝、宋の時代(注21)。つまり、倭の五王(讃、珍、済、興、武)が中国へ遣使したと伝えられている時代です(宋書倭国伝)。西晋の頃、書かれた魏志より百四十年ほど遅れているので、後漢書倭伝の記述の三分の二は、魏志倭人伝の地理、風俗情報を要約しているように見えます。魏の帯方郡から倭へ向けて使者が派遣されているので、その知見に基づいて書かれた魏志倭人伝が信頼されるのは当然のことでしょう。
 しかし、後漢書の著された頃、長い間、交流を絶っていた倭王が、新たに使者を派遣し朝貢してきました。そして、自分達の国をヤバタイと伝えたので、その著者、范曄は、魏志倭人伝の邪馬壹(ヤバヰ)国を訂正し、「タイ」という音を表わすのに、わざわざ「壹」に似た「臺(魏志倭人伝中に見られる)」の字を選んで使用したらしいのです。魏志は壹と臺を間違えていると判断したか、あるいは、今はヤバタイに変わっているから、こちらを採るべきだとか考えたのかもしれません。
 唐の儀鳳元年(676)、後漢書に注を加えた章懐太子賢は(注22)、より古い魏志に、邪馬壹国と表記されている国は、後漢書の邪馬臺国と同じ国だ。ヤバタイという今(唐代)に続く名はヤバヰ音が変化したのだという結論を下しました(注23)
 魏志が「邪馬臺」と記していた場合は、後漢書の「邪馬臺」と何ら変わりがなく注自体が必要ありません。
 現存する魏志倭人伝原文は、すべて邪馬壹(邪馬壱)国になっています。邪馬臺(邪馬台)国は、後漢書倭伝や、それ以降の時代に書かれた歴史書、他の資料中の引用文に登場するだけで、肝心の魏志倭人伝自体には、邪馬台国など存在しないのです。
 唐代に著わされた隋書の俀(倭)国伝(注24)は、隋の使者、裴世清等が、日本を訪れた時の状況を記録しています。遣隋使、遣唐使も多数派遣され、交流が盛んな時代だったので、それだけ信頼性も高いのですが、邪靡堆(ヤビタイ)国と表記されており、国名は倭の五王時代のそれが継続しています。これは裴世清の表記した文字と思われます(隋書を引用したと思われる北史は「邪摩堆(ヤバタイ)」としていますので、こちらが原型でしょう)
 邪摩堆、耶馬台など別系統の文字が使用されるようになったのは、遣隋使、遣唐使の派遣や隋の使者、裴世清の日本渡来で、直接、国名を聞いた中国人が増えて、自らの思いついた文字を使用できるようになったためと思われます。したがって、隋代以前の表記としては魏志の邪馬壹、後漢書の邪馬臺の二つを考えるだけで良いでしょう。
 後漢書の「邪馬臺」も隋書の「邪摩堆」も、倭人の「ヤマト」という発音を「ヤバタイ」と聞き取って表記したものです。都合の良いことに、万葉集一の雄略天皇(倭王武、宋代)の歌に「山跡(やまと)の国」とあるし、二の舒明天皇(唐代)の歌には「山常庭(やまとには)」とあって、宋代から隋、唐代まで、日本の王朝、都のある国名に変化はありません。後漢書の注、「案今名邪摩惟音之訛也」の惟は堆の転写間違いだという説もありますが、邪馬臺(宋代)、邪摩堆(隋、唐代)は「ヤマト」の中国語表音表記で、日本人が記したものではないから、日本側の音が変化していない限り、両者の間に音の変化(訛)はないはずです。
 ★邪馬臺に「(惟を堆の転写間違いと考えて)今名の邪摩堆は音の訛」だという読み、注は成り立ちません。邪馬臺、邪摩堆はどちらも同じヤマトに対する中国人の表音表記なのだから。時代が変わり、馴染める文字が変化しただけで、発音は変わらない。魏志が邪摩惟(「邪馬壹」)という別音を記しているから、それは何故かと考える。注が必要になるのです。★
 要するに、注が入れられた七世紀の唐代から、魏志には邪馬壹国、後漢書には邪馬臺国と別の文字が書かれていて、現在伝わっている形と全く変わらないことになります。
 弥生時代の邪馬壱国が、百四十年ほどの空白を経た後の、倭の五王の頃には、邪馬台国に変化していた。それは、王朝の断絶を示す痕跡ではないでしょうか。古事記、日本書紀には、神武天皇の東征とされる王朝の交代が記録されているのです。(注25)
 古田武彦氏が「邪馬台国はなかった」という本を書かれ、「邪馬壱国」が正しいとされています。確かに、魏志倭人伝時代には邪馬壱国です。ただ、後漢書の著わされた南朝、宋代以降は、確実に邪馬台国が存在しています。支配層が変り、同じ土地をすこし違う名で呼ぶようになったらしく、敗者の地名は変えられてしまったのです。
 卑弥呼の後継者、女王となった少女の名は壹與(壱与)と記されており、通説は臺與(台与)が正しいと改めますが、意識してながめると、二行に三回もその名が現れています。この全てを伝写時に誤ったものと扱い、倭人伝のどこにも見当たらない臺與が正しいとするのは無理が多すぎます。まして、その一、二行後に「臺に詣(いた)り…」という臺が正しく書き分けられているというのに(注26)
【原文…立卑弥呼宗女與年十三、為王。国中遂定。政等以檄告喩與。與遣倭大夫率善中朗将掖邪狗等二十人、送政等還。因詣献上男女生口三十人貢白珠五千孔……】

 後漢書の記述のうち、魏志を引いた部分は五百二十文字ほどで、そのほとんどは、言葉を置き換えた単なる要約にすぎません。しかし、以下に挙げる文は、その意味する内容にまで変化が及んでいます。これはどういうわけでしょうか。

  其大倭王居邪馬臺国(案今名邪摩惟音之訛也)
  楽浪郡徼去其国万二千里 去其西北界狗邪韓国七千余里

「その大倭王は邪馬台国にいる(今の名を勘案すると、ヤバヰ音の訛ったものである)。楽浪郡境はその国を去ること万二千里、その西北界、狗邪韓国を去ること七千余里」

 ヤバヰをヤバタイに修正しただけではなく、魏志が邪馬壱国(女王国)の北岸、朝鮮半島にある別の国とする狗邪韓国を、邪馬台国の西北境界の国として、邪馬台国に含めてしまいました。
  犯法者没其妻子 重者滅其門族
「法を犯すものは、その妻子を落しめて奴隷とする。重者は、その一門を滅ぼす。」

 魏志では、重犯者も「没其門戸及宗族」となっていて、奴隷にされるだけですから、後漢書の方が刑罰は重くなっています。没と滅は文字の形が大分異なっていますが、これは魏志の方に伝写の誤りの可能性があるかもしれません。没、滅となっていたのを、没、前の字に引っ張られて没という具合に。後漢書の方が間違えたとは考えにくいでしょう。没、没とあるのを没、滅とするには、滅というそのあたりに見あたらない文字を、勝手に思い浮かべて書き込まねばならないからです。ここは、後漢書が意図的に没から滅に訂正したか、魏志倭人伝の伝写間違いのどちらかと考えられます(注27)
 「没」は、魏志夫余伝に、「殺人者は死。その家人を没して奴婢となす。」という記述があり、身分を奪って奴隷に落とすことを意味しています(注28)

  自女王国東度海千余里 至狗奴国 雖皆倭種 而不属女王
「女王国より東に海を渡ること千余里。狗奴国に至る。みな倭種といえども女王には属さない。」

   魏志が単に女王国の南と記す狗奴国を、女王国の東、海を渡った向こうの国としました。後漢書倭伝は、自らの言葉に置き換えながら、魏志倭人伝の地理・風俗情報を要約しています。したがって、著者の范曄が魏志を通読し、同じ意味を持つ言葉を探して推敲したことは明らかなのに、内容の違いが、こういうふうにいくつも現れるのは不可解です。
 特に、この狗奴国に関する記述は不審を抱かせます。魏志のその部分は、解釈に迷うような難解な文ではありません。それにもかかわらず、「南に狗奴国があって女王に従っていない。」「東に海を渡って千余里で、また国がある。みな倭種である。」という四十行ほど離れた位置にある無関係な記述を合成し、魏志では、方向が異なった全く別の国と認識される二つを重ねているのでです(注29)。これを、単なる勘違いとして済ますのは軽率と言うべきでしょう。現代日本人である私でさえ、簡単にその内容を読み取って間違わない文です。
 「若くして学を好み、経史を広く渉り、善く文章を為す。隷書にすぐれ、音律に明るい(宋書范曄列伝)(注30)。」と評された秀才范曄が、その程度の解釈を誤る凡庸な頭脳の持ち主とはとても思えませんから、そう書いたのは、何かしらの根拠があって、魏志倭人伝を修正したと考える他ないのではないか。
 范曄がうっかりまとめそこなったとするより、後漢書を記すにあたって、倭の五王の遣使によって得られた新たな資料と照合した。そして、魏志倭人伝は間違っているという判定を下し、訂正したとする方がよほど説得力を持ちます。魏志の真珠を白珠に改めたり、丹を丹土としたり、後漢書には明らかな訂正の跡が見られるのです。
 倭の五王と書いてしまいましたが、范曄が後漢書を著わしたのは、元嘉元年(424)の冬に左遷された後で、数年間の志を得ない時期とされています(宋書范曄列伝)(注31)。したがって、五王のうちで、利用できるのは讃の遣使時(421、425)の資料だけということになります。ただし、それ以前の、晋書安帝紀、東晋の義煕九年(413)にも、王名を欠いた倭国の遣使が記録されています。
 倭王「讃」は応神天皇のホムダワケ(品陀和気命、記)という名の漢訳の可能性が強い。「讃」の意味は「ほめる」で、その古語は「ほむ」です。倭王讃は中国(宋)に上表しているので自身の名を書いたでしょう。自らを表すにふさわしい好字を選んだと考えられるのです(注32)。倭の五王、「讃、珍、済、興、武」は上表時に日本側が選んだ文字なので、イメージの良い文字ばかりが使われています。讃に八年先立つ413年の遣使なら、その一世代前の王、つまり、讃(応神天皇)の母、神功皇后の遣使と解することができます。
 そして、「その西北界狗邪韓国」「東の狗奴国が女王に属さない」という後漢書倭伝の記述は、この413年の遣使の資料を得て魏志を改めたもの。神功皇后時代、西北は朝鮮半島の狗邪韓国に至るまでを領有していたが、東方に抵抗勢力があってようやく服属させたという、当時の政情を反映したものと考えられるのです。
 神功皇后は卑弥呼、壱与以来続く女王国の後継者と誤解され得るし、北九州に拠点を置き(福岡市東区、記では「訶志比宮」、紀では「橿日宮」)、朝鮮半島へ進出した後、瀬戸内を通って畿内へ攻め上ったことが「記、紀」に記されていますから、狗邪韓国を領し、一海を渡った東方の国が敵対するという、後漢書の伝える状況に完璧に一致しているわけです。
 范曄が、「海を渡った東方の国が従わず、長い間戦っていた。」という413年の皇后の使者の残した言葉と、魏志倭人伝中の女王に属さない狗奴国の記述を結び付けたと解せば、全てが氷解します。
 この女帝の実在を疑う向きもありますが、「記、紀」の記述は存在感にあふれ、「紀」の編纂者が、神功皇后を卑弥呼に比定するほどです。おかげで年代が、170~180年ほど狂ってしまい、後の時間と合わせるのに苦心惨憺しています。

 【年表】    
391 神功皇后、朝鮮に侵攻。(高句麗広開土王碑/記、紀=福岡、香椎宮)
 ? 難波の忍熊王と対立し制圧。(記、紀/=「海を渡った東方」)
413(義煕九年)神功皇后、東晋に遣使(晉書安帝紀)。
421 応神天皇(倭王讃)宋に遣使。応神天皇は三十歳(391年生まれ)
424頃范曄、後漢書を著す(宋書)。新たな資料を得て魏志倭人伝を訂正。前王朝時代(東晋)の文献にしたがったと考えられるので、邪馬台国はその文献に記された文字かもしれない。
425 応神天皇、宋に遣使(宋書)、上表


 【女王・卑弥呼と神功皇后の誤解を誘う類似点】            
卑弥呼(魏志倭人伝) 神功皇后(記、紀)
年すでに長大なるも夫婿なし 仲哀天皇と死別
鬼道に事える 神託を受ける、鮎占い
中国へ使者を派遣 (238)(243)(247) 中国へ使者を派遣(413)
  テン皮や人参を献じる
   (これは朝鮮半島の産物)
南の狗奴国と戦う。東に倭種の国 難波(一海を渡った東)の忍熊王と戦う
  (後漢書はこれを狗奴国とみなす)
倭国大乱後、王として共立される 畿内進出。応神天皇の摂政
(記、紀は忍熊王との戦いを倭国大乱と扱う)
邪馬壱国 邪馬台国

晋書安帝紀…「この歳(義煕九年、413)、高句麗、倭国及び西南夷銅頭大師、並びて方物を献ず。」
 以下の注が入れられています。
「御覧九八一、義煕起居注曰く。倭国は貂皮、人参等を献ず。詔して細笙、麝香を賜う。」 /この記述自体は太平御覧(983)、巻981の「麝」の項に見られるものです。/起居注とは天子の日常の出来事を記録した文書をいいます。/(注33)
 倭国が方物(自国の地方の産物)として、貂皮や人参等の朝鮮半島の産物を献上しました。これは百済、新羅を領有に至ったというアピールでしょう。そして、高句麗、広開土王碑には、「辛卯の年(391)、倭が海を渡って百済、■■、■羅を破り、以って臣民となした」という記述がみられます。(注34)
 神功皇后が新羅、百済を属国にしたという記、紀の記述にぴったり結びつき、全てが真実であることを示しています。日(記、紀)、中(晋書安帝紀注)、韓(広開土王碑)、三つの国の無関係な史料が同じ方向を指しているのです。東晋へ遣使した413年の少し以前に畿内へ進出し、神功皇后の政権が安定したと思われます。讃が遣使した421年の前年、420年あたりが神功皇后の没年と思われます。】

 神功皇后は魏志倭人伝中の卑弥呼を思わせる女傑でした。にわかに夫を失い、子を孕むという大変な状況の中で、神託を受け、国の舵をとり(記、紀)、そして、成功したのです。しかし、単にそれだけのことで、神功皇后が卑弥呼に擬せられたわけではありません。范曄の訂正により、後漢書倭伝の記す「卑弥呼の邪馬台国」を取り巻く時代環境が、神功皇后のそれと、完璧に一致しているという事情にも拠るのです。
 「記、紀」は、神功皇后と忍熊王(注35)の戦いを、卑弥呼の即位前に長期間続いたという倭国大乱に当てはめていることになります。《*/忍熊王は仲哀天皇の子、皇后の義理の息子。391年の朝鮮侵攻時に九州にいた神功皇后が413年の少し以前に大和へ移動したのなら、20年以上対立していて、これは大乱と言えます》
 「紀」は、その編纂者が、中国の史書と日本の伝承を分析し、神功皇后が卑弥呼ではないかと疑っている体を採りました。しかし、すべてを知りながら、後漢書の誤解を利用して、神功皇后を卑弥呼に見せかけた可能性は非常に強い。というより見せかけたのだと断定しておきます。
 再び「壹」と「臺」の区別のことに戻りますが、魏志は数行のうちに壹と臺を書き分けており、転写時に誤りがあったとは認め難い。立て続けに三文字見られる「壹與」の壹が、すべて臺の写し間違いで、「臺に詣(いた)る」の臺のみが正しく記されたという扱いになる通説、邪馬壹国とあわせて四文字の書き間違えを想定するのは、何を頼みとするのでしょうか。
 邪馬臺の場合、文字がかすれたりすれば邪馬壹に見誤る可能性はあります。しかし、壹與は三ヶ所もあって、近くに臺がある。他の文字が問題なく読めているのに、この三文字に限って同時に見分けられなくなるという解釈は難しい(別々の時に消えたのなら残っている文字から復元可能)。
 後漢書李賢注の邪馬「惟」も邪馬「堆」の書き間違えと主張しなければなりませんから、別の書にまたがる別の文字、都合五文字の書き間違えを想定しており、かなりの無理があると考えます。おそらく、日本の都はヤマトだから、音の近い邪馬臺に決まっているという思い込みや、邪馬臺でなければ自説が困る、古田武彦氏を認めるのは悔しいなどという自己都合が、資料を素直に読み、解釈するという柔軟な姿勢を失わせているのでしょう。
 倭人伝の地名、官名には、身分が低いこと、いやしいことを表す「卑」、下層の使用人を意味する「奴」、正道から外れていることを意味する「邪」、蔑視の表現として使われる「狗」が多用されており、中国人が表記したことは明らかです。卑、奴、邪、狗、馬は、韓伝の国名にも使用されています(注36)。文字の選択法から考えて、倭人、韓人を蛮夷の未開民族と扱い、見下していたことは間違いありません。そういう思考の持ち主が「邪(よこしま)+馬(動物)」という文字に続けて、帝を頂点とする魏の政策決定の中心的な場を表す「臺」という文字を続けるでしょうか。壹與(壱与)の使者は「臺へ詣(いた)る」と書いてあるし、明帝時代の書に、高堂隆著と王粛著の二種の「魏臺訪議」というものがあります。これには魏臺での明帝との問答などが記されています。明帝の魏では臺にそういう意味を与えていたわけで、同じ、明帝時代周辺を書く倭人伝が、蛮夷と見下す国に臺という文字を与えるかは疑わしい。台、苔、帯、堆、退など、代わりに使えそうな文字はいくらでもあるのです。
 魏志にある邪馬「壹」国を否定し、邪馬「臺」国の間違いだと訂正するには、下記三点の疑問を解消する論理的な説明が必要です。

 
1 別の書にまたがる五文字、どちらもタイからイ(ヰ)への転写間違いを想定するのは、あまりにも都合が良すぎる(臺→壹。堆→惟)。そのような頻度で起こり得るか。
魏志倭人伝中に、壹と臺の書き分けがあり、「臺に詣(いた)る」の臺を中国人が間違えることはあり得ない。同じ文脈中に見られる臺與を壹與に書き間違えるという想定は不自然である。すぐ前の文脈には臺與が二回記されていることになり、どちらも間違えれば、すぐに気付く範囲にある。
2 倭人の「ヤマト」という発音に対する中国語の表音表記である邪馬臺(後漢書。宋代)、邪摩堆(隋書。隋、唐代))を別音だと考える根拠はなにか。倭の都はヤマトで、宋代から唐代まで、変化していない。
唐詩では、「臺」と「堆」は韻を踏まれているし、漢書にある唐の顔師古の注に、堆の音は「丁回の反(Tei+kai=Tai)」と書かれ、タイ音だと示されている。臺は坮と同字、これもタイ音である。臺、堆が同音だと「音の訛」という後漢書李賢注(唐代)は無効かつ不要になる。つまり、転写間違いはなく、李賢注の記す邪摩惟が正しいということになる。それなら、魏志の表記も邪馬壹である。
3卑、奴、邪、狗など、倭の国名、官名、人名などを表す文字の選択法をみると明らかに倭を蔑視している。同じ人物が、タイ音の文字はたくさんあるのに、魏朝廷を表す臺という文字を使用するか。

 後漢書が、壹から臺へと、より手数のかかる複雑な方向に間違えるというのも合点がいかず、やはり、范曄が、自信を持って「壹」から「臺」に訂正したと見るしかありません。

 隋書や太平御覧など、魏志倭人伝を引用した後代の書物に、邪馬臺国という文字が見られても、その引用者が魏志を確認、あるいは、信頼してそのまま使用したかどうかが保証されない。遣隋使や遣唐使の派遣、隋の使者、裴世清の渡来により、倭国の都はヤマトだと明確になりました。唐代にまとめられた隋書は「魏の時」と言いながら、引用しているのは少し内容の異なる後漢書で、魏志より後漢書を信頼しています。隋以降の書物は後漢書が正しいと判定し、邪馬臺と書くでしょう。(注37)
 後漢書の著者、范曄は、神功皇后の413年の遣使によって得られた新たな情報を加え、魏志倭人伝を訂正した。そして、これ以降の歴史書は、全て後漢書倭伝に習ったというのが、この項の結論です。王朝の交代と地名の変化が知られていなければ、交代後ずっと続く「邪馬臺(ヤマト)国」を記した後漢書に引きずられるのは当然で、壹、惟が後の時代に臺、堆へと改変されてしまったのです。編纂者の思考、関与が入らない魏志は、機械的に転写を続けられ邪馬壹が保存されることになります。
 伝世されてきた唐代の魏志には「邪馬壹国」と書かれていた。陳寿の原典そのものがどうかまでは遡れないわけですが、魏志を「邪馬臺国」に修正する根拠もまた見当たらない。王朝交代で国名が変化した可能性、つまり邪馬壹が正しい可能性があるので、「邪馬壹国」をそのまま使用すべきと考えます。
 以上のことから、「魏志倭人伝に記された文字は正しい」という立場をとって書き進めて行くことにします。邪馬臺(邪馬台)国ではなく、邪馬壹(邪馬壱)国。臺與(台与)ではなく壹與(壱与、イヨ)です。古事記神代で伊予国の別名が愛比賣(*)とされることも、必ずこれに関係しています。《*/愛比賣=エヒメ=可愛い姫=壱与は即位当時13歳》(注38)

   
1 「邪馬壹」と表記したのは帯方郡使(魏志)
2 神武(崇神)天皇による王朝の交代(記、紀)
3「邪馬臺」は413年の神功皇后の遣使から資料を得た東晋の文献(推定)。後漢書の范曄はこれに従う(後漢書)
4 以降の文献は後漢書に従う。王朝交代で地名がヤマトに変化しており、こちらが正しいと判定したため
5「邪靡堆」は隋の使者、裴世清か遣隋使から情報を得た隋の文献(隋書)
6 「邪摩惟」は唐、章懐太子賢に後漢書の注を入れるよう命ぜられた学者(後漢書、注)
7 唐以降はすべて後漢書、隋書に従う。邪馬壹が邪馬臺に、邪摩惟が邪摩堆に改変された


3、漢音か呉音か

 もう一つ、魏志倭人伝を読み進める前に明らかにしておかねばならないのは、倭人伝中の国名、人名等が北方の漢音で記されているか、南方の呉音で記されているかということです。
 邪馬臺は漢音で読めば「ヤバタイ」、呉音で読めば「ヤメダイ」になります。「ヤマタイ」国のように、漢音、呉音を無原則に取り混ぜて使用するのは、御都合主義というものでしょう。
 古代、中国南方には三苗と表される民族が幅広く展開していました。これは現在の中国少数民族、ミャオ族、ヤオ族、ショー族、トゥチャ族、ぺー族、チワン族、タイ族等につながる民族で、根底に民族や言語の相違があったため、同じ文字を発音するにも華北とは少し異なっていたのです。現在でも、福建語と北京語が相通じないということから、多少、それがうかがえますが、日本人にとって、英語のRとLの発音の区別が困難であるのと同様、真似ても正確に発音出来なかったらしく、北方のバビブベボは、南方ではマミムメモに転訛しています。他、ダヂヅデドとナニヌネノにも対応関係が見られます。北方系は濁音が多いようです。
 魏は北方で発展した国なので、漢音に近い音が使用されていたと推定できますし、陳寿の晋もそれを引き継いでいますから、やはり、魏志倭人伝は、原則的に漢音で読むべきでしょう。安易な妥協は排さねばなりません。当時の発音と辞書に記されている漢音が同じものかどうか、倭人の発音に対する聞き取りの精度がどの程度かという問題はありますが、他に拠り所もないので、単純に漢和辞典に従うことにします。(「大字典」講談社を使用)
 王朝も交代し、社会環境も大きく変化しました。倭人伝の国名が、そのまま後世に保存されているかどうかは請け合えず、記、紀などの地名を当てにしても、うまく一致するとは限りません。「奴国」を例に挙げれば、漢音はドで、呉音はヌ(乃都の切→Dai+To=Do Nai+Tu=Nu)となっていますから、元来はドゥ(ヅ)という音に近かったと推定できます。
 通説のように、後の地名(奴国の位置に儺県が設けられた)に合わせて、これを「ナ」と読めば、倭人伝の奴婢を「ナヒ」、夫余伝の匈奴を「キョウナ」と読まねばなりません。それに加えて、弩、怒、努など、奴音に関連する文字すべてを「ナ」と読むことにもなります。果たしてそれは妥当でしょうか。同じ書の同じ文字を、別の発音で読まねばならないというなら、それは承服しかねるのです。万葉仮名でもこの文字はヌと読まれていて、ナと読む例を見ません。カタカナやひらがなの「ヌ」「ぬ」はこの文字から作られたくらいです。奴国と記して、ナ国と読ませることが出来なかったからこそ、儺や那が使用された。つまり、地名自体が「ドゥ」から「ナ」へ変化した可能性を考慮しなければならないのです(注39)
 奴で韻を踏む詩は見つかりませんでしたが、魏の文帝(曹丕)の「飲馬長城窟行」は弩で韻を踏んでいます。魏志倭人伝の時代(明帝)の一代前、文帝の頃にド音だったのだから、魏志の奴国もド国と読まねばならないわけです。

      浮舟橫大江 討彼犯荊虜(ryo)
      武將齊貫錍 征人伐金鼓(ko)
      長戟十萬隊 幽冀百石弩(do)
      發機若雷電 一發連四五(go)

 末盧、伊都という国名は日本の古代の地名と一致している。だから、隣の奴国は儺県に決まっている。「奴はナと読むのだ。」という何も考えない決めつけが、無理を引き起こし、狗奴国もクナ国と読まねばならなくなって、迷路へ迷い込んでいくことになります。
 以下は倭人伝に現れる国名、名、官名の一部を呉音と漢音で対比したものですが、北方系の漢音を使用して倭人伝を読み進めてゆくことにします。卑狗など漢音で読めばヒコ(彦)で、そのまま意味が通じます。

現代名 文字 呉音 ●漢音
つしま 對海 ついかい たいかい
對馬 ついめ たいば
いき 一大 いちだい いつたい
一支 いちし いつし
まつら 末盧 まちろ ばつろ
いと 伊都 いつ いと
な? ど(どぅ)
不彌 ふみ ふうび
投馬 つめ とうば
やまと? 邪馬壹 やめゐ やばゐ
狗奴 くぬ こうどぅ
ひみこ 卑彌呼 ひみこ ひびこ
ひこ 卑狗 ひく ひこう
狗古智卑狗 くこちひく こうこちひこう
 

続き、「魏志倭人伝から見える日本、2」