*1 大事忍男(オホコトオシヲ)
 古事記、神代のみで、日本書紀には見えない。知訶島の別名が「天之忍男」となっていて、いくつかの島の別名に天が付けられているが、これは同音の海(アマ)の神格化のための変更と考えられる。知訶島とは五島列島のことだが、一つの海域に、宇久島から福江島まで、多くの島々が近接してコンパクトに押し詰まっている。そういう特長から忍男(オシヲ)という別名が与えられたのではないか。隠伎の三子島(隠岐の島前、一番大きな島後は含まない)の別名が天之忍許呂別(アマノオシコロワケ)、これも三つの島が円形に押し詰まっている。円形というのがコロ(=転)という音にかかわりそうである。以上から、大事忍男も押す男という可能性が現れる。他、風木津別之忍男神(カザモツワケノオシヲ)という神もいて、屋根の神と思われる大屋毘古神の次に書かれているから風見鶏のような雰囲気がある。いずれも名義未詳とされている。本居宣長の解釈なら、知訶島の「天之忍男」の忍が美称ということになるし、天も美称だから、実体が男しか残らない。
事解之男(コトサカノヲ、コトトケノヲ)
 日本書紀、神代の一書にみえる。「唾く神を速玉之男といい、掃う神を泉津事解之男(ヨモツコトサカノヲ)と名づく」としている。約束固めの神が速玉之男で、解消する神が事解之男。二神はセットになって示されている。事解之男に「ヨモツ」という前書きがある。死者の世界に属する神なので、死別の神といって良いだろう。岩波文庫の「古事記伝」はコトトケノヲで、同じ岩波書店の日本古典文学大系、「日本書紀」ではコトサカノヲの読みが付けられており、読みかたも確定できていないようである。私は「コトトケノヲ」と読みたい。「解(と)く」には強い意思がある。


*2
山海経
 成立年代不詳。太古からの伝承を集めたもの。漢の武帝が張騫を西域に派遣することではじめて得られた大夏、月支(月氏)などの知識(史記、大宛列伝)まで含められているから、漢代に現在の形に整理されたことがわかる。解明には謎々を解くような頓知が必要とされる。
楚辞天問
 「楚辞」は楚の屈原作とされる詩集(戦国時代末期)。天問は、「大昔の最初のことを誰が伝えたのか?」、「月は何の徳があって、死んではまたよみがえるのか?」など、伝承や自然に関する疑問をうたう。天に対する問いかけである。
淮南子
 漢の淮南王、劉安が多数の賓客を集めて書かせた思想書。完成は武帝時代(B.C139)。百科全書的な性格を持つ。
補史記、三皇本紀
 唐の司馬貞が史記に付け加えたもの。黄帝以前の太暭伏犠氏、女媧氏、炎帝神農氏などの伝承が記されている。


*3 怪力乱神
論語・述而  子不語怪力乱神 「孔子は怪、力、乱、神を語らなかった。」
「怪」は奇怪なもの、「力」は超人的な勇力、「乱」は正道を外れた行い。「神」は鬼神や霊魂。
清代に「子不語」(袁枚著)という孔子の語らなかった怪異譚が作られている。


*4 甲骨文字の発見
 紀元前十三世紀から十一世紀に作られた最古の漢字。亀の腹の甲羅や牛、鹿の肩甲骨に刻まれ、占いの内容を記してある。殷代後期の都であった殷墟遺跡から大量に発見されている。


*5 太史令
●呂氏春秋・先識覧(呂氏春秋は秦の丞相、呂不韋が編纂させたもの。司馬遷は「呂覧」と記す。)
夏太史令終古出其図法執而泣之。夏桀迷惑暴乱愈甚。太史令終古乃出奔如商
 「夏の太史令、終古その図法を出し、とりてこれに泣く。夏の桀(王)、迷惑して暴乱な ることいよいよ甚だし。太史令、終古すなわち出奔して商(=殷)にゆく。」
●竹書紀年(晋代に戦国・魏の王墓から発見された魏の年代記)
太史令終古出奔商(夏后桀二十八年) 「太史令終古、商に出奔す。」


*6 春秋左氏伝
(「春秋」は魯国の年代記、孔子の編纂とされる。左氏伝は左丘明が注釈を加えたと伝える。司馬遷は「史記」の太史公自序第七十で「左丘は失明して国語あり」と記しているから、左丘明は「国語」の作者とも考えられていた。左丘が正しい名か?)
襄公二十五年(B・C548)
大史書曰崔杼弑其君。崔子殺之。其弟嗣書而死者二人。其弟又書。乃舎之。南史氏聞大史盡死執簡以往。聞既書矣乃還
「太史書きて曰わく、崔杼その君を弑す。崔子これを殺す。その弟嗣ぎ書きて死者二人。その弟また書く。すなわちこれを捨つ。南史氏、太史悉く死すを聞き、簡を執りてゆく。既に書くを聞き、すなわち還る。」


*7 通史
 司馬遷は黄帝から始めて自身の所属した漢、武帝時代までのすべての時代を書いている。黄帝以前は蛇神人首、人身牛首など人間離れした伝承なので切り捨てたらしい。


*8 史記、太史公自序第七十
撥乱世反之正、莫近於春秋。春秋文成数万其指数千。万物之散聚皆在春秋。春秋之中弑君三十六亡国五十二諸侯奔走不得保其社稷不可勝数。察其所以皆失基本已。故易曰失之毫釐差以千里。故曰臣弑君子弑父非一旦一夕之故也其漸久矣。故有国者不可以不知春秋。
 「乱世をおさめ、これを正しい世に返すのに春秋ほど手近なものはない。春秋の文は数万から成り、その指し示すものは数千である。万物の分散や集合はみな春秋にある。春秋の中で君を弑したのは三十六、国が滅びたのは五十二、諸侯が逃走し、その社稷を保てなくなったものは数えきれない。その理由を考えるとみな基本を失っているのである。故に易経は『ごくわずかな失策が千里の差になる。』という。『臣が君を弑し、子が父を弑するのは一朝一夕に起こることではない。長い時間をかけてゆっくり進行するのだ。』ともいう。故に、国を有する者が春秋を知らないのはよろしくない。」


*9 「歴史(上)」ヘロドトス著(松本千秋訳、岩波文庫)


*10 古事記、序
…於是天皇詔之。朕聞、諸家之賷帝紀及本辞既違正実多加虚偽。当今之時不改其失、未経幾年其旨欲滅。斯乃邦家之経緯王化之鴻基焉。故惟、撰録帝紀封覈旧辞。削偽定実欲流後葉。…
「ここに於いて、天皇は詔された。『私は聞く、諸家のもたらす帝紀および本辞はすでに正実を間違え、多くの虚偽を加えていると。今、その間違いを改めなければ、幾年もたたないうちに真実は滅びてしまうだろう。帝紀と本辞は国家の根源、王化の基本になるものである。これゆえ、帝紀を書き記し、旧辞を調べ、偽りを削って実を定め、後の世に伝えようと思う。』」
ほか、以下のようなことが記されている。
●天武天皇が稗田阿礼に帝皇日継と先代旧辞をよみ習わせた
●和銅四年(711)九月十八日、太安万侶に稗田阿礼がよむ所の勅語旧辞を撰録して献上せよという詔が出る。
●和銅五年(712)正月廿八日、正五位上勲五等、太朝臣安萬侶、古事記三巻を献上。
★和銅四年九月に元明天皇から編纂の詔が出て、五年正月に献上されているから、編纂に要した期間は四ヶ月ほどである。


*11 日本書紀
●天武紀、十年(681) 三月、川島皇子、忍壁皇子、広瀬王、竹田王、三野王、大錦下上毛野君三千、小錦中忌部連首、小錦下安曇連稲敷、難波連大形、大山上中臣連大嶋、大山下平群臣子首に詔して、帝紀、及び上古諸事を記し定めさせた。大嶋、子首はみずから筆をとって記録した。(稗田阿礼が覚えたものかもしれない)
●持統紀、五年(691)八月、十八氏(大三輪、雀部、石上、藤原、石川、巨勢、膳部、春日、上毛野、大伴、紀伊、平群、羽田、阿部、佐伯、采女、穂積、安曇)に、その祖等の墓記を上進させる。
●九月、川嶋皇子薨ず。
●続日本紀、和銅七年(714、元明天皇)二月、従六位上、紀朝臣清人、正八位下、三宅臣藤麻呂に詔して国史を撰せしむ。
●続日本紀、養老四年(720、元正天皇)五月、一品舎人親王、勅を奉じ日本紀を修む。ここに至り、功成りて紀卅巻、系図一巻を奏上す。
★天武十年に企画され、様々な曲折を経ながら、三十九年後の養老四年に完成したわけである。持統五年に有力氏族の伝承を加え、初期構想から大幅に拡大されている。同年、責任者と思われる川嶋皇子が薨じてから和銅七年まで中断していたのであろうか。舎人親王が責任者になった時期は不明。天平勝宝二年(750)、田辺史難波らに与えられた上毛野君という姓が仁徳紀(五世紀)に登場することから、720年の舎人親王の献上後も改訂作業が続いていたと考えられる。現在の形になったのはずっと後であろう。


*12 古老に対するインタビュー
「大化の改新(645)、蘇我入鹿暗殺」現場の臨場感あふれる描写は、生存していた当事者*、あるいは、いきさつを間近で聞いたその近親者にインタビューした結果得られたものと思われる。改新を主導した藤原(中臣)鎌足の子息が、日本書紀編纂当時の政界トップ、藤原不比等である。
*日本書紀完成時に当事者が生き残っているとは考えられないが、取材した時期が不明で、当事者からの聞き取りが記録として保存されていた可能性もある。


*13 日本書紀の困難
 伝えたい真実が国家の意思(1、国内の平和、安定を守る。2、古い歴史をもった優れた国であることを中国、朝鮮諸国にアピールする)に反する場合、真実を残しながらも国家の了解を得られる形に変形している。きわめて政治的に配慮された歴史書といえよう。国史の編纂は中国諸史から着想を得たものだが、編纂手法は全く異なっていて、皇族をトップに置き、各政治勢力の代表者が参画するという形をとった。当然、合意に至るまで、さまざまな工作や妥協が積み重ねられることになり、時間がかかると思われる。国内の平和・安定への配慮(国家の意思1)は記にもみられるので、それ以前の帝紀、旧辞がすでにそういう意図のもとに編纂されていたと考えられる。


*14 日本における考古学の出発点
 明治10年(1877)、アメリカ人、モース(東大教授)が東京都品川区の大森貝塚に気づき、発掘調査を行なった。まったく異なった視点から過去を探求できるようになり、考古学の進歩は真実の解明に大きく寄与している。


*15 中国史書、倭に関する項と編纂者
「漢書地理志第八下、燕地」………………………後漢、班固(32~92)
「漢書地理志第八下、呉地」……………………… 〃   〃  
「三国志魏書、烏丸鮮卑東夷伝第三十、倭人」…晋、陳寿(233~297)
「後漢書東夷列伝第七十五、倭」…………………南朝宋、范曄(398~445)
「宋書列伝第五十七夷蛮、倭国」…………………南朝梁、沈約(441~513)
晋書、梁書、北史、南史、隋書は唐代の作


*16 百衲本
 中華民国の学者、出版実業家の張元済が整理したもの。「日本帝室図書寮の蔵する宋、紹煕刊本(宋、紹煕年間1190~1194)を借りて写真にうつし、欠けた魏志三巻(最初の三巻)を紹興刊本から補った。」と前書きに書かれている。
 紹興本(宋、紹興年間1131~1162)は紹煕本より数十年古い版本。百衲本は紹興本を参考にして紹煕本を訂正したのか、写真のはずなのに郡支国が都支国に変化している。名前だけ挙げられた多くの国の中の一国で、どこかわからないことに変わりがないから、あまり問題にはなっていない。黄幢という文字が二ヶ所あり、宮内庁本では一つが黄憧となっている。これが黄幢に修正されている。ここは明らかに転写間違いとわかるのだが、郡支から都支への修正、都支が正しいという解釈には何か根拠があったのだろうか?


*17 倭人伝という表題(小見出し)の付加
 紹興本には見られず、紹煕本にある。韓伝には弁辰伝が二つあるが、最初の弁辰伝は辰韓伝の続きなのである。後世の研究者が、わかりやすく引きやすいよう便宜を図ったわけだが、弁辰伝を見誤ってしまったのであろう。紹煕本がそういう形式を採ったのかもしれない。元々の形ではないと思える。晋書斠注にも一行を分けた見出しがあるが、他の書では見られず、まとめて書いてある目的の伝を探すのに時間を取られる。行頭の文字で見分ける形になっている。


*18 晋書陳寿伝
陳寿字承祚巴西安漢人也 少好学師事同郡譙周仕蜀為観閣令史 宦人黄皓専弄威権大臣皆曲意附之 寿独不為之屈 由是屢被譴黜遭父喪有疾使婢丸薬客往見之郷党以為貶議 及蜀平坐是沈滞者累年 司空張華愛其才 以寿雖不遠嫌原情不至貶廃 挙為考廉除佐著作郎出補陽平令 撰蜀相諸葛亮集奏之 領本郡中正撰魏呉蜀三国志凡六十五篇
 「陳寿は字、承祚。巴西、安漢の人である。若くして学を好み、同郡の譙周に師事した。蜀に仕え観閣令史となる。宦官の黄皓が威圧力、権力の大きさを専らにして弄び、臣はみな意を曲げてこれに付いたが、寿一人だけが屈しなかった。これにより、しばしば責められ遠ざけられた。父の喪中に病になり、婢に薬を丸めさせた。客が行き、これを見て、土地の人間は陰口をきいた。蜀が平らぐに及び、これに関連して沈滞し年を重ねた。司空の張華はその才を愛し、寿は嫌われがちだが、もとの情はおとしめて捨てるには至らないことをもって、挙げて考廉となし、佐著作郎(中書著作佐郎?)に任命した。出でて陽平令を補佐した(華陽国史は平陽侯相と書いているので陽平は間違いらしい)。蜀相の諸葛亮集を撰し、これを進上した。本郡中正(官名)を率い、魏呉蜀三国志すべてで六十五篇を撰した。」
●華陽国史、後賢志、陳寿
…呉平後 寿乃鳩合三国史著魏呉蜀三書六十五篇号三国志…
 「…呉平らぐの後(280以降)、寿は三国史を集め合わせ、魏呉蜀三書六十五篇を著し、三国志と号した。…」


*19 歴史書の文章表現
 歴史書は過去の事実を後世に伝えようと、著作者が信頼し選択した史料に基づいて書かれている。作者の能力、個性から逃れることはできず、誤解や個人的感情が入り込む余地はあるが、自らの想像や根拠のない思いつきをつづったものではない。そのあたりを何か弁別できない研究者がいるようだ。例えば、倭人伝では「…里」という距離を書いていたのに、途中から「水行二十日」という時間表記に変わって違和感をもつが、資料がそう記しているから、陳寿は勝手に修正できないのである。逆に、常識ではあり得ないこの表現の不統一が、引用文であって陳寿の文章ではないことを教えてくれている。
 魏志韓伝では、馬韓は魏に滅ぼされたため、国には主帥はいるが王はいない。しかし、「辰王が月支国で(辰韓、弁辰を)統治している。」と訳のわからないことを書いている。データをそのまま使用して、データ間の調整や説明がなされていないため、矛盾しているように見えるのである。この場合、辰王の記述は馬韓が滅ぼされる前のデータと考えられる。


*20 邪摩惟音之訛(百衲本後漢書、宋代の紹興本1131~1162を元にしていると前書きにある。)
 後漢書集解では「案今名邪摩音之訛反」となっているが、こちらは明末の汲古閣本が元本で、紹興本より500年くらい時代が降る。 太平御覧(983)巻七百八十二、東夷三「俀」には、「後漢書曰く」として「俀王居邪馬臺国(俀今名邪魔惟音之訛反)」という記述があり、こちらは百衲本と同じ惟である。(注)内の俀は案の、反は也の誤りと考えられる。 いずれにせよ邪馬壹と邪馬臺は同一国の発音の変化だと捕えていることになる。


*21 南朝、宋(420~479)劉裕が建国。建康(南京)を都とした。


*22 旧唐書、列伝第三十六、高宗中宗諸子、「章懐太子賢」
上元二年(675)六月、皇太子になる。
(儀鳳元年676)…賢又招集当時学者太子左庶子張大安洗馬劉訥言洛州司戸格希玄学士許叔牙成玄一史蔵諸周宝寧等注范曄後漢書表上賜物三万叚仍以其書付秘閣
 「…賢はまた、当時の学者、太子左庶子の張大安、洗馬の劉訥言、洛州司戸の格希玄、学士の許叔牙、成玄一、史蔵諸、周宝寧等を招集し、范曄後漢書に注し表した。高宗の賜い物は三万段。その書を秘閣(=宮中の書庫)に付した。」


*23 邪摩惟音の訛
 唐詩の韻を調べる。
  李白(701~762) 長干行
  妾髪初覆額 折花門前劇 郎騎竹馬来 繞牀弄青梅 同居長干里 両少無嫌猜
  十四為君婦 羞顔未嘗開 低頭向暗壁 千喚不一廻 十五始展眉 願同塵與灰
  常存抱柱信 豈上望夫 十六君遠行 瞿塘灔澦 五月不可触 猿聲天上哀
  門前遅行跡 一一生緑苔 苔深不能掃 落葉秋風早 八月胡蝶黄 雙飛西園草
  感此傷妾心 坐愁紅顔老
「梅、猜、開、廻、灰、臺、堆、哀、苔」「早、草、老」(二種の韻を踏む)

 李白と同時代の詩人、常建の「塞下曲四種」のその二では、
  北海陰風動地来 明君祠上望龍堆 髑髏皆是長城卒 日暮沙場飛作灰
    となっていて、ここでも来、堆、灰の押韻がある。

「牡丹」 李山甫(生没年不詳)
      邀勒春風不早開  衆芳飄後上樓臺
      數苞仙豔火中出  一片異香天上來
      曉露精神妖欲動  暮煙情態恨成堆
      知君也解相輕薄  斜倚闌干首重廻
 以上の詩に見られるように、「臺」「堆」、来(ライ)、灰(クワイ)、廻(クワイ)、哀(アイ)などを使って韻が踏まれており、臺、堆はどちらも「タイ」という同音だったことがわかる。
 唐の顔師古(581~645)が漢書に注を入れいている。その中には半切という方法で文字の発音を記したものがある。〇〇反とか〇〇切とか書くわけである。司馬相如伝に、堆は「丁回反」で、発声語の丁(tei)と韻母の回(kai)を合わせて、tai(タイ)という発音だと示されている。だから回と韻を踏める文字は、堆も踏める。(「師古曰く、堆は高阜なり。音は丁回反。」)
 適(teki)は「丁(tei)歴(reki)」の反、滇(ten)は「丁(tei)賢(ken)」の反。屏(hei)は「歩(ho)丁(tei)」反なので、丁は「tei」であることがわかる。回は「胡(ko)内(nai)」反でカイ(kai)。臺はあまりにもわかりきった文字なのかして、こう発音するという注は見られなかったが、坮(タイ)は臺の異体字で同じ発音である。
 年代的には顔師古-章懐太子賢-李白という順になり、顔師古と李白の時代に堆はタイ音だったのだから、中間の章懐太子賢の時代の堆もタイ音で変わらないはずである。
 「惟」は「堆」の転写間違いという説があるが、邪馬臺国に対し、「邪摩堆の訛り」という注は同音なので無効である。ここは邪摩惟(ヤバヰ)でなければ注を入れない。
 (実際の中国語の発音と日本のアルファベット表記は馴染まないと思えるが、便宜上使用している)


*24 隋書俀国伝
★古田武彦氏は俀をタイと読んでいるが、後漢書には、光武帝の建武中元二年(57)に倭奴国が遣使してきたと書いてある。倭奴が隋書では俀奴になっているから、隋書俀国伝も倭国伝だとわかる。太平御覧巻七百八十二も、「後漢書曰く、俀は韓東南大海中に在り。」と後漢書の倭を俀に置き換えている。「俀」は「倭」の異体字である。翰苑や倭人字磚では、「倭」ではなく、少し異なる文字が書かれていて、幾通りかの異体字があったようである。
 餧(ヰ)、餒(ダイ)という文字があり、同じく「飢える」という意味である。捼(ダ)と挼(ダ)も「もむ」という意味で同字である。萎(ヰ)、荽(スヰ)も同字。緌(ズヰ)と綏(スヰ)も「冠の紐」という同じ意味を持つ。このようにたくさん見られるのは、元々、異体字だったものが、そう認識されずに、音を変えて現在まで伝わったのか、あるいは、「委」と「妥」を混同して使用するケースが多かったのかということになるだろう。倭は「従う、従順」の意味、俀は「弱い」という意味なので意味的にも通ずる。
 煬帝本紀では「倭国が遣使して方物を貢いだ」とされている。記録者が異なり、編纂の際に統一を意識されず、そのまま使用されたため、同書内で倭国、俀国と表記が別れたのだと思われる。本紀はおそらく起居注(天子の行動記録)の文書で、俀国伝は外交を司る鴻臚寺の文書を元にしているのであろう。
★隋書には次の文がある。
都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也 「ヤビタイに都する。すなわち魏志言うところ邪馬臺である。」
同じ唐代に編纂され、隋書を引用したと思われる北史では同文の邪靡堆が邪摩堆(ヤバタイ)になっているから、隋書の邪靡堆は転写間違いであろう。「堆」という文字が使用されるようになったのは、隋、唐代以降で、日本に渡来した隋の使者、裴世清が報告書を残し、その表記が元になったと思われる。
★隋書の「魏志いうところの邪馬臺である。」という記述から、魏志には邪馬臺国と書いてあった決定的な証拠だとする主張も出るが、疑義があり、このことに関しては紙幅を要するので別項、「邪馬壱国説を支持する史料とその解説」にまとめた。


*25 神武天皇の東征
 紀に詳しい。「天磐船に乗り、天孫より先に天降った物部氏の祖先、櫛玉饒速日命が大和を支配していた。九州南部から出た神武天皇が東征し、戦いの後、国を譲られた。」とする。


*26 壹與と臺與
 通説は、梁書(唐、姚思廉557~637の編纂)や北史が臺與と記すことを根拠に臺與が正しいとしている。
 邪馬臺や臺與を記す隋書(邪馬臺)、梁書(邪馬臺、臺與)、北史(邪馬臺、臺與)は、すべて唐の二代目、太宗の時代に編纂されている。隋書代表編纂者は魏徴だが、梁書や北史の編纂者、姚思廉、李延寿も参画している。当時、前王朝の出来事とはいえ、遣隋使が隋を訪れ、裴世清が倭へ渡り、倭の都は邪摩堆であることが明らかになっていた。皆、遣隋使と同時代の人なので、その記憶は鮮明であろう。三人には、「後漢書の邪馬臺が正しく、魏志の邪馬壹、壹與の壹は臺の転写間違い。」という共通認識があったと考えられる。
★太平御覧では、巻七百八十二の東夷三、俀に「臺擧(臺與の転写間違い)」と記されているが、巻八百二、珍宝部一、珠上には、「又(魏志)曰、倭国女王壹與遣大夫率善等献真白珠五十孔青大勾珠二枚也」と記されている。おそらく、歴史的な叙述では太平御覧編纂者の研究による修正の手が入って臺與(臺擧)が採用され、珍宝部では珠に関する記述なので、女王の名は意識されずに、そのまま魏志を転写して壹與になったと思われる。
 臺…臺は中央官庁、臺司=宰相、臺使=使者の称、臺省=役所、臺軍=官軍、臺城=六朝時代の皇居の称(「大字典」講談社より)
 南北朝時代(宋)に記された後漢書が倭の都に(邪馬)臺の字を与えた理由もこのあたりにあるのかもしれない。壹に似ているというだけではなく。
 魏は韓と戦ったり敵対していたし、帯方郡使も倭に渡来して戦うなど面倒を押し付けられた。裸足で冠もかぶらず、父子や男女の別もない礼知らず、鬼道に支配され惑わされている倭を馬鹿にもしている。宋代の中国は朝鮮半島から手を引いて、韓、倭とも友好的である。中国へ派遣された使者を通しての交流しかないから、蔑視の感情も薄れていたのではないか。


*27 没と滅
 魏志の紹興本では後漢書百衲本(紹興本)と同じ「滅」になっている。但し、後漢書集解(汲古閣本)では魏志の百衲本(紹煕本)と同じ「没」になっているからややこしい。要するに、「滅」と記す魏志もあれば、「没」と記す後漢書も存在するのである。
 しかし、魏志が「没」、後漢書が「滅」という形が本来のもののようである。理由は説明可能だが、迂遠になりすぎるので、ここでは取り上げない。


*28 「没」
魏志夫餘伝、「殺人者死、没其家人為奴婢」
魏志毛玠伝、「罪人妻子、没爲奴婢」


*29 魏志倭人伝
…次有奴国此女王境界所盡其南有狗奴国男子為王其官有狗古智卑狗付属女王……女王国東渡海千余里復有国皆倭種
「…次に奴国がある。ここは女王の境界が尽きるところである。その南に狗奴国がある。男子を王と為し、その官に狗古智卑狗がある。女王に属さず。……女王国の東に海を渡ること千余里、また国があり、みな倭種である。」


*30 宋書范曄列伝 「少好学博渉経史善為文章能隷書暁音律」


*31 宋書范曄列伝
元嘉元年冬……義康大怒左遷曄宣城太守不得志乃刪衆家後漢書為一家之作在郡数年遷長沙王義欣鎮軍長吏加寧朔将軍
 「元嘉元年(424)、冬……義康は大いに怒り、范曄を宣城太守に左遷した。志を得ず、すなわち衆家後漢書を(編)纂して一家の作となした。郡にあること数年で長沙王、義欣の鎮軍長吏に遷り、寧朔将軍を加えられた。」 (義康=宋の文帝の弟、彭城王、劉義康)


*32 宋書倭国伝
倭国在高麗東南大海中、世修貢職、高祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜叙授。太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表献方物
 「倭国は高麗東南大海の中にあり。代々、貢ぎ物を修めている。高祖の永初二年(421)、詔して曰く。倭の讃は万里、貢を修めた。遠方からの誠、よろしき表れは官位を授けるのが妥当である。太祖元嘉二年(425)讃は、また、司馬曹達を遣わし、表を奉り、方物を献じた。」


*33 晋書安帝紀
九年…是歳高句麗倭国及西南夷銅頭大師並献方物…
 「義煕九年(413)…この年、高句麗、倭国および西南夷の銅頭大師が並んで方物を献じた。」
【注】
御覧九百八十一義煕起居注曰倭国献貂皮人参等詔賜細笙麝香
 「(太平)御覧(巻)九百八十一、義煕起居注曰く、倭国は貂皮人参等を献じた。詔して、細笙、麝香を賜う。」
 太平御覧(宋、李昉等編纂)巻第九百八十一 香部一
義煕起居注曰倭国献貂皮人参等詔賜細笙麝香
 太平御覧巻第九百十二 獣部二十四
廣志曰貂出夫餘 「広志曰く、貂は夫餘に出る。」
異苑曰貂出句麗国… 「異苑曰く、貂は句麗国に出る。」
★他、貂の産出地としてあげられているのは烏桓、挹婁、遼東、など朝鮮半島北方である。本草綱目では貂鼠、栗鼠、松狗などとされ、「栗、松皮を好んで食べる。」という。「尾大にして黄、黒色。…今、遼東、高麗及び女直、韃靼、諸胡、皆これあり。その鼠、大きさはカワウソの如くして尾は粗い。毛は深く、寸ほど。紫黒色。生えそろっていて光沢はない。」「皮は用いて、皮衣や帽子、襟巻きにする。」「黄色は黄貂となし、白色は銀貂となす。」などと書いてある。
人参 本草綱目(集解)、本草綱目は明の李時珍の著、集解は産出地等の解説。
(別録曰)人参生上黨山谷及び遼東 「別録曰く、人参は上党の山谷および遼東に生じる。」
(時珍曰)上黨今潞州也民以人参為地方害不復采取今所用者皆是遼参其高麗百済新羅三国今皆属於朝鮮矣
 「李時珍曰く、上党は今の潞州である。民は人参を地方に害を為すとして決して採取しない。今、用いられているのは、みな遼東の人参である。その高麗、百済、新羅の三国は、今、みな朝鮮に属す。」


*34 広開土王(好太王)碑
…百残新羅旧是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡海破百残■■■羅以為臣民六年丙申王躬率水軍討利残国軍■■首攻取壹八城、臼模廬城…
「百済と新羅は、昔は属民でずっと朝貢していた。それにもかかわらず、倭は辛卯年(391)に海を渡り来て、百済、■■、■羅を破り臣民と為した。六年丙申(396)、王は自ら水軍を率いて利残国、軍■■首?を討ち壹八城、臼模廬城…を攻め取った。」
●このあと、攻め落とした百済の城、閣彌城などの名を多数書いたあと、百済王が男女生口一千人と細布千匹を献上して服属を誓ったこと、九年(永楽九年=広開土王時代の高句麗の年号)己亥(399)、百済が誓いを破って倭と通じたこと。倭が新羅を占拠したので、翌年、新羅へ救援軍を派遣したこと、十四年、甲辰(404)、倭が帯方界に侵入したことなどを記している。
●三国史記、高句麗本紀の広開土王の項には、倭に関する記述はみあたらない。三年(392)に百済の関彌城など十一城を抜いたという記述があり、これは広開土王碑の396年の記述に対応するのかもしれない。
●三国史記、新羅本紀では、奈勿尼師今三十八年(393)に倭人が来て金城を囲み五日間解かなかったと記されている。これが広開土王碑の倭が侵入し百済、新羅を臣民にしたという391年の記述に対応するのか、倭が新羅に満ち、民を奴客としたという399年の記述に対応するのか?他にも倭の侵攻があったのか?
★七百年後の十二世紀に編纂された三国史記より、王の偉業を称えるための碑なので潤飾があると思われるが、同時代資料である広開土王碑を重んじるのは当然のことである。
【年表】
広開土王碑
391…倭が侵入し、百済、新羅を臣民にする
(★百残、■■■羅となっていて、読み取れない部分があるが、百残、新羅はもと属民であったという記述から新羅が含まれているのは確実である。百済、新羅、安羅ではないか。)
396…自ら水軍を率い、百済を攻め、閣弥城など多数の城を落とし、百済は服属する。
(★閣弥城は三国史記の関弥城と思われる。)
399…百済は誓いに違い倭と和して通じる。
399…新羅が救援を要請。
400…新羅を救援。男居城から新羅城に到るまで倭がその中に満ちていた。
404…倭が帯方界に侵入したが撃退。
三国史記
392(新羅本紀)…高句麗が強盛なので、伊湌の大西知の子、実聖を質にした。
392(高句麗本紀)…百済を攻め十城を落とす、関弥城を落とす。
392(百済本紀)…高句麗が十余城を落とし、漢水北の諸部落の多くが奪われた。関弥城が
         抜かれた。
393(新羅本紀)…倭が侵入し金城を包囲
395(百済本紀)…高句麗を討ち、浿水付近で敗れる。
397(百済本紀)…倭と好を結び、太子の腆支を質にする。
401(新羅本紀)…高句麗の人質になっていた実聖が帰国
402(新羅本紀)…倭国と好を通じ、奈勿王の子、未斯欣を質とした。
★上記の年表から、新羅、百済が弱体化し、南の倭と北の高句麗から圧迫されていたことが読み取れる。402年までに、百済と新羅は倭に質を出している。404年の記述、倭が帯方界まで進出し高句麗を攻撃するには、そこまでの経路にあたる百済の協力が不可欠である。神功皇后時代、391年から404年まで断続的に戦いが続いていたのである。


*35 香坂王、忍熊王
敵対した香坂王、忍熊王は仲哀天皇の子、皇后の継子。神功皇后は仲哀天皇の年の離れた後妻と考えられる。


*36 国名文字表記の韓伝との類似
 韓は帯方郡と陸続きで、戦ってもいる。倭よりこちらの情報の方が豊かで国名表記は倭人伝より先立つと思われる。帯方郡使は韓の国名に使用されている馴染んだ文字をそのまま倭の国名に流用したと思われる。倭人の発音を中国人の文字で表しており、聞き取りと文字表記という二つの変換過程があるので、微妙な誤差は避けられない。


*37 「壹」、「臺」
 唐代に編纂された梁書は臺與と記すが、遣隋使以降で、都はヤマトと判明した後である。魏志の「壹」はすべて「臺」の転写間違いとみた意図的な修正を考えるべきである。
 【隋書倭国伝、太平御覧】
 後漢書と魏志には記述内容にわずかな違いがあるのだが、隋書は後漢書の記述を採用しており、魏志より後漢書を信頼するという姿勢がみえる。後漢書を引用しながら「魏志いうところの邪馬臺」と記す矛盾がある。
 太平御覧は後漢書や魏略、梁書などの記述を交えながら、一括りにして「魏志曰く」と記す引用の不正確さがある。
 つまり、両書とも引用者の思考が反映されていて、原典に忠実な引用とは言い難いのである。  


*38 伊予と大和、「天山」
 伊予国の風土記に曰く、伊予の郡、郡家より東北に天山あり。天山と名づくる所の由は、倭(やまと)に天の加具山(香久山)あり。天より天降りし時、二つに分かれて、片端は倭国に天降り、片端はこの土(くに)に天下りき。因りて、天山という。
★伊予と大和が同格で結びついている。


*39 奴の読み
 ひらがな、カタカナの、「め」「メ」は「女」から、「ぬ」「ヌ」は「奴」から生まれた
 ドゥ→ド<漢音>→ノ(日本)、ドゥ(ヅ)→ヌ<呉音、日本>
「篠は小竹なり。これを斯奴(しの)という」(神代紀一書)=奴は「の」と読まれている。日本書紀では奴はヌ、ノ、ヅ、ド音にあてられる。