弥生の興亡1 魏志倭人伝から見える日本2


魏志倭人伝から見える日本、2

第二章、魏志倭人伝の解読、分析
 一、各国の位置に関する考察
  1、朝鮮半島から対馬、壱岐へ
  2、北九州の各国、奴国と金印
  3、投馬国から邪馬壱国へ
  4、北九州各国の放射式記述説批判
  5、その他の国々と狗奴国
 二、倭人の風俗、文化に関する考察
  1、陳寿が倭を越の東に置いたわけ
  2、倭人の南方的風俗と文化


第二章、魏志倭人伝の解読、分析

一、各国の位置に関する考察

1、朝鮮半島から対馬、壱岐へ

 倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
「倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国なり。」

「倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る。山がちの島に身を寄せて、国家機能を持つ集落を作っている。昔は百余国で、漢の時、朝見する者がいた。今、交流の可能な国は三十国である。」

 倭人が在る、帯方東南大海の中。依る山島、為す国邑。ながめているだけで、おおよそのイメージがつかめるのは、漢字という表意文字のありがたいところである。
 しかし、うっかり自分の持っている常識に従うと、同じ文字が、日本語とは全く異なる意味を持つ場合があって、とんでもない誤訳に至る可能性もある。「鮎」など中国ではナマヅを意味するし、「鮭」とはフグのことである。文意を見失わぬよう、一つ一つの文字に神経を配って解読を進めなければならない(注40)
 北朝鮮の平壌付近に中国、楽浪郡があり、これは前漢、武帝の元封三年(B・C107)、衛氏朝鮮を倒して始まった(注41)。「帯方郡」は、それから三百年ほどを経た後漢の終末期(A・D196~219)、中国東北部から朝鮮半島にかけてを実効支配していた遼東太守の公孫康が、楽浪郡の屯有県以南を分割して設けたものである。領土を拡張したわけではなく、混乱していた南部辺境を安定させるため、新たに統治組織を置き、管理体制の強化を図ったのであろう。したがって、楽浪郡と帯方郡の治所は、中国的尺度でいえば、近接しているはずである。その策が奏功し、帯方郡が安定したため、「その後、倭と韓は帯方に属した」と魏志韓伝に記されている。「属した」と言っても領土化したわけではない。そうしようとすれば韓だけでも大戦乱になり、公孫氏は弱体化する。後の時代、魏が辰韓の八国を楽浪郡に編入しようとしたため、韓が反発して戦乱になり、韓を滅ぼしたが、帯方太守、弓遵が戦死している。同じような状況を招くだけである。おそらく、倭、韓とも帯方郡へ使者を派遣し、公孫氏に朝貢する形をとっていたのであろう。帯方郡は、王朝交代後の魏にも受け継がれ、日本に最も近いため、交流の際の、中国側の窓口となっていた(注42)
 大平原を行き交う北方系中国人の平地に対する感覚は、我々とは全く異なっているはずである。日本には平地など無いも同然に思えたらしく「山島」との表現が採られた。当時の西日本に限られるから、地図を見ても、実感でも、確かにその通りと言うしかない。どこを眺めても山が見える。
 「国邑」とは国家機能を持つ集落という意味で選ばれた言葉と思われる。要するに、首長と支配階級がいて、組織化され、周辺統治力がある。首長の居住する大集落(国邑)があり、領域の小集落を支配するという形である。魏志韓伝では国邑と邑落の使い分けがみられる(注43)
 「旧百余国」は、「楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来たり、献見すと云う。」という漢書地理志、燕地の文を前提にしている。楽浪は武帝が新たに設けた郡なので、倭人が漢に通好したのは、武帝の元封三年以降と解釈できそうだ。 衛氏朝鮮が滅びて、漢の楽浪郡に代ったため、元々、朝鮮半島と交易していた倭人が、より大きな利を求めて少し足を伸ばせば、このように中国側の歴史に姿を現すことになる。日本に閉じこもっていた倭人が、いきなり漢を意識して交流を求めたわけではなく、それまでの活動の延長線上の出来事であろう。前漢代の倭人は、楽浪郡か、せいぜい燕の都(薊=現在の北京)へ通ったもので、天子に拝謁する朝見にまでは至らない。したがって、燕という地方記事の中に埋め込まれている。(注44)
 「漢の時、朝見する者有り」は、後漢の光武帝、建武中元二年(57)の奴国の朝貢をいうようで、このことは范曄の後漢書に記されている。陳寿もまた、後漢代の同様の資料を得ていたのである。おそらく范曄に先立つ、先行後漢書のデータではないかと思われるが、しかし、戦乱を経たとはいえ、当時はまだ資料がたくさん残っていたかもしれない(注45)
 魏志倭人伝は、魏の関連事項としての倭を記したもので、倭自体の歴史を記したものではない。だから、後漢代のデータは、過去の出来事として、簡単にまとめられた。
 後漢書倭伝は、後漢の関連事項としての倭を記す。魏という国は存在しなかったのだから、魏志倭人伝にある、魏と倭の政治的交渉に関しては書くことができない。魏志からの引用は地理・風俗情報に限られている。同じデータを元にしていても、根本的な立場の違いが、魏志倭人伝と後漢書倭伝の記述の差異になって表れてくる。それを弁別できない日本の研究者は、いい加減だとか解らないとか書く。どちらも論理的でしっかりした書だから、そうなるのである。
 前漢時代、百余に別れていた国が、魏代になると三十に減じている。これは、国家の統合が進んできたことを表すと短絡されがちだが、「今、使訳通ずる所」と形容されているので、知っている国が三十国で、「それ以外は知らないよ。」という意味になる。前漢から三百年くらいを経ており、小さな集落国家だから、国の数はもっと増えている可能性すらある。このあたりの記述は陳寿のまとめなので、「今」は陳寿の時代の今、晋初期のことであろう。

  從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
「郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行す。韓国を歴て、乍南乍東し、その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里なり。」

「(帯方)郡から倭に至るには、海岸に従い水上を行く。韓国を通り過ぎ、南へ行ったり東へ行ったりしながら、その(=倭の)北岸の狗邪韓国に到着する。七千余里である。」

 魏志倭人伝では、海岸沿いに航行することを「水行」と表現している。帯方郡から倭に向かうには、黄海を船で南下し、朝鮮半島西岸の馬韓を通過することになる。これを「歴韓国」と記した。そして、朝鮮半島南部の多島海と呼ばれる海を「乍南乍東」、つまり、南へ向かったかと思うと、すぐさま東へ向かったりすると言っているわけで、西や北へは行っていない。島々を避けながら、ジグザグ目まぐるしく方向転換して、全体として、南東に進んだと思い込んでいるのである。実際の地形を見れば、北東に移動しているはずで、南北が入れ替わって方向の狂いがみられる。(注46)
 倭人伝では、進んだ方向を記す場合、文の先頭に書かれ、行く方法が後ろに置かれている。「韓は帯方の南に在り」と、韓の方向は、すでに魏志韓伝で明らかになっているので、ここでは省略されたのであろう。乍南乍東は歴韓国の後ろに書かれており、歴韓国の方向ではない。狗邪韓国の方向である。且つ水行なのである。(注47)
 倭の北岸(注48)「狗邪韓国」は、約束通り「コウヤ韓国」と漢音で読む。魏志韓伝に弁辰狗邪国の存在が記されており、これは同一国とみなして問題ないだろう。
 その所在地として金海(現在の釜山付近)を当てるのが通説だが、対馬に最も近い対岸というだけでしかないようで、根拠は薄弱と言わざるを得ない。そして、韓国の地名を探れば、慶尚南道に近い全羅南道東部に、光陽(クワンヤン)という都市が見られ、音がコウヤに非常によく似ている。漢字は日本語ならそのままコウヤと読めるくらいで、海も光陽湾とされているから、付近では中心的な都市なのであろう。この光陽湾一帯を狗邪韓国とみなせば、蟾津江河口部もその領域に含めることが出来るが、古代、そこには加羅の多沙津という良港が存在していた(日本古典文学大系「日本書紀」継体紀注、岩波書店)
 「加羅王が日本に朝貢するため使用していたが、百済が朝貢時に使用したいと望んだので割き与えた。そのため加羅王の恨みを買った」という旨の記述が継体紀にあり、百済、加羅方面から日本に渡来するための基地となり得るのである。
 以上のような理由から、狗邪韓国(弁辰狗邪国)は光陽湾周辺。その港は蟾津江河口部の多沙津と比定する(注49)
(注50)
 帯方郡から狗邪韓国までの距離は七千余里という。魏の一里は434メートル強なので、帯方郡の置かれた平壌南方から、韓国南部海岸の中央付近、光陽湾までをおよそ3000キロと計算しているわけである(日本縦断の距離に近い)。しかし、地図を読めば、たとえジグザグ進んだにしても、歴韓国と表された距離が400キロ前後、全体では5~600キロ(千四百里)程度に過ぎないようで、七千余里は実際の数字からかけ離れている。
 何らかの政治的な都合により、倭をはるか遠くの国に見せかけたのだとする見解もあるが、記録を残すのは自分達のため、情報を共有して役立てるためだから、倭人伝の根拠となった魏の文献が、故意に距離を水増ししたと考えるのは苦しい。誤った情報を国内に流布すれば、自国が不利益をこうむるだけである。
 魏志の著者、陳寿にしても、魏、蜀、呉は既にない西晋時代の著作で、その上、魏に滅ぼされた蜀が出身地だから、恨みこそあれ、過去の何のゆかりもない政権の利益を図って距離をごまかすとは考えられない。もっとも、陳寿は蜀から冷遇されていたが、それでも魏に肩入れする理由はないはずである。
 距離を誇張して示さねばならない対象、目的、記述者が全く浮かんでこないのに、これを政治的、作為的な誇張と解するのは困難である。そして、航海の終着点、北九州の末盧国までの距離が、まことにさっぱりした区切りの良い、一万余里と計算されていることに引っかかる。航海の距離を継ぎ足して、そんなに都合良く数字が出てくるものであろうか。偶然の一致という可能性はあるにしても、確率的にかなり低いと言えるのではないか。
 おそらく、先に、帯方郡から末羅国に到る航海全体の距離を一万余里と定め、そこから逆に、対馬海峡の三千余里を引き算して、この七千余里をはじき出したものと思われる。
 また、当時、距離を正確に測る道具が存在したかどうか。帯方郡という中国辺境から派遣され、倭というさらに遥かなる辺境の地へ向かう少数の人間に計測能力があったかどうか。海流、風、波、ジグザグコース、三世紀の技術と知識、揺れる海上で、どう計算し、どう測ったのか等の全てを考慮に含めれば、尺度に小細工を弄して、距離を真剣に計算する必要がないことも明らかである。帯方郡使は地図作りの探検隊ではない。(一万余里-三千余里=)七千余里は、「大体この程度でよかろう」という大雑把な心理的距離と捕えておけば済む。(注51)

  始度一海千餘里至對海(對馬)国 其大官日卑狗 副日卑奴母離
「始めて一海を度ること千余里にして対海国(対馬)に至る。その大官は卑狗と曰ひ、副は卑奴母離と曰ふ。」

「始めて一海を渡り、千余里で対海(対馬)国に至る。その大官はヒコウといい、副官はヒドボリという。」

 魏志倭人伝では、「水行」は、陸を望みながら、陸と平行に航海することを意味し、対岸に向かう時は「渡る」と記される。この時、初めて大海原へと乗り出したのである。ここには方向は記されていないが、北岸の狗邪韓国から向かう倭は南岸に決まっているから示す必要がないという判断かもしれない。
 たどり着いた「対海国」を異本は「対馬国」と記している。後者は現在使用されている見慣れた文字で、違和感がないのだが、日本名のツシマは、記、紀では、「津島」と表記されているから、「港の島」という意味になる(注52)
 後代、航海術が発達し、壱岐を経由しない朝鮮航路が生まれたようで、北九州を離れた船は対馬に直行することとなった。この海路は海北道(注53)と表現されているが、途中の寄港地は津島(対馬)しかなかったのである。そこで、この島名が与えられたものかもしれない。対馬という文字は中国の史書から採られているが、それを無理に、港の島、ツシマと読んでいることになる。
 対馬は、呉音で読むとツイメ(馬はマと読めそうである)となり、ツシマに良く似ている。したがって、後の時代、対海から改訂されたものとすればいいのではないか。倭の五王の使者からツシマという島名を聞いて、南朝時代に対馬へ表記を変えたとすれば片付くのではないかと考えていた。
 しかしながら、調べが進むにつれ、対海国、対馬国というのは、はたして島全体の呼称だろうかという疑問が大きく膨らんできたのである。魏の使者は対馬の何処かの集落に立ち寄り、その小さく分割された行政地域名を書いたのではないか。実際、九州本島で行っているのはそういうことである。
 そして、「紀」では、加羅の「多沙」が「帯沙」とも表記されているから、同様に「タ」音を写して「対」と記した可能性が有りはしないか。それなら「対馬国」は「タバ国」と読むことになる。
 朝鮮の史書、三国史記の新羅本紀に、「第四代新羅王、脱解尼師今(在位57~80)は、倭国の東北一千里にある多婆那(タバナ)国で生まれたが、海へ捨てられ、金官国(釜山付近)に流れ着いた後、さらに流されて辰韓(新羅)に至った。」という伝説が記されている(注54)
 倭国の東北一千里で、金官国と海を隔てた「多婆那(タバナ)国」は、九州の「東北!」海中に浮かび、金官国と海を隔てる「対馬(タバ)国」にぴったり重なるのである。
 実際には、対馬は九州西北に位置するが、「混一彊理歴代国都之図」(以下、混一彊理図と略す。)という地図は、九州とも四国ともつかない島を北端として、南に垂れ下がった形の日本列島を描き、対馬を朝鮮間近の、そして、日本(倭国)の東北海中に置いている。
 これは李朝太宗二年(1402)に作られたというから、朝鮮では、十五世紀に於いても、対馬を倭国東北の島と認識していたわけである。
 タバは、後の日本語の発音に直せばタマとなる。朝鮮語ではテマ島である。そして、古代の対馬島、上県郡(現在の下県郡)には玉調(タマツキ)という郷が存在した。新羅王となった脱解もこの地の出身とみなして問題ないようである。
 対馬がタマなら、対海はタカに近い音と考えられる。元禄時代の地図に高月村があり、今、上槻(コウツキ)になっているというが、古代はタカツキだったのではないか。ここも玉調郷に含まれている。弥生時代からタマ(タバ)やタカと呼ばれていた土地に、後代、ツキが付されたと解することができるのである。 和銅六年(713)五月に、畿内と七道諸国の郡、郷名は好字を付け、諸国の産物、地形、伝承などを報告せよという風土記編纂の命令が出された。この後、地名は好字二文字で表されている。玉や高にツキ(調、月)が加えられたようである。対馬で最も高い矢立山が上槻の東にあるので、タカという地名に関係するかもしれない(注55)
 玉調郷は椎根、小茂田、樫根、下原の諸邑を郷域としていたということで、上槻を含めて、対馬下島西部が対馬国、対海国の最有力候補地になる。対馬では、この地区の佐須川流域に発展条件がそろっていたのか、川の上流域にまで集落が展開し、海岸部に散在しているだけの他地域に比べて、ふところの深さが感じられる。港は佐須川河口部の小茂田付近(対馬国)や、上槻川河口部の上槻(対海国)としておけば良いであろう(注56)
 狗邪韓国(加羅の多沙津)を出た船は、海流に乗って東南へ向かい、後に玉調郷となる対馬下島西部のタカ(対海)国、あるいはタバ(対馬)国に至ったという結論になったが、ここには卑狗、卑奴母離という官、副が置かれていて、倭が統御していた。
 地名、官名は、中国人が倭人の発音を聞き取って表記したもので、何度か聞き返し、確認しながら記録したことであろう。ワンワンが、バウワウになる程度の違いは覚悟せねばならない。
 卑狗(ヒコウ)の音に近い日本語とすれば、ヒコが該当しそうである。副官は漢音ではヒドゥボリになる。呉音に、さらに加えて、奴をナと読み、ヒナモリではないかとする見解もあるが、防人(サキモリ)は古代史に登場しても、官職としてのヒナモリを載せる文献は見あたらない。これは、私自身が、長い間、勘違いし混同していたことなので、念のために書き添えておく(注57)

  所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑
  有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴

「居する所は絶島にして、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食らひ自活す。船に乗り、南北に市糴す。」

「居する所は、近寄り難い島で、およそ四百余里四方。土地(対馬国、対海国)は、山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千余戸の家がある。良田は無く海産物を食べて自活している。船に乗って南北に行き、商いして穀物を買い入れている。」

 絶島は、陸地から遠く離れた人の近寄り難い島という意味である。金海(釜山)からの航海ならば、好天の日は島影が望めるというし、対馬国貢銀記には「金海府の牧野の馬が見えたりするので、その近さを想像できるだろう。」と書かれているから(事実かどうかは不明)、絶島という表現は似合わないと思える。下図、対馬と韓領の二つの島の距離を見れば、位置関係がどう把握されていたかよくわかる。この「絶島」という言葉から、出発点の狗邪韓国は、金海ではないと確信させられるのである(絶島は中国人による表現)
 対馬の地形図や航空写真から「山険、多深林」という地形描写の的確さを確認できるが、面積の四百里(170kmほど)四方という数字は過大であるし、南北82km、東西18kmほどの細長い島だということも把握していない。ずっと後でもそうで、混一彊理図の対馬は東西の横長になっているし、海東諸国紀(申叔舟著1471)の対馬も丸められている。この地図を出しながら、南北三日ほど、東西一日~半日という記述は謎だけれど。
 良田がなく(田はあるかもしれない)、南北(九州や朝鮮)と交易していたことは、後の時代にも変わらない。遠くて地形が険しいうえに、生きるのも厳しいという意味を含んで、絶島という言葉が選ばれたようである(注58)
 市での交易に関して、穀物(米)を買うことを表す糴(てき)という文字が用いられている。糶(ちょう)は逆に穀物を売る意味である。一つ一つの文字に厳密な定義があって、それが正確に使い分けられており、曖昧に解釈すれば文意を損なってしまうのである。そして、「魏志韓伝」に、次の記述がある。

  国出鉄 韓濊倭皆従取之 諸市買皆用鉄如中国用銭
「国(辰韓)には鉄が出て、韓や濊、倭がみな従ってこれを取っている。諸市で皆、中国で銭を用いるように鉄を用いて買っている(注59)

 百衲本の魏志韓伝は、馬韓、辰韓、弁辰、弁辰という四伝に分かれている。タイトルを付けた研究者が誤ったのだが、実は、最初の弁辰伝は辰韓伝の続きなのである。各伝に小見出しのある百衲本使用者に限られるが、それを真に受けて、この記述を弁辰伝と誤る人が多い。
 売買には貨幣ではなく、貨幣代りの鉄が用いられていた。それを渡せば、即、品物と交換できたわけで、目方を計ったりする必要はなかったのである。でなければ、銭と同じ使い方という表現は採れない。したがって、鉄には単位を簡単に知れる何らかの規格が設けられていたことになる。古墳からしばしば発見される鉄鋌がそうではないかという説があり、これは首肯できる。
 対馬の住民が、朝鮮半島の市で海産物を売り、銭代りの鉄を手に入れ、それで穀物を買い求める姿が目に浮かんでくるが、「南北市糴」という言葉を、事実の正確な描写と扱うなら、南の北九州でも銭代りの鉄が使用されていた可能性を認めなければならない。

  又南渡一海千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離
「又、南に一海を渡ること千余里、名は瀚海と曰ふ、一大国に至る。官は亦た卑狗と曰ひ、副は卑奴母離と曰ふ。」

「また、南に一海を渡る、千余里、名はカン海という。一大国に至る。官は、亦、ヒコウといい、副はヒドゥボリという。」

 辞書(大字典)は、瀚には「広い」という意味が有り、瀚海は北海(バイカル湖)の別名と記している。梁書倭国伝にも「海が広く千余里、瀚海と名付けられている。(注60)」という記述がみられるが、しかし、現在は海峡と呼ばれているくらいで、肉眼で島影が望める対馬南方の水道のみを、特に広いと表現する理由は見当たらない。他の海も同じく千余里と書かれている。
 「乾」には漢音でケン、呉音でゲンの音が有り、西北方(いぬゐ)を意味する。カンという音も有り、こちらは「乾く」の意味である。通訳は、九州から対馬にかけての海を、九州西北の海、「乾海」と教えたのではないだろうか。ケン海あるいはゲン海となすべきところを、音を間違えてカン海と伝え、それに瀚という文字が当てられた可能性がありはしないか。あるいは、原資料には正しく「乾」と記されていたものを、南に向かっているのに乾(北西)や、水だらけで乾(乾燥)の海はあまりにもおかしいということで、誰かが乾を瀚に置き換えた可能性もありそうである。
 翰海は「史記匈奴列伝」等に見られる文字で、漢の武帝の頃、驃騎将軍、霍去病は代(地名)から発進し、北の砂漠(=ゴビ)を渡って北西に匈奴を追い、翰海を目にして引き返したとされている。翰海をゴビ砂漠とする説もあるが、バイカル湖のことである。翰は「羽」や「筆」の意味を持ち、バイカル湖は確かにそう形容されていい形をしている(注61)
 こういった文字にサンズイ偏を加えた「瀚」を選んだのは、やはり歴史書や文字に精通した人物と解すべきかもしれない。いずれにせよ、後に「玄界」の文字が与えられて意味不明になってしまったが、ゲンカイとは九州西北(乾)の海を表す。そして、瀚海とは玄界灘のことなのである。
 その瀚海を渡って一大国に着いた。倭人伝の旅程や記述内容から、この国を壱岐に求めることには何の問題もない。
 しかし、壱岐島は、記、紀以前の古代には、イチキシマと呼ばれていたように思えてならないのである。文字をそのまま読めばイチとキで、朝鮮航路の守り神とされる宗像三女神の内に、市杵島姫(イチキシマ姫)の名が見える。この島の神だったのではないか。
 倭人伝によれば、魏の使者は対馬、壱岐を経た後、唐津付近に向かっている、そこに至る前に、呼子町の加部島の外を通過する、あるいは入港したのかもしれない。その加部島には、延喜式名神大社、肥前一の宮という田島神社(注62)があって、ここにも宗像三女神が祭られ、社殿は壱岐の方向を向いている。当時は、壱岐が朝鮮航路の中継点として入っていたから、この神々が航路の守り神なら、壱岐の神を祭るのが自然なのである。そして、一人が九州本土の神で、あと一人が沖ノ島の神ではないか。
 「紀」では、田心姫(たこりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)という名が与えられているが、文字の意味を分析すれば、田心姫は水田の開拓に関係が有りそうで、これが九州本土の宗像大社、辺津宮の神。付近は田島、田野、田熊など田に由来するらしき地名に囲まれている。湍津姫の湍は急流を表しているから、対馬海流の中に浮かぶ、沖ノ島の沖津宮の神というわけである。そして、ずっと後の時代に、壱岐が朝鮮への主要航路から外れて、壱岐(イチキ)島にいた市杵島姫が、筑前大島の現在の中津宮へ移され、三女神が海北道の守り神にされた、というのが私の見解である。
 「神代紀」の一書では、スサノオ命の十握剣から市杵島姫、九握剣から湍津姫、八握剣から田心姫が生まれたとされているが、これは宗像本土(八握剣)から沖の島(九握剣)、壱岐(十握剣)への距離に対応している。壱岐の方が沖の島よりわずかに遠いのである。以上は、宗像大社の主張する祭神の配置とはまったく異なっている(注63)
 志賀島から出土した金印の蛇紐に見るように、倭人のシンボルは蛇と考えられていた。したがって、丸い蛇眼紋と三角のウロコ紋が神聖な図形である。辺津宮と沖ノ島、壱岐を結べば二等辺三角形が描ける。これは偶然ではないであろう。逆に、奇麗な三角形を描ける位置を求めて辺津宮を設けたと解釈可能である。
 邪馬壱が邪馬台に改変されたのと同様、一大国も、唐代に編纂された梁書等を根拠に、一支と訂正して紹介されることが多い。大と支は少し似ており、文字に書き癖があって、伝写時に見誤ったという主張も、それほど抵抗なく受け入れることができるのではあるが、それより先に、国名は島全体の呼称か、という問題を解決せねばならない。そう思いながら地図を見まわすと、石田という土地が存在している。これは「イッター(一大)」に聞こえるであろう。一支国の方が正しく、「イッシ国」と読んだとしても何ら不都合はない。和名抄では、壱岐島は、石田郡と壱岐郡で南北に二分されており、古代から存在する地名なのである(注64)
 今は廃止されてしまったが、以前は、石田町印通寺(現壱岐市)から佐賀県の呼子へフェリー航路が伸びていた。末盧国の所在地、唐津へ向かう船が立ち寄って当然という位置にある。
 以上から、「一大(一支)国」は、壱岐の石田町印通寺周辺と結論できる。ここには、対海(対馬)国と同じく、卑狗という官、卑奴母離という副官が置かれていた。印通寺北方に弥生時代の大遺跡、原の辻遺跡があるから、官く置くとしたらここだろう。弥生時代の家ネコの骨が発見されたりしている勝本町立石東触のカラカミ遺跡が壱岐郡(壱岐国)の中心地、国邑ではないか。

瀚海(=乾海=玄界=九州西北の海)
【宗像三女神】
  田心姫(宗像郡…辺津宮)
  市杵島姫(壱岐→筑前大島…中津宮)
  湍津姫(沖の島…沖津宮)

三角は辺津宮、壱岐、沖津宮を結んだもの。
宗像三女神は玄界灘の神か?
  対海国、対馬国は対馬上県郡の玉調郷  一大国は壱岐の石田郡

 日本書紀一書に記された、宗像三女神の「海北道」は新羅方面に向かう航路だとわかるが、それに対応すると思われる「海南道」の所在は明らかでなかった。帯方郡使が通った百済方面と倭を結ぶ航路が「海南道」と考えられる。

  方可三百里 多竹木叢林 有三千許家
  差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

「方三百里ばかり。竹木叢林多し。三千ばかりの家有り。やや田地有り。田を耕すも、なお食らふに足らず。亦、南北に市糴す。」

「(一大国の)大きさはおよそ三百里四方。竹、木、草むら、林が多い。三千ばかりの家がある。いくらかの田地があるが、住民を養うには足りないので、対馬と同じ様に九州や韓国に行き、商いして穀物を買い入れている。」

 ここでも三百里(130km)四方という島の大きさは過大で、実際には南北17km、東西14kmほどしかない。方三十五里くらいが適正であろう。中国の海南島は九州よりはわずかに狭く、四国よりははるかに大きな島だが、方千里とされている(漢書地理志粤地)。壱岐は海南島の二百数十分の一しかないから、方三百里、方千里という、この二つの島の面積の数字に整合性を求めるのは不可能である。領有していた海南島の方が正しいものに近いのではないか。で、古田武彦氏などは、つじつま合わせに短理というものを考えるのだが、この島の方三百里は実際の数字の8.5倍くらいになるから、一里は50m程度である。一里90mという古田氏の数字よりはるかに小さくなる。おそらく表された距離の一つ一つが違う数字になると思われる。伊都国から奴国までは20kmほど。百里と記されているから、一里200mになる。船に乗ったり、歩いたりの自らの体験で感じた距離を書いているのに、正確と考えて測量法を調べたりというのは、測量法の知識は身につくであろうから無駄とは言えないが、魏志倭人伝の解釈に関しては無効である。
 島は対馬に比べ平坦で、風景などの描写は的確と言えそうである(注65)。穀物不足の対馬へ行っても穀物は手に入らない、対馬の住民も穀物不足の壱岐で手に入れるのは不可能。市糴した南北は九州本島と朝鮮半島ということになる

2、北九州の各国。奴国と金印

  又渡一海千餘里至末盧國 有四千餘戸 濱山海居
  草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沉没取之

「又、一海を渡ること千余里にして末盧国に至る。四千余戸有り。山海に浜して居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。魚鰒を捕るを好み、水の深浅無く、皆、沈没してこれを取る。」

「また、一海を渡ること千余里で、バツロ国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が見えない。魚やアワビを好んで捕り、水の深浅にかかわらず、皆、潜ってこれを取っている(注66)。」

 韓伝では、新羅(シラ)が斯盧国と表記されているので、ラ音に盧という文字が当てられたようである。この末盧国もバツラ国ということになり、記、紀で末羅、松浦(マツラ)と表される地名に一致している。
 この国の所在地は佐賀県の唐津市周辺である。東松浦半島先端部の呼子や名護屋を挙げる説もあるが、「東南、陸行五百里で伊都国へ至る」という後に続く記述に合わない。
 伊都国は現在の糸島市が想定されていて、ほとんど異論がなく、名護屋あたりからの陸行なら、東南に向かい、さらに東北に向かうという九十度の方向転換を要するのである。案内役の倭人に、目的地はどちらにあるかを尋ねれば、手を挙げて指し示すと思える。直線的に考えて良いのではないか。
 唐津市を流れる松浦川河口部には大きな自然の潟が見られ、おそらく、古代からそれが存在したのであろう。港はその潟内に設けられたと考えられるし、潟を渡る必要がなかったようなので、東岸と解することもできる。そして、集落まで、何里と書き記すほどではなかったのだが、少し距離があり、草木をかきわけて進まねばならなかった。(「行くに前人を見ず」は、歩いた距離=陸行が示されていないので、数キロの、行程としては無視できる距離と考えられる。これは末羅国内での体験ということになる。)
 以上の条件を合わせると、中心集落は鏡山の麓に位置した可能性があり、これは「山海に浜して住む」という記述に具体的なイメージを与えてくれる。河原の葦原かと思えるが、繁茂した草木が邪魔をして前を行く人の姿が見えない。皆、沈没して魚やアワビを取るという描写は、夏の盛りの風景のようである。(注67)
 この国には四千余戸があり、対馬国(千戸)や一大国(三千戸)より規模が大きい。それにもかかわらず、官が存在しなかったらしく、官名を記していない。
 帯方郡から狗邪韓国まで水行七千余里。さらに九州、末盧国まで三千余里を渡って、合わせて一万余里の航海になる。もとより七千は引き算で求めた数字で、他は十進法の区切りの良い整った数字ばかりが並んでいる。古田武彦氏は、この距離のどこに測量性を感じたのだろうか。その先も五百里、百里、百里の陸行、ひと月の水行、ひと月の陸行である。



  東南陸行五百里到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚
  有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往来常所駐

「東南に陸行すること五百里にして伊都国に到る。官は爾支と曰ひ、副は泄謨觚、柄渠觚と曰ふ。千余戸有り。世、王有りて、皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所なり。」

「(末盧国から)東南に陸上を五百里行くとイト国に到着する。官はジシといい、副はエイボコ、ヘイキョコという。千余戸が有る。代々、王があり、皆、女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に滞在する所である。」

 伊都(イト)も古代からの存在が確認できる地名で、仲哀紀に伊覩県主が登場するし、倭名抄では筑前国に怡土郡がみられる(注68)。現在では北接する志摩郡と合併して糸島市になっている。
 糸島市のどのあたりかということになると、末盧国から歩いているので、港を持たない内陸、且つ、古代の街道沿いを想定できる。福岡方面に抜ける山越え道に近い、曽根、井原、三雲、高祖あたりが該当しそうで、周辺から弥生時代の遺跡や古墳が多数発見されているのも好都合である(注69)
 伊都国には、官が一人、副官が二人で、そのうえ王まで存在し、規模の大きさを想像させるが、戸数は千余戸しかない。「翰苑」所載の魏略逸文では万余戸となっており、そちらが正しい可能性もある。ここまでの国のありかたを思えば、千余戸程度で、王がいて、さらに官と副官二人は必要ないはずである。しかし、統治の必要上、行政機関だけを充実させた国と考えることもできるので、千余戸で正しいのかもしれない。やはり、資料は、はっきり否定できるだけの根拠を示せない限り、そのまま使用するべきであろう。この魏略逸文は誤字や欠落などが多く、それほど信頼のおけるものではないように見受ける。現在の人口を見ても、糸島市より唐津市の方が多いし、水源や港としての松浦川の存在が大きく見え、古代に唐津市周辺(四千余戸)の2.5 倍の人口を擁していたとは考え難い。魏志に従うべきである(注70)
 千余戸の小さな伊都国に、大きな権限の行政機関を置けるなら、九州では軍事的不安がなかったということになりそうである。末盧国には官名が記されていなかった。そして、隣のこの国は、戸数が少ないにもかかわらず、逆に、副官が増員されて管理体制が強力になっている。これは伊都国が末盧国をも管理していたことを示すのではないか。
 伊都国には世襲の王家が存在しても、みな女王国に従属していたという。女王国の支配下に置かれてから何世代かを経ているわけで、最低限でも二代である。他の国には王がいないのに、小さいにもかかわらず、この国のみが何らかの理由から優遇されていたようだ。
 「郡使往来し常に駐する所」とは、往来という言葉が入っているので、帯方郡の使者が来たときには必ずここに立ち寄り、帰りも必ず立ち寄るという意味になる。船の手配をしてもらうなど、様々な手続きが必要だったであろう。松本清張氏は帯方郡が郡使を常駐させていたと解釈しているが、もし、その必要があったのなら、この国ではなく、国王(女王)のいる邪馬壱国に駐在させねばならない。これは、現在、各国の大使館が首都の東京に置かれている理由を考えれば、すぐに理解出来ることである。伊都国に郡使を置いたところで、事を謀るには、伊都国の官僚が邪馬壱国へ赴いて指示を仰がねばならないわけで、後段に、邪馬壱国まで二ヶ月かかると記されているから、伊都国との連絡には都合四ヶ月を要することになる。交渉して決定するまで、どれだけの時間を無駄にするだろうか。直接、権限を持つ者を相手にしなければ、たいして意味はないのである。それなら、始めから女王国に置くのが賢い。帯方郡使が伊都国に居座っていたのではなく、行き帰り(往来)に常に駐(滞在)したのである。

  東南至奴國 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
「東南、奴国に至る。百里なり。官は兕馬觚と曰ひ、副は卑奴母離と曰ふ。二万余戸有り。」

「東南、ドゥ国に至る。百里である。官はシバコといい、副はヒドボリという。二万余戸がある。」

 奴国は、これまでの国とは桁違いの大国で、繁栄していた様子なのに、記述はあっさりしたものである。その所在地としては、福岡市の博多区から東区を当てれば良いように思える。特に東区の多々良川と宇美川合流点、河口部に大きな潟湖が存在したように見え、港を中心とした集落を想定するのに魅力的である。
 多々良川の北に神功皇后の香椎宮、河口部に名島神社が存在しており、儺県、那津(なのつ)はこの付近と思われるが、弥生時代の奴国の中心を保証するものではない。(注71)
 この国は、「使者は大夫を自称した。…光武帝は印綬を授けた(紀元57年)」と後漢書に記されている倭奴国であろう(注72)。実際に、「漢委奴国王」と刻まれた金印が、すぐ目の前の、博多湾に浮かぶ志賀島から発見されている。
 これを「漢のヰド国王」と読み、伊都(イト)国に当てる説もあるが、民族あるいは国土が倭と表され、その中の小国として奴国が存在しているのだから、漢、委、奴は大、中、小の包摂関係と見るべきである。それに、伊都国中心部から、この島が望めないという結びつきの弱さも障害になる。途中に能古島という大きな島があり、金印公園正面の景観を遮るこの島をさしおいて伊都国と志賀島がどう結びつくのか。糸島半島は倭名抄の志摩郡で(注73)、怡土(イト)郡とは当時から行政地域が異なっていたと考えられる。
 後漢書は倭奴国に印綬を授けたとしているのに、金印には委奴国となっているから、倭と委は同音で、「ワ」とは読めそうもない。現在の発音では「ウェイ」に聞こえる。倭が委となったのは文字の偏が省略されたためで、三角縁神獣鏡の銘文に、鏡が竟、銅が同と表記されている等、多数の例がある。篆刻のデザイン上の都合や作業性の問題からそうなるのであろう。
「漢匈奴悪適尸遂王」「漢匈奴破虜長」などという銅印が中国から出土しており、漢、民族名、役職という記述形式が金印と同じで、特に「漢匈奴破虜長」印は、漢、奴という共通文字の篆刻書体が酷似している。「漢」の右下部が「火」になっているのは、漢が自らを火徳の国と定義していたからである(注74)。金印と同時代、後漢の印とすることに問題はない。その印面の匈奴を「キョウド」と読むなら、奴国も「ド国」と読まねばならないわけである。したがって、「漢の委の奴国王(漢のヰのド国王)」と読むことになる。
 そして、金印の「漢の委の奴国王」という文言と、後漢書倭伝の記述を合わせれば、紀元57年に中国へ遣使した国王の存在が明らかにされるのに、魏志倭人伝には官のみの記載しかない。つまり、百八十~百九十年後のこの頃(240年代)、王は追放されたか、地位を落とされたかして、女王国(邪馬壱国)に従属していたことを読み取れるのである。後漢書には次の記述がある。

   桓霊間倭国大乱 更相攻伐 歴年無主
「桓、霊の間、倭国大いに乱れ、互いに攻伐しあい、しばらくの間、主がいなかった。」

 後漢の桓帝(147~167)、霊帝(168~188)在位中の四十年間、ずっと戦乱が続いていたわけではないであろうが、倭国は大いに乱れたというから、その頃、奴国王が追われたのかもしれない。やがて、邪馬壱国の卑弥呼が共立されて、連合王国の女王になり、大乱は終息した。しかし、その間に敗れた国もまた多かったはずである。すべての国が一致団結したわけではなく、卑弥呼を共立し、団結した国々が覇権を握ったのである。戦いに敗れた側の首長が、その地位を保全した可能性は少ない。以下のような想像が許されるのではないか。

「奴国は弥生時代初期から博多湾沿岸を支配し、後漢に朝貢するなど、北九州では最も繁栄していた。しかし、二世紀半ばに全国的な大乱が起こり、奴国もそれに巻き込まれたのである。邪馬壱国やその同盟国との戦いに敗れた奴国王は、志賀島に逃れ、最も大切な宝物である金印を隠して再起を期したが、それを取り出す機会は二度と訪れなかった。」

 この金印の発見は江戸時代(天明四年、1784)のことで、土地の農民が田の溝を修理中、二人で持ち運ばねばならないくらいの大きな石の下に、三つの石で壁を作るように囲われた形で出土したのだという(注75)。金印が、なぜ志賀島で発見されたか、そして、なぜ大きな石の下に隠すようにしてあったかが、これで説明できる。
 敗戦後、王を含めた少数の人間が、海の中道と呼ばれる砂洲へ逃れ、追い詰められて、その先端から志賀島に渡り、せっぱ詰まって途中で金印を隠したものかもしれない。発見地は、現在、金印公園となっているが、志賀島の集落から少し離れた海岸の急傾斜地で、逃げる途中を思わせるような位置にある。船を利用出来たなら、より遠くの安全な土地へ逃がれることができるので、志賀島から金印が出土することにはならなかったであろう。
 「資珂島(志賀島)と打昇浜(海の中道)は、近くて相連なり、ほとんど同じ土地と言っていい。」という言葉が筑前国風土記逸文に見られる。これは神功皇后時代の説話とされていて、古代から、この砂洲は志賀島の間近まで伸びていたのである。(注76)
 金印を埋めた人物しかその隠し場所を知らない。それが取り出されていないことは、その人々?の何らかの不幸な結末を暗示している。金印の出土地を支石墓とする見解もあるが、金印が収められるような重要人物、たとえば、奴国王の墓なら、他にも、装飾品や鏡等、当時の古墳に通常見られる副葬品が出土して当然だし、古墳としての何らかの遺構も残っていてよさそうである。そういったものが全く見当たらない以上、この考えを受け入れるわけにはいかない。古墳から最初に盗掘されるはずの、金印のみが残されたという解釈は極めて不自然に映る。やはり、奪われるのを防ぐため、目印にできるような、特徴のある大きな石の下に隠したと解するのが妥当であろう。
 金印は、自らの一族が奴国の正当な支配者であることを、漢に承認してもらった証拠品で、それを示すことが出来れば、漢の支援を受けて再起を図ることができる。奴国王の希望をつなぐ、最後の切り札となり得るものなのである。
 伊都国が女王国(邪馬壱国)に従属したのも、この倭国大乱時代の可能性大で、そして、王位が存続するのは、同盟関係にあって卑弥呼を共立したか、戦わず降伏し、その地位を保全されたか、ということになるのではないか。


  東行至不彌國百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
「東行し、不弥国に至る。百里なり。官は多摸と曰ひ、副は卑奴母離と曰ふ。千余家有り。」

「(奴国から)東に行き、フウビ国に至る。百里。官はタボといい、副官はヒドゥボリという。千余りの家がある。」

 末羅国からこの不弥国までは、北九州に位置したことを確言できる。王が存在するのは伊都国のみで、他は官、副の記載しかない。どこに所属する官かといえば、女王国を考えるほかないようである。
 伊都国王というのは、代々、女王国に従属し、いることはいるけれども、千軒ほどを支配するだけの、何だか影の薄い王様のような感がある。実権は大してなかったのではないだろうか。この国には、他にも(一)大率という官が置かれ、諸国を検察するので、諸国が恐れ憚っているという記述が後段に見られるのである。
 王権の承認されている伊都国でさえ、完璧に支配下に組み込まれているから、女王国の統制力は極めて強力だったようである。北九州各国は息をひそめ、神経を張りつめて、その意志をうかがっていた様子が感じられる。
 そして、このことは、伊都国以外の国の副官が卑奴母離に統一されていることからも想像できる。官には、その国の元からの官名を用い、地元の有力者を置いて、副に女王国の派遣官である卑奴母離を置いたとする説があり、それには納得させられるのである(注77)
 卑奴母離を大率に直属する検察官と解せば、諸国が大率を恐れ憚るのも無理はないし、大率自身が検察出来る伊都国、末盧国には、卑奴母離を置く必要がない。そう考えれば全てに筋が通る。

 唐津市東部にあった末盧国の、東南五百里に伊都国が存在し、さらに東南百里で奴国。その後、東に百里で不弥国に至る。明確な手がかりの得られない、この不弥国を何処に求めるべきであろうか。

 伊都国は糸島半島の南と比定されていて、ほとんど異論がない。しかし、実際には、唐津の東南ではなく東北にある。倭人伝の記述通りなら、この国は背振山地の中か、佐賀平野の北方になる。奴国は筑後平野の南方、みやま市から大牟田市あたりに置かねばならなくなってしまうのである。しかし「漢の委の奴国王」という金印の存在はこれを否定して、博多湾沿岸を指し示す。
 地名や距離、考古学的史料から推定できる各国の位置と倭人伝の方向が一致しない。そこで、当てにならない方位や大ざっぱな距離を無視し、各人が想像をめぐらせて、国々の位置を確定しようと試みたため、今日みる混乱を生じたのである。
 奴国までには、それほどの異論はなく、この不弥国を境に食い違いは大きくなる。しかし、不弥国を確定すべく最大の手掛りは、「南、投馬(トウバ)国に至る。水行二十日。」という文が続いていることである。水行するには港が必要で、不弥国は海岸部に求めなければならない。且つ、奴国から百里と、あまり遠くない位置にある。
 距離が適当に記されていることを述べたが、全くでたらめというわけではなく、それなりに実際の距離に対応している。航海や徒歩という自らの体験なので、その程度の区別なら何とかなったであろう。
 そういうわけで、奴国から不弥国までの百里という距離にも、多少の信頼は置ける。要するに、近いということで、位置が大体定まっている伊都国から奴国までの距離も、同じ百里と記されているから、地図上に同程度の長さをとって当てはめてみれば良いのではないか。
 博多付近(奴国)にコンパスの芯を置き、糸島半島の根っこの真ん中(伊都国)あたりから、ぐるっと回して海岸部にある不弥国の位置を求めれば良いわけである。
 こうして、「不弥国」は博多湾の外側、福岡県新宮町から宗像市くらいまでの間と限定できる。そして、その付近の海岸地形を眺めて、波風を防ぎ、良い港になりそうな入りくんだ土地を求めると、福津市津屋崎周辺が魅力的である。
 現在の地形を当時のものと同一視するのは危険だが、近くの宮地嶽神社には巨大な石室を持つ古墳があるし、神功皇后がここから朝鮮へ出征したという伝説もあるようで、古代は港として栄えていたことがうかがえる。このあたりに「不弥国」を置いても別におかしくはない。
 付近は宗像氏の勢力圏だったようである。この氏族は朝鮮航路の支配者とされていて、宗像三女神を祭る宗像大社辺津宮も近い。松浦半島先端部にある加部島(唐津市呼子町)、すなわち、末盧国と一大国を結ぶ航路沿いにも、宗像三女神を祭る田島神社があり、邪馬壱国の使者は、この宗像の神に守られて玄界灘を渡り、そして帰ってきたことになる。
 水行二十日するには、港だけではなく、水人の存在も想定しなければないが、和名抄では築前国宗像郡に海部、糟屋郡に安曇(安曇氏も代表的な海部である)の郷名が見えて、位置的にうまく合う(注78)
 また、津屋崎の南方、福津市福間町や、古賀市、新宮町の河口部に潟港の置かれた可能性を考慮してもよさそうだ。
 特に、新宮町海岸部(右図)には、綿津見神社が見られて安曇氏(注79)の存在が推定できるし、現在でも小舟の係留されている湊川という川が流れ、湊や上と下の府(フ)という地名もあって気にかかる土地である。魏の使者が、志賀島へ伸びる砂州を通り過ごした、一番近い港から乗船したと出来れば、より好都合なのである(注80)
 隣接する福岡市東区三苫の海岸部にも綿津見神社があるし、志賀島には綿津見三神を祭る志賀海神社がある。海の中道の付け根のあたりから、志賀島に至るまでが安曇郷だったのではないか。志賀島は志何郷(和名抄には志阿とあるが、志何の間違いと思われる)であろう。
 音が似ているという理由で、内陸部の福岡県粕屋郡宇美町付近(右図)を当てる説もあるが、続く「水行二十日」という記述を、完全に無視しなければならないのは苦しい。次の投馬国や邪馬壱国へ行き着く術がなく、たとえどこかの土地を比定したとしても、そこには何の支えもない。宇美からは山越えの陸行しか考えられず、魏志倭人伝から逸脱した個人的妄想へと堕してしまうのである。
 末盧、伊都、奴の各国の位置は異論が少なく、不弥国もその根拠を示して津屋崎町から新宮町に置くことが出来た。どちらかといえば、新宮町の方が有望である。
 不弥国から南、つまり単一方向に、水行二十日という時間をかけねば次の投馬国には至らない。したがって、その国は九州にはあり得ない。九州西岸を南下したとするなら、元の末盧国方面に引き返すことになり、末盧国から不弥国までの行程が全く無駄になって、何のために移動したのかわけの解らないことになってしまうし、九州東岸の宮崎方面へ向かうには、九十度の方向転換を要するのである。

 ここまで述べてきたことを確認するため、少し異なる角度からの検討を加えてみる。「魏志倭人伝は、どういう性格を持つ記録か」ということである。
 これを、当時の倭の代表的な国々を紹介した記録とみる人もいるが、それは全くの誤りである。倭人伝は伊都国、邪馬壱国と、そこに至るまでに通過した国々を紹介した記録なのである。
 対馬、壱岐、北九州四ヶ国と問題の二ヶ国。数は九州が一番多いが、九州が政治の中心だったことを示しているわけではない。「何故そう言えるのか?」 答えは倭人伝が教えてくれる。伊都国のところに見られた「郡使往来し、常に駐する所」という文がそれである。
 末盧国に上陸した帯方郡使は、女王国(邪馬壱国)の使節受入口、そのための設備や組織などが整えられている伊都国に向かい、そこに滞在(駐)して、事務的な手続きをしたり、情報を仕入れたり、休養をとったりした。伊都国が、こういう政治的に重要な役割を与えられていたことは、倭人伝の中ほどに記されている。そして、郡使はここでの手続き済ませた後、奴国に向かう。いや、奴国ではなく、不弥国に向かうのである。
    「何故?」
    「船に乗るために。」
 奴国は通り道に位置したからその名を記されたにすぎない。そのため北九州最大にして光武帝から印綬を賜ったという有力国でありながら、この国には全く無関心で、官名と戸数以外の何も記録に留めていないのである。
 彼らの乗ってきた船は末盧国から帰途につき、不弥国から先は、安曇氏、もしくは宗像氏の倭船に乗り替えて旅を続けることになる。
 伊都国に大船の入れる港がなかったせいで、末盧、奴、不弥の三つの国がついでに紹介されることになったわけである。もし、伊都国に港があれば、彼らは末盧国の港へ入る必要はなく、伊都国までの五百里の陸行も避けられた。そして、邪馬壱国行きの船に乗るにも、不弥国までの二百里の行程は不要となり、伊都国から、そのまま出港できたはずなのである。簡単に整理すれば以下のようになる。
 「帯方郡使は、良港を持たない使節受入口の伊都国へ行くため、末盧国に入港し、伊都国まで五百里を歩いた。そこで何日か滞在(郡使往来し常に駐する所)した後、邪馬壱国へ向かう船に乗るために、不弥国まで二百里を歩き、途中の百里目に通過した奴国もまた記録に留めた。」
 彼らは伊都国と邪馬壱国へ行きたかっただけなのである。他の国は旅程の都合で通過、宿泊したにすぎない。必ず立ち寄ったという伊都国から邪馬壱国へ向かったが、乗船のために元の末盧国の港に戻らなかったのは、五百里歩くより不弥国までの二百里の方が近いし、そのうえ、邪馬壱国への距離が縮まるからである。奴国の港を利用すると、志賀の島へ伸びる砂州を避けて大回りしなければならない。かえってやっかいだったのであろう。
 古代、糸島半島は島で、伊都国との間に海が存在したと言われている。しかし、現在は埋まって地続きになっているから、海とはいっても、水深の浅い、長い砂浜続きの海岸線を想定できる。神功皇后の小舟が、仲哀天皇の船と別れ、波の静かな北九州市の洞海湾に入り、同じ遠賀川の港を目指したが、引き潮のため途中で動けなくなったという記述が仲哀紀にある。洞海湾は現在は埋まって遠賀川とつながっていない。糸島と同じような風景だったと思われる。伊都国では、砂浜に引き上げられる程度の小舟しか使用できなかったと考えられるのである。

3、投馬国から邪馬壱国へ

  南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
「南、投馬国に至る。水行二十日なり。官は弥弥と曰ひ、副は弥弥那利と曰ふ。五万余戸ばかり。」

「(不弥国から)南、投馬国に至る。水行二十日である。官はビビといい、副はビビダリという。およそ五万余戸。」

 不弥国から投馬国への移動は「水行」だから、海岸線を眺めながら航海してる。この国は奴国の二倍半の戸数を有し、ここまで紹介された国々のうちでは文句なしに最大の国である。吉備や出雲が候補地として名を挙げられているが、出雲に関しては以下のような否定的要素を挙げられる。
 邪馬壱国まで、南に水行十日、陸行一月という文が続いているから、それに従い、出雲を出港して丹後半島か若狭湾で上陸、そこから大和へ向かったと解せば、時間的には一致しても、水行と陸行の方向が九十度異なってしまう。
 出雲からまっすぐ進んで、突き当たりの福井県で上陸、同じ方向へ一月歩いたとしても、その先には、邪馬壱国に比定できるような土地は存在しない。大山岳地帯が行く手を阻むし、冬季に雪に覆われる北陸では、「倭地は温暖で、冬夏、生菜を食べる」という記述は生まれないのである。
 邪馬壱国は不弥国、投馬国からまっすぐ南にある(実際は東)。よってここは、瀬戸内を航行したと考えるほかはない。

  南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
  官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸

「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月なり。官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰ひ、次は弥馬獲支と曰ひ、次は奴佳鞮と曰ふ。七万余戸ばかり。」

「南、邪馬壱(ヤバヰ)国に至る。女王が都を置く所である。水行十日、陸行一月である。官にイシバがある。次はビバショウといい、次はビバクヮシといい、次をドカテイという。およそ七万余戸がある。」

 女王が都を置く邪馬壱国には、投馬国から十日の航海の後、一月も歩いて、ようやくの到着である。それでは、投馬国を出航後、何処で上陸したと解せば良いであろうか。
 邪馬壱国が大和なら、そのまま水行を続けて大阪湾に入り、淀川から木津川へと遡るか、あるいは、河内湖東岸や住之江から生駒、葛城越えの道を行けば、わずかの陸行で済む。しかし、何故かそれを許さない事情があったらしい。
 一月歩くということは、大和からかなり離れているし、且つ、瀬戸内、本州側の良港の所在地でなければならない。したがって、上陸点の候補地は絞られてくる。
 兵庫県の室津(兵庫県たつの市御津町室津)(注81)は、遣唐使の寄港地であり、江戸時代の西国大名も、室津までは船で通い、そこから大名行列を連ねて江戸まで歩いたという古代から近世まで栄えた港である。その例に習って、室津で上陸したと仮定してみよう。トンネルなど無い曲がりくねった山越えの細道を歩いたり、大川には橋もなく、渡し船を手配して渡ったりしたわけで、天候にも大きく左右されるから、ここから大和まで一月というのはうなずけるのである。
 そうすると、九州の不弥国を出てから投馬国までの水行二十日、投馬国から室津に至る水行十日を加えて、合計した水行三十日が、不弥国から室津までの航海全体の時間となる。

 地図を出し、九州から室津までの距離をおおざっぱに三等分すれば、その九州から二つ目の地点が水行二十日の投馬国(トウバ)というわけである。日数が十日単位で記されているのは、整理されているということで、航海一、二日分の誤差は許容されるだろう。
 そして、「このあたり」と地形の出っ張りに目を付けて、大判の地図のページをもどかしい思いで繰りながら探し当てると、いきなり鞆(とも)という字が目に飛び込んできた。
 投馬国は鞆だったのである。投馬国にふさわしいと思われる地名を選んで、理由を考えたのではなく、倭人伝に記された時間を頼りに推定した位置に、それにぴったりの地名が存在している。
 投馬国の戸数はおよそ五万戸というから、広い平地が存在したはずで、現在の福山市を中心に据えれば良いのではないだろうか。そこは、平安から鎌倉、室町期にかけて、草戸千軒と呼ばれる町が栄えており、発展のための条件がそろっていたのであろう。それ以前から大きな集落が存在したことを想定しても何ら問題はない。そして、鞆はその外港と扱うことになる。(注82)
 当時、中国地方最大の国だったと考えられる吉備(岡山市付近)について、何も触れていないのは、別段、難しい事情があったわけではなさそうだ。
 使者達は、観光や探検のために渡来したわけではない。帯方郡から与えられた使命を果たすという明確な目的があり、それに向かってまっしぐらで、寄り道など考えもしなかったのである。海外出張を命ぜられた地方公務員を想像しても、それほど的外れではないだろう。
 安芸などにも大きな国が存在したと思えるが、何処にも立ち寄っていないのは、九州と邪馬壱国を最短距離で結ぶ、この旅の航路から外れていたためである。途中に都合良く良港が存在したからこそ、大国の投馬国(鞆)に碇を降ろしたのであろううし、旅の真ん中で何日かの休養をとる必要があったのかもしれない。
 九州でも、伊都国が目的地で、他の国には船を降りたり乗ったり、通過、宿泊する以外に用はなかった。次は邪馬壱国を目指して、大集落の所在地であっても無用の土地には立ち寄らなかったのである。これは瀬戸内の島嶼伝いの航路を想定すれば、容易に説明が付く。
 ただ、鞆は後代の備後国に含まれているので、吉備全体の戸数が五万余戸という可能性は排除できない。
 先に不弥国から倭船に乗り換えたと書いたが、それは、末盧国で下船し、不弥国まで歩いたことや、ここに陸行一月と記されていることから導き出される。
 帯方郡の船で来たとしたら、使者達が上陸して後、邪馬壱国まで単に往復するだけでも二ヶ月かかるので、船はそれ以上の時間、いつ帰ってくるとも知れない使者達を待ち続けて停泊しなくてはならないわけである。それでは船員の負担が大きすぎる。倭人伝末尾には「壱与は倭大夫、率善中郎将掖邪狗等二十人を派遣して、(帯方郡使)張政等が還るのを送った。」という記述がある。天智天皇時代に日本を訪れた中国(唐)の使者も、筑紫に着いた記述はあるが、中国まで帰りを送ったとされているから、九州から倭船に乗り換えていたようである。(注83)
 投馬国(鞆)から水行十日、室津付近で上陸した後、陸行一月で最終目的地の邪馬壱国に着き、この長い旅は終わりを迎えた。
 邪馬壱国を畿内大和と解せば、古事記や日本書紀における伝承の濃厚さとも一致するし、考古学的資料にも合う。大和が「倭」と表記されるのも、当時の倭国の中心だったことを示す標識の一つなのである。
 人口が増せば増すほど、それだけ活動の痕跡も残りやすくなるはずで、北九州に、奴国(福岡市)の二倍半(=投馬国)、三倍半(=邪馬壱国)の人口集積地を二つも見出すのは困難と思われる。投馬国出雲説に関しても同じことが言える

4、北九州各国の放射式記述説批判

 次いで、邪馬台国北九州説が支持する、各国の位置の比定法について触れておく。これは伊都国を境に記述法が変化することに着目して、
「伊都国」から「奴国」まで百里
「伊都国」から「不弥国」まで百里
「伊都国」から「投馬国」まで水行二十日
「伊都国」から「邪馬壱国」まで水行十日、陸行一月
という具合に、すべての国を伊都国から放射状に記したものと考えるのである。(注84)
 その記述法の変化とは、伊都国までは、「方位、距離、国名」の順に記されているのに、奴国以降は、「方位、国名、距離」と記述の順序が異なっているということである。
 しかし、異なるのはそれにとどまらない。伊都国までは「里」と表されていた水行(狗邪韓国まで水行七千余里)も「何日」という形になっているし、「余」や「許」で表されていた戸数も、「余」と「可」に変わっている。簡潔、明瞭、的確に描写していた国々の解説も省略され、無愛想な紋切り型になる。要するに、表現の全てが変化しているのである。
   「まるで、人が変ったみたいに。」
 どうも、これが正解のようである。つまり、伊都国を境に報告者が交代している。邪馬壱国へ行く人間の数を絞ったか、それとも、別の時の記録を一つにまとめたかだが、後者に分がありそうだ。そして、陳寿はその表現に手を加えることなく倭人伝を編纂した。
 伊都国までの人物は、未知の土地に対する好奇心が旺盛で、鋭い目で国々を観察、分析し、的確にそれを表現できた。
 着くことを表すにも「到」と「至」を使い分け、基準になる土地に着いた時には「到」を用いているのである。やっと着いたという安堵の気持ちを、言葉に表わしたのであろう(注85)。「到其北岸狗邪韓国」で、七千余里に及ぶ韓の旅が終わり、その後、三千里の航海と五百里の陸行で、「到伊都国」。目的地に着き、この報告者の旅はすべて終わったのである。同じ人物が邪馬壱国まで旅したなら、必ず「到邪馬壱国」と表記したことであろう。
 伊都国までの使者が、諸国の詳らかな観察をなし得たのは、時間的、精神的に余裕のあったことを示している。対して、「奴国」以降の使者は、方位、国名、距離、官、戸数と機械的に記すのみ で、どういう国であるかには全く頓着せず、「それどころではない」といった大急ぎで余裕のない様子をみせている。先に投馬国で何日かの休養と書いたが、それも取り消した方が良いかもしれない。
 この報告者は、短距離の陸行はおよそ百里と推定して、里で表わすことができたが、長い距離になると、かいもく見当がつかなかった。そこで、やむなく、なんとか覚えている水行二十日、水行十日、陸行一月という時間を用いたのである。こちらの人物の方が人間的に誠実、あるいは、固いとか、合理的とか言えそうだ。隋書俀国伝に、「夷人(=倭人)は里数を知らず。ただ日を以って計る。その国境は東西五月行、南北三月行で、各、海に至る。」と記されているから、魏志の日数は、倭人に尋ねて得た内容をそのまま記したか、その表現法に倣ったかしたものであろう(注86 )
 最初の伊都国までの報告者は、「まあ大体こんなものだろう。」と適当に距離を記した。不安を感じながら行く初めての道は、遠く感じるもので、実際より遥かに長くなったのは理解出来るし、示された距離は七千、千、千、千、五百。一万里の航海と五百里の陸行である。七千は既に述べたように引き算で求めたものだが、他は十進法の基準 的な整った数字ばかりが並んでいる。帰国してから、机の前で、長旅を思い起こしながら計算したことがうかがえるのである。
 こういうわけで、「伊都国」から放射状に国を記すため記述法を変えたという解釈は成り立たない。伊都国以前と奴国以降の報告者が異なるため、記述法も変化したのである。それは、個性の違いによる文体の違いを表すにすぎない。
 末羅国に入港し、九州の拠点、伊都国まで歩かざるを得なかったこと、伊都国から港のある不弥国まで歩かざるを得なかったことは、伊都国に便利な港が存在しなかったことを示している。伊都国からの水行を想定することもまた許されないのである。
 記録、文書は情報を共有する為に残される。魏という国家があり、官僚組織がある。その一端を担う帯方郡使が、上部機関に提出した報告書等のうち、陳寿は、重要と見た部分を拾い上げて魏志に組み込んだのである。これは個人の自由日記、雑感といった類のものではない。一連の行程の途中から、何の断りもなく、「伊都国以降は諸国を放射状に記したので、記述順序のわずかな違いからそれを悟ってくれ。」と作者が望んだところで、読者に、そのような身勝手な心中まで汲み取れるはずはない。それまで通りに、文の並んでいる順に積み重ねられるだけである。
 放射式記述説は、常識的には有り得ない書き方を想定して論を展開しているわけで、記録を残した人々の知性をどう考えているのであろうか。文献の語る所に従い、歩いて行くべきなのに、先に出した結論の都合に合わせ、強引に解釈をねじ曲げる姿勢は強く非難されねばならない。その罰は「行き詰まり」や「矛盾」という形で帰ってくる。
 

5、その他の国々と狗奴国

  自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
  次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國
  次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國
  次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國
  次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡

「女王国より以北は、その戸数、道里の略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次都支国有り。次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。次に奴国有り。ここは女王の境界尽きる所なり。」

「女王国より以北は、その戸数や距離をおおよそ記載出来るが(注87)、その他の国は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ない。次にシバ国が有る。次にシハクシ国が有る。次にイヤ国が有る。次にトシ国が有る。次にミドゥ国が有る。次にカウコト国が有る。次にフウコ国が有る。次にシャドゥ国が有る。次にタイソ国が有る。次にソドゥ国が有る。次にコイフ国が有る。次にカドゥソドゥ国が有る。次にキ国が有る。次にヰゴ国が有る。次にキドゥ国が有る。次にヤバ国が有る。次にキュウシン国が有る。次にハリ国が有る。次にシユイ国が有る。次にヲドゥ国が有る。次にドゥ国が有る。ここは女王の境界の尽きる所である。」

 二十一ヶ国を記しているが、その距離も、方角も、当時の国名が今に伝わっているかどうかも解らないので解説は省略する。中国人が聞き取った発音だけを頼りに位置を確定するのは、至難の業というより不可能に近く、該当しそうな地名はいくらでも存在するのである。
 ただ、華奴蘇奴国は、「記」に須佐之男命の眷属として、不波能母遅久奴須奴(ふはのもぢ、くどぅすどぅ)の神の名が見えるし、四文字の特徴的な発音が一致するので、門司付近をいうのではないかと考えている。
 これらの国々は、「他にどんな国があるか」と言う質問に倭人が答えたものであろう。伊都国で旅を終えた最初の使者が残した部分と解せば矛盾は生じない。 ただし、陳寿は、ここまでの女王国以北の旅程に含まれない以上、全てが女王国以南に存在する国だと考えた。
 最後に奴国が重出している。これは「建武中元二年、倭奴国が貢ぎを奉り朝賀す。使人は大夫を自称す。倭国の極南界なり。」という後漢代の資料を得た陳寿が、倭国の極南界にも奴国があるはずだと、「次に奴国あり。ここが女王の境界の尽きる所。」を付け加えたのである。
 帯方郡使の報告する奴国には、官、副のみで、王が存在しなかった。だから、光武帝に印綬を授けられた王の居す、極南界の奴国とは別国だと判断したらしい。この極南界、「女王の境界の尽きる所」の奴国の記述から、「委奴(ヰド)国」ではなく「委の奴国」だということも明らかになる(注88)


  其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千余里
「その南に、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。郡より女王国に至るは、万二千余里なり。」

「その(女王国の)南に狗奴(コウド、コウドゥ)国があり、男子が王になっている。その官に狗古智卑狗(コウコチヒコウ)がある。女王には属していない。帯方郡から女王国に至るには、万二千余里である。」

 「狗奴国」も呉音の「クヌ」ではなく、漢音の「コウドゥ」と読まねばならない。この国は女王国(邪馬壱国)と激しく対立するのだが、位置は「女王国の南」である。
 魏の使者は大和に長期滞在した。移動中、見失ってしまった方向も、腰を据えれば自ずから見えてくる。大和から見た方向に関しては信用出来るのである。大和の南というなら紀伊半島で、呉音のクヌとの類似から、熊野が狗奴国の候補地に挙げられたりしているが、そうではなく、紀ノ川下流域に本拠を置く紀ノ国をいう。
 この国が川を遡った奈良県五条市あたりにまで勢力を伸ばしていたなら、南下しようとする大和の邪馬壱国と直接、間近で衝突することになる。また、後の歴史から、和歌山の豪族、紀氏は強力な水軍を持っていたと推定できるから、大阪湾や淡路島への進出も考えられる(注89)。そして、狗奴国が大阪湾を支配していたなら、邪馬壱国が九州から大和へ至る水路を妨害することにもなるわけである。
 帯方郡使が大阪湾に入れなかった理由はこれで、すぐ近くにあり、力も均衡し、直接利害が衝突するからこそ激しく争ったのである。邪馬壱国の方が押され気味で、魏に軍事援助を要請するに至ったことからも、狗奴国=紀ノ国の繁栄ぶりを知ることができる。
 和歌山県貴志川町には神戸(コウド)という地名が見られ、隣の海南市に高津(タカツ=コウヅ)という土地がある。紀ノ川中流域には九度山(クドヤマ)もある。また、ドはノに転化するが、倭名抄の名草郡に野応(ノオ)郷(現和歌山市)があり、貴志川流域には野上、神野市場など野の付く土地が非常に多く存在して、地名からも、紀ノ川、貴志川流域に狗奴国が発展していた様子をうかがえるのである。
 そして、大阪にも高津(注90)が存在する。魏志が「狗古智卑狗(コウコチヒコウ)」と記す狗奴国の官を、魏略逸文は拘右智卑狗(コウイウチヒコウ)としていて、どうもこれはコウチヒコ(河内彦)のようである。ここだけは魏略逸文に軍配を挙げざるを得ない。右のナの部分が筆記者の書きぐせや版の磨滅等で寸足らずになり、+と誤るのは十分有り得ることで、魏志が転写を重ねるうちに、右から古へ変化したと解せられる。このことは百衲本、原文影印の筆の運びからも感じ取れる(右図)。
 狗と拘は同音で、形もよく似ているから、どちらかの転写間違いとして、文字の違いを気にする必要はないであろう。(注91)
 以上から、和歌山県北部に狗奴国本体があり、その官、河内彦が大阪を支配して、奈良盆地に都を置く邪馬壱国と対立していたという図が描ける。兵庫県、室津付近で上陸した帯方郡使は、大阪湾を避けて内陸に迂回し、北方から大和へ入ったわけである。
 帯方郡から女王国までの距離は万二千余里とされている。
不弥国以降は水行で一月、陸行で一月という時間で表されているだけだから、距離には換算できないはずである。トータルの距離が万二千余里なら、帯方郡から不弥国までの一万七百を引くと、 不弥国から女王国までは、わずか千三百里ということになる。対馬から九州本土へもたどり着けない程度の距離に、二ヶ月もかかったことになり、不自然さは極まりない。万二千余里の根拠はどこにも記されていない。


二、倭人の風俗、文化に関する考察

1、陳寿が倭を越の東に置いたわけ

  男子無大小 皆黥面文身 自古以来 其使詣中國 皆自稱大夫
「男子は大小なく、みな黥面文身す。いにしえより以来、その使、中国に詣(いた)るや、皆、大夫を自称す。」

「男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。いにしえより以来、その使者が中国に来たときには、みな大夫を自称した。」

 三世紀の倭人の男子は全て入れ墨していた(注92)。邪馬壱国を含む全ての国においてである。
 大夫を自称するのは中国の官名を知っていたからで、中国人が理解しやすいよう自らの地位を翻訳したものであろう。倭の各国の官、副の名に、中国風のものは一切なかった。大倭、大率というのが出てくるが、これは中国人が、便宜上、書き記したもので、倭の官名ではない。倭は中国からの呼び名で、日本人の自称ではないし、率も指揮官を表す中国語、大は上級であることを示す形容詞である。
 後漢書倭伝に、「建武中元二年(57)、倭奴国奉貢朝賀、使人自称大夫」とあるから、奴国が光武帝に印綬を授けられた朝貢の折り、すでに大夫を名乗っていた。陳寿にはその知識があるから、「古より以来」という表現になったのであろう。大夫は周代の官名で、卿の下、士の上に位置する。

  夏后少康之子封於会稽 斷髪文身 以避蛟龍之害
  今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾
  諸国文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差

「夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身し、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人は沈没して魚蛤を捕るを好み、文身は、また、以って大魚、水禽を厭(おさ)ふ。後、やうやく以って飾となす。諸国の文身はそれぞれに異なり、或いは左、或いは右、あるいは大、あるいは小たりて、尊卑の差あり。」

「夏后の少康の子は、会稽に領地を与えられると、髪を切り、体に入れ墨して蛟龍の害を避けた。今、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み(注93)、入れ墨はまた大魚や水鳥を押さえる為であったが、後には次第に飾りとなった。諸国の入れ墨はそれぞれに異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分によっても違いがある。」

 太古の中国には、夏后(夏)という王朝が存在したが、その六代目の帝、少康は、会稽で崩じた始祖王、禹の祭祀が途絶えることを恐れ、庶子の無余を会稽に封じた。無余は文身断髪のその地の風俗に合わせ、草の荒れ地を切り開いて集落を作ったという(史記、越王勾踐世家)。(注94)
「少康之子…以避蛟龍之害」という文は、漢書地理志粤地からの引用である。魏志と魏略の双方にこの文が記されていることは、原資料に記されていたということになる。
 倭人も、その会稽の越人と同じく、水中での害を避けるまじないとして入れ墨していたのだが、この時代にはすでに単なる飾りとなっていた。入れ墨には地域差があり、身分による違いもある。

  計其道里 當在会稽東治之東
「その道里を計ると、まさに会稽東治の東にあるべし。」

「その(邪馬壱国までの)道の里程を計算すると、まさに(中国の)会稽から東治の東にあるはずだ。(東治は東冶の誤字と考える。)(注95)

 この記述は陳寿自身の見解である。彼は、倭が現在の浙江省から、さらに南の福建省(台湾に近い)の東に位置すると考えていた。東治となっているが、会稽の東の治所の東という解釈になり、東が重複する。会稽の東で十分間に合うので、東冶の転写間違いであろう。後漢書では東冶になっている。これは、古代の越の東に当たり、沖縄などの南西諸島の位置に重ねることができる。しかし、こんなに南方に在ると思い込んだのは何ゆえであろうか。
 邪馬壱国に関する報告の中には、上記の入れ墨の風俗をはじめ、越との関係を疑わせる記述がいくつか含まれていることは確かである。 しかし、「その道里を計ると」という言葉をみれば、資料に記された東南や東、南という方向と、大雑把な距離を全面的に信頼しているようでもある。やはり、陳寿の採用した資料自体が最初から間違っていたのである。
 距離が当てにならない理由は、既に述べたが、使者達が方向感覚を狂わせた理由として、以下のような推定が可能ではないだろうか。
 おそらく彼らは、氷が解け、水ぬるむ春に帯方郡を出発した。大河でさえ凍結するような冬の帯方郡からの船旅は、寒すぎるし(注96)、北西の季節風で海も荒れ、危険がはなはだしいからである。
 このことはまた倭人伝の記述からもうかがえる。草木が盛んに茂り、前を行く人が見えないという末盧国の描写は、植物の勢いが衰える秋から冬、そして、春のものではあり得ない。季節は七、八月と思われる。北九州から室津付近までが水行三十日(一ヶ月)なので、距離を単純に比較して、帯方郡から九州へ到るには三ヶ月程度をみておけば十分であろう。したがって、船出は四月から五月にかけてということになる。
 長い瀬戸内の旅は、七、八、九月の内の二ヶ月になるから、湿気と暑さと不安に耐えながら続けたわけで、魏や帯方郡という北方、寒冷地出身の使者達は、環境変化の大きな落差に苦しんでいたに違いない。彼らも、書物から中国南部の知識を得ていたはずで、そして、そのイメージと自らの体験が重なり、「かくも南へきたか」と感じていたのではないだろうか。冬にしても、彼らの知る大陸性の厳しい冬ではなく、照葉樹林に覆われた山はあくまで青く、雪もめったに降らない暖かい冬だったであろう。
 探検家でもなく、地理学者でもない、外交官か軍人である彼らが、磁石で方向を調べていたとは思えないし、だいいち、その当時、持ち運びに便利な携帯磁石などありはしない。そしてまた、北極星などをあてに、岩礁だらけの危険な夜の瀬戸内を航行したとも思えないのである。すぐそばに陸があるから、その日の都合により、大きな集落がなくとも、何処かの浜辺でキャンプするか、小さな漁村に入ればすむ。
《注/戦国時代の記録だが、次のようなものがある。「われわれの船は昼も夜も航行する。日本の船は夜は港に留まり、昼間航行する。」「われわれの船はしばしば雨を気にかけず航行する。日本の船は天気が晴朗でなければ航行しない。」(ルイス・フロイス著「ヨーロッパ文化と日本文化」岡田章雄訳注、岩波文庫)/★日本の古代船は屋根のないボート型だから、天気を選ぶ傾向は戦国時代より甚だしかったと思われる。》
 「末盧国」に上陸後は、少数の使者が倭人の案内に従った。陸でも海でも曲がりくねって、方向などたちまち見失うことは保証出来る。これは地図なしに未知の土地を歩けば簡単に知れることで、古事記では、野、山の神の子として、大戸惑子神、大戸惑女神(道を迷わせる神)が挙げられているくらいである。
 長い距離は基準とするものがなく自分の感覚だけが頼りだが、日数は、何かに印さえ付ければ、昼夜の区別がはっきりしているので(就寝する)、ほとんど間違えることはないだろう。したがって、何千、何万里と表された長い距離より、水行何日や陸行何日で表された時間の方が、かえって信頼がおける。
 使者達は帯方郡からは四、五ヶ月、九州から二ヶ月かけて、苦難の末ようやく邪馬壱国にたどり着いた。帯方郡から遥かに遠い、そして、暑い南の国だと思い込んだのである。
 日本が会稽、東冶の東にあるという認識は、そのまま固定観念となり、十五世紀に入っても、混一彊理図が、日本を90度回転させ、九州を頭に、南方に長く伸びた形を、朝鮮半島のはるか南海に置いている。逆に言えば、魏志倭人伝を読み、その記録された方位に従えば、都である大和を南に置く形にならざるを得ない。
 ここに到るまで、魏志倭人伝の各国と方向の関係に触れずにきたが、それがこの記録を残した人々の認識であるなら、全面的に従ってみれば良いのではないか。
 地図を出し、日本を90度回転させて南へ伸ばし、最初から行程をたどってみる。
 まず「末盧国(唐津)」から「伊都国(糸島)」への方向は。倭人伝の記載通り南東に当たる。
「伊都国(糸島)」から「奴国(福岡)」は。やはり南東で、合っている。
「奴国(福岡)」から「不弥国(新宮町)」の方向も倭人伝に記されたとおり東になる。
 そして、「投馬国」「邪馬壱国」も、倭人伝のいう南に位置することになるのである。
 倭人伝は気まぐれなでたらめを書いていたのではなく、勘違いしていただけである。しかし、恐ろしく規則正しい間違い方で、そうなった原因にも踏み込んでおかねばならない。先に述べたように、単に、「方向を見失い、温暖な南国と思いこんだ。」とするだけなら、この全体の正確な90度の狂いまで説明していないことになる。
 漢書地理志、燕地には、倭人が「歳時を以って来たり、献見したと云う。」と記録されている。「云う」と、伝聞の形をとっているので、漢の都ではなく、楽浪郡か中国東北部の燕の都へ赴いたのである。
 その頃から。この魏の使者達の旅の遥か以前、漢代から、倭は楽浪郡の東南海中、万里の果てにある国だという強烈な思い込みが生まれていたのではないだろうか。燕や楽浪郡から奴国を見れば、確かにそうなる。
 論衡(後漢、王充)には「周の時、天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢ぐ。」「成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢ぐ。」と記されている。鬯草、暢とは鬱金草(=ウコン)で、日本では奄美大島、沖縄に自生するという熱帯、亜熱帯性の植物である。倭人がこれを献じたという伝承は、日本を遥か南方の国と誤解させ得る(注97)
 それに引きずられ、伊都国で旅を終えた最初の使者は、狗邪韓国に到るまでの朝鮮半島南岸の航海で、「乍南乍東」と既に南北を取り違えているし、末盧国に上陸後も南北を間違えて自分達は東南に進んでいると思い込んだのである。実際はどちらも東北に向かっているのに。
 「太陽の出た方向が東で、南の国に向かっているのだから、今、進んでいる方向は東南に決まっているではないか。」
 かくして、方向は90度狂うことになる。二度目の使者はその報告に従う。「やっぱり、南へ来ると暑くてたまらんわい。」と間違いはそのまま受け継がれた。大急ぎで余裕もないし、方向を確かめる必要さえ感じないであろう。季節は移り変わって盛夏になり、進むに連れて、暑さ苦しさも増し、東にある邪馬壱国さえ南の国と疑わない(注98)
 この旅は、未知の国を求める旅ではなく、世界の東南の果て、越の東にあることが既によく知られている国に行く旅だったのである。
 漢代から、南西諸島沿いに会稽を訪れ、交易していた人々がいたことを想定すれば、より理解しやすい。漢書地理志、呉地に「会稽海外に東鯷人あり。別れて二十余国を為す。歳時を以って来たり献見すと云う。」と記録されている。(注99)
 邪馬壱国を九州に置こうとすれば、倭人伝の記述に対し、複雑な小細工を施さねばならない。しかし、大和なら、このようにたった一点の訂正、南の国という固定観念を持っていたため、南北(東南と東北)を取り違えて方向が九十度狂ったとするだけで片付くのである。
 円仁の「入唐求法巡礼行記、巻第一、正月八日」にも、王請という新羅人が、「弘仁十年(819)、ここ(楊州)から南に三ヶ月流されて出羽国へ着いた。北出羽から北の海を航海して長門へ流れ着いた。」と語る記述があり、日本は混一彊理図に見られたように南方に長い国、長門(山口県)は北出羽(実際は南出羽の山形県)より北方だと認識されていたことを明らかにできる。魏志倭人伝の記述を知らず、混一彊理図の形を知らずに、入唐求法巡礼行記のみで、現在の正確な地図に合わせて考えると、このくだりは意味不明になる。私の読んだ中公文庫では、翻訳者が困惑していた。(注100)

2、倭人の南方的風俗とその文化

  其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連 略無縫
  婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央 貫頭衣之

「その風俗は淫ならず。男子はみな露紒し、木緜を以って頭を招(くく)る。その衣は横幅にして、ただ結束して相連ね、ほぼ縫ふことなし。婦人は被髪屈紒す。衣を作ること単被のごとし。その中央を穿ち、頭を貫きて之を衣る。」(招は括の転写間違いではないか。職貢図には怗のような字が書かれている)

「その風俗はみだらではない。男子は皆、(何もかぶらず)結った髪を露出しており、木綿で頭を縛り付けている。その着物は横幅が有り、ただ結び付けてつなげているだけで、ほとんど縫っていない。婦人はおでこに髪を垂らし、折り曲げて結っている。一重の掛け布団のような衣をつくり、その中央に穴をあけ、そこに頭を入れて着ている。」

 男子の髪型を知りたいものだが、木綿で頭を縛るというのは、ハチマキの表現と考えられ、これは後の風俗から十分想像できるし、それらしきものをつけた武人埴輪像もある。ヘアーバンドと表現した方が良いかもしれない。当時の日本に現在の木綿(コットン)は伝来しておらず、木綿は木を原料にしている様子なので、楮や梶の木の繊維で織られた布かもしれない。
 詩経の草木鳥獣蟲魚疏に「今、江南の人はその皮を績(つむ)ぎ、以て布と為す。また、打ちて以て紙と為す。これを穀皮紙という。(木の)長さは数丈。潔白で光輝き、その(樹皮の)裏は甚だ好し。その葉、初めて生ずるは以て茹となすべし(食べられる)。」という楮に関する記述が見られる。桑科の植物なので、穀桑(コウソウ)転じて、コウゾになったのではないかと思えるが、起源は中国江南に求められるようである(注101)
 その江南では、倭の五王が遣使した「宋(420~479)」に続き、「斉(479~502)」、「梁(502~557)」と国が興った。南斉書には、倭王武の称号を格上げした記述があるが(479)、宋書にある倭王武の遣使(478)から一年も経っておらず、斉への新たな遣使は考え難い。王朝交代に伴い、向こうが勝手に格上げしたのだろうという説もあるが、倭の使者がまだ中国に残っていて、きびすを返し、新王朝の成立直後に参朝したなら、その記念に称号が格上げされるということも有り得るだろう。
 梁書倭伝にはかなりの文字数がさかれているが、唐代の編纂で、その内容は、前史や隋書からの引用と、唐代に得られた伝聞資料(やたらと詳しいのにでたらめ。遣唐使の誰かの法螺話と思える。)の組み合わせと思われ、梁代のデータが含まれているようにはみえない。
 ただ、梁代の資料として、朝貢してきた倭人の姿を写した職貢図(530頃の作)という絵がある(現本ではなく後世の模写)。はだしで、脚絆と腕貫を付け、上下とも広幅の布地をゆったり結んで、首飾りを付けていたらしい。そして、頭は帽子のように布で覆われている。中国風にアレンジした冠かもしれない。脚絆と腕貫は後の日本の風俗につながるものだが、文献上の手掛りはない。これは、自らの目で倭人を見るか、倭人を見た人から情報を得なければ描けない形なのである。しかし、露紒という魏志の描写には該当しない。魏志から260年ほど経っているし、王朝も交代しているしで、風俗に変化があった可能性もある。中国に対する礼儀も考えるだろう。絵の横に魏志倭人伝の要約が書かれており、かなり剝落しているが、「横幅無縫」とか服装に関する記述も見られて、倭人伝の内容は把握しているのである(注102)。文献頼みの想像図なら、こういう姿にはならないはずだ。530年前後の絵だから、継体天皇の時代である。継体天皇の遣使ならありそうに思える。しかし、埴輪が盛んに作られている時期なのに、こういう形の人物埴輪は存在しない。後段に風俗が儋耳、珠崖という中国南方の民族に似ていると書かれているから、そういう民族の服装を参考にした可能性もある。というわけで、今のところ、この絵が真実を写しているかどうかの判定は留保した方がよさそうだ。
 成人した女性の髪型、被髪は、「髪をかぶる」という意味なので、前髪をおでこに垂らして切りそろえていたと解釈できる。
 辞書では「髷を結わず、髪を振り乱すこと」「ざんばら髪」などと和訳されているのだが、髷がばらけて、前髪の額を隠した状態をいうようである(注103)。中国の礼にかなう姿ではないため非難されるが、被髪文身や断髪文身と表される越人が、髪を手入れせず、不潔だったわけではないだろう。この場合も、女性は何らかの理由があって被髪しており、前髪にかぎれば、真っ直ぐに切りそろえた「おかっぱ」の形になる。「折り曲げて結う」は、島田などの髪型を想像すればいいようで、後ろに長く伸ばした髪を折り曲げ、頭頂でまとめていたと考えられる。
 女性は布に穴を開け頭を入れて着ているというから、肩幅くらいの幅の織物でなければ無理と思える。男衣の「横幅があり、布を結んで着ている」という表現は、中国標準より横サイズが広かったということかもしれない。

  種禾稻紵麻蠶桑 緝績出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲
「禾稲、紵麻を種まき、蠶桑す。緝績して、細紵、縑緜をい出す。その地に、牛、馬、虎、豹、羊、鵲なし。」

「稲やカラムシを栽培し、養蚕する。紡いで目の細かいカラムシの布やカトリ絹を生産している。その土地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギがいない。」

 粟や稗に注目せず、稲類しか記していないということは、米が主食だったわけで、これは南方系の植物である。土地に種を播いておけば実るというものではなく、水田という土木工事や苗代、田植え、水の管理といった専門知識を必要とするので、籾のみが日本に渡来したというわけにはいかないだろう(注104)
 紵麻はカラムシで、本草綱目に「今、閩、蜀、江、浙、これ多く有り。その皮を剥ぎ、以て布を績(う)むべし。」と記されているから、巴蜀や江南に顕著な植物である。これも、どうやら長江流域に起源があるらしい。
 卑弥呼が魏へ献上した物品の中に、班(斑)布や倭錦という文字が見え、糸を染めて模様を織り込むことができたと解る。絳青縑というのも含まれていて、赤、青に染めていたのは間違いないのである。《*絳は赤の意味。縑は目の細かいカトリ絹》
 大陸(朝鮮半島)との動物相の違いが意識され、代表的な動物のうち、日本に存在しないものが挙げられている。中国人が五畜(牛、羊、鶏、豚、犬)と扱ううちの豚や鶏に気付かないはずはないから、両方とも飼われていた可能性が強い。牛、羊はいないことが明記されている。イザベラ・バードの「朝鮮紀行」によると、明治期以前の朝鮮半島には虎や豹がかなり生息していたようである。加藤清正の虎退治の伝承もある。帯方郡も悩まされていたかもしれない。それがいないという驚きがあったのだろう。鵲は中国では吉兆とされる、にぎやかでよく目立つ鳥だが、それも見かけない(注105)

  兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同
「兵は、矛、盾、木弓を用ふ。木弓は下を短かく、上を長くす。竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃なり。有無する所は儋耳珠崖と同じくす。」

「兵器には矛、盾、木の弓を用いる。木の弓は下が短く上が長い。竹の矢は鉄や骨の鏃を付ける。持っている物、いない物は儋耳、朱崖(の人々)と同じである。」

 矛を真っ先に書いていて、これが主武器だったのではないか。まっすぐなホコを指すので、日本各地で出土する銅矛の形を思い浮かべれば良いようである(注106)
 弓は、握りの部分(弓束)が中央より下に置かれているのが特徴で、実際、銅鐸にそういう形の弓を持つ人物が描かれている。後世の絵の中にも見られるし、現在でも、各地の神社で、神事の際に使用されているのが、しばしば目に映る。弓道の弓もそうなので、弥生時代以来、連綿と受け継がれてきた日本の伝統的な形と言えそうである。
 青森県八戸市の韮窪遺跡や青森市の山野峠遺跡から、弓矢の模様の付いた縄文時代の壷が出土しているが、倭人の弓とは異なって、矢は弓のほぼ中央につがえられているし、上下に何か装飾物らしきものも付けられている。やはり、縄文と弥生では、民族が異なっているらしい。朝鮮半島北部の、夫余族(高句麗)の古墳に描かれた弓は、握りが中央にあり、北インドやモンゴル、中国の小型の弓にそっくりの形をしているから、「短下長上」と表される倭人の弓は、北方からもたらされたものではなさそうである。
 倭人と「有無するところは同じ」という儋耳、朱崖は、中国最南部の海南島のことで、「漢書地理志、粤(えつ)地」に、以下の記述が見られる。

  自合浦徐聞南入海得大州 東西南北方千里
  武帝元封元年 略以為儋耳珠崖 民皆服布如単被 穿中央為貫頭
  男子耕農 種禾稲紵麻 女子桑蚕織績 亡馬与虎 民有五畜 山多麖麈
  兵則矛盾刀木弓弩竹矢或骨為鏃
「合浦、徐聞より南、海に入り大州を得る。東西南北方千里。武帝の元封元年(B.C109)領有して儋耳、珠崖と為した。住民は皆一重の掛け布団の様な布を着て、中央に穴を開け頭を入れている。男子は農耕し、禾稲や紵麻を植える。女子は養蚕し、紡いで織っている。馬はいないが、虎がいる。住民には五種の家畜がある。山には大鹿が多い。兵器には矛、盾、刀、木の弓、弩、竹の矢に骨を鏃としたものがある。」

 ここでは男子も貫頭衣を着ているようだが、主要作物、衣料材料なども共通で倭人にイメージが重なる。刀や弩を持ち、武器の種類は多くとも、同じように矛、盾の順に記しているから、これが特徴的だったのであろう。
 東西、遥か離れた土地の住民が、良く似た生活をしていた。偶然にしては一致する部分が多すぎるので、儋耳、珠崖の人々は、倭人と同じ根から東西に分かれたと解することができるかもしれない(注107)
 最南端の奴国に至るまで、女王国以南に二十数ヶ国が存在すると考えていた陳寿や范曄が、倭地を越の東に置いたり(魏志)、朱崖、儋耳と相近いため、法俗に一致するものが多い(後漢書)と記すのも無理はないのである。また、混一彊理図が、日本の最南端の緯度を海南島に合わせているのもこのことを根拠とするようだ。ちなみに、北端の対馬は会稽の東に置かれている。

  倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室
  父母兄弟卧息異處 以朱丹塗其身體 如中國用粉也

「倭地は温暖にして、冬夏、生菜を食らふ。みな徒跣す。屋室あり。父母、兄弟は異所に臥息す。朱丹を以ってその身体に塗るは中国が紛を用いる如くなり。」

「倭地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。屋根、部屋がある。父母と兄弟は別の所で寝る。赤い顔料をその体に塗るが、それは中国で粉おしろいを使うようなものである。」

 気候は温暖で、冬にも生野菜がある。正月七日に七草粥を食べる行事があるので、セリはここに含まれるであろう。ナズナ、ハコベ等は生で食べられるものかどうか。しかし、この記述から、最低限でも一冬を越す長期の滞在が読みとれる。
 「徒跣=はだし」というのは南方系の風俗である。雪や氷に閉ざされる寒冷地出身の民族なら、足を保温するための何らかの工夫を持ち込むかと思える。
 先に、帽子を被っていないことが記されていたが、これも南方系の要素である。しかし、狩猟採集生活をしていた旧石器時代からの伝統と解することも可能なので、決定的な南方系習俗とするわけにもいかないようである。
 「屋室有り」は単に家が有ることを示すものではないだろう。国々の戸数を記しており、住居が有るのは当たり前で、したがって、「屋根と部屋が有る。」という分けた意味に解せられるが、部屋に屋根が付いているのもこれまた当たり前なので、特筆するのは、よほど屋根の形が印象に残ったのだと思える。あるいは、屋根の中に部屋があるという意味なのか。
 高床で大きな屋根が付いている古墳時代の埴輪の家や、土器などに描かれた屋根型の建物のイメージをそのまま当てはめていいのではないだろうか。インドネシアのトラジャの住居なども良く似た形の屋根を持っていて、これは南方系の住居と言える。
 倭人伝は「屋・室あり」。韓伝は「草屋・土室を作る(注108)」。部屋が一つの場合、「室あり」とは表現しないだろう。この時代、屋根だけで、周りが囲われていない家が有り得るのなら、それとの比較で室ありと言えるかもしれないけれど、囲われていれば室になるのは当然すぎることである。
 縄文時代からの竪穴式住居も、地面に穴を掘り、柱を立てて、草で覆う形で、ほとんど屋根だけで出来ているような感がある。こちらは寒さを防ぐのに適した形で北方系といえようか。しかし、部屋割りの痕跡は見られず、倭人伝の「有屋室」には該当しない。
 上写真の池上曽根遺跡(大阪府和泉市)の復元神殿は、土器の絵からの想像復元で、確かなのは柱穴の位置と柱の太さだけである。
 「父母兄弟臥息異処」は、単に、家族がバラバラに別の部屋で寝たり休んだりというようなものではない。家族全員に個室を与えるほど部屋数は多くないはずである。男子だけが異処にいて、女子は除かれているから、父、母、兄、弟とバラバラに読むのではなく、父母、兄弟と読む。姉妹を記していないことは重要である。
 成長した娘は、同じ建物内の、両親とは別の部屋で寝ていたようで、古事記神代には、親の知らない間に、夜毎、鍵穴を抜け通って部屋に入って来る男と娘が結ばれたという旨の記述が見られる(三輪、大物主神の「よばい」の伝説)。これは首長階級の家で、特殊な事例かもしれないが、娘の部屋には、戸と鍵まで付いていた。
 以上から、「臥息異処」は、父母、兄弟が別の部屋で寝ているというのではなく、兄弟(男子)は親元を離れ、別の場所で寝ていたという意味に解釈できるのである。
 これが若者組の表現であることは明らかで、民族学辞典等によれば、若者組とは、普通、十五歳前後で加入して若者頭の指揮下に入り、妻帯と同時に退会する組織とされている。加入後は、昼間は家の仕事に従事するが、夕食後は親元を離れ、若衆宿などと呼ばれる集会所で、同年代の若者達と寝起きを共にした。つい最近まで、特に西日本に広くみられた習俗で、祭礼や警防、婚姻(妻を求める男子が、夜間に女子の元を訪れる「よばい」の風俗等)などに深く係っていたという(注109)
 これもまた南方系の要素で、隋書地理志、楊州に、「江南の俗は火耕水耨。魚と稲を食べ、漁猟を以って業と為す。…その俗、鬼神を信じ淫祀を好む。父子あるいは異居。ここは大抵然るなり。」という、そのまますべてを日本に当てはめてもいいような記述が見られる(注110)
 「中国人が粉(粉は米で作った白い粉)を塗るように、朱丹を塗る。」と記しているが、顔の一部を朱色に染めた埴輪が多数見られ、人により、それぞれ異なった形になっているので、顔全体を真っ赤にしていたわけではなく、好み、あるいは身分に合わせた模様を描いていたのかもしれない。入れ墨に加えて、随分派手な顔立ちになりそうだ。露出していない部分には塗る必要がないから、顔と胸や手足に塗っていたと想像できる。
 そして、応神記に、「櫟井(櫟井は天理市櫟本町付近)の丸邇坂の中ほどの邇(=丹)で眉を描き、濃く描き垂れた女人」という内容を含む歌が記されていて、奈良の山辺の赤土を加工して赤い顔料を得たことも明らかにできるのである。
 埴輪の化粧には、男女にかかわらず、この歌通り、眉毛を赤く塗り、目の下から頬へと赤い帯を描き垂れた形のものがある。これが歌舞伎の隈取りの起源であろうか。(右図、埴輪人形に埴輪的彩色を施した自作)(注111)
 風俗に関するここまでの記述をまとめると、邪馬壱国の男子は、顔や体に入れ墨し、髪を結って、頭をヘアーバンドで縛るのみで何も被らず、はだしで歩き、横幅の布を結んだだけの涼しげな衣料を着け、矛、盾、木弓、竹の矢で戦い、赤土から作った顔料を塗って化粧し、部屋がいくつかある屋根に特徴のある家に住み、独身の若い男子は専用の建物で寝起きを共にして部族の様々な伝統を受け継ぐのである。邪馬壱国の住民は、どこから見ても、南方系民族の特徴を持っている

  食飲用籩豆 手食
「食、飲には籩豆を用い、手で食らふ。」

「食飲には、籩 (ヘン)や豆を用い、手づかみで食べる。」

 食器として、竹を編んだ籩という高坏(たかつき)、木をくり貫いた豆という高坏を使ったようである。博物館には出土した土器の高坏がたくさん展示してある。竹製や木製のものは存在したとしても、腐って残らないから、実際はどうだったのであろうか(注112)。豆は「マメ」ではなく、この食器の象形から生まれた文字だということが右図からよくわかる。
 三百年以上後の隋書俀国伝には、「その習俗では、皿(盤)や敷き台(俎)は無く、かしわの葉を敷き、手づかみで食べる。」という記述がみられる。(注113)
 手づかみとするのは共通だが、3世紀の邪馬壱国の食器と、7世紀初めの飛鳥時代の食器が全く異なっていて、これも倭人と大和朝廷の民族の違いを感じさせる記述である。現代人の目から見れば、籩豆を使う邪馬壱国時代の方が文化的なように思える。

  其死有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉
  喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬 挙家詣水中澡浴 以如練沐

「その死には、棺有りて槨なし。土で封じ冢を作る。始め、死して停喪すること十余日、当時は肉を食らわず。喪主は哭泣し、他人は歌舞飲酒に就く。すでに葬るや、家を挙げて水中に詣り、澡浴す。以って、練沐の如し。」

「人が死ぬと、棺に収めるが、(その外側の入れ物である)槨はない。土で封じて盛った墓を作る。始め、死んでから停喪(かりもがり)する期間は十余日。その当時は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他人は歌い踊って酒を飲む。埋葬が終わると一家そろって水の中に入り、洗ったり浴びたりする。それは(一周忌に白い絹の喪服を着て沐浴する)中国の練沐のようなものである。」

 「有棺無槨」とされているが、日本では死体を収める棺とその外側の入れ物、槨の区別があいまいである。二重になっていない場合、棺、槨はどう区別しているのだろうか。夫余伝には「有槨無棺」と、倭人伝とは逆のことが書いてあり、中国人ははっきり区別していたのである。定義を明確にして、正確なイメージを描かねばならない。
 もし、その大きさが判定の基準なら、藤ノ木古墳の石棺(橿原考古学研究所附属博物館はこう記す)など、棺ではなく槨ということになりそうで、これも倭人と大和朝廷の民族の違いを示す標識かもしれないのである。棺とは、幅と高さがきっちり一人分のものを指すように思える。
 材料には、注意が払われていない。「棺」という文字が木偏だということを思うと、中国人にはありきたりの木棺で、石棺や甕棺ではないであろう。そして、その上に土を盛り上げて墓と為した。さほど大きなものではなさそうだが、貴族階級の墓のようである。道具類の乏しい当時は、木棺を作るにもかなりの労力を要したはずで、それが誰にでも与えられるとは考えられないのである。(注114)
 停喪とは、死者を葬らずに棺のまま置いておくこと(かりもがり)。晋書、賀循伝に「俗は厚葬多し。及び、忌みに拘りて回避し、歳月、停喪不葬あるは、循みな禁ず」という文があり、呉の武康県の令となっていた賀循の事績として、長期間の停喪と不葬を禁じたことをあげている。魏志扶余伝の裴松之注には「魏略曰く、その風俗では、停喪は五ヶ月。長いことを栄誉だとする。」という記述が見られる。
 ここでは、その期間は死後十余日。肉食を避け、泣いて喪に服するわけである。現在の通夜の期間が長いと考えれば良いのであろう。その間、他人は、酒盛りし、歌い踊って、現在の仏教系葬式とは異なるにぎやかな様子だが、一族で会食したりする風俗は今に受け継がれている。
 埋葬が終わると、家族一同で「みそぎ」をした。これは死の穢れをはらい身を清める儀式である。単にそれだけではなく、喪中の人は次の記述に見られるように、シラミが湧き、垢まみれになっていたので、現実の汚れや不快感を落とす必要もあったに違いない。死者にお付き合いしていた行為を停止し、まさに「身削ぎ」して日常へと蘇るのである。倭人は蛇の一族なので、脱皮を意識したであろうか。(注115)
 寒冷地や水の乏しい乾燥地で生まれる習俗ではないから、これも大元は南方系要素と扱ってよさそうである。葬式から帰った後、清めの塩を踏んだり、少し前までその感覚が残っていた。

  其行来渡海詣中國 恒使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人
  如喪人 名之為持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之
  謂其持衰不勤

「その行来して海を渡り、中国に詣るに、常に一人をして、頭を梳らず、蟣蝨を去らず、衣服を垢汚し、肉を食らわず、婦人に近づかざらしむこと、喪人の如し。名づけて、これを持衰と為す。もし行者に吉善あれば、共に、その生口、財物を雇す。もし疾病有るか、暴害に遭えば、さらに之を殺さんと欲す。その持衰が勤めずといふ。」

「海を渡って行き来し中国を訪れる時は、常に一人に、頭をくしけずらせず、シラミを取らせず、衣服をアカで汚したままにさせ、肉を食べさせず、婦人に近づかせないで喪中の人のようにさせる。これをジサイという。もし無事に行けたなら、皆でジサイに生口や財物を対価として与えるが、もし病気になったり、危険な目にあったりすると、これを殺そうとする。そのジサイに至らぬところがあったというわけである。」

 こういう気質もまた、我々、現代人の心の底に潜んでいるようである。「無病息災、家内安全」と異変の無いことを祈り、何か事があれば、行いを正しくして息をひそめて待つ、というような心理が。縁起を担いで下着を換えないなどというのもその一種であろう。しかし、考えて見れば、倭人とは日本人の祖先だから、受け継いでいて当然と気が付く。
 持衰(じさい)(注116)には何か漢語的な雰囲気がある。これは持斎かもしれない。斎とは「物忌み」、「謹み」を意味していて、この行為にぴったり当てはまるのである。乾海(ゲンカイ→瀚海)という言葉を使った例があるので、漢語の使用を考えてもいいのではないだろうか。

  出真珠青玉 其山有丹 其木有枏杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香 其竹篠簳桃支
  有薑橘椒襄荷 不知以為滋味 有獮猴黒雉

「真珠、青玉をい出す。その山に丹あり。その木は枏、杼、豫、樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香あり。その竹は篠、簳、桃支なり。薑、橘、椒、襄荷あるも、以って滋味を為すを知らず。獮猴、黒雉あり。」

「真珠や青玉を産出する。その山には丹がある。その木はタブノキ(枏=楠)、コナラ(杼)、クロモジ(橡)、クスノキ(樟)、クヌギ(楺櫪)、カシ(投橿)、ヤマグワ(烏號)、フウ(楓香)がある。その竹はササ(篠)、ヤダケ(簳)、?(桃支)である。ショウガや橘、山椒、ミョウガなどがあるが、それを使って、うまみを出すことを知らない。アカゲザルや黒キジがいる。」

 真珠はパール、青玉は翡翠で共に水の産物であろう。現在、糸魚川付近で観光化されているように、河原や浜辺で翡翠を拾っていたと考えられる(注117)。後漢書は真珠を白珠と改めた。
 それ以下は山の産物で、丹は化粧に使った赤い顔料のことである。邪馬壱国東方の山塊は赤土でできており、これを何らかの方法で加工して作っていた。そこで後漢書は、「山に丹土有り」と改訂している。
 楓香樹は、当時の日本には存在しなかったマンサク科の木だが、葉の形や紅葉する性質が、カエデ類と似ているため区別がつかなかったらしい。葉が三裂し、日本の在来種ではハナノキやウリハダカエデに似ている。
 「楺」は木を曲げるという意味なので、単独で樹木を表す文字ではないだろう。「投」も木偏ではないので橿に付属する文字と思われる。楺櫪はクヌギである。投橿はカシ類であることは間違いないが、樹種を特定するにはいたらなかった。
 楠、橡、樟、楓香は中国南方に多い樹種で、倭の樹相はそれに似ていると指摘しているわけである(注118)。高山へ行けば針葉樹林帯があるし、海岸部にも松林があると思えるが、帯方郡使が活動したのは、主に常緑広葉樹や落葉広葉樹林帯であろうから、特記するほどの印象には残らなかったと思われる。
 桃支は家具などに使われるトウのこと。ヤシ科のつる植物で、日本には存在しない。類似した竹と探しても?である。竹細工などを見て、そう感じたのかもしれない。竹類もまた南方系植物である。
 自分達に馴染みのあるショウガや山椒などの香辛料を目にしても、手の込んだうまい料理にはお目にかからない。その不満が、「以て、滋味を為すを知らず。」という記述を生んだようである。生ものが多く(冬夏食生菜)、北方系中国人の口に合わなかったとみえる。薑(生姜)、襄荷(茗荷)は熱帯アジア原産。橘は江南にしかないとされているので、ここでも南方的だと言っていることになる。
 山中では猿や雉も見つけた。日本にはニホンザルしかいないが、中国には、様々な種類の猿がいて、ニホンザル近縁のアカゲザルがいる。したがって、中国人が獮猴と表現するサルはアカゲザルのことだと、逆に、この記述から、明らかになる。中国南部からインドにかけて分布する猿である。日本雉は大陸のコウライ雉に比べて黒っぽく見えるので黒雉という表現になったらしい。論衡、巻十九に「漢の時、越常(ベトナム)が白雉一、黒雉二を献じた」と記されているから、これも南方系の鳥だと考えたわけである。
 倭は南の国だということで、中国南方の風俗や動植物に詳しい人物が、郡使一行の中に加えられていた可能性がありそうだ。クスノキ類など北方に少ない植物を同定することは難しいと思える。しかし、楓香を間違えていることを考えれば専門的とまではいかないだろう。
 ともあれ、このくだりは、日本の動植物が、中国南方のそれに類似していることを伝えたいわけである。

  其俗 擧事行來有所云為 輒灼骨而卜以占吉凶
  先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆

「その俗、事を挙げ、行来するに云為するところあれば、すなはち、骨を灼きて卜し、以って吉凶を占う。先に卜するところを告げる。その辞は令亀法の如し。火坼を視て、兆しを占う。」

「その風俗では、何かをする時や、何処かへ行き来する時、気がかりがあると、すぐさま骨を焼いて卜し吉凶を占う。先に卜する目的を告げるが、その言葉は中国の占いである令亀法に似ている。火によって出来た裂け目を見て、兆しを占うのである。」

 邪馬壱国では、亀の甲羅ではなく、骨で占っていた。焼いた火箸か何かを鹿の肩胛骨に点々と突き刺し、ひび割れの具合を見たらしい。イノシシの骨も用いられているが、代用品らしく、鹿骨が四分の三を占めるという(注119)。鹿は最も神聖な動物の一つだったと考えられ、鹿を神使とする神社が数多く見られるのも無関係ではなさそうである。
  火で焼く前に何を占うかを言葉に出し、令亀法と同じやり方とされているから、令亀法そっくりの形が、別個に生まれ、独自に発展したと解すより、中国から伝わったとする方が簡単で、且つ、無理がない。
 神も人の心中までは読めないと考えていたらしく、占いたい内容は、口に出してあらかじめ神の耳に入れておかねばならなかったのである。神はそれに基づいて兆しを示すことになる。祝詞を唱えるのも同じ発想から生まれるものであろう。

  其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒
「その会同の坐起に、父子男女の別なし。人の性は酒を嗜む。」

「その会合での立ち居振る舞いに、父子や男女の区別はない(注120)。人は酒を好む性質がある。」

 男女平等だったのか、そうでないにしても、中国などに比べると、女性の地位は比較的高かったように感じられる。なにしろ女王、卑弥呼の国である。この後、小さな文字で以下のような注が入っている。これは南朝、宋の裴松之が加えたものである。

  魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀
「魏略いわく、その習俗では正月(陰暦)や四節を知らない。ただ春に耕し、秋に収穫したことを数えて年紀としている。」(「魏略」…魏の歴史を記した書、逸文がのこるのみで現存しない)

 この記述通り、日本には「春秋いくつ」という年齢の表現法がある。中国でも元号の使用は漢の武帝からで、漢代のそれ以前は十月を歳首に何帝の何年と表記していた。
 しかし、はるか古代には、十二ヶ月(歳)ではなく、倭人と同じように、春秋を数えて年紀としていたらしく、史記周本紀には「穆王が即位した。春秋は已に五十(注121)」という記述が見られるし、孔子も「春秋」という歴史書を編んでいる。黄帝内経素問(漢代の成立だが、それ以前から積み重ねられてきたものではないか。)にも「上古の人は春秋みな百歳を渡りて動作衰えず」と書かれている。
 「年」という文字自体が「禾」と「千」の合字で、五穀のよく熟することから生まれている。春秋左氏伝、桓公三年に「冬…有年(年有り)」、宣公十六年に「冬、大有年(大いに年有り) 」というのは、五穀が豊作だった、大豊作だったという意味である。これは「春耕秋収」の結果で、つまり、年と春耕秋収(春秋)は等しい。
 爾雅釈天には「夏は歳と曰い、商(殷)は祀と曰い、周は年と曰う」とある。「年」には「禾一熟を取る」という注が入っており、「周は稼穡(物を植えて取り入れること、農作)を以って年を興し、穀を重しとなす」と説明されている。年は稔(ネン、みのり)でもある。 周の始祖は后稷という農業を司る長官とされているから筋が通っている。(注122)
 要するに、春秋と言っていたものを、年と言うようになっただけのことで、穀物の実りを数えるという基準は同じなのである。
 倭では中国、周初期と同じ年齢の数え方をしていた。これは農業(日本では稲作)に基づく数え方なので、弥生人がもたらしたものである。

  見大人所敬 但搏手 以當跪拝 其人壽考或百年或八九十年
「大人を見て、敬する所は、ただ手を搏き、以って跪拝に当つ。その人は寿考にして、或いは百年、或いは八、九十年なり。」

「大人を見て敬意を表すときは、ただ手をたたくのみで、跪いて拝む代わりとしている。人々は長寿で或いは百歳、或いは八、九十歳の者もいる。」

 先の酒宴を伴う何らかの会同に参加した情景の続きである。貴人の登場を人々は拍手で迎えるのみで、中国の様に、跪いて伏し拝んだりはしなかった。これは、神社で柏手を打つ形となって今に残っている(=神に敬意を表している)(注123)
 テレビ放送で、台湾や香港の寺社参りの光景をしばしば見かけるが、神像などに向かって、土間なのに、跪いて平伏する人がたくさんいるから、民族の伝統というものは相当根深いようである。我々の何気ないしぐさの中に、そういった古代からの慣習が息づいているのかもしれない。
 紹介されて知り合った老人に年を尋ねると、百やら、八十、九十などと言うので、そのまま記したのだと思われる(注124)
 前に注が入っていたのは、暦や紀年を持たない倭人に、正確な年齢が解るのかと裴松之が首をかしげたのである。そのつもりで読めということで、アンデスやコーカサスなどの戸籍のはっきりしない長寿村が連想される。また、この国では、長寿は祝うべきことだった様子もうかがえる。

  其俗國大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫不妬忌
  不盗竊少諍訟 其犯法 輕者没其妻子 重者没其門戸及宗族
  尊卑各有差序足相臣服

「その俗、国の大人は、皆、四、五婦。下戸は或いは二、三婦。婦人は淫せず、妬忌せず。盗竊せず、諍訟少なし。その法を犯すや、軽者はその妻子を没し、重者はその門戸及び宗族を没す。尊卑はそれぞれ差序ありて、相臣服して足る。」

「その習俗では、国の大人はみな四、五人の妻を持ち、下戸でも二、三人の妻を持つ場合がある。婦人は貞節で嫉妬しない。窃盗せず、訴訟も少ない。その法を犯すと軽いものは妻子を没し(奴隷とし)、重いものはその門戸や宗族を没する。尊卑にはそれぞれ差や序列があり、上の者にそれぞれ臣服して保たれている。(注125)

「女が多く、男が少ない」というのは隋書にも書かれている。中国ではどうかというと、漢書地理志によれば、女の比率が一番多いのは幽州で「一男三女」とされている。次ぐのが楊州で「二男五女」、その次が荊州で「一男二女」、豫洲、青州、兗州、雍州、并州は「二男三女」、男が多いのは冀州だけで「五男三女」となっている。魏のデータがないので、はっきりとは言えないが、中国より少し女の比率が高いのかもしれない。そう感じて記録したことは確かである。
 重犯者は身分を落とされて奴隷にされるだけであるが、後漢書では「門族を滅す」とされていて、「法俗厳峻」という魏志にはない記述が見られる。ここでも後漢書が後の時代の新たなデータを加えた可能性を指摘できる。「滅す」とする魏志の異本もあるが、百衲本の「没す」が原型である。説明には紙幅を要するので、ここでは取り上げない。

 続き 「魏志倭人伝から見える日本3」