*40 
 本草綱目では、鮧魚、鯷魚、鰋魚、鮎魚はすべてナマズである。「人魚」は鮎に似て四足ありで、これは山椒魚の類である。神功皇后のアユ占い(神功皇后紀)との関係から、魚と占いを組み合わせた鮎をアユ(年魚)に当てるようになったため、占(デン、ネン)と同音の念を魚と組み合わせ、新たに鯰(ナマズ)という文字を作ったらしい(鯰は国字)。
…本草綱目、「河豚」の項の集解には、鮭の記事も混ぜられており、「鮭肝死人」と書いてある。河豚は江、淮、河みなこれ有りとなっていて、中国には川フグがいる。中国でサケが捕れるのはオホーツク海につながる松花江水系などに限られ、中国にはなじみのない魚で、それを表す文字もなかったと思われる。現在の中国では日本と同じようにサケの意味になっている。


*41 衛氏朝鮮
 漢の初代、高祖の時、燕からの逃亡者、衛満が建てた国で、王険(現在の平壌)に都を置いた。孫の衛右渠が漢(武帝)と対立し滅ぼされた(史記朝鮮列伝)。
 衛氏朝鮮以前には、殷(商)の貴族、箕氏が立てた箕氏朝鮮が存在した。箕氏朝鮮は周初期から漢初期まで存続したが、衛満に敗れ、南方に逃れて韓を建国。したがって、(馬)韓の王家は箕氏ということになる。これは魏が滅ぼした。


*42 帯方郡
魏志韓伝
「桓霊之末韓濊彊盛 郡縣不能制 民多流入韓國 建安中公孫康分屯有縣以南荒地爲帯方郡 遣公孫模張敞等 収集遺民興兵伐韓濊 舊民稍出 是後倭韓遂属帯方」
 桓帝の末と霊帝の末には韓、濊が強勢になり、郡や県は制御することができず、住民の多くが韓国に流入した。(後漢最後の帝、献帝の)建安年間(196~219)、公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為した。公孫模や張敞等を派遣し、遺民を集めて兵を興し、韓や濊を伐ったので、元の楽浪郡民が少しずつ出てきた。この後、倭と韓はついに帯方郡に属した。
★「桓霊の末」は桓帝の末と霊帝の末を合わせた表現で、霊帝中期に「韓濊強勢」という言葉は当てはまらない。そのあたりの読み方に注意!


*43 国邑
魏志韓伝に、「其俗少綱紀國邑雖有主帥邑落雑居不能善相制御」
「その俗は綱紀がすくなく、国邑に統治者がいるけれども、邑落は雑居し、うまく制御することができない。」という記述がある。中国北方には国邑というべきものをもたない遊牧民国家が展開している。それとの対比で、当時の中国人には意味のある言葉だったのだろう。


*44 漢書地理志燕地
「楽浪海中有倭人分為百余国以歳時来献見云」(楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す。歳時を以って来たり献見すという。)
 漢の武帝は幽州刺史部を設け、楽浪郡はここに属した。中心地は戦国時代の燕の都、薊(現在の北京)である。揚州など十三の刺史部があった。
 山海経、海内北経には、「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。」という記述がある。


*45 奴国の朝貢
 范曄・後漢書の時代(南朝・宋)に、「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自称大夫」という資料が残っていたということは、百四十年ほど先立つ陳寿の時代にも、当然、残っていたことになる。後漢代の出来事なので、「魏志」には、魏に関係のない過去の事実として「漢の時、朝見する者有り」と簡単に書かれた。范曄は数種類あった後漢書をもとに、新たな後漢書を編纂したとされているから、范曄以前の後漢書の記事ではないか。


*46 乍南乍東
 朝鮮半島南の多島海と呼ばれるリアス式海岸の航海。千七百あまりの島がある。馬韓は帯方群に隣接する交流のさかんな既知の土地なので、「歴韓国」の方向は南とわかっており記す必要がない。魏志韓伝に「韓は帯方の南にあり」と書かれている。
 乍=たちまち。乍南乍東は「たちまち南、たちまち東」だから、方向転換のめまぐるしさの表現である。
「有大蛇呑此獣蛇皮堅不可斫其上有孔乍開乍閉時或有光射之中蛇則死矣」(梁書倭伝)
(大蛇がいて、この獣を呑む。蛇の皮は堅くて切ることができない。その上に穴があり、開 いたり閉じたりし、時に、光を発する。この中を射れば、蛇は死んでしまう。)
 蛇にイルカか鯨が混ぜられているようである。中国人の体験談ではないのに描写が詳く、資料が新しいと思われる。梁書は唐代の作なので、遣隋使か遣唐使からの伝聞であろう。いたずらっ気のある誰かが酒席で法螺話を伝えたのか、あるいは、そういう妖怪が信じられていたのか?「乍開乍閉」は開いたり閉じたりという意味なので、乍南乍東は南したり、東したりという意味になる。
 乍起乍居=立ったり坐ったり。(顕宗即位前紀注)
 乍光乍没=光ったり隠れたり(持統紀六年)


*47 倭人伝の「方位」の位置
韓伝
「韓は帯方の南に在り。」
倭人伝(方位が前、行く方法が後に置かれている)
【帯方郡から目的地の女王国までの行程】
「郡より倭に至るには、海岸に従いて水行し、歴韓国。乍南乍東。その北岸狗邪韓国に到る。」(歴韓国の方向なら「乍南乍東、歴韓国」と書くだろう。
「(方位無し)始めて一海を渡る。千余里。対海国に至る」
「また南、一海を渡る千余里。名は瀚海という。一大国に至る。」
「(方位無し)また一海を渡る、千余里、末盧国に至る」
 (南岸に向かうのだから、方位は南に決まっているということかもしれない。)
「東南、陸行五百里。伊都国に到る。」
「東南、奴国に至る、百里。」
「東行し、不弥国に至る。百里。」
「南、投馬国に至る。水行二十日。」
「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。」

【女王国到着以降の経験、伝聞】
「その南、狗奴国有り。」
「女王国東、海を渡ること千余里。また国有り。」
「侏儒国有り。その南」
「裸国、黒歯国有り。またその東南に在り。船行一年で至るべし。」
★乍南乍東は方向と方法を同時に書いていることになる。到狗邪韓国に係るわけである。


*48 北岸
 南岸に目的地の倭がある。北岸、狗邪韓国から三つの海峡を渡る。海峡も倭に含む計算になっているが、対馬、壱岐は大きな流れの中の飛び石のような存在と考えれば良い。


*49 多沙津
【継体紀】
廿三年春三月百済王謂下哆唎国守穂積押山臣曰夫朝貢使者恆避嶋曲毎苦風波因茲湿所齎全壊无色請以加羅多沙津為臣朝貢津路是以押山臣為請聞奏是月遣物部伊勢連父根吉士老等以津賜百済王。…加羅結儻新羅生怨日本
「二十三年春、百済王が下多利国守(朝鮮半島の日本領)の穂積押山臣に言った。朝貢の使者はいつも岬を離れるたびに波風に苦しんでいます。このため積荷を濡らし、損なって、すべてを見にくいものにしてしまいます。加羅の多沙津を私の朝貢の津路にしてください。このことで押山臣は奏聞した。この月に、物部伊勢連父根、吉士老等を派遣し、(多沙)津を百済王に賜った。…加羅は新羅と同盟を結んで、日本を怨んだ。」
【三国史記地理志】
河東郡本韓多沙郡景徳王改名今因之、領県三、省良県今金良部曲、嶽陽県本小多沙 県景徳王改名今因之、河邑県本浦村県景徳王改名今未詳。
 「河東郡は、もとは韓多沙郡。景徳王(在位742~765)が名を改め今はこれによる。県三を領す。省良県は今、金良部曲。嶽陽県は、もとは小多沙県。景徳王が名を改め今はこれによる。河邑県は、元は浦邑県。景徳王が名を改め今ははっきりしたことがわからない。」
★現在、蟾津江東部は慶尚南道河東郡になっていて、蟾津江西部は全羅南道である。したがって、加羅は慶尚南道になり、百済が全羅南道というぐあいに現在でも行政区域が別れている。蟾津江は国境であった。その蟾津江東岸にあった加羅の良港を百済に与えてしまったため加羅の怨みをかったわけである。ただし、六世紀のことで、三世紀の魏志倭人伝時代の狗邪韓国の領域や港に関しては、加羅側に存在した同じ位置と考えて問題ないと思えるが、データは存在しない。


*50 地理知識
 三世紀の、中国東方のはるかなる辺境地の地理知識が正確だと想定することに無理がある。現在の地図に合わせて考えることで、多くの間違いが生まれている。当時の人々の認識を考えなくては。


*51 長さの単位
 朝鮮半島の狗邪韓国から末羅国まで、海を渡る距離が千里×3で三千里。実際の測量で、こんなにきれいな数字がそろうことは有り得ない。地図を見ると、壱岐-末盧間の距離は明らかに短い。
 当時の長さは歩(左右一度ずつ足を出す)や尺という人間の体で測った寸法を基準にしている。正確な測量術は持ち合わせていないので、現在の感覚で語ることは許されない。ましてや、この場合は海上距離である。距離と方位を正確に測定できるなら、正確な地図が作成可能だが、3世紀半ば、中国本土でもそれは見当たらない。戦乱の時代にそういう作業は不可能であろう。
 里はそれのみで存在するのではなく、厘、分、寸、尺、歩、丈、匹というような単位と連動して長さを表す単位体系を作っている。
一寸=十分の一尺
一尺(前漢22.5cm、後漢23.04cm、魏24.12cm、唐31.1cm等。)
★時代が下るにつれ大きくなってくるが、甘粛省で発見された魏の尺骨は23.8cmで、同じ魏代でも変動があった。度量衡は徴税や商業に必要なので、中央で作り、全国各地に発送された。
一歩=六尺
一尋=八尺
一丈=十尺
一匹=四十尺
一引=百尺
一里=三百歩=千八百尺=434.2mほど(魏代)
 里は耕地の面積基準から生まれた単位らしい。漢書食貨志に書いてあること(六尺為歩、歩百為畝、畝百為夫、夫三為屋、屋三為井、井方一里)を計算すると、井が九万歩だから、一里が三百歩=千八百尺になる。
 古田武彦氏などは短里、長里と騒ぐが、中国の文献にそういう記載はない。倭人伝に記された距離が正確だと扱うため、つじつま合わせの無理が必要になるのである。
 円仁の「入唐求法巡礼行記」には、
従揚府南行一千四百五十里有台州或云三千余里人里語不定
「揚州府より南行一千四百五十里に台州がある。或いは三千余里という。人の、里の話は定まっていない。」という記述がある。六百年後の、唐代、中国内の距離でも、人により倍以上異なる数字を教えるのである。例として挙げてあるだけで、別に二人の人間だけに聞いたわけでもなかろう、折に触れ、あちこちの距離を尋ねたが、答えがみんなバラバラで、こういう記述になったものと思われる。


*52 対馬
 宋代…紹興本(對馬國)、紹煕本=百衲本(對海國)、明代…汲古閣本(對馬國)
 津島
次生津嶋亦名謂天之狭手依比賣
「次に津嶋を生んだ。またの名は天之狭手依比賣という。」(神代記)
参官之船漂泊津嶋乃始得帰
「(百済の)参官の船は津嶋を漂泊し始めて帰ることができた」(敏達紀十二年)


*53 海北道
 海北道は、筑紫の宗像郡から筑前大島、沖ノ島を横に見て、対馬北端に至り、さらに朝鮮半島へ渡る航路である。この道筋に宗像三女神が祭られ、道主貴と呼ばれている。
(神代紀)
卽以日神所生三女神者、使降居于葦原中國之宇佐嶋矣。今在海北道中號曰道主貴
「すなわち、日の神の生むところの三女神は、葦原中つ国の宇佐嶋に降り居らせた。今は海北道の中に在り。号して道主貴(みちぬしのむち)という。」
★須佐之男命の刀を天照大神が噛み砕いて吹きだした息吹から生まれた宗像三女神は宇佐に天下ったあと、海北道に移動したことになる。宇佐と親密である。古事記では須佐之男命の刀から生まれたから、須佐之男命の子とされている。


*54 脱解尼師今(新羅本紀)
脱解本多婆那国所生也 其国在倭国東北一千里 初其国王娶女国王女為妻 有娠七年乃生大卵 王曰人而生卵不詳也宜弃之 其女不忍以帛裹卵并宝物置於櫝中 浮於海任其所 往初至金官国海辺 金官人怪之不取 又至辰韓阿珍浦口 是始祖赫居世在位三十九年也 時海邊老母以縄引繋海岸 開櫝見之有一小兒在焉 其母取養之…
「脱解はもと多婆那国で生まれた。その国は倭国の東北一千里にある。初め、その国王は女国の王女を娶り妻としたが、妊娠すること七年で大卵を生んだ。王は人が卵を生むのは不詳だから棄てるように言った。その女は棄てるに忍ばず、卵を布で包み宝物を並べて箱の中に置き、海に浮かべてその行くところにまかせた。初め金官国の海辺に至ったが、金官人は怪しんでこれを取らなかった。また辰韓の阿珍浦口に至った。これは始祖赫居世の在位三十九年である。そのとき海邊の老母が縄で海岸に引き繋ぎ、箱をあけて中を見ると一人の赤ん坊がいた。その母はこれをとりあげて養った。…」
 徐偃王(博物志)
徐偃王志云徐君宮人娠而生卵 以不祥棄之水浜 独孤母有犬名鵠蒼 猟於水浜得所棄卵 銜以来帰 独孤母以為異 覆暖之 遂孵成兒生 時正偃故以為名
「徐偃王志はいう。徐君の宮人が妊娠し卵を生んだ。不祥なのでこれを水浜に棄てた。孤独母に鵠蒼という名の犬があり、水浜で猟をし棄てられた卵を得て銜えて帰った。孤独母はおかしなことだと、覆ってこれを暖めた。ついに卵がかえり子が生まれた。時はまさに偃だったので、これを名とした。
★脱解と同じ形の伝承を持つ徐は、淮水流域にあり、春秋時代、呉に滅ぼされた。戦国時には楚領になっている。徐州の徐である。呉と楚に関係しているし、秦と同じ嬴姓である。


*55 玉調郷
●倭名類聚抄 対馬島 上県郡…賀志、鷄知、玉調、豆配(酘)
           下県郡…伊奈、向日、久須、三根、佐護
●日本地理志料(邨岡良弼著、臨川書店) 対馬下県郡 玉調 「有高月村、今作上槻」
●風土記編纂の詔勅(続日本紀、元明天皇)
(和銅六年)五月甲子。畿内七道諸国郡郷名着好字。其郡内所生銀銅彩色草木禽獣魚虫等物具録色目、及土地沃塉山川原野名号所由。又古老相伝旧聞異事載于史籍
「(和銅六年713)五月二日、畿内と七道諸国の郡、郷名は好い字を着けよ。その郡内に生ずるところの銀、銅、彩色、草木、禽獣、魚、虫等のものはつぶさに種類を記録し、土地が肥えているか痩せているか、山川や原野の名称の由来、古老が伝えてきた旧聞や異事を史籍に載せよ。」
この詔勅をもとに「紀→紀伊」、「津→摂津」、「上毛野→上野」等に改められた。


*56 上県郡
 倭名抄では現在の下島が上県郡。おそらく都から近い方を「上」、遠い方を「下」と呼んだのであろう。対馬に到るには壱岐から下島へ行くから、こちらが上になる。ただ、延喜式神名帳では、下島の神社と下県郡の神社が一致しており、倭名抄とは矛盾をみせる。後世、上、下の逆転があったのではないか。海北道を通って対馬へ行くのが主流になれば、上島が上県郡になりそうである。


*57 卑奴母離
 帯方郡使が「ひなもり」という発音を聞いて「卑奴母離」と表記したのではなく、逆に、魏志倭人伝の記述の奴をナと読んで、後世、「ひなもり」を作り出したのだと思われる。史書では地名としてのみ現れる。(和名抄、景行紀等)、「ヒドボリ」は後世では「ひのぼり」という音になりそうである。


*58 対馬の暮らし
【対馬国貢銀記】、大江匡房(1041~1111)
対馬嶋者在本朝之西極属於太宰府孤立海中四面絶壁……與高麗隔海北■金海府牧野之馬掛帆之布分明亘見其近可推…全無田畝只耕白田或置諸租税至此島以大豆為正税…
「対馬島は本朝の西極に在り、太宰府に属す。海中に孤立し(これは、日本から見れば)、四面は絶壁である。…高麗と海を隔て、北■金海府の牧野の馬や、掛けた帆の布がはっきり見え、その近さをおしはかることができる。…全て田畝はなく、ただ、畠を耕す。諸租税を置くが、この島に至り、大豆を以って正税と為している。」
★混一彊理図の対馬も朝鮮半島のすぐ近くに置かれている。
【海東諸国記】(李氏朝鮮成宗二年(1471)刊行、申叔舟著)
対馬島
郡八人戸皆沿海浦而居凡八十二浦南北三日程東西或一日或半日程四面皆石山土◆民貧以煮塩捕魚販賣為生…山之草木禽獣人無敢犯者罪人走入神堂則亦不敢追捕島在海東諸島要衝諸酋之往来於我者必経之地皆受島主文引而後乃来島主而下各遣使船歳有定額以島最近於我而貧甚歳賜米有差
「郡は八。人戸はみな海浦に沿って住んでいる。およそ八十二浦。南北は三日ほど。東西はあるいは一日、あるいは半日ほど。四面はみな石山で土は(瘠せている?)。住民は貧しく、塩を煮、魚を取って販売することで生活している。…山の草木や禽獣をあえて犯す者はいない。罪人が神堂に逃げ込んでもまたあえて追い捕らえたりしない。島は海東諸島の要衝にあり、諸首長がわが国(朝鮮)に往来する場合は必ずこの地を通過する。みな島主が文書を受け、引き受けてからやって来る。島主は各遣使船から年に一定額を取り立てる。島はわが国に最も近いし、貧しさが甚だしいので、米を下賜するけれども年ごとに違いがある。」


*59 「従取之(従いてこれを取る)」
辰韓の許可を得てという意味なのか、鉄の産出するところを見つけてという意味なのか?


*60 梁書倭国伝(唐、姚思廉撰)
…始度一海海闊千餘里名瀚海至一支國…
「始めて一海を渡る。海は広く千余里。瀚海という名である。一支国に至る。」


*61 瀚海
 史記の注は、「群鳥が羽を解く(羽変わりする)」湖なので翰海というと記す。


*62 田島神社
筑前国の宗像大社の所在地名が田島で、そこから祭神を遷したことによると考えられている。


*63 宗像三女神
紀の本文では田心姫、湍津姫、市杵島姫の順に生まれている。
紀の一書では 十握剣…瀛(オキ)津嶋姫命(市杵島姫命)
       九握剣…湍津姫
       八握剣…田霧姫命(別の一書では田心姫)
記では、田紀理毘売命(=奥津嶋比売命)、市寸嶋比売命(=狭依毘売命)、多岐都比売命
 以上から「タコリ」又は「タキリ」姫、「イチキシマ」姫、「タキツ」姫の三神とわかるが、矛盾したことを書いていて、誰がどこの神か明らかではない。記、紀の編纂時、すでに失われていたようである。
 宗像大社は、沖津宮(田心姫)、中津宮(湍津姫)、辺津宮(市杵島姫)とするが根拠は不明。
 京都、松尾大社の祭神は大山咋神と市杵島姫であるが、別名は中津宮姫とされている。
松尾社家系図は壱岐卜部の同族と伝えているので、やはり、市杵島姫は壱岐から、中津宮(筑前大島)へ移動した神と考えられる。


*64 壱岐
倭名類聚抄  壱岐島……壱伎郡(風本、可須、那賀、田河、鯨伏、潮鹵、伊宅、伊周)
            石田郡(石田、物部、特通(優通)、箟原)
 イツを一と表記しているので、同じ倭人伝中にある壹、伊は音が異なるはず。イー、イ、ヰなどの微妙な違いを表すための工夫と思われる。
 西域の月氏国が、山海経海内東経では「月支之国」と表されており、支は「シ」と読む。説文解字でも支は「章移の切」となっており、「シ」である。中国人が中国人のために書いた書物なので、「キ」ではなく、中国人の一般的な発音で読むべきであろう。


65 一岐島
【海東諸国記】李氏朝鮮成宗二年(1471)刊行、申叔舟著
一岐島
郷七水田六百二十町六段 人居陸里十三海浦十四 東西半日程南北一日程 志佐 佐志 呼子 鴨打 塩津留分治 有市三所 水田旱田相半土宜五穀 収税如対馬
「郷は七。水田は六百二十町六段。人は陸里十三、海浦十四に住んでいる。東西は半日ほど、南北は一日ほど。志佐、佐志、呼子、鴨打、塩津留に分かれて治す。市は三所にある。水田、畑は半々で、土は五穀によろしい。収税は対馬の如し。」


*66
=瀕=ギリギリまで迫る。
 魏書何虁伝「遷長廣太守、郡濱山海」(長広太守に遷る。郡は山海に浜す。)
                   長広は徐州、山東半島の膠州湾。
好捕…魚やアワビを取るのが上手という意味ではなく、魚やアワビを好んで取るという意味である。


*67 松浦郡
 倭名類従抄、肥前国、松浦郡…庇羅(ヒラ)、大沼(オホヌ)、値嘉(チカ)
               生佐(イキサ)、久利(クリ)
 鏡山付近は松浦郡久利郷。
肥前国風土記
昔者 檜隈廬入野宮御宇武少廣國押楯天皇之世 遣大伴狭手彦連 鎮任那之國兼救百濟之國 奉命到來至於此村 卽娉篠原村弟日姫子成婚 容貌美麗特絶人間 分別之日 取鏡與婦々含悲渧 渡栗川 所與之鏡緒絶沈川 因名鏡渡
 「むかし、宣化天皇の時代、大伴狭手彦連を派遣して、任那の国を鎮め、また百済の国を救援させた。(狭手彦連は)命を受けてこの村に来て、笹原村の弟日姫子に求婚して婚姻した。容貌が美しくきわだっていた。別れの日、鏡を取って婦人に与えた。婦人は悲しんで泣き、栗川を渡ったとき、鏡の紐が切れて川に沈んだ。よって鏡の渡りと名づけられた。」
★鏡、鏡山という地名はこの伝説に基づくのだろうか。しかし、松浦川と鏡山、海の写真を見れば左右対称的で、鏡に映したかのように見える。松浦川の水面も広大で静的で、逆に、この地形から、鏡という地名、この伝説が生まれたのかもしれない。栗川は松浦川の別名。現在も川の東岸に久里という地名が残る。
 国には領域という広がりがあるが、末羅国では船を下りて歩いているので、帯方郡使はその中心集落を訪れたと思われる。
 対馬国、一大国では、航海の途中なので、都合の良い港を選択したと思われ、中心集落とは限らないであろう。海流や風、時間の都合で航海ごとに変わるかもしれない。


*68 怡土郡
和名類聚抄
 筑前国、怡土郡…飽田(アクタ)、託社(タカソ)、長野(ナガノ)、大野(オホノ)
         雲須(クモハル)、良人(ヨヒト)、石田(イシタ)。海部(アマベ)
 原はハルと読まれるので、クモハルは三雲、井原の辺りであろうという。託社(タカソ)は高祖周辺(日本地理資料)。
★南北に流れる川が郷域を分けているように感じられる。志登神社の古文書に大野肥前守があるというから(日本地理資料)、同じ川に挟まれた領域の曽根、平原は大野郷ではないか。


*69 平原遺跡
 曽根遺跡の少し北方の平原遺跡から巨大な国産銅鏡が出土して、伊都国王の陵墓と考えられている。
 平成28年には三雲・井原遺跡で使用痕のあるすずりが発見され、文字の使用可能性が高まっている。





*70 魏略逸文(翰苑)
到伊都国 万余戸 置(魏志では官)曰爾支 副曰洩渓觚(魏志では泄謨觚) 柄渠觚 其国王皆属女王也(魏志では世有王皆統属女王国)
★太平御覧の引用する魏志は、「有千餘戸」


*71  筑前国(和名類聚抄)以下の郡、郷が奴国の領域と考えられる。
 早良郡…毘伊、能計、額田、早良、平群、田部、曽我
 那珂郡…田来、曰佐、那珂、良人、海部、中島、三宅、山田、坂引
 席田郡…石田、大国、新居
 糟屋郡…香椎、志阿、厨戸、大村、池田、安曇、柞原、勢戸、敷梨


*72 後漢書倭伝「倭奴国」
建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬
「建武中元二年(57)、倭奴国、貢を奉り朝賀す。使人は自ら大夫を称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以ってす。」


*73 筑前国、志摩郡(倭名類聚抄)
 韓良、久米、登志、明敷、鶏永、川辺、志麻


*74 火徳
 漢書高帝紀第一下
漢承堯運 徳祚已盛 断蛇著符 旗幟上赤協于火徳 自然之応得天統矣
「漢は(帝)堯の運を承け、徳祚はすでに盛んで、蛇を断ちて符を著け、旗幟は赤を上として火徳にかない、自然の応(たすけ)により天の統(流れ?)を得る」。
★金印の一辺はほぼ2.3cmで、これは漢代の一寸。


*75 金印出土状況
 志賀島村庄屋武蔵による「志賀島村百姓甚兵衛申上る口上之覚」という甚兵衛の口上書が黒田藩郡役所に届けられている。金印発見が人の噂にのぼるようになり、金は幕府の統制品なので、放置しておくと甚兵衛が罪に問われかねない。災いは自分たちに及ぶかもしれないと恐れて、甚兵衛を説得したのであろう。
 地元の寺などに残された資料から、百姓甚兵衛が田の溝の修理を依頼した秀治、嘉平の二人が発見したという説が有力なようである。田は志賀島村の村域に存在したことになる。
 三個の石で箱のような囲いを作り、上に二人で持ち上げなければ動かせないような大石で蓋をしたという形らしい。大事に扱い、隠すという行為が想定できる。それ以来、金印は動いていない。現在、発見地は金印公園として整備されているが、正面に能古島が見え、それを目印の一つにしたのだと思われる。


*76 打昇浜(海の中道)
筑前国風土記曰糟屋郡資珂嶋昔者気長足姫尊幸於新羅之時御船夜時来泊此嶋有陪従名云大浜小浜者便勅小浜遣此嶋覓火得早来大浜問云近有家耶小浜答云此嶋與打昇浜近相連接殆可謂同地因曰近嶋今訛謂之資珂嶋
「筑前国風土記に曰く。糟屋郡、志賀島。昔、オキナガラタラシ姫の尊(神功皇后)が新羅にお出でになった時、御船が、夜、この島に来て泊まった。お供がいて、大浜、小浜という名である。小浜をこの島に行かせて火を求めさせたが、手に入れてすぐに戻って来た。大浜が『近くに家があるのか』とたずねると。小浜は『この島と打昇浜は近くて相連なり、ほとんど同じ土地だと言って良い。』と答えた。因って近島と言ったが、今は訛って志賀島という。」
★打昇浜にある民家で、火を手に入れたということらしい。


*77 官名の違い
 官名が国ごとに異なっているし、後漢書には「国は皆王を称し世世伝統」という記述があるので、後漢時代、各国は独立していたと考えられる。


*78 筑前国、宗像郡、安曇郡(倭名類聚抄)
宗像郡
 秋、山田、怡土、荒自、野坂、荒木、海部、席内、深田、蓑生、辛家、小荒、大荒、津九
糟屋郡
 香椎、志阿(志何か?)、厨戸、大村、池田、安曇、柞原、勢門、敷梨


*79 安曇氏
新撰姓氏録
  安曇宿祢……海神綿積豊玉彦神子、穂高見命の後(右京神別下)
  安曇犬養連…海神大和多罪命三世孫、穂己都久命の後(摂津国神別)
  安曇連………綿積神命皃、高見命の後(河内国神別)
古事記
  安曇連等は綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫


*80 湊川
 砂浜海岸で水深が浅く、帯方郡の大船は入れないであろう。以降は倭船に乗り換えての航海である。


*81 室津(播磨国風土記、揖保郡、浦上の里)
室原泊(むろふのとまり)
 室と号する所以(ゆえ)は、この泊、風を防ぐこと室の如。故、よりて名と為す。
摂津五泊(行基による)
  川尻(尼崎)、大輪田(兵庫)、魚住(明石)、福泊(姫路)、室津
★西国大名の参勤交代に利用され、江戸時代には室津千軒と呼ばれるほどの繁栄をみせた。港の入口にある加茂神社は創建二千年と号する古社である。


*82 
備後国、沼隈郡…津宇、赤坂、春部、諌山
 鞆の郷域は不明。津宇郷と思われる芦田川流域の津之郷町から、「新」の王莽時代の貨幣、貨泉が出土している。このあたりが中心だったのか?
★草戸千軒遺跡は芦田川の洪水により埋もれたもので、川の中州から発見された。
★景行紀二十七年に、害心のある「吉備穴済神(あなの渡りの神)」という記述があり、芦田川河口部には大和朝廷に敵対する有力豪族が存在したことを示している。
備後国安那郡、深津郡(倭名抄)→深安郡→現在は福山市
吉備穴国造(先代旧事本紀、国造本紀)
  纏向日代朝(景行天皇)御世、和邇使主同祖彦訓服命八千足尼定賜国造


*83 関門
夫筑紫国者、遐邇之所朝届。去来之所関門(宣化紀)
「それ、筑紫国は、遠く近く(の国)がやって来るところであり、往来の関門となるところである。」


*84 放射式記述説
 放射式記述説では、投馬国と邪馬壱国はどちらが遠いのか?二国は同じ南にあるけれども、水行の差の十日と陸行一月を比べることになる。どちらが遠いか、近いか。そのあたりがあいまいになる。邪馬壱国へは、水行で二十日行ってから、陸行に切り替えた方が早く着けそうに思う。
 東と南があってこその東南なのに、東南の奴国を最初に書き、東の不弥国、南の投馬国、邪馬壱国という紹介の順序も不自然である。
 私が高校生のとき、「こんなアホくさい書き方、俺でもせんわ。」と思ったものである。なんの断りもなく書いたところで理解されるはずがない。読み手に配慮しない、高校生にも馬鹿にされる程度の文章力、発想ということになる。それを容認する大学教授とは? 古田武彦氏の短里説、二倍年略に関しても同じことがいえる。帯方郡使やそれをチェックする陳寿の文章力をどう考えているのだろうか。自らの想定に合わせるため、読み方を捻じ曲げようと工夫を重ねなければできない読み方なのである。思いつくまで時間がかかったであろう。普通に読めば簡単で、間違った想定につじつまを合わせようとするから無理が生じる。


*85 至と到
 至と到には微妙な区別があると思われる。至には極まる意味があり、到はそれに刀が加えられた形なので、ゆっくり曲がりながらか、あるいは、細かく刻みながら至ることである。そこから推測すると、到は時間の経過や待望感などを内に含む。至はそれを考慮しないということになりそうである。


*86 隋書俀国伝
夷人不知里数但計以日其国境東西五月行南北三月行各至於海其地勢東高西下
「夷人は里数を知らない。ただ、日を以って計っている。その国境は東西五ヶ月行程、南北三ヶ月行程でそれぞれ海に至る。その地勢は東が高く、西が低い。」


*87 再び放射式記述説の否定
「女王国より以北は道の里程を略載できる。」と記しており、女王国から対馬国まで線上に並んでいたことを示している。
 放射式記述説では 伊都国が中心になり、女王国から北へ、陸行一月、水行十日で伊都国に着き、また同じ南の投馬国へ水行二十日戻るという扱いになり、女王国(邪馬壱国)からは道里をたどれない。放射式記述説はここでも否定される。



*88 (奴国)極南界=女王の境界の尽きる所
「建武中元二年云々」という記述自体は後漢書倭伝に見られる。宋書范曄列伝に、范曄は「衆家後漢書を刪し一家の作となした」と記されており、宋代には、まだ、後漢の資料がたくさん残っていた。そこから得たものであろう。「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光武賜以印綬」
 范曄は魏志倭人伝の地理・風俗情報を引用するのみで魏との交流に関する記述は無視している。これは後漢という時代の歴史を書いているからで、過去は書けるが、未来は書くこと出来ない。地理、風俗に関しては変わりがないという判断である。
 逆に陳寿は後漢代の情報に重きを置かないため、魏代の倭と無関係な光武帝の印綬下賜の記録が見えない。このことは、百五十年ほど時代の降る范曄が読んでいるのだから、陳寿も目にしていたはずで、「後漢代に朝貢する者がいた」と記している。その知識が「女王の境界尽きる所」の奴国となって現れたと考えられる。
 卑弥呼は両時代にまたがるので、どちらにも記された。両書の立場の違いが認識されていないのは問題である。


*89 紀伊と淡路
 淡路島は現在は兵庫県だが、古代は南海道に属し、紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐の六国で構成されている。
先代旧事本紀、国造本紀
 紀伊国造…神皇産霊命五世孫天道根命定賜国造
 淡道国造…神皇産霊尊九世孫矢口足尼定賜国造
紀伊と淡路の首長は同系である。


*90 高津
難波で統治した孝徳天皇の蝦蟇(カハヅ)行宮が「紀」に見られ、タカツではなく、コーヅと読む。


*91 コウチヒコ
翰苑
魏略曰女王之南又有狗奴国女男子為王其官曰拘右智卑狗不属女王
★狗古智卑狗を「キクチヒコ」と読む人がいるが、狗をキと読むなら「キクチヒキ」、コと読むなら、「コクチヒコ」と読むべきで、首尾一貫していない。
★太平御覧では狗石智卑狗。石、古と変化するなら、原型はやはり右であろう。
狗邪韓国(魏志)、拘邪韓国(後漢書)


*92 入れ墨
 隋書俀国伝に「男女多黥臂點面文身」という記述がある。この記述に従えば、隋代でも、二の腕に入れ墨し、顔に小さな点々(目の周りか)、体に模様の入れ墨をしていた者が多いことになる。隋の使者、裴世清の報告に基づく記述と考えられ、信憑性の高いものである。
★古事記は大久米命が目の周りに入れ墨していたことを記している。(神武記)
★顔に入れ墨らしき模様の入った埴輪がたくさんある。
★明治初期の東京湾の船頭の描写に次のようなものがある。
「皮膚はとても黄色で、べったりと怪獣の入れ墨をしている者が多い。」(「日本奥地紀行」イザベラ・バード著)


*93 
 「好」は好むという意味。好んで水に入る頻度が多いため、水中での害を避ける入れ墨を必要としたのである。


*94 越人の入れ墨
 史記越王勾踐世家第十一
越王勾踐其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也封於会稽以奉守禹之祀文身断髪披草莱而邑焉後二十余世至於允常
「越王勾踐、その祖先は禹の苗裔にして、夏后帝、少康の庶子である。会稽に封ぜられ、禹の祀りを奉守した。文身断髪し、草の荒れ地を切り開いて邑をつくった。後、二十余代で允常に至る。」
★注に「無余」という名があるが、実名ではないであろう。識別記号のようなものである。
「越人は箴(はり)を以って皮を刺し、龍文を為す。これに尊栄を為すゆえんなり。」(淮南子泰族訓・許信注)
「常に水中に在り。ゆえに其の髪を断ち、その身に文し龍子に象る。ゆえに傷害を見ず。」(漢書地理志粤地・応劭注)


*95 会稽、東治
「会稽」は春秋時代の越王勾踐の都(現在の紹興市)
「東冶」は漢代の閩越の都(現在の福州市)


*96 帯方郡の冬の寒さ
 ソウルの一、二月の平均気温は氷点下である。それより北(現在は北朝鮮領)にある帯方郡はもう少し寒いはず。緯度は山形県あたりに該当する。漢江が凍結するような時期に航海に乗り出すとは考えにくい。


*97 論衡(後漢、王充)
周時天下太平越裳献白雉倭人貢鬯草(儒増篇)
「周の時、天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢ぐ。」
成王之時越常献雉倭人貢暢
「成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢ぐ。(恢国篇)」
★鬯草とは鬱金(ウッコン)草(=ウコン)。黒キビの酒に入れて香りをつける。におい酒を作るための香り草。日本では奄美大島、沖縄に自生するという熱帯、亜熱帯系の植物である。倭人がこれを献じたという伝承は、日本を南方(熱帯、亜熱帯)の国と誤解させ得る。


*98 九十度の狂い
 間違った方向に規律があるということは、移動前に倭人が指し示した方向を推定したのではないか?直線路など存在しないから、一日の移動の後に、現在の位置は昨日の位置から見てどの方向に当たるか、一度きりの経験で、引き出すのは不可能と思える。


*99 会稽郡、東鯷人
会稽郡…漢の武帝以降、漢代の中国東南海岸部は全て会稽郡に含まれる。
会稽海外有東鯷人分為二十餘国以歳時来献見云(漢書地理志呉地)
★黄雅曰鮷(音提)鯷(音逓)鮎也(太平御覧)
★鯷の音はテイ。鮎はナマズ


*100 入唐求法巡礼行記
八日新羅人王請莱相看是本国弘仁十年流着出州国之唐人張覚済等同船之人也問漂流之由申云為交易諸物離此過海忽遇悪風南流三月流着出州国其張覚済兄弟二人臨将発時同共逃留出州従北出州就北海而発得好風十五箇日流着長門国云々頗解本国語
「八日、新羅人、王請来たり相看る。これ、本国弘仁十年、出州国に流着の唐人、張覚済等と同船の人なり。漂流の由を問う。申して云う。諸物を交易するためここを離れ、海を過ぐるに、たちまち悪風にあい、南に流されること三月、出州国に流れ着く。その張覚済兄弟二人は将に発する時に臨み、同じく共に逃げて出州に留まらんとす。北出州より北海に就きて発し、好風を得て十五ヶ日にして長門国に流着すと云々。すこぶる本国語を解す。」
★北出州は、この場合、出羽の南端と考えられる。山形県酒田市あたりか。


*101 楮(こうぞ)
幽州人謂之穀桑或曰楮桑、荊揚交廣謂之穀、中州人謂之楮、殷中宗時桑穀共生是也、今江南人績其皮以為布又擣以為紙謂之穀皮紙、長数丈潔白光輝其裏甚好其葉初生可以為茹
「幽州人はこれを穀桑といい、或いは楮桑という。荊州、楊州、交州、広州はこれを穀という。中州人はこれを楮という。殷、中宗の時、桑穀ともに生ずはこれなり。今、江南人はその皮を績(う)み、以って布と為す。また、打ち、以って紙と為す。これを穀皮紙という。長さ数丈、潔白で光輝き、その裏は甚だ好し。その葉、初めて生ずるは以って茹と為すべし。」


*102 職貢図に書かれた文字
倭国使
倭国在帯方東南大海中依山島居 自帯方循海水乍南乍東■其北岸 歴三十余国 可万余里 倭王所■■在会稽東 気暖地温 出真珠青玉 無牛馬豹羊鵲 ■■■面文身 以木綿怗首衣横幅無縫■■ 以下は剝落して文字が見えない。


*103 被髪
捜神記に、秦の時の武都故道での話として、「有騎堕地復上髻解被髪」
「騎馬武者がいて、地に落ち、また馬に上がったが、髷が解けて被髪になった。」という記述がある。


*104 米作の広がり
 農業学校はないから、米作りが短期間で日本中に広まったのは、ノウハウのすべてを知っている人間が籾を携えて日本中に散らばったということになる。かなりの人数が必要だと思われる。
 苗代を作ってある程度育て、田植えをして移植するという形でなければ、稗などの競合植物に負けるという。ずいぶん前に、モミの直播きの実験の話を耳にしたが、その後の話題を聞かないから、成功していないのだろう。弥生時代の田植えが考古学的に明らかになってきている。米作は最初から苗代を必要としていたのである。その他、様々なノウハウは口伝えだけで効果を出せるものではあるまい。人がいなければ。
 東北でも縄文時代の水田が発見されているというから、現在のB.C300頃を境界とする縄文、弥生の時代区分も明らかにおかしい。新しい農業文化はもっと早くから広まっていた。


*105 家畜
 羊なら当時の船でも運べると思えるのだが、倭人は羊肉や羊毛を必要としない民族だったようである。ずっと後もそのままなので、江上波夫氏の騎馬民族征服説は否定される。衣、食、住の文化のすべてに渡って騎馬民族の要素が残っていない。入っているのは馬とその関連品(ズボン等)だけである。
 日本に馬が入ったのは神功皇后時代(391以降)で、古事記に、新羅を馬飼いにしたと記されている。百済では、馬は葬儀用で乗馬に使っていない(魏志韓伝、馬韓)。
 三国史記、新羅本紀の始祖、赫巨世の五十三年(B.C5)に「東沃沮の使者が来て、良馬二十匹を献じた。」と記されており、新羅(辰韓)は、馬韓と違って、北方の国から乗馬などの技術をはやくから採り入れていたことがうかがえる。
★神功皇后の実在を認めなければ日本の古代史は解けない。


*106 
「矛」は槍型。「戈」は柄に直角に刃を差し込んだもの。鎌のような形になる。「戟」は枝別れのあるホコ。


*107 交阯(ベトナム北部)も倭と同じ風俗
漢武帝誅呂嘉開九郡設交阯刺史以鎮監之山川長遠習俗不斉言語同異重譯乃通民如禽獣長幼無別椎結徒跣貫頭左衽(呉志薛綜伝)
「漢の武帝は呂嘉を誅し、九郡を開いて交阯刺史を設け、これを鎮め見張らせた。山川は長く遠く、習俗は等しくない。言語も同じく異なり、訳を重ねて通じた。住民は禽獣のようで、長幼の区別はなく、椎結して裸足で、貫頭し左衽である。」
★海南島(儋耳・珠崖)に近い中国南部(交阯郡、現在はベトナム)でも、倭人と同じように椎髻(みづら)、徒跣、貫頭という習俗である。長幼の別がないのも倭人伝に記されている。貫頭に左衽と書いてあるのは上着を着ていたということなのか?
 魏志は「有無する所は儋耳、珠崖と同じ」と記しているが、例として挙げただけで、ベトナム北部にもよく似た習俗の民族が展開していた。


*108 馬韓の家
魏志韓伝(馬韓)
居處作草屋土室如冢其戸在上
「居所は草の屋根、土の部屋を作り、墓のようである。その戸は上にある。」
 土の壁があって、屋根が草で覆われていた。三角形に尖った屋根ではなく、傾斜の緩やかな丸いもので、冢(土を盛り上げた墓)のように見えるということらしい。
★日本の家屋文鏡にはね上げ式の戸を描いたものがある(上図)。家の形は全く違うが、「戸が上にある」というのは、この形ではないか。


*109 若者組
 現在の青年団の母体となった組織で、文献的に遡れるのは江戸時代初期までという。幕藩体制の江戸時代にいきなり広範囲に組織化されたとは考えられず、古くからの村落共同体に根差した土俗的風俗であろう。江戸時代になって顕在化したものと思われる。
 継体紀にある話だが、反乱を起こした筑紫国造磐井は、近江の毛野臣に対して、「今は使者となっているが、昔は我が伴として、肩をすり、肘をすり、同じ釜の飯を食っていた。俺を従わせることなんてできないよ。」と言い放っている。人質のようなものかもしれないが、豪族の子弟たちを都で共同生活させて教育する機関が設けられていたと想像させる。その土台として若者組という村落共同体の風俗が存在したのではないか。


*110 隋書地理志「楊州」
揚州於禹貢為淮海之地 在天官自斗十二度至須女七度為星紀 於辰在丑 呉越得其分野
江南之俗 火耕水耨食魚與稲 以漁猟為業 雖無蓄積之資 然而亦無饑餒 其俗信鬼神好淫祀 父子或異居 此大抵然也
「揚州は禹貢に於いては淮、海の地となす。天官に在りては斗十二度より須女七度に至り、星紀となす。辰に於いては丑にあり。呉越がその分野を得る。
 江南の風俗は、火で耕し、水で草切る。魚と稲を食べ、漁猟をもって生活手段としている。蓄積の資財はないが、それなのにまた飢えることもない。その風俗は鬼神を信じ、淫祀を好む。父と子は住まいを別にする場合がある。ここは大抵そうである。」
 漢書地理志「楚地」
楚有江漢川澤山林之饒 江南地廣或火耕水耨民食魚稻㠯漁獵山伐為業 果蓏蠃蛤食物常足 故啙寙婾生而亡積聚 飲食還給不憂凍餓 亦亡千金之家
「楚には長江と漢水、その他の川や水沢、山林の豊かさがある。江南の地は広く、火で耕し、水で草を切る。住民は魚と稲を食べ、漁労や狩猟、山で竹や木を切って暮らしている。果物類や貝類、食物は常に充足している。それゆえ、弱々しく生を盗み、蓄積することをしない。飲食は供給が繰り返され、凍えや餓えを気にしないが、また、大金持ちもいない。」


*111 赤土の化粧(神代紀一書、隼人の祖先、火酢芹命=海幸彦の描写)
兄著犢鼻以赭塗掌塗面告其弟曰吾汚身如此永為汝俳優者
「兄はふんどしを付け、赤土を掌に塗り、顔に塗り、その弟に告げて曰く、私は身を汚しこのようです。ずっと、あなたの俳優者(わざひと)になります。」(赭は赤土)
「俳人(わざひと)は、一に曰く「狗人(いぬひと)という」
「火酢芹命の苗裔、諸の隼人等、今に至るまで、天皇の宮墻の傍を離れずして、代々、吠える狗して事え奉る者なり。」


*112 籩豆(爾雅釈器)
木豆謂之豆 竹豆謂之籩 瓦豆謂之登
「木の豆、これを豆という。竹の豆、これを籩という。瓦の豆、これを登という。」
★博物館に展示してあるのは「登」ということになる。


*113 槲の葉
隋書俀国伝「俗無盤俎藉以檞葉食用手餔之(俗は盤俎なく、槲葉を以って藉(し)き、食は手を用いてこれを餔(く)う。」
★原書には木偏に解という文字が書かれているが、これは松ヤニという意味なので、槲(かしわ)の間違いであろう。


*114 
甕棺は「棺有りて槨なし」とセットで記されるような形状ではない。石棺も同様。
木棺を作るには板が必要で、板を作るには利器が必要である。鉄の工具類の普及が想像できる。


*115 禊(みそぎ)
晋書倭人伝  已葬挙家入水澡浴自絜以除不詳
「葬儀が終わると、家を挙げて水に入り澡浴し、自ら潔くして不詳を除く。」
★晋代の情報ではなく、後の遣隋使、遣唐使から得た解説と思われる。晋書の著者は、唐の房玄齢で、貞観二十年(646)の完成。
★記、紀でも、伊邪那伎命が黄泉の国から帰った後、日向の橘の小門の阿波岐原の海で禊して穢れを祓っている。


*116 持衰
衰(名詞)=蓑(ミノ)のような粗末な喪服。広く、喪服のこと。(学研漢和大辞典)
今昔物語、巻十六、周防国判官代依観音助存命語第三
 「…毎月の十八日には自ら持斎し、僧を請して普門品を読誦せしむ。」
持斎…精進・潔斎して心身を清浄にすること。(仏教)午後食事をしないという戒律を守ること。(学研国語大辞典)


*117 青玉
万葉集3247 「沼名河の、底なる玉、求めて、得し玉かも、拾ひて、得し玉かも、あたらしき、君が、老ゆらく惜しも」
★「ぬな川」は糸魚川市、姫川の古名


*118 倭の植物
「枏」柟は俗字。楠。
「爾雅」は梅とするが、「本草綱目」では楠とする。南方の木なので南に従う。柟は高大で、葉は桑の如し、南方山中に出る。今、江南では船を造るのに皆この木を用いる。その木の性質は堅くて、善く水に居す。その木は直上(真っ直ぐ伸びる)。葉は豫章に似て、大きさは牛の耳の如し。高さは十余丈。花は赤黄色、実の色は青で食べられない。
●江南出枏梓。「江南は枏、梓を出す」(史記、貨殖列伝)
●王獨不見夫騰猿乎 其得枏梓豫章也 攪蔓其枝 而王長其間(荘子、山木篇)
「王はあの木に上る猿を見たことがありませんか。その枏や梓、豫章を得るや、その枝をつかんだり、引っ張ったりして、その間では王のように自由にふるまいます。」)
★枏は猿が自由を得ることのできる高木であることがわかる。こういう特徴を実際の木に照らし合わせるとタブノキ(イヌグス)という結論になる。花は小さく、目立たない薄緑色だが、新芽が赤っぽく花のように見える。
「杼」
 ヒ=織機の横糸を通す道具。ドングリ。
食杼栗「杼、栗を食べる」(荘子、山木篇)
★橡なり。栩なり。栩は柔。柞木とか色々書いてある。ドングリの成る木であることは間違いない。和名抄には「トチ」と書いてあるが、実が殻に包まれ特徴的なのに、それに言及する書はない。トチではないようだ。
「柞の実、これを橡という」(小爾雅)、「種結実はその名を栩、その実を橡となす」(本草綱目)
「豫」
「釣樟、烏樟。枕木。釣樟はまた樟の類。樟の小者。高さは丈余(3~4m)。枕は南海山谷に生ず」(本草綱目)
★釣樟は、雌雄異株の落葉灌木で、樹皮は平滑で、黒斑がある。枝葉に香味がある。
★日本の樹種ではクロモジの特徴に一致する。
「樟」
「江東、艟船、多くは樟木を用いる。県名、豫章は木に因りて名を得る。西南所々山谷、これ有り。」(本草綱目)
★常緑大喬木で高さは30mくらい。木質は硬くて細かい。香気がある。清涼香味があり防虫に用いる。広東、江西等の省に多く見られる。
★樟はクスノキと思われる。
「楺櫪」
「呉越の間、柞を名して歴と為す。歴(櫪)と檪は同じ」(爾雅注)
★櫪は檪(レキ)である。
「檪すなわち柞なり。栩、杼みな一物」(爾雅注)
「栩、柔なり」「柔、栩なり」(説文解字)。
「山に苞櫟あり」(詩経、秦風)、「秦人、柞檪を謂いて檪となす。」
★土地により呼び名がちがったりして、ドングリのなる木の区別があいまいである。
★「匠石が斉に行った。曲轅に至り、檪社に檪の大木があったが、見向きもしなかった。弟子がその理由を尋ねると。『あれはつまらない木で、舟を作れば沈むし、棺桶を作ればすぐに腐る。器になるとすぐに壊れる。門戸にすれば樹脂が出て、柱にすれば虫が食う。使い道のない木だ。』と言った。夜になると檪が夢に現れて、『用がないことで、長寿という我が大用を為したのだ。』と語った。」(荘子、人間世篇)
「無用の用」という荘子の有名な話である。檪は材木としてはあまり役立たないらしい。
「檪その実梂」(爾雅)「梂」は袋状で丸く毛が集まる意。クヌギのドングリが該当しそうである。
「今、柞樹の花葉は倶に栗に似る。四、五月、黄色に開花する。実は丸く、粉によくすり潰し、蒸して食べ、飢えを防ぐことができる。その若葉は茶の代わりに飲むことができる。その木は木目が良くなくて、匠石は不材の木と為し、薪炭を作った。」(爾雅「栩杼」の注)
「橡実。檪木の子なり。木高二、三丈。三、四月開花、黄色。八、九月結実。槲、檪みな斗あり。檪を以って勝となす。木堅くして材に充てるに堪えず。また木の性なり。炭と為す。則ち他木みな及ばず。」(本草綱目集解)
「楺」は「揉、煣(ジウ)」と同じ。木を曲げる意味。「楙(ボウ)」は別字で「木瓜(ボケ)」のこと。日本には平安時代に渡来。
★「楺櫪」は、クヌギと考えて問題ないようである。本草綱目や爾雅をみると、柞、杼、栩、柔、檪はみな同じ木になってしまうのだが、倭人伝では「杼」を区別している。橡実を長円とする記述もあるので、「杼」はクヌギとよく似ているが、長円形のドングリをつけるコナラと考えれば良いのではないか。
「投橿」
「橿、枋なり。」「枋、車を作るべし」(説文解字)
「英山その上は杻橿多し。注(ニワザクラに似て細葉。一名、土橿」(山海経、西山経)
「杻、檍なり。」(爾雅)
★橿やら枋、杻、檍など色々な呼び名があったようだが、車や鋤の柄をを作るのに適した堅い木らしい。一名が土橿とされており、土の漢音がト、呉音がツである。倭人伝の投橿の投の漢音がトウ、呉音がツであるから、土橿と投橿は同じものであろう。樹種の特定は無理で、カシとしておけば良いと思える。
 江戸時代の書に「杻」をモチノキとしているものがあったが、トリモチを作れたり、赤い実が特徴的であるのに、それに言及した書はないから、同意できなかった。
「烏號」
 淮南子、原道訓に「射る者は烏號の弓を張り…」とあり、注に「烏號は拓桑。その材は堅くて勁(強)い。烏が上に止まり、飛ぼうとする時に枝は必ず下にたわむ。強いので、また元に戻る。巣を作っている鳥がいると敢えて飛ばず、その上で號呼する(叫び鳴く)。その枝を伐って弓を作る。因って、烏號の弓という。」と書いてある。
「拓」その葉は蚕を飼うことができ、拓蚕という。葉は硬く、桑に及ばない。処々、山中にこれがある。弓人は材を取る。拓を以って上としている。(本草綱目集解)
「拓」ヅミ、ヤマグワ、ノグワ、イヌグワ。山中に生ず。葉は常桑より大にして、厚く長く、ざらつき多し。(本草綱目啓蒙)
★「烏號」はヤマグワである。
「楓香」
「楓樹は白楊に似て葉は丸くして枝分れする。脂がありて香る。今の楓香がこれ。」(爾雅)
「厚い葉、弱い枝でよく揺れる。一名、欇欇(ショウショウ)」(説文解字)
★落葉の大喬木、掌状で分裂して三になる。秋の落葉前には葉色は黄や紅になり美しいので、常に庭園樹として栽培される。江上に生ずとか九真郡(ベトナム)にあるとかされている南方系の木である。古代の日本には存在しなかった。現在、街路樹としてよく使用されている楓(フウ)はアメリカ楓で、葉の形が異なる。


*119 卜骨用獣骨
「動物の種はニホンジカ、イノシシで、例外にイルカと、ごく限られています。…ニホンジカの使用は八十八例、75.86%で約四分の三を占めます。……次に、どの部分の骨が多用されているかを見ると大部分が肩胛骨です。……卜骨用獣骨として、ニホンジカの肩胛骨を意識的に選んでいたことはあきらかです。……イノシシの肩胛骨は形、大きさともニホンジカとほぼ同じなので、代用品と考えられます。」(「弥生人とまつり」石川日出志編、六興出版)


*120 男女の別
魏志韓伝
【馬韓】無長幼男女之別 「長幼、男女の別はない。」
【辰韓】嫁娶禮俗男女有別 「嫁取りの礼や風俗は男女の別がある。」
【弁辰】言語法俗相似 「言語法俗は(辰韓と)相似る」
呉書「薛綜伝」交阯の人は
  如禽獣長幼無別椎髻徒跣貫頭左衽 「禽獣の如くして、長幼の別なし。椎髻、徒跣、貫頭、左衽」


*121 春秋の年紀
穆王即位春秋已五十矣(史記周本紀)
武王―成王―康王―昭王―穆王―共王―懿王―孝王―夷王―厲王―宣王―幽王―平王(周の東遷、春秋時代へ)


*122 歳、祀、年(爾雅釈天)
【夏】歳=歳星(木星)一次を行くを取る。
★木星は十二年で一巡する(公転周期)。占星して星宿間を十二分の一進むと一歳になる。
【商(殷)】祀=四時一終を取る。
★四時(春夏秋冬)の祭祀が一巡りすると一祀になる。「商人は鬼を尚び、祀を重しと為す。」とある。
【周】年=禾一熟を取る。


*123 手を打つ
【雄略記】
爾其一言主大神手打受其棒物 「しかして、その一言主大神は手を打ち、その棒物を受けた。」
★一言主神(葛城氏系)は手を打って雄略天皇に敬意を表している。雄略天皇は拝礼して一言主伸に敬意を表す。民族の違いが現れている。


*124 長寿
「論衡、気寿篇」
儒者説曰太平之時人民侗長百歳左右気和之所生也堯典曰朕在位七十載求禅得舜舜徴三十歳在位堯退老八歳而終至殂落九十八歳未在位之時必已成人今計数百有餘矣又曰舜生三十徴用三十在位五十載陟方乃死適百歳矣文王謂武王曰我百爾九十吾與爾三焉文王九十七而薨武王九十三而崩……故太平之世多長寿人百歳之寿蓋人年之正数也
「儒者は説いて曰く。太平の時、人民は大いに長生きして百歳であった。左右の気が和し、これを生じたのである。堯典は曰う『私は在位七十歳、禅譲を求めて舜を得た。』舜が徴用されて三十年在位し、堯は退位して老い、八年で終至し、九十八歳で崩御した。まだ在位していない時は、必ずすでに成人していて、今なら百有余を計数する。また、曰く。舜は生まれて三十、徴用されて三十、在位五十歳で崩御した。すなわち死は百歳ほどである。文王は武王に言った。『我は百、汝は九十。我と汝は三だろうか。』文王は九十七にして薨じ、武王は九十三にして崩じた。……故に、太平の世は長寿の人が多く百歳の長生きである。おそらく人の生年の正しい数である。」
★儒者は、太古の中国は気が調和し百歳ほどの長寿社会と信じていた。倭はまだそういうものが残っていると考えたのである。日本の古代天皇が長寿とされるのは、このあたりからヒントを得たのではないか。
★「紀」によれば、崇神天皇、百二十歳。垂仁天皇、百四十歳。景行天皇、百六歳。成務天皇、百七歳。仲哀天皇、五十二歳。神功皇后、百歳。応神天皇、百一歳。仁徳天皇、?歳。履中天皇、七十歳。反正天皇、?。允恭天皇?。安康天皇、?。雄略天皇、?
 神功皇后を卑弥呼に擬しているから、年齢は魏志倭人伝に記された百歳前後に合わせられているのだろう。


*125 社会階級
大きく分けて大人、下戸、生口という身分、尊卑の差がある階級社会である。その社会秩序を維持するために必要不可欠な法も存在した(成文法ではなく、慣習法であろう)。