和邇坐赤坂比古神社(赤坂比古神社)


和邇坐赤坂比古神社と東大寺山古墳

 「…櫟井の和邇坂の土(に)を、初土は肌赤らけみ、しは土は丹黒きゆえ、三栗の、その中つ土を、かぶつく、真ひには当てず、眉書き、濃に書き垂れ、遇わしし女人、かもがと、我が見し子ら、かくもがと、我が見し子に、うたたけだに、向かいおるかも、い添いおるかも。」

 応神天皇が丸邇之比布禮能意富美の娘、宮主矢河枝比売との婚礼時に詠まれたという歌の一部です(応神記)。
 実際、男女を問わず、「眉を書き、濃く書き垂れた」という表現にぴったりの彩色を持つ埴輪があります。博物館なり、学校なり、保管している施設が写真を公開してくれれば良いのですが、ネットを捜しても見あたりませんでした。出版物からの転載は著作権の問題がある。かくなるうえは自作だと、奈良みやげの武人埴輪人形に実物を模した彩色を施してみました。これを見れば納得していただけると思います。ついでに髪を椎髻(ハンマー型)に作ってくれれば申し分なかったのですが、焼くと、ひび割れて歩留まりが悪そうなのは素人でも感じ取れます。となると、古墳の埴輪はかなり難しいことをしている。
 人物埴輪が盛んに作られた時代と、魏志倭人伝時代(前期古墳時代)には三百年ほどの差があり、乗馬の導入によるズボンの使用など、風俗がまったく同じというわけにはいかないでしょう。しかし、赤土の化粧やヘアーバンド、入れ墨など、魏志倭人伝の記述を裏付ける造形が残されています。赤土の使用は、入れ墨同様、元々は魔除けなどの意味を与えられていたと思われます。
 初土(波都邇)は初めて掘る土、しは土(志波邇)は底の土の意味とされています。しかし、(2)の写真は付近で見つけた切り通しですが、同じような地層が繰り返し重なっており、土の深浅の区別は意味をなさないようにみえます。
 初(はつ)というのは時間的な先頭を表す言葉ですから、「初土」は掘り出したばかりの土、「しは土」は時間の経った土ではないか。
 おあつらえ向きに発掘現場もありましたので、立ち入り禁止を無視して入ってみると、掘り返して積み上げられ、時間の経過した土の表面は黒っぽく変色しているのです。
 以上から、歌は、「掘り出したばかりの土は肌の赤のようで薄く、古い土は赤黒いから、その真ん中の土を」と解釈できます。「かぶつく、真火には当てず」の「かぶつく」は、「真火」の枕詞のようで意味は不明です。「強い火に当てないで」作ったのでしょう。岩波古典文学大系「古事記」の注を読むと、学者さん達は、赤土を焼いて黒い眉墨を作ったと解釈していることがわかりました。それなら、丹黒い「しは土」を使った方が便利だろうに。「濃に書き垂れ」は、「眉尻を尻下がりに書いて」と解説しています。考古学と文献史学がまったく連携していないようです。



 この歌の櫟井と目される土地に延喜式内大社、和邇坐赤坂比古神社があります。現在の祭神は阿田賀田須命で、和邇氏の祖神を祭った神社ではないかとされていますが、神社名や式内大社という社格を考えると、応神天皇の歌にある和邇坂の霊力豊かな赤土そのものを祭った神社と解するべきでしょう。
 古くは東方の和邇池の南の天神山にあったとされていて(「日本の神々4」白水社)、集落内から登った地図の3の位置に、一部がゲートボール場になっている平地と池跡らしい水たまり、小さな祠などがあります。ゲートボールをしているお年寄りに尋ねたところ、昔のことは誰もご存じなかったのですが、祭礼時には赤坂比古神社から祠へお渡りする神事があると教えていただきました。やはり、ここが旧社地かと思えます。二つ並んだ池の南に山はありません。しかし、上方の池が和邇池なら南と言えなくもない。
 交通は不便で、奈良からのバス便か、JR桜井線櫟本駅から歩くかです。付近は旧東大寺領だったため、神社の少し南方にある高塚公園一帯は東大寺山と呼ばれており、東大寺山古墳、赤土山古墳、和邇下神社古墳などの東大寺山古墳群があります。いたるところに赤土が見られます。
    
 東大寺山古墳からは後漢末期の「中平■年(184~189)」銘のある鉄刀が出土し、当時の日本と後漢との交流が想定されています。古墳は四世紀後半のものといいますから、和邇氏の間で伝世されていたものが埋められたようです。中平は後漢の霊帝末の年号で、中平元年に黄巾の乱が起こり、あとは戦乱が続いて後漢は滅亡に向かいます。中平六年には、公孫度が遼東太守となり、半独立状態でした。この頃、日本から使者が派遣されたとしても、後漢の都まで達することは考えにくく、遼東太守、公孫氏の元へ派遣されたか、そこでストップさせられたかだと思われます。少し後になりますが、公孫康が楽浪郡南方を分割して帯方郡を創設し、韓や倭は帯方に属したと魏志韓伝にあります。和邇氏の祖先がその遣使に関係していたということになるでしょう。
    
 和邇の集落内の道をのぼると。矢印があって、迷うことなく赤坂比古神社に達します。高塚公園の西南に和邇下神社が見られても、和邇上神社は存在しませんから、坂の上に位置するこの赤坂比古神社が上神社扱いかもしれません。

和邇坐赤坂比古神社(大和志料)
●櫟本町大字和邇(北垣内)ニアリ。
●延喜式(神名帳)ニ「和邇坐赤坂比古神社(大、月次新嘗)」トアリテ、古ハ盛大ナル社頭ナリシモ中世以降衰微シ今ハ村社タリ。祭神赤坂比古命何神ナルヲ知ラズ。蓋シ和珥氏ノ祖神ナラン。



 和邇下神社は前方後円墳の上に建てられており、和邇氏の最有力者が葬られていたのではないか。祖先を祭ったとしたらこちらのように思えます。鉄刀の出た東大寺山古墳は、より古い祖先の墓ということになりそうです。





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