三角縁神獣鏡の神仙思想


1、三角縁神獣鏡
2、中国鏡銘文の韻は完璧とする森博達氏の説に対する批判
3、三角縁神獣鏡銘文の和訳
4、漢鏡、三角縁神獣鏡、呉鏡の銘文比較
5、三角縁神獣鏡と崑崙神仙世界
6、三角縁神獣鏡の魏鏡、倭鏡論争
7、卑弥呼の鬼道と、魏の配慮
8、三角縁神獣鏡の古墳への埋納とその心理
9、三角縁神獣鏡ニュース



1、三角縁神獣鏡

 日本各地から様々な青銅鏡が発見されている。鏡なので、表(おもて)面は、ほぼ平面である。裏面に浮き彫り模様が施されている。模様の形式、類似性に着目して内行花文鏡、方格規矩鏡、神獣鏡、画像鏡などと分類されている。
 外周部が三角の山型に盛り上がり、その内側に神仙、霊獣を描いた鏡が三角縁神獣鏡である(左図)。現在の発見総数は五百数十枚。古墳の発掘調査で出土するケースが多く、今後も追加されてゆくと思われる。
 三角縁の鏡は中国ではほとんど発見されていない。以前、古代史関係の一般書籍をよく読んだが、江南の紹興で出土した三角縁画像鏡が紹介されていただけだった。しかし、2006年に洛陽から直径21.5cmの同向式三角縁神獣鏡が出土しているという。話題にならないのは三角の形が少し違うとかいって、日本では三角縁神獣鏡から外しているからであろう。
 神獣以外の模様が描かれている鏡を画像鏡と呼んで区別しているようである。神獣鏡は画像鏡の一種で神仙と霊獣のみに特化したものということになるのか。このあたりの名称区分にしっかりした基準はあるのだろうか。神獣に加えて馬車が描いてあれば、それは神獣鏡なのか画像鏡なのか。研究者の主観により左右されそうである。それは製作した人間には何ら関係のない後世の分類、与えられた名称に過ぎないので、大雑把にとらえれば済むと思えるのだけれど。
 例えば、日本向けの特殊な鏡として三角縁神獣鏡を作る。日本ではその形を手本に大量生産するから、同型のものがたくさんできる。しかし、作者が異なるので、中国ではそのデザインが少し違うというだけのことではないのか。同じ神獣鏡に分類されていても、デザイナーにより神獣の形は異なる。三角縁だって同じことである。何かそういう神経質な分類が本質から目を背けさせているように思える。
 数は少ないながらも三角縁の鏡が中国で出土している。神獣の描かれた鏡はたくさんある。外周部が台形あるいは線的に盛り上がった鏡も多い。内行花文鏡や方格規矩鏡でも外周部が盛り上げられている。より美しい形を求め、まじない効果も高めたいという鏡師の努力の跡が見える。三角縁はその外周部装飾のバリエーションの一つと位置付けられるのである。神獣パターンと三角縁が元々存在したのだから組み合わせの応用はそれほど難しくはない。前段階なしにいきなり日本独自にこれを考案したとするのは難易度が高い。手本が必要である。
 日本の三角縁神獣鏡は直径22~23cmの大型鏡が多い。大きさが近いのは、規格化されていたということであろう。三国時代の一尺は23.8~24.2cmなので、径一尺で作られたのかもしれないし、「抱朴子、登渉」は、径九寸以上の鏡に、悪鬼を遠ざけたり、その正体をあばく能力があることを記しているから、径九寸(この場合は21.42~21.78cm)の可能性もある。いずれにせよ悪鬼を追い払う能力を持っているわけである。鏡による悪霊払いは、それ以前からの伝承を記しただけで、抱朴子の著者、葛洪(284~363)の思いつきではないだろう。この大きさの鏡もまた中国では少ない。日常品でもない。2006年洛陽出土の鏡は径九寸で作られているようだ。
 三角縁神獣鏡の薄い部分は1mm以下で、凸面鏡として作られているという。手間のかかりそうなことをしているが、銅鐸を作る技術があったのだから、日本でも作れただろう。尺度きっちりの大きさにするのは難しそうである。銅鐸は一番薄いものでも厚さ2mmくらいだという。鏡は鏡面を磨くことで薄くできる。


2、中国鏡銘文の韻は完璧とする森博達氏の説に対する批判

 三角縁神獣鏡の銘文に関し、京都産業大学教授の森博達氏が2000年9月12日、毎日新聞に寄稿された論説をもとに「邪馬台国の会」が編集しているサイトをみつけた。 http://yamatai.cside.com/tousennsetu/innritu.htm
その主張に明らかな矛盾があり、引っかかってしまったので、私なりの見解をまとめてみた。
1,左は森博達氏が例示された漢の官営、尚方局で作られた方格規矩四神鏡の銘文である。
 「各句末の押韻字を日本の音読みで読むと、コウ・ロウ・ソウ・カイ・ホウ。この中で『海』だけが例外のように見えるが、音符(漢字の音を表す部分)の『母』は、音読みでボウと読める。『海』はもとは『母』に似た発音であり、漢代では『好』や『老』と押韻できた。」

2,同じく漢の方格規矩四神鏡の銘文である。
「句末の押韻、各句末の字は上古音(先秦時代を中心とする音韻)ではすべて同じ韻で、後漢の韻文でもきっちりと押韻している。」と主張されるわけである。

 しかし、句末の文字は始(シ)、子(シ)、市(シ)、母(ボ)、始(シ)だから、1の銘文の「海」と同じ位置で韻を踏んでいない。1で「海」は「母」に似た発音で「ボウ」と読むというなら、こちらの「母」も、当然、そう発音してもらわねばならないのである。では、2の韻は崩れていることになる。韻を踏んでいるというなら始、子、市がボウに似た発音だと証明しなくてはいけない。子、始、市を使った詩文はいくらでもある。後漢、張衡の経史閣四言詩ではこの三文字が、「死、治、字、里、事、秘、紀、記、次、被、止、史、士、几、否、耳、履、是、美」等と並んで韻を踏んでいる。これをすべてボウ音だと言い張れるのだろうか。
 それに、海の音符は毎(マイ)であって母(ボ)ではない。毎(マイ)、海(カイ)、悔(カイ)、晦(カイ)、誨(カイ)、梅(バイ)、鋂(バイ)、莓(バイ)等の文字をみればわかるではないか。  
 漢代の詩を調べても、韻を踏むべき位置に「海」が見つからず、うまくいかなかったが、百年ほど後の西晋 曹攄 (?~308)「贈歐陽建」の一節にそういうものがあった。

湯湯洪川 朝宗於海(カイ) 芒芒甫田 稼穡攸在(ザイ) 瞻彼南畝 勤卹無殆(タイ)
鑒此長流 朝夕莫改(カイ) 念茲在茲。非孰肯     慎終如始 令問遂倍(バイ)

 東晋の陶淵明(365~427)の「読山海経」の一節にもある。少し時代はズレているが、句末は海(カイ)、在(ザイ)、悔(カイ)、待(タイ)の韻が踏まれており、海はカイと発音されていたことが明らかである。
 以上から、森氏の海はボに似た発音で中国鏡の韻は完璧だという主張は否定される。「4、漢鏡、三角縁神獣鏡、呉鏡の銘文比較」の漢鏡の韻を参照していただきたい。
 我々は、現在、きれいに韻を踏んだ漢詩を読んで当然のごとく思っているが、それは言葉の芸術というべきものであろう。時間という強烈なフィルターをくぐり抜けた優秀なものしか残っていないことを忘れているのではないか。まず主張したいことがある。次いでそれを表現する言葉を探す。適当な言葉、つまり、きれいに韻を踏み平仄を整えた表現が与えられた時間内にできなければ、できずに通すしかない。一般人が作ればそういう駄詩がほとんどになるだろう。鏡師は詩人ではない。まず優秀な鏡を作る技術が認められて登用される。文才があればそれにこしたことはないが、持たない者もたくさんいただろう。製造には期限があるのに言葉はままならない。先人の作ったものを踏襲すれば少しは楽になる。すべての中国鏡に完璧な韻を想定するのは間違いである。李白、杜甫等の詩でさえ、それは当てはまる。日本の三角縁神獣鏡の銘文の韻が不完全だという理由で魏鏡ではないという結論は引き出せない。


3、三角縁神獣鏡銘文の和訳

 私が魏鏡もしくはその正確なコピーとみている鏡の銘文は以下のようになっている。

(大阪府柏原市、国分茶臼山古墳出土)
 吾作明竟【君】真大好 浮由【官】天下 ■四海【高】 用青同 至海東【宜】
「私は明鏡を作る。まことに良い品である。天下を浮遊し四海に遊ぶ。青銅を用いる。海東に至る。」
   (「君宜高官”=君子は高官になれる”」と逆回転の四文字が入っている)

(大阪府柏原市、国分茶臼山古墳出土)
 ■作明竟幽煉三剛 銅出徐州師出洛陽 彫文刻鏤皆作文章 配徳君子清而旦明
 左竜右虎転生有名 師子辟邪集会並 王父王母游■聞■ ■■子孫

「(私は)明鏡を作る。三種の金属(銅、スズ、鉛)を溶かして錬りあげた。銅は徐州に出で、(鏡)師は洛陽に出ずる。模様を彫り、刻んで散りばめ、皆、文章を作る。徳を君子に配り、清くして明るい。左に竜、右に虎。転生して獅子、辟邪の名がある。集まって会し並ぶ。王父王母は■に遊び■を聞く。子孫に■■。」
   (幽は融の借字ではないか?あるいはノウハウの意味か?)

(滋賀県野洲郡野洲町、大岩山古墳出土/馬車、馬)
 鏡陳氏作甚大工 荊莫周■用青同 君宜高官至海東 保子宜孫
「鏡は陳氏が作った。非常に技巧を凝らしたものである。型模(鋳型)は彫(啄?)し、青銅を用いる。君子は高官になれる。海東に至る。子を保ち、孫によろしい(=子孫は繁栄する)。」

(滋賀県野洲郡野洲町、古冨波山古墳出土/西王母、東王父、越守)
 陳氏作竟甚大好 上有越守(及龍)虎 身有文章口銜巨 古有聖人王父母
 渇飲玉泉饑食棗

「陳氏が鏡を作った。はなはだ良い品である。(鏡の)上には越守及び龍虎がある。その体には模様があり、口には巨(正邪を測る差し金)を銜える。いにしえには聖人の東王父、西王母がいて、喉が渇くと玉泉を飲み、腹が減るとナツメを食べた。」
   (越守の越は小篆の越が用いられている。)
 
(群馬県高崎市柴崎、蟹沢古墳出土)
 ■始元年 陳是作鏡 自有経述 本自州師 杜地命出 寿如金石 保子■■
「(正)始元年、陳是(=氏)が鏡を作った。私自身の経歴があるので述べる。元、私は楊州の鏡師であったが、地を閉ざされ、出ずるを命ぜられた。金石の如く長生きする。子を保ち■■」

(出雲、神原古墳出土)これは倭鏡。銘文をそのまま写したのではないか。
 景初三年 陳是作鏡 自有経述 本是京師 杜地命出
     吏人銘之位至三公 母人銘之保子宜孫 寿如金石兮

「景初三年、陳氏が鏡を作った。私自身の経歴があるので述べる。元は洛陽の鏡師であった。地を閉ざされ、出ずるを命ぜられた。官吏が持つと位は三公に至る。母になる人が持つと子孫は繁栄する。金石の如く長生きする。」

 吏人銘之位至三公 母人銘之保子宜孫は、「吏人これを銘せば位至三公、母人これを銘せば保子宜孫」という対句になっていて、前の句では述、出の韻も踏まれている。最後の文字「兮」は不自然に大きく、文字を順番に書いていった結果生まれた大きなスペースの余りを埋めるために加えたものであろう。文字の割り付けノウハウを持っていなかったことがわかるので倭鏡と解した。

 銘文には、自らの作った鏡はすばらしいという自負、鏡に描かれた神獣の説明、所有者に幸運をもたらすことが書かれているし、自分自身の経歴まで記している。この自身の経歴は、中国のどんな鏡にも見られない。これを手がかりに魏志を検討することで、陳氏の置かれていた状況や卑弥呼一族の過去まで見えてくる。「魏志倭人伝から見える日本4、三角縁神獣鏡銘文から読み取れる倭人の過去」にそのことを記してある。


4、漢鏡、三角縁神獣鏡、呉鏡の銘文比較

【漢鏡の銘文】 韻(青字の部分)が完璧と言うわけにはいかない。上方、尚方は漢の官制工房、尚方局で作られたことを示す。

 上方作竟佳且 明而日月世少 刻治文守悉皆 長保二親宜孫

 袁氏作竟真大 上有東王公西王 仙人子傐赤誦 ■■白虎熏左  爲吏髙升賈
 千秋萬歳王

 朱氏明鏡快人 上有龍虎四時 常保二親宜酒 君宜官秩家大 樂未央富貴
 與君相保敝日月

 桼言之紀從鏡 煉銅錫去其 以之爲鏡宜孫 長保二親樂無 壽幣金石西王
 常安作

 此有青銅真獨 上有仙人不知 渇飲玉泉飢啖 浮游天下遨四 壽欲金石爲國
 長生久視家常

 尚方作竟自有 良時日家大 九子九孫各有 位至三公中常 上有西王母東皇
 山人子喬赤由


【魏鏡と思われる日本の三角縁神獣鏡の銘文】
 1,吾作明竟【君】真大 浮由【官】天下■四【高】 用青同至海【宜】

 2,鏡陳氏作甚大 荊莫周■用青 君宜高官至海 保子宜孫

 3,■始元年 陳是作鏡自有経 本自州師杜地命 寿如金石保子■■  

 4,■作明竟幽煉三 銅出徐州師出洛 彫文刻鏤皆作文 配徳君子清而旦
       左竜右虎転生有 師子辟邪集会 王父王母游■聞 ■■子孫

 5,陳氏作竟甚大   ちんしさくけい    しんたいかう(Kau)
   上有越守(及龍) しゃういうゑつしう  きふりょうこ(Ko)
   身有文章口銜   しんいうぶんしゃう  こうかんきょ(Kyo)
   古有聖人王父   こいうせいじん    わうふぼ(Bo)
   渇飲玉泉饑   かついんぎょくせん  きしょくさう(Sau)

 6,陳氏作鏡甚大 上有仙人不知 古有聖人己龍 身有文章口銜

 2の鏡はすべての句末がそろっていて、4,5、6も二種類の韻が整っている。4は呉音で考えれば一つの韻になる。できているものもあれば、できていないものもある。三角縁神獣鏡と漢鏡の韻は大差ないといえる。そして、当時の日本人にこういう種類の文章を作れるかどうかが問題になる。「浮遊天下遨四海」とか「上有仙人不知老」とかは、漢鏡とまったく同じ語句である。


【 三国時代の呉鏡の銘文】
 黄武六年十一月丁巳朔七日丙辰 会稽山陰作師鮑唐鏡 照明服者也 宜子孫 陽燧
      富貴老寿  臣先牛羊馬 家在武昌 思其少天下命吉服 吾王干昔■■

 黄武七年七月丙午朔七日甲子 紀主治時 大師陳世厳作明鏡 服者立至公
 
 黄竜元年太歳在己酉七月壬子■十■甲子 師陳世造作百湅明鏡
                         其有服者命久富貴 宜■■

 黄竜元年太歳在丁酉七月壬子朔十三日甲子 ■陳世■造作三湅明鏡 其有服者命久富貴

 永安四年五月五日丙午日造鏡 寿如東王公西王母 ■■■宜長者吏人

  漢鏡、呉鏡と三角縁神獣鏡の銘文を比較すると、三角縁神獣鏡には洛陽で作られた漢の尚方鏡などと同一の語句、神仙思想的発想が大量に見られる。つまり三角縁神獣鏡は尚方鏡の伝統を受け継いでいるのである。呉鏡とのつながりはほとんど感じられない。呉鏡には押韻した詩文的文章を入れる発想そのものがなく、決定的な違いをみせる。型に流し込む直前に彫り上げるとは思えないから、日時は形式的な語句に過ぎないと思えるのに、それに強いこだわりを持っていて、以下の、日本で発見された呉の紀年銘鏡(呉鏡か倭鏡かは不明)でも同じである。

(山梨県鳥居原狐塚古墳)
  赤烏元年五月廿五日丙午■■■■百■■■■■君侯■■■■萬年

(宝塚市安倉古墳)
  ■烏七年■■在丙午 昭如日中 造作明竟 百幽漳 服者富貴 長樂未央 子孫■■
  ■■■明

 三角縁神獣鏡も呉鏡も陳という人物が同時代に作っているが、名前の書き方が異なる。「陳氏、陳是」と「陳世、師陳世」である。同姓の鏡師の一族が魏と呉に分裂したことがうかがえ、三角縁神獣鏡は元は南方(揚州か徐州)に居住していたが、洛陽に強制移住させられ、魏の尚方局に所属していたことがある鏡師、陳氏により製造されたと考えられるのである。三角縁神獣鏡のすべてを魏鏡とするのは無理だが、銘文の意味を考えると、すべてを倭鏡と考えることにも無理がある。


5、三角縁神獣鏡と崑崙神仙世界

 三角縁神獣鏡の銘文によれば、描かれている神仙は、西王母、東王父、王喬、赤松子。滋賀県野洲市古冨波山古墳出土の鏡には、越の守護神を意味するのか越守という言葉もある。霊獣は、(蒼)龍、(白)虎、獅子、辟邪である。内側に神獣の模様があり、神獣と三角縁の間には、銘文や三角形の連続模様、細かい放射状の線刻がある。この二つは鏡の放つ光芒を表すらしい。これら神仙、霊獣と光芒の力で邪を払う。長寿や子孫繁栄、栄達を実現する。これが三角縁神獣鏡に期待されていた力である。
 西王母は崑崙に居住している。東王父もそこに遊びに来る。仙人の赤松子も常に崑崙の西王母の石室で休んだという。王喬は白い鶴に乗って飛び去った。崑崙は聖人や仙人の楽しむ所ともされている。「抱朴子、巻二十、袪惑」には、崑崙に「また、神獣あり、名は獅子、辟邪、三鹿、焦羊…」と記されている。神獣鏡は崑崙の神仙世界を描いているのである。笠松型と表現される模様を含む鏡もあるが、崑崙を描いているのだから、そこに生えている霊木を表すのであろう。淮南子には珠樹、玉樹、不死樹など、いろいろ書いてある。
 外周部、三角断面の盛り上がりも、意図的なデザインだから、何らかの意味を持つ。上記から、三角縁は崑崙、高山の表現とすることができる。
 崑崙は、後世、さまざまなことを書かれているが、特定の山ではないだろう。おそらく、中国の太古、チベット高原から降りてきた部族がいて、自分たちの故地、中国西方に在り、普通の人には登れないほど高く、天に最も近い聖地、崑崙の伝説を作り上げたのだと思われる。そこに西王母や仙人など様々なものがくっついた。黄河が東北の隅から流れ出るとされているから、黄河を下る形で降りてきたのかもしれない。地図を見てわかるとおりチベット高原はより高い山脈に囲まれている。古書に「崑崙の虚」と表現されたのはこの地形であろう。後世になって、「崑崙の虚なんてなかった」と書かれたのだが、宇宙から眺められるようになった今は存在していることがわかる。
 邪馬壱国が山に囲まれた広い平地(青山四周=青山よもにめぐれり)、大和を都城の地としたのは、理想郷、崑崙を模していたのかもしれない。大和の地形を聞いて、この三角縁のデザインを選んだ可能性もあるだろう。


6、三角縁神獣鏡の魏鏡、倭鏡論争

 卑弥呼には百枚の銅鏡が授けられている。これは日本に届けられた。そのあと都にいる女王に伝送されたことまで記されているから(魏志倭人伝)、信じて良いだろう。記録はないが、卑弥呼の跡を継いだ壱与にも、最初の遣使の際、前例を踏襲して百枚の鏡が与えられた可能性がある。この魏の下賜した鏡が三角縁神獣鏡かどうか、三角縁神獣鏡は魏鏡か倭鏡かという論争が続いている。
 一枚でも手本があれば、そのままコピーしたり、自らのアイデアを入れて改変することは容易である。これは現在の有名ブランド品模倣の氾濫から想像がつくであろう。三角縁神獣という枠内のすべてをひとくくりにした、魏鏡、倭鏡のどちらかしかないという二択はおかしいのである。壱与のものがあったとしても二百枚の魏鏡。そのうち、運良く現在まで残って出土する確率、総計五百枚という出土数を考えれば、ほとんどが倭鏡である。しかし、景初三年や■始元年という魏の年号や、陳氏という鏡師の名が記されたり、日本には存在しなかったはずの馬と馬車を描く鏡があるから、卑弥呼の鏡もいくらか混じっているはずである。そういうものを日本独自に発想するのは無理で、手本がなければ作れない。魏鏡でないとしたらその手本は何かということになる。銅鐸の幼い線描と、上の写真、鏡のレリーフ的デザイン、技術にどれほどの差があることか。
 魏志によれば、景初二年十二月の制紹により、卑弥呼に銅鏡百枚を下賜することが明らかにされた(倭人伝)。十二月八日、明帝は病に倒れる。だから、制紹は十二月一日から七日までの間に出されたことになる。ひと月後の景初三年、正月一日に崩じて、斉王芳が即位した(明帝紀)。翌、正始元年の夏に帯方郡使、梯儁が鏡を届けている(倭人伝)。制紹は鏡などを装封して卑弥呼の使者、難升米、牛利に付すとしているから、難升米等の帰国もこの時である。したがって、卑弥呼の鏡の製作可能年は景初三年中から、正始元年一、二月頃までに限定されるのである。三角縁神獣鏡に記された年号も、この年代に限定され、わずか二年の幅しかない。偶然にしては一致しすぎている。
【注…卑弥呼の使者、難升米の派遣を景初三年とする説があるが、魏志の記述どおり景初二年が正しい。詳しくは「魏志倭人伝から見える日本3、魏との交流」へ】
 三角縁神獣鏡出土の中心地は畿内で、同じことを考える人間が全国的に広がっていたわけである。なぜこれほど同形式の鏡が大量に作られたのか、古墳に収められているのか、その人気の源泉と役割を考える必要があるだろう。中国製という当時の最高級ブランドで、受け入れたくなる宗教的要素を備えていたため、大量にコピーされたと考えれば説明がつく。三角縁、神仙、霊獣の鏡をありがたがる信仰の中心地は畿内なのである。
 現在、仿製鏡(日本製)、舶載鏡(中国製)と区別されているが、研究者の主観的な判定に過ぎず、まったく無意味である。その判定の誤りを指摘するレポートが、最近、相次いで発表されている。仿製鏡がほとんどであろう。
 京都府福知山市、廣峰15号墳出土の三角縁盤竜鏡は景初四年という年号を持つ。明帝の制紹は「下賜品を国中の人に示して魏が支援していることを周知すればよい」と言っているから、その言葉どおり各地の有力者に配られたようだ。福知山付近の有力者に与えられた景初三年鏡を模倣して作られたが、魏の改元を知らず、翌年、次の年号を入れて作ったものと考えられる。その銘文中に見られる陳氏の陳は鏡文字になっている(右図)。型を作る時は文字の左右を反転させなければいけないが、そのまま陳と作ってしまったのだ。他にそんな例はないし、作り慣れた自分の名をうっかりミスするわけがないから、陳氏の作ではない。直径17cmと小さく、龍の形も全く違う。景初四年銘鏡は明らかに倭鏡である。
 私が卑弥呼の鏡と扱うのは、破邪の能力を持つ、規格化された直径21~23cmの三角縁神獣鏡で、詩文的な銘文のあるもの、鏡師は陳氏に限る。それにも、正確なコピー品があるだろうから、すべてとは言えない。王氏や張氏作とする鏡もあるが、倭鏡と考える(日本に渡来した呉人、越人、楚人が姓を持っていても当然)。同一グループが作っているから、そのデザインや銘文には共通性があり、そこから外れたもの、銘文の尻切れトンボなどは簡単に除外できる。
 福岡県の沖の島で発見された天王日月という銘文を持つ秀麗な三角縁神獣鏡もある。魏鏡と思えるが、卑弥呼の鏡とは様式が異なっており、壱与に与えられた百枚のうちの一つと考えている。


7、卑弥呼の鬼道と、魏の配慮

 この頃、まだ道教は成立していないが、その土台となる、土俗信仰が盛んであった。中国太古のアニミズムから出発し、長い時間をかけて発展してきたものである。おそらく地方ごとに異なってバラバラだったであろう。儒家はそれを鬼道と表現している。曹操と同時代、後漢末の五斗米道の指導者、張魯は「(張)魯は、遂に漢中に拠り”鬼道”を以って民を教え自ら師君と号す。」と書かれている(魏志張魯伝)。「道を学びに来たものを初めは皆”鬼卒”と名づけていた。」とあるから、自ら鬼道と唱えていたのかもしれない。卑弥呼は「鬼道に事え能く衆を惑わす。」と表され、帯方郡使、張政には同種の信仰とみえた。こういった不老長寿や栄達、繁栄、幸運を希求する様々な土俗信仰が、仏教の影響を受け、集約されて道教になったのである。
 春秋戦国時代の「道家」、老子、荘子などは「無為自然」を唱えた。生や死も、道の一つの様相に過ぎない。恐れ悲しむことなく、あるがままに受け入れよという。しかし、これは凡人には敷居が高すぎて、まじないやら、祈祷やら、呪符やら、占いやら、手をつくして災いを避け、長寿、福禄を得んとあがく。このような方法、術を方術といった。道教と名づけられたが、現世利益を求め、方向は老、荘と正反対である。
 漢の武帝は神仙にあこがれ、不老長寿を望んでいた。東越を滅ぼし、越人を江淮の間へ強制移住させたので、東越は無人になったと史記東越列伝は記しているが、この頃に越人との出会いがあり、越の方術(越方)に興味を引かれたのであろう。その言を入れたり、越人は中央政界で重んじられるようになった(漢書武帝記、郊祀志)。

 卑弥呼は越王の子孫なので(「中国・朝鮮史から見える日本2 」参照)、卑弥呼の鬼道は、この越方そのものと思われる。呉越春秋は、越王勾踐が大夫種の進言を容れて、東皇公、西王母を祭ったと記している。事実なら、これが越方の始まりである。大夫種は楚人なので、楚から伝わったと考えて良いだろう。
 滋賀県野洲郡野洲町、古冨波山古墳出土の三角縁神獣鏡銘文は、西王母、東王父の脇に描かれている神仙を「越守」と記しているから、鏡を作った陳氏は卑弥呼と越の関係を知っていたのである。
 越守の姿もまた気になる。西王母の脇に描かれた越守は、明らかに後ろ足と尾があり、頭は人である。これはヤオ族、ショー族(福建省、ヤオ族の分岐、日本へ渡来したのはこちら)の始祖神、半人半狗の槃瓠の姿ではないか。狗頭人身とされているので、表されかたは正反対(人頭狗身)になっているけれども。
 制紹は卑弥呼に「特に汝に賜う」、「汝の好物を賜う」と記している。その特に汝に賜れた好物の一つが鏡なのである。好物は「良い物」ではない。魏政府の贈り物が良いのは当たり前で、わざわざ書くほどではない。「好む物」である。卑弥呼は鬼道の術具となる鏡を喜ぶ。魏はそのことに配慮して、最もふさわしいと思える鏡を作ったのである。
 卑弥呼は、鏡や布地、毛織物のほか、真珠、鉛丹を五十斤ずつ、金八両をもらっている。真珠はパールではなく辰砂のことである。辰砂、鉛丹、金は、不老長寿や不死を目指して作る丹藥の素材とされている。卑弥呼がそういうものを作ろうとしていたかどうかは不明だが、古墳の内部が赤く装飾されていることなどから、真珠、鉛丹に魔除けの効果があったことは間違いない。これらも鬼道に必要なものだったのである。金もそうであろう。五尺刀を二口もらっているが、これも術具かもしれない。

 2011年6月16日号の週刊新潮に、聖徳大学の山口名誉教授の三角縁神獣鏡に関するレポートが掲載されていた。
「全唐文」の第684巻(清代の編纂)に「昔、魏は倭国に酬するに、銅鏡の鉗文を止め、漢は単于に遣するに犀毘綺袷を過ごさず。並びに一介の使、将に万里の恩とす。」という文章があるそうで、原文を捜したら「昔魏酬倭国止於銅鏡鉗文…」とあった。「昔、魏は倭国にむくゆるに銅鏡における文を鉗するのを止め、…」と読み下せる。「鉗」は「首かせ」で、「文」は「模様」を表す。要するに、銅鏡の模様の規制(首かせ)をはずしたという意味である。
 氏はこの文章を三角縁神獣鏡に結び付けているが、直接の証明にはならない。しかし、鏡の模様を自由にした、中国のそれまでのものとは違い得るということなのだから、三角縁神獣鏡は中国では出土しないから倭鏡だという主張はストップさせられる。むしろ中国では珍しい、主流を外した形を想定した方が良いことになる。卑弥呼の好物、もっとも望ましい鏡を作るため、ここまで気を配ったのである。
 同じく、晋書天文志(唐代の編纂)に景初四年という年号が出てくるというので調べてみたが、入れられている注を勘案すると、これは青龍四年のデータを誤って景初に加えたものと結論できる。六十年で一巡りする干支があって、年号はそれに関連づけることができ、正確な年表が簡単に作れるのである。景初四年を認めると後の干支が合わなくなる。景初三年に続く正始元年を記した同形式の鏡が存在しているが、景初四年鏡は大きさ、神獣模様が全く異なる。改元を知らずに倭で作ったもので景初四年はやはり存在しない。


8、三角縁神獣鏡の古墳への埋納とその心理

「昔、魑魅あり。あつまりて鏡をもてあそび見て、則ち、自ずから去りき。俗に、疾き鬼も鏡にむかえば、自ずから滅ぶという。(常陸国風土記、久慈郡)」
 以前から、壊れやすいのではないかと、三角縁神獣鏡の薄さが気になっていた。2014年1月19日、3Dデジタイザーで精密に計測し、3Dプリンターで三角縁神獣鏡の精巧なレプリカを作って光を当てたところ、反射光に、裏面の神獣などが透過されたように映し出される魔鏡現象が現れたという京都美術工芸大学教授、村上隆氏の発表があり、ようやくその疑問が解消された。薄さが必要だったのである。妖魔を退治する能力をいっそう強化するためだろう。同時に、この技術を当時の日本で発想できるのかという疑問も現れる。やはり手本がなければ無理である。
 凸面になっているのは光を拡散させるためだという。顔を写せば歪んでしまうから、最初から鬼道の術具として作られている。
 奈良県天理市柳本町の黒塚古墳は盗掘されていなかったため、埋葬された時に近い状態で三十三枚の三角縁神獣鏡が出土した。木棺の外側、北半分(上半身)をコの字型に取り囲むように置かれており、木棺の中では、画文帯神獣鏡を被葬者の頭側に、両側には刀剣を置いて、鏡と同じように上半身を取り囲む形になっていたという。棺の外の三角縁神獣鏡と、内側の画文帯神獣鏡+刀で死者は二重に守られていた。被葬者の財力や恐怖心の強弱で、そういうものは変わるだろうが、この使われ方は、鏡の破邪の効能と卑弥呼の信仰=中国由来の鬼道(越方)の関係を示唆するものである。崑崙を描いた三角縁神獣鏡の力で死者の登仙を願う気持ちがあるかもしれない。


9、三角縁神獣鏡ニュース

 2015/03/02 「三角縁神獣鏡、中国で発見?」
 三角縁神獣鏡と同形式の鏡が中国河南省の洛陽市で見つかったとする論文が地元の研究史に掲載された。(3月2日、朝日新聞)
 この鏡は直径18cm、厚さ0.5cmで三角縁神獣鏡としては小型。日本のものは23.5cmくらいある。論文執筆者自身が洛陽の骨董市で農民から譲り受けたそうで、出土状況、農民の入手経緯などはまったくわからない。魏志倭人伝に記されている銅鏡百枚は三角縁神獣鏡とみる意見が多いが、中国からは一枚も見つかっていないため、疑問が呈されてきた。それに一石を投じる発見ではある。
★写真を見ると、はっきりしない文字もあるが、銘文はだいたい以下のように読み取れる。   「吾作明竟真大好上有聖人東王父西王母師子辟邪口銜巨位至公卿子孫寿」 
  「私は明鏡をつくった。真に非常に好いものである。(鏡の)上には聖人の東王父と西王母がある。師子、辟邪は口に(善悪を測る)差し金を銜える。位は公や卿に至る。子孫は長生きする。」という意味である。
★これが本物かどうかというのがまず問題になるし、日本の鏡を中国へ持っていった可能性も消せない。遣唐使以前から、中国へ渡った人はたくさんいる。お土産に一枚というのもあり得るのである。後世、日本の畑などから出土したやつが、明治、大正、昭和期に中国人の手に渡った可能性もありそうだ。中国で発見されたから、即、中国製とは言えない。上に書いたように聖徳大学の山口名誉教授が、「全唐文」の第684巻(清代の編纂)に「昔、魏は倭国に酬するに、銅鏡の鉗文を止め、漢は単于に遣するに犀毘綺袷を過ごさず。並びに一介の使、将に万里の恩とす。」という文のあることを指摘している。銅鏡の模様の規制(首かせ)をはずし、卑弥呼にプレゼントするため卑弥呼が好むかたちを選んだことになる。逆に言えば、中国では銅鏡の模様が規制されていたわけだから、三角縁神獣鏡が見あたらないのも当然なのである。この鏡が魏代のものなら、規制はなし崩しになったのかという問題が出てくる。そういう理由から、倭鏡が後世に中国へ渡った可能性を考えている。
 三角縁神獣鏡のうち、卑弥呼に与えられた鏡は百枚。宗像大社に収められた秀麗な三角縁神獣鏡は天王日月の銘しかなく、饒舌な卑弥呼の鏡とは形式が異なる。おそらく壱与に与えられたのであろうと思われる。同じく百枚か。それ以外はすべて模倣した倭鏡という私の立場からすれば、この鏡がどうあれ、影響を受けることはない。

2015/11/01 「舶載鏡1枚と仿製鏡3枚の傷跡が一致」
 奈良県立橿原考古学研究所の清水康二主任研究員が、鏡に残った鋳型の傷(ひび)から、中国製とされる1枚(舶載鏡)と和製とされる3枚(仿製鏡)が同じ鋳型から作られたことを突き止めた。
 三次元の分析装置で精密に調べたところ、いずれも文様が異なるのに鋳型の傷を示すしわの形や長さ、位置が、それぞれ2~3カ所で一致したとしている。清水さんは「複数箇所の一致は偶然ではありえない。鏡を鋳造後、鋳型の文様面を削って新しい文様を彫り込んだが、ひびが深いため、そのまま残り、同じ形のしわができた」とし、4枚の鋳型は同じと結論付けた。
 模様の正確さなど見かけで中国製、和製と分類していたが、それが当てにならないことになり、今後、大きな影響を与えそうである。

★卑弥呼に与えられた鏡は百枚だけなので、ほとんどの鏡は魏鏡を模倣しアレンジを加えた和製である。この4枚も和製。

2016/02/05 「中国製」と「日本製」の双方の特徴がある過渡的な三角縁神獣鏡(日経新聞 )
 石川県中能登町の小田中親王塚古墳(4世紀後半)で明治時代以前に出土した三角縁神獣鏡が、「中国製」と「日本製」の双方の特徴がある過渡的な鏡だったことが宮内庁書陵部の調査で分かり、詳細が書陵部紀要に掲載された。
 「卑弥呼の鏡」ともいわれる三角縁神獣鏡は、初期ヤマト王権が権威の象徴として配布したとの説が有力。文様のパターンや正確さなどから中国製と国産に分類されるが、小田中親王塚古墳の鏡は両者が一連のもので、中国か日本のどちらかで作られ続けた可能性を示しており、論議を呼びそうだ。
 調査した加藤一郎主任研究官によると、鏡は直径約21センチ、重さ827グラム。神像、角や牙を持つ獣像などの文様がある「三神三獣鏡」で、中国製では最新段階に位置づけられる。しかし、鏡の中心部(内区)とその外側(外区)の厚みにほとんど差がないなど国産鏡に近い要素もあった。「いわゆる『中国製』から『日本製』への過渡期に当たる。文様は初期の三角縁神獣鏡に比べ崩れているが、古代中国の神仙思想を理解したものであり、中国製だろう。個人的には三角縁神獣鏡は全て中国製と思う」と話している。
 同古墳は直径約65メートル、高さ約14メートルで、北陸最大級の円墳。能登半島を横切る交通の要衝にあり、1875年に崇神天皇の皇子である大入杵命の墓に指定された。指定前は埋葬施設の石槨が露出し、三角縁神獣鏡は墳丘上にあった神社に祭られていたという。日本海側では最北の出土例で、近くの「白久志山御祖神社」の神宝となり、詳細な調査はされていなかった。

★2015/11/05のニュースにあるように、これまでの中国製、日本製という研究者の感覚的分類法はまったく意味を成さない。この鏡もすべて倭鏡である。卑弥呼の鏡は銘文の記された三角縁神獣鏡、陳氏鏡で、発見されている本物は 十枚あるかどうかというところではないか。




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