日・中 認識の違い



狸(リ)は狸(たぬき)ではない

 以前、日経新聞の文化欄、「美術になった猫(十選)」というコラムに、宋代の画家、李迪の「狸奴小影図→」が紹介されていた。「題が面白い。猫と書かず狸(たぬき)なのである。漢字のルーツにかかわりがあるのか、それとも子猫のポーズが狸を連想させたからか。奴は家っ子のことで、愛らしいしもべと訳す…」と選者の画家は書いている。
 しかし、中国の狸(り)はタヌキではない。野猫である。人家近くで生活していたらしく、非常に身近な獣だったようだ。だからペットとして飼われ、絵になったのがこの「狸奴小影図」なのであろう。家猫ではないから、ちょっと変わった首の長い猫図になっている。
 下の絵を見ると猫に見えるから、猫の意味で使われているのかもしれない。しかし、原初はニワトリやアヒルを盗まれた百姓が「貍のやろう(狸奴)!」とののしる言葉だったのではないか。猫という言葉と文字があるのだから。
 狸の成獣がどんな形か知りたいものだ。日本のタヌキと全然違うなんて話は聞かないから、今は絶滅したのだろうか。
「本草綱目」には、「よくニワトリ、鴨を盗む」、「狸、形は猫に類す。その文(模様)二あり。一は連銭の如し。一は虎文の如し。」とか、「斑ありて猫の如し。」とされているから、 豹のような斑点模様と、虎のような縞模様の二種がいた。ジャコウ猫などもこの仲間に入れられているらしい。日本ではヤマネコと分類している獣だ。ツシマヤマネコやイリオモテヤマネコを連想すれば良いのだろう。

「貛」というのがタヌキのことらしく、狗貛とか天狗とかも呼ばれている。肥えて鈍そうなかたち。山野にいる。土に穴を掘って住む、形は家狗の如くして足が短い。果実を食べる。数種あるがよく似ている。小狗に似て、肥えている。喙が尖る、足が短い。尾が短い。深毛、褐色。皮は皮衣にできる。虫、蟻、瓜、果物を食べるというようなことが書いてある。当時、イヌ科などという分類法はなかったが、ちゃんと類縁の獣だと認識されている。



鮎(デン、ネン)は鮎(あゆ)ではない

 明代(1500年代後半)に著された本草綱目では、右図のように鮧魚、鯷魚、鰋魚、鮎魚をすべてナマズだとしている。前漢代(紀元前2世紀)に成立したとされる爾雅は「鮎」に「別名は鯷、江東通は鮎を呼びて鮧となす。」という説明を付けている。太平御覧は、「永嘉郡記(南朝宋400年代)曰く、漈湖渓中に大鮎多し、昔、流れに一死を得る有るは鬚大五、六囲み」と引用している。長いヒゲを持つからナマズで間違いない。中国では鮎はナマズなのである。
 日本書紀、神功皇后摂政前記には、次のような話がある。「火前(肥前)の国の松浦県に着いて、玉島の里の小河のほとりで食事された。皇后が針を曲げて釣針を作り、米粒を餌に、着物から糸を抜いて釣り糸にして、川の石の上に登って針を投げ、占って言われた。『私は西にある宝の国を求めようと思う。もし事が成るなら、川の魚は釣り針を飲みなさい。』竿を上げると細鱗魚を獲た。」、古事記では年魚を釣り上げたことになっている。
 アユを表す漢字がなく、細鱗魚、年魚と書いたらしい。鱗を気にせずそのまま食べられるし、一年で死ぬから、この呼び名はなるほどと思わせる。現在の中国では、細鱗魚はイワナやヤマメの類。年魚はナマズである。粘、鮎(ネン)と同音ということであろう。古代にこういう呼び名はなかったようである。
 ともかく、700年代前半、「記、紀」成立の時期には、アユに鮎という文字は使用されていない。後に、神功皇后のこの説話から魚と占いを組み合わせた文字、鮎はアユに使用されるようになった。
 平安時代の延長五年(927)、藤原忠平によって完成した延喜式でも「押年魚」「煮塩年魚」「鮨年魚」「年魚」の表記が有り、アユは年魚である。
 同じく承平年間(930年代)に成立した源順(みなもとのしたごう)の和名類聚抄(和名抄)、「鮎」の項には、「本草は鮧魚という。蘇敬注曰く、一名鮎魚(注、上の音は奴兼の反。和名、安由〔アユ〕。楊氏漢語抄は銀口魚、又の名は細鱗魚という。)崔禹食経はいう。姿は鱒に似て小、白皮が有り、鱗無し。春生まれ、夏に長じ、秋に衰え、冬に死す。故に年魚と名付けられている。」と書いてある。「鯰」という項目が作られていて「崔禹食経は云う、鯰は姿はゴリに似て大頭である。(注、和名、奈万豆〔ナマヅ〕)」とされている。和名抄時代にはアユは鮎と表記されていたのである。
 崔禹食経とか楊氏漢語抄とかを引用していて、中国でも鮎はアユだったのかと思わせるが、この二書は逸書で中国でも存在を知られていない。日本にあるわずかの引用が残るのみで、いつの時代に書かれたものかもわからない。
 「鮏魚」という項目もあって、同じく崔禹食経からの引用として「その子はイチゴ(野イチゴ)に似て赤く光る。一名は年魚、春生まれ年中に死ぬのでこの名がある。(和名佐介)」と記されている。サケは川で生まれ、数年北の海で回遊した後、産卵のため元の川へ戻って死ぬが、そういう生態は知られていなかった。戻ってきた数年前のサケを春生まれたサケと誤認して、一年で死ぬと考えたのである。しかし、中国にサケが存在するとしたらオホーツク海に河口を開く黒竜江水系だけである。そのあたりは当時の中国人には未知の土地で、サケの生態を知るはずがない。したがってサケを表す文字もない。イクラを知っているし、秋に死ぬことも知っている。説文解字は「鮏」を「魚臭なり」、つまり、生臭いことだとしているから、中国のよく知られた字書と全く違う説明を付けている。「鯰」という中国にない文字も書いている。これらの点から、崔禹食経は日本に渡来した中国人が著した書と解するべきであろう。「鮏」は「鮭」の転写間違いという可能性もあるが、サケを知っているのはおかしいという点で変わりない。延喜式では、すでにサケに鮭(中国ではフグ)という文字を使用している。これはケイという音を採ったのであろう。
 楊氏漢語抄も中国では「鯰」と同義とされる「鯷魚」に比師古(ヒシコ)、以和之(イワシ)という和訳を書いているから、崔禹食経と同じことが言える。
 広大な中国と日本では住んでいる魚が違う。一つ一つの漢字を日本の魚名に当てはめるのは不可能である。それに魚に対する関心は日本の方が深い。魚偏の和風漢字がたくさん作られている。アユは中国では一部地方でのみ知られているという存在だったのであろう。明代になると香魚という表記が現れる。
 1100年代に成立した今昔物語では鯰(ナマズ)と鮎(アユ)で現在と同じ形になっている。
 アユは927年の延喜式に年魚で、930年代の和名抄に鮎なのだから、和名抄がきっかけになって、鮎という文字を当てはめることが定着したのかもしれない。 





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