男神社(男之水門)



男神社

 古代の大阪には、便宜上、河内湖と名付けられている、大きな湖があった。難波の枕詞「葦が散る」「押し照るや」は今でこそイメージが湧かないが、湖周辺に広大な葦原が広がっていたことや、生駒山地から見下ろした水面が鏡のように光り輝いていたことを彷彿させてくれる。その河内湖の東南岸にあたる生駒山麓に柏原市や八尾市柏村町という地名がある。
 応神記に登場する天之日矛は、「新羅国主の子で、日矛の元から逃げ渡って、祖(おや)の国の難波にとどまった元の妻、比売許曽神社の祭神、アカルタマ姫を追って日本に渡来した。難波に入ろうとしたが、その渡りの神が遮って入れなかった」とされている。景行紀二十八年には難波の柏の済(わたり)の神とあるから、柏原市付近、河内湖東南岸に拠点を置く部族だったのであろう。
 「弥生の興亡、中国朝鮮史から見える日本1、帰化人の真実1」で、天日矛は呉系楚人の神であることを明らかにしたが、それより先に日本に居たアカルタマ姫の祖(おや)の一族も、やはり、海を渡ってきた一族で、柏の渡りの神という名称がそれを示している。最も早い渡来人、呉人の国と考えられるのである。当初は呉人の国が強力であった。

 記、紀によれば、大和朝廷の始祖、神武天皇(実際は崇神天皇であるが)は南九州を制覇した後、大和を目指した。記ではその兄の五瀬命と相談して決めたことになっている。
 神武軍は瀬戸内を通り大阪へ入って、現在の枚方市あたりの港に船を止めた。この時、登美のナガスネヒコが生駒山地を下りて攻めてきた。この戦いで五瀬命は重傷を負う。「日の神の子孫なのに、日に向かって戦ったことが良くなかった。日を背にして戦おう。」ということで、南に向かったが、五瀬命は紀国の男之水門で崩じた。岩波古典文学大系は、天皇の死と同じ崩という文字が使われていることに注目している。
 「弥生の興亡4、縄文の逆襲2」で、五瀬命の死は、倭国大乱時の出来事、難波の柏の渡りの神の一族、最も古い呉人の国が滅びたときの伝承を組み込んだものだと書いたが、その王は重傷を負いながらどこへ逃げようとしたのであろうか。
 男之水門は現在の大阪府泉南市の男里である。おそらく男里川河口部に潟があり、良港となっていたのだろう。このあたりは古代は紀の国の領域であったらしい。雄略天皇時代、朝鮮半島で死んだ紀小弓宿祢の陵墓も少し南の大阪府岬町の淡輪に作られている。
 右の地図を見れば明らかなように、山中川、金熊川に沿って山を登り和歌山方面に到る道がある。山中川沿いの道は旧熊野街道で、雄の山峠を超える。男里、雄山という地名的なつながりは偶然とは思えない。海岸沿いに南下してから孝子峠を超える道もある。逆に言えば、和歌山から山越えして大阪へ向かう道は男之水門で合流し、船で大坂へという交通の要衝だったのである。
 倭国大乱で敗れた大阪の王は親戚の有力者の統治する紀国を頼ろうとしたが、途中で、力尽きたということになるだろう。その陵墓は和歌山市和田の竈山に作られたとされ、そこに式内、竈山神社が設けられている。
 男里には、五瀬命と神武天皇を祭る式内、男神社があり、本殿背後には見事な鎮守の杜が広がっている。古代の地名は「男(ヲ)」であったが、和名抄では好字二文字の「呼唹」に改められた。








 摂社とされる海岸部に近い浜の宮が本来の所在地で、後代、この地に移転したとされている。



















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