堂谿氏(秦氏の源流)塚田敬章 2014.10.10
史記、呉太伯世家第一
十年春越聞呉王之在郢国空乃伐呉呉使別兵撃越楚告急秦秦遣兵救楚撃呉呉師敗闔廬弟夫槩見秦越交敗呉呉王留楚不去夫概亡歸呉而自立為呉王闔廬聞之乃引兵歸攻夫槩夫槩敗奔楚楚昭王乃得以九月復入郢而封夫槩於堂谿為堂谿氏
「(闔廬の)十年春、越は呉王が郢(楚の都)にあって国を空けているのを聞き呉を伐った。呉は兵をわけて越を撃たせた。楚は秦に急を告げた。秦は兵を派遣し楚を救って呉を撃ち、呉軍は敗れた。闔廬の弟、夫概は秦と越が交互に呉を破ったのを見た。呉王は楚に留まって帰らない。夫概は呉に逃げ帰り自立して呉王になった。闔廬はこれを聞き、兵を引いて帰り、夫概を攻めた。夫概は敗れ楚に奔った。楚の昭王は九月に再び郢に入ることができ、夫概を堂谿に封じて堂谿氏と為した。」
春秋時代終盤の出来事です。この夫概の子孫、堂谿氏が日本の古代史にかかわってくるとは、こちらも信じられなかった。もう二十年近くなりますが、今でも不思議を感じます。
「弥生の興亡」執筆時に中国地名の音を調べていた。堂谿(唐谿とも書く)が漢音で「タウケイ」、呉音で「ダウカイ」になり、呉音が洞海湾と通じるので、「堂谿氏が日本に来ていれば面白いのに。」と思ったのですが、「まさかな~」ということでほとんど気にも留めずにいた。それがよみがえったのは浦島伝説と天之日矛・アカルタマ姫伝説の、自分の元の国へ戻る話にたどり着いたからです。夫概の子孫は呉系楚人と分類できますが、呉人の渡来した日本に、遅れて渡来している。漢書地理志呉地に東鯷人と表された人々がそれです(漢書地理志呉地「会稽海外に東鯷人あり。分かれて二十余国をなす」)。
熊トーテムの楚人なので、熊襲でもありますし、秦から渡来したということで秦氏でもあります(「弥生の興亡2,中国・朝鮮史から見える日本」参照)。
堂谿は元、房子国(地名が房、子は首長の階級、公侯伯子男と区別された。呉や越も子で呉子、於越子と表記される。)で、呉を封じたため呉房とも呼ばれました。その西には楚が北辺を守るため築いた方城と呼ばれる長大な城壁があります。堂谿が外側にあるのは、楚が勢力を拡張した後の時代に所領としたためですが、それでも北辺の韓との国境地帯に位置します。
「姓解」三巻に「夫餘」という見出しが有り、「風俗通、呉公子夫概、楚に奔り、子孫去らずは夫餘氏を称す。また百済王は初め夫餘を姓とす。(夫餘風俗通呉公子夫槩奔楚子孫不去者稱夫餘氏又百済王初姓夫餘)」という風俗通の逸文があります。風俗通は、正確には「風俗通義」、後漢、応劭の著で、現在の風俗通にこの氏姓篇は残っていません。
百済という国名が記されていますが、魏志では百済国は馬韓五十数国の一つに過ぎなかった。その始祖伝承がより古い後漢に伝わっていたとは考え難く、この夫餘氏の項は百済が興隆して馬韓の地を占める大国になった後、百済からの伝承が伝わって新たに付け加えられたものと思われます。おそらく南北朝以降で、扶余や百済、高句麗からの移住者の姓でしょう。
夫という文字を根拠にするなら、呉王、夫差の後裔というほうがよほど箔が付く。裏切り者で、敗れて楚に逃れた、あまりさえない夫概の後裔というからには、そういう伝承が残っていたのではないか。ただ、秦に近い楚の内陸部の堂谿公となった夫概の後裔が朝鮮半島に移動している理由を見いだせず、対岸の呉に残った夫概の子孫と考えたのではないか。叔父の前王を暗殺して王位についた呉王闔廬の性格を考えると、クーデターを起こした夫概の後裔が呉で存続できる可能性は少ないでしょう。
扶余の始祖、解慕漱は熊心山に結び付けられており(三国史記、高句麗)、熊トーテムと考えられますが、楚王は原初、熊氏を称していたとされています。扶余を楚人と考えても不都合はなく、同時に太伯山にも結び付けられていて、太伯は呉の始祖ですから、こちらは呉と関係しています。ほかにも呉と楚、両者の要素がいろいろ現れていて、呉系楚人、夫概の子孫と扱っても矛盾がないのです。扶余から高句麗が分かれ、高句麗から百済が分化している。百済が夫概の血を引くというのは事実なのです(魏志扶余伝・扶余史)。
では、夫概・堂谿氏の子孫がなぜ朝鮮半島に移動しているのか?ということになりますが、魏志韓伝の「秦は天下を併せ、蒙恬をして長城を築かしめ、遼東に至る。」という裴松之注の魏略逸文にいきあたる。辰韓は、おそらく秦滅亡時の混乱にまぎれたのでしょうが、この秦の労役から逃れて南の馬韓に移動し、馬韓が東の土地を割き与えてくれて建国したのだという伝承を持っています(魏志・辰韓伝)。堂谿氏とその住民も、辰韓人と同じく長城建設に動員されたが、逃げ出したと考えれば何の矛盾もなく説明がつきます。
清、袁枚の「子不語」に「房県の房山に、毛むくじゃらの毛人というのが住んでいて、時々出てきて人家の犬や鶏を食べてしまう。拒もうとする者は必ず捕まって殴られる。鉄砲を撃っても弾が地に落ちてしまい防げない。これを防ぐには、ただ手を打って”長城を築け、長城を築け”と叫べば、毛人はあわてて逃げてゆくと言い伝えられている。秦の時、長城を築いたが、人は避けて山中に入り、死なずに妖怪になった。人を見ると必ず”城は出来上がったのか?”と問うので、何を恐れているかがわかり、こう脅かすのだ。」という妖怪譚があります。
房県は楚の所領です。毛人というのはモンというミャオ族の自称を写したもの。楚の苗系民族が長城建設の労役に駆り出された伝承が清代まで保存されていました。地理的には離れていますが、房県と同じ名をもつ呉房(堂谿)に何かつながりがあったのか。
列子、仲尼第四
公儀伯以力聞諸侯堂谿公言之於周宣王
「公儀伯は力が強いことで諸侯に知られていた。堂谿公はこのことを周の宣王に言った。」
これが、文献に堂谿が現れる最も早い時代のようです。周は武王に始まり、宣王は十一代目。十二代目の幽王が犬戎に殺され、次の平王が雒邑へ東遷し、東周が始まります(B.C700)。国が乱れ、諸侯が王を自称して覇を争う春秋戦国時代の始まりです。宣王は西周末の王なので、ここに現れる堂谿公は夫概とは関係がありません。周にはまだ統制力があり、周の諸侯として堂谿公が存在している。堂谿という土地が古くから開けていたことがわかります。
塩鉄論(前漢、桓寛)、論勇第五十一
世言強楚勁鄭有犀兕之甲棠谿之鋌也
「世間は、強い楚と、強い鄭に、犀と兕の甲、堂谿の鉱石があるという。」
鄭がまだ強かった時代に言いならわされた言葉と思われます。言葉の順からいえば、楚に犀兕の皮で作る丈夫な甲があり、鄭に武器を作る堂谿の金属鉱石があるという意味になり、春秋初期、堂谿は鄭に属していた時期があったのかもしれません。あるいは、両国がそれを共有していたのか。鄭は強大になった楚と晋の間にはさまれ翻弄されて弱体化してゆきました。
ここで言う鄭は春秋時代の鄭ではなく、戦国時代の韓のことかもしれません。韓は鄭を滅ぼし都を鄭に移しました。戦国策では韓王を鄭王と表記している場合があります。どうも、こちらの可能性が強いようです。
論衡(後漢、王充)、言毒篇
鋳多非一工世稱楚棠溪
「鋳物が多く作られるのは一つの工房だけではないのに、世間は楚の堂谿をほめる。」
塩鉄論と論衡の記述から、堂谿は銅、鉄を産し、金属器の生産地として最も有名、ブランド化していたことがわかります。
春秋左氏伝(春秋は魯の史書)、昭公十一年(B.C531)
冬十一月楚子滅蔡 「冬十一月、楚の子爵(霊王)は蔡を滅ぼした。」
春秋左氏伝、昭公十三年(B.C529)
楚之滅蔡也霊王遷許胡沈道房申於荊焉平王即位既封陳蔡而皆復之禮也
「(魯の昭公十一年に)楚が蔡を滅ぼしたとき、(楚の)霊王は許、胡、沈、道、房、申の住民を楚に移したが、平王が即位すると陳、蔡の君を復活させて封じ、みな元に戻した。これは礼にかなっている。」
堂谿はここに現れる房で、太古の帝、堯の子である丹朱の後裔とされています。春秋時代のこの頃は蔡に属していたのでしょう。楚の霊王が蔡や陳を滅ぼして住民を強制移住させたが、次の平王が元に戻したことになります。房(堂谿)は霊王時代(B.C531)に楚の所領となったようです。
春秋左氏伝、定公五年(B.C505)
九月夫槩王歸自立也以與王戦而敗奔楚為堂谿氏
「九月、夫概王は帰って自立した。王(闔廬)と戦い敗れて楚に奔り堂谿氏となった。」
魯の定公五年(B.C505)、呉王闔廬の弟、夫概は楚からひそかに帰国して自立しましたが、引き返してきた闔廬に敗れて、楚に逃れました。楚の昭王は夫概を堂谿に封じ堂谿氏と為なします。房に呉人を封じたので、堂谿は呉房とも呼ばれました。楚には以前から房という土地がありますから、それと区別する意味合いもあったでしょう。所領にしてからそれほど時間が経っておらず、首長として封じやすい状態だったのかもしれません(楚王は霊王-平王-昭王と続く)。
戦国時代(B.C475~B.C221)
史記、晋世家第九
靜公二年魏武侯韓哀侯趙敬侯滅晋侯而三分其地靜公遷為家人晋絶不祀
「(晋の)静公二年、魏の武侯、韓の哀侯、趙の敬侯が晋を滅ぼし、その地を三分した。静公は庶民となり、晋は絶えて、祀りをしなかった。」
史記、韓世家第十五
韓之先與周同姓姓姫氏其後苗裔事晋得封於韓原曰韓武子
「韓の祖先は周と同姓で、姓は姫氏。その後、子孫が晋に仕え、韓原に所領を得て韓武子といった。」
哀侯元年與趙魏分晋国二年滅鄭因徙都鄭
「哀侯元年、趙、魏と晋国を分ける。二年、鄭を滅ぼし都を鄭に移す。」
晋は諸侯の力が強くなり、B.C376年、韓、魏、趙の三国に分裂。翌B.C375年、韓は鄭を滅ぼし、鄭(南鄭)に遷都します。その頃の韓には勢いがあり、堂谿も韓に属するようになったらしく、以下の史料があらわれます。
戦国策、韓一 / 史記、蘇秦列伝
韓卒之劍戟皆出於冥山棠谿墨陽合伯
「韓の兵士の剣や戟(枝分かれのある矛)はみな冥山、堂谿、墨陽、合伯から出る。」
韓非子、外儲説右上
堂谿公謂昭公曰今有千金之玉巵通而無當可以盛水乎昭公曰不可有瓦器而不漏可以盛酒乎昭公曰可對曰夫瓦器至賤也不漏可以盛酒雖有乎千金之玉巵至貴而無當漏不可乗水則人執注漿哉今為人之主而漏其羣臣之語是猶無當之玉巵也雖有聖智莫盡其術為其漏也昭公曰然昭公聞堂谿公之言自此之後欲發天下之大事未嘗不獨寝恐夢言而使人知其謀也
「堂谿公は(韓の)昭公に言った。”今、千金の値打ちのある玉の盃があって、底がないのですが、水を入れることができますか。” 昭公は言った。”できない。”
かわらけの器があって、漏らないものは酒を盛ることができますか。” 昭公は言った。”できる。” (堂谿公は)こたえて言った、”かわらけは粗末ですが漏らなければ酒を盛ることができます。千金の値打ちの玉の盃は貴重でも、底なしで漏るなら、水を入れることができません。人は手に取って飲物を注ぐでしょうか。今、人の主となってその群臣の言葉を漏らすのは、底のない玉の盃のようなものです。すぐれた考えがあっても、その方策を全うできないのは、漏れているからです。”
昭公は”そのとおりだ。”と言った。昭公は堂谿公の言葉を聞いて、これより後は、天下の大事を起こそうと思えば、一人で寝なかったことはなかった。寝言で使用人がその考えを知ることを恐れたのである。」
韓非子、問田
堂谿公謂韓子曰臣聞服禮辭讓全之術也修行退智遂之道也今先生立法術設度數臣竊以為危於身而殆於軀何以效之所聞先生術曰楚不用呉起而削亂秦行商君而富彊二子之言已當矣然而呉起支解而商君車裂者不逢世遇主之患也逢遇不可必也患禍不可斥也夫舍乎全遂之道而肆乎危殆之行竊為先生無取焉
「堂谿公は韓非子に言った。”私は礼に従い、引き下がって讓ることが身を全うする方法であり、行いを正し、才知を退けることが物事を成しとげる道だと聞いています。今、先生は法術を立て、決まりを設けますが、私が思うには、身を危うくし体をあぶなくすることです。何によってこれを学んだかというと、先生の教えを聞いたところ『楚は呉起を用いなかったので領地を削られ、秦は商君の策を行ったので富強になった。二人の言うことが当たっていたからである。それなのに呉起は手足を切り離され、商君は車裂きにされた。時代と主君に出会わなかった不運だ。』と言われます。
出会うのは必然ではありません。災いはしりぞけることができません。身を全うし事を成しとげる道を捨て、おそろしく危ない行いにのめり込んでいる。先生のために容認できません。”
韓非子では、堂谿公は、昭公に忠言し、韓非の法家思想は身を滅ぼすことになると心配する韓の有力諸侯として登場します。夫概の子孫を証明するデータはありませんが、同時に否定するデータもまた存在しないわけです。韓は姫姓で呉とは同姓ですから馴染みやすさはあったかもしれません。
韓の昭公の在位はB.C358~B.C333年で、韓非の生年はB.C280~B.C233年ですから、二つの話の堂谿公は同一人物ではあり得ない。親子と考えれば年代的に一致し、その地位を維持していたことがわかります。韓非は韓の公子ですが、どの王の子かははっきりしないようです。
史記韓世家によれば、昭公の時代、申不害が宰相になり国内がよく治まったので、諸侯が侵害することはなかったとされていますが、申不害の死後から秦に攻め込まれています。しかし、まだ安定していた方で、以降は秦と楚の間で振りまわされます。
史記、韓世家第十五
王安五年秦攻韓韓急使韓非使秦秦留非因殺之九年秦虜王安盡入其地為潁川郡韓遂亡
「王安の五年、秦は韓を攻めた。韓は窮地におちいり、韓非を使者として秦に派遣した。秦は韓非を留めてこれを殺した。(王安の)九年、秦は王安を捕虜とし、ことごとくその地を手に入れ潁川郡となした。韓はついに滅びた。」
秦の始皇帝の十七年(B.C230)、韓は滅び、秦の潁川郡になります。このとき堂谿公はどうなったかということが問題です。始皇帝の二十六年(B.C221)、秦は斉を滅ぼし中国を統一しました。三十四年(B.C213)、長城を築かせた。三十七年(B.C210)、始皇帝死亡。
二世皇帝が即位しましたが、七月、陳勝が反乱を起こし、自立して楚王(国号は張楚)になりました(B.C209)。
史記、陳渉世家第十八
陳王徴國之豪傑與計以上蔡人房君蔡賜為上柱國
「陳王は国の豪傑を招集して計画をともにし、上蔡の人、房君蔡賜を上柱国(宰相)にした。」
始皇帝の死後一年ですが、房の首長は蔡賜に交代している。蔡という姓を考えると、昔の王族を復活させていたということなのか。史記、長耳陳余列伝にも陳王の相国、房君が見られます。秦は中央集権の郡県制でしたから房君という地位は存在しない。陳勝が新たに房君という地位を作ったようです。ともかく、堂谿公は地位を失っていました。三国志では後漢末期に潁川郡の人、堂谿典がみられます。
以上の堂谿に関するデータを整理すると次のようになります。
1,西周時代から堂谿公が存在し、堂谿は開けていた。
2,春秋(東周)初期、房は蔡に属していた。
3,楚の霊王が蔡を滅ぼし、房の住民を楚に強制移住させた(B.C531)。
4,楚の平王が蔡君を復活させ、房の住民も元に戻した(B.C529)。
5,呉王、闔廬の弟、夫概が反乱を起こしたが、闔廬に敗れ楚に逃れた。
楚は堂谿公となした。房に呉を封じたので、呉房と呼ばれる(B.C505)。
6,戦国時代になって、晋が韓、魏、趙の三国分裂し、韓は鄭に都を移し(B.C375年)、
呉房は韓に属した。
7,堂谿は銅、鉄の産地で、すぐれた金属器の生産地として知られていた。
8,秦の始皇帝が韓を滅ぼし、潁川郡となした(B.C230)。
滅亡時まで堂谿公は存在した。(韓非子との関係)
9,始皇帝は郡県制を敷いたので、堂谿公は首長としての地位を失ったであろう。
10,始皇帝が長城建設を命じ、東は朝鮮半島の遼東郡まで達した(B.C213)。
11,朝鮮半島の夫餘氏は夫概(堂谿氏)の後裔という伝承を持つ
(「姓解」の「風俗通」逸文)。
12,始皇帝死後、陳勝が反乱を起こし、房君蔡賜を宰相となした(B.C209)。
始皇帝が韓を滅ぼしたB.C230年から、陳勝・呉広の乱のB.C209年までの21年の間に堂谿氏は首長としての地位を失っていました。秦は長城を建設するために人民を大量動員しています。堂谿氏とその住民に金属器の生産能力があったのなら、超一流技術者は秦が召し抱えたかもしれませんが、朝鮮半島でも鍛冶屋は必要ですから、そのために徴発された可能性が浮上します。
長城を建設していた遼東郡から西に逃れたものが濊を建国し、それが夫餘、高句麗、百済とつながってゆく。南の箕氏朝鮮(後の楽浪郡)に逃れたものは馬韓へ南下し、さらにその西部で弁辰(弁韓)となりました。弥生時代に、日本に渡来したその一部はツヌガアラシト、天之日矛、秦氏などと表されていますが、日本や朝鮮半島の金属器文化を一変させたと思われます。そして、その源流として堂谿を想定できるのです。
殷の後裔で殷滅亡時に半島に逃れ、朝鮮を作っていた箕氏は、秦の時代にも命脈を保っていましたが、漢初期に燕人、衛満に破れて南方へ逃れ、そこで新たに韓を建国しました。国名が韓であるのは、果たして偶然なのか。衛満の後裔は、後に漢の武帝に敗れ、所領は楽浪郡となっています。
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