魏志夫餘(扶余)伝

魏志夫餘(扶余)伝と夫餘史


1、魏志夫餘伝

2、夫餘史




1、魏志夫餘伝

夫餘在長城之北 去玄菟千里 南與高句麗東與挹婁西與鮮卑接 北有弱水 方可二千里 戸八萬 其民土著 有宮室倉庫牢獄 多山陵廣澤 於東夷之域最平敞 土地宜五穀不生五果
「夫余は長城の北にある。玄菟郡を去ること千里。南は高句麗と、東は挹婁と、西は鮮卑と接する。北に弱水(松花江)がある。広さは二千里四方。戸数は八万。その人民は土着する。宮殿や倉庫、牢獄がある。山や丘、広い湿地が多く、東夷の地域では最も平らで広々している。土地は五穀(麻、黍、稷、麦、豆)に適しているが、五果(李、杏、棗、桃、栗)は生えない。」



其人麤大 性彊勇謹厚不寇鈔 國有君王 皆以六畜名官 有馬加牛加豬加狗加大使大使者使者 邑落有豪民 名下戸皆為奴僕 諸加別主四出道 大者數千家小者數百家
「その人々は大柄である。性格は、強く、勇敢で、つつしみ深く、略奪するようなことはしない。国には君王がいる。みな六畜を官名にし、馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者がある。集落には有力者がいて、下戸をみな奴僕と呼んでいる。諸加の貴族たちは別れて、四方向に出る道を統治する(?) 。大は数千戸、小は数百戸である。」


食飲皆用爼豆 會同拝爵洗爵揖讓昇降
「飲食には、みな、まな板のような台と高坏を用いる。集会では(昔の中国のように)盃を受けたり、洗って返したり、両手を胸の前で組み合わせ会釈して段上に昇ったり降りたりする。」


以殷正月祭天 國中大會連日飲食歌舞 名曰迎鼓 於是時斷刑獄解囚徒
「殷(暦)の正月に天を祭り、国中で大集会があり、連日、飲み食いし、歌い舞う。これを迎鼓(ゲイコ)と呼んでいる。この時に、刑罰を決めたり、囚人を解放したりする。」


在國衣尚白 白布大袍袴 履革踏 出國則尚繒繡錦罽 大人加狐狸狖白黒貂之裘 以金銀飾帽
「国にいる時の衣は白を重んじる。白布の大きな上着や袴で、革靴をはく。国を出ると、絹、刺繍、錦、毛織物を重んじる。身分の高いものは狐や狸(リ、猫類。タヌキではない)、黒猿、白黒のテンの皮衣を加え、金銀で帽子を飾る。」


譯人傳辭皆跪手據地竊語
「通訳が言葉を伝える時は、みな、ひざまずき、地面に手をつけて、ひっそり語る。」


用刑嚴急 殺人者死没其家人為奴婢 竊盗一責十二 男女淫 婦人妬皆殺之 尤憎妬已殺尸之國南山上至腐爛 女家欲得 輸牛馬乃與之 兄死妻嫂與匈奴同俗
「刑の適用は非常に厳しい。殺人者は死刑になり、その家の者は身分を奪われ奴隷にされる。一を盗めば十二の責めを負う。男女は淫らである。婦人の嫉妬は、みな、これを殺す。最も嫉妬を憎む。殺した後、屍は国の南山の上に運んで腐爛させる。女の家族が遺骸を欲しがるとき、(それにみあう)牛馬が提供されてから、これを与える。兄が死ぬと、兄嫁を妻にするのは匈奴と同じ風俗である。」


善養牲 出名馬赤玉貂狖美珠 珠大者如酸棗
「お供えに使う家畜(白か?)をだいじに養う。名馬や赤玉、貂、黒猿、美珠を産する。珠の大きなものは酸棗くらいある。」


以弓矢刀矛為兵 家家自有鎧仗 國之耆老自說古之亡人 作城柵皆員有似牢獄
「弓矢、刀、矛を兵器にする。家々は自らのヨロイや棍棒を持つ。国の古老は昔の亡命者だという。城柵はみな丸く作り、(中国の)牢獄に似ている。」


行道晝夜無老幼皆歌 通日聲不絶
「道を行く時は、昼夜、老幼なく、みな歌う。一日中、声は絶えない。」


有軍事亦祭天 殺牛觀蹄以占吉凶 蹄解者為凶合者為吉 有敵諸加自戦 下戸倶擔糧飲食之
「軍事があれば、また、天を祭り、牛を殺し、ひづめを見て吉凶を占う。ひづめが開いていると凶となし、引っ付き合わさっていると吉となす。敵があれば、諸豪族は自ら戦う。下戸は伴をして食料をかつぎ、これを飲食する。」


其死夏月皆用氷 殺人徇葬多者百数 厚葬有槨無棺
「死んだ時、夏はみな氷を用いる。人を殺して徇葬するが、多いものは百の数である。手厚く葬り、槨はあるが棺はない。」


夫餘本屬玄菟 漢末公孫度雄張海東威服外夷 夫餘王尉仇台更屬遼東 時句麗鮮卑彊 度以夫餘在二虜之間妻以宗女
「夫余はもと玄菟郡に属していた。(後)漢末に(遼東太守)公孫度が海東に勢力が強くなり、外夷を威圧し服属させた。夫餘王の尉仇台はあらためて遼東郡に属した。その頃、高句麗と鮮卑が強く、公孫度は、夫余がこの二つの敵対国の間にあったため、(牽制するため)一族の最も身分の高い娘を妻合わせた。」


尉仇台死 簡位居立 無適子 有孽子麻余 位居死諸加共立麻余 牛加兄子名位居為大使 輕財善施 國人附之 歳歳遣使詣京都貢獻
「尉仇台が死に簡位居が立った。嫡子がなく、庶子の麻余があり、位居が死ぬと、豪族たちは麻余を共立した。牛加である兄(名前)の子、名は位居が大使となった。蓄財を軽んじて、善く施したので、国の人々は支持していた。年々遣使して洛陽に参上し、貢ぎものを奉った。」


正始中 幽州刺史毋丘儉討句麗 遣玄菟太守王頎詣夫餘 位居遣大加郊迎供軍糧 季父牛加有二心 位居殺季父父子 籍没財物遣使簿斂送官
「正始中(240~249)、幽州刺史の毋丘倹は高句麗を討ち、玄菟太守の王頎を派遣して夫余へ行かせた。位居は大加を都の外へ派遣して迎え、軍糧を提供した。位居の末の叔父の牛加には叛く心が有ったので、位居は叔父とその子を殺した。財産を没収して記録し、遣使して、没収物と帳簿は官に送った」


舊夫餘俗 水旱不調五穀不熟 輙歸咎於王或言當易或言當殺 麻余死其子依慮年六歳立以為王
「昔の夫余の習俗では、水害、干害の不調で五穀が実らないときは、王に罪をかぶせ、代えるべきだと言ったり、殺すべきだと言ったりした。麻余が死に、その子の依慮、年六歳、が立って王になった。」


漢時 夫餘王葬用玉匣常豫以付玄菟郡 王死則迎取以葬 公孫淵伏誅玄菟庫猶有玉匣一具 今夫餘庫有玉璧珪瓉數代之物 傳丗以為寶 耆老言先代之所賜也 其印文言濊王之印 國有故城名濊城 蓋本濊貊之地而夫餘王其中 自謂亡人抑有似也
「漢の時、夫余王は葬儀に玉の棺桶を用いた。いつも、あらかじめ玄菟郡に預けていて、王が死んだとき、取りに行って葬った。公孫淵が滅ぼされたとき、玄菟郡の倉庫にはなお玉の棺桶が一揃えあった。今、夫余の倉庫には玉璧や珪、瓉(玉製品)、数代の物が有り、代々伝えて宝としている。古老は先代の王が賜った物だと言っている。その印の文言は濊王之印と言う。国(中国)には濊城と呼ばれる古い城がある。思うに、元は濊貊の土地で夫余王はその中にいたのだろう。自ら亡命者というのはそもそも理由があるのだ。(「抑有以也」だという説に従います。)」


2、夫餘史(魏志、魏略逸文や三国史記・高句麗本紀等から組み立てうる)

 魏志夫餘伝の最後に、「亡人(亡命者)」という言葉を受けた、夫餘は北方の高離(豪離)国<豪は高と豕の合字。漢音はカウで高と同じ>から逃亡してきたのだとする裴松之の注(=魏略逸文)が記されています。しかし、魏略の記述の信憑性に問題があるので、以下、詳しく解説します。

 魏志夫餘伝(裴松之注の魏略逸文)
魏略曰 舊志又言 昔北方有高離之國者 其王者侍婢有身 王欲殺之 婢云有氣如鶏子來下我故有身 後生子 王捐之於溷中 猪以喙嘘之 徙置馬閑 馬以氣嘘之不死 王疑以為天子也 乃令其母収畜之 名曰東明 常令収馬 東明善射 王恐奪其國也 欲殺之 東明走南至葹掩水 以弓撃水 魚鼈浮為橋 東明得渡 魚鼈乃離散 追兵不得渡 東明因都王夫餘之地

「魏略はいう。”旧志はまた言う、昔、北方に高離(コウリ)の国があった。その王の下女が妊娠したので王はこれを殺そうとした。下女は『鶏の卵の形のような気があって私に降りてきたので妊娠したのです。』と言った。後に子が生まれた。王はこれを便所の中に捨てたが、(便所で飼っている)豚がこれに鼻先で息を吹きかけた。馬の仕切りに移し置くと馬がこれに息を吹きかけて死ななかった。王はいぶかしく思い、天の子だとして、その母親に養わせた。名は東明という。いつも馬の面倒をみさせた。東明は弓射がうまく、王はその国を奪われるのを恐れ、これを殺そうとした。東明は南に逃れ葹掩水に至った。弓で水を撃つと魚やスッポンが浮き上がり橋を作ったので東明は渡ることができた。魚やスッポンは離れ散らばったので追っ手の兵は渡ることができなかった。東明はこういうわけで夫餘の地に都を建て王になった。”」

 裴松之の文は魏略からの引用で、魏略も旧志というからには、史書の引用です。おそらく范曄(398~445)以前の先行後漢書の記述でしょう。その先行後漢書も、後漢の滅亡(220)後にさまざまなデータを整理・統合したものですから、何らかの文献から引用しているわけです。後漢、王充(27~97?)の論衡・吉験篇にも同様の文があり、魏略よりも要約した形になっていますから、後漢代に何らかの共通資料のあったことがうかがえます。

 論衡・吉験篇
北夷橐離國王侍婢有娠 王欲殺之 婢對曰有氣大如雞子從天而下我 故有娠 後産子 捐於猪溷中猪以口氣嘘之不死 復徙置馬欄中 欲使馬藉殺之 馬復以口氣嘘之不死 王疑以為天子 令其母収取奴畜之 名東明 令牧牛馬 東明善射 王恐奪其國也 欲殺之 東明走南至掩淲水 以弓撃水 魚鼈浮為橋 東明得渡魚 鼈解散 追兵不得渡因都王夫餘

「北夷の橐離(タクリ)国王の下女が妊娠した。王はこれを殺そうとしたが、下女は”鶏の卵くらいの大きさの気があって天から降りてきたために私は妊娠したのです。”と言った。のちに子が生まれた。豚を飼っている便所の中に棄てたが、豚が口から息を吹きかけたので死ななかった。また、馬の囲いの中に移し置いて馬にこれを踏み殺させようとしたが、馬もまた口で息を吹きかけたので死ななかった。王はいぶかしく思い、天の子だとして、その母に引き取らせ下男として養育させた。東明と名づけ、牛馬を飼わせた。東明は弓射がうまく、王はその国を奪われるのを恐れて、これを殺そうとした。東明は南に逃れ掩淲水に至った。弓で水をたたくと魚やスッポンが浮き上がって橋となり、東明は渡ることができた。魚やスッポンは解け散らばったので、追っ手の兵は渡れなかった。こうして夫餘に都を建て王になった。」

 橐離(タクリ)と考えられていますが、私には稾離(カウリ)の転写間違いのように見えます。後漢書は索離国としています。問題は、この東明の伝承が、朝鮮の史書、三国史記、高句麗本紀の伝える高句麗の始祖伝承とまったく同じだといういことです。高句麗がカウリになるのは理解できます。同系とはいえ、扶余と高句麗、異なる国の始祖王の名と出生・逃走の経緯がまったく同じとは受け入れがたい。北方の橐離(稾離)国から東明が魚鼈の橋を渡って逃れ扶余を建国し、その扶余から東明が魚鼈の橋を渡って逃れ高句麗を建国したことになってしまう。これは論衡、魏略の先行資料に記述の間違い、あるいは意図的な変更があったのではないか。つまり、扶余と高離が入れ替えられているのではないかという疑いを生みます。魏志高句麗伝には「十月に天を祭る国中の大会があり、東盟と呼ばれている。」「国の東に大きな洞窟があり、隧穴と呼んでいる。十月の国中から集まる大集会のとき、隧神を迎えて国の東に還り、これをていねいに祭り、木の隧神を神坐に置く。」という記述が有り、農業の祭りなら霊星、社稷があるわけですから、これは国中をまとめる始祖王の祭の可能性があります。高句麗は確かに東明(東盟)に関係しています。
 後漢の建武八年(32)に高句麗王、建武二十五年(49)に扶余王の遣使が記されており(後漢書光武帝紀下、高句麗伝、扶余伝)、両者の始祖伝承というものは後漢に伝わっていたと思われます。扶余の「古之亡人」という伝承も伝わっていたとすれば、扶余はどこかから逃亡してきたことになる。東明が逃亡して建てたという高句麗の始祖伝承と亡人の扶余が混同され、国名の入れ替えにつながったように思えるのです。実際は、扶余から高離の東明が逃亡している。以下の高句麗本紀ですべてが明らかになります。大元の話ですから、当然、こちらの方が詳しい。

 三国史記、高句麗本紀
始祖東明聖王姓高氏諱朱蒙(一云鄒■一云衆解) 先是扶餘王解夫婁老無子 祭山川求嗣 其所御馬至鯤淵見大石相對流涙 王怪之 使人轉其石 有小兒金色蛙形 王喜曰此乃天賚我令胤乎 乃収而養之名曰金蛙 及其長立為太子 後其相阿蘭弗曰 日者天降我曰将使吾子孫立國於此 汝其避之東海之濱 有地號曰迦葉原 土壌膏腴宜五穀 可都也 阿蘭弗遂勸王移都於彼國 號東扶餘 其舊都有人 不知所従來 自稱天帝子解慕漱 來都焉 及解夫婁薨金蛙嗣位 於是時得女子於大白山南優渤水 問之 曰我是河伯之女名柳花 與諸弟出遊時 有一男子自言天帝子解慕漱 誘我於熊心山下鴨淥邊室中私之 即往不返 父母責我無媒而從人 遂謫居優渤水 金蛙異之幽閉於室中 為日所炤引身避之日影又逐而炤之 因而有孕生卵大五升許 王棄之與犬豕皆不食 又棄之路中牛馬避之 後棄之野 鳥覆翼之 王欲剖之不能破 遂還其母 其母以物褁之置於暖處 有一男兒破殻而出 骨表英竒 年甫七歳嶷然異常 自作弓矢射之百發百中 扶餘俗語善射為朱蒙 故以名云 金蛙有七子常與朱蒙遊戯 其技能皆不及朱蒙 其長子帶素言於王曰 朱蒙非人所生 其為人也勇 若不早圖恐有後患 請除之 王不聽 使之養馬 朱蒙知其駿者而減食令痩駑者善養令肥 王以肥者自乗痩者給朱蒙 後獵于野 以朱蒙善射與其矢小 而朱蒙殪獸甚多 王子及諸臣又謀殺之 朱蒙母隂知之告曰 國人将害汝 以汝才略何徃而不可與其遅留而受辱 不若遠適以有為 朱蒙乃與鳥伊摩離陜父等三人為友行至淹淲水 欲渡無梁 恐為追兵所迫 告水曰 我是天帝子何伯外孫 今日逃走追者垂及如何 於是魚鼈浮出成橋 朱蒙得渡魚鼈乃解追騎不得渡……………國號高句麗因以高為氏

「始祖、東明聖王、姓は高氏、諱は朱蒙(一つに鄒<■=牟←高句麗広開土王碑より>といい、一つに衆解という)。これより先、扶余王の解夫婁は老いて子がなく、山川を祭って跡継ぎを求めていた。その乗っていた馬が鯤淵に至ったとき大きな石を見て、石に向かって涙を流した。王はこれを怪しみ臣下にその石を転がらせたところ、金色の蛙のような形をした子供がいた。王は喜んで、これは天が跡継ぎにするように賜ったのだと言い、連れ帰って養育した。名は金蛙という。長ずるに及んで太子にした。
 後、その宰相の阿蘭弗が、『占い師が言うには、天が私のところに降りてきて、我が子孫にここに国を立てさせるので、汝は東海のほとりに避けなさい。迦葉原という土地が有り、土壌がゆたかで五穀に適しているので都にするのによい。』と言った。阿蘭弗は王に都をその国に移すようにすすめ、東扶餘と名乗った。その旧都には、どこから来たのか解らない人がいて、天帝の子、解慕漱と自称し、都を作った。
 解夫婁が死に金蛙が位を嗣いだ。この時、大白山の南の優渤水で娘に出会い、たずねると『私は河伯の娘で名は柳花、弟たちと遊びに出たとき、一人の男の人がいて自分は天帝の子、解慕漱だと言い、私を熊心山の下、鴨緑江のほとりの部屋の中に誘い愛しあいました。それからどこかへ行ったまま帰りません。父母は私を媒酌人なしで人に従ったと責め、ついに優渤水に流して罰しました。』と言った。金蛙はこれを奇妙に思い部屋の中に幽閉したが、日が照らすところとなり、身を引いてこれを避けても、日光が追いかけてこれを照らした。そのために妊娠して大きさ五升ばかりの卵を生んだ。王はこれを捨て、犬と豚に与えたが、みな食べなかった。また、これを道の真ん中に棄てたが、牛や馬はこれを避けた。最後にこれを野に棄てたが野鳥が翼で覆った。王はこれを割ろうと思ったが、できなかったので、その母に返した。母親がこれをなにかに包んで暖かいところに置いておくと、一人の男の子が殻を破って出てきた。体つきは優秀さを表していた。七歳のはじめには、ひときわすぐれて普通と異なり、自ら弓矢を作って、これを射れば百発百中だった。扶余の俗語で射術にすぐれることを朱蒙とする。それで名前にしたという。
 金蛙には七人の子があり、常に朱蒙と遊んでいたが、その技能はみな朱蒙に及ばなかった。その長子、帯素は王に『朱蒙は人の生むところではなく、その人となりは勇気があります。もし早いうちになんとかしなければ、おそらく後に患いになるでしょう。』と言い、これを除くことを王に願った。王は聴かずに、朱蒙に馬を飼わせた。朱蒙は優れた馬を見抜き、食を減らして痩せさせ、劣った馬はよく面倒をみて太らせた。王は太った馬に乗り、痩せたものは朱蒙に与えた。後に、野で狩をしたとき、朱蒙は射術がうまいので小さな矢を与えたのに、はなはだ多くの獣を倒した。王子や諸臣はまた朱蒙を謀殺しようとした。朱蒙の母は陰ながらこれを知り告げて言った。『国の人はお前を害そうとしている。お前の才略でどこかへ行きなさい。グズグズして辱めを受けてはいけません。遠くへ行って何かを為すに越したことはない。』
 朱蒙は、そこで、鳥伊、摩離、陜父ら三人と一緒に行き、淹淲水に至り、渡ろうとしたが橋がなかった。追っ手が迫ってくるのを恐れ、河にむかって言った。『私は天帝の子で河伯の外孫だ。今日、逃走してきたが、追っ手が追いつきそうだ。どうしようか。』そうすると、魚やスッポンが浮き上がって橋を作った。朱蒙が渡ると、魚やスッポンは散り散りになったので追っ手は渡ることができなかった。……………国は高句麗と号し、それで高を氏となした。」

 高句麗本紀は高句麗の歴史ですが、ありがたいことに扶余の始祖伝承も書いてある。扶余王、解夫婁がいたところへ、新たに天帝の子、解慕漱が天から降りてきて、解夫婁は国を譲り、東の海岸部で国を建てて東扶余になった。扶余の始祖は大和朝廷の始祖同様、天降っていて、北方の国から逃れてきたという魏略逸文や論衡の記述とは一致しないわけです。天降りは北方系民族の神話と考えられ、日本の場合は、ずっと早い時代に、朝鮮半島から渡来した縄文の北方系民族を想定できるでしょう。
 そして、この話は魏志濊伝に海岸部にある濊の存在が記され、扶余伝に扶余王がむかし「濊王之印」を授けられていたという記述があることに対応します。濊が二つに分裂したらしい。魏志の濊(カイ)は高句麗本紀の東扶余に一致し、そして、その西側に主力の濊、後の扶余が存在したことになります。
 「葢(カイ)国は鉅燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す。」という山海経、海内北経の記述はこの時代(前漢初期)のことをいうのでしょう。同じく山海経、大荒北経に「胡あり、不與(フヨ)の国、烈姓、黍を食べる。」という記述が有り、遊牧民ではなく、農耕民の胡というのは扶余で、時代は武帝以降と考えられます。
 新の王莽が儒教の教条を適用して周辺諸国の地位を引き下げて以来(「匈奴単于璽」→「新匈奴単于章」など)、周辺諸国に与える印は、日本の金印が「漢委奴国王(これは後漢)」と刻されているように、中国の国名が入れられています。「濊王之印」にそれが入っていないということは、濊の建国や印を授けられた時代は前漢の武帝あるいはそれ以前のことになります(武帝が滇に与えた印の印面は「滇王之印」)。扶余の始祖伝承と高句麗の始祖伝承はほぼ同時代のことに書かれています。高句麗本紀では、高句麗の建国は前漢の元帝、建昭二年(B.C36)としていて、扶余の建国はその二世代近く遡りますから武帝時代とできるのではないか。

  漢の武帝、元朔元年(B.C127)、匈奴が遼西に入って太守を殺し、漁陽、雁門に入って都尉を破り、三千余人を殺したり掠ったりした。将軍、衛青を派遣して雁門から出発し、将軍、李息は代から出て、首を取ったり虜にしたものは數千人。東夷、薉君の南閭等二十八万人が降服し蒼海郡と為した。(漢書、武帝本紀)
元朔三年(B.C129)蒼海郡を廃止した。

 匈奴と濊(薉)が連係していたのかどうか、漢は遼西、遼東からさらに東へ進んで海まで至ったようです。濊君は降服し、蒼(滄)海郡が置かれた。この時に濊王の印が授けられた可能性があります。しかし、管理が 難しかったのか、わずか二年で廃止されました。
 B.C108年に武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、朝鮮半島北部を領有して、玄菟、真番、樂浪、臨頓の四郡が置かれました。
 高句麗本紀では扶余王、解慕漱は柳花を妻にするなど鴨緑江周辺で活動していましたが、どこかへ行って帰ってこないとされています。この記述が扶余の移動を示しているようです。武帝時代には鴨緑江周辺は玄菟郡か真番郡に含まれてしまいました。亡人(亡命者)となった濊は北方の平原地帯に新たに国を作って扶余となったわけです。そして、「国(中国、おそらく玄菟郡)」には濊城と呼ばれる古城があるから、亡人というのは事実だろうという魏志扶余伝の記述になる。濊城は、濊が築いた城を意味する中国人の呼び名で、扶余自らが濊城と呼んでいたわけではないでしょう。同系の高句麗では城のことを溝漊(コウロウ)といいます。
 国を譲って東扶余(濊)となった解夫婁のあとは、血縁のない金蛙が嗣いでいますから、こちらの方が地位が低い。魏志濊伝では虎を神として祭っているとあり、虎トーテムと考えられます。解慕漱は熊心山に結び付けられていて、扶余は熊トーテムと思われます。
 そしてこのことは、朝鮮の史書、三国遺事(高麗時代の作)の檀君神話に結び付きます。天から太伯山に降りてきた桓雄天王が、人間になりたいと願っていた熊と虎に人間になる方法を教えた。それを守った熊は人間になったが、虎は守れなかった。その熊女と桓雄が結婚して生まれたのが檀君で国の始祖となったというものです。この神話は明らかに扶余(濊)系の神話を土台にしています。天降った太伯山(妙香山)は確かに濊(東扶余)の西にあります(2図)。
 日光に感応して妊娠し卵を生むという話は、日本の天之日矛・アカルタマ姫と同等ですが、これは呉系の神話と結論しました(弥生の興亡「帰化人の真実1、秦氏」)。棄てられたが、豚や馬、鳥が守って死ななかったというのは周の始祖、后稷の伝承と同じ形ですから、これも呉に結び付いています。天降った太伯山は、呉の始祖、太伯に由来する名でしょう。
 もう一つ目立つのが、カイやタイという音です。これは楚と関係していた。熊トーテムも、初期の楚王の名は鬻熊、熊麗、熊狂、熊繹等、ほとんどに熊という文字を含んでいて、熊繹が熊氏を称したとされているのですから、楚のトーテムの一つと考えても不都合はありません。
 天之日矛は楚の堂谿氏となった呉王闔廬の弟、夫概を始祖とする呉系楚人の伝承と「弥生の興亡」で明らかにしましたが、濊と扶余にも同じ要素がある。
 「姓解三」に「夫餘」という見出しが有り、「風俗通、呉公子夫概、楚に奔り、子孫去らずは夫餘氏を称す。また百済王は初め夫餘を姓とす。(夫餘-風俗通呉公子夫槩奔楚子孫不去者稱夫餘氏又百済王初姓夫餘)」という風俗通の逸文があります。
 風俗通は、正確には「風俗通義」、後漢の応劭の著で、現在の風俗通にはこの氏姓篇は見られません。
 魏志では百済国は馬韓五十数国の一つに過ぎなかった。その始祖伝承がより古い後漢に伝わっていたとは考え難く、この夫餘氏の項は百済が興隆して馬韓の地を占める大国になった後、百済からの伝承が伝わって新たに加えられたものと思われます。おそらく南朝時代以降でしょう。扶余や百済、高句麗からの移住者の姓かもしれません。
 扶余は夫概の後裔だという伝承が残っていたようです。ただ、秦に近い楚の内陸部の堂谿公となった夫概の後裔が朝鮮半島に移動している理由が見いだせず、対岸の呉に残った夫概の子孫と考えたのではないか。叔父の前王を暗殺して王位についた呉王闔廬の性格を考えると、裏切りのクーデターを起こした夫概の後裔が呉で存続できる可能性は少ないでしょう。
 春秋左氏伝、成公十六年に「姫姓は日なり。異姓は月なり。」という記述がありますが、熊は文字の中に月が含まれているように、姫姓の夫概のトーテムにはなりえない。黒い体をして月ノ輪を持つ夜の動物なのです(右図は金文の「熊」、のど元に月を持つ)。楚に居住して母系から夫概の子孫に入ったと解すれば説明が付きます。
 以上のことから、扶余系は楚の堂谿氏となった呉系楚人、夫概の後裔と結論できます。これは日本の秦氏に近い部族ということでもあります。扶余がいにしえの亡人というのは、辰韓と同様、秦の労役、長城建設から逃亡したということであるかもしれない。堂谿は漢音で読めば「タウケイ」、呉音で読めば「ダウカイ」でカイという音にもつながります。

《扶余の年表》

 中国の春秋時代終盤、呉王闔廬の弟、夫概は反乱を起こしたが、闔廬に敗れ、楚に逃れて堂谿氏となった。
 秦は中国を統一したのち、胡を防ぐ長城建設にとりかかり、その先端は遼東にまで達した。
 堂谿氏やその住民は罪を問われたのか、遼東の労役に動員されたが、秦滅亡期に逃亡して、東に逃れたものが濊を建国し、南に逃れたものは馬韓の東へ移動して弁辰となった。
 濊は二つに分裂し、西方にいた主力は、漢の武帝の東方進出で追われて北方に移動し、先住民を吸収して扶余(北扶余)を建国(濊王之印を持つ)。東方の海岸部の濊(東扶余)はそのまま存続した。
後漢の光武帝
建武二十五年(49)
中国に遣使。
安帝の永初五年
(111)
楽浪郡を襲い、役人や住民を殺傷したが、後に復帰した。
永寧元年(120) 嗣子の尉仇台が宮城に来たので、安帝は印綬などを授けた。
順帝の永和元年
(136)
扶余王が洛陽に来朝した。
桓帝の延熹四年
(161)
遣使し朝貢。
永康元年(167) 王の尉仇台が二万余人を率いて玄菟郡へ侵入したが、玄菟太守公孫域が撃破した。
霊帝の熹平三年
(174)
また朝貢。
後漢最後の帝
 献帝の時
 遼東太守の公孫度が勢力を伸張し、周辺の国を威服していた。扶余は玄菟郡に属していたが、尉仇台は遼東郡に属することを求めた。この頃、鮮卑と高句麗が強かったので、公孫度はこの二国を牽制するため二国の間にある扶余を懐柔し、一族の娘を妻として与えていた。
 尉仇台が死に簡位居が立った。簡位居には嫡子がなく、庶子の麻余が諸加により共立された。
魏の正始中
(240~248)
幽州刺史の毋丘倹は高句麗を討つため玄菟太守の王頎を扶余に派遣した。
麻余が死に、その子の依慮が六歳で王になった。
晋の武帝(司馬炎、晋の建国は265年)の頃 頻りに朝貢。
太康六年(285) 鮮卑の慕容廆が扶余を破った。
 依慮は自殺し、子弟は沃沮に逃げ込んだ。武帝は「扶余は、代々、忠孝を守ったのに、悪虜の滅ぼすところとなり、はなはだ哀れである。もし、遺族が国を復興させるに足るなら、その計画を立てて存立できるようにせよ。」という詔を出した。担当役人は、東夷校尉の鮮于嬰は扶余を救わず、失策があったと保身の上奏をしたので、嬰を解任して、何龕に交代させた。
太康七年(286)  扶余の後の王、依羅が何龕に使者を派遣し、人が還って旧国を元に戻す方策を主導するように求め、かさねて援助を要請した。何龕は督郵の賈沈を派遣し兵を送った。慕容廆はその将の孫丁を派遣して迎え撃ったが、賈沈がこれを大敗させたので、慕容廆軍は引き上げ、依羅は国を復興することができた。これ以後、慕容廆は扶余人を誘拐して中国に売るようになり、武帝はこれを哀れんで詔を発し、官物で買い戻して帰国させ、司州、冀州の二州に扶余の奴隷の売買を禁じた。
以降は不明。東扶余(濊)は410年に高句麗の広開土王が併合したようである(広開土王碑)。

 裴松之注の魏略逸文を鵜呑みにするようで、「扶余族の南下」は、よく見かける文ですが、そうした事実はありません。高句麗本紀によれば、高句麗は東扶余(濊)から西または北へ移動して建国したことになります。扶余は、元々、朝鮮半島北部から出発している。
 広開土王碑(414、広開土王の子、長寿王が顕彰のために建てた)には北扶余から南に逃れてきたと書いてありますが、高句麗本紀には、朱蒙の十四年に母柳花が東扶余で薨じ、その王、金蛙は太后の礼を以てこれを葬った。そして、十九年に王子の類利が扶余からその母(朱蒙の妻)と逃げ帰ったので、朱蒙が喜んで太子にしたと記されています。東扶余ではなく扶余と書いてあるので、北から逃亡してきたのは二代目かもしれない。扶余に質となっていたのでしょう。
 北扶余を中心にみれば、北に対応するのは南で、位置的にも該当しますから、濊は南扶余と呼ぶべきだろう。そうではなく東扶余と呼ばれているのは、東扶余の方が早くから存在して、それが踏襲されてきたからではないか。始原的には西扶余と東扶余だったと考えれば説明が付きます。