魏志韓伝

「魏志韓伝」解説

 できるだけ原文に近い文字を使用するよう心がけていますが、フォントの関係で不可能なものもあります。百衲本を使用します。

   一、魏志韓伝(馬韓)
   二、辰韓伝
   三、弁辰伝
   四、魏志以前の朝鮮半島の歴史



一、魏志韓伝(馬韓)


韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里 有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓 辰韓者古之辰國也
「韓は帯方の南に在り。東西は海を以って限りとなし、南は倭と接す。方は四千里ばかり。三種ありて、一は馬韓と曰ひ、二は辰韓と曰ひ、三は弁韓と曰ふ。辰韓は古の辰国なり。」

「韓は帯方郡の南に在る。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種があって、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。」

 韓の東西は海ですが、南に海はなかった。倭と接すですから、朝鮮半島南端に倭が存在したことになります。帯方郡の南に韓があるという記述は、次の倭人伝の「従郡至倭循海岸水行歴韓国(帯方郡より倭に至るには海岸に沿って水行し韓国をすぎる)」という記述にも影響し、水行の方向を記していません。韓は南にあることが明らかなので、記す必要がないわけです。

 

 韓は総称で、その中に馬韓、辰韓、弁韓(弁辰)という三種の区別がありました。古の辰国は、漢書、西南夷両粤朝鮮伝にある「衛氏朝鮮王の右渠が、真番や辰国が上書して天子(武帝)にまみえんと欲するのを妨げて通さなかった。」という記述の辰国で、漢の武帝の頃、辰韓はすでに存在していました。
 真番は、燕に接していたといいますし、燕の南は朝鮮、北は東胡なので、燕の東方にしかあり得ない。漢書地理志燕地にも「東は真番の利が入る」と記されています。真番の通交を妨げたということは、衛氏朝鮮はかなり北方の遼東まで領域を広げていたようです。


馬韓在西 其民土著種植 知蠺桑作緜布
「馬韓は西に在り。その民は土著し、種植す。蚕桑を知り、緜、布を作る。」

「馬韓は西に在る。その民は土着し、種をまき植える。養蚕を知り、絹わたや布を作る。」

 大もとの民族は東胡(アルタイ系言語)につながる遊牧、あるいは狩猟採集民族だったと思われますが、殷の箕氏の移住、呉人の移住、秦の始皇帝が長城建設のため強制移住させた農耕民族の逃亡、燕、斉、趙の住民の移住などにより、定着、農耕、養蚕という中国文化の形に移行したのでしょう。


各有長帥 大者自名爲臣智 其次為邑借 散在山海間 無城郭
「それぞれ、長帥あり。大は自ら名づけて臣智と為し、その次は邑借と為す。山海の間に散在し、城郭なし。」

「それぞれ指導者がいて、勢力の大きいものは自ら名乗って臣智(シンチ)と為し、その次のものを邑借(ユウセキ)と為す。山や海の間に散らばって住み、町を守る城壁のようなものはない。」


有爰襄國 牟水國 桑外國 小石索國 大石索國 優休牟涿國 臣濆沽國 伯済國 速盧不斯國 日華國 古誕者國 古離國  怒藍國 月支國 咨離牟盧國 素謂乾國 古爰國 莫盧國 卑離國 占離卑國 臣釁國 支侵國 狗盧國 卑彌國 監奚卑離國 古蒲國 致利鞠國 冉路國 兒林國 駟盧國 内卑離國 感奚國 萬盧國 辟卑離國 臼斯烏旦國 一離國 不彌國 支半國 狗素國 捷盧國 牟盧卑離國 臣蘇塗國 莫盧國 古臘國 臨素半國 臣雲新國 如来卑離國 楚山塗卑離國 一難國 狗奚國 不雲國 不斯濆邪國 爰池國 乾馬國 楚離國 凡五十餘國
「爰襄國 牟水國 桑外國 小石索國 大石索國 優休牟涿國 臣濆沽國 伯済國 速盧不斯國 日華國 古誕者國 古離國  怒藍國 月支國 咨離牟盧國 素謂乾國 古爰國 莫盧國 卑離國 占離卑國 臣釁國 支侵國 狗盧國 卑彌國 監奚卑離國 古蒲國 致利鞠國 冉路國 兒林國 駟盧國 内卑離國 感奚國 萬盧國 辟卑離國 臼斯烏旦國 一離國 不彌國 支半國 狗素國 捷盧國 牟盧卑離國 臣蘇塗國 莫盧國 古臘國 臨素半國 臣雲新國 如来卑離國 楚山塗卑離國 一難國 狗奚國 不雲國 不斯濆邪國 爰池國 乾馬國 楚離國あり。すべてで五十餘國なり」

「爰襄(ヱンシャウ)国、牟水(ボウスヰ)国、桑外(サウグワイ)国、小石索(セウセキサク国、大石索(タイセキサク)国、優休牟涿(イウキウボウタク)国、臣濆沽(シンフンコ)国、伯済(ハクセイ)国、速盧不斯(ソクロフウシ)国、日華(ジツクワ)国、古誕者(コタンシャ)国、古離(コリ)国、怒藍(ドラン)国、月支(ゲツシ)国、咨離牟盧(シリボウロ)国、素謂乾(ソヰカン)国、古爰(コヱン)国、莫盧(バクロ)国、卑離(ヒリ)国、占離卑(センリヒ)国、臣釁(シンキン)国、支侵(シシン)国、狗盧(コウロ)国、卑彌(ヒビ)国、監奚卑離(カンケイヒリ)国、古蒲(コホ)国、致利鞠(チリキク)国、冉路(ゼンロ)国、兒林(ジリン)国、駟盧(シロ)国、内卑離(ダイヒリ)国、感奚(カンケイ)国、萬盧(バンロ)国、辟卑離(ヘキヒリ)国、臼斯烏旦(キウシヲタン)国、一離(イツリ)国、不彌(フウビ)国、支半(シハン)国、狗素(コウソ)国、捷盧(セフロ)国、牟盧卑離(ボウロヒリ)国、臣蘇塗(シンソト)国、莫盧(バクロ)国、古臘(コラフ)国、臨素半(リンソハン)国、臣雲新(シンウンシン)国、如来卑離(ジョライヒリ)国、楚山塗卑離(ショサントヒリ)国、一難(イツダン)国、狗奚(コウケイ)国、不雲(フウウン)国、不斯濆邪(フウシフンヤ)国、爰池(ヱンチ)国、乾馬(カンバ)国、楚離(ショリ)国がある。すべてで五十餘国である。」

 魏は北方の国なので、その記録である魏志に記された文字は北方の発音、漢音で読むべきと考えます。カタカナ国名はすべて漢音です。言葉の異なる馬韓の発音を魏の人間が聞き取って漢字表記したものですから、聞き取り誤差、漢字に変換する無理がある。上記のカタカナをそのまま受け取る必要はありません。桑外(サウグヮイ)国はソガ国かもしれないというような違いまで含めて良いでしょう。これは倭人伝でも同じことです。
 伯済国が後の百済(クダラ)の前身。卑彌国、不彌国は倭人伝の卑彌呼、不彌国と同じですから、倭韓共通の単語があったようです。倭人伝の国名と共通する文字が多い。帯方郡は韓と地続きですし、戦ったことも記されています。韓の国名の方が早くから知られていたわけで、倭に渡来した帯方郡使は韓に使用していた見慣れた文字を倭の国名にも適用したのだと思われます。


大國萬餘家 小國数千家 揔十餘萬戸 辰王治月支國
「大国は万余家、小国は数千家、惣じて(揔は惣の誤字と思われる)十余万戸。辰王は月支国で治す。」

「大国は万余の家で、小国は数千の家。全部で十余万戸である。辰王は月支国で統治している。」

 辰韓伝には、辰韓は馬韓人の辰王に属していることが記されていますが、その辰王は月支国に役所を置いていたことになります。倭人伝の一大率が伊都国で統治(常治伊都国)していたのと同じような形ではないか。同じく辰韓伝に、辰王は自立して王になることができないと書いてありますから、月支国王ではない。


臣智或加優呼臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉之號 其官有魏率善邑君 歸義侯 中郎将 都尉 伯長
「臣智は、或いは優呼臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉の号を加はふ。その官は、魏率善邑君、帰義侯、中郎将、都尉、伯長あり。」

「(大指導者の)臣智は、優呼臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉(ユウコシンウンケンシホウアンヤシュクシフンシンリジフレイコウヤシンシレン)の号を加えることもある。その官には、魏率善邑君、帰義侯、中郎将、都尉、伯長がある。」

 率善邑君以下、魏の官位が授けられていました。王は存在せず、倭人伝に比べると魏の支配力が格段に強くなっているようです。後の記述で、韓は魏と戦い滅ぼされたとされていますから、それ以降のデータかと思えます。この頃は魏の所領と言えるでしょう。


侯淮既僣號稱王 爲燕亡人衛満所攻奪 将其左右宮人走入海 居韓地自號韓王 其後絶滅 今韓人猶有奉其祭祀者 漢時屬楽浪郡四時朝謁
「侯淮(準)はすでに僣号して王を称す。燕の亡人、衛満の攻め奪う所となり、その左右の宮人を将ゐ走りて海に入り、韓地に居して自ら韓王を号す。その後は絶滅す。今、韓人に、なほ、その祭祀を奉る者あり。漢の時は楽浪郡に属し、四時朝謁す。」

「(朝鮮)侯の(箕)淮は勝手に王を称していたが、燕からの亡命人、衛満が攻撃して奪うところとなり、その左右の宮廷人を率いて海に逃がれ、韓の地に居住して自ら韓王と号した。その後裔は絶滅したが、今でも韓人にその祭祀を奉る者がいる。漢の時は楽浪郡に属し、季節毎に朝謁した。」

 馬韓の箕氏を滅ぼしたのは魏の楽浪、帯方二郡で、魏志三少帝紀、正始七年(246)に「韓、那奚等の数十国がそれぞれ種族を率いて落ち降った。」と記されていますから、この時と思われます。先に挙げた馬韓の国には那奚に該当するものがありません。辰韓伝に冉奚国があり、これが一番近いかもしれない。どちらが原型とは言えませんが、文字のかすれ等で変化しそうな感じがあります。
 戦いの原因は、魏が辰韓の八国を楽浪郡に編入しようとしたことで、辰韓は十二国しかありませんから、降伏した「数十国」には馬韓の国も含められています。辰韓と馬韓が連合して魏と戦ったらしく、敗れて、馬韓王の箕氏が絶滅した。
 韓王、箕氏の滅亡後もそれを懐かしむ支持者が残っていたようです。「今」が陳寿の時代(晋代)なのか、引用したデータの文そのままなのか、はっきりしませんが、「韓を滅ぼした」正始七年以降のデータであることは間違いありません。
 燕人、衛満が箕氏から国を奪い、新たに建てた衛氏朝鮮は漢の武帝の滅ぼすところとなりました。そこに楽浪、玄菟、真番、臨屯の四郡が置かれましたが、次の昭帝の時代に整理されて楽浪、玄菟の二郡に落ち着いたようです。真番郡は玄菟郡に吸収されたと思われますが、臨屯郡の位置は不明です。次の記述に出てくる楽浪南方の屯有県に関係があるのなら、後の帯方郡の前身は臨屯郡かもしれない。臨屯郡は楽浪郡に吸収されたのでしょう。韓は最も近い楽浪郡へ季節毎のあいさつに出向いていました。


桓霊之末 韓濊彊盛郡縣不能制 民多流入韓國 建安中 公孫康分屯有縣以南荒地爲帯方郡 遣公孫模張敞等 収集遺民興兵伐韓濊 舊民稍出 是後倭韓遂属帯方
「桓霊の末、韓濊強盛にして、郡県は制する能はず。民は韓国に流入すること多し。建安中、公孫康は、屯有県以南の荒地を分かち、帯方郡と為す。公孫模、張敞等を遣はし、遺民を収集して兵を興し、韓濊を伐つ。旧民はやうやく出づ。この後、倭、韓は遂に帯方に属す。 」

「桓帝の末と霊帝の末には韓、濊が強く盛んになり、郡や県は制御することができず、住民が韓国に流入することが多かった。(後漢最後の帝、献帝の)建安年間(196~219)に公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為した。公孫模や張敞等を派遣して、遺っている民を集めて兵を興し、韓や濊を伐ったので、元の楽浪郡民が少しずつ出てきた。この後、倭と韓はついに帯方郡に属した。」

 「桓霊の末」は桓帝の末と霊帝の末を合わせた表現で、霊帝初~中期に「韓濊強勢」という言葉は当てはまりません。何の気なしに読み飛ばしそうで、注意が必要です。
 公孫氏は領土を拡張したわけではなく、楽浪郡を分割して新たに帯方郡を設けただけなので、二郡は近接しています。おそらく辺境の治安強化策でしょう。それが奏功し、倭や韓が朝貢に訪れるようになったのだと思われます。
 魏、明帝の景初二年(238)六月、卑弥呼の使者、難升米が帯方郡を訪れ、当時の日本のようすが明らかにされました。しかし、難升米の日本出発時には、魏が帯方を占拠したことは知られておらず、公孫氏に朝貢するつもりだったのに、魏へ朝貢する形になったわけです。晋が建国された泰始元年に朝貢していますが、この時も出発時には魏の滅亡は知られていなかった。王朝の交代にあわせたすばやい遣使と考える人がいますが、情報が伝わる時間、洛陽まで移動する時間が頭に入っていない。どちらも偶然なのです。


景初中 明帝密遣帯方太守劉昕楽浪太守鮮于嗣 越海定二郡
「景初中、明帝は密かに帯方太守の劉昕、楽浪太守の鮮于嗣を遣はして、海を越え、二郡を定む。」

「景初中に、明帝は密かに帯方太守の劉昕と楽浪太守の鮮于嗣を派遣し、海を越えて二郡を平定した。」

 派遣前から帯方太守、楽浪太守に予定されていたと思われます。明帝は景初二年(238)の正月、司馬宣王(司馬懿仲達)に、遼東で独立を宣言した公孫淵への攻撃を命じました。八月に、公孫淵を破り、首を都へ送って、海東諸郡はすべて平らげられたと記されています(魏書明帝紀)。帯方郡は景初二年八月以前に平定されていることになりますから、景初中というのは景初二年です。難升米が帯方を訪れたのは六月ですから、公孫氏が滅びるまで帯方郡で待機していたと思われます。
 東夷伝の冒頭にダイジェスト的な記述があり、「公孫淵は父子三代、遼東を有し、天子はその絶域と為し、海外のこととして放置したので、ついに東夷と遮断され中国と通好できないようになった。景初中に大いに軍事行動を起こし公孫淵を誅し、また潜軍が海に浮かび楽浪、帯方の郡を収めてのち海は静かになり、東夷は屈服した。」となっています。
 公孫淵を誅してから潜軍を派遣したように受け取れますが、これは陳寿がまとめた際の勘違いです。距離的に近い遼東の公孫淵を滅ぼしたあと、遠い楽浪、帯方を攻略したと考えたのでしょう。公孫淵という首魁が滅びたなら、統制のとれた国などなくなっていて、潜軍による急襲の必要がありません。明帝紀にあるように、公孫淵の誅殺以前に二郡は平定されています。詳しくは「弥生の興亡、魏志倭人伝から見える日本、ファイル3、「魏との交流」」へ。


諸韓国臣智加賜邑君印綬 其次與邑長
「諸韓国の臣智には加えて邑君印綬を賜ふ。その次には邑長を與ふ。」

「諸韓国の臣智には、加えて邑君印綬を賜い、それに次ぐものには邑長(印綬)を与えた。」

 先に記されていた魏率善邑君、帰義侯、中郎将、都尉、伯長は臣智に関する記述だったので、すべて臣智に与えられた官位のようです。それに邑君印綬が加えられた。以前は官位だけで印綬はなかったのかもしれない。邑長も印綬でしょう。帰義侯以下が邑長なのか?


其俗好衣幘 下戸詣郡 朝謁皆假衣幘 自服印綬衣幘千有餘人
「その俗は衣幘を好む。下戸が郡に詣るに、朝謁はみな衣幘を仮す。自ら印綬、衣幘を服するは千有余人なり。」

「その風俗では、衣幘(礼服と頭巾)を好む。下戸が郡を訪れ朝謁するときは、みな衣幘を貸し与える。自ら印綬や衣幘を用意する者は千人以上いる。」

 下戸は自分で用意する財力が無く、帯方郡から衣幘を借用しますが、上戸は衣幘や魏から与えられた印綬の真似をして、自らの地位を示す印綬を作っていたようです。


部従事呉林以楽浪本統韓國 分割辰韓八國以與楽浪 吏譯轉有異同 臣幘沾韓忿攻帯方郡崎離營 時太守弓遵楽浪太守劉茂興兵伐之 遵戦死 二郡遂滅韓
「部従事の呉林は、楽浪が本は韓国を統べるを以って、辰韓八国を分割し、以って楽浪に與ふ。吏訳は転じて異同あり。臣幘は韓の忿りを沾ほし、帯方郡の崎離営を攻む。時に、太守弓遵と楽浪太守劉茂は兵を興し、これを伐つ。遵は戦死す。二郡は遂に韓を滅ぼす。」

「部従事の呉林は楽浪が元は韓国を統御していたという理由で、辰韓八国を分割して楽浪郡に与えた。官吏や通訳の言うことは変転してバラバラだった。韓の有力者は、韓の怒りを浸透させ、帯方郡の崎離営を攻めた。時の太守、弓遵と楽浪太守、劉茂は兵を起こしてこれを伐った。弓遵は戦死したが、二郡はついに韓を滅ぼした。」

 漢代には楽浪に朝謁していたという記録に基づいたのでしょう。部従事というのがどれほどの地位かわかりませんが、こういう決定を一人で出せるならかなりの高官です。直接、韓に対応する部下の官吏や通訳は、反発を買うのがわかっているから、言葉を濁す。どう言いつくろっても領土を奪う事実は変わらないわけで、呉林の決定そのものが戦争を呼び起こしている。辰韓は馬韓の辰王が管理していました。だから辰韓だけではなく、韓全体と戦うことになります。帯方太守、弓遵が戦死するほどなので、かなり激しい戦いだった。先に書きましたが、戦いが終わったのは正始七(246)年五月のことです(魏書三少帝紀)。したがって、弓遵の戦死は五月以前になります。韓王の箕氏一族は根絶させられました。
 戦死した弓遵の後任には、玄菟太守、王頎が転任しました。辞令がいつ出たかわかりませんが、実際に着任したのは正始八年になってから(倭人伝「八年太守王頎到官」)。二つ隣の郡に移動するのに八ヶ月以上かかっています。中央へ報告が届き、玉突き的に人事異動が発生するので、後任の選定には様々な調整が必要です。決定後、辞令が届けられ、太守が移動する。広大な中国大陸、最も早い移動手段が馬ですから、何をするにも、現在より、はるかに時間がかかる。そういうことが忘れられがちです。


其俗少綱紀 國邑雖有主帥 邑落雑居不能善相制御 無跪拜之禮 居所作草屋土室 形如冢 其戸在上 擧家共在中 無長幼男女之別 其葬有棺無槨 不知乗牛馬牛馬盡於送死
「その俗は、綱紀少なし。国邑には主帥ありといへども、邑落は雑居し、善く相制御するあたはず。跪拝の礼なし。居所は草屋土室を作る。形は冢の如し。その戸は上に在り。家を挙げて共に中に在り。長幼男女の別なし。その葬は棺ありて槨なし。牛馬に乗るを知らず、牛馬は死を送るに尽くす。」

「その風俗は、規律が少なく、国邑(首都的集落)に統治者がいるとはいっても、村落は入り混じり、お互いに、うまく制御することができない。跪いて拝む礼はない。住居は草の屋根と土の部屋を作り、形は盛り土の墓のようである。その戸は上にある。家をあげてその中に住んでいる。長幼や男女の分け隔てはない。葬る時、棺はあるが、その外側の入れ物の槨はない。牛、馬に乗ることを知らず、牛、馬は死を送るのに尽くしてしまう。」

 韓王家の箕氏が滅ぼされて、五十余国ある馬韓をまとめる存在が無くなった結果、諸国は統制の取れない混乱状態に陥っていました。それでも旧体制の家格の違いなどが反映されていたのか、ゆるやかな秩序が存在し、まるっきりの無政府状態でもなかったようです。
 家が墓の土盛に似ているというのですから、草屋根はなだらかな丸みを帯びていたのでしょう。韓国の伝統家屋のワラ屋根には丸みがあって、土壁が現在のものより低ければ、冢というイメージに合います。古代からの伝統が受け継がれていたようです。
 戸が上にあるというのは日本の家屋紋鏡に見られるような跳ね上げ式の入り口だったのではないか(右図、薄い灰色部分)。倭では雨と夏の暑さに対処しなければいけませんが、韓では寒さへの対処を重視しなければならない。住宅の違いは大きくなると思われます。
 家族全部がそろって暮らし、倭人伝の「男の子供は父母と別の場所(建物)で寝る。」という風俗との対比が鮮やかになります。倭人伝では「寄り集まった時などに、父子男女の別はない」、「有棺無槨」となっていますから、共通する風俗もある。馬韓では牛や馬は葬儀時の犠牲として使うだけでした。


以瓔珠爲財寶或以綴衣為飾或以縣頸垂耳 不以金銀錦繍為珍
「瓔、珠を以って財宝と為し、或いは以って衣に綴りて飾と為し、或いは以って首に懸け、耳に垂る。金銀錦繍を以って珍と為さず。」

「玉に似た石や真珠(パール)を財宝となし、衣に縫い付けて飾りにしたり、首に描けたり、耳から垂らしたりする。金銀錦繍を珍重しない。」

 夫餘や高句麗、濊という北方の国は金や銀で飾りますが、馬韓は、倭と同じく、玉のような石や真珠を重んじます。地理的にも妥当と思わせますが、南方系習俗が濃くなっています。


其人性彊勇魁頭露紒如炅兵 衣布袍 足履革蹻蹋
「その人、姓は強勇にして、魁頭、露紒し、炅兵の如し、布袍を衣て、足は革の蹻蹋を履く。」

「馬韓人の性格は強く勇敢である。魁頭で、何もかぶらず髷を露出していて、炅兵のようである。布製の綿入れを着て、足は革のぞうりをはく。」

 魁頭、炅兵、蹻蹋をはっきり説明できる人はいないようです。後漢書の注では魁頭は科頭と同じ、髪をグルグル回して結ぶのだと言いますが、正しいかどうかはわからない。科頭とは何もかぶらないことだという説もあります。しかし、どちらも露紒(結った髪を露出=何もかぶらない)とどう関係させるのか。魁には「大きい」という意味があります。辰韓伝に「褊頭(せまい頭)」という言葉がありますから、それとの比較かもしれない。炅兵も手がかりがない。特殊な髪型をする兵士がいたのか。蹻は「足を高く上げる」、蹋は「踏む」という意味。下駄のようなものかと思っても革ではできそうもありません。後漢書では「草履」になっていますが、これは草の繊維で作るもので、魏志とは一致しない。後漢書は南朝宋の范曄撰なので、その頃新たに伝わった百済の風俗かと思えます。百済は高句麗から分化し、馬韓の一国に過ぎなかったので、馬韓王家の箕氏を中心とする習俗とは異なっていたかもしれない。


其國中有所為及官家使築城郭 諸年少勇健者皆鑿脊皮以大縄貫之 又以丈許木鍤之通日嚾呼作力 不以為痛既以勤作且以為健常
「その国中に為す所あり、及び官家が城郭を築かしむるに、諸の年少勇健者は、皆、脊皮を鑿ち、大縄を以ってこれを貫く。また、丈ばかりの木を以って、これを鍤し、通日、嚾呼作力す。以って痛を為さずして既に以って作を勤め、且つ以って健常と為す。」

「その国中の公共事業や官家が城郭を築かせるとき、もろもろの、年少で勇気があり壮健な者は、みな背中の皮を傷つけ大縄の中に入り、一丈(2.4m)ほどの木を差し込み、一日中さわがしく声を上げて力仕事をする。痛がらずに作業を勤め終えて、すこやかで普通だとする。」

 解釈のむずかしいところです。背中の皮に穴をあけて大縄を貫くというのは不可能ですから、大縄に貫かれる「之」は子供なのだろう。子供に大縄を巻くのではなく、大縄の輪が先にあって、子供が中へ潜り込むという形を想定できます。背中の皮を剣山のようなもので刺して穴を開けたのか。痛みを我慢して工事の作業効率は相当悪くなると思えますから、通過儀礼のようなものでしょう。右はその想像図です。


以五月下種訖祭鬼神 群聚歌舞飲酒晝夜無休 其舞数十人倶起相随踏地低昂手足相應 節奏有似鐸舞 十月農功畢亦復如之
「五月を以って種を下し、訖(をへ)て、鬼神を祭る。群衆は歌舞、飲酒し、昼夜休まず。その舞いは、数十人が倶に起ちて相随い、地を踏む。手を低昂し、足は相応じる。節奏は鐸舞に似たるあり。十月に農功を畢え、また復してこの如し。」

「五月に種まきが終わると鬼神を祭る。群衆は歌って舞い、酒を飲み、昼夜休まない。その舞いは、数十人がいっしょに立ち、円形に一列になって地を踏む。手を下げたり上げたりし、足もそれに合わせてうごく。節回しは(中国、漢の)鐸舞に似たところがある。十月に収穫が終わるとまたこのようなことを繰り返す。」

 舞いは「盆踊り」を連想させます。そして、その起源を遡れば、おそらくミャオ族の踏歌に行きつくでしょう。相したがうですから、すべての人間が他の人間に付いて行っている。四角などでもかまいませんが、円形と解釈するのが妥当です。
 倭人伝の裴松之注には魏略曰くとして「その習俗では正月や四季を知らない。ただ春耕、秋収を数えて年期としている。」と記されています。春耕、秋収という節目には、やはり、祭りも付属していたと思われます。韓伝のこの記述とよく似た形を想像しても良いのではないか。


信鬼神 國邑各立一人主祭天神 名之天君 又諸國各有別邑 名之為蘇塗 立大木縣鈴鼓事鬼神 諸亡逃至其中皆不還之 好作賊 其立蘇塗之義有似浮屠而所行善悪有異 其北方近郡諸國差暁禮 其遠處直如囚徒奴卑相聚
「鬼神を信じ、国邑はそれぞれ一人を立て天神を祭るを主る。これを天君と名づく。また、諸国はそれぞれ別邑があり、これを名づけて蘇塗と為す。大木を立て、鈴、鼓を懸けて、鬼神に事ふ。もろもろの亡逃がその中に至れば皆これを還さずして、好みて賊を作る。その蘇塗を立てるの義は浮屠に似る有りて、所行の善悪は異るあり。その北方は郡に近く、諸国はやや礼を暁(さと)るが、その遠所は、直(あた)りて囚徒、奴卑の相集まるが如し。」

「鬼神を信じ、国邑では、それぞれ一人を立てて天神の祭りをつかさどらせる。これを天君と名づけている。また、諸国にはそれぞれ特別な集落があり、これを名づけて蘇塗(ソト)とする。大木を立て、鈴や鼓を懸けて鬼神に仕える。さまざまな理由で隠れたり逃げたりしてその中に至ったものは皆これを引き渡さず、好んで賊を作っている。その蘇塗を立てる意義は仏教の寺に似たところがあるが、行いの善悪に違いがある。その(馬韓の)北方は(中国の)郡に近く、諸国はやや礼に通じているが、遠いところは囚人や奴隷が集まっているようなものである。」

 鬼神を祭る集落があって、その領域内は神域で、世俗は通じないというのでしょう。治外法権地帯になっていたようです。蘇塗は日本語の外(そと)と同語ではないか。神社と共通する意識があるようです。諏訪神社の御柱のように、大木を立てることも共通です。天君が祭る国家の祭祀もあり、信仰は二本立てになっていました。祭祀の起源が異なることを示しているようで、支配者階級となった部族に天の信仰があり、無視できない土俗の鬼神の祭りがあったということでしょう。
 囚人や奴隷の集まり同様と記されていますが、王家の滅亡で、馬韓という国家の大きな統制力がなくなり、五十余の小国の規律もまた緩んでいたようです。


無他珍寶 禽獣草木略與中國同 出大栗大如梨 又出細尾雞其尾皆長五尺餘 其男子時時有文身
「他なる珍宝無し。禽獣、草木はほぼ中国と同じ。大栗をい出し、大は梨の如し、また、細尾雞をい出し、その尾はみな長さ五尺余り。その男子は、時々、文身有り。」

「珍宝といえるようなものはない。鳥や獣、草木はだいたい中国と同じである。梨くらいの大きさの大栗がある。細尾鶏(尾長鶏)がいて、その尾の長さはみな1.2mあまりである。その男子は、時々、入れ墨がある。」

 馬韓の動植物は中国とたいして変わりがなかった。したがって、日本に渡来した帯方郡使はその動植物相の違い、楠類、竹、黒雉、猿などの南方系要素に目をとめて、記録にとどめることになります。
 中国各地から朝鮮半島に移住しています。文身という風俗をもつ越人もまた馬韓人に含まれていました。


又有州胡在馬韓之西海中大島上 其人差短小 言語不與韓同 皆髠頭如鮮卑 但衣韋 好養牛及豬 其衣有上無下略如裸勢 乗船往来市買中韓
「また、州胡あり。馬韓の西、海中の大島上に在り。その人はやや短小。言語は韓と同じからず。みな髠頭で鮮卑の如し。但し、韋を衣る。好みて牛及び猪を養ふ。その衣は上有りて下無し。ほぼ裸勢の如し。船に乗りて往来し、中、韓で市買す。」

「また、州胡がいて、馬韓の西、海中の大島の上にいる。その人はやや小柄である。言語は韓と同じではない。みな頭を剃り、鮮卑に似ているが、ただし、なめし皮を着る。好んで牛や豚を飼う。衣は上だけで下がなく、ほとんど裸のようである。船に乗って往来し、中国や韓で取引している。」

 実際の位置は馬韓の南南西になりますが、済州島を語ったものです。この島の住民、州胡と呼ばれる人々が周辺諸民族とまったく異なる言語、風俗を持つ不思議、当時の日本には運べなかった牛が存在するという不思議があります。上半身は革の服を着て、下半身に何もなしとは思えない。裸に近いというから、ふんどしのようなものを付けていたのか。この島から五銖銭、貨泉などの漢代、新代の貨幣が出土し、中国へ渡っていたのは事実のようです。後には百済に臣従しますが、この頃は独立国でした。
 耽羅(タンラ)と呼ばれたこの島が、徐福の漂着した亶洲(タンシュウ)であることは、「徐福と亶洲」にまとめてあります。


二、辰韓伝

辰韓在馬韓之東 其耆老傳世自言 古之亡人避秦役來適韓國馬韓割其東界地與之
「辰韓は馬韓の東に在り。その耆老は、世を伝えて自ら言ふ、古の亡人にして、秦の役を避け、来たりて韓国に適く。馬韓はその東界の地を割き、これに與ふと」

「辰韓は馬韓の東にある。その古老は、代々伝えて、自ら次のように言う。いにしえの逃亡者で、秦の労役を避けて韓国にたどり着き、馬韓がその東の外れの土地を割いて与えたのだと。」

 辰韓人は、元、中国人だった。秦の労役ですから、戦国時代の中国を統一した始皇帝の時代です。秦に敵対していた国の住民は、遠慮なく労役に駆り出されることになる。


有城柵 其言語不與馬韓同 名國為邦弓為弧賊為寇行酒為行觴相呼皆為徒 有似秦人非但燕齊之名物也 名楽浪人為阿殘 東方人名我為阿 謂楽浪人本其残余人 今有名之為秦韓者
「城柵あり。その言語は馬韓と同じからず。国を名づけて邦と為し、弓を弧と為し、賊を寇と為し、行酒を行觴と為し、相呼ぶに、皆、徒と為す。秦人に似たるありて、ただ、燕、斉の物を名づくるに非ずなり。楽浪人を名づけて阿残と為す。東方の人は我を名づけて阿と為す。楽浪人は、本、その残余の人と謂ふ。今、これを名づけて秦韓と為す者あり。」

「城柵がある。その言語は馬韓と同じではない。国(コク)を邦(ハウ)となし、弓(キュウ)を弧(コ)となし、賊(ソク)を寇(コウ)となし、行酒(カウシウ)を行觴(カウシャウ)となし、お互いを呼ぶのは、みな、徒(ト)とする。秦人に似たところがあり、単に(距離的に近い)燕や斉の言葉が伝わったというものではない。楽浪人を阿残と呼ぶ。東方の人は自分のことを阿(ア)という。楽浪人は、元は自分たちと同じで、楽浪に残った人だというのである。今、この国を秦韓とする者もいる。」

 倭人伝と同じく城柵と書いてあります。重要建築物が木の柵で囲われていたのでしょう。馬韓とは言語が違うし、近くの燕や斉の言葉ではなく、秦の方言に似た言葉がある。したがって、秦の労役から逃れてきたという辰韓人の伝承は事実だろうというわけです。これが、「秦は蒙恬をして長城を築かしめ遼東にいたる。」という裴松之の注(魏略逸文)に結び付きます。長城建設のため中国各地から動員された部族が、秦の衰えに乗じて脱出し、南の朝鮮(後の楽浪郡)へ入った。その一部が、さらに南下して馬韓へ行き、馬韓が東方の未開拓地を割き与えて居住させたことになります。


始有六國稍分為十二國 弁辰亦十二國  又有小別邑 各有渠帥大者名臣智 其次有險側 次有樊濊 次有殺奚 次有邑借
「始め、六国あり。やうやく分かれて十二国と為る。弁辰はまた十二国なり。また、小さな別邑あり。それぞれ、渠帥あり。大は臣智と名づく。その次は險側あり。次に樊濊あり。次に殺奚あり。次に邑借あり。」

「始めは六国があり、じょじょに分かれて十二国になった。弁辰もまた十二国である。また小さな集落がある。それぞれ統率者がいて、有力な者は臣智とよばれる。その次に險側(ケンショク)があり、次に樊濊(ハンカイ)があり、次に殺奚(サツケイ)があり、次に邑借がある。」

 馬韓は魏が滅ぼしたため王家が存在しませんが、辰韓も同時に滅ぼされて王は存在しないようです。馬韓の辰王が管理していたというから、元々、王が存在しなかった可能性もありますが、しかし、弁辰に王が存在するのだから、魏と争うまでは、王家があったかもしれない。
 青字にした「弁辰亦十二国」という記述は、辰韓伝のついでに、雑居している「弁辰も十二国あるよ」と挿入したものです。勘違いした古代の研究者が、行頭へ持ってきて、ここから新たに弁辰伝を作ってしまった。したがって、百衲本には弁辰伝が二つあります。正しいのは後ろの弁辰伝で、以下はまだ辰韓伝の続きです。


有巳柢國 不斯國 弁辰彌離彌凍國 弁辰接塗國 勤耆國 難彌離弥凍國 弁辰古資彌弥凍國 弁辰古淳是國 冉奚國 弁辰半路國 弁楽奴國 軍彌國 弁軍彌國 弁辰彌烏邪馬國 如湛國 弁辰甘路國 戸路國 州鮮國 馬延國 弁辰狗邪國 弁辰走漕馬國 弁辰安邪國 馬延國 弁辰瀆盧國 斯盧國 優由國 弁辰韓合二十四國 大國四五千家小國六七百家惣四五萬戸 其十二國属辰王 辰王常用馬韓人作之世世相繼 辰王不得自立為王
「巳柢國 不斯國 弁辰彌離彌凍國 弁辰接塗國 勤耆國 難彌離弥凍國 弁辰古資彌弥凍國 弁辰古淳是國 冉奚國 弁辰半路國 弁楽奴國 軍彌國 弁軍彌國 弁辰彌烏邪馬國 如湛國 弁辰甘路國 戸路國 州鮮國 馬延國 弁辰狗邪國 弁辰走漕馬國 弁辰安邪國 馬延國 弁辰瀆盧國 斯盧國 優由國あり。弁辰韓、合わせて二十四国。大国は四、五千家、小国は六、七百家。惣じて四、五万戸。その十二国は辰王に属す。辰王は常に馬韓人を用いてこれを作る。世世、相継ぐ。辰王は自立して王と為るを得ず。」

「巳柢(シテイ)国、不斯(フウシ)国、弁辰弥離弥凍(弁辰ビリビトウ)国、弁辰接塗(弁辰セフト)国、勤耆(キンキ)国、難弥離弥凍(ダンビリビトウ)国、弁辰古資弥凍(弁辰コシビトウ)国、弁辰古淳是(弁辰コシュンシ)国、冉奚(ゼンケイ)国、弁辰半路(弁辰ハンロ)国、弁楽奴(ヘンガクド)国、軍弥(クンビ)国、弁軍弥(ヘンクンビ)国、弁辰弥烏邪馬(弁辰ビヲヤバ)国、如湛(ジョタン)国、弁辰甘路(弁辰カンロ)国、戸路(コロ)国、州鮮(シウセン)国、馬延(バエン)国、弁辰狗邪(弁辰コウヤ)国、弁辰走漕馬(弁辰ソウサウバ)国、弁辰安邪(弁辰アンヤ)国、馬延(バエン)国、弁辰瀆盧(弁辰トクロ)国、斯盧(シロ)国、優由(イウイウ)国がある。
 弁辰と辰韓、あわせて二十四国。大国は四、五千家。小国は六、七百家。すべてで四、五万戸。その(辰韓の)十二国は辰王に属する。辰王は常に馬韓人を用いてこれを作り、代々、受け継いでいる。辰王は自立して王になることはできない。」

 あわせて二十四国と書いてありますが、二十六国記されています。馬延国が二つ、軍弥国と弁軍弥国は同一というのかもしれません。弁楽奴国は弁辰楽奴国の間違いではないか。数が十二に一つ足りないのです。
 辰韓、弁辰は馬韓の西に雑居しているので、国名も入れ混ぜて書いてあります。弁辰狗邪国、弁辰瀆盧国は倭人へ向かう航路の起点になったり、倭と接していたり、朝鮮半島南方にあったことが明らかですし、新羅の前身といわれる斯盧国も南方にあります。したがって、これらの国名は北方から順に書いてあるのかもしれません。前に国名をつけない辰韓の方が主で、弁辰が従であることも明らかで、記述も辰韓伝の方が六、七倍多くなっています。
 (馬)韓伝では「辰王は月支国に治す。」となっていました。馬韓の誰かが選ばれて辰王という役職に就き、月支国にある役所で辰韓を統治していたが、地位そのものはそれほど高くなかったのでしょう。「独立して王になることはできない。」という王が存在するかのような記述は不思議です。馬韓や辰韓に王は存在せず、最も高い地位は臣智でした。そうなる以前は王が存在したのかもしれない。つまり、馬韓が滅ぼされた正始七年以前には、馬韓、辰韓各国に王が存在し、魏に破れた後に王位が消されたのではないか。この記述は正始七年以前のデータに基づくと解釈すれば筋が通ります。


土地肥美冝種五穀及稲 暁蠶桑作縑布 乗駕牛馬
「土地は肥美にして、五穀及び稲を種まくに宜し。蚕桑に暁し、縑布を作る。牛馬に乗駕す。」

「土地はよく肥えて五穀や稲を種まくのに適している。養蚕をよく知り、カトリ絹の布を作る。牛や馬に乗ったり車を引かせたりする。」

 五穀や稲を栽培していたということでもあります。縑(カトリ絹)を作るのは倭人伝と同じ。辰韓はその一国だった斯盧国が発展して、後に新羅になります。三国史記、新羅本紀の始祖、赫巨世の十九年(B・C39)に「弁韓が国を以て来降った。」、五十三年(B・C5)に「東沃沮の使者が来て、良馬二十匹を献じた。」と記されており、辰韓が弁辰より優位であったこと、馬、牛には乗らず、葬送用のみに使う馬韓と違って、乗馬などの技術をはやくから採り入れていたことがうかがえます。
 日本では、神功皇后記に、「新羅国は御馬甘(うまかい)と定め、百済国は渡りの屯家(みやけ)と定めた。」とあり、神功皇后時代に新羅から馬とその使用法を導入しています。


嫁娶禮俗男女有別 以大鳥羽送死其意欲使死者飛揚
「嫁娶、礼、俗に男女の別あり。大鳥の羽を以って死を送る。その意は死者をして飛揚せしめんと欲するなり。」

「婚姻や礼儀、風俗に男女の区別がある。大鳥の羽を使って死者を送る。死者を高く飛び上がらせようと望んでそうするのである。」

 死者の魂が天に昇るというのは北方系の発想で、南方では地下の冥界に行きます。日本では、日本武尊が白鳥になって昇天するのに対し、伊邪那美神は黄泉の国へ行き、両者が混在しています。
 アルタイ系言語の北方系民族と、苗系言語の南方系民族、中国系の混合というのは、比率の違いがありますが、朝鮮半島でも日本でも変わりません。大和朝廷は縄文の北方系民族に出自があり、日本武尊の伝承に現れたものでしょう。伊邪那伎、伊邪那美神話は南方系の前王朝、邪馬壱国(物部系、苗系)の伝承に従ったと考えられます。辰韓の場合は、風俗にも男女の区別があるし、倭より北方系、あるいは中国系要素が濃くなっているといえます。


國出鐵韓濊倭皆従取之 諸市買皆用鐵如中国用銭 又以供給二郡
「国は鉄を出し、韓、濊、倭はみな従いてこれを取る。諸市で買うにみな鉄を用ひるは、中国が銭を用ひるが如し。また、以って二郡にも供給す。」

「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。諸市で買うときは、みな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。」

 「従って鉄を取る」というのは、やはり辰韓の許可を得てということでしょう。銭の如く使うには、いちいち秤で分量をはかったりしない、共通認識の持てる何らかのわかりやすい規格、形状があったと考えられ、古墳からしばしば発見される鉄鋋がそうではないかという説に賛同できます。倭は帯方東南大海中の日本(倭人)ではなく、朝鮮半島南部に存在した、弁辰瀆盧国と界を接する倭と思われます。辰韓の北方に存在した濊も取りに来ているのですから、かなり広範囲に産したようです。


俗喜歌舞飲酒 有瑟其形似筑 彈之亦有音曲
「俗は歌舞、飲酒を喜ぶ。瑟ありてその形は筑に似る。これを弾くに、また音曲あり。」

「その風俗では、歌舞や飲酒を喜ぶ。瑟があり、その形は筑(小型の弦楽器)に似ている。これを弾く音曲もある。」

 瑟は大型の琴で弦の数が多いといいますから、小型で弦数の多い楽器があったのか。歌舞飲酒を喜ぶのはどの民族でも共通という感じを持ちますが、あまり興味を持たない民族が存在するかもしれない。倭人伝では、「倭人の性質は酒をたしなむ。」、葬儀の際に「他人は歌舞飲酒する。」となっています。


兒生便以石厭其頭欲其褊 今辰韓人皆褊頭 男女近倭亦文身 便歩戰兵仗與馬韓同 其俗行者相逢皆住讓路
「兒が生まれるや、すなはち、石を以ってその頭を厭へ、その褊を欲す。今、辰韓人はみな褊頭なり。男女はまた倭に近く、また文身す。すなはち、歩戦し、兵仗は馬韓と同じ。その俗、行く者が相逢へば、みな住り路を譲る。」

「子が生まれると石でその頭を押さえ、頭を狭くしようとする。今、辰漢人はみな頭が狭くなっている。男女は(民族的に)倭に近く、また、入れ墨している。歩いて戦い兵器は馬韓と同じである。その風俗では、道を行く者が出会ったとき、みな立ち止まって道を譲る。」

 石で頭頂部を押さえるのか、後頭部を押さえるのか。石枕を使えば、寝ている時に自重で頭を押さえることになって簡単です。この場合は後頭部が真っ直ぐな絶壁頭ができることになります。「歩戦」は、馬に乗るが、騎馬戦はないということでしょう。入れ墨したり、道を譲ったりする習俗は倭人伝と共通しています。辰韓は魏志に表された倭人に一番近いのです。


三、弁辰伝

弁辰與辰韓雑居 亦有城郭 衣服居處與辰韓同 言語法俗相似 祠祭鬼神有異 施竈皆在戸西
「弁辰は辰韓と雑居す。また、城郭あり。衣服、居所は辰韓と同じ。言語、法俗は相似たり。鬼神を祠祭するに異ありて、竈を施すにみな戸の西に在り。」

「弁辰は辰韓と雑居する。城郭がある。衣服や住居は辰韓と同じで、言語や法俗も似ている。鬼神を祭ることに違いがあり、かまどはみな家の西側に作る。」

 弁辰と辰韓は馬韓の東で雑居していました。国境を明確に定められないくらい入り混じっていたことは、辰韓伝、二十四国の表記に示されています。辰韓や倭では城柵ですが、弁辰には城郭がありました。柵は木の囲いだから、郭は土壁なのか?その他のことでは、弁辰と辰韓は非常に近い民族のようですが、信仰が異なっていて、竈を重視したことがうかがえます。


其瀆盧国與倭接界 十二國亦有王 其人形皆大 衣服絜清長髪 亦作廣幅細布 法俗特嚴峻
「その瀆盧国は倭と界を接す。十二国はまた王あり。その人は形みな大なり。衣服は絜清にして長髪なり。また、広幅の細布を作る。法俗は特に厳峻なり。」

「その(弁辰の)瀆盧国は倭と界を接している。十二国には王がいる。その人はみな大柄である。衣服は清潔で、長髪である。また広幅の目の細かい布を作る。法俗は特に厳しい。」

 馬韓にも辰韓にも王はおらず、臣智という地位が最高だったのに、弁辰にだけ王が存在します。辰韓と弁辰の違いはどこからきたのか。弁辰が土着の古い民族かといえば、そうではないようです。「中国朝鮮史から見える日本」で明らかにしたように、魏志倭人伝に記された女王国の風俗は越人の風俗に重なっていました。辰韓人は入れ墨の風俗など男女とも倭に近いのですから、同じく越系の可能性がある。秦の長城建設のために強制移住させられて逃げ出したわけですから、元越人かもしれない。その辰韓と言語や法俗が似ているのですから、弁辰もまた南方系民族の要素を持っているわけです。馬韓の東に雑居しているのは辰韓と同じような境遇だったからではないか。
 先に書いたように、正始七年、辰韓八国を楽浪に編入しようとした魏と戦い「韓」は滅びたとされています。この時、馬韓、辰韓は王位を奪われた。弁辰はこの戦いに無縁か、魏に従順で優遇されていたと考えれば、弁辰の王の存在につじつまが合います。魏志韓伝のデータの多くは韓が滅びた正始七年(246)から魏の滅亡(265)までの間に記されたものと思われます。
 弁辰人は大柄で長髪だから、辰韓とは明らかに民族が異なっていた。衣服の主要生地も辰韓とは異なっていたようで、広幅で目の細かい織物でした。法俗は特に厳峻とありますが、後漢書「倭伝」にも同じく厳峻と書いてあります。これは魏志倭人伝には見られない文字です。


四、魏志以前の朝鮮半島の歴史

 中国で殷(商)が滅び、周が成立(前1066)したあと、殷の王族だった箕氏は朝鮮へ逃れました。周の武王はこれを聞き、箕氏を朝鮮に封じたといいます。周の封を受け入れ朝鮮侯となったため、箕氏は臣礼をとり、武王十六年に箕氏が来朝したと記録されています(尚書大伝、竹書紀年等)。周が衰えた後、中国では春秋戦国という長い戦乱の時代が続きましたが、この箕氏朝鮮の存続に影響を与えることはありませんでした。
 魏志韓伝の裴松之注には、魏略曰くとして、「昔、箕氏の後の朝鮮侯は、周が衰え、燕が自らを尊んで王となり東方の地を攻略しようとするのを見て、朝鮮侯もまた自称して王となり兵を興して逆に燕を撃ち、周室を尊ばんと欲した。その大夫の礼がこれを諫めたので中止し、礼を西に使わして燕を説かせたので、燕もこれを止めて攻めなかった。後、子孫が次第に驕り残虐になったので、燕は将軍、秦開を派遣して攻め、その(朝鮮の)西方の地、二千余里を取り、満潘汗に至って境界とした。朝鮮は遂に弱まった。」と記されています。
 周が衰え、燕が王を自称した昔とは、前323年の易王の時代です。それまでは公を称していました。燕と朝鮮は国境を接していたらしく、お互い東西に攻めようとしている。朝鮮が遼東半島北方まで勢力を伸張していたことがうかがえます。燕の将軍、秦開は二代後の昭王時代の人で、東胡を破り、千余里北へ退かせたとされています。朝鮮を攻めたのはその後のことです。
 この頃、燕の北方には東胡という遊牧民族が展開していました。呼び名は異なりますが、匈奴と同一習俗なので民族的には大差ないようです。東胡は匈奴の冒頓単于に破れ、その遺民が烏丸、鮮卑になります(魏志烏丸鮮卑東夷伝、「烏丸鮮卑即古所謂東胡也」)。しかし、これは前漢初期のこと。先に春秋末の呉の運命を語らねばなりません。

 「魏志倭人伝から見える日本」で明らかにしたように、自ら太伯の後裔と唱えた倭人(翰苑所載の魏略逸文、晋書、梁書)とは、呉人の別称で、周という国を弟の季歴に委ねて荊蛮の地へ去った太伯、仲雍を祖先とすることから、委人、倭と表わされるようになったのだと思われます(「漢委奴国王」の金印のあり)。
 二人は父の古公が病気になった時、衡山に薬草を採りに行くことを口実にして荊蛮に逃れたといいます(呉越春秋、呉太伯伝)。後漢、王充の「論衡」に、「成王の時、越常は雉を献じ、倭人は鬯を貢ぐ。」「周の時、天下太平。越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢ぐ。」という記述があるように、太伯、仲雍の後裔、倭人は実際に鬯草(=ウコン)という薬草を献じています。周の二代目、成王の時代で、周の系譜は古公-季歴-昌(文王)-武王-成王です。太伯、仲雍の子孫を探しだし呉に封じたのは武王で、二人は祖父の兄にあたりますから、捜索は十分可能です。論衡の言う、周初期の、鬯草を献じた倭人は日本人ではなく、呉人そのものです。
 これが漢書地理志にある楽浪海中の倭人、日本人と混同されたため、倭は熱帯、亜熱帯の植物、鬯草が自生するような南方の土地だという誤解を生みました。魏志倭人伝の帯方郡使が、常に南方に移動しているように思い込んだのも、混一彊理図の形が生まれたのも、この誤解に基づきます。
 「論衡」は前漢の平帝、元始元年に越常(ベトナム)が白雉一、黒雉二を献じたことを記しており、魏志倭人伝が倭の動物として黒雉、獮猴を特記したのは越常と同じような南方だということを示すためなのでしょう。中国南部からベトナム、インドなどに展開するアカゲザルはニホンザルに近い種類だといいますから、中国でいう獮猴はアカゲザルと思われます。挙げられている樹木にしても南方系のものが多く、竹類や稲もそうです。
 太伯からずっと時代が下って、春秋末のことになりますが、呉王夫差は邗に城を築き、長江と淮水をつなぐ邗溝という大運河を掘ったとされています(春秋左氏伝、哀公九年)。呉の北部に邗と呼ばれる土地があり、それに由来するのか、あるいは逆か。呉はカンとも呼ばれたようで、淮南子・原道訓では呉越は干越と表記されています。魏志鮮卑伝の裴松之注には、魏書曰くとして、「鮮卑王、檀石槐が烏侯秦水まで行ったところ、数百里にわたって水が停滞していて、中に魚がいるのに取ることができなかった。汗人が魚を捕るのがうまい(善捕魚)と聞き、東の汗国を撃って千余家を手に入れ、烏侯秦水へ移し置いて魚を捕らえさせ、食料の補助とした。今に至るまで、烏侯秦水のほとりに汗人数百戸がある。」という記述がありますが、後漢書では汗人が倭人に置き換えられています。北魏、酈道元の水経注には、遼西を流れる白狼水の支流に髙平川水というのがあり、「水は西北平川を出て東に流れ、倭城北を経る。蓋し倭地。人これに移る。」とされ、こんなところに倭城があって、檀石槐が東を攻めて倭(汗)人を強制移住させたという記述が真実であることを裏付けます。(平川は地名。「蓋し」から後の文は「蓋倭地人徙之」、永楽大典本水経注には「蓋倭也人従之」になっていて、修正されたものが正しいのかどうか判然としません。しかし、「倭城」、「倭」には問題がない。)
 倭人(呉人)がなぜ遼西周辺にいたのか? 三国史記、高句麗本紀には倭山という地名が現れます。どうも朝鮮半島北部にまで広く展開していたらしい。呉王夫差は越王勾踐に破れ、前473年に呉は滅亡しました。勾踐は北上し、山東半島の琅邪に都を置いたと言いますから、服属を拒絶した呉人の一部は南方から追い上げられ、北方も斉という激しく敵対した国なので、頭を抑えられ、行き場をなくすことになります。山東半島などから朝鮮へ渡るしかなかったのではないか。朝鮮は箕氏が住民を教化したため泥棒もいないような理想郷と目されており、夫差と同時代の孔子も「筏に乗って東へ行こうか」と軽口をたたいています。呉人も安全を求め朝鮮を目指したのかもしれません。国家の滅亡に際して生じた政治難民なので数が非常に多い。朝鮮半島西部の各地に散らばって大きな勢力になっていたと思われます。指導者に率いられた集団渡航を想定するべきでしょう。
 燕の秦開は朝鮮を攻めてその二千余里を取り、満潘汗を境界にしたとされていましたが(B.C300頃)、満(漢音バン、呉音マン)、潘(ハン、バン)は蛮とつながる音だし、汗は呉人(倭人)の別称らしい。この地名自体が呉人に由来する可能性があります。

 春秋末(B.C473)に国が滅び、呉人の一部は朝鮮半島に渡り、東胡につながる土地のアルタイ系先住民と同化や反目を繰り返しながら、箕氏朝鮮と併存しながら、戦国期には遼西から朝鮮半島西部一帯に勢力を広げていたようです。自ら太伯の後裔だと唱えた日本にもこの動きは当てはまります。したがって、「建武中元二年(57)、倭の奴国が貢を捧げ朝賀した。使人は大夫を自称した。倭国の極南界である。」という後漢書の記述も、朝鮮半島を含めた大きな地図でみれば正しいのです。

 魏志韓伝の裴松之注には魏略曰くとして、「秦は天下を併せ、蒙恬をして長城を築かしめ遼東に到る。」と記されています。中国を統一(前221)した秦は、胡を防ぐため、蒙恬に命じて長城を築かせ、その先端は遼東にまで達していました。史記、秦始皇本紀三十四年に「治獄の吏の不直なる者をつまみ出して、長城及び南越の地に築かせた。」という記述がありますが、その程度で足りるわけがない。秦に最後まで抵抗した楚、越、斉などの住民を大量動員したようです。時代はかけ離れていますが、清、袁枚に「子不語」という著作がある。「子は語らず」で孔子が語らなかった怪力乱神の話を集めたものです。以下の記述があります。
 「房県の房山に、毛むくじゃらの毛人というのが住んでいて、時々出てきて人家の犬や鶏を食べてしまう。拒もうとする者は必ず捕まって殴られる。鉄砲を撃っても弾が地に落ちてしまい防げない。これを防ぐには、ただ手を打って『長城を築け、長城を築け』と叫べば、毛人はあわてて逃げてゆくと言い伝えられている。秦の時、長城を築いたが、人は避けて山中に入り、死なずに妖怪になった。人を見ると必ず『城は出来上がったのか?』と問うので、何を恐れているかがわかり、こう脅かすのだ。」
 毛人は文字どおり毛むくじゃらの妖怪にされてしまいましたが、モンやマンと自称する苗系民族のことだと「弥生の興亡」で明らかにしました。房県は春秋戦国の楚領です。つまり、長城建設に楚の苗系民族を酷使したことが伝承されていたとわかるのです。
 宋書倭国伝に、「東に毛人五十五国を征し」という倭王武の上表文が記載されていますが、この毛人もアイヌではなく、苗系民族の表現でしょう。
 始皇帝死後(前210)の混乱に乗じ、遼東に大量動員された楚人、越人は散り散りに逃亡したようです。

B.C222 秦が燕の遼東を攻め、燕を滅ぼす。楚、越も滅ぼす。(史記、秦始皇本紀)
秦は遼東の外側まで領有した。(史記、朝鮮列伝)
B.C221 秦が斉を滅ぼし中国統一(史記、秦始皇本紀)
B.C213 始皇帝が長城を築かせる(史記、秦始皇本紀)
秦は天下を併せ、蒙恬をして長城を築かしめ遼東にいたる。
朝鮮王(箕)否が立ち、秦の侵略を恐れ服属したが朝会には同意しなかった。否が死に、その子の準が立った。(魏志韓伝、裴松之注の魏略逸文)
B.C210 始皇帝死亡(史記、秦始皇本紀)
陳渉や項羽が決起し、天下が乱れ、燕、斉、趙の住民が愁い苦しみ、少しずつ朝鮮に逃げてきた。朝鮮王準はこの人々を西方に居住させた。
(魏志韓伝、裴松之注の魏略逸文)
B.C207 秦滅亡(史記、秦始皇本紀)
長城建設のため、遼東半島に強制移住させられた楚人、越人がB.C210以降に脱出する。
遼東半島東方に逃れた楚人は濊(カイ)を建国


 山海経、海内北経には「葢国は巨燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す。」と記されています。燕の南に葢国があり、さらにその南方は倭だった。葢は、日本人は「ガイ」と読んでしまいますが、漢音、呉音とも「カイ」です。漢の玄菟郡、後の高句麗領域に葢馬県というのがあり、そのあたりだろうという。これは魏志の濊(カイ)国に重なります。漢書では穢(ワイ、アイ)と記されていますから、原音としてクヮイがあり、それがカイ、ワイという表記に分かれたと考えられます。朝鮮はずっと存続していたはずですが、存在感が希薄になる。この山海経の記述は漢初期の伝承でしょう。秦が遼東に勢力を伸ばす以前は、箕氏の子孫が国を作っているという以外、朝鮮半島の情報はほとんど持たなかったと思われます。燕は真番、朝鮮を領有して官吏を置き、砦を築いたといいますから(史記、朝鮮列伝)、燕の東方は真番と呼ばれる土地だったようです。高句麗に倭山という山があるので(三国史記、高句麗本紀)、倭(汗)に近い部族かと思えます。

B.C202 漢が興る。漢は盧綰を燕王と為し、朝鮮と燕は浿水(大同江)を国境とした。
(魏志韓伝、裴松之注の魏略逸文)
濊は、漢初期に濊王の印を授けられる。(魏志扶余伝から推定)

 朝鮮民族の祖、檀君は太伯山(妙香山)に降った天帝の子が、人間に変わりたいと願って人間になった熊女を妻として生まれたとされる(三国遺事)。熊トーテムと思われますし、太伯は呉の始祖の名です。
 夫餘は祖先が授けられたという「濊王之印」を持つ(魏志夫餘伝)。天帝の子と名乗る夫餘王、解慕漱が熊心山(鴨緑江付近、楚山か?)に結び付けられ(三国史記、高句麗本紀)、熊、夫餘、カイが一つになります。濊の発祥地は、遼東半島東方、楚山、太伯山周辺かもしれません。

B.C195  衛氏朝鮮の建国
燕王、盧綰が漢に叛き匈奴へ逃亡。燕人衛満は椎髻し蛮夷の服を着て浿水を東に渡り朝鮮に亡命した。朝鮮王、準のところへ行き、西の境界に居住し、中国亡命人を収め朝鮮をまもる垣根にすることを求め説得した。準はこれを信じ、博士という官に任じ、百里の土地を与えて、西辺を守るよう命じた。衛満は亡命人を誘い、数が増えてくると人を遣り、詐って、漢兵が十道から攻めてきたので、守るために都に入りたいと告げた。遂に都に還って準を攻めた。準は衛満と戦ったが、相手にならなかった。(魏志韓伝、裴松之注の魏略逸文)
B.C195 韓の建国
朝鮮王準は左右の宮人を引き連れ、走って海に入り、韓の地に居住し自ら韓王と号した。(魏志韓伝)


 漢初期、朝鮮王の(箕)準は燕人、衛満に敗れ、南方に逃れて韓を建国します。呉王夫差の掘った邗溝は「今、広陵の韓江がこれである」という注があり(春秋左氏伝、哀公九年)、韓もまた呉人の別表現だったのでしょう。要するに「カン」という音で表わされていた。その由緒を重視して、文字表記すれば、国を委ねた太伯、仲雍の後裔ということで「委、倭(ヰ)」になります。

 遼東から朝鮮に逃れていた楚人、越人が韓に移動した。韓は東方の地を割いて彼らを居住させた。越人は辰国(辰韓)、楚人は弁韓(弁辰)と呼ばれています。韓が土地を割き与えたのですから、韓の建国後のことになります。
 衛満は王険(浿水の東、史記索隠注。平壌)に都を置いた。漢の孝恵帝、呂后時代で、遼東太守は満を外臣と為し、国境外の蛮夷を保持させるが、中国辺境部を荒らさないこと、蛮夷の君長が天子に朝見しようとするのを禁止しないことを約束させ、天子に報告し許可された。そのため、満は兵力や財物を得て、付近の小邑を従えた。真番、臨屯はみな服属し、方数千里になった。国を子に伝え、孫の右渠に至った(史記、朝鮮列伝)。

元朔元年
(B.C127)
匈奴が遼西に入って太守を殺し、漁陽、雁門に入って都尉を破り、三千余人を殺したり掠ったりした。将軍、衛青を派遣して雁門から出発し、将軍、李息は代から出て、首を取ったり虜にしたものは數千人。
東夷の薉君南閭等二十八万人が降服し蒼海郡と為した。(漢書、武帝本紀)
元朔三年
(B.C129)
蒼海郡を廃止した。

 匈奴と濊(薉)が連係していたのかどうか、漢は遼西、遼東からさらに東へ進んで海まで至ったようです。濊君は降服し、蒼(滄)海郡が置かれた。しかし、管理が難しかったのか、わずか二年で廃止されました。この時に濊王の印が授けられた可能性があります。

 朝鮮王の右渠が朝見したことはなかったし、真番や辰国が天子に上書し、朝見したいと望んでも、やめさせ通さなかった(漢書、西南夷両粤朝鮮伝。漢の武帝時代)。
 このころ辰国(辰韓)がすでに存在していたことになります。漢は右渠を諫めるため使者を派遣しましたが、その使者が、交渉に失敗し、国境付近まで戻った時、帰国を送った朝鮮の将を暗殺するというトラブルがあり、かえって対立が激しくなりました(漢書、西南夷両粤朝鮮伝)。

元封二年
(B.C109)
武帝が朝鮮を攻める。
元封三年
(B.C108)
衛氏朝鮮が滅び、真番、臨屯、楽浪、玄菟の四郡が置かれる。

 武帝の東方進出(元朔年間または元封年間)に押され、武帝かあるいはそれ以前に「濊王の印」を授けられていた濊の主流(熊トーテム)が、北方へ移動し、夫餘を建国。南方に虎トーテムの一族が濊として残る。
 夫餘王の名に解夫婁、解慕漱があり、夫餘から分かれた高句麗二代目、瑠璃明王の子は解明とされるなど、高句麗王家の諱にカイという音がつきまといます。また、その頃の夫餘王は帯素(タイソ)とされ(三国史記、高句麗本紀)、起源がタイ族、楚人であることを示唆しています。

 夫餘の古老は、「古の亡人(昔、逃がれてきた人間)」だと説明する。…今、夫餘の庫に玉壁や玉器、祭りの際に使うひしゃくなど、数代のものが伝世され宝物としている。古老は祖先の代に賜ったものだという。その印文は「濊王の印」という。国(=中国)には濊城という名の故城があり、そこは、元、濊貊の地で、夫餘王はその中にいたのだろう。自ら亡人というのは、理由のあることなのである。(魏志、夫餘伝)

 この記述にある「国」を夫餘と解せば、国内を移動しただけのことで、亡人という言葉は当てはまりません。中国(玄菟郡)と解して、始めて意味が通じます。中国人が中国人に向けて書いた文章なので、単に、「国」と書いたとき、中国を意味する場合があります。魏志倭人伝の「於国中有如刺史(国中に於ける刺史の如く有り)」も、同じく、中国(魏)のことです。

「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す。歳時を以って献見に来たという。(漢書地理志燕地)」
 楽浪郡成立後なので、武帝以降のことです。日本に居住していた倭人が定期的に楽浪郡に使者を派遣していたようです。

 漢の昭帝の始元五年(B.C81年)臨屯、真番郡を廃止し、楽浪、玄菟郡に併せた。(後漢書濊伝)
 後、時期不明ですが、楽浪郡東部の単単大山領以西は楽浪郡に属し、以東の七県は東部都尉がこれを治めました。(魏志濊伝)

 前漢末期に朱蒙が夫餘から逃れ、高句麗を建国。朱蒙(鄒牟、衆解)の母は夫餘王の婢だったようです。漢書では高句麗侯を騶(スウ)としており、越王の姓と重なっています。西方に逃れた越人もいたのでしょう。魏志では騊(トウ)になっていますが、朱蒙、鄒牟の音を考えると、騶の転写間違いと思われます。
 裴松之の記す魏略逸文(魏志夫餘伝注)は、夫餘が北夷の高離(豪離)国から逃れてきたとしていますが、これは高句麗の始祖伝承を誤解して組み込んだものです。実際は北夷の高離(カウリ)国が夫餘から逃亡してきている。王充の「論衡」にも同じような文があり、何らかの共通の引用元ががあったようで、その文献の勘違いということになりそうです。
 光武帝時代に高句麗が朝貢しており、その始祖伝承が後漢に伝わったと思われます。三国史記、高句麗本紀にその同じ始祖伝承が記されています。おそらく、後漢代に、夫余の「いにしえの亡人」という伝承も伝わっていて、高離から夫余が逃亡したのでなければおかしいと、高離国と夫餘を入れ替えたのでしょう。夫余王、解慕漱は天帝の子とされ、熊心山に結び付けられていますから(三国史記、高句麗本紀)、朝鮮民族の祖という檀君神話は、夫余の始祖伝承から出たものと思われます。夫余の始祖は天から天下っているはずです。

 高句麗二代目、瑠璃明王(類利)の異母弟、温祚が馬韓に入り、百済国を建国。(三国史記、百済本紀)
 この国名は馬韓五十国の一つ、伯済国として魏志韓伝に現れます。

 (新の)王莽は、高句麗兵を徴発し胡を攻めようとしたが、みな塞を逃げ出して盗賊となり、遼西大伊、田譚はこれを追撃したが、逆に殺された。州、郡はその罪を高句麗侯騶に帰したが、厳尤は慰安すべきだと奏言した。王莽は慰安せず、厳尤にこれを伐たせた。尤は高句麗侯騶を誘い、来たときに斬った。高句麗を下句麗とし、(王号を奪い)侯国にした(漢書王莽伝)。
 三国史記、高句麗本紀はこれを否定し、殺されたのは将軍だとしますが、高句麗侯騶はやはり瑠璃明王と考えられます。この事件と百済国の成立が関係しているかもしれません。

 王莽の地皇年間(20~23)のことですが、辰韓に誘拐された漢人千五百人のうち、五百人が死んでいたため、辰韓に一万五千人の人間、弁韓に布五千匹を出させ賠償に取ったとされており、このころ弁韓も存在していたとわかります。(魏志韓伝、裴松之注の魏略逸文)

 王莽からのち、光武帝が後漢を建国するまで、辺境は乱れ、楽浪郡も半独立状態だったようで、高句麗本紀には楽浪国が登場し、王は崔氏となっています。(高句麗本紀、大武神王)

 後漢の光武六年、辺郡が省かれて、東部都尉は廃止され、土地の首長の手にゆだねられた。(魏志濊伝、東沃沮伝)

   高句麗本紀
大武神王十五年
(A.D32)
使を派遣して漢に入り朝貢。光武帝はまたその(高句麗の)王号を復活させた。建武八年のことである。
二十年(A.D37) 王は楽浪(崔氏)を襲いこれを滅ぼした。
二十七年
(A.D44)
漢光武帝は兵を派遣し、海を渡り、楽浪を伐ち、その地を取って郡県と為した。薩水(清川江)以南が漢に属するようになった。

 辰韓人は秦の労役を逃れて馬韓に入ったとき、馬韓が東の土地を割き与えたと伝えていたり、楽浪郡の人を阿残(我々の残り)と呼んでいたりすることなどから(魏志辰韓伝)、遼東の長城建設を逃れて楽浪郡(箕氏あるいは、衛氏朝鮮)に入り、さらに韓へ移動した後、その東部に居住したことがわかります。
 弁辰も同じ経路で、時を同じくして移動していたと思われ、馬韓東部で辰韓と雑居していました(魏志弁辰伝)。
 魏、蜀、呉、三国時代の版図は大ざっぱですが右図のようになります。