魏志「邪馬壹(邪馬壱)国」説



 邪馬壹国か、邪馬臺国か?
  「邪馬壱国説」を支持する史料とその解説


魏志倭人伝(A・D 280頃、晋、陳寿)
「倭人は帯方東南大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時、朝見するもの有り。今、使訳通ずる所は三十国。郡より倭に至るには海岸にしたがい水行し、韓国をすぎて、乍南乍東。………南、邪馬壹国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。」

後漢書倭伝(A・D 424頃、南朝、宋、范曄)
「倭は韓東南大海の中に在り。山島に依り居を為す。凡そ百余国。武帝朝鮮を滅してより、使駅、漢に通ずるは三十許国。国は皆王を称す。世々伝統。その大倭王は邪馬臺国に居す。(邪馬臺国に入っている唐注…今名を案ずるに邪摩惟音の訛なり。原文…案今名邪摩惟音之訛也。)」

隋書俀国伝(A・D 627頃、唐、魏徴)
「俀国は百済、新羅東南に在り。大海の中に水陸三千里。山島に依り居す。魏の時、中国に訳通したのは三十余国。皆、自ら王を称す。夷人は里数を知らず、ただ、日を以て計る。その国境は東西五月行、南北三月行で各海にいたる。その地勢は東が高く、西は下。邪靡堆(同時代の北史では「邪摩堆」)を都とする。則ち、魏志言うところの邪馬臺なり。」
(「俀国」となっているが、後漢書の安帝の時に遣使した倭奴国も「俀奴国」と記されているので、倭の異体字と考えて問題ない。)

 隋書は「邪靡堆(ヤミタイ、北史は邪摩堆としているので、「靡」は「摩」の転写間違いと考える)」と記しており、堆を使用するようになったのは隋、唐代以降と考えられる。この頃、遣隋使、遣唐使の派遣や、裴世清(隋)の日本渡来などで、日本に関する情報が飛躍的に増え、新たに「邪摩堆」の文字が使用されたのであろう。倭人にじかに国名を聞いた人間でなければ自ら文字を選ぶことはできず、後漢書の邪馬臺を引用するしかないはずである。おそらく、裴世清の報告書の文字が起源だと思われる。堆を記す魏志、後漢書については見聞したことがない。
 隋書にしたがえば、「魏志には邪馬臺国と書いてあった」ことになる。言葉通り受け取る人もいるが、そう簡単にはいかない。後漢書(百衲本)の、「大倭王は邪馬臺国に居す。」という記述に、「今名を案ずるに、邪摩惟音の訛なり。」という唐の李賢注が続くからである。訛は言+化。言葉が誤って変化したことを表す文字である。より古い邪摩惟(ヤバユイ、ヤバヰ)音の伝承があり、それがいつの間にか変化して今名(唐代)のヤバタイ(邪馬臺、邪靡堆)になったのだとされ、そして、後漢書に百数十年先立つ魏志が邪馬壹国と表記している事実があるわけである。惟は唐韻では「以追切」となっているから、yi+uiでyuiとなる。片仮名のユイよりもイに近い発音であろう。

 以下は唐(618~907)詩だが、最後の色を変えた韻の部分だけを見てもらうだけでかまわない。
  「長干行」 李白(701~762)
      ……
      十四為君婦  羞顔未嘗
      低頭向暗壁  千喚不一
      十五始展眉  願同塵與
      常存抱柱信  豈上望夫
      十六君遠行  瞿塘灔澦
      五月不可触  猿聲天上
      ……
  「牡丹」 李山甫(生没年不詳)
      邀勒春風不早開  衆芳飄後上樓
      數苞仙豔火中出  一片異香天上
      曉露精神妖欲動  暮煙情態恨成
      知君也解相輕薄  斜倚闌干首重

 「カイ、カイ、カイ、タイタイ、アイ」「タイ、ライ、タイ、カイ」となり、「臺」と「堆」はきれいに韻を踏んでいる。
 唐の顔師古(581~645)が漢書に注を入れており、その中には半切という方法で文字の発音を記したものがある。〇〇反とか〇〇切とか書くわけである。堆は「丁回反」で、発声語の丁(tei)と韻母の回(kai)を合わせて、tai(タイ)という発音だと示されている。
 何冊かあたってみたが、臺の発音を注した書物はなかった。顔師古注で、儋(タン)は「丁(tei)甘(kan)反」「都(to)濫(ran)反」、澹(タン)は「徒(to)濫(ran)反)、「都(to)甘(kan)反」になっているから、丁、都、徒、どの文字を使おうとも「t」という発声の語には変わりがないということになる。
 臺は、広韻(1008年頃)では、「徒(to)哀(ai)切」である。略字として使われる同音の台は、唐韻(唐代)では、「與(yo)之(shi)切」、「土(to)来(rai)切」で、「yi」音と「tai」の二音があったらしい。集韻(1039年頃)では「湯(tau)来(rai)切」、並びに音「胎(tai)」になっており、坮は臺と同字なので、臺は台音に等しい。taiである。
 以上により、唐代の、臺は「tai」、堆も「tai」音ということになる。中国語の発音や発音記号はわからないので、日本語の発音とアルファベット表記だが、だいたいのことがわかれば十分。日本語の方が古音を保存している可能性すらある。
 現在の発音では邪馬臺はイェンマターイ、邪摩堆はイェマトゥイに聞こえるが、盛唐期の「臺」「堆」は同韻で、韻母はアイである。この二文字が別個に「來」や「開」と韻を踏む詩は、唐詩の中にいくつも見られる。
 年代順で言えば、願師古(581~645)ー李賢(655~684)ー李白(701~762)の順なので、顔師古と李白の時代に同じタイ音だった文字が、中間の李賢の頃に別音だったとは考えにくい。堆の現在の音はツイに近いので、李白より後の時代に音韻の変化がおこったようである。
 今の「堆」は昔の「臺」が訛ったものだと言うならともかく。昔の「臺」が今の「堆」の訛だとは言えない、時間が逆である。後漢書の邪馬臺のあとに「邪摩惟音の訛」とは言えても、魏志が邪馬堆と記していない限り、「邪摩堆音の訛」とは言えない。魏志に記されていたとすれば臺か壹だから、注の「邪摩惟音の訛」が「邪摩堆音の訛」の転写間違いである可能性は排除できる。太平御覧巻七百八十二、東夷三、「俀」にも、「後漢書曰く」として、邪馬臺国に「邪魔惟音の訛」という注が入っている。
 魏志が邪馬臺国と記していたなら、後漢書の邪馬臺国と同じで、注そのものを必要としない。注を入れた頃の魏志には「邪摩惟音」、つまり、「邪馬壹」が記されていたことになるのである。
 「案ずるに、(邪馬臺の)今名の邪摩堆は音の訛なり。」という読み方をする人もいるが、邪摩惟と書いてあって、都はヤマトだから、今名(唐代)のヤマヰ国は存在しない。惟は堆の転写間違いだという前提がなければできない読みである。先に書いたように、李賢注の入れられた頃の「臺」「堆」は同音だから、邪馬臺と邪摩堆は何が違うというのか。訛はどこにあるのかということになる。多少アクセントが違ったりしても、案じるほどのこともなくわかる簡単なことであろう。単なる文字違いに「音の訛」という注が必要と考えるだろうか。臺は「土を高く盛って作った台」、堆は「土の高まり」。意味まで似ている。
 裴世清の聞き取りにしても、遣隋使、遣唐使等からの聞き取りにしても、日本人が都は「ヤマト」だというのを聞いて中国の文字で表記してる。聞き取りと文字表記という二つの変換過程があり、完璧な写しなどありえない。ヤマトに対して、邪馬臺、邪摩堆、どちらの表記を採るにしても違和感はないであろう。魏志に邪馬壹(ヤマイ)と記されていて、明らかに異なるから、その理由を考えて注を入れたのである。後漢書(南朝、宋代)から唐代まで日本の国都に変更はない。ヤマトの音訳、中国人の聞き取りに表記に対して、今の中国語訳は訛っていると書くだろうか。中国内ですら同一文字の発音が南北で異なっているというのに(実際にはもっと多かったはず)。邪馬壹を邪摩惟と書いたのは、邪摩堆との対比、当時、主流になっていたこちらの文字の方がわかりやすいという配慮であろう。

 隋書は唐の魏徴の作とされている。旧唐書、魏徴伝は、「貞観二年(627)、魏徴は秘書監に遷って朝政に参与した。喪乱の後、典章がまぎれ雑然としていたため、学者を率いて四部書を校訂した。数年の間に、宮中書庫の書籍は燦然となった。」と記しているから、隋書は627年から数年の内に整理されたようである。
 後漢書の注は、唐の章懐太子賢(李賢)の命によるもので、儀鳳元年(676)、学者や太子左庶子の張大安などを招集し、范曄後漢書に注を入れ、その書を宮中の書庫に収めたとされている。当時の皇太子の責任で加えた注なので、国家的事業といって良いであろう。賢注は、鵲に「或いは鶏に作る。」と入れており、後漢書に関しては複数の異本を調べている。韓伝には「魏志曰く」と記しているから、魏志も参照していた。
 注の入れられた儀鳳元年(676)、魏志には邪馬壹国、後漢書には邪馬臺国とすでに別の文字が書かれていて、現在まで千数百年間保持されてきたわけである。
 隋書は、676年の後漢書注より五十年ほど先立つわけだが、魏徴の時代から、章懐太子賢の時代まで書庫が混乱するような事件はない。わずか五十年で、唐の宮中に保管されていた書の文字が変化するとは考えにくく、魏志の邪馬壹国を、魏徴の時代(627)までさかのぼらせることができそうだ。

 隋書は隋の公文記録、日本に派遣された裴世清の報告や遣隋使の提供した情報に基づくと思われる記述を中心に、先行する史書を引用して過去の情報も加えている。引用元は魏志ではなく後漢書である。これは最初に挙げた三つの史書を見比べれば歴然としている。
 後漢書を引用するなら、「後漢の時」のはずだが、なぜ「魏の時…」、「魏志言うところの邪馬臺なり。」という不自然な記述になったのか。可能性として、思いつくままを挙げれば、以下のようになる。

1、唐代の魏志に邪馬臺と書いてあった。
 隋書編纂時から後漢書李賢注までの五十年ほどの間に、魏志の文字が邪馬臺から邪馬壹に変化したことになり、先に書いたように可能性は少ない。(魏志が「邪馬臺」なら注は必要ない。)
2、隋書の編纂者が魏志を確認していない、
  魏志倭人伝は「今、使訳通ずるところは三十国。」で、後漢書は「使駅、漢に通ずるは三十許国(三十ばかりの国)。国は、皆、王を称す。」になっている。 隋書は「魏の時、中国に訳通したのは三十余国。皆、自ら王を称す。」と記し、魏志とは内容の違う、後漢代の出来事を書いている後漢書に合わせているのだから、「後漢の時」で、「魏の時」とは言えないはずである。隋書の編纂者が後漢書のみに頼り、魏志を確認せずに書いた可能性がある。
3、後漢書が正しく、魏志は転写間違いと判定し修正した
 隋の裴世清が日本に派遣され、何らかの報告書を残したと思われるが、そこに邪摩堆国と書いてあった。後漢書の邪馬臺が正しく、魏志の壹は臺の転写間違いと考えて修正した。
4、隋書には元々「邪馬壹」と記されていたが、後世、後漢書以降の国名、ヤマトに影響されて「邪馬臺」に改変された。隋書の転写間違い、あるいは修正。
 「邪靡(摩)堆に都する。則ち魏志いう所の邪馬臺なり。」と記しているから、文字が違うだけで、「ヤバタイ」という発音に変わりはない。同じ発音ならわざわざ書く必要がないはず。多少、違っていても違和感なくわかるであろう。言葉を恐ろしく節約するくせに何故、という思いが残る。魏志が邪馬壹(ヤバユイ)という別音を記していたから、今、邪摩堆というが、魏志のいう邪馬壹がこれだと強調しなければならなかったのではないか。むしろ、後漢書賢注が、隋書に「邪靡堆を都とする。則ち、魏志いう所の邪馬壹なり。」とあるのを受けて、後漢書、「大倭王は邪馬臺国に居す。」という記述に、「今名を案ずるに、邪摩惟音の訛なり。」と付け加えた可能性が出てきた。

 私が採るのは3、「後漢書の方がはるかに正確、魏志は転写間違いが多いと判定し、後漢書の記述を魏志の原型と扱って引用し、邪馬臺を強調した」である。
 4が一番魅力的で整合性があるが、「邪馬壹」と表記した隋書が見あたらない以上、主張したところで、根拠のない強弁という誹りは逃れられない。
 
 当時の中国を想像すると、魏志に邪馬壹、後漢書に邪馬臺とあって、どちらが正しいかわからない困惑状態だったと思われる。そこへ遣隋使が渡来して、都はヤマトだと答える。旧唐書東夷伝「日本」には、「入朝者の多くはおごりたかぶって実を以って答えない。故に中国は疑っている。」という記述があり、さまざまな質問を浴びせかけたようすがうかがえる。当事国の人間が来て、都は「ヤマト」と言うのだから、これほど確かなことはない。倭人伝に限った話だが、後漢書が正しく、魏志は不正確という評価が下された。

 范曄は後漢書倭伝を記すにあたって、当時、数種類伝わっていた後漢書や魏志倭人伝等を要約引用している 《*/范曄は「衆家後漢書を柵して一家と為した」と宋書范曄列伝にある。》
 後漢の歴史だから、魏代の出来事には用がない。卑弥呼の即位は後漢、霊帝の時代なので、後漢書の対象になるが、後漢代に存在しない魏や壱与に関する記述を書きこむわけにはいかないのである。魏志からの引用は地理、風俗情報に限られている。すべて魏志倭人伝に含まれているデータばかりなので、魏志を要約したことは明かである。ただ要約しただけではなく、東晋、義煕九年(413)の神功皇后の遣使から得られたと思われるデータに基づき、魏志を修正している。このことは、「弥生の興亡1 魏志倭人伝から見える日本1の邪馬台国か邪馬壱国か」で解説している。 修正(要約するだけではなく、内容も変えている)箇所は以下のようになる。

魏志倭人伝

後漢書倭伝

●今、使訳通ずるところは三十国
●その(倭の)北岸、狗邪韓国に到る
●使駅、漢に通ずるは三十許国。国はみな王を称す
●その西北界、狗邪韓国を去ること七千余里
後漢書は狗邪韓国を倭領に加えたため、国数が増え、許(ほど)という文字を加えた。
魏志では、王が存在するのは伊都国だけである。後漢書は倭(面土)国王帥升の名を記すなど、何らかの史料からデータを得て魏志を書き換えている。(面土は宋本「通典」にある。)
●郡より女王国に至るまで万二千余里 ●楽浪郡境はその国を去ること万二千里
当時の中国人の世界観では、東、西、南、北、中央、距離はすべて万二千里のブロックと考えられていたため、魏志の万二千余里は間違いだと余を省いた。
●南、邪馬壹国に至る。女王の都する所 ●その大倭王は邪馬臺国に居す
邪馬壹国を邪馬臺国に改めている。
●真珠、青玉を出す。その山に丹あり ●白珠、青玉を出す。その山に丹土あり
真珠は日本ではパールの意味だが、当時の中国では丹砂の意味になるようで、正しく白珠と改めた。丹も丹砂のことなので、丹土(赤土)と記した。あるいは魏志の文字抜けか。
●或いは蹲り、或いは跪き、両手は地に拠し、これを恭敬となす ●蹲踞をもって恭敬となす
膝を付ける、付けないにかかわらず、手は地面に付ける。それが重要なのに、後漢書は蹲踞のみで恭しさを表すとしている。誤解というより風俗の変化を思わせる。
●その法を犯す者は、軽者はその妻子を没し、重者はその門戸及び宗族を没す ●法を犯す者はその妻子を没し、重者はその門族を滅ぼす
●法俗厳峻
重犯者とその一族は魏志では奴隷にされるだけだが、後漢書では死刑になる。そして、法俗は厳峻(非常にきびしい)という魏志にはない言葉がみられ、ここでも風俗の違いを感じさせる。
●その(女王国の)南に狗奴国あり、男子が王となる。その官は狗古智卑狗がある。女王に属さず
●女王国の東、海を渡ること千余里。また国あり、皆、倭種
●女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る。皆、倭種といえども女王に属さず
後漢書は、魏志の四十行ほど離れた記述を合成し、魏志では方向の異なるまったく別の国を一つにしてしまった。これを范曄の読み間違いとするのは范曄に失礼である。
●年すでに長大 ●年長
魏志、正始八年(247)の頃の卑弥呼は年長大であった。しかし、即位した後漢代の倭国大乱直後(170年代前半)はそれより七十年ほど遡るわけで、ずっと若い。そこで後漢書は大を省いた。それでも年長なので、卑弥呼は正始中、百数十歳と考えられていたことも明らかになる。魏志倭人伝には倭人は長寿で八十、九十、百歳であると書かれており、それをさらに上回っていたわけである。

 邪馬台国が朝鮮半島南部(狗邪韓国)を領有し、倭国内の東方の国と敵対したことになる後漢書の記述は、いにしえの奴国領域にある香椎宮に居し、新羅、百済を属国としたのち、東へ進出して大和と戦った記、紀の神功皇后時代の政治環境に完璧に一致している。東晋、安帝の義煕九年(413)の遣使は神功皇后によるもので、倭に関するデータが残されていたと推定できるのである。(関連ファイル、弥生の興亡「魏志倭人伝から見える日本1、邪馬臺国か邪馬壹国か」
 そして上記表の食い違いのすべてにわたって、後漢書が正しく、魏志は間違いと結論されたであろう。遣隋使、遣唐使は神功皇后の子孫たる大和朝廷の使者なので、修正された范曄のデータが正しいと保証する。次に出てくるのが、正しいデータへの修正という作業である。間違いが確定したものを使う研究者はいない。邪馬壹は追放され、邪馬臺に統一されるのは明らかである。書物の改訂作業など現在でもよくあることで、梁書(唐、姚思廉)が「壹與」まで「臺與」に修正していることをみると、壹は臺の転写間違いだと、現在の通説のように考える人々が存在した。それが当時の常識となったのであろう。梁書の編纂には、隋書の編纂責任者、魏徴もかかわっているから、共通認識の元に書かれていることは明らかである。
 この流れでいけば、隋書の記述も理解できる。「魏の時」の話だが、魏志は間違いが多いとわかっているので、後漢書の記述を使う。「中国と交流のあるのは三十余国」と国が増やされ、「皆、自ら王を称す。」も付け加えられた。魏志の邪馬壹は邪馬臺の書き間違いなので、正しく邪馬臺に改めて、「魏志謂うところの邪馬臺」となる。現在の日本で「魏志倭人伝の邪馬台国」と書く書物がいくらでもあることから、これもありふれた修正とわかる。
 しかし、後漢書李賢注は、それに異を唱えた。私同様、魏志には「壹」という文字が四文字もあるのに、すべてを書き間違えられるのか。おまけに「臺に詣ず。」と臺を書き分けている。転写間違いとするには問題が多すぎると考えたのではないか。様々な可能性を考えた結果、そうではなく、今名のヤバタイ(邪馬臺、邪摩堆)はヤバユイ(邪馬壹)音の変化で、魏志の文字間違いではない、魏志も正しいと結論したわけである。 唐代の人間の考えたことと、現在の日本で考えていることはまったく同じだったことになる。

 隋、唐以降の中国は、倭の歴史に関しては、魏志よりも後漢書が正確だと判断し、魏志の邪馬壹を邪馬臺の転写間違いだと結論した。隋書や梁書、太平御覧などの新しく編纂された書物は、著述者の研究成果が発揮されて、魏志の邪馬壹を改め、原型と考えた邪馬臺を用いる。そういう小知恵の入らない魏志そのものは機械的な転写を続けて邪馬壹を保持したことになる。研究者による書き換えの最も身近な例として、中央公論社刊「日本の古代」の魏志倭人伝原文を挙げておく。原典そのままの引用ではなく、このような編纂者による意図的な書き換えが行われていると、様々な史料の文字違いを校勘して真を見つけるという作業が無効になる。そもそも校勘とは、機械的に転写された同一書物間の文字の異同を調べて原型を求めるのに意味のある作業で、著述、編纂者の思考が入った異なる書物間では力を大きく減じる。
 壹與も、梁書や太平御覧(巻七百八十二、東夷三、俀)では臺與に修正されてしまったが、同じ太平御覧の歴史研究の成果が入らない項目(巻八百二、珍宝部一、珠上)では、単純に魏志倭人伝を引用して壹與と記している。壹與が村屋神社の祭神、三穂津姫であることは「弥生の興亡、帰化人の真実5、壱与の死とその祭祀」や「補助資料集、村屋坐弥富都姫神社(村屋神社)」の項で解説しているが、神社の所在地名は伊与戸(イヨド)である。日本の地名から壹與が正しいとわかる。伊予国の別名が愛媛(エヒメ=かわいい姫)であることもそれを補強する(神代記)。このあたり、日本の伝承をなめてはいけない。

 後漢書李賢注が示すように、唐代の魏志には「邪馬壹国」と書かれていた。これが結論である。陳寿が魏志を著してから、唐代まで三百数十年間、伝世されてきた。本来の形はこうだと断定するには至らないが、魏志を積極的に「邪馬臺」に修正するデータが見あたらない以上、そのまま「邪馬壹」を使用するべきである。記、紀には王朝の交代が記されており、弥生時代の国名(魏志)が、倭の五王時代(後漢書)まで、そのまま継続していた保証はないのだから。



2、魏臺訪議の魏臺は明帝を表し、蛮夷の倭国に対する
  「臺」の使用はあり得ないこと

 古田武彦氏が指摘していることで、古田氏に賛同できることなどほとんどないのだが、ここだけは認めざるを得ない。
 隋書経籍志二(巻三十三)に、高堂隆撰、魏臺雑訪議三巻が見らる。蜀書、劉二牧伝第一の「物故」という言葉に裴松之(南朝宋代)が注を入れており、「魏臺、物故の義を訪う。高堂隆、答えて曰く…(魏臺訪物故之義高堂隆答曰聞之先師物無也故事也言無復所能於事也)」とある。「魏臺が死のことを物故というのは何故だと尋ねた。高堂隆が、私の先生に聞いたことですが、物は無で、故は事です。事に於けるはたらきの復する所の無い(何も出来なくなる)ことを言いますと答えた。」
 古田氏はここに目をつけられたわけである。魏志には高堂隆伝がある(巻二十五)。高堂隆(?~237)は明帝の傅(守り役)となり、光禄勲(九卿の一つ、宮殿の禁門の守備を司る部署の長官)で生涯を終えた。厳しい儒者だったようである。命を賭しても帝を諫めるのが自らの使命と考えているから遠慮がない。それほど明帝の身近にいる人だった。上表して諫言したことや、明帝の下問に応答したことなどが記されている。
 史記匈奴列伝の「物故」にも、索隠注(唐代)が「魏臺、議を訪う、高堂崇、対えて曰く…(魏臺訪議高堂崇対曰聞之先師…)」と、唐の玄宗の諱、隆基を避けて名前を崇に変えているが、同じ文を引用している。裴松之の注と照らし合わせると、議は義の意味で使われているのではないかと思える。時代的には裴松之注が一番近く、原型にも近いであろう。
 後漢書儒林列伝(上)の「物故」の注(唐代)にも、「路上死である。案ずるに、魏臺が物故の意味を訪ねた。高堂隆が答えて言った。これを先師に聞いたのですが…(在路死也。案魏臺訪問物故之義高堂隆答曰聞之先師…)」とある。
 太平御覧(宋代)巻三十三、時序部十八は、「高堂隆の魏臺訪議曰く、詔して問う、なんぞ以って未祖丑臘を用いる。臣隆こたえて曰く、案ずるに月令、孟冬十月、先祖五祀に臘す。田猟して得るところの禽獣を薦めるを謂う。これを臘と謂う。(高堂隆魏臺訪議曰詔問何以用未祖丑臘、臣隆対曰按月令孟冬十月臘先祖五祀謂薦田臘所得禽獣謂之臘)」と記す。明帝の祭祀に関する問いに高堂隆が答えた。
 芸文類聚(唐代)巻五には、「魏臺訪議曰く、帝問う、何ぞ未社、丑臘を用いる。王肅、対えて曰く、魏は土なり。土は木を畏れる。丑の明日はすなわち寅にして、寅は木なり。…(魏臺訪議曰帝問何用未社丑臘王肅對曰魏土也土畏木丑之明日便寅寅木也故以丑臘土成于未故于歳始未社也)」と記されている。
 上記、太平御覧の質問と同じだが、王粛(195~265)という人物が答えた。魏、王粛撰の「魏臺訪議」という書もあり、その中の一節のようである。しかし、王粛著の「孔子家語」は偽作というのが定説で、王粛は少々いかがわしい人物であったらしい。元々存在した孔子家語を自説に都合の良いように改変して世に出したという。魏志王郎伝に王郎の息子として付け加えられている大物で、晋を建国した司馬炎の母方の祖父にあたるのだが、盗用の常習犯かもしれない。問いに対する答えが高堂隆と全く異なっていて、魏臺訪議も、自説に書きかえて、自らの著作のように装ったとみえる。
 「魏臺訪議」という書名はかなり特殊で、「漢書」のような汎用的なものではない。著述者の個性が大きく関与するだろう。別人が同一書名を思いつく可能性はかなり少ないと思われる。そして、高堂隆が魏臺と表記している質問者を、同じ魏の王粛は帝に置き換えているわけである。
 臺は高台を意味する文字だが、魏志倭人伝には、壹與は使者を派遣し張政等の帰国を送り、臺に至って貢物を献上したことが記されている。中央政府のことを臺と表現しているわけである。後には臺城が皇居を表すようになったから、明帝を魏臺と表す可能性は大いにある。
 断片しか残っていないが、魏臺訪議(義)は「魏臺が意見(理由)をたずねる」と言う意味で、明帝と高堂隆の問答集のようである。雑(色々なものが入りまじった。)を加えて書名としたのであろう。魏志高堂隆伝にもそういう質問のいくつがが記されているが、これは魏臺訪議からの引用かもしれない。「魏臺とは明帝のことだ。」という古田氏の指摘に間違いはない。(訪=問う)

 三国志編纂者の陳寿が倭の国名を直接知るはずはなく、何らかの資料から得たものである。その資料の書き手は帯方郡使としか思えない。邪馬壹国(女王国)まで至ったのは正始八年に派遣された張政等のみなので(弥生の興亡参照)、張政あるいはその同行者の手になるものだろう。軍事援助のために派遣され、政権中枢部と接触していた彼らほど倭を知るものはいないのである。明帝の死は景初三年正月一日(グレゴリオ暦で1月22日)だから、派遣されたのは八年後。張政は三十四歳(あるいは三十六歳)で亡くなった明帝とほぼ同時代の人と言える。高堂隆の死は237年で、明帝に2年先立つ。張政が派遣されたのは247年。張政は後に帯方太守に昇進したらしく、帯方太守、張撫夷の墓が発見されており、288年の死だから、渡来の41年後である。
 高堂隆が明帝を魏臺と表記していて、これはその時代の共通認識と解せられるから、同じ空気を吸った張政が蛮夷の国にこの文字を当てるとは、儒教の大義名分からいって、考えられないのである。「タイ」にしても「ト」にしても、それを表すには同音のもっとふさわしい文字が見つけられるはずである。しかも「鬼道に事え、能く衆を惑わす。」と鬼道を嫌い軽蔑している。
「考えられない」、「史官の首がいくつ飛んでも足りぬような所業だったと思われます(古田氏の原文)」と言うしかなく、それは推定に過ぎないのだが、根拠のしっかりした、きわめて妥当な推定と考える。魏志が「邪馬臺」と書く可能性はない。



訂正(重要)

hyena-no-papaという人のブログで次の文を見つけた。

尚書曹訪云:「官僚終卒、依礼各有制。至於其間、令長以下、通言物故、不知物故之名本所依出。」高堂崇曰:「聞之先師、物、無也。故、事也。言無復能於事者也。」(注:避諱で崇←隆)

質問したのは尚書曹であって皇帝ではない。
「魏臺訪議」という書物には、高堂隆の受けた質疑が収録されているが、皇帝の下問もあれば小役人から聞かれて答えたことも書いてある。
史記集解では「高堂隆答魏朝訪曰」となっており、魏臺=魏朝。
つまり「魏臺」は魏の公務全般を包含するのです。


 確かに「通典 巻八十三 禮四十三」に書いてある。尚書曹の役人が「官僚が死んだときは卒で、礼によって決まっている。令長以下はみな物故というがその言葉の出所がわからない。」と訪ねている。
 この主張は正しい。こちらは関連文書を修正せざるを得ない。よほど漢文データに詳しい人のようである。

 しかし、魏臺訪議とはっきり書いていて、魏の時代には「魏臺」という表現があったわけである。古田氏の「臺は至高の文字」なんていう大げさなもの言いには付き合わないけれど、タイ音の文字は他にいくらでもあるのに、★「明帝を含む魏の朝廷を表す重要な文字を蛮夷の国名に使うか?」という疑問は解消されていない。魏臺訪議は「魏の朝廷での議論」という意味を持つことになり、書名と内容が一致している。高堂隆のほかに、「帝問う」と記す王粛著の魏臺訪議もあるわけだから、魏臺という言葉の存在に疑いは生じない。

 魏志には邪馬壹国に加えて壹與が三回、計四文字の壹があって、「臺に詣る」と臺が書き分けられている。壹のすべてを書き間違えとすることができるのか? すべて元は臺だとしたら、他の文字はみんな見えているのに、飛び飛びにあるこの四文字の臺だけが都合よく見えにくくなって間違える確率はどれくらいのものか?

 倭人伝に記された、帯方郡使、張政の帰国を送った壹與の遣使は、魏の滅亡二年前、陳留王奐の景元四年(263)と考えられる。(「魏志倭人伝から見える日本3-h、壱与の即位と張政の帰国」参照) 蜀を滅ぼした年なので軍事的に忙しかったはずである。陳留王は十七歳、実権は司馬昭にあり、帝として機能していなかった。壹與の使者が「臺に詣った」ということは、陳留王を含むかどうかはわからないが、朝廷に至って政権中枢部と面会していたわけである。倭人伝中にある臺(帝を含む朝廷)という文字を軽く見ることはできないであろう。

 古田武彦氏やそれを支持した私の「魏臺は明帝」だという主張は否定されたが、★印を付けた根本的な部分で何も変わらない。「明帝」が「明帝を含む朝廷に変わった」だけで、こちらの主張を覆すには至らないのである。
 「魏臺、物故の義を訪う」という裴松之の引用文は、尚書曹を書名に合わせて意訳していることになる。それがわからずに、こちらは間違えてしまった。

 古代に比べ、政治も社会も複雑になり、古代の制度そのままに運用していくことが難しくなる。「通典巻八十三、礼四十三 凶五」には、魏臺で行われた「身分の違いによる死の表現法」に関する議論が書かれている。礼という儒教の概念に基づくもので、天子の死は崩だが、豪族の境界部で薨と書くか卒を使うかとかが怪しくなる。明帝の詔があるので、そのとおりになったと思われるが、高堂隆は反対している。
 魏に関する部分を翻訳して下に置く。三府上事博士・張敷などの主張には「詣臺(臺に至る)」という魏志倭人伝と同じ言葉がみられる。

 国名に邪(よこしま)+馬(動物)+タイ、女王に卑(いやしい)+弥呼、こういう文字を選択して与えた同じ人物が、怠やら退、帯、苔など使えそうな文字がいくらでもあるのに、儒教社会の政権中枢部、国家方針を定める場を表す臺という文字を、鬼道に支配された蛮夷の国名に使用するか?という疑問はますます深くなる。魏志の邪馬「臺」国説に対する私の違和感の正体がようやく見えてきた。同一人物なのに、文字選択の基準が一致しないのである。
 魏志に於ける邪馬「臺」国説の成立には、下記三点の疑問を解消する論理的な説明が必要である。魏志の記載通り邪馬「壹」国、「壹」與を認めれば、こういう不都合は発生しない。

 
1 別の書にまたがる五文字の転写間違いを想定するのは、あまりにも都合が良すぎる(臺→壹。堆→惟)。そのような頻度で起こり得るか。
魏志倭人伝中に、壹と臺の書き分けがあり、「臺に詣(いた)る」の臺を中国人が間違えることはあり得ない。同じ文脈中に見られる臺與を壹與に書き間違えるというのは不自然である。すぐ前の文脈には臺與が二回記されていることになる。どちらも間違えれば、すぐに気付く範囲にある。
2 倭人の「ヤマト」という発音に対する表記である邪馬臺(後漢書。宋代)、邪摩堆(隋書。隋、唐代))を別音だと考える根拠はなにか。倭の都はヤマトで、宋代から唐代まで、変化していない。
唐詩では、「臺」と「堆」は韻を踏まれているし、漢書にある唐の顔師古の注に、堆の音は「丁回の反(Tei+kai=Tai)」と書かれ、タイ音だと示されている。臺は坮と同字、これもタイ音である。臺、堆が同音だと「音の訛」という後漢書李賢注(唐代)は無効かつ不要になる。つまり、転写間違いはなく、後漢書の記す邪摩惟が正しいということになる。
3卑、奴、邪、狗など、倭の国名、官名、人名などを表す文字の選択法をみると明らかに倭を蔑視している。同じ人物が、タイ音の文字はたくさんあるのに、魏朝廷を表す臺という文字を使用するか。

「魏志倭人伝から見える日本1、邪馬台国か邪馬壱国か」に追加した文

 後漢書の「邪馬臺」も隋書の「邪摩堆」も、倭人の「ヤマト」という発音を「ヤバタイ」と聞き取って表記したものです。都合の良いことに、万葉集一の雄略天皇(倭王武、宋代)の歌に「山跡(やまと)の国」とあるし、二の舒明天皇(唐代)の歌には「山常庭(やまとには)」とあって、宋代から隋、唐代まで、日本の王朝、都のある国名に変化はありません。後漢書の注、「案今名邪摩惟音之訛也」の惟は堆の転写間違いだという説もありますが、邪馬臺(宋代)、邪摩堆(隋、唐代)は「ヤマト」の中国語表音表記で、日本人が記したものではないから、日本側の音が変化していない限り、両者の間に音の変化(訛)はないはずです。
 ★邪馬臺に「(惟を堆の転写間違いと考えて)今名の邪馬堆は音の訛」だという読み、注は成り立ちません。邪馬臺、邪摩堆はどちらも同じヤマトに対する中国人の表音表記なのだから、何も変わらない。魏志が邪摩惟(「邪馬壹」)という別音を記しているから、それは何故かと考える。注が必要になるのです。★


 通典巻八十三 礼四十三 凶五(通典は唐代の編纂)

魏明帝詔亭侯以上称薨 夫爵命等級貴賤之序 非得偏制 蓋礼関存亡 故諸侯大夫既終之称 以薨卒為別 今県郷亭侯不幸称卒非也 礼 大夫雖食菜不加爵 郷県亭侯既受符策茅土 名曰列侯 非徒食菜之此也 于通存亡之制 豈得同称卒邪 其亭侯以上 當改卒称薨

「魏、明帝は亭侯以上を薨と称するよう詔した。爵命、等級、貴賤の序列は、いたずらに偏った制度ではなく、おそらく礼の存亡に関係している。昔は諸侯、大夫がすでに終わったという称で、薨、卒は別と為した。今、県郷亭侯の不幸を卒と称するのはいけない。礼では、大夫は食、菜に爵を加えないけれども、郷県亭侯はすでに割符、策(辞令書)や茅土(封土)を受けていて、命名して列侯という。ただ、食、菜のみの大夫ではない。存亡の制度を通して、どうして同じ卒を称することができるであろうか。その亭侯以上は卒を改めて薨を称するのが良い。」

三府上事博士張敷等進議 諸王公大将軍県亭侯以上有爵土者 依諸侯礼皆称薨 関外侯無土銅印 當古称不禄 千石六百石下至二百石皆詣臺拝受 與古士受命同依礼称不禄

「三府上事博士の張敷等が論議を進めた。諸王公、大将軍、県亭侯以上で爵位と領土のあるものは、諸侯礼により、みな薨を称します。関外侯で土地がなく銅印は、まさに、昔は不禄と称したもので、千石、六百石から下は二百石に至るまで、みな臺に詣(至)って拝受しています。昔の士が命を受けたのと同じで、礼により付禄を称すべきです。」

高堂崇議 諸侯曰薨亦取隕墜之声也 礼 王者之後公及王之上公九命為二伯者侯伯皆執珪 子男及王之公皆執璧 其卒皆曰薨 今可使二王後公及諸国王執珪 大将軍県亭侯有爵土者 車騎衛将軍辟召掾属與三公 倶執璧者卒 皆称薨 礼 大夫曰卒者言陳力展志功成事卒無遺恨也 今大中大夫秩千石諫議中散大夫秩皆六百石 此正天子之大夫也 而使下與二百石同列称不禄 為大夫死貶従士 殆非先聖制礼之意也 士不禄者言士業未卒 不終其禄也

「高堂崇は意見を述べた。諸侯を薨というのは、また、隕墜の声を取るものです。礼は、王者の後は公、王の上公九命を二伯となし、侯伯はみな珪を執ります。子、男および王の公はみな璧を執り、その死はみな薨といいます。今、二王後公および諸国王は珪を執り、大将軍、県亭侯で爵や土地のあるもの、車騎、衛将軍で掾属(掾史)などを召し出すものと三公で、ともに璧を執るものは卒であるのに、みな薨を称しています。
 礼では、大夫を卒というのは力を見せ、志をひろげ、事を成りとげて死に、恨みを残すことがないことです。今、大中の大夫で秩千石、諫議中散大夫の秩はみな六百石で、これはまさに天子の大夫です。それなのに、下の二百石と同列に不禄を称させるのは、大夫の死を士に従って貶めるものです。ほとんど先聖が制した礼の意にそわない。士の不禄は士の役目が未だ果たせずに、終わってその禄がないことをいいます。」

尚書曹訪云 官僚終卒依礼各有制 至於其間 令長以下通言物故 不知物故之名本何所出 高堂崇曰 聞之先師 物無也 故事也 言無復能於事者也

「尚書曹がたずねて言った。官僚の終卒には礼に依りそれぞれ決まりがあります。その間で、令長以下はすべて物故と言うのに至りましたが、物故の名が本はどこから出たのかがわかりません。高堂崇(唐、玄宗の諱が隆基なので、隆を避けて崇とした)が言った。これを先師に聞いたのですが、物は無です。故は事です。事において能力が元に戻らないことを言います。」



トップページ

弥生の興亡
1、魏志倭人伝から見える日本 index
2、中国・朝鮮史から見える日本 index
3、帰化人の真実 index
4、縄文の逆襲 index

魏志倭人伝の風景
邪馬台国(邪馬壱国)九州説の研究
翰苑の解読と分析
徐福と亶洲
諡号の秘密

系統別新撰姓氏録

★東夷伝(原文と和訳)index★

補助資料集
●饒速日の来た道
●久度、古関
●村屋坐三穂津姫神社
●和邇坐赤坂比古神社
●大樹伝説と和泉黄金塚古墳
●蘇民将来
●三角縁神獣鏡
●金印
●狸(リ)は狸(たぬき)ではない
●王の山古墳出土の玉璧
●倭人字磚
●堂谿氏
●鯰絵解説

天皇号の成立と聖徳太子