弥生の興亡、3

  

四、邪馬壱国(大国主)と狗奴国(少彦名)の対立

   1、卑弥呼の晩年
   2、開化天皇と大彦の戦い(卑弥呼死後の争い)
   3、箸墓と兵主神、孝元天皇陵(現崇神陵古墳)
   4、狗奴国の滅亡と魏の関与
   5、蟻通神社
   6、富木の河内彦
   7、藁しべ長者
   8、戦後処理と泣沢女
   9、壱与の東方進出<羽咋と大彦>
  10、壱与の死とその祭祀
  参考文献




四、邪馬壱国(大国主)と狗奴国(少彦名)の対立

1、卑弥呼の晩年

 倭国大乱時、大国主一族と協力して国を作った少彦名一族は、出雲から紀伊へ移動して狗奴国王となり、その臣は、柏の渡りの神が滅びた河内に入って河内彦となりました。
 卑弥呼が王位に就いて以来、国内は、民族、神祇、風俗の違いという内乱の芽を孕みながらも、おおむね平静を保っていたようです。ただ、狗奴国の首長が代替わりで交代するたび(卑弥呼の年齢を考えると、二世代くらい変りそうです。)、その鬱屈したものが押さえ切れなくなってきたのかもしれません。
 卑弥呼が即位してから六十五年ほどを経た、魏の景初二年(238)春、卑弥呼は難升米を正使として、それまでにも交渉のあった公孫氏の燕に向かわせました。前年(景初元年、237)の七月、自立して燕王となっていた公孫淵を祝賀するためでしょう。献上物は生口十人と班布二匹二丈(=百尺)で、生口が捕虜であるなら、既に狗奴国との戦いは始まっていたことになりますし、それを見せるということは、何らかの援助を要請するつもりがあったのでしょう。
《注/魏書には、公孫度は中平六年(189)、遼東に拠したとありますが、奈良県天理市の東大寺山古墳出土の鉄剣には中平■年五月という銘があり、これは霊帝時代の年号で、孝霊天皇の使者が当時の遼東太守、公孫度に授けられたものかもしれません。中平元年に黄巾の乱があり、それ以降、反乱が続いて、漢は滅亡に向かいます。霊帝は中平六年に崩じました。リンクー補助資料「和邇坐赤坂比古神社」
 命を受けた難升米は、景初二年、六月に帯方郡にたどり着きました。しかし、既に、魏の劉昕が燕を追い払い、帯方太守となって居座っていたのです。燕の滅亡は必至でした。そこで、難升米はそのまま方向を変え、案内を求めて魏に向かうことを決断します。「中国に朝貢したいと思っていたのですが、燕が妨げてどうしようもありませんでした。このたび帯方郡を落とされたのを幸いに、今後は中国にご奉仕いたします。」などとうまく言いつくろったことでしょう。
 劉昕は帯方郡の官吏に命じ、倭の一行を魏都の洛陽まで送らせました。この間のことは、応神紀三十七年に、「阿知使主、都加使主を呉に派遣して、縫工女を求めさせた。阿知使主等は高麗国に渡って呉に達せんとしたが、高麗に到ってもそこからの道路を知らなかった。道を知る人を高麗に乞い、高麗王は久禮波、久禮志の二人を副えて導者とした。」という記述になって表されています。応神天皇が使者を派遣したのは南北朝時代の宋(宋書倭国伝の倭王讃)で、これは三国時代の呉の領域に当ります。しかし、宋へ派遣するのなら、高句麗へ向かって、高句麗の案内で南朝の宋に向かうというのは方向が合いませんし、当時、日本と高句麗は、広開土王碑文に見られるように激しく対立していました。この記述は事実では有り得ません。難升米、都市牛利が帯方太守に案内者を要請して洛陽に向かったという伝承、あるいは、魏志倭人伝の記述の形を変えて応神紀にはめ込んだものですが、これも神功皇后(応神天皇の母)を卑弥呼に擬したことから生じる波紋です。使者として阿知使主、都加使主という文・漢人(邪馬壱国)の祖を当てている理由も、ここまで「帰化人の真実」を読んできたなら、簡単に理解できるでしょう。
 この難升米の遣使は大成功で、難升米が帰国後(*)、その地位を高めたことは疑えません。その結果、倭の外交、軍事の中心人物として、引き続き魏志倭人伝に登場することになりました。《*/おそらく梯儁の渡来した正始元年、A・D240》
 魏帝の制詔は、「親魏倭王と為し金印紫綬を与える。下賜品などのすべてを汝の国中の人に示し、魏が汝を哀れんでいることを知らせるのに使えばよい。」と告げていますから、魏は国策として、卑弥呼を保護することに決めたのです。正始元年(240)、建中校尉、梯儁等が派遣され、この制詔は現実化し、金印紫綬、三角縁神獣鏡百枚、様々な布地、刀等が日本にもたらされ、梯儁は伊都国で全ての任務を終えて帰国しました。魏志倭人伝の伊都国までの国名や風俗の描写はこの梯儁の報告に基づくものです。
 卑弥呼は制詔の言葉通り、各地の有力者に三角縁神獣鏡を配布し、魏の支援があることを周知させたのですが、しかし、それでも狗奴国系の反抗は止みません。正始四年(243)、卑弥呼は再び遣使しました。最初から魏が目的地なので、献上物は前回より上等の絹織物で、量も多かったようです。宝物を大量にもらったお礼の意味も含められていたでしょう。この時も、生口と木の握りの付いた短弓を奉げていますから、戦闘の報告と援助の要請があったと考えられます。
 それに応えて、正始六年(245)、魏は難升米に何とか将軍という辞令(詔書)と黄幢(垂れ旗)を授けることを決定しました。これは魏帝の御墨付きがあるぞと敵に示すためです。正始八年(247)、魏の意志表示にもかかわらず、狗奴国の男王、卑弥弓呼素はそれを無視して、卑弥呼と和せず、小競合いは本格的な戦争となりました。そこで、卑弥呼は帯方郡に急使を派遣し、狗奴国に圧迫され苦しんでいる様を必死の思いで訴えたのです。このまま親魏倭王の卑弥呼が滅んでしまえば、魏の面子は丸潰れになります。朝鮮半島の戦乱が片付いていたこともあり、帯方郡は重い腰をあげて、塞曹掾史の張政等を派遣し、直接介入することを決定します。
 魏志倭人伝の伊都国以降の行程や倭人の風俗に関する描写は、邪馬壱国の軍事顧問として派遣されたこの張政等の報告に基づくもので、対馬に対海国と対馬国、壱岐に一大国と一支国の二つの表記が見られるのは、梯儁、張政という二人の使者の、報告書の記名の違いに起因すると思われます。
 卑弥呼はこの年に亡くなったのでしょうか。張政は「鬼道に事え、能く衆を惑わす。」と不満を持った表現をしており、卑弥呼から何らかの掣肘を受けたことが感じ取れますし、卑弥呼の日常も描写しています。面会することはなかったようですが、正始八年(247)から一、二年、間接的な付き合いがあったかもしれません。
 卑弥呼の死後、三輪山のオオナムヂ神の妻となった人にふさわしく、その麓に箸墓が築かれました。この陵墓の築造は、壱与の時代で、狗奴国との戦いが山を越してからと考えられます。自らの存続さえ脅かされる激しい戦争の最中に、大土木工事に取り掛かる余裕は無いでしょう。張政の帰国(263)以前は間違いないにしても、卑弥呼の死(247~248)より遅らせて、少し幅を持たせればいいように思います。おそらく、狗奴国の一族(土師氏等の秦系氏族)が墓作りに酷使されたことでしょう。
 卑弥呼の死後、男王(開化天皇)が即位したものの、国中が不服で反乱が起こり、千余人が殺されたといいます。これは、卑弥呼の時と同じ形を作って、十三歳の壱与を王とすることで解決しました。男王は、卑弥呼時代の男弟と同様、政治を補佐するという形になったのです。この壱与の即位にも張政が深く関与していたようで、檄を作って壱与を諭しています(魏志倭人伝)。
 狗奴国側には、魏が直接介入してきたという精神的なショックがあったでしょうし、張政自身の個人的な能力も優れていたのでしょう、やがて、邪馬壱国は劣勢を覆して狗奴国を滅ぼすことになります。この反乱は、「神代紀」に、「オオナムヂ命(文・漢)が少彦名命(秦)を掌に載せて玩んでいると、飛び上がってその頬に噛付いた。」と表されています。「オオナムヂ命が、少彦名命に、『我々が作った国はうまく出来たといえるだろうか。』と問うと、少彦名命は、『出来た所もあるし、出来なかった所もある。』と答えた。この問答には、おそらく、深い理由があるのだろう。」という記述も、そのあたりの複雑な事情を示唆しています。
 「記」では、少彦名命は神産巣日命の子で、単に、手の俣からこぼれ落ちたとされているのみですが、「紀」では、高皇産霊尊の一千五百人いる子の中の、最悪の子であるとしています。神産巣日神の子としては何の問題もないが、高皇産霊神にとっては超問題児という記述の落差からも、この少彦名命が神魂系の神であることを知れます。「紀」は何らかの理由から、少彦名命の系譜を高皇産霊神に付け替えて、その権威の強化を図っているわけで、おそらくこれは、藤原氏の関与によるものでしょう。

2、開化天皇と大彦の戦い(卑弥呼死後の争い)

応神記
「但馬の出石に落ち着いた天之日矛の娘にイヅシオトメの神がいる。多くの神々がこのイヅシオトメを得たいと思っていたが、誰も結婚できないでいた。ここに二柱の神がいて、兄は秋山之下氷壮夫(あきやまのしたひおとこ)、弟は春山之霞壮夫(はるやまのかすみおとこ)という。兄が『俺はイヅシオトメを嫁にしたかったが、できなかった。お前はできるか?』と挑発したので、弟は『た易いことだ。』と答えた。そこで、兄は『もし、それができたなら、上下の着物を脱いで、お前に酒や山川の物を捧げよう。』と賭けをした。弟が母親に兄の言葉を話すと、母は藤葛で衣服や弓矢を作って弟に与え、オトメの家に行かせた。その衣服や弓矢は、ことごとく藤の花になり、春山之霞壮夫がその弓矢をイヅシオトメの厠に懸けておくと、オトメはその花を不思議に思い、部屋に持って入ろうとしたので、その後ろについて霞壮夫も部屋の中に入り、オトメと通じて一人の子を生んだ。そこで、霞壮夫は兄にイヅシオトメを妻としたことを告げたが、兄は妬んで約束を果たさない。悩んで母親に訴えると、母はその上の子を恨んで、出石川の川島の一節竹を取って目の荒い籠を作り、その川石を取って塩を合わせ、その竹の葉にくるみ、呪詛させて、それを竃の上に置いた。こういうわけで、その兄は八年の間、乾き、萎びて、病み、枯れた。兄が母親に泣きついて許しを請うので、呪詛は解かれ、兄の体は元のように戻った。」

 兄が誓いの中で衣服を脱ぐと言っているのは、負けを認め、臣従する態度を示すものらしく、春秋左氏伝など中国の史書にはしばしばこういう場面があります。 このイヅシオトメの物語は、政権を握っていた文・漢人が内輪もめを起こし、イヅシオトメで表される秦人(天之日矛の後裔)を味方につけようと互いに争い、結局、弟側が母親の援助を得てそれに成功したという意味に受け取れます。弟の春山之霞壮夫は春霞で春日に同じ。兄の秋山之下氷壮夫は秋の山の紅葉を言うということで、紅葉する楓はミャオ族の神木でしたから、越系のミャオ族、あるいは猫トーテムのヤオ族(存在するかどうか?)を表すのでしょう。
 そして、この争いは、魏志倭人伝の記す、卑弥呼の死後起こったという内乱のように思えるのです。万葉集には、「香具山は、畝火ををしと、耳梨と相争ひき……」、「香具山と耳梨山とあいし時、立ちて見に来し印南国原」という中大兄皇子の歌が見られます。播磨国風土記、揖保郡、上岡の里にも、「出雲の阿菩大神が、大倭国の畝傍、香山、耳梨の三山が相戦うのを聞いて、これを諌め止めようと思って上り来たとき、ここに到って、戦いが止んだと聞き、その乗ってきた船を伏せて、ここに鎮座した。」という伝承が記されています。
 壱与の時代を考えてみれば、孝元天皇の娘に倭迹迹比売(壱与=倭姫)がいて、長兄に大彦、次兄に開化天皇がいます。兄の、大彦後裔の膳臣広国の父は、犬や蛇ではなく狸(猫)と表されていますから(日本霊異記)、ミャオ系なのでしょう。秋山下氷壮夫(楓)と民族が一致しますし、膳氏の本拠は天香久山北方、同族の阿倍氏の本拠はその東隣りにあります。そして、弟が開化天皇となり春日に都を置いていることも、春山之霞壮夫という名称に一致するのです。耳成山は十市県ですが、春日県が改められたものだと多神宮注進状にあり、春日(奈良市)に移動して都を置く以前は、耳成山付近、消滅した春日県を所領としていたと考えられます。耳(狗トーテム)なのでこちらはヤオ族が母体でしょう。兄弟で民族が違うというのは、実際には、その母方の民族が異なっていたことを反映しているのかもしれません。しかし、文字は霞にしても氷にしても水(オオナムヂ神)の変化です。
 卑弥呼の死後、母親の援助を受け、イヅシオトメと表された秦系(=天之日矛系)氏族の支持を得て、開化天皇とされる人物が王位に就いたが、兄の大彦は不服で戦いとなった。そこで、難升米(思兼命)を中心とした有力者が、軍事顧問の張政を交えて、高市郡の天高市神社付近(*)で協議した結果、けんか両成敗で妹の壱与を王とし、開化天皇が国政を輔佐するという卑弥呼時代と同じ形が採られたことになりそうです。《*/天照大神が隠れた後、「八十万の神が天高市で会して話し合った」 と神代紀の一書にあります。天高市神社は延喜式大社》
 三国史記の、「倭王を塩作りの奴とし、その妃を飯炊き女にしてやる」という昔于老の言葉と、于老が249年に怒った倭王に殺されたことから、その年の、男王の存在が明らかです。故に、壱与の即位は250年頃に置きました。卑弥呼の死は247~248年と考えられます。この会議を記念して天高市神社(橿原市曾我町)が設けられたのでしょう。こうして、難升米(思兼命)の深い思慮で、須佐乃男(狗奴国、少彦名)の乱暴に憤って岩屋に隠れた太陽神、天照大神は再び出現したのです。天安川の河辺に群神が集まり集会が開かれたとされていますから、神社の横を流れる蘇我川の河原で話し合われたのかもしれません。蘇我川の上流、吉野口付近に天安川神社、源流近くにも天安川神社の名が見えます。蘇我川とされる以前に安川と呼ばれていた時期があったのではないでしょうか。
 魏志倭人伝のいう卑弥呼を補佐した男弟、孝元天皇は卑弥呼と相前後して亡くなっていたようです。卑弥呼とは年の離れた弟と考えられますが、それでも、高齢だったことでしょう。陵墓は山辺の道に沿う現崇神陵古墳です。

 

 また、この争いを出雲の阿菩大神が仲裁しようとしたということで、アボも越系地名に分類できそうです。播磨国風土記、飾磨郡、英保の里には「伊予国の英保村の人が到り来てここに住んだ。」という記述があり、ここまでの分析通り、出雲、伊予、播磨は深くつながっています。

3、箸墓と兵主神、孝元天皇陵(現崇神陵古墳)

 三輪の神(オオナムヂ神)の妻となった卑弥呼の墓、箸墓は、三輪山のふもとに位置する巨大な前方後円墳です。そして、三輪山と谷を隔てた向かいに弓月ヶ岳という山があります。かっては、その山頂に延喜式名神大社、穴師坐兵主神社が祭られていたといいます(大和志料)。
 兵主(ひょうず)は中国の軍神、蚩尤(シユウ)の祭りとされており(史記、封禅書)、この神社の神体も鈴や鐸を付けた「矛」です。このあまりに中国的な名は、日本の神社名にそぐいません。
 蚩尤戲(牛トーテムの踊り)から発展し、漢の武帝の時に作られたという角抵戲が現在の大相撲の起源ですが、兵主神社のすぐ西、入り口といっていい位置に相撲神社が設けられています。兵主神社(蚩尤)と相撲神社(蚩尤戲→角抵戲)の結び付く理由が、いとも簡単に説明できますので、やはり兵主神社の祭神は蚩尤と考えて問題ないでしょう。
 蚩尤は砂を食べて矛などの五種の兵器を作ったとされる中国伝説中の人物で、金属製錬と容易に結び付きますから、ここに鏡作神社三座が合祀されているのも理解できます。蚩尤の祭りは、斉(青州)が中心で、文・漢氏の出身地、徐州や九江郡に近く、漢の高祖(劉邦)も沛公となった時、蚩尤を祭っています。したがって、この一族には馴染深い神だったことでしょう。
 現在、大兵主神社が山の麓に置かれていますが、兵主神社は中世、山頂から麓へ移動してここに合祀されたということです。祭神は御気津神と天鈿女になっており(大和志料)、元々、この神々が付近の地主神(秦系)だったようです。
 そして、驚いたことに、箸墓の中心軸は、この大兵主神社を通過し、兵主神社故地の弓月ヶ岳山頂に向かっているのです。前方部から後円部に向かって陵墓の祭祀が行われたのなら、兵主神社に向かってなされることになります。つまり、箸墓は、三輪の神の妻となりながら、中国の軍神、蚩尤を祭らねばならなかった人物の墓であることになります。そのうえ鏡作神社まで合祀されていて、記、紀と魏志倭人伝から探り出した卑弥呼の置かれた状況に完璧に一致し、箸墓はやはり卑弥呼(=ヤマトトトビモモソ姫)の陵墓なのです。
 もうひとつ驚くのは、崇神陵古墳の中心軸もこの弓月ヶ岳に向けられていることです。この陵墓の主は、卑弥呼と同時期に軍神、蚩尤を頼らねばならなかった人物ということになり、卑弥呼を補佐した男弟、孝元天皇とされる人物を当てるのが最もふさわしいでしょう。大きさは240メートルほどで、箸墓に比べて一回り小さく、やはり魏志の記述通り、卑弥呼が女王です。

4、狗奴国の滅亡と魏の関与

 以下は日本霊異記の要約です。
下巻 「弥勒の丈六の仏像、其の頸を蟻に嚼まれて、奇異の表を示す縁 第二十八」
「紀伊国名草郡、貴志の里に貴志寺という寺があった。光仁天皇の頃、一人の修行者がその寺に住んでいて、毎日、夜中に『痛い、痛い』という声がするのを聞き、何事かと調べてみたがわけが解らなかった。最後の夜は、普段の倍くらい、大地に響くほど痛がったのであるが、次の朝、早起きして寺の中を見たところ、弥勒の、丈六の仏像の首が切れ落ちて土の上にころがっていた。大きな蟻が千匹ばかり集まって、その首を噛み砕いたのである。修行者はこれを見て檀越に知らせ、檀越は悲しんで像を作り直し、慎んで供養したのであった。」

 時代は借りているだけで、ある史実の伝承を基に仏教説話が作られたのです。光仁天皇の母は紀朝臣橡姫ですから、それに引っかけたものでしょう。
 貴志寺の仏像の首が蟻に噛み切られました。紀伊国、貴志里、貴志寺の仏像とは、狗奴国王の姫氏を指し、姫氏を噛み砕いて首を落としたのは蟻(ギ)。つまり、蟻は魏を意味しているのです。狗奴国が魏の派遣した張政の功により壊滅させられたことを示す文章が残されていました。越は芊姓とされていますから、千匹にも意味があります。首の落ちた仏像は、悲しんだ檀越(=檀家)によって作り直された。つまり、後に、姫氏は復活したのです。段姓の越人、難升米の配慮でしょうか。崇神朝の紀国造、荒川戸辺の居住地、且つ狗奴国の心臓部だったのではないかとした和歌山県那賀郡桃山町(旧安楽川村)に段という字があり、弥勒寺という寺もあって興味深いのですが、残念ながら名草郷には該当しません。

中巻 「僧を罵ると邪淫とにより、悪病を得て死す縁 第十一」
「聖武天皇の御世、紀伊国の伊刀郡、桑原の狭屋寺の尼等が発願して、その寺で法事を行い、奈良の右京の、薬師寺の僧、題絵禅師を招き、十一面観音を前に懺悔して、除病などの救済を求めた。時に、その里には一人の凶悪な人がいて、姓は文忌寸である。その人の妻に上毛野公大椅の娘がいた。妻はこの集まりに参加しており、帰宅後、妻がいないことを知った夫は、激怒して寺を訪れ、妻を呼んだ。導師は教義を述べて教えたが、夫はとてもここには書ききれないほどの悪口を並べたて、妻を連れ帰って犯した。すると突然、マラ(*右字、フォントがありません)に蟻が着いて噛み、痛み死んだ。僧を理由もなく罵って恥ずかしめ、邪淫を恐れなかった故に、この報いを得たのである。…」

 ここでも時代や仏教は関係がありません。門(モンはミャオ族の自称=苗系民族を表す)と牛(ゴ)を組み合わせて男性器(マラ←ワラ)を表しています。どちらも狗奴国(秦系)の要素です。そこに蟻がかみついて男は死んだ。意味は先の話と同じで、魏(蟻)によって狗奴国(紀氏=姫氏=マラ)が滅ぼされたことを表しているのです。この話では紀氏系の上毛野氏が仏教を信じる善人で、邪馬壱国系の文忌寸が悪人とされ、蟻が噛み付いていますが、実際は逆で、上毛野氏が蟻に殺されなければなりません。霊異記には紀伊の伝承が数多く含まれており、おそらく、著者の僧、景戒は紀伊出身の紀氏系(上毛野氏、藤原氏、秦氏等)人物だったのでしょう。同族を悪としないため、名を入れ替えたと思われます。聖武天皇の母は藤原氏ですから、この時代も紀氏と結びつきます。

5、蟻通神社

 和歌山県伊都郡かつらぎ町には「蟻通神社」という神社があります。蟻が魏を意味しているなら、この神社の名も何やらいわくありげにみえてきます。位置は大和から南下し、五条を経て、紀ノ川沿いに河口の名草へ向かう途中です。上記の「マラに蟻が噛みついて死んだ」という伊刀郡、桑原の狭屋寺は現在のかつらぎ町佐野(さや)に存在したことになりますが、蟻通神社の紀ノ川対岸にあたります。この神社の祭神は邪馬壱国系の思兼命、事代主命、大国主命と、狗奴国系の市杵島姫、少彦名命です。蟻通神社の前に立てられた縁起には、次のような意味のことが記されていました。
「天武天皇の頃、唐の皇帝が、日本人の知恵を試してやろうと、穴が反対側へ貫いている七曲がりの玉を贈ってきた。これに糸を通してみろというわけである。蟻の体に糸をくくって、一方の穴から入れ、反対側の穴の出口に蜂蜜を塗って、蟻に七曲がりの穴の中を這わせ、見事、糸を通した翁がいた。以来、志富田(渋田)荘の氏神として祭られている。」
 とても出来そうに無い複雑で困難な仕事を成し遂げた蟻がいたのです。蟻通神社は、その知恵を出した人物を祭った神社ということができます。魏に頼って、敵対する狗奴国を打ち破ることを思い付いた邪馬壱国の有力者を祭っているわけです。記、紀神代に現れる思兼命は、高御産巣日神の子とされていて、知恵を絞る場面にしばしば登場しています。邪馬壱国側から見れば、「蟻(魏)は単なる道具として利用した。」ということになるかのかもしれません。子供の頃、何かで読んだ覚えのある話で、昔話集をあたると、蟻を使って糸を通した知恵者は、姥捨て山に捨てられるはずのおばあさんでした。歴史が民話化する過程で、枝葉の部分は様々に変化しているようです。
 大阪府泉佐野市長滝にも蟻通神社があります。ただ、こちらの祭神は大国主命のみです。同じ邪馬壱国の一族なので無関係ではありませんが、本来の祭神、思兼命は抜け落ちてしまったようです。しかし、面白いことに、紀貫之の馬がこの神社の前で病気になった時、歌を一首奉ることで馬の病が直ったという別の伝承を持っています。清少納言の「枕草子」も、「蟻通の明神、貫之が馬のわづらひけるに、この明神の病ませ給ふとて、歌よみてたてまつりけん、いとをかし。」としています。紀氏は狗奴国の末裔なので、蟻通明神のたたりで紀貫之の馬(午=ゴ。民族名プ・マン)が病気になったというのは、よく理解できます。姫(紀)氏は、蟻通神社を祭る一族と戦い、敗れた側なのです。貫之でなければならないのは、紀氏のうちでは最も著名な歌人であるうえ、七曲がりの穴に糸を貫いたという蟻通明神の伝承にピッタリの名前だからでしょう。貫之の献じた歌は、次のようになっています。

 「かきくもり、あやめも知らぬ大空に、ありとほしをば、思ふべしやは」

 「真っ黒に曇って空模様もわからない大空に、蟻通明神を思うことができるだろうか(いやできはしない)。」と蟻通明神を称えているわけです。こうして貫之は許され、馬の病気は直って京へ向かうことが出来ました。
 記、紀の思兼命は、天の岩戸に隠れた天照大神を呼び戻すため思慮をめぐらせた神です。真っ暗になった空に、再び光を蘇らせた神ですから、この歌の内容と完全に一致しており、蟻通明神とは、やはり思兼命なのです。あやめ(文目)と文・漢(氏)、空と楚等が掛けられていて、楚人(狗奴国)が反乱し、先行きの見えない苦しい戦いに邪馬壱国が頭を抱えている時、魏に援助を求めることを思い付き、成功した人物がいて、後に知恵の神として祭られたわけです。そして、これは明らかに難升米と重なります。この神社は熊野街道沿いにあったものが現在地に移転したということで、大阪から和歌山に至る道筋に置かれていました。
 こちらからも蟻が通ったということは、魏の張政は、まず、倭人伝に記されている狗奴国の官、コウチヒコを懐柔し(*)、河内を支配化に置いた後に南下したと考えられます。一方、大和から出て紀ノ川沿いを西進した部隊もあったわけで、両面から紀ノ川河口部の狗奴国を攻めたてたということになるでしょう。 《*懐柔/このことは後で解説します》
 狗奴国は木拊短弓と表現される形の弓を使用しており、小競合いで邪馬壱国に奪われたその弓が、卑弥呼の献上品として魏志に記されました。狗奴国が、蟻を防ぐために設けた和泉山脈の雄山の関守も同じ弓を使っていて、それが紀伊国風土記逸文に手束弓と記され、手がかりとして残ったわけです。この弓は後世に痕跡をとどめていないようなので、最も古い呉系の弓かと思えます。
以下、「枕草子」の記述です。 
「昔、ある帝が老人を嫌い、若者だけを好んで、四十歳になると追放させた。そういうわけで、都の内には四十以上の者はいなかったが、中将という人は、親孝行で、七十になる両親を家に隠していた。その頃、唐の帝が日本を討ち取ろうと、きれいに削った二尺ほどの長さの木の本末はどちらか、二尺ほどの二匹の蛇の雌雄を分かて、などと無理難題を押し付けてきたが、中将の両親の知恵で答えを返すことができた。しばらくして、今度は七曲がりの穴をあけた玉に糸を通してもらおうと言って贈ってきたが、これも中将の両親が蟻を使って糸を通す方法を教えたので、唐の帝は、『日の本の国はかしこかりけり』と征服をあきらめた。この功績で老人も都に住むことを許され、中将は大臣になった。その人が蟻通明神になったのであろう。」

 唐の皇帝が無理難題を押し付けたと書かれていますが、このあたりは、天智天皇時代、唐、新羅の連合軍と朝鮮半島で戦い、白水江で大敗したことが深く影を落としているようです。唐が攻め寄せてくるのではないかと、当時の日本がいかに緊張していたかをも同時に伝えてくれる話ですが、これに文字数を割いたのは別の理由があります。
 「昔ある帝」が若い者を好み、老人をないがしろにしたという記述が気になるのです。「淮南子」に、「狄は穀食せず、老人を賎しみ、壮を尊ぶ。俗は気力盛んである。」とあり、「史記、匈奴列伝」には、「壮者がうまいものを食べ、老人はその残りを食べる。壮健を尊び、老弱をいやしむ。」と記されています。したがって、この老人を追放する伝説は北方系民族につながる習俗で、縄文の風俗の名残ではないかと思えたのです。昔の帝と結び付けられていることは、大和朝廷が縄文系王朝である証しではないか。
 魏の使者は老人達に年齢を尋ね、邪馬壱国は百あるいは八、九十の老人が数多くいる長寿の国であると報告していますから、邪馬壱国には当てはまりません。不老長寿、登仙を目指す鬼道の信者にとって、長寿はめでたいことだったでしょう。

 「列子、湯問第五」には以下の記述があります。
「越の東に輒木(ちょうぼく)の国がある。その長子が生まれると切り裂いてこれを食べ、その弟の成長の為に宜しいという。その大父が死ねば、その大母を背負ってこれを棄てる。死者の妻(鬼妻)と一緒に住んではいけないからだという。楚の南に炎人(たんじん)の国がある。親が死ねば、その肉を腐らせて棄て、然る後にその骨を埋め、これを親孝行であるとする。秦の西に儀渠の国がある。親が死ぬと柴を集めて積んで死体を焼き、燻して煙が上にあがるのを見て、魂が天に登るといい、こうすることを親孝行だとする。」

 越之東という言葉が、どの地域を指しているのか明確ではありませんが、大父が死ねば大母を捨てるという記述は姥捨伝説に重なります。他の話は、楚の南と秦の西で、どちらも楚や秦に含まれていませんから、越の東というのも越に含まれないはずです。遥か東の日本のことになりはしないか。魏志倭人伝でも日本は会稽、東冶の東と表されているのです。楚の南の風俗は現在でも通用しますし、秦の西の風俗も間違いのないところです。したがって、越の東も正しいのでしょう。列子は春秋時代の鄭の人なので、この頃、弥生人はまだ日本に渡来していません。(ただし、列子の書き残したものかどうかという問題はあります。)
 はたして縄文の日本の風俗なのでしょうか。縄文人の人口が比較的多かったと想像できる長野県の更級郡に姥捨伝説が残っていることは何やら示唆的ですし、長子を殺して食べるという記述は、縄文中・後期に、住居の入り口に壷を埋め、胎盤や嬰児の死体を入れて、踏めば踏むほど丈夫な子に生まれるとか、育つとかいう風俗があったのではないかとされていることに結び付きはしないか。
 また、中将にアリ通しとなれば、蟻通明神に、在中将と呼ばれた在原業平が投影されているようでもあります。業平の父は平城天皇第一皇子の阿保親王で、母が桓武天皇の娘、伊都内親王です。しかし、阿保親王の母が葛井氏なので、在原中将は葛井氏を通して難升米=思兼命=蟻通明神とつながっています。アボが越系(文・漢系)地名であることも既に明らかにできています。
 思兼命は秩父神社でも祭られており、後に妙見信仰と習合しましたが、本来は蛇神の祭りだったらしいので(日本の神々11、谷川健一編、白水社)、オオナムヂ神の眷属と扱って問題はないようです。秩父国造がその後裔といいます。思兼命のもう一つの後裔氏族は信濃、伊那郡の阿智祝部で、その名は漢氏の祖、阿智使主と結び付きます。系譜は次のように伝えられています。王辰爾以下はこちらが付け加えました。

 


6、富木の河内彦

 仁徳記
「兎木河の西に一本の高木があり、その木の影は朝日に当れば淡路島に達し、夕日に当れば高安山を越えた。この木を切って船を作ると非常に高速の船となった。時に、その船を号して枯野(カラノ)と言った。この船を使い、朝夕に淡路島の寒泉を酌み、大御水を献じたのである。船が壊れると燃やして塩を焼いたが、その焼け残りの木で琴を作った。その音は七里に渡って響いた。」

 河内国(後に分けられて和泉国となった)の富木(とのき)には、淡路島から高安山に至るまで影響力を及ぼす豪族が住んでいたのです。したがって、その勢力は文・漢人が支配した摂津の茨田や淀川流域の北河内には及んでいないことになります。この富木の豪族が魏志倭人伝のコウチヒコであることは言うまでもありません。
 つまり、倭国大乱で韓人(柏の渡りの神)を破った後、大阪の摂津と河内湖北部は文、漢人が支配し、南部や、河内湖東部の生駒山麓(高安山の麓に八尾市柏村町があります。)、淡路島は富木に主邑を置く秦人、コウチヒコが支配していたのです。船の名はカラを含みますし、船から作られた琴は、須佐之男の持ち物で、楚の要素に分類できます。
 延喜式、和泉国には等乃伎神社の存在が記されています。祭神は本社に天児屋根命(中臣氏の祖神)、大歳神(須佐乃男の子)、壷大神、菅原道真(土師氏系)、誉田別命(応神天皇)。摂社に宇賀之御魂神、天御中主神という具合に、応神天皇も母系(息長氏)で呉楚とつながっていますし、系列不明の壷大神と皇室用らしい天御中主神を除いて全て呉系楚人の神です。天児屋根と菅原道真以外は明治期に周辺の神社から合祀された神ということで、この付近一帯は呉系楚人(秦氏)の土地であったことがうかがえます。
 天平勝宝四年(752)、中臣氏の一族、殿来連竹田売が祖神、天児屋根命を平岡神社から迎えてこの地に奉祀し、太政大臣、藤原武智麻呂が来住したという伝承もあり、狗奴国の臣、河内彦は、猿トーテムで楊姓の藤原氏の祖先というイメージが固まってきます。生駒山の麓には河内国一宮、枚岡神社があり、天児屋根命と比売大神を祭っています。しかし、この仁徳記の記述を考えると、河内彦の本拠は富木だったはずで、その影響力の及んだ先端に枚岡神社が位置することになります。後に中臣氏が権勢を得たため、枚岡神社が大社となりましたが、中臣氏は河内彦一族の中でも傍流で、殿来連が本宗だったように思えます。枚岡神社の所在地は東大阪市出雲井で、天児屋根命と比売大神という二祖神の間に生れた子が奈良の春日若宮神社の祭神、天押雲根命とされていて、出雲、雲と中臣氏はつながっています。また、枚岡神社の特殊神事として、粥占祭とお笑い神事があることも呉楚(秦)系であることを示しています。
《注…出雲は須佐之男の歌から出た国名で秦系地名。粥は粘液質で秦系、ワラいも秦系で、対するエミは文・漢系。》
 おそらく、欽明天皇に抜擢されたという秦大津父が中臣氏の祖で、その時代から勃興したと考えられます。<リンク、補助資料集、大樹伝説と和泉黄金塚古墳>

7、藁しべ長者

宇治拾遺物語、九十六、「長谷寺参籠の男、利生に預かる事」
《今昔物語、本朝仏法部巻第十六、「長谷にまゐりし男、観音の助けによりて富を得たる語、第二十八」に同じ》
「今は昔、京に父母、主、妻子もなく孤独な青侍がいて、長谷寺に参籠し、『助けてくれなければここで飢え死にします。お助け下さるなら、その由を夢でお教え下さい。』と観音を脅して加護を祈った。三七(二十一)日後に、手に当った物を棄てるなという観音の夢のお告げを得て、寺の大門を出たが、とたんに転んで藁しべをつかんでしまうのである。仕方なくそれを持って歩いているうち、虻が回りを飛び回るようになり、木の枝を折って追い払おうとしたが離れない。捕まえて、藁しべで虻の腰をくくり、枝の先に付けたから、虻はどこへも行けずに枝先をくるくる回っていた。そこを長谷寺へ向かう女車が通りかかり、車の中の稚児がそれを見て欲しがったので譲ると、お礼に大柑子三つを香ばしき陸奥国紙につつんで渡してくれた。再び大柑子を木の枝に結び付けて、肩に担いで歩いて行くと、侍など、たくさんのお供を連れた由緒ありそうな女房が、歩き疲れ、喉の渇きのあまり気を失っていた。大柑子をあげると、その人の遅れていた食料などを積んだ馬が着いた後、幔引き、畳敷きなどして、昼食をごちそうしてくれたうえ、白き良き布も三匹もらった。『これは感謝の気持ちの一部にすぎない。京のお住まいはこれこれの所であるから、必ずやって来い。柑子のお礼をするぞ。』という言葉が付いていた。青侍は藁筋が布三匹になったとほくほくである。次の日、辰の時ばかりに、立派な馬に乗った人が道を進もうともせず、馬の自由に振る舞わせているのに出会った。『良い馬だな。』と眺めていると、この馬が突然倒れて死んでしまう。馬の主はあきらめて別の馬に乗り換え、従者にこの馬を始末せよと命じて去って行った。従者に話しかけると、『これは陸奥国より得たもので、萬の人が欲しがっても売らず、惜しんで持ってきたのに死んでしまった。』と始末に困っていた。これ幸いと、布一匹と死んだ馬を交換し、手を洗い、長谷の観音に、『この馬を生き返らせたまへ。』と祈ったら、馬が目を開けて起き上がろうとしたので、手をかけて助け起こした。馬は元の様に元気になり、布一匹を轡やあやしの鞍と交換して、馬に乗り京への道中を続けた。宇治のあたりで日が暮れたので、最後の布一匹を馬の草や我が食物などと交換し、宇治に泊まった。翌日、朝早く京に向かうと、九条付近の人の家で、あわただしく旅に出る様子がある。良い機会だとばかり、『馬を買いませんか。』と尋ねると、『交換用の絹は持っていないので、この鳥羽の近くの田三町や米、稲少し 《九条の田居の田一町、米少し》 と換えてくれ。』と言う。その主人は青侍に家を預け、馬に乗って去ったが、戻ってこず、結局、屋敷も畑もその青侍のものになり、子孫などが出来てことのほか栄えたという。」

 「藁しべ長者」として親しまれているこの話も、歴史の一証言です。この作業を始めて以来、驚くことにはすっかり慣れてしまいました。藁しべはワラ族で、呉系楚人(秦氏)を指します。虻は蜂と同じく秦系要素(刺す)のようで、藁でその腰を結びつけていたということは、<青侍>は<越>の秦系氏族ということでしょう。おまけに木の枝に、その藁しべを結んでいて、木の枝は堂谿氏の姓である「姫」に一致していますし、回転も巻き貝(ウヅ)に通じ、秦系要素です。(秦氏はウヅマサ、壱与に敗れた紀国造はウヅ彦)
 このアブ付きの藁しべを欲しがったのは、女車の中の、身分の高い小さな児で、これはミャオ族の苗に係りがあり、少彦名とも結び付きます。車に関係する車持氏も豊城入彦命後裔という紀氏系氏族です。大柑子三つと取り替えていますが、柑子(橘の実)もまた楚(秦系)のトーテムという具合に、全て青侍と同じ秦系要素で固められています。越の秦系氏族は傍系で、主家(スクナビコナ、出雲か?宗像系)の要請に従ったということなのでしょう。
 次に、もらった柑子を歩き疲れて気絶した女房にあげると、後で幔引き、畳み敷きして食事をし、白き布三匹を貰いました。幔(マン)はヤオ族を表し、布三匹はフミムラと読めます。これは文氏です。つまり、出雲から移動して来た邪馬壱国の一族のことで、布の色もこの一族の尊しとする白が選ばれています。そして、歩き疲れて喉が渇き、気絶して死にかかった女房とは卑弥呼を意味することになります。ここは、越人(文・漢氏)と呉系楚人(秦氏=青侍)が共に宴をし、文氏が栄えたことを示しています。今昔物語では女房ではなく主人となっていますが、これは卑弥呼の父、孝霊天皇と差し換えれば済むことです。文・漢氏は長い遠征に疲れ、弱りきっていたのですが、援軍(柑子を持ってきた青侍、遅れていた旅籠馬)が来て助かったということになりそうで、これは倭国大乱時代の表現にぴったりです。
 越の秦系氏族(青侍=藁しべで腰をくくられ、木の枝に付けられてクルクル回る虻)が、主家(稚児)の要請を受けて、危機に瀕した文・漢系(気絶しかかった女房、布三匹、幔)を助け、卑弥呼を共立して邪馬壱国が誕生したのです。ここまでの展開は、加賀(=越前=腰)の7人の下衆(=俵藤太=青侍)が、ムカデ退治をして豊かになったという伝承にぴったり合わさります。
 その後、邪馬壱国は協力関係にあった和歌山の狗奴国(稚児=秦系の主家)と対立し、再び存亡の危機を迎えますが、魏に援助を要請し、その派遣した張政の献策か、大阪の河内彦を味方に引き入れることで、狗奴国を滅ぼしました。「布三匹はお礼の一部にすぎないから、京へ来たときは、必ず尋ねてこい。」というこの女房の従者の言葉は、青侍の一族(狗奴国の臣、河内彦)が、後に邪馬壱国に誘われ従ったことを表しているのです。
 次は、死んだ馬と布を交換することになりますが、馬は呉人の別表現です。そのうえ、今昔物語では馬は財(タカラ)と同じで、これも呉人を意味するカラを含んでいます。芸の細かさには感心するばかりです。陸奥(ミチノク、ムツ)も秦系(呉系楚人)要素で、ムツゴロウという粘液質の魚がいることからもそれが解りますし、辰の刻の辰(龍)も秦系要素です。この馬を萬(ヨロズ)の人が欲しがったという萬(マン)はヤオ族=邪馬壱国を指します。したがって、自分の気の向くままに振る舞っていて突然死んだ馬とは、滅びた狗奴国です。その馬が、長谷の観音の力で、再びよみがえるのをこの青侍は手助けした。これは崇神天皇の東征に合わせて狗奴国系の一族が再結集し、邪馬壱国を滅ぼして勢力を挽回したことを意味します。
 続いて、宇治の辺りで、布一匹と「馬」の「草」や「ワ」が食物に換えたとしているのは、この辺りが呉楚人(姫氏)の一大居住地ということで、地名は紀伊郡です。最後に、馬を鳥羽の近き田三町と稲少し、米に変える。何か意味を含んでいるのでしょうが、現在のところ不明です。ただ、今昔物語では、《九条の田居の田一町と米少し》となっていて、タイとタイっちょう、ここでは、タイという楚に係る民族名が出てきます。これは蘇我氏を表すようです。
 最後に、その家の主人が旅に出て帰ってこず、財産を預かった青侍は、全てを手に入れるのですが、原文は、「風の吹きつくるやうに徳つきて、いみじき徳人にてぞありける。その家あるじも、音せずなりにければ、その家もわが物にして、子孫など出で来て、ことのほかに栄えたりけるとか。」と描写しています(宇治拾遺物語 大島建彦校注 新潮日本古典集成)
 取るに足らない弱小氏族だった「わらしべ」を持つ青侍が、長谷寺の観音の加護により、少しずつ富を膨らませて大金持になりました。平安時代、ことのほか栄えた一族というなら藤原氏です。この物語の始まった長谷寺の建立にも、藤原不比等の次男、房前(北家)が関与したとされています(長谷寺縁起文)。そして、その子孫で、九条殿と呼ばれたのは藤原道長の祖父、藤原師輔です。御堂関白、道長の家系は九条家とされていますし、その子の藤原頼通は宇治殿と呼ばれています。したがって、長谷寺で観音を脅してその加護を約束させ、宇治で一泊し、九条の屋敷の主が何処かへ行って帰ってこず、その財産の全てを手に入れた青侍とは、九条家の藤原氏を指すことになります。柑子を陸奥紙に包み、馬を陸奥国から持って来るのは奥州藤原氏の存在ゆえです。
 それなら、貧乏で飢え死にしそうだから何とかせよと強要されて、援助せざるを得なかったり、馬を生き返らせて青侍の願いをかなえた長谷寺の観音とは朝廷を意味し、行方不明になって、富の全てを譲った屋敷の主とは、藤原氏以前に権勢を誇っていた蘇我氏を指すことになるわけです。
 青侍の青は「青二才」、「尻の青い」等、若さ、未熟さを表す色で、苗と係ります。「大門にて」というモンはミャオ族の自称です。風の吹き付けるようにという風は楓と同音で、これもミャオ族の神木でした。藤原氏の根底はミャオ族というサインも現れています。
 藤原鎌足は摂津の三島に陰棲し、山科の陶原に家を持ち、近江(当時の都)の家で死んだといいます。しかし、虻も藤原氏に係わると解りましたから、大阪府茨城市(島下郡、三島)の阿武山古墳の被葬者が藤原鎌足ではないかとされていることが大変興味深く思えます。フジワラという氏族名も、フジ(蔓草で蛇につながる)は鎌足の母、大伴氏の要素で、ワラという秦系の自称を合わせたものと考えられます。
 整理すると、藤原氏の祖先は、越前(加賀)に居住していた秦系氏族(呉系楚人)で、漢(新)から渡来した文・漢人(越人)と連携して、より古い支配層の呉人の国と対立、倭国大乱を引き起こしました。近江の三上山や比良のムカデ(呉人)を破り、戦功が大きかったのでしょう(俵藤太のムカデ退治)。邪馬壱国が覇権を握り、一族の主家(出雲)が和歌山へ進出して狗奴国の首長となった時、藤原氏の祖先も近江から河内へ進出しました。魏志倭人伝はこれを狗奴国の臣、狗古智卑狗(魏略逸文では拘右智卑狗、コウチヒコ、河内彦)と表しています。二世紀後半のことです。
 やがて、邪馬壱国と狗奴国が対立し、邪馬壱国が苦境に置かれている時、この河内彦は寝返って邪馬壱国側に付きました。それが戦況を一変させたらしく、敵方の臣でありながら、魏志倭人伝にその名を特筆されることになったようです。「身分は保証するから、すみやかに戦いを止めて降伏せよ。」というような張政の檄が効いたのかもしれません。河内の富木や枚岡、摂津の三島(三島溝咋)が一族の重要拠点と考えられ、藤原鎌足の別業(別の領地)が三島にあることもこれで難なく説明可能となります。
 狗奴国滅亡後には、文氏が国分など河内の重要拠点に大挙進出しています。邪馬壱国の処遇には不満があったはずで、後、大和朝廷が南九州から進出すると、今度はこれにくみして、狗奴国系(同族)の復興を助け、邪馬壱国の打倒を図りました。青侍は「死んでいた馬が起き上がろうとするのを助け起こした。」のです。活躍しても中心勢力にはなり得ていないようで、やはり家格が低かったのでしょう。猿トーテムの楊姓が基盤で、姫姓(狐トーテム)が母系から入った家系かと思えます。民族的にはミャオ族の一支と分類できるようです(ワラ=ミャオ+羌)。
 藤原氏の氏寺、興福寺の門前にある、「猿沢の池の猿が、手をつなぎ合わせ、池に写った月を取ろうとして失敗し、ことごとく池にはまって死んだ。」という伝承がありますが、月を取ろうとした猿とは、「この世をば、我が世とぞ思う、望月の、欠けたることも、なしと思えば」と歌った藤原道長を指します。皇室の外戚となり、皇位を窺うほどの権勢を誇った藤原氏も、道長、頼通を頂点に没落してゆくのです。
 群馬県多野郡吉井町には、多胡碑と呼ばれる石碑が残っていて、「上野国の片岡郡、緑野郡、甘楽郡の併せて三郡の内、三百戸を郡となし、羊に給いて、多胡郡となす。和銅四年三月九日。」という文字が刻まれています。付近には、多胡(藤原)羊太夫という首長の伝承があって、鳶や金の蝶などと結びつけられています。多胡郡鎮守とされる辛科神社の祭神は、須佐之男と五十猛で、タコの足は八本である等、全て秦系に分類した要素ばかりが集められていますし、神社名の辛科(カラ+シナ=韓+秦シン)もそのことを示しています。そして、多胡と同音の多呉吉師という氏族も秦系なのです。藤原氏には、やはり猿トーテムの楊(羊)姓が色濃く映っています。《注…多呉吉師/神功皇后と宇治で戦った忍熊王の先鋒は熊之凝という者で、葛野の城首の祖、あるいは多呉吉師の祖となっていますから、熊之凝とは山代の秦氏です。信濃は秦(シナ)の野という意味らしく、シナは秦系地名とすることができます。》
<リンク 藤原公任の編纂した「北山抄」に猿顔の印>
 対馬、壱岐の秦人として、後の対馬直、壱岐直が挙げられますが、どちらも「天児屋根命の孫、雷大臣の後」として、中臣氏に系譜を結び付けています。全て卜(ウラ)部という占いに関する氏族です。壱岐直真根子が武内宿禰(=呉系楚人)にそっくりで身代わりになったという記述も見られますし、尾張の津島神社の祭神も須佐乃男である等、他の伝承とも矛盾しません。面白いのは姓氏録の伊吉連(造)が「長安人、劉家楊雍より出ずるなり。」としていることで、ここでも楊姓がほのめかされています。
 邪馬壱国は、狗奴国の臣にして藤原(中臣)氏の祖、河内彦を味方に引き入れることで、河内と大和の二方面から紀伊ヘ侵攻したため、狗奴国は南下したり、海を渡って阿波へ逃れるより術がありませんでした。和歌山県田辺市にも蟻通神社があり、難升米と魏の張政の伝承が残っていたことを思わせるのです。そして熊野に到り、ついに狗奴国は降伏します。大国主の手の平にもてあそばれていた少彦名は、飛び上がって大国主の頬に噛付いたが、「熊野や阿波から、粟茎(アハカラ)に弾かれて常世の国に行ってしまった(記、紀神代)。」のです。
 少彦名にはアハ、カラ、ハジと全て秦系要素が絡み付いています。(粟は小さい意味に使われる)須佐乃男が、駄々をこね、泣き叫んで、青山を枯れ山にした。皮をサカハギにした天の斑馬の死体を投げ込んだため、驚いた天服織女(=卑弥呼=ヤマトトトビモモソ姫=天照の妹、稚日姫)が杼でホトを突いて死に、天照大神の隠れる原因となった。国内の人民を多く夭折させたとされるのも全てこの邪馬壱国と狗奴国の戦いの表現です。須佐之男にはサカという秦系要素が現れていますし、ハギもここに付け加えることができそうです。

 「チガヤの山で昼寝して、ワラビの恩を忘れたか。ナムアビラウンケンソワカ。」

 これは、各地に伝えられている蛇避けのまじない言葉です。蛇が昼寝していると茅萱が生えてきて蛇の体を突き刺し苦しめた。この時、ワラビの柔らかい若芽が下から蛇の体を持ち上げて蛇を助けたのだと言います。だから、蛇に出会った時、ワラビの恩を忘れたかと唱えると、蛇はそれを思い出して噛むようなことはしないのです。茅萱は須佐之男に付属していましたから、狗奴国を意味すると解りますし、蛇は邪馬壱国の要素です。そして、それを助けたワラビは藤原氏の祖先、河内彦という呉系楚人で、この言葉の背景の説明に労を要しません。
 蛇が苦手のナメクジに取り巻かれようとしているのをワラビが教えたという伝承もありますが、ナメクジは蜈蚣と等価で、呉の要素ということが明らかになっていますから、こちらも簡単です。陸奥が呉系楚人・秦氏に関係することが明らかになり、蛇を噛み殺した陸奥の狗山の狗を、秦系の猟犬と解したことはやはり正解でした。狗を扱う秦系氏族として、神魂神に系譜を結ぶ県犬飼氏がいます。元明天皇時代、県犬飼宿祢三千代(*)が橘の氏姓を与えられたのも理由のあることなのです。《*/藤原不比等の妻》

8、戦後処理と泣沢女

 記、紀神代では、伊邪那岐命が、妻の死を悲しんで流した涙から泣澤売(ナキサワメ)神が生れたとされています。雉を鳴女(ナキメ)としており、雉は呉のトーテムで、澤(サワ、タク、シャク)もナマヅで呉を意味していましたから、ナキ(サワ)メもその延長上にあります。この神は、香久山の畝尾の「木本」に坐すとあって、すべて呉の姫氏に結び付いています。雉は目の周りの赤い鳥なので、これは目を泣き腫らしているのだと言うのでしょう。
 万葉集202には、「哭澤の神社(もり)に御酒(みわ)すえ祈れども、我がおおきみ(王)は高日知らしぬ」という歌があり、泣沢の神に酒を捧げて、王の命を助けてくれと祈ったのに、叶えられなかったという意味ですから、平田篤胤は泣沢女を命乞いの神としています。
 これは、狗奴国滅亡時の出来事に由来するようです。捕えられた狗奴国王は涙を流し命乞いした。そして、それが叶えられたため、姫氏のトーテムの雉は、命請いに霊験あらたかとされたのでしょう。命は助かったとしても大事にされるわけがありません。壱与が中国に献上したという生口三十人が、その王族の主立った者と思われます。
 泣沢女(泣女=雉)が命乞いの神となる理由が説明できますし、少彦名が、熊野や阿波から、死者の行く根の国ではなく、常世の国へ行ったという記、紀の記述の意味も明らかになります。常世の国とは中国を指すのです。垂仁紀では、田道間守(たぢまもり)が常世の国から非時の香菓(ときじくのかくのみ=橘子)を持ち帰ったとされていますから、中国と考えて間違いありません。
 「神代紀、下」には、天から使いに出された雉は粟田、豆田を見て、留まって帰らなかったという記述があります。行ったきりで帰ってこないことを意味する奈良時代の諺、「雉の頓使(ひたつかい)」は、この狗奴国の首長たちの運命から生れた言葉と考えられます。
<リンク「蘇民将来(伝説の起源)」>
 そして、戦争の最高責任者という重犯者やその一族が、滅せられずに、没されていることは、魏志倭人伝の、「重犯者はその門戸及び宗族を没す」という記述が正しいということにもなります。捕えられた王族が奴隷とされ中国に送られていたのですから、中国側の資料が間違えるはずはありません。
 後漢書の著者、范曄はやはり魏志を訂正して「滅す」としたのです。これは大和朝廷時代になってからの習俗で、刑罰は重くなっていました。縄文の北方系民族の伝統を受け継いだものか、あるいは呉系楚人・秦氏(弁辰人)の習俗と考えられます。呉王夫差は越王勾踐の降伏を受け入れて諸侯と為しましたし、勾踐も夫差を破った時、僻地に所領を与えようとしています。しかし、匈奴や秦などの北方民族は、敵対者に仮借がありません。それでも、弁辰伝に「法俗は特に厳峻」と記されていることが、秦氏の習俗の可能性を臭わせます。
 狗奴国(呉楚)の滅亡後、邪馬壱国(越)の一族は河内彦の権限を縮小し、河内に大挙して進出しました。これが古市の西文氏や、難升米を祖とする船氏、津氏、葛井氏などで、志紀県主、渋川(八尾市)の物部氏等もそうです(ヤオ族。狗トーテム)。河内彦の本拠の富木には本宗として殿来連が残りましたが、海岸部の高石(高志=コシ)には、王仁の後と称する古志連が入り、曽根には物部系の曽根連が封じられています。《注…高皇産霊系、大伴系とする高志連がありますが、何れにしても邪馬壱国の同族で、千利休はその後裔かもしれません。》
 曽根付近には池上、曽根遺跡があり、地名は楚(秦)系なのに、隣接する式内社、曽根神社の祭神が饒速日六世孫の伊香我色雄命となっていることを思うと、秦系の上に文・漢系の曽根連が重なった形を想像できます。狗奴国本国(紀伊)には、壱与の兄弟(孝元天皇の子)、比古布都押之信命が封じられ、紀国造ウヅヒコの妹を娶って武内宿禰を生みました(記)。この一族が楚人(秦人)と扱われていることは既に記した通りで、婿養子という形になります。

 

 建内宿祢に関して、「記」と「紀」の系譜の間には、時間的に大きな断絶がありますが、これも卑弥呼(孝元天皇の姉)を神功皇后と扱ったことから起こる混乱です。「紀」が正しく、過去を遡れば日古布都押信命と山下影姫に到るということになります。
 狗奴国王の直系は天道根命の孫となっている紀国造、紀直(怡土県主同祖)ですが、当時の首長、国造のウヅヒコは、生口として中国へ献じられた三十人の中に含まれていたと思われます。
 こうして、邪馬壱国、三輪山の大国(大物)主神は紀伊へ進出し、貴志川町国主などに大国主神社が設けられたのです。
 和歌山市秋月には、日前神社が設けられ卑弥呼が祭られました。日前宮の北には太田という地名があります。播磨国風土記、揖保郡大田里には、「昔、呉の勝(すぐり)が韓国より渡来し、始め、紀伊国名草郡大田村に到った。その後、分れ来て、摂津国三島賀美郡大田村に移り、その又、揖保郡大田村に遷り来た。これは本の紀伊国大田を以って名と為したのである。」という記述があります。
 大山津見神の場合と同様、この伝承も移動した順序が逆になっていて、播磨揖保郡の大田から、摂津三島の大田に移動し、さらに狗奴国滅亡後、和歌山の太田に進出したのです。大田という地名は三輪山の大物主神を祭る大田田根子(三輪氏の祖)につながり、呉勝(くれのすぐり)も同族で文・漢人とすることが出来ます。揖保郡、大田の里、皷山には、額田部連伊勢と神人(みわひと)腹太文の、同族間の戦いの伝承が有り、この付近が文・漢人の居住地であることが示されていますし、名前が伊勢と福(腹)、文であることにも注目しなければなりません。文・漢人に呉勝(村主)と呉が付けられているのは、呉(徐州や九江郡)から渡来したことによるのだと思われます。
 スクナビコナ終焉の地、南紀熊野には、本宮大社と速玉大社(新宮)の延喜式二社が併存しています。これは、狗奴国滅亡後に物部氏(文・漢系)が進出し、甕速日神を主神とする速玉大社を設けたためで、地主神である本宮の方が、神格が高くなっています。

 

 熊野で人に憑く狐と狗がいがみ合い、何代にも渡って互いに殺し合うという説話が日本霊異記下巻に記されていますが、これも、熊野の二民族間の、勢力争いの反映と見ることができます。《「生物の命を殺し、怨みを結び、狐、狗となり、互いに怨みを相報いる縁 第二」》

9、壱与の東方進出

 卑弥呼時代の邪馬壱国の版図は、伊勢湾に達しているにすぎませんでした。262年頃、和歌山の狗奴国を滅ぼして国を安定させた後、壱与は東方へ軍を派し、さらなる勢力の拡大を図ります。
<羽咋と大彦>
 須佐之男の国、地下の「根の堅洲国」へ入った大国主は、須佐之男から様々な試練を課せられます。その一つが、草原に向かって射た矢を拾ってこいというものです。大国主が矢を探してウロウロしているうち、回りから火が放たれましたが、この危機は鼠が隠れ場所を教えてくれたので逃れることが出来ました。鼠は大国主を助け大黒様の使いともされていますから、越系の要素とすることができます。鼠の浄土などの昔話があり、鼠に餅を供える民俗行事も見られます。トーテムと扱う資格は十分です。昔話から考えると、

 太陽(越)←雲(呉楚)←風(越)←壁(呉楚)←鼠(越)

 という互いに勝ったり負けたりの勢力争いの図式になります。(越=邪馬壱国、文・漢氏。呉楚=狗奴国、秦氏)
 須佐之男の矢は鼠が見つけて持って来てくれましたが、その子が矢の羽を皆食っていたとされており、これは羽咋という言葉になります。つまり、石川県の羽咋は越系(オオナムヂ系)地名なのです。このことを言うため、どうでもいいように見えるこの話が挟まれたのでしょう。
 羽咋市寺家(ジケ)町には能登一宮の気多大社があり、オオナムヂ(大国主)神を祭っていますが、入らずの森の中にある奥宮には、須佐乃男命と奇稲田姫が祭られています。元々、ケタ(大笑いに関係する)という楚人の土地に、越人が上位に入ってオオナムヂ神を祭り、地主神の須佐乃男を奥に封じこめた様子です。そして、その土地が新たにハクイやジケと呼ばれるようになったということで、越系地名のカシマもすぐ近くに見られます。ジケ、シケも越系地名です(シケン=子鵑はホトトギスで越系要素、時化は海の暴風雨=火明命に関係)。
 「奥宮祭(十二月三十一日)…午後八時に始まる。宮司以下が一丈二尺の松明の先導で奥宮におもむいて二社を清掃、注連縄をとりかえて祝詞を奉し、終わると古い注連縄や筵に火をつけ、神職達は後を見ずに一目散に『入らずの森』をぬけてくる。(日本の神々8、白水社)」とありますから、奥宮の須佐乃男命は大事に祭らねばならないが、敬遠したい神なのでしょう。
 気多付近には最初、楚人の国があり、須佐乃男が祭られていました。卑弥呼の邪馬壱国と狗奴国が争った時には、ここも狗奴国側に付いて戦い、敗戦後、越人が首長として入って、気多大社にオオナムヂ神を祭り、須佐之男を奥宮に封じこめた。須佐之男の矢の羽は鼠に食われてしまったのです。後の大和朝廷時代になって、羽咋には、垂仁天皇の皇子、石衝別王の子孫が羽咋国造として入り、羽咋神社に石衝別王が祭られたという順序になりそうです。また、付近に大穴持像石神社がありますが、オオナムヂ神を祭り、境内には地震押さえの石を置いて、建御雷神を祭る鹿島神社と同じ形がとられています。呉を意味するカラという民族名はカラ→ケラ→ケタ/カラ→ケラ→テラ/カラ→カタというふうに転訛するようです。
 加賀の秦人(七人の下衆、俵藤太)は、倭国大乱時は邪馬壱国の文・漢人に与して、近江を攻めており、その首長としての地位を失ったのは、狗奴国の反乱、敗北後と考えられます。各地の不満を持つ秦系氏族が、紀伊の狗奴国と連携して立ち上がっていたことがうかがえ、それ故、解決までに長い時間を要したのでしょう。
 したがって、羽咋へ邪馬壱国が進出したのも壱与の時代とすることができ、壱与の長兄、大彦が北陸へ派遣されたという伝承とつながってきます。記、紀では(大和朝廷の)崇神天皇時代とされていますが、壱与の兄、大彦は崇神天皇より二世代ほど前の人物で、同時期に存在することはあり得ません。もちろん大彦や建渟河別は大和朝廷時代になってから与えられた名で、実際には、芊(騶)なんとかと言ったわけです。
 邪馬壱国は茨城県(常陸国)まで版図に収めたことが確実(鹿島、香取神社)なので、ただの語呂あわせと考えていた、北陸道へ派遣された大彦と、東海へ派遣された大彦の子、建沼河別が、福島県の会津で出会ったという伝承も何やら信憑性を帯びてきます。越国造、越深江国造は大彦の子孫ですし、栃木県の那須国造は建沼河別の子孫とされています。どちらも会津まではもう一歩という位置にあります。壱与、開化天皇時代の邪馬壱国の最大版図は、所々空白域を含むこととは思いますが、日向を除く九州から会津付近までということになりそうです。
 「記」は崇神天皇が越、東、丹波の三道に将軍を派遣した。「紀」は北陸、東海、西道、丹波の四道に将軍を派遣したと記していますが、これは、邪馬壱国の壱与、開化天皇時代の伝承を組み込んだものです。同時に派遣したのは「記」の三道が正しいようで、越に大彦(開化天皇兄)、東に建沼河別(大彦の子)、丹波に日子坐王(開化天皇皇子)と解せられます。西に派遣されたという大吉備津彦は、既に明らかにしたように、一時代前の卑弥呼と孝霊天皇時代のことです。崇神天皇の事績としては、若建吉備津比古を吉備に派遣したこと以外、明らかにできません。

10、壱与の死とその祭祀

 壱与は299年頃に死亡しました。享年は62ほどでしょうか。開化天皇や大彦はその兄とされていますから、既に没していたでしょう。壱与の時代が邪馬壱国の最盛期です。
 古語拾遺には、「思兼命の議に従い、石凝姥神に日像の鏡を鋳さしむ。初めに鋳る処は少し意にあわず。(これ、紀伊国日前神なり。)次に鋳るところはその状美麗(これ、伊勢大神なり。)」とあります。
 和歌山、日前宮の日像の鏡は、伊勢神宮のものより古く、少し出来が悪かった。つまり、卑弥呼の治世は、最晩年に平和が乱れ傷ついたが、新しい伊勢の鏡は曇りもなく出来が良かった。その時代、中央では平和が続いたのです。したがって、伊勢の鏡とは、壱与の形代ということになります。伊勢神宮の祭神は壱与で、日の昇る東に壱与を祭り、日の沈む西の日前宮に卑弥呼が祭られていることになります。
 日が陰ったということが「ひのくま=日の隈(陰、奥)」という地名のおこりらしく、日前は「日の前」ではなく、「日+(以)前の」という苗系語順と考えられますが、それをその内容から、無理に「ひのくま」と読ませたのでしょう。
 箸墓と景行陵古墳は三輪山山頂から等距離にあり、同格と扱えることから、景行陵古墳を、ヤマトトトビモモソ姫(卑弥呼)と同様、三輪の神の妻と表されたであろう壱与の陵墓と比定しました。景行陵古墳の前方(東)には屏風のような山並があって景観を遮っていますが、古墳の中心軸を、その山並越しに4~5Km伸ばして行くと、笠山荒神という神社に当ります。位置を定めるには、山の上から見下ろす方法が採られたでしょう。祭られている神は、奥津彦、奥津姫、土神という「竃」の神です。奥にあるという表現がぴったりで、奥津彦、奥津姫という名称は、この神社の位置に由来するようです。《津(つ)は「の」と同義》
 竃は平和、安定の象徴で、仁徳天皇も竃の煙を見て庶民の暮らしを測っていますし、中国の竃神、祝融(炊飯の湯気が出るのを祝うという意味)も、共工氏の反乱に対して功があり、平和をもたらしたことから与えられものです。祝融は楚の始祖なので、竃神(=荒神)も楚の神、須佐之男の系譜に組み入れることができます。以下の系譜の奥津彦が本来の竃神、祝融と考えられます。

 

 「奥津日子神。次に奥津比売命、亦の名は大戸比売神。此は諸人が以って拝する竃神なり。」と記されており、岩波古典文学大系の注は、「奥津比売命」と、この神の称号のみが命になっていることに不審を持っていますが、これは壱与という実在の人物が投影されているためです。それに、本来は須佐之男の後裔とされるこの位置にあるべき神ではないので、全部で十神が記されているにも係らず、大年神の子は九神と記されています。
 平和の象徴、竃神と共に祭られていた奥津比売命は、後に同じ竃神に昇華し、大戸(おおへ)比売神となりました。竃を「へつひ=へっつい」といいますから、竃の古語が戸(へ)だったのかもしれません。笠山荒神の祭祀の本義は、この大戸比売神にあります。
 以上のようなわけで、景行陵古墳は三輪の神の妻にして、後に平和、安定の象徴、竃神の大戸比売神となって祭られた人物の陵墓ということができるのです。
 日本書紀の一書には、オオナムヂ神(=大物主神=国神)が、天神(大和朝廷の神)に敗れ帰順した後の事として、「時に、高皇産霊命は大物主神に、『汝が、もし、国つ神を以って妻となすなら、私は、汝には、まだ従わない心があると思うだろう。それ故、今、我が娘の三穂津姫を汝に与え、汝の妻とする。八十万神を率いて、永久に皇孫を護り奉れ。』と命じて、還り下らせた。」という記述があります。
 ヤマトトトビモモソ姫の他にも、「三輪」の大物主神の妻となった神(人物)がいたのです。高皇産霊神は文・漢氏の祖神なので、その娘の美穂津姫も大物主神の同族ですが、高皇産霊神を天神に配した神話の構成上こうなってしまいました。
 大物主神の妻となった美穂津姫が、邪馬壱国の壱与に重なるのは明らかで、その美穂津姫を祭る神社が、奈良県磯城郡、田原本町の延喜式大社、村屋坐弥富都比売神社(村屋神社)です。今では、歴史に置き去りにされ、ひっそりとした無名の社となって、地元の人以外は訪れる者も希なようです。景行陵古墳の西2Kmほどの(わずかに南にずれている)、古代の街道、中ツ道と水路の大和川に挟まれた交通の要衝に位置し、大和川の堤からは秀麗な三輪山が望めます。そして、その集落名は伊与戸(イヨト)といいます。これをイヨヘと読めば竃神、大戸姫とも結び付きます。姓氏録、物部氏の同族に伊與部がありますので、地名の読みも本来はこちらの可能性が強いでしょう。すべてが同じ方向を指しています。景行陵古墳は百パーセント、壱与の陵墓です。

 

 整理すると以下のようになります。
「景行陵古墳は箸墓(卑弥呼=三輪山、大物主神の妻の墓)と同格である。
 景行陵古墳は伊与戸(イヨト)という集落の東2Kmにある。
       伊与戸に美穂津比売が祭られている。
           美穂津比売は三輪の大物主神の妻となった(卑弥呼と同格)。
                    大物主神は邪馬壱国、王家の神である。
       壱与は邪馬壱国の女王(神祇)を継いだ=神の妻となった。
       壱与(イヨ)の時代に狗奴国が滅び平和が訪れた。
                       平和の象徴は竃である。
       壱与は竃神として祭られるであろう。
  景行陵古墳の中心軸は笠山荒神という竃神(奥津姫、大戸比売)を祭る社に向かっている。
故に、景行陵古墳は、大物主神の妻であり、伊与戸に祭られ、且つ平和の象徴、竃神となった美穂津比売=大戸比売=壱与の陵墓である。」

 名前は壱与で台与ではありません。美穂津比売、孝元天皇の皇女ヤマトトト姫、竈神の奥津姫(大戸姫)と表された人物が、魏志倭人伝中の壱与です。《注…美穂津比売/ミは美称、ホツ、フツ、ホト、フトの姫の意=弥富都比売》
 伊与戸は物部氏の所領であったといいますし(大和志料)、姓氏録、右京神別の伊與部は「高媚牟須比命三世孫、天辞代主命の後なり。」、「火明命五世孫、武砺目命の後なり。」などとなっていますから、矛盾は全くありません。(辞代主神、火明命はオオナムヂ神の子)
 垂仁天皇の皇女、伊勢大神宮を祭ったとされた倭姫も同じ壱与のことで、ヤマトトトビモモソ姫(卑弥呼)を崇神天皇時代に置いたため、その後継者の壱与を次代の垂仁朝に置いたものと考えられます。
 三輪山の麓には、三輪神社摂社の桧原(日原)神社があります。往時は、「馬場遠く、大道に接し、一の鳥居は遥かに大神社(三輪神社)の大鳥居と相並べり。以ってその規模を想見すべし。(大和志料)」とされるほどの盛んなる社であったようです。祭神は天照大神若御魂神となっていて、桧原神社の正面に箸墓が見えることから卑弥呼との関係が想像できますし、三輪山山頂と桧原神社を結んだ線を延長していくと村屋坐弥富都比売神社に当ることや、桧原神社が元伊勢と呼ばれていることから壱与との関係が証明されます。
 つまり、桧原神社は大物主神(水神=月)とその妻、卑弥呼、壱与(太陽)を祭る神社なのです。この神社の三ツ鳥居という特徴のある鳥居も、中心は三輪山の大物主神で、左右に卑弥呼(ヤマトトトビモモソ姫)と壱与(ミホツ姫)という同格の二人の妻を配したものと解することができます。<リンク、「壱与と三穂津姫、村屋坐弥穂都比売神社」>
     

 続き、「縄文の逆襲、1」

 

参考文献

中国、朝鮮原書類(史記、漢書、後漢書、三国志、隋書、晋書、捜神記、淮南子、列子、三国史記、荊楚歳時記)
日本書紀、古事記、風土記(岩波古典文学大系)
続日本紀(平凡社東洋文庫/国史大系、吉川弘文館)
先代旧事本紀の研究(鎌田純一著、吉川弘文館)
今昔物語(新潮日本古典集成、角川日本古典文庫)
日本霊異記(岩波古典文学大系/講談社学術文庫)
太平記(新潮日本古典集成)
宇治拾遺物語(新潮日本古典集成)
万葉集(岩波文庫) 枕草子(岩波文庫) 古語拾遺(岩波文庫)
群書類従(続群書類従完成会) 群書系図部集(続群書類従完成会)
本草綱目啓蒙(平凡社、東洋文庫)
大和志料 新撰姓氏録の研究本文編(佐伯有清著、吉川弘文館)
日本の神々(谷川健一編、白水社)
柏原市史(柏原市)
鯰絵(C・アウエハント著、せりか書房)
雲南(H・R・デーヴィス著、古今書院)
中国少数民族の信仰と習俗(覃光広等編著、第一書房)
妖怪、「鬼伝説の研究」(若尾五雄等、三一書房)
黄金と百足(若尾五尾著、人文書院)