弥生の興亡、4

縄文の逆襲、1

 第一章、縄文時代を考える
   一、縄文の民族
   二、言葉から探る縄文の構造
 第二章、縄文人の逆襲
   一、大和朝廷を縄文系とする根拠
   二、大和朝廷の九州時代
    1、天降りと笠沙進出
    2、蝦夷と隼人


 

第一章、縄文時代を考える

一、縄文の民族

 日本列島の過去を遡ると、何万年か以前の旧石器時代から人々の暮しのあったことが明らかにされていますが、そのころの出来事を知るには、あまりにも資料が乏しく、想像の手がかりさえつかめません。何を考えても真っ白な空間の中に拡散してしまうような思いがします。
 この旧石器時代の眠たくなるような長い年月を経たある時、何らかの事情から新たな生活の場を求め、海を越えて移動して来た民族がいました。おそらく、その民族がもたらしたものでしょう、縄文式土器を特徴とする縄文時代が幕を開けたのです。
 新たな民族の渡来を想定したのは、単一民族が孤立して生活している場合、文化が停滞し、ほとんど変化がないように見うけるからです。オーストラリアのアボリジニー、カラハリ砂漠のブッシュマン、アマゾンの少数民族等、異なる文化を持つ他地域からの情報と刺激がなければ、人間という生物は、本来、変化を好まないというより、変化できることに気が付かないように思えます。日本列島もアジアの東端、交流の困難な位置にあり、そこに居住した旧石器人は、他民族との接触がなかった場合、その生活様式を変えなかったのではないでしょうか。異民族と接触することで道具類は倍になり、そこから新たな創意、工夫が生まれ、爆発的といっていい変化が起こるはずです。
 こうして、縄文時代には、人口の増加もあいまって、人間活動の痕跡も増え、考古学的資料に基づいた想像も徐々に立体感を増してきます。そして、土偶に見られるように顔に入れ墨し、日本には自生しない南方の植物、ヒョウタンを持ち込み、様々な魚類を食し、大量に貝類を消費しつづけたこの人々は海に馴染んだ南方系民族だったのではないか。貝類はまずそれが食べられるということを知らなければなりませんし、採るにもその知識と道具と技術が必要だったはずです。山の民がたまたま海へ出て、浜辺で貝をほじくるという程度では、貝塚の形成に至らないでしょう。こういったことから、初期の縄文人として、マライ・ポリネシア系民族(マライ・ポリネシア系言語)の南西諸島沿いの渡来を想定すべきだと考えます。旧石器人として北方系の狩猟・採集民族を想定すればいいのかもしれません。
 その後、日本には朝鮮半島から東胡につながる北方系民族が断続的に渡来し、そして、この民族が縄文時代の主人公となったように思えます。形質的には同じような深目長鼻の民族ですが、アルタイ系言語の使い手です。山と海に住み分けて、お互いの足りないところを融通しあう。旧石器、マライ・ポリネシア、アルタイ、長い年月はこの三系統の民族をゆるやかに統合しましたが(はたして一つになっていたか?)、朝鮮半島に源を持つ北方系民族の移住は容易で、徐々に強勢になっていったようです。殷の箕氏が殷の滅亡時に朝鮮半島に移動しています。その住民が長期間ひとところに閉じこもっていたとも思えず、日本で殷の青銅器が発見されているということですから、殷と縄文の関係、殷人の移住を想像しても許されるでしょう。(殷の滅亡=紀元前1100年頃?)
 アイヌは比較的新しい時代の渡来人かと思えます。アイヌが北海道に来たとき、既に小人のコロポックルが居住していたという伝承があり、これは蕗の下の人という意味で、雨の時には北海道の大きな蕗の葉の下で休んだとされています。また、漁が上手だった、アイヌに入れ墨を教えたともいいます。日本に渡来した最初の弥生人・呉人は非常に小柄だったようで、ワラという民族の自称がワラベ、ワラシなど子供を表す言葉につながっています。この人々がコロポックルで、北へ帰ったとされていますが、稲作が出来ずに南へ引き返したように思えるのです。内地人をシャモといったのはシャムとの関係、つまりセンの転訛と考えられ、越人(文・漢氏)の表現のようです。
 アイヌを縄文の中心勢力とするには、近年の、縄文の巨大遺跡の発掘やその祭祀の様子が障害になります。現在のアイヌ文化との継承性、類似性が見いだせませんし、「アイヌは肉食で五穀農耕を知らない(諏訪大明神絵詞)」、「屋舎がなく山奥の木の根本に住む(斉明紀)」というわずかに残された文献の描写とも一致しないのです。五穀を食べないことから、縄文の貯蔵食であったドングリ類を食べなかったことも想像できます。《注…江戸時代の「蝦夷島記」には「穀物は粟、ヒエを作って酒にする。」と記されています。》
 北海道、東北の日本海を越えた向かい側、アジア大陸には挹婁(古の粛慎氏)という民族がいました。形は夫余に似て、言語は夫余、高句麗と異なる。五穀、牛、馬、麻布あり。常に穴居する。大きな家は九つの梯子で入るほど深い。好んで豚を飼い、冬はその油を体に塗って寒さを防ぐ。不潔で便所を家の中央に作る。などの記述が有り、この民族の風俗もアイヌとの類似を感じさせません。それに、アイヌの言語はアルタイ系で、類の無い独自のものといいますから、民族的には早期に分離、孤立した北方系の狩猟民とみなせばよいのではないでしょうか。
 「紀」は北海道のアイヌを粛慎(みしはせ)と表現しているようで、ヒグマやその毛皮を戦利品として手に入れています。粛慎という記述に根拠があるのなら、アイヌと挹婁(古の粛慎氏)は共通の根を持つ可能性があります。日本人のように平べったい顔を持つ民族はシベリアで発生して日本に渡来したという説がありますが、縄文人は彫りが深いとされていますし、古代から中国南方に展開している苗系、タイ系民族が日本人と同じような顔をしていることをどう説明すればいいのか、とにかく民族の移動に関しては複雑な渦がいくつも発生しているらしく一筋縄ではいかないようです。

二、言葉から探る縄文の構造

 その起源に関して様々な説が唱えられている日本語ですが、文法は北方、アルタイ系言語に近いということなので、それを基盤とした言語とすることに問題はないようです。日本語の中に、外来語を起源とする言葉が数多く見られるように、単語は比較的簡単に日常会話や文章の中に取り込めますが、語順を変えるのは、頭の切り替えが大変です。漢語など、語順が変わると意味が全く異なってしまいますから、片言を並べて意志の疎通を図るのは困難でしょう。三角縁神獣鏡の銘文に「真大好」という文字があり、日本人は「真を大いに好む」と翻訳してしまいそうですが、それなら動詞が先に来て「大好真」となるはずで、これは「真に大いに好し」と言う意味なのです。文字はゆっくり眺めながら考えることも出来ますが、その発音を聞いて自由に会話するには、相当の修練を積まなければなりません。単語は覚えるだけで済んでも、文法を覚えるのは、慣れ親しんだ発想法を変えるという大きな負担を伴います。したがって、言語の起源を探るには、似た単語を持つことより、似た言語構造を持つということを優先しなければなりません。語彙の少ない、使用人口の少ない原始時代なら語順など簡単に変わりうると思えますが、文明を作るようになった以降の人類なら、すでに複雑な言語を駆使して意志の疎通を図っていたと考えられますから、何らかの特別な刺激、強制がなければ文法を変化させるまでには至らないでしょう。
 中国で諸民族が興亡するたび、波動的に、朝鮮半島でも民族の移動が引き起されたと想像できます。例えば、殷を滅ぼした周は中国西部から東へ進出しています、黄河の中、下流域にいた殷人は、東、北、南に逃れるでしょう。殷の貴族、箕氏は朝鮮に国を作ったとされていますから、周の風下に立つことを嫌い共に移住したものもいたはずで、元からそこに居住していた民族は東、北、南へ押し出されることになります。そして、南に日本列島があるというわけです。食糧不足や疫病の流行、天変地異などに苦しみ、新天地を探して移住するという形もあり得ます。有史以前から、このような過程が何度も繰り返されていたのではないでしょうか。
 こうして、縄文時代、冷涼な気候を好む北方アルタイ系民族は、日本でマライ・ポリネシア系の南方民族と融合しました。北方民族に主導権があり、文法はアルタイ系が基盤となりながら、単語や発音にポリネシア系の影響が強く残る言語が新たに生まれ、そして、この縄文時代の言語が現在の日本語の基礎となったように思えます。
 日本語の音節はa、i、u、e、oの母音で終り、他民族の言語のようにt、s、zなどの子音で終ることがないというのが特徴とされています。すでに指摘されていることですが、ポリネシア語も同様にa、i、u、e、oで終っていて、いくつかの言語を調べて比較してみましたが、読みに悩まずに済んだのはこのポリネシア語だけでした。元々、マライ・ポリネシア系とひっくるめて語られる太平洋島嶼の言語はこの特徴を持っていたものを、大陸に近いインドネシアやフィリピンには大陸系の言語が流入したため、その本来の形が失われてしまったのかもしれません。人の交流の少ない土地ほど古いものが保存されるという法則に間違いはないでしょう。
 日本語に関係しそうな各言語(単語)を並べてみます。アルタイ系の代表としてウイグル語を選んだのは、砂漠や山脈に囲まれて交通不便な土地に位置しているからです。王朝はめまぐるしく変わっていても、すべて同系の遊牧民族国家と考えられます。大文明圏の中国とも遠いし、インドからも離れている。古代の単語が比較的保存されているのではないでしょうか。朝鮮語はアルタイ語族と江南からの移住者の言語が、日本とは異なる比率で混合した上に、中国の影響が大きい、比較するとかえってやっかいなことになりそうです。モンゴル語も、中国で元という国を建てたくらいで原形に近いようには思えませんし、最も縄文人に近いと考えられる満州族も南方系要素が入っているうえ、三百年間の清朝で大きく中国に傾斜していることでしょう。

 
(発音記号を読み取っただけなので、少し違っているかもしれませんし、カタカナ表記にも馴染まないはずです。それに、古代の言葉がそのまま残っているのかどうか。しかし、参考にはなります。)

●火をヒと呼ぶのは縄文時代のマライ・ポリネシア系の言語で、タイ語でファイ、ベトナム語でホア(火山はホアサン)となっていますから、弥生時代にホと発音する江南からの言語が入ったように見えます。しかし、コウチヒコのヒは日の意味と考えられますから、楚語でもヒと言ったらしい。「雲南」語彙表は、私が楚語に分類したミンチャ語の、太陽をNyi-pyi、月をWa-pyiとしており、このピィがコウチヒコのヒに該当するかと思えます。楚語=苗系言語の基盤にマライ・ポリネシア系言語があるようです。あるいは楚語の火と太陽は別の言葉だったのか。ミンチャ語の火はHwe(フェ)となっています。いずれにしてもヒ、フィ、ファ、フェなど簡単に転訛しそうで、遡れば一つということになるでしょう。漢語のカもファから転訛したものと考えられます。
●星(ホシ)は火(ホ)につながりますから弥生語。ツツはウイグル語に一番近くアルタイ系言語から入っているようです。和名抄で太白星(金星)をユウツツとしています。
●穴(アナ)はポリネシア系言語がそのまま当てはまります。マレー語では穴のことをボチョルともいうので、穴凹(あなぼこ)というのはマライ・ポリネシア系の合成語のようです。洞穴(ほらあな)というのはアルタイ系(ウイグル語)とポリネシア系の合成です。どちらも縄文語と解することができます。
●犬(イヌ)はウイグル語が一番近い。トルコ語も同じです。イット、イトゥからイヌへ転訛したように思えますから、北方から持ち込んだ言葉とすることができるでしょう。「北方は犬馬多し。」という言葉が中国にあるように、犬は北方系の動物なのです。
●蛇(ウワバミ)はゥラングというような言葉が根底にあって、北から南まで幅広く使用されていたようです。日本語のウワバミのウワがこれに該当しそうです。これは縄文系(マライ・ポリネシア系)のウラーと弥生系のハミが合成されているのでしょう。マオリ語のナーカヒが長いに転ずることを想像するのは容易です。
●水に関しては既に詳しく分析したので省略します。
●魚(イヲ)はハワイ語がイアとなっていて非常に近い。「さかな」もポリネシア系の言葉が起源と考えられます。イカという魚?もいることであるし。
●貝(カイ)は縄文時代の海を支配したポリネシア系から、タイ語や漢語もこのポリネシア系の言葉の転訛でしょう。逆に、ニュージーランドのマオリ族が漢語を取り入れたとするのは無理が多い。フィジー語では二枚貝のことをカイとしているので、これは間違いなく、やはり、縄文の貝塚を作ったのはマライ・ポリネシア系民族です。
●海(ワタ)フィジー語の海がワサなので、やはりポリネシア系が近い。ワタリー、ワタラーなどという語源を想定すれば良いのかもしれません。「うみ」という言葉は「大きな水」という意味でしょう。「アマ(アメ)」は、アが接頭語ならマとなり、ベトナム語のベ(メ)と同源かもしれません。弥生語と考えられます。
●空(ソラ)もマライ・ポリネシア系に起源があるようです。
●木(キ)は「雲南」語彙表で「ケ」とされているベトナム語が一番近い。したがって、弥生語、呉系の言葉と解すればいいようです。キツネをケツネと発音する人もいますから、キとケの転訛は容易です。
●石(イシ)はウイグル語と漢語の呉音(南方語)にシャという音が含まれ、北方からもたらされた言葉かもしれませんが、これと言うわけにはいかないようです。

 縄文時代から重要で、人々がよく口にしたと思われる基本的な単語を選んで比較してみたのですが、弥生系に近いと考えられるタイ語、ベトナム語、漢語より、ポリネシア、ウイグルに結び付くものが多く、やはり縄文時代はポリネシア系海人とアルタイ系山人の融合を想像できます。
 ウイグル語の辞書で目立つのは、動詞の語尾に全て「-mek」、「-mak」が付けられていることです。これは辞書の見出しにするための名詞形だといいます。「patmak」は「入ること」で、「tikmak」は「縫うこと」、「katmak」は「固くなること」を意味します。トルコ語も同じ形です。そして、日本語には「うごメク」、「ざわメク」、「わメク」、「なマク」、「かマク」などメク、マクの付く言葉が多数あって、これを縄文アルタイ系言語の痕跡とすることが出来るのです。「動く」を名詞化したのが「うごめく」で、「騒ぐ」を名詞化すれば「ざわめく」となります。「春になること」が「春めく」です。それが再びその形のまま動詞化して活用しています。マクはマルに転訛するようでもあります。「固マル=固くなること」、「詰マル=いっぱいになること」等。ウイグル語の古代が解りませんが、その根底には同一のものが流れていることを感じさせます。
 「のたまハク」も、述べることを意味する「の」に、授けると言う意味の敬語「たまふ」が付き、さらにそれを名詞化する「マク」が付けられたようです。「のたまひまく」が「のたまはく」と転訛し、「おっしゃることには」という意味になったと解せられるのです。論語の「子曰」は、「子ののたまう」で済むはずなのに、何故「のたまはく」と読まねばならないのか不思議に思っていたのですが、上記のように分解すれば疑問は解消します。論語の古い読みが、理由もわからないまま踏襲されてきたのでしょう。
 アルタイ系のウイグル語には子音の音節が多数あり、日本語の母音で終る音節は、やはりポリネシア系から取り込まれたもののようです。文法がアルタイ系なのに、発音がそうなったということは、当初は、そういう発音の民族、つまり、ポリネシア系住民の方が多数派だったということではないでしょうか。
 単語を借用することは簡単で、分化することも甚だしいのですが、言語というものは本来融合しにくいもののように見うけます。自分達の語法を棄てるということは、思考法を変えることを意味しますから、苦痛を伴うはずです。ポリネシア系住民が、「私は、飼っている、牛を、白い。」と思い浮かべるのを、「私は、白い、牛を、飼っている。」という順に話さねばならないのです。長い時の経過により自然に一つになったと考えるのは苦しく、ポリネシア系住民に対して強制力が働いたこと、何らかの利点があって言語構造を変化させたことを想像するべきでしょう。国と言えるほどのレベルではなかったかもしれません。しかし、縄文時代から階級と組織が存在したことを想定するべきなのです。考古学的にも徐々にその様相が見えてきましたが、言語的にも、縄文時代は、皆が等しく貧しく平等であったとする考えに賛成するわけにはいかないようです。現在想定されているより、はるかに複雑で有機的な社会が浮かび上がってきます。
 弥生人が渡来する以前の縄文時代には、朝鮮半島から日本列島にかけて、東胡の分岐と考えられるアルタイ系言語の民族が幅広く分布していたと考えられます。西域から中国北方を経て朝鮮半島に到る頃には既に小柄な民族と混血しており、さらに半島を降るにしたがって、小柄な南方系民族を吸収して小型化していたと考えれば、縄文人が小柄であることも障害にはならないでしょう。そして、春秋末期に、呉人が朝鮮半島や北九州へ移動したことにより、この民族が分断されるという形がうまれました。
 この呉人は非常に小柄だったようで、ワラという民族の自称が子供を意味するワラベ、ワラシという言葉となって残っています。呉人(倭人)が紀元前473年の呉の滅亡後まもなく国を作り始めたなら、前漢の成立時でさえも既に二百七十年ほど、前漢終末期なら五百年近く経ているわけで、縄文人を吸収していたと考えれば、漢書地理志、燕地の百余国という数字も抵抗なく受け入れることができます。秦が中国を統一してから(B・C221)、漢の成立までは二十年程度しか経ていませんし、前漢終末期に於いても二百年ほどです。秦の滅亡後、日本に渡来した楚人(弁辰)、越人(辰韓)が百余国を作るというのは、最も楽なペースでも、二年に一国の割りで国を増やさねばならないことになり、少々しんどい感じがあります。しかし、同じ漢書地理志、呉地の東鯷人の二十余国なら可能性を認めることができるのです。
 漢代の日本では、呉人(倭人=韓人、カラヒト)が百余国、呉系楚人(東鯷人=秦人、ハタヒト)が二十余国を作り、各地で縄文人を吸収していたと言えそうです。

 

第二章、縄文人の逆襲

一、大和朝廷を縄文系とする根拠

 弥生時代の日本には、縄文人とB・C五世紀以降に渡来した三系統の弥生人が雑居していました。民族、言語、習俗、信仰などの違いに起因するのでしょう、しばしば激しい争いがあり、諸部族の興隆、衰亡が演じられました。以下、崇神(=神武)天皇以降の大和朝廷を縄文系と解した根拠を挙げます。
●風俗が邪馬壱国と大きく異なる。
 魏志倭人伝の分析から明らかになったように、邪馬壱国の倭人は、顔や体に入れ墨し、赤土を塗り、裸足で、頭にハチマキを巻き、広幅の布を結んで衣服にするという南方系の民族、ヤオ族、トゥチャ族、ミャオ族を中心とした越人であり、中国風の占いや、拍手、みそぎという風俗と道教的な宗教も合わせ持っていました。この倭人の風俗は、明らかに後の朝廷の風俗とは断絶があり、かえって、九州辺境の異民族と扱われた隼人(*)との共通点があります。つまり、大和朝廷の大王は、魏志倭人伝に登場する大和の支配者、邪馬壱国の倭人ではないということです。《*隼人/狗人とされ、犬の吠え声を真似る。赤土も塗る。狗トーテムのヤオ族であること間違いなし。》
 「大人を見て敬する所、ただ手を搏ち以って跪拝に当てる。」とされた拍手を例に挙げれば、雄略天皇が葛城の一言主神(葛城氏=秦系の神)に出会ったとき、天皇は拝して(頭をさげる)着物を献じているのに反し、一言主神は手を打ってその奉げ物を受け取っています(雄略記)。つまり、おじぎは縄文系の敬意を表すしぐさで、手を打つ(かしわ手)のが新たに中国・朝鮮から渡来した文・漢人(魏志倭人伝)、秦人(一言主神)の礼儀ということになります。
 魏志は、「言葉をつたえたり、説明したりするときは、うずくまったり、ひざまずいたりして両手を地につけ、うやうやしさを表す。」と記していますが、後漢書は「蹲踞でうやうやしさを表す。」と記すのみで、地に手をつけていません。これも倭の五王の頃の縄文系風俗を写した可能性があります。
●邪馬壱国とは言語が異なる。
 邪馬壱国系の文・漢人は隼人、蝦夷(佐伯)とも呼ばれましたが、隼人との会話には通訳が必要であったといいます。蝦夷もそうで、三代実録元慶(881)五年五月三日に、「陸奥蝦夷訳語、外従八位下、物部斯波連永野に外従五位下を授く。」という記述があります。
 弥生人はミャオ・ヤオあるいはモン・クメール系、タイ系など東南アジアと同系言語、又は漢語方言の使い手なので、アルタイ系に分類される現在の日本語とは、文法が全く異なっています。通訳が必要になるのは当然で、「記、紀」にもその言語の痕跡がわずかながら残っていることは既に指摘した通りです。蝦夷語の通訳が邪馬壱国王家の物部氏であることも、蝦夷と物部氏の同族関係を示しています。
 そうなれば、動詞が最後にくる言語はどこから入ったかということになります。アルタイ系言語の使い手が天下を取ったため、日本語はアルタイ系の文法を中心として、南方系の諸要素が融合する形になったとしか考えられません。つまり、大和朝廷がアルタイ系言語の使い手ということになります。そのアルタイ語族が、いつ頃から日本に居住していたかとなれば、日向の高千穂という往来困難な辺境山岳地帯から出たという伝承を持っています。弥生人が海岸平地部を開拓した後に、新たな渡来者がそれを打ち破って山に入り、再び山を降りたとするのは少し無理があります。したがって、大陸北方のモンゴル族や満州族につながる民族が、弥生時代以前からそこに住み着いていたという結論になり、これは縄文人ということです。
●皇室には姓がない。
 庶民のことはわかりようがありません。しかし、弥生人の王族、貴族階級には確かに姫や騶・芊、段(難)などと表される姓がありました。大和朝廷はその一文字の姓を廃し、隠してしまったのです。和歌山の紀氏は、邪馬壱国(漢系)と対立した狗奴国の後裔(秦系)で、中国、楚の堂谿氏(姫姓)の末裔です。文字が変えられてはいるものの(おそらく強制的に)、キという音を今に伝えていますし、千利休も芊氏の後裔でしょう。利休は堺の住民ですから、おそらくその付近に伝承を持つ大伴氏と思われます。完全に消されてしまったわけではなく、一族の間では伝えられていました。紀氏は初期大和朝廷に対する貢献からその名乗りを許されたのではないでしょうか。小野妹子は唐で蘇(ス)因高と呼ばれたといいます(推古紀)。小野氏は和迩氏の同族で、邪馬壱国の王族、騶(スウ)姓の越王の後裔ということになりますから、スと呼ばれても何の不思議もないわけです。因高は妹子の音を写したものと簡単にわかります。これに対し、大王家であっても、皇室には現在に到るまで姓がありません。古代のモンゴル族、満州族などアルタイ系言語の諸民族と同じで、より古い縄文の習俗を残していると解釈できるのです。
●皇室のトーテムが狼らしきこと
 以下、欽明紀です。「欽明天皇は継体天皇の嫡子である。…天皇が幼い頃、夢に出てきた人がこう言った。『天皇が秦大津父という者を寵愛なされれば、壮年になった時、必ず天下を得ることができます。』 目が覚め、驚いて使者を派遣し各地を捜させると、山背国、紀郡、深草里で大津父を見つけることができた。姓名は夢に見た通りである。喜んで、この夢のことを大津父に話し、『汝に何か思い当たることはないか。』と尋ねると、『これといって有りませんが、ただ、私が伊勢に行って商いし、戻ってくる途中、山で二匹の狼が闘い、血に汚れているのに出逢いました。そこで、馬を下り、口と手を洗ってすすぎ、祈ってこう言いました。”あなたがたは貴い神であるのに荒々しいことを好まれます。もし猟師に逢えばあっという間に捕えられてしまいますよ。”そして、戦いを押しとどめて、血の着いた毛を拭き、洗って、放してやりました。ですから、どちらも命には別状ありませんでした。』と大津父が答えた。天皇は『きっとその報いだ。』と言われた。そして、近く召し抱え、寵愛されることは日々新たで、大津父は大いに栄えた。欽明天皇が即位されると、大津父は大蔵省に任命されたのである。」
 継体天皇の後は長子の安閑天皇が継ぎ、その後を次子の宣化天皇が継いだことになっています。しかし、「紀」には注が入れられていて、百済本紀に、継体天皇と皇太子が共に薨去したという記述があると記していますから(現在の百済本紀には見えない)、実際は、継体天皇崩御と同時期に皇太子のマロコ皇子まで薨じたため、王位継承のいざこざが起った様子です。安閑天皇の即位まで二年間の空白が見られます。

 

 秦大津父はこの紛争を解決し、幼少であったが母親の地位が最も高位で、支持者も多かったと考えられる欽明天皇に到るまでの筋道を付けたようです。皇族間で争っていると誰か(新羅)に漁夫の利をさらわれますよと説得したのです(新羅から奪った任那の一部を取り返された)。つまり、争って血まみれになっていた二匹の狼が安閑、宣化天皇を指すわけで、狼がそのトーテムということになります。これはモンゴル族の始祖伝承にある青い狼につながっていて、皇室をアルタイ系、縄文系とすることに合います。継体天皇は応神天皇の子孫とされています。秦大津父は、その功績により抜擢されて大蔵省に任命されたわけですが、山城の紀郡、深草の居住者、おそらく首長であることは、秦氏がキ、クサと結び付くことの証明ともなるでしょう。元々、地位が低かったと考えられる藤原氏の直接の祖先は、注意深く隠されていますが、この大津父です。
●皇室が独自の神祇体系を持たないこと。
 祖神とされる伊勢神宮の太陽神は邪馬壱国の壱与です。母系から入った神で、八百万という神々がいながら、皇室独自の神は存在しません。これも皇室が縄文系の素朴な自然信仰に従っていたためで、弥生系の神祇(人格神)に属していなかったとすれば理解できます。
●匈奴、夫余(胡)と共通の風俗を持つこと。
 父親の死後、息子がその後母を娶る、兄が死ねば弟が兄嫁を娶るという習俗は大陸の北方系民族と共通です。神武天皇の死後、その子のタギシミミ命が嫡后(大和で娶った後妻)のイスケヨリ姫を娶ったとされていますし、開化天皇が庶母の伊香色謎命を立てて皇后としたという記述があります。そして、崇神天皇が生まれていますから、崇神天皇は縄文系風俗から生まれたことになります。
 敏達天皇の死後、その妻の炊屋姫皇后(後の推古天皇)を犯そうとして、穴穂部皇子が殯宮(もがりの宮)に押しかけたが失敗したという記述もあり、穴穂部皇子は敏達天皇の庶弟なので、その兄の妻を手に入れようとしたと解釈できます。しかし、未亡人の側にも選ぶ権利があったのかもしれません。
●壮を貴び老弱を卑しむというこれも狄や匈奴につながる風俗を持っていたらしきこと。
 「昔おはしましける帝が若き人のみをお考えになって、四十過ぎの者を追放した。」という記述が枕草子に見られます。これもそういう伝承が残っていたのではないか。縄文人が濃厚だったと思われる長野県の姥捨て伝説につながること。邪馬壱国に該当しないことは既に記したとおりです。

二、大和朝廷の九州時代

1、天降りと笠沙進出

 大和朝廷は日向、高千穂の山中から出ました。記、紀では、霧島山系の高千穂峰とみなされていますが、これは山が立派で、後に都が置かれた笠沙(鹿児島県加世田市)に近いという事情に拠るのでしょう。実際は、宮崎県臼杵郡の高千穂です。
 この一族を新たな渡来人と想定すれば、弥生人が海岸平地部を支配しているのに、それを打ち破って山中に入り、再び降りてきたという扱いになって不自然ですし、周辺に親戚筋の同系部族らしきものも見当たりません。孤立していて民族移動の痕跡や伝承がなく、この九州南部の奥山に至るまでの過程を全くたどれないのです。したがって、この人々は、倭人が渡来する弥生時代以前から、つまり縄文時代から、高千穂に定住していたと考える他はありません。

 日向国風土記逸文は次のように言います。
「臼杵郡内、知穂郷。天津彦彦火瓊々杵尊(以下、ホノニニギ尊と略す)は天の磐座を離れ、天の八重雲を押しのけ、威風堂々と道を開いて、日向の高千穂の二上峰に天降った。その時、天は真っ暗で昼夜は別れず、人は道を見失い、物の色は別ち難かった。ここに、名を大鉏、小鉏という二人の土蜘蛛がいて、皇孫にこう進言した。『あなた様のお手で稲千穂を抜き、籾となして四方に投げ散らせば、必ず天は開晴するでしょう。』この大鉏たちの言葉に従い、千穂の稲を摺り揉み、籾となして投げ散らすと、天は開晴し、日月は光を照らした。因って、高千穂の二上峯という。後人は改めて智鋪と号した。」

 高千穂に稲籾が播き散らされて、暗闇に包まれていたこの土地は明るく開けました。ホノニニギ命にそれを進言した土蜘蛛とは、稲作を伝授した韓人(呉人)のことでしょう。縄文期の長い時間、高千穂山中で停滞していた大和朝廷の祖先は、弥生時代をもたらし、前漢代に百余国を作ったという韓人(呉)の文化を導入することで発展、融合して一つの文化圏を作っていたと考えられるのです。神武天皇の長兄が五瀬命(=ゴ)という名を与えられているのも、高千穂を流れる川が五ヶ瀬川であるのも、そのことを示唆しています。
 記、紀では、根の堅洲国へ向かうことになった須佐之男命は、姉の天照大神に別れの挨拶をするため高天ヶ原へ昇ったとされています。その時、山川は悉く動き、国土は皆震えるという勢いで、国を奪いにきたに違いないと、高天ヶ原は緊張に包まれました。このあたりは実際の高千穂の歴史が投影されていて、「父母が既に諸々の子を任命し、それぞれその境界がある。何故、就くべき国を捨て置いて、あえてここを窺うのか。」という天照の非難の言葉は、「山と海に住みわける約束なのに、何故だ。」という縄文人の叫びでもあったでしょう。結局、五ヶ瀬川を遡って高千穂(高天ヶ原)に侵入した須佐乃男の一族は撃退され、逆に、縄文人がその勢いを駆って山を降り(天下り)、日向全域を手中に収めたのです。
 このことは、天神達が須佐之男に千位の置戸(多額の賠償)を負わせ、髯を切り、爪を抜いて高天ヶ原から追放した。ホノニニギ命が、地上から迎えにきた猿田彦の案内で、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(クジフルタケ)に天降ったという記、紀の記述から読み取ることができます。
 「記」では、猿田彦は、上は高天ヶ原を照らし、下は葦原中国を照らすという神で、青山や川、海を干上がらせた須佐之男と同じ太陽神の性格をほの見せています。「紀」では、口尻が明るく照り、目は八咫の鏡の様に大きく、赤かがち(ほおづき)の如く真っ赤に輝いているとしており、こちらは須佐之男の退治した八俣の大蛇の目と同じ表現を採っています。八に関係する須佐之男自身が八俣の大蛇なのです。山川は悉く動き、国土は皆震えるとされ、須佐之男は地震神の性格も持っています。
《注…八俣の大蛇/尾から草薙の剣を出すのは、地震鯰が尾に剣を持つことに通ずる。秦系要素。八俣の大蛇も秦系。草薙は倭国大乱時に草=呉人を薙いだという意味らしい。赤い目は兎と雉につながる。》
 したがって、天孫を下界へ案内したという猿田彦を、高天ヶ原での戦いに敗れて下界へ追放された須佐之男(虁=猿、牛、蛇トーテム。秦人)に重ねて問題ありません。高千穂を窺い敗れた秦人は、天孫に臣従し、先導者となって日向(下界)の情報を提供したのです。
 須佐之男の高千穂侵入は、おそらく、女王、壱与時代の出来事でしょう。日向一の宮の都農(ツノ)神社の祭神がオオナムヂ神であることは、日向にまで邪馬壱国の勢力が及んでいたことをうかがわせます。都農はもちろん鹿の角です。そして、五ヶ瀬川下流部の延岡市にも三輪神社が存在しています。延岡市北方の北川流域には須佐という地名が見られるので、日向の邪馬壱国系の首長が須佐の男(=須佐之男)に高千穂襲撃を命じたと想像していいのではないでしょうか。須佐では熊野神社が祭られていて、秦系に分類した神祇と一致しています。
 妹・兄にして夫婦という苗系要素を持つ神、伊邪那美と伊邪那岐の生んだ筑紫島(九州)は、「身一つにして面四つ有り。筑紫国は白日別といい、豊国は豊日別。肥国は建日向日豊久士比泥別。熊襲国は建日別という。」とされており、日向国(宮崎県)は含まれていません。これは、日向が邪馬壱国の版図から外れていたことを示しており、大和朝廷の祖先が掌握していた証左とできます。《注…筑紫国/築前、筑後=福岡。 豊国/豊前、豊後=大分。 肥国/肥前、肥後=佐賀、熊本。 熊襲国/熊本南部、鹿児島》
 ホノニニギ命は高千穂を降りて笠沙の岬に到ったといいますから、縄文人は、その後さらに、鹿児島県西南端にまで勢力を伸長しました。ということは、宮崎、鹿児島両県を版図に収めたわけです。
 命がたどり着いた野間半島は、野間岳を頂点に長い平坦な稜線が続き、遠望すると笠のような形に見えるので笠沙の名が与えられています。沙は吹上げ浜の砂丘の砂です。長い屋根の中央部が尖って突き出しているとも見えるので、野間岳は長屋の高(竹)島でもあるようです。 ニニギ命がそこに登って廻りを見回すと、事勝国勝長狭という神がいました。又の名を塩土老翁(シオツチノヲヂ)といいます。この長狭が国を譲ったので、天孫は笠沙に居住することにして、大山津見神の娘、木花之佐久夜毘売(神阿多都比売)を娶り、火照命、火須勢理命、火遠理命を生みました。
 実際の歴史を考えれば、木花之佐久夜毘売は、この国の首長、事勝国勝長狭(塩土老翁)の娘に違いなく、長狭は大山津見神(伊予大三島の神)を祭る文・漢系(邪馬壱国)の一族ということになります。
 おそらくこの地は、八代から南下してきた秦人(東鯷人、楚人、熊襲)が開拓し、中国江南(韓国、カラクニ=この場合は漢(カラ)の呉地)との交易で栄えていたのでしょう、壱与時代になって、新たに邪馬壱国の文、漢人(越人)が進出し、首長になっていたと考えられます。加世田市には白亀(シラカメ)という地名が見られますが、これはシラキ(新羅)で秦人の居住地のようですし、高橋という地名もあって、こちらは大彦から分れた氏族名に見られ、文・漢系地名とできます。
 新撰姓氏録の坂合部氏は、大彦や火明命、火酢芹命(「紀」の海幸彦=隼人)の後裔とされていますが、「記」では、坂合部連は筑紫三家(三池)連、大分君、阿蘇君、火君など九州の有力豪族と同祖で、神八井耳命の後となっています。筑紫国造も大彦の子孫とされているので、全て文・漢系氏族です。したがって、神八井耳命(*)後裔という火や阿蘇の首長も、実際は、坂合部氏と同じ大彦の後裔らしいのです。火国から南下した笠沙に同系の首長(高橋)がいてもおかしくありません。《*神八井耳命/崇神天皇以前は邪馬壱国=文・漢氏の王家とその氏族。ヤイはタイ語で「大きい」という意味なので、大耳、つまり犬の表現と考えられる。 リンク「系統別新撰姓氏録」
 以上を総合すると、坂合部氏の祖は、笠沙周辺を支配する阿多の隼人と呼ばれた文・漢人で、大彦後裔の高橋氏と同系、それが、この加世田市の高橋という地名に残ったとすることができます。つまり、邪馬壱国時代の笠沙の首長、塩土老翁は大彦(壱与の兄)の子孫です。
 ホノニニギ命は、加世田市を中心に国を作っていたその文・漢人を傘下に収め、首長の娘を娶りました。ここに都を置いたのは、やはり、中国貿易の利を求めたからでしょう。

 

「紀」では、ホノニニギ命の子は(火明命)、火酢芹命、彦火火出見尊の三兄弟、あるいは兄弟となっていますが、「記」では、上記の系譜でこちらが原型です。この後、話は火照命(海彦)と火遠理命(山彦)の対立となって展開していき、火須勢理命に関する記事は全く見当たらず、何の為に挿入されたのか、この場面のみを読んでいる限りでは理解不能です。しかし、須佐乃男の娘に同じ文字の須勢理毘売が見られることから、原初は、秦人(楚人)の祖先を念頭に置いて、火須勢理命を組み入れたものと解釈できます。
 笠沙には三系統の民族があり、秦人(呉楚、新羅)が下に置かれ、縄文人(山彦)と大彦系の文・漢人(海彦、阿多の隼人、越)が張り合って縄文が勝ち、その文・漢人の首長の娘を娶って笠沙を支配したわけです。韓人(呉)は存在していたとしても既に下層民として吸収、同化され、意識されない存在になっていたのでしょう。
 兄の火照命は海幸彦となって魚を取り、弟の火遠理命は山幸彦となって獣を取って暮らしていましたが、同じ毎日の繰り返しに飽きた火遠理命は、お互いの幸を代えてみようと言い張り、道具を交換して海へ行きました。しかし、慣れない魚釣で一匹も釣れなかったあげく針をなくすという体たらくです。元々、乗り気ではなかった火照命が、「やはり自分の幸がいい。針を返してくれ。」と言えば、弟は「無くしてしまいました。」とうつむくしかありません。烈火の如く怒った兄が、「無くした元の針を返せ。」と無理難題を押し付けたので、火遠理命は海辺で頭を抱え込んでいました。ここで、川雁(*)に姿を変えていたという塩椎神(塩土老翁)が登場して、解決策を教えてくれるのです。竹を固く編み、水が入らないように編目を潰した船を作って、海底の綿津見神の宮へ行けといいます。《*雁/葬儀のキサリ持ち=越系の鳥ということになる。お供えを持つ係。姫氏を去り持つのか?大彦後裔の若桜部氏の祖先に伊波我牟都加利命、膳大伴部の祖に磐鹿六雁命がいる。狗奴国王姫氏を中国へ奴隷として献上したのは掖邪拘なので、これも大彦系かもしれない。》
 この綿津見の宮で、火遠理命は綿津見神の娘、豊玉姫を娶りました。針は鯛(鯛女、赤女)が呑み込んでいたのを取り戻したのですが、ここでも鯛(タイ=楚=秦人)と針が結び付いていることに気づかねばなりません。また、この針は貧しくなるように呪詛して火照命に返されるので、火照命(文・漢人=蛇)とは相性の悪いものとなります。鯛を鯔(ボラ=口女)と変えている伝承もあるので、鯔も秦系要素に分類することができそうです。
 綿津見神は、「火照命と高低が逆の位置に田を作りなさい。そうすれば、私が水を支配しているので、日照りにしたり、大雨を降らせたりして、あなたを困らせること無く、三年の間にその兄を貧窮させることが出来ます。それを恨んで攻めて来たなら鹽盈珠を出して溺れさせ、降伏したなら鹽乾珠を出して助けてやりなさい。」と教え、二つの珠を火遠理命に授けて、帰りを一尋和迩に送らせました。海水を制御する二つの玉は、潮の満干を左右する月から想起されたもので、水神の龍が玉を持つのも同じ理由です。綿津見神はあらゆる水を支配する神なのです。また、ワニ(鮫)を使いとする文・漢系の神ということも示しており、この神をオオナムヂ神に重ねていいのでしょう。話を単純化するために省いてしまいましたが、俵藤太にムカデ退治を頼んだ鹿蛇も琵琶湖湖底の竜宮城に住んでいるのです。
 火遠理命が綿津見神の言葉に従い呪詛して針を返した後に、言われた通りの出来事が起こり、水に溺れた火照命は、「私の子孫は末代まで、あなたの俳人(わざひと)や犬人となって仕えます。」と誓ってようやく許されました。それで、この火酢芹尊(=海彦=「記」の火照命)の苗裔の諸々の隼人は、天皇の宮墻の側を離れず、犬の吠え声を真似て宮を守ったり、褌をして、赤土を手のひらや顔に塗り、身を汚して俳優となっているのだといいます。
 隼人とは、自らを犬(=狗=槃瓠)の子孫とするヤオ族で、魏志倭人伝に、中国でおしろいを使うように体を赤く塗ると記された邪馬壱国の一族、文・漢人なのです。犬は足が速いと表現されるがゆえにハヤト=速い人となります。
《注 …ウイグル語で、犬が「it」、速いが「ittik」となっていますから、犬を速いとするのは縄文人の発想でしょう。猿は手長、雉は目染と表現され、これはメソメソという擬態語の語源と考えられます。中国では猿が速いと表現されています。》
 犬に関係する氏族として、犬飼氏がいますが、神魂(=秦)系とする県犬飼氏を除いて、安曇犬飼、若犬飼、阿多御手犬飼、海犬飼の各氏は文・漢系です。県犬飼氏は、後に、藤原不比等の妻、県犬養美千代が橘という姓を授けられているので、楚(秦)系として問題がなく、狗山をする一族と解しました。他、近江の犬上氏は日本武尊に系譜を結び付ける犬上朝臣と天津彦根命の後とする犬上県主がありますが、後者は額田部氏同族の文・漢人と考えられます。犬上朝臣は犬上という地名の土地に天下った縄文系と考えられるのですが、これも母系で文・漢氏につながっているのかもしれません。

2、蝦夷と隼人

 魏志倭人伝では、邪馬壱国には七万余戸があると記されていました。住民全てが文・漢系というわけにはいかないでしょうが、高市郡(現橿原市、明日香村、高取町)では十中八、九が漢人だったとされています。この人々が大和朝廷時代になって忽然と消えてしまったはずはありません。記、紀などの歴史書には、邪馬壱国の住民と同じ習俗を持つ人々がしばしば登場します。入れ墨し、特徴のある大きな盾を使い、矛が得意で、竹細工にすぐれ、赤土を顔に塗り、訳の解らない言葉をしゃべる。大和朝廷(縄文系)はこの人々を隼人と呼びました。
 記、紀のおかげで、隼人は南九州の辺境に住んでいた文化の遅れた民族という印象を植え付けられてしまいましたが、実際はそうではありません。中国から新しい文化を伝え、日本の各地に散らばってそれを広めた、当時、最も先進的だった人々なのです。古事記や日本書紀が、勝者の側の歴史書であることを忘れてはなりません。大和朝廷に敗れ、その下に置かれた弥生人は、注意深く歴史の背後に隠されました。隼人や蝦夷という言葉は、中国の歴史を学び、中華思想が輸入されて後に作り出された言葉で、その起源は記、紀をそれほど遡るものではないでしょう。
 中国を真似て、狭い日本の中で、皇室中心に中華を構成すると、周辺部にはそれを慕って朝貢する文化程度の低い異民族を配する必要があります。異民族は存在します。異なる言語、文化を持つ弥生人達です。ただ、その首長階級は大和朝廷においても、重要な役割を持つ大豪族であり、彼らを隼人や蝦夷と呼んで低い地位に置くわけにはいきません。それらの人々も政権内で成功するために、積極的に自らの習俗を捨てていたと考えられますが、それでも、久米氏、安曇氏に入れ墨に関する記述が見られます。入れ墨は、部族の精神的な絆ですから、それを消すというのは、仏教の普及が最も大きな影響を与えたかもしれません。
 犬(足が速い)トーテムを前面に出して隼人と呼び、蛇トーテムを前面に出して蝦夷(エミシ、エビス)と呼んだだけのことではないでしょうか。《注…古語は帯、紐を「えび」としている。また、エビカヅラ=山ブドウという蔓植物もある。》
 したがって、畿内各地で隼人や蝦夷の居住の証拠が見つかっても、あわてるには及びません。元々、そこの住民で弥生文化の担い手なのです。いちいち大和朝廷に強制移住させられたことを想定する必要はないのです。日本の中心部を隼人や蝦夷が闊歩すれば、中華思想が破綻する。それ故、辺境部の被征服民を移住させたように装われました。
●景行天皇時代の記、紀の記述を鵜呑みにするわけにはいきませんが、各地の現実や伝承を、大和朝廷の歴史の中に破綻なく組み込もうと努めているので、参考になる部分も多くあります。そこには蝦夷も登場します。
 「武内宿禰は東国より帰ってこう奏言した。『東夷の中に日高見国があります。その国人は男女とも椎結して、体に入れ墨をしています。人となりは勇敢で、これを全て蝦夷といいます。……(景行紀)』」
 東方の蝦夷は椎結、入れ墨の民族とされていて、これはアイヌのイメージではなく、邪馬壱国の倭人のイメージです。
 「日本武尊が東北で捕え、伊勢神宮に献上した蝦夷が騒ぐので、それを三輪山の辺りに移したが、そこでも同じように人民を脅かした。天皇は、『蝦夷は本より獣の様な心を持っている。中国には住ませ難いので、蝦夷の願いのままに畿外に侍らしめよ。』とのたまった。『これ今、播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波、凡そ五国の佐伯部の祖なり。』」
 上記のような記述もありますが、これは、瀬戸内や阿波に蝦夷の後裔という佐伯部が多数居住しているという事実があって、その辻褄を合わせようとした苦心の文章であると解ります。佐伯氏は、大伴氏と同族で高皇産霊神の後裔とされていますから、蝦夷を文・漢人とすることに矛盾はありません。坂上系図では、漢人は人数が増えて土地が狭くなったため、高市郡から摂津、三河、近江、播磨、阿波等に移住したとしています。これも代表として五国を挙げただけのことで、実際、蝦夷は何処にでもいました。蝦夷、隼人と表されるか、文人や漢人と表されるかの違いでしかないのです。また、畿内を中国と呼んでいることから、中華思想を濃厚に感じ取れるでしょう。
●「雄略天皇は、いとこの市辺押磐皇子を暗殺した。市辺押磐皇子の二人の子、意祁王と袁祁王が危険を察知して大和から逃がれる途中、山代の刈羽井(京都府綴喜郡の木津川流域)で乾飯を食べていると、面鯨老人が現れて、その乾飯を奪ってしまった。」、「おまえは誰か。」という問いに、老人は「俺は山城の猪飼いだ。」と答えています(雄略記)。
 猪飼いというのは、豚を飼っていたのですが、面黥老人と表現されていて、顔に入れ墨をした倭人なのです。この老人は後に袁祁王が顕宗天皇として即位した時、捜し出されて、飛鳥河の河原で斬られ、その一族は膝の筋を断たれた。「是を以って、今に至るまで、その子孫が大和に上るときは、必ずびっこをひく。」となっていて、顕宗天皇時代から書紀の編纂時まで、その子孫はきっちり捉えられていたようです。ただ、一族の膝の筋を切ったから、それを真似てその子孫もびっこをひくというのは疑問で、これはヤオ族の「禹歩(*)」の表現のように思えます。
《*禹歩/「抱朴子」に見られる禹歩は不老長生法の一つ。これも鬼道に含まれていたであろう。禹は越の祖先とされる太古の帝で、足が萎えていたという。その真似をした。ヤオ族が禹歩をすることは「伏犠考(聞一多著)」に記されている。》
 雄略天皇の頃、顔に入れ墨をした隼人か蝦夷かが、山城で豚を飼っていました。しかし、そのはるか以前から山城に住みついていたと考えて差し支えないでしょう。二人の王子は山城の刈羽井で食料を奪われた後、楠葉の川(淀川)を渡って播磨国へ逃がれたとされており、刈羽井とは京都府相楽郡の綺田(カバタ=刈羽田)と綴喜郡の井出(イデ)の境界あたりを指すようです。ここに渋川という地名があり、これは物部守屋の別業の地名(河内志紀の渋河)に一致しますし、和歌山県伊都郡かつらぎ町の蟻通神社の所在地も渋田荘です。和迩氏と同族に柿本氏がいて、柿に渋はつきものですし、春日社記は、鹿島の建御雷神は鹿に乗り、柿の木の枝を鞭にして春日に垂迹したとしている等、つまり、柿、渋はワニ系、文・漢系の要素なのです。面黥老人もこの渋川の隼人と解すれば筋が通ります。
●「三輪の君、逆は隼人をして殯(もがり)の庭を防ぎ(穴穂部皇子を)よせつけなかった。(敏達紀14年)」
 敏達天皇の死後、弟の穴穂部皇子が敏達天皇の妻、炊屋姫皇后(後の推古天皇)を手に入れようとしたのですが、三輪君逆が皇后を守りました。三輪君逆は、三輪神を祭るため崇神天皇が捜し出したという大田田根子の子孫で、邪馬壱国の王家の血筋です。したがって、当然ながら、その配下は魏志倭人伝に描写された邪馬壱国の住民、ヤオ族で、それが隼人と呼ばれています。わざわざ南九州から連れてきたことを想像する必要はありません。大田田根子や多氏もその音からみて大彦後裔の可能性が濃厚です。
●敏達天皇十年には、辺境で反抗した蝦夷の頭、綾糟等を都に召して、服属を誓わせています。綾糟等は泊瀬川の中に入り、三諸岳(三輪山)に向かって、水をすすって言います。「私をはじめ蝦夷は、今後、清き明らかな心をもって天皇に仕えます。もし、誓いを破れば、天地の諸々の神や天皇の霊が、我々を滅ぼします。」
 なぜ、蝦夷が三輪山の神に誓わねばならないのか。それは、この神が他ならぬ彼らの祖神だったからです。口に出したからには、実現しても文句は言えない。口から出た言葉は、発信した人の思惑を離れて自ら生命を持ち、人の運命を左右するに至る。だから、それを言霊と言うのです。蝦夷とは、オオナムヂ神を信仰していた文・漢人です。綾糟という首領の名も漢人と春日が合成されていますし、現在でもオオナムヂ神を祭る社が蝦夷の国とされた東国に数多く見られます。蝦夷が恵比寿(=事代主神=大国主神の子)に重なるのは言うまでもないことです。
 以上、大和朝廷と対立した隼人、蝦夷は、邪馬壱国と同族の文、漢人(越人)であることを明らかにしました。後に秦系、韓系、縄文系、アイヌを含めた東国のまつろわぬ部族全てを蝦夷としたため、アイヌと混同されてしまったわけです。隼人、蝦夷は中華思想を構成するうえでの修辞にすぎません。「紀」に粛愼(みしはせ)という民族がしばしば登場しますが、北海道(渡りの島)に拠点があり、ヒグマの毛皮を蓄えていて、こちらにアイヌを感じます。

  続き、「縄文の逆襲、2」