隋書俀(倭)国伝


隋書俀国伝

 隋書は唐の魏徴撰。唐の二代目、太宗(李世民)の貞観二年(628)、学者を率い、数年かけて戦乱の間にバラバラになってしまった四部書(経、史、子、集)を校訂したとされている(旧唐書魏徴伝。新唐書では貞観三年)。隋書もこの間に編纂された。魏志倭人伝の「壱与」を「台与」と記す梁書(姚思廉撰)の編纂にも魏徴が関与している。


俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居 魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王 夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近
「俀国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在り。山島に依りて居す。魏の時、中国に訳通するは三十余国。みな王を自称す。夷人は里数を知らず。ただ日を以って計る。その国境は東西五月行、南北三月行にして、それぞれ海に至る。地勢は東高く、西は下。邪靡堆に都する。すなわち、魏志いうところの邪馬臺なる者なり。古(いにしへ)は云ふ、楽浪郡境及び帯方郡を去ること、並びて一万二千里。会稽の東に在りて、儋耳と相近しと。」

「倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。山の多い島に居住している。魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。夷人(倭人)は里数を知らない。ただ日を以って計算している。その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。地勢は東が高く西が低い。邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)である。昔は、楽浪郡境(後漢書、この頃帯方郡は存在しない)及び帯方郡(魏志)から一万二千里離れていて、會稽(郡)の東にあり、儋耳に近いと言われていた。」

 最初は、他の史書と同様、地理関係の情報が整理されている。魏の時と書いているが、三十余の友好国はみな王を称していたと記すなど、魏志ではなく、少し異なる後漢書の記述を採用している。魏志は「都は邪馬壱国」と書き、後漢書は「邪馬台国」と記す。隋代に、日本から遣隋使が派遣され、都の所在地は「ヤマト」だと明らかになった。魏志より後漢書の方が正確、信頼がおけるというのが、魏徴のチーム、つまり、当時の中国の評価だったのである。それは現在に至るまで変わっていないだろう。魏志の邪馬壱は単なる転写間違いと考えられ、古田武彦氏が現れるまで、問題になることはなかった。しかし、様々なデータを勘案した結果、古田氏の指摘どおり「邪馬壱国」が正しいという結論が出せている。詳細は「魏志倭人伝から見える日本1,邪馬台国か邪馬壱国か」「邪馬壱国説を支持する史料と解説」へ。記、紀に、名前の交換伝承を記された神功皇后により、各地の地名の変更が行われた可能性がある。
 倭人は里数を知らないということは、魏志倭人伝に書かれた里数はすべて帯方郡使の想定した里数ということになる。魏志の日数で書いた記述は倭人からの伝聞か、その方法にならったかということになるだろう。
 弥生時代初期、米作はすでに青森にまで展開しているし、崇神記には、ヤマトから北陸へ派遣された大彦と東海へ派遣された建沼河別が会津で出会ったという伝承が記されている。東北まで人が往来していたわけで、古代から本州が島だという認識はあったのではないか。しかし、「東西五ヶ月行、南北三ヶ月行で海に至る」という記述は魏代の伝承ではなく、隋代に新しく得られた知識と思われる。魏志、後漢書にないことが、他の文献に残されていた可能性は少ない。
 魏志言うところの「邪馬台」と書いてあり、この記述を鵜呑みにして、魏志も元々は「邪馬台国」と書いていたとするのが通説だが、疑義があることは上に述べた。後漢書を重んじ、魏志を軽んじているのは、魏に関する記述なのに、内容の異なる後漢書の文に置き換えていることから明らかである。


漢光武時遣使入朝自稱大夫 安帝時又遣使朝貢謂之俀奴国
「漢、光武の時、使を遣はして入朝し、大夫を自称す。安帝の時また使を遣はし朝貢す。これを俀奴国と謂ふ。」

「(後)漢の光武帝の時、使者を派遣して入朝し、大夫を自称した。安帝の時、また遣使して朝貢した。これを俀奴国といった。」 

 ここからは、後漢書に記された倭国の歴史を整理している。後漢書には、光武帝の建武中元二年(57)に倭奴国が遣使してきたと書いてある。倭奴が隋書では俀奴になっているから、隋書俀国伝も倭国伝だとわかる。当時は「俀」という文字が用いられていたのであろう。翰苑や倭人字磚にも「倭」ではなく、少し異なる文字が書かれている。餧(ヰ)、餒(ダイ)という文字がある。同じく「飢える」という意味である。捼(ダ)と挼(ダ)も「もむ」という意味で同字である。萎(ヰ)、荽(スヰ)も同字。緌(ズヰ)と綏(スヰ)も「冠の紐」という同じ意味を持つ。このようにたくさん見られるのは、元々、異体字だったものが、そう認識されずに、音を変えて現在まで伝わったのか、あるいは、「委」と「妥」を混同して使用するケースが多かったのかということになるだろう。倭と俀も同字の異体である。
 安帝の時に遣使したのは倭国王帥升等とされていて、倭奴国ではない。隋書は同一視しているが、まとめた際の勘違いである。宋本通典には「倭面土国王師升」、翰苑の後漢書引用では「倭面上国王師升」になっている。魏徴の使用した後漢書は、現在のものと同樣で、すでに面土が省かれていたと思われる。そうでなければ、こういう記述は生まれない。


桓霊之間其國大亂遞相攻伐歴年無主 有女子名卑彌呼能以鬼道惑衆 於是國人共立為王 有男弟佐卑彌理國 其王有侍婢千人 罕有見其面 唯有男子二人給王飲食通傳言語 其王有宮室樓觀城柵 皆持兵守衛 為法甚嚴 自魏至于齊梁代與中国相通
「桓霊の間、その国大いに乱れ、遞(たが)ひに相攻伐し、歴年主無し。女子有り。名は卑弥呼、鬼道を以って能く衆を惑はす。ここにおいて、国人は共に立てて王と為す。男弟有りて、卑弥を佐け国を理む。その王、侍る婢千人有り。その面を見る有るはまれなり。ただ男子二人有りて、王に飲食を給し、言語を通伝す。その王に宮室、樓観、城柵有り。みな兵を持ちて守衛す。法を為すこと甚だ厳し。魏より、斉、梁に至るまで、代、中国と相通ず。」

「(後漢の)桓帝と霊帝の間に、その国は大きく乱れ、互いに攻撃し合い、長い間、主導者がいなかった。卑弥呼という名の女性がいて、鬼道でうまく衆を惑わした。国人は共立して王にした。弟があり卑弥を助けて国を治めていた。その王には侍女千人がいる。その顔を見たものはほとんどいない。ただ男子二人がいて、王に飲食を供給し、言葉を通し伝えている。その王には宮室や樓観、城柵があり、みな兵器を持って守衛している。法の適用は、はなはだ厳しい。魏から斉、梁に至るまで代々中国と交流していた。」

 魏志、後漢書とも、卑彌呼の食事の世話をしているのは一人の男子で、ここで二人というのは転写間違いと考えられる。「桓霊の間」や「法がはなはだ厳しい」というのは後漢書のみに見られる記述で、魏志にはない。


開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言 俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰此大無義理 於是訓令改之
「開皇二十年、俀王、姓阿毎、字多利思北孤、号阿輩雞彌は使を遣はし闕に詣る。上は所司をしてその風俗を訪はしむ。使者は言ふ。俀王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天が未だ明けざる時に出でて政を聴き、跏趺して坐す。日出ずれば、すなわち理務を停め、我が弟に委ねむと云ふ。高祖曰はく、これ大いに義理無し。ここに於いて、訓じてこれを改めしむ。」

「開皇二十年、倭王の姓”アマ”、字”タリシホコ”。号”アハケミ”が遣使して宮中にやって来た。お上(高祖)は所司(担当官)に命令して、その風俗を訪ねさせた。使者は言った。”倭王は天を兄とし、日を弟として、天がまだ明けない時に出て政務を聴き、跏趺して坐っています。日が出ると事務処理をやめ、我が弟に委ねようといいます。” 高祖は”これはあまりにも筋の通らないことだ。”と言い、さとしてこれを改めさせた。」

 開皇二十年(600)は推古天皇の八年にあたる。この年に遣隋使の記録はないが、中国側の記録の正確さや、ウソをつく理由がないことなどを考慮して、隋書を信じるべきであろう。逆に言えば、日本書紀はウソを書く理由があると言うことである。
 姓と字の「アマタリシホコ」は「アメタラシヒコ」の聞き取り誤差。号の「アハケミ」は「オホキミ」の聞き取り誤差である。「アメタラシヒコ」は「天から降りてきた男」という意味で、中国語で言うなら、翰苑にある「天児(天の子)」ということになるが、翰苑は誤解して、大王を表す「アハケミ」を天児の称号だとしている。「ヒコ」なので、大王は男である。聖徳太子ということになる。跏趺は足の甲を反対側のももの上にのせる座り方。僧にならったもので、仏教の浸透がうかがえる。


王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子為利歌彌多弗利 無城郭 内官有十二等 一曰大德 次小德 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數 有軍尼一百二十人猶中国牧宰 八十戸置一伊尼翼如今里長也 十伊尼翼屬一軍尼
「王の妻は雞彌と号す。後宮は女、六、七百人有り。太子を名づけて利歌彌多弗利と為す。城郭無し。内官は十二等あり。一は大徳と曰ふ。次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信。員は定数無し。軍尼一百二十人有り。なお中国の牧宰のごとし。八十戸に一伊尼翼を置く。今の里長の如くなり。十伊尼翼は一軍尼に属す。」

「王の妻は”ケミ”と号する。後宮には女性が六、七百人いる。太子を名づけて”リカミタフリ”としている。城郭はない。内官(中央官僚)には十二等級がある。一を大徳という。次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信である。人員の定数はない。軍尼(クニ)一百二十人があり、中国の牧宰(官名)のようである。八十戸に一人の伊尼翼を置く。今の(中国の)里長(官名)のような役職である。十の伊尼翼が一つの軍尼に属している。」

 王の妻は「キミ」と呼ばれていた。妻のいる王は、当然、男である。太子は「利歌弥多弗利」だが、タラシヒコをタ利シホコと聞いているから、利はラ音の可能性がある。ラカミタフラということになり、これには田村皇子(後の舒明天皇)が該当するのではないか。聖徳太子が大王で、田村皇子が太子だったと思われる(天皇即位順は、推古-舒明-皇極)。推古天皇は天皇だったのであろう。聖徳太子が大王だったということに関しては「天皇号の成立(聖徳太子と推古天皇の真実)」
 聖徳太子(太子ではないが、便宜上、太子と記す。当時の資料には法皇、法王と書いてある)が定めたという冠位十二階が記されている。ただ、日本書紀とは中、下位の序列が異なっていて、紀では、徳、仁、礼、信、義、智の順になっている(ここでは徳、仁、義、礼、智、信)。どちらが正しいかは不明。
 クニは国司、国造か。聖徳太子の十七条の憲法の中にその名が見える。伊尼翼(イニヨク、イニョク?)の翼は冀の間違いで(イニキになる)、稲置(いなぎ)ではないかという。天武天皇の八色の姓の最下位に稲置がみえる。聖徳太子時代の官名としては残っていない。イミキ(忌寸)かもしれないし、無理に稲置にしなくても、わからないことはわからないで置いておけばよい。八十戸の上に一伊尼翼で、戸籍が存在したと思われる。
(80*10*120=96000となり、これは大和の戸数であるかもしれない。)


其服飾男子衣帬襦 其袖微小 履如屨形 漆其上繋之於脚 人庶多跣足 不得用金銀為飾 故時衣横幅 結束相連而無縫 頭亦無冠但垂髪於両耳上 至隋其王始制冠 以錦綵為之 以金銀鏤花為飾 婦人束髪於後 亦衣帬襦裳皆有襈 攕竹為梳 編草為薦 雜皮為表縁以文皮
「その服飾、男子は裙襦を衣る。その袖は微小。履は屨の形の如し。その上に漆し、これを脚に繋ぐ。人庶は徒跣多し。金銀を用いて飾と為すを得ず。故時は横幅を衣る。結束相連ねて縫ふこと無し。頭はまた冠無く、ただ、髪を両耳の上に垂る。隋に至りて、その王は始めて冠を制す。錦綵を以ってこれと為し、金銀鏤花を以って飾と為す。婦人は髪を後ろに束ね、また裙襦を衣る。裳はみな襈あり。竹を攕して梳と為す。草を編んで薦と為す。雑皮は表と為し、縁は文皮を以ってす。」

「その服飾は、男子はスカートのように下半身を巻く衣服、たけの短い上着を身につける。その袖は非常に小さい。はきものは麻などで編んだクツのような形で、その上は漆で塗られている。これを(紐で)足に繋ぐ。庶民ははだしが多い。金銀を装飾として用いない。昔は、横幅の布を着た。結び合わせて連ねるだけで縫わなかった。頭は冠をかぶらず、ただ髪を両耳の上に垂らしていた。隋代に至って、その王は始めて冠を制度化した。錦や模様のある布でこれを作り、金、銀の花模様を散りばめて飾りとしている。夫人は髪を後ろで束ね、またスカート状の服、短い上着を着る。もすそは皆ふち飾りがある。竹をくさび型にして櫛にしている。草を編んで敷物と為し、いろいろな皮で表を覆って、模様のある皮で縁取りする。」

 中国官服の袖口はダブダブなので、埴輪の衣服に見られるような筒袖は微小という表現になる。下はスカートのような形というから埴輪のズボンとは異なっている。クツは、防水のためか漆を塗り、脱げないように紐で足にくくりつけていたらしい。紐通しの穴を開けてあったのだろう。しかし、庶民の大多数は裸足だった。
 冠を被らないのは、魏志のみに見られる記述である。魏志と後漢書を読み比べ、足りない記述を魏志から補っている。そして、矛盾するときには後漢書を優先しているわけである。「髪を両耳の上に垂らす」というのは魏志の露紒の説明として新しく得られた情報らしい。「みずら」のことである。中国では魋結(椎髻=槌型の髪、漢書西南夷両粤朝鮮伝の願師古注に、「耳この下」と書かれている)という。これも古墳から出土する男子埴輪像で確認できる。
 聖徳太子の冠位十二階は、冠の色や装飾の違いで階級を示している。金銀鏤花は金、銀を薄くのばして花模様を透かし彫りにしたものと思われる。階級ごとに様々な形があり、それを冠に貼り付けていたのであろう。くさび形に一方を細くした竹で櫛を作るなどと、非常によく観察している。


有弓矢刀矟弩讚斧 漆皮為甲骨為矢鏑 雖有兵無征戦 其王朝會必陳設儀仗奏其国楽 戸可十万
「弓、矢、刀、矟、弩、讚、斧有り。漆皮を甲と為し、骨を矢鏑と為す。兵有りといえども征戦無し。その王の朝会は必ず儀仗を陳設し、その国楽を奏す。戸は十万ほど」

「弓、矢、刀、長い矛、弩、小さな矛、斧がある。漆を塗った皮をよろいとし、骨をヤジリにしている。兵器はあるけれども征伐の戦いはない。その王の朝廷の集会には、必ず儀仗(儀式に用いる装飾的な武器と兵)を並べその国の音楽を演奏する。戸数は十万ほどである。」

 漆で強化した革のよろいを着ている。古墳からは鉄製のよろいが出土しているが、すべての兵士がこれを身につけたとは思えないから、当時からこういうものが存在したかもしれない。腐ってしまうので残らないだろう。魏志より武器の種類は増えているが、魏志が代表的なものを書いていただけではないか。斧など昔から使っていたと思われる。戸数は魏志の七万余戸より増えていて、順調な発展をうかがわせる。先ほどの計算結果に合っている。


其俗殺人強盗及姦皆死 盗者計贓酬物 無財者没身為奴 自餘軽重或流或杖 毎訊究獄訟 不承引者以木壓膝或張強弓以絃鋸其項或置小石於沸湯中令所競者探之云理曲者卽手爛或置蛇瓮中取之云曲者卽螫手矣 人頗恬靜 罕爭訟少盗賊
「その俗、殺人、強盗及び姦はみな死。盗者は贓を計り、物を酬ふ。財無き者は身を没し奴と為す。余は軽重により、あるいは流し、あるいは杖す。獄訟を訊究する毎に、承引せざる者は木を以って膝を圧し、あるいは強弓を張り、絃を以ってその項を鋸し、あるいは沸いた湯の中に小石を置き、競う所の者にこれを探らしむ。理の曲りし者はすなわち手が爛ると云ふ。あるいは瓷の中に蛇を置き、これを取らしむ。曲りし者はすなわち手を螫ると云ふ。人はすこぶる恬静なり。争訟は罕(まれ)にして盗賊少なし。」

「その風俗では、殺人、強盗及び姦淫はすべて死刑になる。窃盗は盗んだ品を計算して物で賠償させる。財産のないものは身分を没収して奴隷にする。その他は軽重にあわせ流したり、杖で打ったりする。つねに争い事を尋問、究明し、(罪を)承諾しない者には、木でヒザを圧迫したり、強い弓を張って、ゆづるでその首すじをノコギリのように引いたり、沸騰した湯の中に小石を置き、争いの当事者にこれを探らせる。筋道の曲がった者は手がただれるのだという。あるいは、蛇を瓶の中に置き、これを取らせる。曲がった者は手をさされるのだという。人は非常に心が安らかで靜かである。訴えごとはほとんどなく、盗賊も少ない。」

 煮え湯の中の石を取らせる盟神探湯(くがたち)は、応神紀の武内宿祢と甘美内宿祢の争いの際にみられるし、允恭紀にも氏姓を定めるために行ったという記述がある。遣隋使に訊ねたのか、日本を訪れた隋の使者、裴世清が記録したものか、新しい知識が大量に加えられている。


楽有五絃琴笛 男女多黥臂點面文身 没水捕魚 無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字 知卜筮尤信巫覡
「楽は五絃、琴、笛有り。男女は黥臂、点面、文身多し。水に没し、魚を捕る。文字無く、ただ木を刻み、縄を結ふ。仏法を敬ひ、百済に仏経を求め得て、始めて文字有り。卜筮を知る。巫覡を尤も信ず。」

「楽器には小型の琵琶、琴、笛がある。男女の多くは腕に入れ墨し、顔に黒い点を入れ、体に模様を入れる。水に潜って魚を捕る。文字はなく、ただ木を刻んだり、縄を結んで文字代わりにしていた。仏法を敬い、百済に仏典を求めて手に入れ、始めて文字を知ったのである。卜筮(卜は亀甲や骨で占う。筮は筮竹を使う占い)を知っているが、みこ(巫は女、覡は男)の言うことをもっとも信じる。」

 魏志の記述の「黥面」より顔の入れ墨は穏やかになっている気配だが、単なる表現の違いかもしれないし、文字の転写間違いの可能性もある。はっきりしたことはわからない。
 百済から仏典が伝わるまでは無文字というのは誤った情報で、古墳時代の稲荷山古墳出土の鉄剣銘文(五世紀、雄略天皇の少し後)では、すでに万葉仮名的な使い方がされている。それ以前から、漢字文化の蓄積があり、和風に消化してきたことがうかがえる。宋書倭国伝には倭王武(雄略天皇)の上表文が記されている。他にも江田船山古墳出土太刀銘や隅田八幡宮人物画像鏡銘文など、仏教以前の文字資料がある。
 卜は亀甲の割れ目を見て占う方法で、魏志倭人伝にも「骨を火で焼いて裂け目を見て吉凶を占う」と書いてある。倭の五王時代(五世紀)に、かなり活発に中国へ遣使しているので、筮竹を使う占いはそのころ伝わったものだろう。「みこ」の伝える神の言葉を信じるのは、やはり、卑彌呼の鬼道の伝統である。


毎至正月一日必射戯飲酒 其餘節略與華同 好棊博握槊樗蒲之戯 氣候温暖草木冬靑 土地膏腴水多陸少 以小環挂鸕鷀項令入水捕魚 日得百餘頭
「正月一日に至る毎に、必ず射戯、飲酒す。その余の節はおおむね華と同じ。棊博、握槊、樗蒲の戯を好む。気候は温暖にして、草木は冬に青し。土地は膏腴にして、水多く、陸少なし。小環を以って鸕鷀の項に挂け、水に入りて魚を捕しむ。日に百余頭を得る。」

「正月一日に至るごとに、必ず射的競技をし、酒を飲む。その他の季節行事はほとんど中国と同じである。囲碁、すごろく、樗蒲(サイコロ賭博のようなもの)の遊びを好む。気候は温暖で草木は冬も青い。土地は肥えていて、水沢地が多く陸が少ない。小さな環を鵜の首筋にかけ、水に入って魚を捕らせる。一日に(魚)百余匹を得る。」

 中国でも鵜に魚を捕らせる漁法はあるが、日本の海鵜の成鳥を捕らえて慣らす手法と違って、川鵜を犬のように家畜化し、紐を付けずに自由に魚を追わせている。魚を捕らえた鵜が自ら船に戻ってくるテレビ映像を見て驚いたものである。おそらく起源は中国内陸で、中国海岸部に移動した部族が海鵜で代用し、その手法が日本に入ったものではないか。鵜に仲間意識を持たせる方がずっと難しいように思える。


俗無盤爼藉以檞葉食用手餔之 性質直有雅風 女多男少 婚嫁不取同姓 男女相悦者卽為婚 婦入夫家必先跨犬乃與夫相見 婦人不淫妬
「俗は盤爼無く、藉くに檞葉を以ってす。食は手を用ひ、これを餔す。性は質直にして雅風有り。女多く、男少なし。婚嫁は同姓を取らず。男女、相悦ぶは即ち婚と為す。婦は夫家に入るに、必ず先に犬を跨ぎ、乃ち夫と相見る。婦人は淫妬せず。」

「その風俗では皿や板台はなく、カシワの葉を敷く。食物は手を使って食べる。性格は飾り気がなく正直で、優雅な感じがある。女が多く、男が少ない。縁組みでは同姓とは組まない。男女でお互いに好き合ったものが結婚する。妻が夫の家に入るとき、必ず先に犬をまたぎ、それから夫と顔を合わせる。婦人は淫らではないし、嫉妬もしない。」

 魏志倭人伝では、飲食には籩豆(竹を編んだり、木をくり抜いたりしたたかつき)を用いると書いてある。邪馬壱国と大和朝廷は食器が違っていたようである。カシワの葉は縄文北方系の大和朝廷の伝統なのであろう。(弥生の興亡「縄文の逆襲」参照)
 しかし、自由恋愛と婚姻は南方系習俗である。新婚の妻が夫の家に入るときに犬をまたぐのは、半人半狗の神、槃瓠を祭るヤオ族ならありそうである。これは文・漢系の物部氏などに可能性がある。北史では「火をまたぐ」になっていて、これは現在の中国少数民族の間でも見られる風俗である。楚人は祝融という「かまど神」を祭っているから、あり得るであろう。こちらは紀氏、藤原氏などの秦系氏族に可能性がある。(弥生の興亡「帰化人の真実」参照)。 通説のように、北史を根拠に、犬は火の転写間違いと言い切れないものがある。


死者歛以棺槨 親賓就屍歌舞 妻子兄弟以白布製服 貴人三年殯於外 庶人卜日而瘞 及葬置屍舩上陸地牽之或以小轝
「死者は歛(おさ)むに棺、槨を以ってし、親賓は屍に就き、歌舞す。妻子兄弟は白布を以って服を製る。貴人は三年、外に殯し、庶人は日を卜して瘞(うず)む。葬に及べば、屍を船上に置き、陸地でこれを牽く。あるいは小轝を以ってす。」

「死者は棺、槨に収める。親戚や親しい客は屍に付き従って歌ったり舞ったりする。妻子や兄弟は白い布で(喪)服をつくる。貴人は三年の間、外でかりもがりし、庶民は(良い)日を占って埋める。埋葬の時には屍を船の上に置き陸地でこれを引いたり、小さな輿(こし)に乗せたりする。」

 魏志倭人伝では「有棺無槨(棺ありて槨なし)」なので、中国風に改めていたのであろうか。死者を葬る時には陸上で船に乗せて引くと書いてあるが、貴重な実用品を、船底を痛めるような形で使うだろうかと疑問を感じる。修羅(しゅら)のことではないか。越語で船をシュラと言ったらしいのである。コロを使えば船でも可能かもしれないけれど。(「中国朝鮮史から見える日本2/3、越語に由来する日本語」)


有阿蘇山其石無故火起接天者 俗以為異因行禱祭 有如意寶珠其色靑大如雞卵 夜則有光云魚眼精也 新羅百濟皆以俀為大國多珎物並敬仰之恒通使往來
「阿蘇山有り。その石、故無く火起こり、天に接す。俗は以って異と為し、因って祷祭を行う。如意宝珠有り。その色は青、大は鶏卵の如し、夜則ち光り有りて、魚の眼精なりと云う。新羅、百済はみな俀を以って大国、珍物多しと為し、並びに、これを敬仰し、恒に使を通じ往来す。」

「阿蘇山がある。その石は理由もなく火がおこり天にとどく。人々は不思議なことだとして、祈って祭りをおこなう。如意宝珠というものがある。その色は青で、大きさはニワトリの卵くらい。夜になると光り、魚の眼球だと言っている。新羅と百済は、どちらも、倭は大国で珍しい物が多いと考えると同時に敬い仰いで、常に使者を通わせ往来している。」

 日本に火山はたくさんある。阿蘇山を特筆するのは、このころ話題になるような爆発を起こしたからかもしれない。如意宝珠は該当しそうなものが思い浮かばない。魚の残すものだから海か川で採れるのだろうが、腐るはず。ヒスイなら中国人も知っている。しかし、これは遣隋使や遣唐使などの倭人から聞いたことをそのまま書いただけかもしれない。梁書には蛇と鯨を合成したような妖怪のことが書かれている。同じく倭人の法螺話かと思える。(梁書倭伝)


大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日没處天子無恙云云 帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞
「大業三年、その王、多利思北孤は使を遣はし朝貢す。使者曰はく。海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞く。故に、遣はして朝拝し、兼ねて沙門数十人来たりて仏法を学ばむとす。その国書曰く。日出ずる所の天子、書を日没する所の天子に致す。恙なきや、云々。帝は之を覧じて悦ばず。鴻臚卿に謂ひて曰はく、蛮夷の書、無礼有るは復以って聞する勿かれ。」

「大業三年(607)、その王のタリシホコは使者を派遣し朝貢した。使者は『海の西の菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので、朝拝に(私を)派遣するとともに、出家者数十人が仏法を学ぶために来ました。』と言った。その国書にいう。『日が昇るところの天子が書を日の沈むところの天子にお届けします。お変わりありませんか。云々』 帝(煬帝)はこれを見て喜ばず、鴻臚卿に『蛮夷の書で無礼のあるものは二度と聞かせるな』と言った。」

 最初の開皇二十年(600)の遣使は、隋の始祖、楊堅(文帝)の時代だった。この大業三年(607)は二代目、煬帝の三年目である。「お変わりありませんか(お元気ですか)」という挨拶は初対面の人間に対するものではないであろう。初対面なら自己紹介から始めるのではないか。以前の遣使があるから、こういう挨拶になった。日本には帝の代替わりが伝わっていなかったらしく、国書は文帝にあてたものだったのである。
 日本書紀は、推古天皇十五年、小野妹子を大唐に遣わすと記している(隋と書かずに、意識的に大唐と書いている)。鴻臚卿は接客をつかさどる鴻臚寺の長官、外務大臣といったところである。小野妹子は中国では蘇因高と表記されたという(推古紀16年)。因高(インコー)はイモコという音を写したものとわかる。姓の蘇は慣用音では「ス」で、これが唐代の音だとすれば、越王や文・漢氏の姓、騶(スウ)につながる。小野氏は和邇氏の同族なので、文・漢系である。


明年 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
「明年、上は文林郎の裴清を使して俀国へ遣はす。百済へ度り、行きて竹島に至る。南に耽羅国を望み、逈(はる)かな大海中に在る都斯麻国を経る。また東し、一支国に至る。また竹斯国に至る。また東し、秦王国に至る。その人は華夏に同じ。思へらくは夷洲。疑いは明らかにすること能はず。また十余国を経て海岸に達する。竹斯国より以東はみな俀に附庸す。」

「明くる年(大業四年、608)、お上(煬帝)は文林郎の裴世清を使者として倭国へ派遣した。百済へ渡り、竹島に至る。南に耽羅国を望み、はるかな大海の中にあるツシマ国を経て、また東のイキ国へ至り、またチクシ国へ至る。また東の秦王国に至る。その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。また十余国を経て海岸に到達する。チクシ国以東はみな倭に付属している。」

 大業四年(608)中国から裴世清が派遣され、日本にやって来た。このあたりの記述は裴世清の帰国後の報告に基づくものであろう。唐の太宗の諱が李世民なので、唐代に書かれた隋書では世の字をはばかり、裴世清は裴清と書かれている。竹島を過ぎてから南に済州島(耽羅)が見えるのだから、竹島は現在の珍島かと思える。朝鮮半島南岸を航海して対馬に至るのである。このあたりは東へ航海していると言える。魏志倭人伝で(帯方郡使が)南と考えていた方向が、正確に東と認識されるようになった。しかし、壱岐や筑紫は南で合っていたのに、すべてが東に改められている。隋代に至っても、方向認識はいいかげんである。
 日本書紀によれば、小野妹子の帰朝に同道していたことになる。小野妹子は隋帝からの国書を百濟で盗まれたと報告したが、日本の無礼をとがめるきつい言葉が書いてあったので、なくしたことにしたのだろうという説がある。ありそうなことである。
 竹斯国は九州の玄関口であった、現在の福岡市、古代の奴国のあたりと思われるが、東の秦王国の所在地を推定する手がかりはない。秦氏の展開地であろうとは想像できても、北九州市付近とかたくさんある。隋書が想像した夷洲ではない。元々、中国人だったのだから、昔の風俗、言語を守り続けていれば中国と変わらない感じを受けるだろう。
 瀬戸内海を航海して十余国を通過したあと、大阪湾で行き止まった。それを「海岸に達する」と表現している。筑紫以東は倭に属すと記すが、ツシマ国、イキ国も倭語の地名である。


俀王遣小徳阿輩臺 従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都
「俀王は小徳、阿輩臺を遣はす。数百人を従え、儀仗を設け、鼓角を鳴らし、来たりて迎ふ。後十日、また大礼、哥多毗を遣はす。二百余騎を従え郊に労す。既に彼の都に至る。」

「倭王は小徳のアハタ(イ)を派遣し、数百人を従え儀仗を設けて、太鼓や角笛を鳴らしやって来て迎えた。十日後、また大礼のカタビを派遣し、二百余騎を従え、郊外で旅の疲れをねぎらった。既にこの国の都に到達した。」

 聖徳太子は難波へ小徳の阿輩台を派遣して歓迎した。事前に連絡が入っていたのである。オホキミを阿輩雞彌と書くのだから、阿輩台はオホタ(イ)と読むべきだろう。日本書紀の、この歓迎式典の際に記された人物のうち、該当しそうなのは大河内直糠手(おほしかふちのあたい・あらて)である。十日後に都のある大和の郊外へ入った時には可多毗が迎えた。これは額田部連比羅夫(ぬかたべのむらじ・ひらぶ)と思われる。


其王與淸相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢 我夷人僻在海隅不聞禮義 是以稽留境内不卽相見 今故淸道飾館以待大使 冀聞大國維新之化 淸答曰皇帝徳並二儀澤流四海 以王慕化故遣行人來此宣諭 既而引淸就館
「その王は清と相見て、大いに喜びて曰はく。我は海西に大隋礼儀の国有りと聞き、故に遣はして朝貢す。我は夷人にして、海の隅に僻よりて在り、礼義を聞かず。ここを以って境内に稽留し、即ち相見ず。今、故に、道を清め、舘を飾り、以って大使を待つ。乞い願わくは、大国の維新の化を聞かむ。清は答へて曰はく。皇帝の徳は二儀に並び、沢は四海に流る。王が化を慕うを以って、故に行人を遣はし、来たりて此に宣論す。既にして引き、清は舘に就く。」

「その王は裴世清と会見して大いに喜んで言った。『私は海の西に大隋という礼儀の国があると聞いて、使者を派遣し朝貢した。私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため内側に留まって、すぐに会うことはしなかったが、今、殊更に道を清め、館を飾り、大使を待っていた。どうか大国のすべてを改革する方法を教えていただきたい。』 裴世清は答えて言った『(隋)皇帝の徳は天地に並び、うるおいは四海に流れています。王(であるあなた)が隋の先進文化を慕うので、使者である私を派遣し、ここに来てお教えするのです。』 対面が終わって引き下がり、清は館に入った。」

 会見した王は、これまで書いたとおり、聖徳太子である。聖徳太子を日本書紀の記述どおりに太子と考えるから、隋書が理解できなくなる。推古天皇は聖徳太子に政務のすべてをまかせたとされており関与していない。聖徳太子は大王(オホキミ)であり、推古天皇は祭祀を受け持つ象徴天皇なのである。(天皇号の成立「聖徳太子と推古天皇の真実」参照。)
 煬帝は日本の国書に怒りながらも、大国としての太っ腹を見せ、聖徳太子の求めに応じて、文林郎の裴世清を派遣し、隋の政治や社会の仕組み、文化などを教えようとしたらしい。文林郎は秘書省に属し、「二十人(注に従八品)。文史を撰録し、旧事を検討するをつかさどる。」と隋書百官志下にあるから、過去から現在に至るまで、どういう制度があり、どういう効果があったかなどを良く知っていたわけである。おそらく、文帝の時の遣使(600年)の際、隋からの国書で政治に道理がないと指摘され、他にもさまざまなアドバイスをもらっていたと思われる。もっと詳しく知りたい、学びたいという意欲が昂じて、小野妹子や留学僧の派遣につながったのであろう。
 日本書紀では、裴世清が持ってきた親書には「鴻臚寺の掌客、裴世清」とか「このごろは常の如し」とか書いてあったという。隋が官名を間違うわけはないし、腹を立てていた日本国書の「つつがなきや」に対応する返答も書くわけがない。これは隋書を読み、それに合わせて創作したものである。国もずっと大唐としていて、日本書紀に隋が書いてあるのは、推古二十六年(617)に高句麗の使者が来て、隋の煬帝が高句麗を攻めたが打ち破ったと語る場面だけである。日本書紀の編纂時は唐代で、新唐書に歴代天皇が書かれているから、唐にも届けられている。そういう事情に配慮して、敵対王朝の隋を消したようである。


其後淸遣人謂其王曰 朝命既達請卽戒塗 於是設宴享以遣淸 復令使者随淸來貢方物 此後遂絶
「その後、清は人を遣りて、その王に謂ひて曰はく。朝命は既に達す。即ち戒塗を請ふ。ここに於いて、宴を設けて享し、以って清を遣はす。また使者を清に髄せしめ、来たりて方物を貢ぐ。この後、遂に絶ゆ。」

「その後、裴世清は人を遣って、その王に伝えた。『隋帝に命じられたことは既に果たしました。すぐに帰国の準備をしてください。』 そこで宴を設けてもてなし、清を行かせた。また使者を清に随伴させ、(隋へ)来て方物を貢いだ。このあと遂に交流は絶えてしまった。」

 隋書の煬帝本紀には大業四年(608)三月に「百済、倭、赤土、迦邏舎国、並びて使を遣わし、方物を貢ぐ。」とある。次いで、大業六年(610)正月に「倭国は使を遣わし、方物を貢ぐ」と記されている。
 隋書百済伝では、大業三年(607)に百済の二度の遣使、大業七年(611)の遣使が記されている。三国史記百済本紀では、武王の八年(607)に二度と九年(608)、十二年(611)に隋へ遣使した記録が見られる。九年(608=大業四年)には隋の文林郎、裴清が倭国への使者となり、我が国の南路を通ったと書いてある。百済本紀は隋書煬帝紀に合わせて大業四年(608)の遣使を加えた可能性がある。煬帝本紀にある大業四年(608)の倭国の遣使は考えにくい。おそらく、大業三年(607)に到着した小野妹子等が、翌年(608)の三月に他国の使者と共に煬帝に朝見し、煬帝紀に記されたものとと思われる。一つの遣使が記録された文書の違い(たとえば、鴻臚寺に残された外交文書と、煬帝の起居注によるものとか)により、大業三年と四年に別れた可能性がある。
 以上から、倭国の遣使は大業三年(607)で、翌年の大業四年(608)に煬帝に朝見、その使者の帰国に同道して裴世清が渡来した。その後、大業六年(610)の遣使と結論してもよいと思われる。
 日本からの遣使は(文帝)開皇二十年(600)、(煬帝)大業三年(607)、(煬帝)大業六年(610)の三度ということになる。日本書紀では607、608、614の三度で、608の遣使は、百済本紀と同様、隋書煬帝紀を見て書き加えたものであろう。
 裴世清を送り届けて朝貢したあと、連絡は絶えてしまったとされているから、裴世清の帰国が610年ということになる。二年ほど日本で「大国維新の化」を講義していたのである。日本書紀ではひと月ほどで帰国したことになっている。これでは成果は上がるまい。610年で交流が絶えたとすれば、614の遣使はあり得ない。日本書紀にはさまざまなウソがある。日本と隋の交流に関しては隋書を元に歴史を組み立てるべきである。
 隋書の(東夷)列伝では俀国になっているが、煬帝本紀には倭国と書いてある。俀と倭は同文字の異体字である。外交をつかさどる鴻臚寺などに残された文書に俀国と書かれ、それが俀国伝にそのまま記された。宮中に保存された起居注の様な文書に倭国と書かれていて、それが煬帝紀に記されたのであろう。二つの文字に分かれたのは隋書の引用元の違いによると思われる。そのあたりを隋書は整理統一していない。煬帝紀と俀国伝の担当者が異なったということか。

天皇号の成立(聖徳太子と推古天皇の真実)