梁書諸夷伝・東夷・倭


梁書倭伝

 梁書倭伝とはいっても、内実は魏志、魏略、後漢書、宋書、隋書の記述と、隋、唐代に新たに入った伝聞資料を整理したもので、梁代の資料は全く含まれていません。貞観三年(629)に唐、太宗の命を受けて編纂し、貞観十年(636)すべてが完成したとされています。


倭者自云太伯之後 俗皆文身 去帶方萬二千餘里 大抵在會稽之東相去絶遠
「倭は自ら太伯の後と云ふ。俗はみな文身。帯方を去ること万二千余里なり。たいてい、会稽の東に在り。相去ること絶遠なり。」

「倭は、自ら太伯の後裔だという。その風俗では皆、体に入れ墨する。帯方郡を去ること万二千余里、おおよそ会稽郡の東に在るが、とてつもなく遠く離れている。」

 「太伯の後」というのは魏略の引用でしょう。魏略の元データ(おそらく後漢代の)にそういう記述があったはずなのですが、魏略以外の文献には記されていません。宋代に編纂された後漢書にも記されていないので、おそらく宋代にはすでに失われていたと思われます。魏志が記さなかったのは、後漢代の出来事で魏志とは関係がないという判断と思われます。


從帶方至倭 循海水行歴韓國乍東乍南七千餘里 始度一海 海闊千餘里名瀚海至一支國 又度一海千餘里名未盧國 又東南陸行五百里至伊都國 又東南行百里至奴國 又東行百里至不彌國 又南水行二十日至投馬國 又南水行十日陸行一月日至祁馬臺國 即倭王所居 其官有伊支馬次曰彌馬獲支次曰奴往鞮
「帯方より倭に至るには、海に循ひて水行し、韓国を歴(へ)て、乍東乍南、七千余里。始めて一海を度(わた)る。海闊(ひろ)く千余里。瀚海と名づく。一支国に至る。また、一海を度る。千余里。未盧国と名づく。 また、東南に陸行し五百里にして伊都国に至る。また、東南に行くこと百里にして奴国に至る。また、東に行くこと百里にして不弥国に至る。また南に水行し二十日にして投馬国に至る。また、南に水行二十日、陸行一月にして祁馬臺國に至る。即ち、倭王の居る所なり。その官は伊支馬あり、次は彌馬獲支と曰ひ、次は奴往鞮と曰ふ。」

「帯方郡から倭に至るには、海(岸)沿いに航海して韓国を過ぎ、東へ行ったり南へ行ったりしながら、七千余里で、初めて一海を渡る。海は広く、千余里。瀚海(広い海)と名づけられている。一支国に至る。また一海を渡ること千余里、名は未盧国。また東南に陸行五百里で伊都国に至る。また東南に行くこと百里で奴国に至る。また東に行くこと百里で不彌国に至る。また南に水行すること二十日で投馬国に至る。また南に水行十日、陸行ひと月で祁馬臺国に至る。すなわち倭王が居る所である。その官には伊支馬があり、次は彌馬獲支といい、次は奴往鞮という。」

 旅程は魏志を要約しながら引用したものですが、対海(対馬)国が抜かされてしまった。魏志に「海闊」という言葉はありません。瀚海と呼ばれる理由を考えた結果、海が広いからだという解説が付け加えられました。「未盧」は「末盧」の転写間違い。「南水行十日陸行一月日至祁馬臺国」の、一月日の日は衍字、祁馬臺は邪馬臺の転写間違いと考えられます。


民種禾稻紵麻 蠶桑織績 有薑桂橘椒蘇 出黒雉真珠青玉 有獸如牛名山鼠 又有大蛇吞此獸 蛇皮堅不可斫其上有孔乍開乍閉時或有光射之中蛇則死矣 物産略與儋耳朱崖同 地温暖
「民は禾稲、紵麻を種へ、蚕桑し、織績す。薑、桂、橘、椒、蘇あり。黒雉、真珠、青玉を出だす。牛の如き獣があり、山鼠と名づく。また大蛇ありて、この獣を呑む。蛇の皮は堅く斫(き)るべからず。その上に孔ありて、乍開乍閉し、時に或いは光あり。この中を射れば、蛇は則ち死す。物産はほぼ儋耳朱崖と同じ。地は温暖なり。」

「住民は稲や紵麻を種まき、養蚕して織物を作る。ショウガ、肉桂、橘、サンショウ、シソがある。黒雉、真珠、青玉を産出する。牛のような獣がいて山鼠という名である。また、この獣を呑む大蛇がいる。蛇の皮は堅くて叩き切れないが、頭上に孔があり、開いたり閉じたりして、時に光を発する。この中を射れば蛇は死ぬ。産物は儋耳、朱崖とほとんど同じで、土地は温暖である。」

 魏志に肉桂、シソという記述はありません。新たな伝聞資料による追加と思われます。山鼠やそれを飲む大蛇、特に大蛇は詳しく、イルカ、鯨の類と蛇が合成された妖怪のようです。唐の姚思廉の編纂ですから、遣隋使が何度か行っていますし、遣唐使の可能性もあるかもしれない。酒席か何かで、こういう与太話をするものがいて、それを真に受けたということでしょう。


風俗不淫 男女皆露紒 富貴者以錦繍雜采為帽似中國胡公頭 食飲用籩豆 其死有棺無槨封土作冢
「風俗は淫せず。男女はみな露紒す。富貴者は錦、繍、雑采を以って帽と為し、中国の胡公の頭に似る。食飲は籩豆を用ふ。その死は棺有りて槨なし。土で封じて冢を作る。」

「風俗はみだらではない。男女は皆、頭に何も被らず、髷を結っている。富貴な者は色とりどりの美しい織物を帽子と為し、中国の胡の貴族の頭に似ている。飲食には竹を編んだり、木をくり抜いたりした高坏を用いる。死に際して、棺はあるが槨はなく、土を封じて墓を作る。」

 隋書には、隋の時代に、その王が冠制度を始めたと書いてあります。これは聖徳太子(実際は大王、最上部リンクの「天皇号」参照)の冠位十二階を指すのでしょう。その後代の知識が梁書に加えられている。食器に「籩豆を用いる」というのは魏志からの引用で、隋書にはカシワの葉を皿代わりにすると書いてあります。


人性皆嗜酒 俗不知正歳 多壽考多至八九十或至百歳 其俗女多男少 貴者至四五妻賤者猶兩三妻 婦人無婬妒 無盜竊少諍訟 若犯法輕者沒其妻子重則滅其宗族
「人の性はみな酒を嗜む。風俗は正歳を知らず。寿考多く、多くは八、九十に至る。或いは百歳に至る。その俗、女多く、男少なし。富者は四、五妻に至り、賤者はなお両、三妻なり。夫人は淫や妬なし。盗竊なく、諍訟少なし。もし法を犯せば、軽者はその妻子を没し、重は則ちその宗族を滅す。」

「人の性質は皆、酒を嗜む。正月を知らない。長寿者が多く、多くは八~九十歳、あるいは百歳に至る。女が多く男が少ない。身分の高い者は四、五人の妻がいて、低い者でも二、三人の妻がいる。婦人は姦淫したり嫉妬したりしない。盗みをはたらくものはおらず、訴え事も少ない。もし法を犯せば、軽いものはその妻子の身分を奪って奴隷とし、重いものはその宗族を滅ぼす。」

 魏志、後漢書の記述を整理してまとめてあります。「正月を知らない。」というのは魏志に入れられた裴松之(宋)の注によるもの。魏略からの引用で、これも後漢代のデータと思われます。


漢靈帝光和中 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子卑彌呼為王 彌呼無夫壻 挾鬼道能惑衆故國人立之 有男弟佐治國 自為王少有見者 以婢千人自侍 唯使一男子出入傳教令 所處宮室常有兵守衛
「漢霊帝、光和中、倭国は乱れ、相攻伐して年を歷る。乃ち、一女子、卑弥呼を共に立て、王と為す。弥呼は夫婿無し。鬼道を挾み能く衆を惑わす。故に国人はこれを立つ。男弟ありて国を治るを佐く。王と為りてより、見有る者少なし。婢千人を以ひ、自ずから侍る。ただ一男子をして、出入りせしめ。教令を伝ふ。所處の宮室は常に兵有りて守衛す。」

「漢の霊帝の光和年間(178~183)、倭国は乱れ、戦いあって年月を経た。そこで、卑彌呼という一人の女性を共立して王と為した。彌呼には夫はいない。鬼道をあやつって、衆を惑わすことができたため、国人はこれを立てたのである。弟がいて統治を補佐している。王となってから面会した者は少ない、千人の侍女が自律的に仕えている。ただ一人の男子を出入りさせ、教えや命令を伝えている。住んでいる宮殿には常に兵がいて守衛している。」

 後漢書は「安帝永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、願いて見を請う。桓霊の間、倭国大乱」と書いています。それに魏志の記述「住七八十年、倭国は乱れ、相攻伐すること歴年」という記述が重ねられました。安帝永初元年(107)頃に、卑弥呼の一族が倭に移住したと考え、それに倭人伝の七、八十年を加えて、大乱は霊帝の光和年間(178~183)という結論が出されたのです。編纂者による机上の計算で、そういうデータが存在したわけではありません。実際には、「桓霊の間」ですから、大乱は桓帝(147~167)と霊帝(168~188)にまたがっている。167、168年を中心に前後を考えれば良いと思えます。詳しくは、「魏志倭人伝から見える日本、ファイル4、卑弥呼の鏡、2邪馬壱国は越人の国であること、その移住時期」へ」
 卑弥呼が弥呼と記されていますが、中国人のように、卑が姓、弥呼が名という扱いになったのか。あるいは、転写時、卑が脱落しただけのことなのか。「挟鬼道」は、鬼道を脇に挟むという意味だから、鬼道を自分のコントロール下に置き、思うままにしたということでしょう。


至魏景初三年 公孫淵誅後卑彌呼始遣使朝貢 魏以為親魏王假金印紫綬 正始中卑彌(呼)死更立男王國中不服更相誅殺 復立卑彌呼宗女臺與為王 其後復立男王並受中國爵命
「景初三年に至り、公孫淵誅されし後、卑弥呼は初めて使を遣はし、朝貢す。魏は以って親魏倭王となし、金印紫綬を仮す。正始中、卑弥は死し、更に男王を立つも、国中は服さず、更に相誅殺す。また、卑弥呼の宗女、臺與を立て王と為す。その後、また男王を立て、並びて中国の爵命を受く。」

「魏の景初三年(239)に至り、公孫淵が滅ぼされた後、卑彌呼は初めて使者を派遣して朝貢した。魏は親魏王と為して金印紫綬を与えた。正始中(240~248)、卑彌呼が死に、新たに男王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺しあったので、また(女王に戻して)卑彌呼の宗女、臺與を立てて王にした。その後、また男の王を立て、いずれも中国の爵命を受けた。」

 魏志には景初二年(238)六月に卑彌呼が遣使したとされています。この頃、遼東、樂浪、帯方には公孫氏が存在し、魏に抵抗していました。魏へ遣使することはできないので、公孫氏が滅びた(景初二年八月)のちの景初三年に修正されました。しかし、魏へ遣使したと考えるから、矛盾が出るわけで、卑彌呼は遼東の公孫氏に遣使したと考えれば、景初二年でなんの問題もない。景初三年と考えると、魏の明帝は死去しており、魏帝は八歳の斉王芳と扱わねばならないし、倭への下賜品を作っている時間もない。帯方太守の交代時間にも無理が出るという、別の矛盾が吹き出します。詳しくは「魏志倭人伝から見える日本、ファイル3へ」。公孫氏の元に派遣された卑弥呼の使者が、魏へ行ったのは偶然なのです。使者の難升米が機を見るに敏だった。
 魏志で壹與(壱与)となっている卑弥呼の宗女を臺與(台与)に改めています。魏志の邪馬壹国も邪馬臺國に改められている。唐代の認識では、都がヤマトとわかったことから、魏志の邪馬壹は転写間違いで、後漢書の邪馬臺が正しいという結論が出されていた。壹は臺の転写間違いなので、当然、壹與も臺與だと修正されました。実際には邪馬壹、壹與が正しい。このあたりは、「魏志倭人伝から見える日本、ファイル1」や「邪馬壹国説を支持する資料と解説」で説明しています。
 後の、中国の爵命を受けた男王とは、宋書に記された讃、珍、済、興、武という倭の五王のことです。


晉安帝時有倭王賛 賛死立弟彌 彌死立子濟 濟死立子興 興死立弟武 齊建元中除武持節督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事鎮東大將軍 高祖即位進武號征東大將軍
「晋、安帝の時、倭王賛あり。賛死し弟の弥立つ。弥死し子の済立つ。済死し子の興立つ。興死し弟の武立つ。斉の建元中、武を持節督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六国諸軍事鎮東大将軍に除す。高祖即位し、武の号を征東大将軍に進む。」

「晋の安帝時(397~418)、倭王讃がいた。讃が死に、弟の彌が立った。彌が死に、子の済が立った。済が死に、子の興が立った。興が死に、弟の武が立った。斉の建元中(479~482)、武に持節督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六国諸軍事鎮東大将軍に任命した。梁の高祖(武帝)が即位し(502)、武の号を征東大将軍に進めた。」

 このあたりは宋書の要約。晋の安帝の義煕九年(413)に倭王の遣使が伝えられていますが(晋書安帝紀)、王名は記されていません。倭王讃の遣使は、宋書倭国伝の、宋の高祖の永初二年(421)で、それに先立つ413年の遣使も讃(応神天皇、ホムダワケ大王)のものだと考えたわけです。実際には一世代前の神功皇后の遣使です。421年の讃の遣使は、即位の挨拶と考えられます。詳しくは「魏志倭人伝から見える日本、ファイル1へ」。宋書、昇明二年(478)に倭王武の遣使の記述がありますが、斉や梁への武の遣使の記録はなく、進号の記述だけです。しかし、梁代の職貢図に倭の使者の姿が描かれていて、脚絆や腕抜きという後の風俗につながる描写がある。実際に遣使されていたのかもしれません。それが武であるかどうかはわかりません。私見ですが、武はそれ以前に死亡していたと考えています。


其南有侏儒国 人長三四尺 又南黒齒國裸國去倭四千餘里船行可一年至 又西南萬里有海人 身黒眼白裸而醜其肉羙行者或射而食之
「その南に侏儒国あり。人長は三、四尺。また、南、黒歯国、裸国は倭を去ること四千余里、船行一年で至るべし。また、西南万里に海人あり。身は黒く、目は白い。裸にして醜し。その肉は羙し。行者はあるいは射てこれを食らふ。」

「その南に侏儒国がある。人の背丈は三、四尺。また、南に黒歯国、裸国がある。倭を去ること四千余里、船で行くこと一年ほどで着く。また西南万里に海人がいて、身は黒く,眼は白く、裸でみにくいが、その肉はうまい。旅行者は射たりしてこれを食べる。」(羙は美の俗字)

 前半は魏志倭人伝の引用。後半は唐代の新資料によるものでしょう。西南万里の海人というなら、南西諸島の住民のことと思われます。航海の食糧不足をしのぐため、食べることがあったらしい。南西諸島沿いの海路も存在したとわかります。