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魏志倭人伝の風景
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末盧国

 帯方郡使の船は、一大国こと壱岐の石田郡から末盧国に向かいました。船は末盧国に至る前に呼子町の加部島付近を通過します。あるいは入港したのかもしれません。その加部島には延喜式名神大社、肥前一の宮の田嶋坐神社があります。祭神は宗像三女神で、日本書紀には、「今、海北道の中にあり。」と記されていますから、海道、すなわち航路の守り神です。
 社殿は小さな入り江に面しており、入り江に向けて作られたかのように感じますが、その視線のはるか先に壱岐があります。加部島の宗像三女神は末盧国から一大国へ至る航路を守っているわけです。現在でも呼子港から壱岐の印通寺に向かう航路があります(2007年、唐津−印通寺に変更されたようです)。

 日本地理志料には「大同類聚方、石田郡石田山の神社、宗像神社」とありますから、壱岐にもセットになる宗像神社があったように思えますが、調べてもわかりません。現地調査が必要です。予算、日程の都合で、壱岐と対馬には行けませんでした。小さな写真ではわかりませんので、掲載はあきらめましたが、加部島の山上展望台から肉眼で壱岐が見えます。
 末盧国を呼子や名護屋とする説もあります。付近は豊臣秀吉の朝鮮出兵時の基地となっており、名護屋城跡にはみごとな石垣が組まれています。港と集落を想定すること自体は可能なのです。

 しかし、伊都国で統治していた(一)大率は、津に赴いて、海を渡って中国や朝鮮へ行こうとする倭の使者や、渡来した帯方郡使を臨検したという記述がありますから、港は、「津」という文字で表される「川の港」でなければならない。呼子、名護屋にはそれにふさわしい川が存在しません。次の伊都国まで五百里を歩いている。つまり、伊都国には港がないことを合わせると、津は唐津市の松浦川に設けられたのだろうということになり、末盧国もこの一帯と結論できるのです。


 唐津湾岸には大規模な松林があり、虹ノ松原と呼ばれて観光名所になっていますが、これは、後世の植林です。古代には大きな砂浜が広がっていたでしょう。しかし、千七、八百年も前のことですから、こんなには大きくなかったはず。もっと鏡山に近かったと思われます。
 魏志倭人伝は、末盧国を、「山海に浜して居す」と描写しています。浜は「危機に瀕す」と同じ使い方で、間近に迫っていることを意味します。したがって、集落のすぐ近くに山と海がなければならない。大率は伊都国から「津」、つまり、「川の渡し場」と表されるような港に赴くのですから、大きな川にも近い。そういう全てを総合すると、鏡山のふもとに官庁があったのだろうということになります。
 神功皇后を祭る鏡神社が鏡山山頂とふもとにあります。このふもとの鏡神社周辺に集落があったとすれば、倭人伝の記述通りのイメージになります。
 川まで一、二キロの距離がありますから、その間が草ボウボウの状態で、集落や田地のある開けた土地に達するまで心細い思いで歩いたのでしょう。「草木が盛んに茂り、行くに前人を見ず」という記述は末盧国に上陸してからの描写です。それまでは船上の人だったのですから。そして、末盧国と表されるような集落まで、距離を示すほどには歩いていないわけです。
 この国には統治組織がなかったようで、他の国のような官や副の存在が記されていません。国際港を持ち、戸数もここまでの国より多い四千で、重要拠点のはずなのに不思議に思えますが、次の伊都国へ行くことでその理由が明らかになります。