福井市 天皇家有縁の地 織田家、住友家のル−ツ コシヒカリの故郷 
 JR福井駅前広場は利便性と景観を高めて変貌し、夜景は美しい絵になる。      越前・若狭紀行
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 温暖で高湿度だった白亜紀前期(約1億年前)、福井に生息したフクイラプトル、フクイサウルス、フクイティタンの動くモニュメント。近代的な町に恐竜が出現。1989年以降日本の恐竜研究第一人者・東洋一(あずま よういち)の指揮下、勝山市で日本最多の恐竜化石(外部サイト)が発見されている。
  
  福井市付近はかつて北ノ庄と言われた。平安時代に成立したという伊勢神宮領の足羽御厨(みくりや)が鎌倉時代に「足羽荘」と呼ばれたが、更に足羽川の北側にあったので次第に「北ノ庄」と呼ばれるようになった。

 49万石を領有した柴田勝家(1522?〜1583)が築いた北ノ庄城は現在の柴田神社(福井市中央1丁目付近)に本丸があった。北ノ庄城は石瓦葺きの九重の天守閣がそびえる壮麗なものだったという。勝家は一乗谷から人々を移転させ足羽川には半木半石の北ノ庄大橋を作った。

 信長亡き後の1583年4月24日早朝、勝家は後輩に当たる秀吉の大軍に攻められ足羽山(あすわやま)から見下ろす秀吉の前でお市の方(1547〜1583)と共に自決した。信長の妹・お市の子である茶々(1567〜1615)、
お初(?〜1633)、お江(1573〜1626)ら三姉妹(信長の姪)は秀吉の保護を求めるため事前に城外に出された。その後、茶々は秀吉の側室・淀殿になったが1615年大阪夏の陣で豊臣秀頼と共に大坂城で自害した。次女お初は若狭の小浜藩主・京極高次(1563〜1609)の妻となった。三女お江は第2代将軍・徳川秀忠(1579〜1632)の妻となり家光の生母となったが将軍・秀忠に対しても臆する所のない女性だったとされる。乱世で三姉妹も敵味方に分かれて生きる事を余儀なくされ波乱に富む人生を送ったが異彩を放つ三姉妹である。

 尚、柴田勝家の後は丹羽長秀・長重親子、堀秀政・秀治親子、小早川秀秋、青木一矩(秀以、重治)らが17年間統治し、その後、結城秀康が入国した。
 
 剛勇で知られた柴田勝家はこれまで生死を共にして戦ってきた兵士達が落城迫る北ノ庄城より逃亡するのを引き止めず、残った兵士はもう僅かだったという。この時、最後まで勝家を支えた
住友政俊は勝家やお市の方と運命をともにした。
 勇名を残した
政俊の子・住友政行は江戸時代、北ノ庄城主・松平秀康(養子の時期は羽柴秀康、結城秀康)に迎えられた。1602年に政行が亡くなるとその夫人は福井で生まれた二人の子(生誕地は福井県坂井市丸岡町)を連れて京に上り、次男・住友政友(1585〜1652、住友家の家祖、涅槃宗の僧となったが天台宗に吸収されたので、その後還俗)が富士屋嘉休(かきゅう)と称して薬種・書籍商を開業し、後の住友財閥の創始者となった。1691年の別子銅山の発見で大発展を遂げ、その後幾たびも興亡の危機を乗り越え1895年住友銀行を創立、三井、三菱に並んだ。現代になり住友芳夫氏の夫人・武子氏は福井藩主・松平慶永の曾孫になる。進学や就職で福井と京都の往き来は多いが、福井とは縁の深い住友家である。
参考文献 『日本の名門100家』(中嶋繁雄著、河出文庫)
ご案内『住友歴史探訪』(外部サイト)



        松平秀康や忠直らの居城・福井城         (福井市立郷土歴史博物館蔵無断転載禁止)

 
徳川家康の二男・秀康(ひでやす、1574〜1607)は豊臣秀吉の養子(人質でもあった)となった時(1584年)には羽柴秀康を名乗ったが、その後は結城晴朝(ゆうきはるとも)の娘婿となり結城秀康を名乗った(1590年)。
 更に江戸時代になって北ノ庄藩の藩祖に立つと再び松平姓(1600年、1604年という説もある)に戻った。秀康は生涯に
徳川、豊臣、結城と三人の父を持った波乱の一生を送った。居城は現在の福井県庁の所に置かれ当時68万石を領有した。これは、119万石余の前田利長に次ぐもので65万石の豊臣秀頼をしのいだ。当時の福井城は1.6km四方に5重の堀で囲まれた本丸に4重5階の天守閣がそびえ立ち現在のJR福井駅前までの広大な堀を持つ雄大なものだった。

 関ヶ原の戦い(1600年)後に実施した論功行賞で家康は譜代大名には小さめの石高と大きな権威を、外様大名には大きな石高と小さな権威を与えた。これまでの政権のように少数の者が財力と権力を独占しないように考えたようだ。外様大名で老中(現代の大臣のような人)を勤めた大名は殆どいなかった(幕末に第12代松前藩主・松前崇広が老中に)。

 次の第2代藩主は
『忠直卿行状記』(菊池寛著)に描かれた秀康の長男・忠直(ただなお、1595〜1650)で秀忠の三女・勝姫(かつひめ、1601〜1672)が嫁いできて長男・光長(みつなが、1616〜1707)を生んだ。しかし、1623年忠直は乱行で豊後萩原(ぶんごはぎわら)に配流。 大坂の陣で真田幸村を討つ大功を激賞してくれた祖父の家康は1616年に薨じ、秀忠の時代になっていた。秀忠は甥である忠直の目に余る乱行や将軍家に対する無礼をもう許す事はできなかった。しかし、忠直は過去のこだわりから解かれ晴れやかな表情で北ノ庄城を去り新地へ向かったという。
 乱行の原因としては、将軍の娘を娶った事から来る窮屈さ、家臣が彼に個人として心から接しない苛立ちや孤独、大坂の陣では家康と共に徳川家の興亡をかけて命がけで戦場を駆け巡って名将・真田幸村(1567〜1615)を倒すという大功を立てた忠直を超えて家康の第九子・義直(よしなお、尾張家)、第十子・頼宣(よりのぶ、紀州家)らが出世する事に対する不満や怒り、父・秀康が早く亡くなったので藩主としてのしつけがされていなかった、等が指摘されている(辻達也)。 これらに第十一子・頼房(よりふさ、水戸家)を加えたのが
後の徳川御三家で、頼房の第三子・光圀(みつくに、1628〜1701、初名は光国)は第2代水戸藩主・水戸黄門。家康の長子、四子から八子までは幸運な一生を送れなかった。しかし、御三家出身の将軍は紀伊徳川家出身の第8代将軍・吉宗だけで、尾張家から将軍は一人も出ず、幕末の第15代・慶喜は一橋家へ養子に出ているので水戸家からも将軍は出なかった。
  
 
忠直の弟・忠昌(ただまさ、1598〜1645、家康の孫)が第3代北ノ庄藩主となった時、不幸事の絶えない北ノ庄という地名を嫌って福居(1624年)とし、更に元禄(1688〜1704)の末期で吉品(昌親)が第7代藩主の時に福井と改名された。福井藩の所領は様々な問題から吉品が藩主に就いた時は25万石に減り、多くの藩士は質素な生活を強いられて、32万石で幕末を迎えた。大名には彼らなりの不満や苦しみがあったようであるが、忠直の乱行やその後の藩内のごたごたは福井の人達にとって本当に不幸な出来事であった。
 
大安禅寺・千畳敷に藩主達の墓石が並ぶ。
 
  幕末の福井藩第16代藩主は幕末の四賢侯(ばくまつのしけんこう)としてもよく知られた
松平慶永(よしなが、号は春嶽(しゅんがく)、1828〜1890)で、幕末の混乱期には将軍継嗣問題で井伊直弼に異論を唱え隠居謹慎を命じられたが赦免されると幕政を司る政事総裁職になったが在任中に生麦事件(1862年)が起こり激動の時代の過酷な現実に直面し苦しんだ。慶永の足跡をたどると幕末の理解に役に立つ。

 
所で、話は約1500年前に遡る。足羽山(あすわやま)の山頂付近に大和朝廷第26代継体天皇(?〜531年頃)の大きな石像(明治時代に建立)が建っている。応神天皇5世孫の男大迹王(おおどおう)は、暴君とされる第25代武烈天皇が亡くなり大和政権の後継が絶えかけた時に継体天皇として越前より出て天皇位についた地元の人にとっては、「沼地や洪水の多かった福井平野の治水に尽力して三国に水門を開き豊かな田畑を増やしてくれた良いお爺ちゃん」という感じであるが、古代日本の中で重要な役割を果たした人である。福井出身と考えられる三尾角折君の妹・稚子媛(わかこひめ)ら以外に、武烈天皇の姉で仁賢天皇の皇女の手白香(たしらか)皇女を皇后とすることで、継体という名が示すように大和朝廷を引き継ぎ、中国やエジプトの歴代王朝にも例がない連綿と1500年を超える王家の礎を築いた大政治家であり、1500年前に実在した天皇であることを疑う人はいない。天皇家の系図を見ればその存在の大きさが分かる 。継体亡き後もその子・欽明天皇、孫・推古天皇、ひ孫・聖徳太子らが登場し大和朝廷の勢力は揺るぎないものに発展し令和の第126代天皇・徳仁(なるひと、浩宮)につながっている。
 福井県内には継体天皇に関わる伝承が数多く実在し、更に我が国の正史『日本書紀』には、越前の豪族として君臨していた男大迹王(おおどおう)が第26代継体天皇として中央に招かれる時の様子や事情が詳細に記述されている。
足羽神社は継体天皇を主祭神として祀る。
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 関連の内部サイト 
秀康
松平春嶽
継体天皇 
明智光秀
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コシヒカリ物語 
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福井城旧景
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横井小楠
  外部サイト
継体即位1500年
足羽神社
北ノ庄城跡に立つお市の方・勝家像            足羽山の継体天皇像
 『信長公記』は信長に近侍した太田牛一(1527〜1613?)の著書で、信長の経歴を克明に記録した第一級の資料とされる。太田牛一は柴田勝家にも仕えたと伝えられる。
『信長公記』(太田牛一著、ちくま学芸文庫)・・・・・・・・            

  九月十四日、信長公は豊原から北庄に馬で移動なさった。滝川左近将監、原田備中守、惟住五郎左衛門の三人に北荘足羽山(あすわやま)に陣屋の普請を言いわたされた。お馬回り・お弓衆のめんめんが、信長公の前後を囲み申して進む、そのすばらしさは、またひと味ちがった風情があつた。加賀・越前両国の侍たちがはせ集まり、縁者のとりなしで信長公へ帰参することができたお礼を申し上げようと、門前市をなすありさまであった。
 
加賀の奥の郡の一揆は信長公のご帰陣を聞き及んだのであろうか。またまた軍兵をくり出して来たのである。羽柴筑前守は「天のお与えになった好機である」と、すぐさまかけつけて、 一戦に及び、屈強な者の二百五十余の首を討ち取って、それから帰陣した。
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 俵万智(1962〜)は大阪生まれだが福井県内の中学(越前市)高校(福井市)に通った。『サラダ記念日』(1987年)は大ベストセラ−になった。一時、高校教師をした。英語教育が注目を浴びる社会であるが・・・。    RとL聞き分けられぬ耳でよし日本語をまずおまえに贈る(俵万智)
『よつ葉のエッセイ』
 (俵 万智、河出文庫)                                            

  ふるさとの我が家に我の歯ブランのなきこと母に言う大晦日

 ふるさとへは「帰る」、東京へは「戻る」――いつのまにか、そんなふうに動詞を使うようになってきた。
 数年前にふるさとの私の部屋はなくなり、今は弟のパソコンルームと化している。暮れに帰省すると、食卓の椅子が三つ、 モーニングカップも三つ、そして歯ブラシも三つ。そこには、父と母と弟の日常がいやというほどあふれていて、私は一瞬、はじきとばされたような思いを抱く。そのせつなさ。父にも母にも弟にも見えない青い空気の層をまとって、自分が立っているような気分になる。
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 海を見に行く。日本海が好きだ。そして私はふたまず? 福井に帰ってきたなあという気になる。
 おそばがおいしくて、雪が降って、水仙が咲く。足羽山の茶店、足羽河原の桜並木、二両編成の路面電車。福井はあまりにも「ふるさと」だ。こんなにふるさとらしくていいんだろうか、とおもってしまうぐらい「ふるさと」だ。ふるさとしすぎてこわい――そんな思いを、私は一方で抱く。
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