横井小楠 松平春嶽の顧問    越前・若狭紀行
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 横井小楠(よこいしょうなん、1809〜1869)は肥後熊本藩士だが、松平春嶽の熱心な求めに応じて1858(安政5年)福井藩の藩政顧問となった。小楠は橋本左内(1834〜1859)より25才年上で親子程の年齢差があり、左内と小楠が春嶽の元で同時に活動した事は殆どなかったようだが、幕末の封建社会が近代日本へと脱却する時期に開国して富国を目指す先進的指導を発揮した点で共通のものを有していた。小楠の思想は松平春嶽を動かし、由利公正(ゆり きみまさ、1829〜1909)の行動につながった。
 左内亡き後に松平春嶽に近侍したのが小楠である。横井は実学(政治・経済面で現実に役立つ学問)の祖として全国から仰がれていた。
 外国船がしきりにやって来て開国を求め、国内問題では将軍継嗣問題や力をなくしつつあった幕府の立て直しに向け春嶽の意を受けて奔走し安政の大獄で命を絶たれたのが左内であったが、その後、小楠が春嶽に様々な献策をした。小楠は1855年頃に攘夷論から開国論へ考えを変え、産業を振興して商品を外国へ売れば大きな利益が得られ外国の進んだ技術も取り入れられるとする富国論を説いた。尊皇攘夷論者が多い熊本藩では孤立するようになった。1858年6月に日米修好通商条約が結ばれると3ヶ月程の間に同様の条約がオランダ、ロシア、イギリス、フランスの間で結ばれて貿易が始まった。福井藩は小楠の献策を受け、商人の手を経ずに直接外国に生糸を売って莫大な利益を得て藩の財政も人々の生活も豊かになった。(右写真は 横井小楠(国立国会図書館蔵))

1862年7月9日春嶽は政事総裁職(大老のようなもの)に就任した。この時、橋本左内は世を去っていて(1859年)春嶽の知恵袋として活躍したのは横井小楠(1809〜1869)で「国是七策」を建言した。
1.将軍は上洛してこれまでの無礼を謝す。
2.参勤交代はやめて術職(藩内の状況を将軍に報告する)とする。
3.大名の妻子は国許へ帰す。
4.外様・譜代の区別なく有能な人物を抜擢して重要な政務に当てる。
5.大いに言論を広め公共のための政治を行う。
6.海軍を諸藩と共に創設する。
7.海外との交易を盛んにする。
 春嶽は小楠の「国是七策」を念頭に積極的に行動を開始した。春嶽は、第14代将軍・家茂(いえもち、1846〜1866)が上洛して、幕府の利益や便宜のみを追求した私政や独善をわび 、朝廷に臣下の礼を取って尊崇の真意を示せば朝廷との間の信頼ができて安定した政治体制がもたらされると考えた。更に参勤交代の負担を軽くして各藩が海防や軍備を増強するように仕向けた。

 1863年6月福井藩では国内政治が混迷する状況の打開を目指して福井藩主・茂昭、前藩主・春嶽と藩士が揃って京に上って朝廷に藩意を上申しようという挙藩上洛が議論されていた。福井藩の藩意の一つ目は、政治判断は朝廷が主導するが将軍や賢英の大名、更に列藩から俊英の藩士も招いて大いに議論した後に決める公武合体体制に移行する事であり、二つ目の論点は開国をしてしまった以上攘夷は出来ないので、各国代表を京都に呼び将軍や朝廷の代表とが一同に会して一部の港だけは閉じる等の話し合いをする事であった。
 5月末には福井藩の挙藩上洛の決定に藩士達は大いに高揚した。しかし、複雑な情勢も絡む上に親藩家がする事ではない等の意見もあり挙藩上洛は中止された。1863年8月11日春嶽に近侍してから(1858年)破綻寸前の財政を立て直すなど藩政に大きな影響を及ぼした横井小楠は中根雪江と意見が対立し(6月4日)挙藩上洛の中止を聞いて大いに失望し熊本に帰ってしまった。春嶽は最後の一歩を決断する事ができなかった。こういった所が幕末に活躍した人物の中で春嶽の印象が多少薄くなる由縁である。
 しかし、故郷の熊本藩はこれまでも小楠に対して冷淡で、士道忘却(1862年12月江戸で)を指弾する声も渦巻いて戻って来た熊本で切腹を命じられる可能性さえあった。福井藩からの嘆願もあって命は助けられたが士籍剥奪されて収入がなくなり1863年から1868年(明治元年)までの5年間近くを沼山津(ぬやまづ)でひっそりと生きたが、その間も収入のない小楠に福井藩や弟子達からの援助が絶えなかった。小楠は大酒を飲み失敗をしたり熊本藩の藩政を非難したので最後まで故郷の熊本藩から冷遇された。 

 1868年に出された五条誓文(五箇条の御誓文)は明治天皇が新政府の基本方針を天地神明に誓ったものである。御誓文の草案になったのは由利の「議事之体大意」(ぎじのていたいい)であるが小楠の思想を参考にしたとされる。
 1868年小楠は明治政府から参与(のちの大臣)として迎えられた。参与は明治政府が設置した官職で、総裁、議定、参与を三職(さんしょく)とした。小楠は参与という高い位についたが、攘夷派の武士達は西洋との交流を進める事を嫌った。そして小楠の開明性を理解しない勢力によって1869年(明治2年)1月5日に京都御所の政府から帰宅しようとした時、寺町付近で6人組の刺客に斬殺されてしまった。

 しかし、小楠の先進的思想は後の世へと受け継がれた。
 小楠の長男・横井時雄(よこい ときお、1857〜1927)は1897年同志社大学第3代社長(現・総長)に就任。更に毎日新聞の前身の東京日日新聞主幹、衆議院議員(政友会)を2回務めた。
 小楠の長女・横井みや子(1862〜1952)は時雄の友人で第8代同志社大学総長・海老名弾正と結婚している。
 小楠の甥・左平太の妻・横井玉子(たまこ、1855〜1902)は藤田文蔵らの協力を得て1900年女子美術学校(現・女子美術大学)を創立した。
 小楠に師事した元田永孚(もとだ ながざね、1818〜1891)は明治天皇の侍講を務め、教育勅語を起草した。

  この時期、開国と公武合体を説いた佐久間象山(さくま しょうざん、ぞうざん、1811〜1864)がいた。江戸の木挽町に開いた五月塾には勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰らが入門し砲術や兵学を学んだ。象山も開明性を理解しない尊攘派に7月11日京都の三条木屋町で命を奪われた。