由利公正   明治政府の参与(今の財務大臣) 東京府知事    越前・若狭紀行
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  由利公正(ゆりきみまさ、1829〜1909、三岡石五郎(みつおか いしごろう)、三岡八郎,)は福井藩士で実学の大家・横井小楠に学び、坂本龍馬とも思想的に深くつながっていた。小楠の実学は、単なる文献の解釈に終わるのではなく現実の政治経済の改革を追求するものであった。小楠の教えを受けた由利は福井藩で藩政、兵制改革を実行し藩の財政を劇的に好転させた。その後、明治政府に招請されると五条誓文(ごかじょうせいもん、一般的に五箇条の御誓文と言われる)草案(原案)を作成したり、明治新政府の財政金融を担当(実質的には日本で最初の財務大臣)して太政官札(紙幣)を発行した。更に東京府知事に就任(1871年)すると銀座大火(1872年)の再建に際して銀座大通りを27mまで(当初は45mを主張)広げさせ今日の銀座の景観につながった。広く会議を興し・・・と言いながら薩摩長州出身者らが中心を占める明治政府を激しく批判して、1874年(明治7年)板垣退助らと民撰議院設立建白書を政府に提出した。

 1844年頃、福井藩の借財は95万両で更に毎年2万両の赤字が増え続けていた。1859年左内が将軍継嗣問題で井伊直弼と対立して死罪に処せられると、横井小楠(よこい しょうなん、1809〜1869)が藩政顧問として松平慶永(春嶽)に近侍する事になった。小楠の方針は1860年に出された「国是三論」、即ち、富国(生産奨励)、強兵(海軍力強化)、士道(文武強化)である。小楠は領民を豊かにするために、生産物は藩が買い入れて直接外国へ販売する藩営貿易を奨め、商人が利益を独占するのを防ごうとした。
(写真は国立国会図書館蔵)
 
小楠の考えを実行したのが由利公正であった。当時の全国諸藩は大野藩(福井県)などを例外として殆どが赤字に喘いでいた。由利が実行したシステムは、赤字まみれの藩にはお金がないので先ず藩が藩札(福井藩が発行する紙幣、高価な金属を使わないので安上がり)で生産者から産物を購入し、藩は長崎や横浜の藩営物産商会所を通して外国へその産物を売り外国から正貨(金や銀など)を得てから、生産者は手元にある藩札を正貨に交換してもらう、というものだった。商会所では生糸、茶、麻、木綿、蚊帳地(かやじ)などを扱ったが、特にヨ−ロッパで流通していた中国産生糸に比べて日本産生糸は品質が良いので歓迎され莫大な利益を生んだ。
 オランダ商館に販売した生糸は初年度で25万ドル(100万両、当時のドルは両の4倍)で更に北海道へ販売した総額は20万何千両、1861年(文久元年)末には取引した物産の総額は1ヵ年で300万両に達し、福井藩の金庫には常に50万両内外の正貨が貯蓄されて(『横井小楠伝』山崎正菫 著)、
福井藩の財政は劇的に改善された。 
 
 1863年(文久3年)福井藩の財政再建と経済的繁栄を聞いた
坂本龍馬(さかもと りょうま、1836〜1867)が勝海舟の指示で来福し、神戸海軍操練所建設の支援として慶永から5000両の借用金を得た。福井藩の好意に触れた龍馬は、数回福井藩を訪れて藩主・松平慶永(春嶽)や由利公正らと新しい日本について語り合い絆を深めた。龍馬が明治に生きたら三菱を創立した岩崎弥太郎(1835〜1885)のような活躍をしたのではないだろうか。  由利公正の参考資料福井県史
 福井藩の財政再建を果たした由利は龍馬のかつての強い働きかけにより明治政府から招請を受けた。由利は金融・財政面を強化するために中央政府が太政官札(だじょうかんさつ)を発行する事を考えたがそこには莫大な裏付け資金が必要だった。1868年明治政府は江戸、大阪、京都の三大都市の豪商から384万両を借り上げたが、この額は明治政府の歳入366万両を上回る莫大なものであった。政府は由利の考えに基づいて4800万両の太政官札(紙幣)を発行し流通させた。政府の信用はまだ低かった。大商人達は戊辰戦争(1868〜1869)に際して幕府から莫大な軍資金の供出を強制された。財政危機に陥ればタダの紙切れになってしまう太政官札に対して国民の不安があったのは当然だったが三井らの豪商は新しい政府の体制を支持した。「かれらは政府から巨額の献金や強制借り入れをさせられたが、その反面では、それを上まわる利益を、政府財政を取り扱うことによって得た」(『日本の歴史S明治維新(井上清)』のであった。太政官札には越前和紙が使われ、1868年から1869年まで10両札、5両札、1両札、1分札、1朱札が発行されたが、不換紙幣(正貨と交換できない)だったので価値が著しく下がり偽札も横行したので1879年(明治12年)11月までに新貨幣に交換された。
 その間、1872年4月
明治通宝(ゲルマン札)が発行されたがこれも偽造が多発した上に損傷や変色し易かったので1881年2月から1円札以上には神功皇后の肖像が入った改造紙幣が用いられるようになった。
                                                                                                      写真は『旅立ちの像』福井市大手三丁目 福井城 内堀公園 1868年に出された五条誓文(五箇条の御誓文)は新政府の基本方針を天地神明に誓ったものである。
御誓文の草案になったのが由利の「議事之体大意」(ぎじのていたいい)だった。由利は横井小楠に感化され、由利案第5条には坂本龍馬(1836〜1867)が主張した「万機宜シク公議ニ決スベキ事」が加えられ、龍馬との深いつながりを見る事が出来る。
 由利の「議事之体大意」は
一.庶子志を遂げ人心をして倦まざらしむるを欲す (四民平等の理念に基づき民衆も大いに奮起活躍できる世にすべし)
一、士民心を一にして盛んに経綸を行うを要す   (武士も庶民も一つになって経済を振興すべし)
一、知識を世界に求め広く皇基を振起すべし         (世界の進んだ知識をもって天皇中心の新しい社会を造るすべし)
一、貢士期限を以って賢才に譲るべし                (官職や地位の期限を決めて独占を禁ずべし)
一、万機公論に決し私に論ずるなかれ               (皆で議論し合って私利私欲に走ってはならない)
  この条文は1867年6月坂本龍馬が長崎から京都に向かう船の中で国家の体制について構想した
船中八策「万機宜シク広議ニ決スベキ事」から取られたとされる。

 この由利の草案(下書き)は参与・福岡孝弟と木戸孝允(桂小五郎)を経て
明治政府の基本方針「御誓文」となって発せられた。
  龍馬の「万機宜シク公議ニ決スベキ事」は筆頭に置かれた。
一、広く会議を興し万機公論に決すべし         (由利案の第五条)
一、上下心を一にして盛に経綸を行うべし        (由利案の第二条)
一、官武一途庶民に至るまでおのおのその志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す(由利案第一条)
一、旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし
一、知識を世界に求め大いに皇基を振起すべし    (由利案第三条)

 由利が起草して福岡が加筆訂正した五箇条誓文の草稿が競売に出されたので、2005年福井県が2388万8000円で落札した。

 1871年 廃藩置県後初の
東京府知事(1871〜1872まで)に就任すると、翌年 1872年2月に東京は銀座大火に見舞われ東京の丸の内、銀座、築地等の中心地域が焼失した。由利は新しい街作りとして耐火構造の煉瓦づくりにして道幅も大きくした。煉瓦造りの銀座の街は文明開化の象徴となって人々の目に焼き付いた。
 1874年 板垣退助、由利公正、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らが、
民撰議院設立建白書を出して、天皇中心に広く会議を興しと唱いながらも薩摩長州を中心とする明治政府の施政に厳しい非難を浴びせた。一般大衆に参政権を与え議会を開設するよう主張し、自由民権運動のきっかけとなった。運動を担ったのは殆どが支配者階級に生まれた士族出身者ばかりで、民主主義政治に少し歩み始めたという程度のものであったが、後の第1回帝国議会開設(1890年)へとつながった。
 
経綸のとき 小説三岡八郎』 (尾崎 護、東洋経済新報社)      
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 慶応三年(一八六七)十一月三日、龍馬は福井を去っていった。
 まるで一陣の旋風のような龍馬の来福だった。しかも、この風は八郎のもとに季節外れの春をもたらしたようだった。
 にわかに来訪者が増え始めた。
 龍馬が春嶽に、
 「いま京都には血の燃えた武人はいくらでもいます。しかし、政治は戦争や演説だけではありません。冷静に国の経済、政府の台所を切り回す人物が必要です。拙者の見るところ、日本一の人材は京都にも薩長にも土州にもおりませぬ。この福井におります。かつて御老公は熊本から横井先生をお借りになりましたが、
このたびは新政府に三岡八郎を貸してやってくださらぬか
 と言ったことは、あっという間に人々の耳から耳にささやかれていたのだった。

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 麒麟 橋本左内伝』(岳 真也、角川書店)                  TOPに戻る
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 「わしが思うに、われら藩士の禄を減じたり、倹約令を徹底させたりしても、無益なんじゃ。御用金や商人からの借金も駄目だ……かえって、わるうなる
「三岡さんに、なにか策が?」
三岡は小さく笑って、うなずきかえし、
「あらたに業を興し、物産をさかんにして、そこから利益を得る。それも思いきったやりかたが必要だな。三岡は言う。まずは藩の力を盾に、藩札を発行する。それを領内の民びとに貸しつけて、諸物の生産資金とする。そうして
得た物産を他国に売れば、その利益が藩にはいってくる。
「民の労力こそが基本なのだ。たとえばよ、一人のおなごが五十文の綿を買って、それで糸をひく。それをたばねて縄にすれば、買い手がつく」
領内のすべての民がそんなふうにすれば、何万両もの儲けが得られる理屈なのだ。――
三岡の話を聞いていて、左内は内心、舌を巻いた。なにより具体性があり、それゆえに説得力をもつ。まさに「実学」そのものではないか。
「なに、これらのことは、わしがひとりで考えたのではない」
 左内の胸中を察したように、三岡は言った。
「横井先生だよ。おぬしも知っておろうが……先生が福井に来られたおりに、わしも少々教えをうけてのう。これだ、と思うたんじゃ」
なるほど、そうだったか、と左内は気づいた。

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