大野市 日本の風景 (大野城と越美アルプス)      越前・若狭紀行
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 織田信長は1575 年、越前の一向一揆を平定し金森長近(1524〜1608年)に大野の守りを命じた。長近は翌1576年から亀山に大野城を築きその城下に中心都市・大野を建設した。 大野城は江戸時代に入って焼失し、現在の城は旧大野藩士族の寄付金を元に1968年に再建されたものである。大野は周囲を1000m余りの山に囲まれる豪雪地帯であり築城当時はあちこちに沼がある低湿地だったが、町並みを整え碁盤の目のような大路を通し、小京都と言われるようになった。長近は歴史的にも希な激動の時代に信長、秀吉と家康に仕えたが茶道を愛する武将でもあった。秀吉の時代に飛騨・高山に転封され、そこでも小京都と言われる町並みを整備した。     地図案内
  環境庁が1985年に発表した「日本の名水百選」に選ばれている御清水(おしょうず)。名水百選は身近で清澄な水であって、古くから地域住民の生活にとけ込み、住民自身の手で保護されてきたものを再発見すると共に広く国民に紹介することを目的に公表されたものである。御清水は、かつて城の源泉として保護されてきた長い歴史を持ち、今も絶え間なく天然水を湧出し市民に重宝がられている。大野は地下の水脈が豊かで日本有数の湧水に恵まれた町である。人口4万人が住む大野市街地の多くの人が今も井戸水をくみ上げて家庭用水として生活している。
 
福井県には「日本の名水百選」が大野の御清水、瓜割の名水、東大寺二月堂への「お水送り」で知られる鵜の瀬、など3カ所ある。
  大野の七間朝市は400年以上の長い歴史を持つ。春分の日から12月までの朝7時〜11時頃に開かれる。陽気なおばちゃん達が人なつっこく話しかけてくる。
 
    「幕末の大野藩に遊学した人々」
  緒方洪庵の高弟・伊藤慎蔵、緒方洪庵の次男・緒方平三、三男・緒方四郎や藤野升八郎の名が見える。藤野升八郎の三男が魯迅の恩師である藤野厳九郎であり、升八郎の孫に1950年腸炎ビブリオを発見した藤野恒三郎がいる。厳九郎の甥が恒三郎。
 
蘭学を修めるなら大野へ行かなければと、江戸、肥前など全国から洋学館の名声を聞いた英才が集まって来た。
  
    伊藤慎蔵先生顕彰碑
 「・・・・・先生は大野の地に新学問の気風をおこし、全国からの館生を教育して新時代の指導者を育成された。よって先生の御業績を讃え、ここに顕彰する。」
 
 緒方洪庵氏の曾孫・緒方富雄氏(大野藩洋学館生・緒方平三氏の孫、東京大学医学部教授)に学んだ伊藤幸治(大野市出身、東京大学医学部教授)平成十一年(1999)建立・・・・・
   
 大野藩では幕末、第7代藩主・土井忠利(どい ただとし)のもとで全国から注目された財政改革が行われた。財政改革を担ったのは内山七郎右衛門良休(うちやま しちろうえもん りょうきゅう、1807〜1881)と弟・内山隆佐良隆(うちやま りゅうすけ よしたか、1813〜1864)である。
   1857年、大野藩は2本マストの洋式帆船・
大野丸(推定積載量300t)を購入した。購入資金は推定10000〜15000両という。昆布、かずのこ、ニシン等の蝦夷地の産物を購入し、福井で船積みした生糸やたばこは函館へ運んだ。これらの産物は良休が中心となった大野藩直営商店「大野屋」で販売され巨額の利益がもたらされた。「大野屋」の店舗は東京、大坂、京都、神戸、函館、飛騨、敦賀、大野、織田(福井県越前町),三国湊など三十七店にまで発展していた。
 時代背景としては1858年日米修好通商条約締結、その後イギリス、フランス、ロシア、オランダとも条約締結。神戸栄町では神戸開港を先取りし用地取得もしていた。激動の時代の変化に乗った勇断であった。外国人との商談はオランダ語を通しても行われ「大野屋」の良質の生糸は高値で取引された。各地の「大野屋」は繁盛を続け、莫大な額に達していた藩の債務完済を達成した大野藩の雄姿は全国から注目を浴びた。
 1860年、大野藩は幕府から「
北蝦夷地開拓御用」を命じられ、奥越の豪雪を克服して生きる経験を生かして極寒の樺太探検に乗り出した。樺太が大野藩の準領地とされ、4万石の大野藩は併せて10万石にまで広がったが極寒隔絶の地、樺太からの利潤は出なかった。更に、1864年良休の弟・隆佐が6月に病死、8月には根室に向かっていた大野丸が座礁、沈没。蝦夷地探索隊長・隆佐の死と大野丸の沈没により蝦夷地開拓は目に見えた成果を挙げずに終わった。
  参考資料 
福井県史
 1856年、洋学館では蘭学では天下一と言われる適塾から礼を尽くして招聘した適塾塾頭・
伊藤慎蔵(いとう しんぞう、1826〜1880)を筆頭教授として蘭学の講義、研究や蘭書の飜訳が行われた。伊藤の蘭語研究に関する名声を聞いて緒方洪庵の次男・平三や三男・四郎、京都、伊予、肥前など遠方からも学を志す人々が集った。当時は、蘭語研究なら大野で・・・と全国で言われた。(いぎりすぶんてん)や『海上砲術全書』などが研究成果として出版された。伊藤の訳書には全25冊からなる『築城全書』、著書に『磁石霊震気療説』がある。気象学専門書の訳書「颶風新話」(ぐふうしんわ)は大野丸の航海に大いに役立った。藩は再生病院(旧 種痘館)を設置して種痘の普及を進め、更に貧者への病気治療にも力を入れた。開国を機に欧米各国から広く知識や技術が入ってくるようになったので蘭学は洋学と言われるようになった。
   参考資料 
福井県史
 洋学館で学んだ
藤野升八郎(平成大野屋前の「幕末の洋学館に遊学した人々」の記念碑に藤野昇八郎と刻銘されている。芦原の開業医。)の三男が「藤野先生」で知られる藤野厳九郎であり、升八郎の孫に腸炎ビブリオの発見者・藤野恒三郎がいる。厳九郎の甥が恒三郎であり、昭和にかけて三人の藤野先生が活躍した。

 1864年12月、大野藩は衝撃に襲われた。尊皇攘夷を唱えて脱藩した水戸藩の元家老・武田耕雲斎ら1000名近くからなる天狗党が京を目指して大野に進軍して来た。幕府からは彼らを撃破するよう厳命が下っていたが、戦えば多くの死傷者を出した上で町が灰燼に帰する事は明白であった。莫大な献金で大野を迂回させることになったが、一書に依れば推定26000両(ごく大まかな目安として1両=1石=100000円、論者によってかなりの差がある)を献上したという。それは次の事業拡大への準備金であり大野にとっては本当に迷惑極まりない事件だった。藩の石高は40000石に過ぎなかった。

 
 内山良久 そろばん武士道』(大島昌宏、人物文庫)
 ・・・・・商談は相互のオランダ語通詞を介して日本語と各国語がとび交うなかでまとめられた。外国商人たちは、売り台に見本として並べられた生糸の良質さをひと目で見抜き、″オーノヤ″の名はたちまち彼らの間で広まっていった。彼らの話では、欧州で蚕に悪い病気が蔓延して生糸が極端に不足しているとの由で、大野の生糸は高値で捌かれていったo
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幕末早春賦(有明夏夫、文春文庫)
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橋本左内は適塾での後輩である。彼は杉田成卿にも学んでいるからの龍湾にとっては二重の後輩に当る。もっとも、左内は洪庵にも成卿にも一目置かれたほどの秀才だから先輩風を吹かすわけにはゆかないし、またその気もない。左内は昨年六月に江戸から福井に戻り、蘭学掛として藩校・明道館洋書習学所の改革を推進、この正月からは学監同様心得となって中核的存在にのし上がっている。だが、大野の洋学館には学ぶところが多いとして、度々訪れ来ていた。
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※杉田成卿(すぎた せいけい、1817〜1859)は杉田玄白の次男の子で江戸出身。玄白の孫。オランダ国王の国書などを翻訳し小浜藩医を経て幕府蕃書調所(ばくふばんしょしらべしょ)教授になった。
 古い歴史、風格を持ち文学にも謳われた日本の名峰百座。荒島岳はその一座。深田久弥は百座選ぼうとすれば数百は登らなければならないと述べている。 久弥の山に対する情熱を育んだのは福井の山々である。

日本百名山(深田久弥、新潮文庫) 
 私の故郷は石川県大聖寺だが、母が福井市の出だった関係から、中学(旧制)は隣県の福井中学へ入った。山への病みつきはその頃からである。大聖寺町と福井市を拠点とする附近の山へはよく登った。その頃参謀本部の地図と呼んだ五万分の一に、歩いた跡を朱線で入れるのが大きな楽しみであった。まだリュックサックなど知らず、学校カバンを肩にかけて、いつも草履脚絆ばきであった。
 中学二、三年の時であったか、私は自分の町から歩いて、姉の嫁ぎ先のある福井県の奥の勝山町まで行った。たしか春休みだったと思う。九頭竜川に沿って遡って行くと、菜の花の盛りだったことを覚えている。荒島岳を初めて知ったのはその時だった。
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