敦賀市    越前・若狭紀行
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  敦賀は日本海には珍しいリアス式の海岸線を描く若狭湾に突き出した敦賀半島の根元に位置し、かつては北九州や出雲と並んで古代朝鮮との交通の要衝であり、越の国の産物を大和に運ぶ時の起点であった。北陸新幹線が通る敦賀には、過去に幾度も日本海側と琵琶湖を結ぶ運河の計画が持ち上がった。1960年代には日本海と伊勢湾を結ぶ中部横断運河を建設し10000トンの船を通す計画が出されたこともあった
 
敦賀は越前国一ノ宮が鎮座する大変に歴史の古い土地であり市内には今も多くの史跡が残る。
   
 敦賀ムゼウム。正確な数は明らかでないが杉原千畝のビザを持った数千人のユダヤ人難民が1940年から翌年にかけて敦賀港に入港、更に神戸港から米国方面等に向けて出国して行った。  復元された旧・敦賀港驛舎(今は敦賀鉄道資料館になっている)。1882年に金ヶ崎驛として建設され1912年には新橋・金ヶ崎間に欧亜国際連絡列車が走り、シベリア経由でパリやロ−マまで約半月で結ばれた。ライト兄弟の動力機が100m余を飛んだのは1903年。空の大量輸送は夢まぼろしの時代だった。  
   
  金ヶ崎城跡の古戦場碑。1333年新田義貞は鎌倉幕府を倒すという大手柄を立てて後醍醐天皇の親政が始まったが多くの困難が立ちふさがった。命をかけて戦ってきた武士達への恩賞は少なかった。足利高氏(尊氏)は早々と離反。1336年新田義貞が着陣したが以後、天皇方は徐々に劣勢となる。義貞は一旦脱出後再び兵を向けたが、足利方の斯波高経らに包囲されて終に1337年3月6日、6ヶ月に及ぶ兵糧攻めで落城した。尊良親王(たかよししんのう、たかながしんのう、1311〜1337年)や父・義貞の鎌倉攻めに参戦した新田義顕(義貞嫡男)は300名程の兵士達と共にここで自刃した。  月見崎、通称「月見御殿」。金ヶ崎の最高地点(86m)で南北朝時代の金ヶ崎城本丸跡とされる。武将達が月見をしたという景勝の地。多くの人達が血みどろの戦いを繰り広げたが、今は眼下に平和な海が広がり、敦賀セメントが操業し大型船が着岸して来る。
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参考資料 福井県史
   
 敦賀のシンボル 赤レンガ倉庫。石油や昆布を貯蔵した。近くに鉄路が通っていた。  見るたびに富士かとぞ思う野坂山
                 いつも絶やさぬ峰の白雪(
平重盛
             
  1909年の敦賀港   福井市立歴史博物館蔵
  重盛(しげもり、1138〜1179)は平清盛(きよもり、1118〜1181)の長男で、保元の乱や平治の乱で活躍した。武人として名を残しただけでなく教養豊かな人で、父・清盛と朝廷の和解に努めた。重盛の死により平家の滅亡が早まったと言われる。越前が知行地だった重盛は敦賀〜琵琶湖間に運河を造る計画を進めていたという。
 重盛の次男に資盛(すけもり、1158?〜1185)がいる。資盛は1185年壇ノ浦で戦死したが、身ごもっていた彼の愛妾は近江津田郷に逃れ子を産んだ。母親はその子を連れて土地の豪族と再婚し、その後、子は織田荘の神職にもらわれ養子として育った。それが織田家の祖・織田親真(ちかざね)であり、信長は清盛から20代目と称した。しかし、これには複数の異論があり余り信用されていない。 
 
 幕末、水戸藩は天皇を尊崇し人心を統一して強い国家を作り外国の圧力をはね返すという尊皇攘夷思想を熱烈に唱え全国に大きな影響を与えた。一方、彦根藩藩主・井伊直弼はこれを外国敵視の危険思想として激しく対立して、安政の大獄(1859年)での水戸藩に対する厳しい措置と桜田門外の変(1860年)の直弼暗殺へと繋がった。その後情勢は激変して幕府の力が低下する一方、朝廷の力が大いに強まり政治の舞台は江戸から京都に移り、1863年には徳川慶喜(水戸藩第9代藩主・徳川斉昭の七男)や政事総裁職・松平慶永も入京していた。

  1864年5月筑波山(茨城県)を出発した水戸尊王攘夷派の中の過激な一派は天狗党と称し、首領・武田耕雲斎達は徳川慶喜を頼って朝廷に志を伝えるため京都を目指した。大砲などで武装した800余人の真冬の行軍は困難を極めたが雪深い冬の越美山地を越えて大野に至った。彼らは奥越の雪の怖さを軽く見た。越前に入って彼らを待っていたのは冷酷・非情な運命であった。又、それは尊皇攘夷思想の末路でもあった。
 
松原神社は武田耕雲斉ら411柱を祀った神社であり、境内には彼らを偲んで故郷から運ばれた水戸・偕楽園の梅が植えられている。
  敦賀市と水戸市は友好姉妹都市。天狗党の参考資料 福井県史(外部サイト)

                  咲く梅の花ははかなく散るとても 香りは君が袖にうつらん(耕雲斉 辞世の句)       
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水戸浪士縁故者からの植樹が多い。         武田耕雲斉らの墓(国史跡)。水戸浪士354名を弔う。
『天狗争乱』(吉村昭、新潮文庫)                           
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   肥料は路上に山積みされ、その間にも武田耕雲斎をはじめ天狗勢の者が、明いた蔵に順次入れられた。
  武田ら主だった者三十人ほどは、そのまま押しこめられたが、その他の者は、蔵に入れられる前に、陣幕を張った竹矢来の中にみちびかれた。そこには、警護の藩兵が待っていて、一人一人を取りおさえて強引に足枷(あしかせ)をはめた。 一寸五分(四・五センチ)ほどの厚さの松板を幅三寸(九センチ)、長さ一尺二寸(三十六センチ)に切ってあり、その中央に穴がうがたれていて、そこに左足を人れさせ、六寸釘(くぎ)で打ちとめた。逃走をふせぐための処置で、足首の太い者は強くしめつけられて顔をゆがめたが、藩兵たちは容赦なかった。
  幕府の役人は、藩兵たちに命じて天狗勢の者の衣類はもとより下着まで入念にあらためさせ、所持品はすべて没収した。天狗勢の者たちは、金を襟にぬいこんでいたが、役人は、襟を裂いて金を四斗樽(たる)の中に落とさせた。その額は、千両以上にもおよんだ。
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気比神宮気比神宮  白城神社
  気比神宮の境内に鎮座する角鹿神社(つぬがじんじゃ)は都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)を祀る。意富加羅国(おおからのくに、532年に新羅に帰属した金官国(金海)を指す)から額に角のはえた人が出雲を経由して越国の笥飯の浦にやって来て崇神天皇に貢ぎ物を奉り拝謁したという記述が『日本書紀』にある。その人物が都怒我阿羅斯等であり、敦賀の地名の起こりである。

  敦賀のシンボルは『延喜式神名帳』に「越前国敦賀郡氣比神社」として記された702年建立の気比神宮(けひじんぐう、福井県敦賀市曙町)であり越前国一ノ宮である。伊奢沙別命(いささわけのみこと)、仲哀天皇、神功皇后(じんぐうこうごう)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、応神天皇、玉妃命(たまひめのみこと)、武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)の7柱を祀っている(表記は気比神宮由緒書きによる)。高さ11メートルに達する大鳥居は重要文化財で木造としては広島・厳島神社、奈良・春日大社と並ぶ日本3大鳥居の一つである。古代にはこの気比神宮付近まで海岸線が迫っていたと言われる。

 
気比神宮は『日本書紀』(直木孝次郎ら共著、小学館)にしばしば登場し仲哀天皇紀、神功皇后紀、応神天皇紀に記述が見られる。
 応神天皇が皇太子の時に御食を賜い御食津大神(みけつおおかみ)と讃えたことから笥飯大神(けひのおおかみ)と崇められた。ケヒとは「食(け)霊(ひ)」の意味であろう。応神天皇即位前紀には「応神天皇が皇太子の時、角鹿(つぬが)の笥飯大神に参拝された折り大神と太子が御名を互いに交換しお互いの絆を強められた。大神を去来沙別神(いざさわけのかみ)と申し太子を誉田別尊(ほむだわけのみこと)と申し上げる。そうだとすれば大神の元の名は誉田別神(ほむたわけのかみ)、太子の元の名を去来沙別尊(いざさわけのみこと)と申すべきであるがこの点についてははっきりした記録はない。」と『日本書記』に記されている。

 仲哀天皇紀2年の条文には「仲哀天皇が角鹿に行宮(あんぐう、天皇が行幸する時の仮の宮居、かりみや、行在所(あんざいしょ))を建てて滞在された。その後、神功皇后が角鹿(敦賀)から出港して淳田門(ぬたのと、敦賀湾常神岬と立石岬の間か?、「日本書紀」小学館に拠る)で食事を取られているとたくさんの鯛が浮かび上がってきたので皇后が酒を注がれると鯛は酔っぱらってしまい海女はたくさんの鯛を捕ることができ歓喜した」という微笑ましい記述が見られる。若狭湾の豊かな幸を描いていると思われる.。
古代大和朝廷の時代から天皇家と深く関わってきた気比神宮である。
 
  応神天皇に関しては幾人もの史家が独自の説を出している。その一つが江上波夫の騎馬民族征服王朝説である。

 神功皇后(じんぐうこうごう)は気比神宮(福井県敦賀市)や常宮神社(じょうぐうじんじゃ、敦賀市)など福井に関わりの強かった人である。神功皇后については諸説があるが日本各地に多くの伝承や関連する史跡が実在しているのであるから、少なくとも神功皇后のモデルになった人は実在したと考えるのが妥当ではないだろうか。

 敦賀半島は古代朝鮮との交流の跡を今に残しており、渡来人が建立したという伝承を持つ
白城神社(しらぎじんじゃ、敦賀市白木)がある。                                              写真集                              地図案内