応神天皇     騎馬民族征服王朝説 江上氏の雄大な仮説   TOPに戻る                  越前・若狭紀行
   
   応神天皇陵  大阪府・羽曳野市  地図案内     崇神天皇陵  奈良県・桜井市
  継体天皇は応神天皇5世の孫であるという。5世の孫と言えばアカの他人のようなものである。しかし、実在が信じられていない神武はとも角、崇神、応神天皇と神の字を持つ3人の天皇はそれなりの大きな存在を持っているようだ。

   終戦により民主主義の時代がやって来た。民主主義が何で言論の自由が何かもよく分からず、天皇を神と仰ぐ人の多かった敗戦直後の1948年東大の教壇に立っていた江上波夫(えがみ なみお)は当時破天荒と言われた学説を発表した。騎馬民族征服王朝説である。
(1)先ず4世紀前半、崇神天皇(すじんてんのう)を中心とする東北アジアの外来民族(騎馬民族の夫余族)が南朝鮮に南下し、更に北九州にも住み着いた。倭国(日本の天皇家)も百済も高句麗も扶余族の出である。
(2)更に4世紀後半か5世紀始めに
応神天皇が中心になって北九州から近畿へ入り、次に大和の以前からの勢力と結びついて河内で政権を立て大和朝廷を作った。この頃に乗馬の技術が伝わった可能性が強く応神陵から江戸時代に金の馬具が出土している。(これには北九州で当時の大規模な古墳が見つからないという批判がある。)

    その理由として
@古墳時代(弥生時代の後の3世紀後半から7世紀まで)の前期と後期では装飾品に大きな違いがある。その違いは急で自然にゆっくりと変化していったものではない。
A農耕民族(稲作をやっていた倭人(日本人))は自分の文化に対する愛着が強く、生活を急に変える事はない。
B古墳時代後期の急激な埋葬品の変化は大陸(中国、朝鮮)の騎馬民族の習慣が何かの理由で日本に入って来たからである。
C弥生時代に牛馬の少なかった日本が、古墳時代後期になって急に多くの馬を飼うようになったのは、馬だけが大陸から渡ってきたのではなく馬を生活の中で使う風習を持つ民族が日本にやって来たのだろう。
D後期の古墳は軍事上の要地に多い。大和朝廷が次々に支配していった所は鉄鉱石の産地が多い。

  騎馬民族征服王朝説は空白の世紀と言われるこの時期について東北アジアの民族の興亡から説き始め、天皇家のルーツに踏み込み継体天皇にも言及している。騎馬民族というのは内陸ユーラシアでは遊牧民系でしかも世界初の騎馬民族であるスキタイ、匈奴、鮮卑、鳥桓(うがん)、契丹、突厥(とっくつ)、月氏、蒙古など。東北アジアでは半農半猟民系の渤海、女真、満州、そして我が国に特に親縁な関係を持った高句麗、夫余などがある。
 
 江上氏は更に続けて大和朝廷と他の騎馬民族国家との共通点を指摘する。
@君主位の継承は万世一系であり建国者の子孫に限られる。エジプトや中国など農耕民族国家とは全く異なる。
    従って、江上氏は継体王朝が別王朝であるとする見方を否定する。

A大陸の騎馬民族国家では狩猟や戦闘でも男女同等であり、同じように大和朝廷でも神功皇后(じんぐうこうごう、開化天皇5世の孫、仲哀天皇の皇   后で応神天皇の母)や幾人かの女帝が即位している。
B姉妹が一人の天皇に嫁ぎ関係を深める姉妹婚制や中国人が北方騎馬民族のそれを不道徳として非難した風習であるところの父が亡くなると息子   が父の妻を全て娶るという嫂婚制に近いやり方が大和朝廷でも見られる。
C白衣に象徴される白を高貴とする感覚は、白衣、白馬、儀式の正装に共通する。
D君主が死ねば我も共に死すという殉死の
風習。(垂仁天皇(すいにんてんのう)の命で、殉死を止め人馬の埴輪に置き換えられた)
E神武は127才、崇神は120才、応神は110才という日本紀年の長伸びは、当時の暦法に起因し6月末と12月末に大祓え(おおはらえ)をするよう  に北方民族は1年を2つに分けて考えたからであり、1年といっても実際には半年だったかも知れない。
F大陸から大規模な渡来人を受け入れ重用したのは扶余族という同族のよしみでもある。(蒙古人が色目人を、満州族が蒙古人を重用したのと同じ   である。)又、日本史上例のない512年(継体6年)の百済への任那4県割譲、唐と
新羅によって滅ぼされるまで大和朝廷が出兵して百済を助ける   など、百済と深遠な関係だったのも同じ理由である。

  民族が移動しても滅多に変更されない生活様式にお墓の作り方がある。1972年明日香で発見された高松塚古墳の壁画は朝鮮文化の影響の強いものであった、というよりも高松塚古墳(1972年に高松塚古墳で発見された彩色壁画は越前和紙を使って模写され高松塚壁画館に展示されている)の埋葬者かその先行世代の人達は朝鮮半島の出ではないだろうか。自分の家のお墓に朝鮮の絵を描く人は誰もいないからである。かなりの長文であっても日本語と朝鮮語では語順が一致することも興味深い。飛鳥文化は仏教という外国の宗教を中心に花開いた。東南アジア一帯の人々の顔がそっくりであるのは今更言うまでもないことで、これは海を越えた交流の広さを表している。白を高貴とする感覚は現代の学校の制服や靴下の色にまで及んでいる。松本清張は、地中海を中心にしてエーゲ海文明があったようにかつて日本と朝鮮の間には日本海や黒潮を利用した交流圏があったのだろうと言い、葛城氏、平群氏、巨勢氏、紀氏、蘇我氏などは大和の豪族のように言われているが、実は5世紀頃に任那からやってきた族長達の末裔ではないかと述べている。継体天皇と深い血縁関係にあった和珥氏も祖先は朝鮮半島の出身だという指摘がある。
  1985年、藤ノ木古墳の開棺が遅れた時に「天皇家の起源が明らかになると都合が悪いのだろう」という韓国マスコミからの取材が殺到したというが、日本列島も朝鮮半島も人類発祥の地ではないのだから天皇家も含めて我々の先祖は遠い過去のある時にここへやって来たのである。
                                 参考文献  清張通史『空白の世紀』(松本清張  講談社)、『騎馬民族国家』(江上波夫  中央公論社)