越前町 劔神社織田家発祥の地 信長は忌部氏の出か越前・若狭紀行
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   劔神社(福井県丹生郡越前町織田)
明智神社参考になるサイト
     織田一族発祥地の碑(劔神社)            現在の本能寺(京都市)
    織田家のル−ツを論じる時に必ず出てくる所がこの福井県丹生郡越前町織田(おた、と清音読みする)である。織田家の先祖はこの越前織田庄で1800年の歴史を持つ劔神社(つるぎじんじゃ、延喜式内社の織田神社)の神官を務めた忌部氏(斎部、いんべ)であり、後に越前守護職・斯波氏に仕え同氏が尾張守護職を兼ねると尾張に移った。尾張に出てから忌部常昌が故郷の地名をとって初代織田を名乗ったとされる。
 今も町内には忌部姓や伊部(いべ)姓が何軒もあり、
岩倉の地名も見られる。
 
 
もう一つ平家をル−ツとする説がある。平清盛の長男・平重盛(たいらのしげもり、1138〜1179)の次男に資盛(すけもり、1158?〜1185)がいる。資盛は1185年壇ノ浦で戦死したが、身ごもっていた彼の愛妾は近江津田郷に逃れ子を産んだ。母親はその子を連れて土地の豪族と再婚し、その後、子は織田荘の神職に養子としてもらわれ育った。それが織田家の祖・織田親真(ちかざね)であり、信長は清盛から20代目と称した。しかし、これは信長の創作(正しくない)だという指摘がある。

 もう一つに1393年劔神社の再興を願う文書を残した藤原信昌・将広父子が織田家の先祖『角川日本地名大辞典』 という説もある。  

 
織田家の出自は、この様に忌部氏説、平氏説、藤原氏説が提唱されてきたが、忌部氏説が有力である

 橋本政宣(福井県鯖江市出身の歴史学者、東京大学史料編纂所教授を経て東大名誉教授)は、
生前には「おた のぶなが」と清音読みされていた可能性があると指摘する。

  織田信長(1534〜1582)は祖先にゆかりのある越前の獲得に執念を燃やし幾度も越前攻略を企てた。又、氏神として尊崇するこの劔神社に立ち寄って戦勝祈願をし多くの神領を寄進したり社殿を造立した。織田家を送り出した織田町の人々にとって信長は不世出の英雄であり町を挙げて今も功績や遺徳を偲んでいる。(信長まつり)参考になるサイト。

 
2000年にNHKが実施した「日本の歴史を動かした15人」のアンケートの1位は織田信長、2位坂本龍馬、3位徳川家康、4位豊臣秀吉、5位聖徳太子、以下マッカーサー、源頼朝、ペリーの順であった。
                      

信長略記
 信長は下剋上の終結と天下統一を目指し生涯で10万人以上の一向一揆衆や反対勢力を殺戮、武士や農民に限らず妊婦や幼児にまで打ち首、磔(はりつけ)、釜ゆで、串刺し、焼殺、などの極刑を科した。越前、近江平定後の1574年正月には新年酒宴の肴として、朝倉義景、浅井久政、浅井長政の頭骨を漆塗りした上に金粉をかけたものを集まった諸将に示した。中世旧勢力に対しては果敢に構造改革を断行し、塩の商いには奈良・興福寺の許可が必要というような制度を廃し楽市・楽座を施行した。

 信長配下の柴田勝家(1522〜1583)が統治した北ノ庄城下(福井市)においても軽物(絹)座や唐人座(中国からの輸入品を商う)以外は楽市とした。朝倉氏が信長に滅ぼされるまでは越前の中心地は一乗谷の山あいであったが、勝家は信長に習って平野部に宣教師のルイス・フロイスが1575年の秀吉への書簡で安土城の2倍の規模と記した9層の天守を誇る北ノ庄城を築き商業発展に重点を置いた。こうして経済発展を促すと共にあらゆる商工業を支配下におき税収入や軍需物資の安定確保をも計った。又、越前でも検地を実施して小百姓を耕作者兼地主として固定して年貢を確保すると共に兵農分離を目指した。勝家は刀狩りを行い、集めた鉄で九頭竜川と足羽川に橋をかけた。
  勝家の養子となった柴田勝豊(しばたかつとよ、勝家の姉の子、?〜1583)が初代城主となった丸岡城も初期の平城(ひらじろ、ひらじょう)として知られる。

 1575年(天正3年)5月21日、織田・徳川連合軍は長篠の戦いで戦法を一変、新兵器の鉄砲を大量に使って、押し太鼓に合わせ強力な騎馬軍団を突入させる武田勝頼軍を大敗させた。しかし、信長は本願寺との対決も控え深追いを避けた。戦国の覇者・信長をもっとも苦しめたのは本願寺教団だった。
 長篠の戦いを優勢に展開した信長は次に本願寺教団の消滅を目指し、同年8月12日越前に侵攻、府中(武生市)を中心に3,4万もの一揆勢を殺戮した。現代なら核兵器や生物兵器の使用にも匹敵する虐殺行為である。鉢伏山城に籠もった専修寺賢会(せんしゅうじけんえ)らの一揆勢は内部離反などもあり強力な信長勢の前に壊滅した。鉢伏山城跡の北東方向の谷には首切り谷という地名が残っているが多くの一揆勢が首をはねられた所とされる。
 その後、信長は9月14日北ノ庄(福井市)の足羽山に陣を張った。大勢の馬廻・弓衆や万余の兵を従えた信長一行は見るからに豪勢極まりないもので、そこへ加賀と越前の諸侯が帰参の御礼に駆けつけ門前に市をなす有様であった。一人殺せば人殺しであるが一万人殺せば英雄であろうか、越前では幾万もの人々が殺されたがその子孫に当たる福井の人の胸には複雑な気持ちも残る。
 
 1579年、信長に背いた摂津伊丹の荒木村重(1535〜1586、村重は毛利氏の元に逃げた)の一族郎党、幼児・妊婦に至るまで幾百人もが磔や焼殺された様子を『信長公記』十二巻は子細
に伝えている。この時、村重の子で2歳だった又兵衛は幸運にも乳母に救い出されて浄土真宗の石山本願寺に匿われ、母方が「岩佐」姓だったので岩佐又兵衛(1578〜1650)を名乗った。1616年、北ノ庄(福井市)に移り住み20年余りを過ごし妻子ももうけた。1637年、徳川家光の招請により家族を福井に残して江戸にうつり狩野派や土佐派などの影響を受けながら独自な画風を開いた。浮世絵のルーツとさえ言われ浮世又兵衛と称された。署名作品の「三十六歌仙図」や「人麿・貫之像」などの秀作を今日、目にする事ができる。1992年に福井県立美術館が購入した「ほう居士図」は又兵衛の作品として確実視されるものであり133.5×56センチのサイズで9000万円だったという。 又兵衛の生涯は長い間謎であったが近年になって判明しつつあり、歴史に強かった松本清張が執筆した『小説日本芸譚』の中に日本の美術史に輝いた10人の名匠の1人として福井で過ごした又兵衛の生身の姿が描かれていて、文学作品とはいえ非常に興味深い。

 1582年元日、近隣の大名達が安土城の惣見寺に集い盛大に新年を祝った。しかし、信長に残された時間はもう僅かだった。
 同年3月11日、武田信玄亡き後を嗣いだ勝頼の敗死により武田家滅亡。勝頼の首は都で獄門にかけられた。勝頼は妻に北条家へ戻るよう諭したが彼女は毅然として死出の供を望んだ。勝頼が出陣中に雪のような柔肌を刺し貫いて自刃したと言われる。政略結婚は死と隣り合わせだった。
享年19歳。
 黒髪の乱れたる世ぞはてしなき思いに消ゆる露の玉の緒(勝頼の妻)

 
信長が本能寺の変で没したのは同年6月2日、武田家消滅の僅か3ヶ月だった。

 同年4月3日、織田勢は織田信忠(信長の長男。本能寺の変で同年6月2日光秀軍に包囲され信長が足利義昭のために将軍邸として築いた二条城で自刃)の命で山梨県・恵林寺(えりんじ)に火をかけた。信玄の時代から武田家の信頼厚かった快川紹喜(かいせんじょうき、?〜1582)は炎の中で正座して碧厳録の一句を唱えながら武田家に殉じた。信長公記は炎の中で「快川長老はちともさはがず、座に直りたるまま動かず」と見事な最後を絶賛する。
 安禅必ずしも山水を須(もち)いず。心頭滅却すれば火も自ずから涼し(快川紹喜)

  同年6月2日、信長は京都五条の本能寺にあった。明け方頃、信長は耳にした喧噪を初めは下々の衆の喧嘩と思っていたがやがて御殿へ鉄砲を撃ち込むなど尋常ならざる事態となった所へ森蘭丸から「明智の軍勢と見える」との報告がもたらされた。すでに本能寺は光秀の軍勢で取り囲まれていた。御殿の表に出向いて確かめると「是非に及ばず」と言い放ち、初めは弓を取って射かけていたが間もなく弓の弦(つる)が切れ、その後は鑓(やり)をもって奮戦したが肘に鑓傷を受けた。身近に付き添って来た女性達には「女は苦しからず。急いで退出せよ。」と命じた。御殿はすでは炎に包まれていた。その後は一切の姿を見せまいとして殿中深く入り込み切腹して49年の華々しい生涯を終えた。本能寺の変は劇やドラマで脚色されて繰り返し上演されているが、これが信長公記が伝える信長の最後である。しかし、信長を看取った者は誰もいなかった。現在の本能寺は1589年に豊臣秀吉の都市計画により現在地に移されもので奥に信長の大きな供養塔がある。
  人生50年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか(信長)

 織田家で忘れることができないのは
信長の妹・お市の方(1547〜1583)である。お市の方と浅井長政との間に生まれた3姉妹は、長女・淀殿は秀吉の側室となって秀頼の母となり、2女・お初は小浜藩主・京極高次の正室、3女・お江は徳川家2代将軍・秀忠の正室となった。お市の方は自分の終焉の地(現在の福井市中央)が織田家発祥の地である越前になるなんて予想だにしなかったであろう。37歳であった。しかし、信長の妹・お市の方の生んだ末娘・お江によって織田家の血脈は日本の2大権力中枢の徳川将軍家と天皇家双方に受け嗣がれることになった。
  ふけぬだにうちぬるほどを夏の夜の別れをさそふほととぐすかな(お市の方)
  夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲居にあげよやほととぎすかな(柴田勝家)

 信長の事績は彼の側近・太田牛一(1527〜1610年以降に80数歳で没す、秀吉の検地奉行)が残し、今もって最も信頼できる資料として高く評価される『信長公記』(しんちょうこうき、1600年頃に成立したとされる、角川書店)から知ることができる。牛一が「有ることを除かず、無きことを添えず」に精魂込めて詳細に記述した記録は本能寺の変で終わっている。

 
 本能寺の変で織田信長の嫡子・信忠は信長と共に戦死、その子・秀信(1580〜1605、幼名は三法師で信長の孫)は関ヶ原の戦い(1600年)で西軍に与したためにその家だけは断絶したが、秀吉も家康も生涯にわたって信長の偉業を讃え他の織田家は近世大名として栄えた。織田家はその後1884年明治政府から子爵を授けられている。
 織田家一族の中に信長の弟・織田有楽斎(おだうらくさい、長益、1547〜1622)がいる。生涯を闘争の世界で生きた兄・信長の悲劇を見た有楽斎は千利休に茶道の世界を学び有楽流を開いた。有楽(町)や数寄などは茶道の有楽斎に因んだものである。
 2010年のバンク−バ−オリンピック男子フィギュアスケ−ト代表として活躍した織田信成は信長7男・信高の末裔と言われる。

  何一つ残さずにこの世から消えたと言われる信長であるが
西山本門寺(外部サイト静岡県富士宮市)には信長のものとされる首塚が伝わっている。
  
越前海岸        地図案内
 
越前海岸は丹生 (にゆう) 山地が日本海に落ちこみ風の浸食と海食崖や海岸段丘による絶景がみられる所で、安山岩やレキ岩に凝灰岩をまじえた100m前後の絶壁が続く。
 断崖と奇岩の続く越前海岸にある呼鳥門(こちょうもん)。岩隗に砕ける波が夏の日差しを照り返し、冬は水仙が咲き競う。呼鳥門(福井県丹生郡越前町梨子ヶ平
)は一年を通して周囲の風景によく似合う。
  崩落事故以来、トンネルを造った。夏の一時期の三国町内を除いて越前海岸の道路には渋滞がなくトイレも完備していて、日本海を望みながら快適なドライブやキャンプが楽しめる。宿や土産物店も多く冬の越前ガニは有名であるが、それ以外にもイカやサバの焼きもの(浜焼き)は大変においしく、この価格でこのおいしさを味わうことは難しい。おいしい鯖の焼き物に舌鼓をうっていると、かって若狭と京の都の間に鯖街道が通り京の人々が若狭の鯖やカレイを珍重した気持ちが理解できる。
 
  今も福井にたくさんの友達がいて福井弁を大切にしているという俵万智。中学2年の時に武生(たけふ)に転校して来て多感な時期を送った彼女であるが、その著書には足羽山の茶店や足羽河原の桜並木のなつかしい思い出が綴られている。彼女の短歌はこれまでの短歌のリズムとひと味違うようできっちりと五七五七七でうたわれている。早稲田大学卒業後、余程福井に帰ろうかと迷ったという。

                                     
母の住む国から降ってくる雪のような淋しさ 東京にいる
                                     買い物に出かけるように「それじゃあ」と母を残してきた福井駅
                                      いるはずのない君の香にふりむいておりぬふるさと夏の縁日

                                                                 『サラダ記念日』  (俵万智、河出書房新社)         
                                                         
        
   
 海鳴りに 耳を澄ましているような 水仙の花ひらく ふるさと
中学・高校を福井で過ごした
俵万智さんの歌碑

海鳴りに 耳を澄ましているような 水仙の花ひらく ふるさと
越前岬灯台   以前は、灯台の中に入れたが、今は1年に2回しか公開されない。 
  
蝉丸の墓   越前・若狭紀行
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       これやこの ゆくもかえるも別れつつ 知るも知らぬも逢坂の関     
 
蝉丸の墓(福井県丹生郡越前町) これやこのゆくもかえるも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関  の石碑 蝉丸の琵琶 「百人一首で有名な蝉丸法師は歌人でもあり音楽家としてもその名が残っています。後醍醐天皇が京都の花山院から吉野に行幸された時に吉水院(現在吉水神社)にお持ちになられたものと伝えられています。」(現地説明板  奈良県吉野郡吉野町吉野山
地図案内

 蝉丸(生没年不詳)は平安時代の歌人・琵琶奏者であり、「これやこのゆくもかえるも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関」の名歌を小倉百人一首に残した。『今昔物語』では宇多天皇の皇子・敦実親王(あつざねしんのう)に仕えた雑色(ぞうしき、雑役や走使いをした)とも、能『蝉丸』では醍醐天皇の第四皇子とも伝えられるが定かではない。盲目の蝉丸が身の不遇を嘆きながら逢坂の関付近に住み着いた後、諸国を流浪した果てに、この越前町宮崎地区へ立ち寄ったが一軒の農家に滞在中、この地で病没したと伝えられている。「私が死んだら七尾七谷の真ん中に埋めて欲しい」との遺言を残したという。
 かつての
逢坂は山科から湖西へ向かう北陸道が通る交通の要所であったが現在も付近を国道1号線、JR東海道線、東海道新幹線、名神高速道路が通る。