岩佐又兵衛       越前・若狭紀行     地図案内   TOPへ
               
   岩佐又兵衛(いわさ またべえ、1578〜1650、勝以(かつもち)、号は道蘊(どううん))は信長に仕えた荒木村重(1535〜1586)の子として生まれたが、村重が主君・織田信長に反逆した(1578年)のを機に数奇の人生を送った。荒木村重の謀反の状況は『信長公記』(しんちょうこうき、角川書店)から伺うことが出来る。翌年、信長の命により荒木一族は殆ど殺されたが、2歳(数え年)の又兵衛は乳母の手でかろうじて救われ本願寺にかくまわれて母方の姓・岩佐を名乗った。
 1616年頃本願寺の役僧を務めていた興宗寺(こうしゅうじ)第10代住職・心願(しんがん)の招きで福井に住み、更に、福井藩主・松平忠直(ただなお)と忠昌(ただまさ)に仕え福井で妻子と20年余りを暮らした。土佐派や狩野派の影響を受けながら独自の画風を創った。
 1637年又兵衛60歳の時、突然の幕命を受け幸せに暮らした妻子を福井に残して江戸に上った。『三十六歌仙図』、『官女観菊図(かんじょかんぎくず)』、『山中常盤(やまなかときわ)絵巻』など多くの作品の他に家光の娘・千姫の婚礼調度品を制作した。『見返り美人図』の菱川師宣(?〜1694)に先立つ浮世絵の名人として
浮世又兵衛と称される。
 1650年73歳で江戸で没したが遺言により遺骨は家族が待つ福井に戻り興宗寺に葬られた。2代目・勝重、3代目陽雲も同寺に眠る。

 1987年(昭和62年)墓の移転の際、2個の骨壺が発見されその1個には父の姓である荒木と墨書されていた。
又兵衛の遺骨が収納されていたと見られる。   福井県史 又兵衛とその末裔
江戸初期 都の風景
  
           舟木本 洛中洛外図屏風(岩佐又兵衛、17世紀,国宝)  詳しくはこちらへ 国立博物館蔵
 「洛中洛外図屏風」は、京都の市中とその四周の町並み・霊地名勝の全体を、六曲一双の屏風に収めて鳥瞰した、地図と風俗画の要素をあわせ持つ装飾画である。室町時代の終わりから江戸時代の初めにかけ、現在知られるだけでも、六十点以上が残る。狩野永徳筆の「洛中洛外図屏風」は中でも有名だが、「舟木屏風」も描写内容のいきいきとした、個性的作風という点で、永徳のものにひけをとらない。というより、人々の生活の表情をとらえた描写のユニ−クさにおいて、「洛中洛外図屏風」中もっとも精彩を放つもの、といってよいだろう。岩佐又兵衛 浮き世絵をつくった男の謎』(辻惟雄 文春新書)

  屏風に描かれた2700余名の生き生きした表情、服装、景観は1615年頃(元和元年)の都の風情を伝える。

 
堀江物語絵巻(岩佐又兵衛)の一部   国立博物館蔵
興宗寺にある岩佐又兵衛の現在の墓(福井市松本)
  岩佐又兵衛のかつての墓跡(福井市立宝永小学校内)
「ここはもと浄土真宗本願寺派興宗寺の境内で、浮世絵の元祖として有名な岩佐又兵衛(1578〜1650)の墓はここにあった。
又兵衛は摂津(大阪府)の出身であるが40歳のころ同寺住職・心願の縁により越前に来て、約20年間同寺を拠点に活躍した。没した地は江戸であるが、遺言により墓は同寺に建てられた。この度、宝永小学校校舎改築に際して校庭南東角向かいの現・興宗寺境内に移転した。
     昭和六十二年六月  福井市」
福井市の現地案内板
 松本清張は日本美術史の中から10人を選んで書き上げた『小説日本芸譚』の中に岩佐又兵衛を取り上げた。
又兵衛の半生が哀感いっぱいに描かれている。

『小説日本芸譚』(松本清張、新潮文庫)                  
・・・・・ 元和二年の夏のことであった。福井の興宗寺の僧で心願という者が京に上ってきて本願寺に仮寓した。彼は役僧となったので、その執務のためだった。
 心願は、又兵衛の画を見てひどく心を動かしたらしかった。話をしてもかなり古典の教養がある。荒木村重の遺子であることにも興味をもったのであろう。
「越前に来なされぬか。田舎だが、気儘に画など描きなされ」とすすめた。
・・・・・・
 北ノ庄に下って心願の興宗寺に身を寄せたが、又兵衛にとって格別心の豊かな生活ではなかった。寄食の客であることに変りはない。暗鬱な厚い雲が垂れ下る冬の空が、彼の心を凍らせた。永い暗い冬が、そのまま彼の気持を象徴していた。

 又兵衛は、終日閉じこもって画を描いた。画を描くよりほかに仕方のない生活であつた。九年というものの間がそうであった。
・・・・・
 それは異変といつても差支えなかつた。俄かに江戸の幕府から出府を命ぜられたのである。理由は武州川越の東照宮喜多院が先年焼失したので、その再建に当り、拝殿に掲げる三十六歌仙図を揮毫せよというにあった。これはどのような事情からか彼自身にもさだかには分らなかった。まさか自分の画が江戸まで聴えたとも思えなかった。
 
 江戸に出たら、果していつ帰れるものか分らなかった。それほど大きな仕事なのである。己の年齢を思うと、生きて妻子の顔を見られるかどうか分らない。
  又兵衛はまだ雪が解けぬ寛永十四年二月の半ば、梅も咲かぬうちに福井を出立した。妻子は城下の外れまで来て見送った。子の顔が冷たい風の中に赭い(あかい)のがいつまでも彼の眼に残った。
 越前国湯尾峠を越えたときは、寒返る山風と大雪に一方ならぬ難儀をした。この道は二十年前、興宗寺の心願に伴われて京から来た道であった。今は、それを逆に還るのである。その心願も五年前に入寂していた。