岩佐又兵衛(いわさ またべえ、1578〜1650、諱は勝以)は信長に仕えた荒木村重(1535〜1586)の子として生まれたが、村重が主君・織田信長に反逆したのを機に数奇の人生を送ることになる。荒木村重の謀反の様子は『信長公記』(しんちょうこうき、角川書店)から伺うことが出来る。信長の命により荒木一族が皆殺しにされていく中、乳母の手でかろうじて救われて本願寺にかくまわれ母方の姓・岩佐を名乗った。興宗寺(こうしゅうじ)第10代住職・心願(しんがん)の招きで福井に住み、更に、福井藩主・松平忠直(ただなお)と忠昌(ただまさ)に仕え福井の地で妻子と共に20年余りを暮らした。土佐派や狩野派の影響を受けながらも独自の画風を創った。60歳の頃、幕府より突然の招請を受け、幸せに暮らした妻子を福井に残したまま江戸に上った。『三十六歌仙図』、『官女観菊図(かんじょかんぎくず)』、『山中常盤(やまなかときわ)絵巻』など多くの作品の他に家光の娘・千姫の婚礼調度品の制作をした。『見返り美人図』の菱川師宣(?〜1694)に先立つ浮世絵の名人として浮世又兵衛とも称される。73歳で江戸で没したが遺言により遺骨は家族が待つ福井に戻り興宗寺に葬られた。2代目・勝重、3代目陽雲も同寺に眠る。 |
松本清張は日本美術史の中から10人を選んで書き上げた『小説日本芸譚』の中に岩佐又兵衛を取り上げた。 又兵衛の半生が哀感いっぱいに描かれている。 『小説日本芸譚』(松本清張、新潮文庫) ![]() 「・・・・・ 元和二年の夏のことでぁった。福井の興宗寺の僧で心願という者が京に上ってきて本願寺に仮寓した。彼は役僧となったので、その執務のためだった。 心願は、又兵衛の画を見てひどく心を動かしたらしかった。話をしてもかなり古典の教養がある。荒木村重の遺子であることにも興味をもったのであろう。 「越前に来なされぬか。田舎だが、気儘に画など描きなされ」とすすめた。しかし、案外、又兵衛の本願寺内での気の毒な生活に同情したのかもしれなかった。すでに中年の峠を越していた又兵衛は、京で画師として身を立てる望みは絶っていた。生活も疲れた。田舎暮しの悠長さが彼の心を誘った。 又兵衛は、任期の終った心願に伴われ、妻子を連れて北陸路に旅立った。もう京にはかえられぬものと覚悟を決めたのだが、春だというのに、琵琶湖の北、余呉湖を過ぎるころから雪があるのを見て心細かった。 ・・・・・・ 北ノ庄に下って心願の興宗寺に身を寄せたが、又兵衛にとって格別心の豊かな生活ではなかった。寄食の客であることに変りはない。暗鬱な厚い雲が垂れ下る冬の空が、彼の心を凍らせた。永い暗い冬が、そのまま彼の気持を象徴していた。 本願寺に居るときは、せめて貴族や文人との交際があった。しかし、この田舎に引込んでしまっては、その刺戟的な空気の欠片も無かった。ものを云い合う人間といえば、近所の鈍重な顔つきをした百姓ばかりであった。又兵衛は寺の一部屋に屈み込んで坐り、滅多に外に出ることもなかった。 又兵衛は、終日閉じこもって画を描いた。画を描くよりほかに仕方のない生活であつた。九年というものの間がそうであった。 ・・・・・ 忠昌は心願に、お前がそれほど云うなら描かせて見るがよい、と云った。心願は喜んで又兵衛にそれを告げた。 又兵衛は十数日を制作にかかった。出来上がりに自信があった。これで駄目なら自分に運がないものと覚悟していた。 忠昌は見て、意外な顔をして、これほどの者が領地に居るとは知らなんだ、と云った。心願は世話した甲斐(かい)を喜んだ。 又兵衛は忠昌の庇護をうけて、ようやくに生活が安定した。この生活の安定が、精神の活動にどれほど快い鞭であるかを又兵衛は知った。長く閉された雲が動き、明るい日射しを彼は感じた。彼は後妻を迎え、初めて幸福感らしいものを味わった。 忠昌に知られてから、彼は小さな制作をつづけていたが、寛永三年から四年にかけて、人唐と貫之の図を水墨で描いた。それから、伊勢物語や官女観菊や霊照女や政黄牛などを画題とした十二図の彩色扉風絵を仕上げた。 ・・・・・ 又兵衛は和漢の人物を描いたが、やはり和朝の人物の描き方がすぐれていた。そこに大和絵に多く惹かれていた彼の画技の傾斜があつた。ところが、福井在住二十年目に、又兵衛に突然な身辺の異変が起った。 ・・・・・ それは異変といつても差支えなかつた。俄かに江戸の幕府から出府を命ぜられたのである。理由は武州川越の東照宮喜多院が先年焼失したので、その再建に当り、拝殿に掲げる三十六歌仙図を揮毫せよというにあった。これはどのような事情からか彼自身にもさだかには分らなかった。まさか自分の画が江戸まで聴えたとも思えなかった。 江戸からの召喚は、しかし絶対だった。応じないとすれば、藩主の忠昌にも迷惑がかかりそうであった。彼は己の腕の自負をただ一つの恃みとして重い腰をあげねばならなかった。 江戸に出たら、果していつ帰れるものか分らなかった。それほど大きな仕事なのである。己の年齢を思うと、生きて妻子の顔を見られるかどうか分らない。 又兵衛はまだ雪が解けぬ寛永十四年二月の半ば、梅も咲かぬうちに福井を出立した。妻子は城下の外れまで来て見送った。子の顔が冷たい風の中に赭い(あかい)のがいつまでも彼の眼に残った。 越前国湯尾峠を越えたときは、寒返る山風と大雪に一方ならぬ難儀をした。この道は二十年前、興宗寺の心願に伴われて京から来た道であった。今は、それを逆に還るのである。その心願も五年前に入寂していた。 ・・・・・福井の方角を見ると灰色の重い密雲に閉ざされていた。敦賀を立ち、琵琶湖をすぎて大津に泊り、あくる日、逢坂山を越えると、なつかしい京が見えた。これが見たいばかりに、東下の途中を彼は廻り道をして来たのであった。幼時より三十九歳まで馴染んだ京都は、忘れ得ない彼の故郷であった。二十年、暗鬱な福井の田舎で夢に見たことも一再でなかった。彼は涸(なみだ)をこぼした。 ・・・・ 」 |