明智光秀 明智神社  細川ガラシャ生誕伝承地 TOPに戻る  越前・若狭紀行
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 光秀が奉られている1886年に創建された明智神社の祠(ほこら)。高さ13cm程の烏帽子姿の木像は近くの西蓮寺に移されている。福井市東大味町土井ノ内(ひがしおおみちょう どいのうち)。
 
 
 明智光秀の墓石(明智神社)
 2020年NHK大河ドラマは「麒麟がくる」。明智光秀が大きく取り上げられた。年齢順に明智光秀1528年生まれ(『日本人名大辞典』(講談社))、織田信長1534年、豊臣秀吉1537年、徳川家康1543年であるが四人が生きた時代に日本の歴史は「全国統一」に向かって大きく動いた。もし、本能寺の変(1582年)が起こっていなかったら・・・・・。信長、秀吉、家康の三人に光秀を加えるとこの時代はずっと味わい深くなる。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、人間愛豊かな名将として歴史の転換点に生き今も多くの人に慕われている姿が描かれた。  

 さて、時代を遡ることにする。斎藤道三(さいとう どうさん、1494or1504〜1556)は油売りの盛業で名を上げ父の地盤(美濃紙の商い)の利もあって美濃国主・土岐頼芸(ときよりなり、よりよし、1501〜1582)を追放して国盗りをし美濃の主となった。美濃を追われた頼芸は武田や織田を頼って生き抜き光秀や信長と同じ1582年に没している。鷹の絵を描くのが得意だったという。信長も光秀も頼芸も波瀾万丈の人生だった。土岐氏は400年続く名族で200年間は美濃国主だったが紛争が多かった。
 1494年越前に侵入して来た幾万もの加賀一向一揆を迎撃して朝倉氏の越前支配を確立した朝倉貞景(さだかげ、1473〜1512)の嫡男は孝景(たかかげ、1493〜1548)で、三女は土岐頼武(よりたけ、?〜?)に嫁いで嫡男・頼純(よりずみ、1499〜1547)を産んだ。朝倉氏との繋がりが深いので頼純は頼芸と道三に攻められると越前の朝倉家に逃れた。120程ある土岐氏支流の一つである光秀も朝倉家を頼った。

 
「たった、一言がこれほどの力で歴史を変えたことは例がないであろう。」
と『国盗り物語』は語る。ある日、「道三の子」である斎藤義竜(さいとう よしたつ、1527〜1561、義龍)は、本当の御父上は道三公ではなく先の土岐頼芸殿であるという声を耳にした。実は道三の側室になっている義竜の生母・深芳野(みよしの)は元は頼芸の側室だった。そう言えば、常日頃から道三は義竜(道三の実子か?)を冷遇し、その弟の孫四郎と喜平次(この二人は道三の実子)を寵愛していた。1555年義竜は孫四郎と喜平次を殺害、翌1556年(弘治2年)道三を攻め長良川河畔で敗死させた(長良川の戦い)。この時、道三の娘・濃姫(帰蝶)を妻としていた信長も道三の加勢のために出陣している。

 義竜が道三ではなく土岐頼芸の子だとする事に異論もあるが、『日本人名大辞典』(講談社)には「土岐頼芸の子ともいう」と記述されていて、義竜が道三ではなく本当は頼芸の子だとするのはそれなりの根拠がある有名な話なのだ。
即ち、義竜にとって道三は父(土岐頼芸)の仇であり、『国盗り物語』もそのように物語を展開している。義竜の父は斎藤道三か土岐頼芸なのか、500年近い過去の事なので現代を生きる我々にとって真偽は定かでないが、当時、義竜は生母・深芳野に問いただしただろうし容姿を見れば容易に判断できたのではないか。その結果、義竜は道三と弟2人の殺害を決心したのだろう。

 余勢をかった義竜は道三に味方した光秀の住む明智城(外部サイト)を陥落させた(1556年)。自刃を決意した光秀は、生きて明智氏を再興するよう城代の叔父・明智光安に厳命され、妻や僅かな家人を連れ若狭に落ち更に越前を目指した。苦難と貧苦に満ちた流浪の旅である。
土岐氏や斎藤氏の騒動から光秀の波乱万丈の人生が始まった。 光秀が明智城で静かな生活を送っていたら本能寺の変は起きなかった。

 流浪を続ける光秀一家の生活は苦しかった。しかし、光秀は鉄砲術、築城術、軍学を身につけ、茶華道、短歌、俳句など文武に通じた人だった。加賀の一向一揆との戦いでは朝倉軍として出撃し勝利に貢献した。1556年頃、軍師のような力量、広い情報網、奥深い教養が一乗谷城主・朝倉義景(あさくらよしかげ、1533〜1573)の目にとまり5000石を持って客礼(居候に近かったかも知れない)として迎えられ、一乗谷朝倉館から京への大手筋にあるこの東大味に十年近く住んだ。光秀が諸国を巡って得た情報は義景にとって非常に有益だった。そこに至るまでにはX子(ひろこ)が美しい髪を売って貧苦の光秀に献身した内助の功があった。

 義景は光秀を高禄の重臣として迎えるべきであったが、朝倉家は光秀のような優秀な人材を積極的に迎え入れようとする気概に乏しく、朝倉軍に人は多いが勇猛果敢先取の気風に欠けていた。朝倉家で光秀が活躍していたら或いは信長を倒す機会があったかも知れない。光秀は老大国の朝倉家にみぎりを付けた(1565年頃)。家臣ではなく客礼に過ぎないのも幸いだった。越前で人生の1/5にあたる10年間を過ごした事になる。光秀は将軍・義昭を擁立して自らは足利政権を立て直しその中枢の職に就き明智家再興を果たす事を夢に、東大味を去り天下取りを目指す信長の許へ向かった(1566年)。光秀が信長の許へ向かった理由としては信長の妻・濃
(のう、1535〜1612、斎藤道三の娘、帰蝶、蝴蝶、濃姫、安土殿とも)が光秀の母方の従姉だった事が関係していたともいう。光秀は信長と義昭の関係改善に努めたが信長にくみすると、美濃に蟠踞(ばんきょ)する斎藤派の小領主達を攻略したり丹波平定などをしてめざましく活躍した。
 
 
義景が上洛しなかった大きな理由は一向一揆の脅威であったが、何十年にもわたって越前の大地を何度も血で塗り替える死闘を繰り返してきた一向宗と朝倉家は 信長や信玄の勢力拡大に対抗する必要に迫られ、1571年4月朝倉義景の娘を浄土真宗本願寺11世である顕如の子・教如(1558〜1614)に嫁する約束を交わして敵対関係から同盟関係へと劇的転換し越前で60年振りに一向宗を解禁した。ご案内参考資料 福井県史(外部サイト)
     
  右端が光秀の墓石   光秀と妻・X子が理想の夫婦だった事から恋愛のパワ−スポットと報じられるようになった。  
  光秀の住居があったのは現在の福井市東大味町土井ノ内の明智神社付近であり、明智玉(1563〜1600、たま、細川ガラシャ、伽羅奢、光秀娘)生誕伝承地である。ガラシャの生誕地については異説(福井県坂井市の称念寺)もあるが、安定した生活を営んだ1565年頃までこの東大味に光秀の住居があったのだから1563年生まれのガラシャの生誕地と推定される。細川家の一つの歴史がここから始まったとも言える。参考:称念寺(外部サイト)
   尚、ガラシャの母・X子(ひろこ)は幼い時から光秀とは許嫁で美貌の娘だったが婚礼を間近に控えた頃、疱瘡を患い頭痛、腰痛、化膿の痛みにさいなまれた末に命は取り留めたものの醜い痘痕が顔にも首にも残った。思い余ったX子の父は偽ってX子の二才下の妹を光秀に差し出したが見破られ、幼少より契りはできているとして妹を返したという逸話が伝わる。

  1573年信長は百年の栄華を誇った朝倉氏を攻め滅ぼし、その後の越前では一向一揆が勢力を伸ばした。
 1575年朝倉氏滅亡後に本願寺が勢力を広げながらその中で統治不全になっている状況を狙っていた信長は越前に侵攻した。信長の命を受けた柴田勝家軍が本願寺の一向一揆掃討作戦を開始、府中(武生)を中心に家々を焼き払い信長配下の軍勢は三、四万もの命を奪ったとされる。一向一揆に加担しなかった農民は山中深く逃げ込みどの集落ももぬけの殻であった。しかし、光秀はかつて家族と過ごした東大味を守るために柴田勝家・勝定兄弟に東大味地区を守らせる安堵状(保証書)を出させた。この安堵状は東大味の西蓮寺に保存されている。
信長ゆかりの劔神社(関連サイト)

 
明智神社には、「あけっつぁま」と呼ばれる小さな祠の中に高さ13cm程の木彫りの座像が奉られている。明智光秀(1528〜1582)の木像で、400年余り東大味(ひがしおおみ)の三軒の農家に大切に守り続けられてきた。祠は100年程前に地元の三軒の農家の先祖が建てたという。明智神社の周囲はのどかな畑や水田が広がるが耕地の下には取り除けないような大きな石が残り近くに当時の物と思われる苔むした石垣も見られる。土井ノ内の光秀の邸宅跡に住む三軒の農家の内の一軒で話を伺う事ができる。光秀のものだという墓石には「理言久意信士 天正十年六月十三日」という文字が認められる。天正十年(1582年)六月十三日は京都・小来栖(おぐるす)で敗死した日。現在も毎年六月十三日に明智神社で光秀を偲んで法要が行われている。東大味から朝倉遺跡へ通じる朝倉街道が残っていて車の通行も可能だ。
 1582年光秀が本能寺で主君信長を討ったために三日天下と蔑視、嘲笑されたが、三軒の農家は戦乱の時代に先祖を守ってくれた光秀の遺徳を忘れず光秀の木像を奉ってきた。 光秀は江戸時代の儒教精神やその後の絶対服従が当然とされる軍国主義の風潮の元では逆臣とされ、明智神社を守ってきた人の中には近年まで白眼視された人もいたという。でも、
人間愛豊かな名将として、過去の光秀観は転換されつつある。
 
 福知山(京都府)の400年にわたる御霊祭(みたままつり)は光秀の死後に、その善政に感謝して始まったものであり御霊神社にも光秀が祀られている。 光秀は今もって福祉行政の元祖と言われる程、領民を手厚く守った人間愛の名将だ。後世に名を残し英雄視されている武将には徴兵、強制労働や年貢取り立てに苛斂誅求を極めた者が多いが、光秀はこの様に各地で善政を施し領民から慕われた。

    
織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川
 『惟任退治記』なる軍記物語があり「秀吉が謀反人・光秀を退治した」というが、信長がいなくなって得をしたのは秀吉であり家康である。秀吉や家康にとって信長は良い時に死んでくれた。信長が長生きしていたら秀吉や家康の時代は確実に来なかった。

 所で、無数の死を目の当たりにし幾度も死線を乗り越えて天下人になった徳川家康が帰依し話し相手を務めた天海大僧正(1536〜1643、天台宗)は光秀だったという話がある。信長が比叡山(天台宗)を焼き討ちした時、光秀が寺に情けを掛けた恩を僧や信者達が忘れずに、危機に立った光秀をかくまったのだという。しかし、多くの反証がある。
 更に、千利休(1522〜1591)は光秀(1528〜1582)だったという説まであるが生存期間が重複している。

 これらは伝説のようなもので、判官びいきの義経伝説を思わせる。岩手県は
「義経北行伝説ドライブガイド」(外部サイト)で観光資源にしている。人々の心の中に彼らへの思慕や運命を哀れむなどの気持ちが残ったのだろう。

   ガラシャのその後。1600年関ヶ原の戦いに際し、西軍の石田三成が武将達の妻を人質に取るため大坂の細川邸に使者を差し向けた。しかし、ガラシャ(1563〜1600)はこれを拒み家来に長刀で胸を刺しつらぬかせて自害した。この時、忠興は三男・忠利(後の熊本藩初代藩主)を東軍の徳川家に人質として差し出しており細川家は絶体絶命のピンチであった。ガラシャの死は三成への反感を生み東軍勝利の一因になった。家康は後々までも細川家を重用し、ガラシャの自決は江戸時代以降の細川家繁栄に繋がった。   参考文献  明智神社奉賛会資料     TOPに戻る
  『越前記 越前一乗谷(水上勉、中公文庫) 
 朝倉家滅亡後、光秀は一乗谷に足を踏み入れた。しかし、越前京都と言われて100年の栄華を誇った谷から毎年観桜の宴を張った南陽寺や義景が寵愛した小少将が住んだ諏訪館は跡形もなく消えていた。史跡の説明は福井県朝倉氏遺跡資料館に詳しい(外部サイト)
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  「妻をよんだのもあの谷であった。義景どのも、よく来てくれて、わしは下手な連歌をやった。茶もやった。あの男、いまから思うと戦さぎらいだった。いつも陽気に京の話をした。戦さを起して、国を盗るよりも、この谷を都にしたい、京に負けぬ都にしたい、というのが、あの男の口ぐせだった……」
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付近の案内 近くに史跡が多く渋滞は僅かです。
 
トップペ−ジのサイト内検索から入って下さい。
一乗谷朝倉氏遺跡(朝倉氏旧跡、明智神社から4km)
盛源寺(佐々木小次郎の師・富田勢源の菩提寺、同4km)
高善寺(最有力の佐々木小次郎生誕伝承地、同11km)

永平寺(道元禅師開創寺、同17km)
丸岡城(現存天守12城、同23km)
大野城(福井の小京都、同27km)
福井城(松平忠直や春嶽の居城、同11km)

天皇堂(継体天皇関連の伝承地、同26km)
劔神社(信長の先祖が神官だった社、同25km)
 『国盗り物語』(司馬遼太郎、新潮文庫)
 土岐氏支流の明智光秀は、1556年斎藤道三とその子・義竜との乱で明智城を逃れ若狭から越前を目指したが、流浪の浪人が朝倉家に容易に迎え入れられなかった。義景にとっては「又、土岐の流れ者が...」の思いもあっただろう。
 『国盗り物語』は文庫本で2000ペ−ジを超える大作で遼太郎の代表作の一つ。道三と信長を主にして、一乗谷や
称念寺での光秀も描かれている。一乗谷城下で文武教授の道場を開きたいという光秀と称念寺の住職・一念とのやり取りを描いた場面。
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「教授する内容は」
と、光秀はい,った。
 「兵法、槍術、火術(鉄砲)、それに儒学一通り、唐土の軍書」
 「ほほう」
一念はついに顔をふりたてて感嘆してしまった。これほど絢爛多彩(けんらんたさい)な各分野にわたって一人で教授できる人物もまずないし、第一、これほど広範囲な種目を一堂で教えてくれる私立学校は天下ひろしといえどもないであろう。・・・・・
  『本能寺の変 431年目の真実』 (明智憲三郎、文芸社文庫)  
明智光秀が信長にそむいたのはなぜか?「本能寺の変」から400年以上にわたって「日本史の謎」として世間の耳目を集めてきた。光秀の天下取り野望説、信長への怨恨説、秀吉黒幕説、朝廷黒幕説、長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか、1538〜1599)が覇権を広げる四国説、そして足利義昭黒幕説など、諸説50程あるという。当時の信長に見られるのは近畿や東海周辺を織田家一族が領有し他者は「最後には役立たず」と罵って遙か遠国へ移封する冷酷無比な合理性であり近習する武将の中に疑心暗鬼は広がっていた。「本能寺の変」の議論は信長の残虐性や織田一族至上主義を起点にすべきである。信長の側室に入っていた光秀の妹が死去(1581年)して織田家一族の立場ではなくなった事を指摘する説もある。折しも柴田勝家、前田利家らは上杉討伐のために越中魚津へ、滝川一益は北条と対峙中、織田信孝らは長宗我部攻撃に備えて大坂に、秀吉は備中高松攻め、家康は堺へ旅行中。1582年6月2日の早朝、信長を守っていたのは僅かな親衛隊だけだった。
  残党狩りを逃れた光秀の子・於寉丸(おづるまる)の後裔だと自称する明智憲三郎の書である。

 信長が織田家一族の生き残りと繁栄のために構想を描いて実現に向かって着々と手を打つ一方で、光秀は強力な同盟者である長宗我部氏を失おうとしていた。
 
信長の侵攻から逃れた長宗我部元親(1538〜1599)は次に秀吉と対立したが、土佐(高知県)だけの領有を許され、その後は九州攻め、小田原攻め、文禄・慶長の役に出陣し豊臣家に尽くした。しかし、元親四男・盛親(もりちか、1575〜1615)はその後大坂夏の陣で負けて捕らえられ家康の命に依り京都六条河原で処刑された。
 『歴史エッセイ 人間紀行』(杉本 苑子、文春文庫)    
 杉本苑子は歴史上の人物の心理を歴史的背景とからめて深く追求し、『穢土荘厳』など非常に優れた歴史小説を残した。『春の波涛』は1985年にNHK大河ドラマになった。一向一揆との対決が信長を追い詰めて行ったと説く。  

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 一揆への憎悪は、火攻め兵糧攻め、女子供までをふくむ大量殺戮となり、本願寺側に寝返った荒木村重の一族奉公人、六百余名への礫刑、焚刑という残虐行為となって表面化した。
 人心は離れた。家臣団もが、あすの我が身を思って戦慄した。四十代後半の信長の、心の荒廃から推せば、本能寺での破局は、いずれ迎えねばないぬ総括的結論だったともいえよう。
直接的には、信長を殺したのは明智光秀だが、間接的には一向一揆――いや、 一揆に歪まされた彼みずからの性格だったのだ。
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 朝廷黒幕説の論者は次の様に展開する。    
『信長燃ゆ』 (阿部龍太郎、新潮文庫)
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「たとえその者たちを殺し尽くして国が治まったとしても、そちにはもはや活躍の場はあるまい。林通勝や佐久間信盛と同様に、役立たずとののしられて放逐されるのが関の山じゃ」
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※近衛前久(このえ さきひさ、1536〜1612)への織田家遺族らの憎しみは激しく、本能寺の変の直後に危険を察知した前久は姿を消した。しかし、信長没後3年経った1585年に事態は一転、羽柴秀吉は莫大な献金をして前久の養子となり藤原氏を名乗って五摂家にしか任官されない関白となり、太政大臣となって豊臣を名乗った。
そして、足利義昭黒幕説は次のように述べる。  
 『老いの坂を越えて』(津本 陽、角川文庫)

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  光秀がいま、信長討滅を成功させる鍵を握っていると、そそのかした者がいたはずである。
 
これから衰運に向うであろう光秀が、思いきって叛逆すれば、朝廷、京都町衆のほかに、寺社勢力、信長に淘汰され、あるいは人材登用の恩恵に浴していない地侍勢力が、すべて味方につくとそそのかし、野戦の苦手な彼をつきうごかした黒幕は誰か。
 それは公家、京の町衆、備後の鞆の浦にいた将軍義昭であったと推測できるのである。・・・・・