明智光秀 明智神社 道三から家康までの国盗り合戦  越前・若狭紀行
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 1886年に創建された明智神社の祠(ほこら)     付近に多くの観光スポット  細川ガラシャ生誕伝承地   地図案内
 付近は名所史跡が点在する観光スポットで県内の渋滞も僅か。JR福井駅からレンタカ−が便利。
格安のレンタカ−が利用できる。ご案内
一乗谷朝倉氏遺跡(NHK『麒麟がくる』、当地から3km)
盛源寺(佐々木小次郎の師・富田勢源の菩提寺、同3km)
高善寺(最有力の佐々木小次郎生誕伝承地、NHK『武蔵MUSASHI』、同13km)
越前和紙の里(和紙生産1500年、15km、外部サイト)
花筐公園(第27代・安閑天皇、第28代宣化天皇誕生地、越前和紙の里から1km、外部サイト)
永平寺(曹洞宗の聖地、道元禅師開創寺、同11km)
吉崎御坊(浄土真宗の聖地、蓮如上人の里、同40km)

称念寺(光秀有縁の寺、新田義貞公墓所、同25km)
丸岡城(現存天守12城、同23km)
大野城(福井の小京都、同21km)
福井城
(春嶽や忠直の居城、同12km、JR福井駅前)

天皇堂(継体天皇関連の伝承地、同25km)
福井県立恐竜博物館(国内最大、同36km)
勝山スキ−ジャム(5800mの滑走コ−ス、同38km)
平泉寺白山神社(日本の道百選、同33km)
劔神社(信長の先祖が神官だった社、同28km)
西山公園(日本の歴史公園100選、同16km)
北前船主の館・右近家(浅野らと日本海上保険 創業(損保ジャパン日本興亜)、同32km、外部サイト)
 
 
 明智光秀の墓石(明智神社)
 2020年NHK大河ドラマは『麒麟がくる』で明智光秀が大きく取り上げられる。年齢順に明智光秀1528年生まれ『日本人名大辞典』(講談社)、織田信長1534年、豊臣秀吉1537年、徳川家康1543年であるが四人が生きた時代に日本の歴史は「全国統一」に向かって大きく動いた。もし、本能寺の変(1582年)が起こっていなかったら・・・・・。信長、秀吉、家康の三人に光秀を加えるとこの時代はずっと味わい深くなる。NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、光秀が主君に叛いた逆臣だという旧来の物語ではなく、人間愛豊かな名将として歴史の転換点に生き今も多くの人に慕われている姿が描かれる事になるだろう。光秀に辞世の句がある。 
 順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元 
 従って、光秀は1528年生まれが妥当と思われる。

 斎藤道三(さいとう どうさん、1494or1504〜1556)は油売りで名を上げ父の地盤(美濃紙の商い)の利もあって美濃国主・土岐頼芸(ときよりなり、よりよし、よりのり、よりあき、1501〜1582)を追放して国盗りし美濃の領主となった。美濃を追われた頼芸は武田や織田を頼って生き抜き光秀や信長と同じ1582年に没している。鷹の絵を描くのが得意だったという。足利尊氏に従って室町幕府創立に尽力した土岐頼貞(よりさだ、1271〜1339)から美濃守護に就いた名門の土岐家も足利家と同じく貴族化して弱体となり家内に争いが多かった。朝倉家3代・貞景の娘が土岐頼武に嫁いで頼純が生まれたが彼らは困難な状況に出会うと妻や母の実家である朝倉家を頼った。下克上の時代、軟弱化した名家は没落して新たな勢力が台頭した。

 「たった、一言がこれほどの力で歴史を変えたことは例がないであろう。」
と『国盗り物語』は場面設定する。ある日、「道三の子」である斎藤義竜(さいとう よしたつ、1527〜1561、義龍、高政、利尚)は、本当の御父上は道三公ではなく先の土岐頼芸殿であるという声を耳にした。実は道三の側室になっている義竜の生母・深芳野(みよしの)は元は頼芸の側室だった。そう言えば、常日頃から道三は義竜(実父は土岐頼芸か?)を冷遇し、その弟の孫四郎と喜平次(この二人は道三の実子)を寵愛していた。
   1555年義竜は孫四郎と喜平次を殺害。
 1556年(弘治2年)道三を攻め長良川河畔で敗死させた(長良川の戦い)。この時、道三の娘・濃姫(帰蝶)を妻としていた信長は道三の加勢のために出陣している。

 この時代、光秀が信長の下で活躍し始めるまでは光秀の資料が乏しいので僅かに伝わる資料は十分に検討の余地がある。

 義竜が道三ではなく土岐頼芸の子だとする事に異論もあるが、『日本人名大辞典』(講談社)にも「土岐頼芸の子ともいう」と記述されていて、義竜が道三ではなく本当は頼芸の子だとするのはそれなりの根拠がある有名な話なのだ。
即ち、義竜にとって道三は父(土岐頼芸)の仇であり『麒麟がくる』でもどちらが実父かと苦悩する場面が設定された。
 義竜の父は斎藤道三か土岐頼芸なのか、500年近い過去の事なので現代の我々は判断できないが、当時、義竜は生母・深芳野に問いただしただろうし顔立ちや風貌を見れば誰でも簡単に判断できたはずだ。
 
 更に、『遊行三十一祖京畿御修行記』(ゆぎょうさんじゅういちそけいきごしゅぎょうき)は長崎称念寺に十ヶ年居住...と記しているが、現在の整備された道路でも称念寺は一乗谷から25km余も離れている。それだけ離れた所に「十ヶ年居住していた」ら朝倉家内の様子は分からなかったのではないか。
 又、光秀がセヰソ散(生蘇散)という傷薬を処方したというが、現代でも一昔前は少し田舎に行くと食用油の中に捕らえたムカデを漬けて置くとムカデの成分がしみ出しそれを傷口に塗布すると治療効果があるとして常備する家庭は珍しくなかった。又、山野によく見られるゲンノショウコは胃腸病に薬効がある事で有名である。医学の先進地だった朝倉家にそれ位の知識はあっただろう。
 僅かな資料で光秀像を創り上げるのは賢明ではない。

秀略記
 余勢をかった義竜は道三に味方した光秀の住む明智城(外部サイト)を陥落させた(1556年)。自刃を決意した光秀は、生きて明智氏を再興するよう城代の叔父・明智光安に厳命され、妻や僅かな家人を連れ若狭に落ち更に越前を目指した。苦難と貧苦に満ちた流浪の旅である。
土岐氏や斎藤氏の騒動から光秀の波乱万丈の人生が始まった。 光秀が明智城で静かな生活を送っていたら本能寺の変は起きなかった。120程ある土岐氏支流の一つである光秀も朝倉家を頼った。

 一乗谷には応仁の乱で荒れ果てた京を逃れて200人もの公家、学者や僧侶が相次いで来訪し「朝倉文化」が栄えていた。
   1479年連歌師・宗祇が来訪。
 1536年孝景に招かれた名医・谷野一伯(たにのいっぱく)が一乗谷で『八十一難経』と『図経』という医学書を出版。
 1542年(天文11年)『日本書紀神代巻抄』で知られる清原宣賢(きよはらの のぶたか、1475〜1550)が来訪。
 1556年長良川の戦いがあった年、明智光秀が越前にやって来た。流浪を続ける光秀一家の生活は苦しかった。しかし、光秀は鉄砲術、築城術、軍学を身につけ、茶華道、短歌、俳句など文武に通じた人だった。加賀の一向一揆との戦いでは朝倉軍として出撃し勝利に貢献した。軍師の力量、広い情報網、奥深い教養が一乗谷城主・朝倉義景(あさくらよしかげ、1533〜1573)の目にとまり5000石で客礼(居候に近かったかも知れない)として迎えらた。そこに至るまでにはX子(ひろこ)が美しい髪を売って貧苦の光秀に献身する内助の功があった。
 光秀がセヰソ散(生蘇散)という傷薬を処方する知識を持っていたというが朝倉家は京の先進文化を積極的に吸収して当時の一乗谷は光秀以前から医薬の先進地だった。義景は
光秀を高禄の重臣として迎えるべきであったが一乗谷には「朝倉文化」が栄えても光秀のような優秀な人材を積極的に迎え入れようとする気概に乏しく保守的で人は多いが勇猛果敢先取の気風が欠けていた。義景は武勇よりも風雅を愛する人だった。朝倉家で光秀が活躍していたら信長を倒す機会があっただろう。
 義景が上洛しなかった大きな理由は越中一向一揆(1481年)や加賀一向一揆(1488年)等の一向一揆に対する脅威であったが、何十年にもわたって越前の大地を血で塗り替える死闘を繰り返してきた一向宗と朝倉家は 信長や信玄の勢力拡大に対抗する必要に迫られ、1571年4月朝倉義景の娘を浄土真宗本願寺11世である顕如の子・教如(1558〜1614)に嫁する約束を交わして敵対関係から同盟関係へと劇的転換し越前で60年振りに一向宗を解禁した。
ご案内
参考資料 福井県史「永禄末の加賀一揆と加越和
 
 1563年X子(ひろこ)と光秀の間に玉(珠、ガラシャ)が生まれる。
 1566年光秀は老大国の朝倉家にみぎりを付けた。家臣ではなく客礼に過ぎないのも幸いだった。越前で人生の1/5にあたる10年間を過ごした。光秀は将軍・義昭を擁立して自らは足利政権の中枢に就き明智家再興を果たす事を夢に東大味を去り天下取りを目指す信長の許へ向かった。これには信長の妻・濃
(のう、1535〜1612、斎藤道三の娘、帰蝶、蝴蝶、濃姫、安土殿とも)が光秀と従兄弟だった事も関係した可能性がある。光秀は信長と義昭の関係改善に努めたが信長にくみすると、美濃に蟠踞(ばんきょ)する斎藤派の小領主達を攻略したり丹波平定(1579年)などをしてめざましく活躍した。
 1570年信長の越前に侵攻すると背後から浅井長政の攻撃を受けたので撤退戦に死力を尽くし信長を逃亡させた。
 1571年比叡山焼討ちでは積極的に攻撃し戦功を挙げ信長の信頼を得て、比叡山麓の要路に当たる滋賀郡5万石を与えられて坂本城主となり信長家臣団の中で柴田勝家や丹羽長秀らを凌ぐ地位に就いた。
 1573年越前侵攻に出陣、百年の栄華を誇った朝倉氏が滅びると、その後の越前で一向一揆が勢力を伸ばした。斎藤義竜の子・竜興(たつおき、1548〜1573)は義竜の死後に美濃稲葉山城主(後の岐阜城)となった。しかし、信長に攻められると縁戚の義景を頼ったが福井・滋賀県境の刀根坂の戦いで戦死し(生存説もある)、斎藤氏は滅亡した。。
 1575年5月信長は長篠の戦いで武田軍に壊滅的打撃を与えた。
 8月朝倉氏滅亡後は越前で本願寺が勢力を広げたが、その中で統治不全になっている状況を狙っていた信長は越前に侵攻し光秀も参陣した。信長の命を受けた柴田勝家軍が一向一揆掃討作戦を開始、府中(武生)を中心に家々を焼き払い信長配下の軍勢は3,4万もの命を奪った。一向一揆に加担しなかった農民は山中深く逃げ込みどの集落ももぬけの殻であった。しかし、光秀はかつて家族と過ごした東大味を守るために柴田勝家・勝定兄弟に東大味地区を守らせる安堵状(保証書)を出させた。この安堵状は東大味の西蓮寺に保存されている。
信長ゆかりの劔神社(関連サイト)
 6月光秀は丹波攻略を命じられたが波多野氏の抵抗が強く苦戦した。
 1576年4月石山本願寺の攻撃陣に加わったが15000の本願寺勢に包囲され敗死の瀬戸際で戦った。
 1577年2月雑賀攻めに出陣、更に10月大和の信貴山城攻めに出陣、松永久秀は自刃した。
 1578年荒木村重の謀反に対して有岡城攻めに出陣した。
 1579年6月最後まで頑強に抵抗する八上城の波多野氏を下し丹後の一色氏も下すと丹波・丹後29万石を加増され、滋賀郡と合わせて34万石の大名になった。
  1581年2月京都御所の東で「
馬揃え」の勇壮華麗な大規模軍事パレ−ドが行われ織田軍が勢揃する雄姿を正親町天皇や近衛前久らも観覧した。信長の厚い信認を受けて光秀はパレ−ドの幹事役を務め人生最高の晴れ舞台にあった。光秀は近畿を統括する司令長官であり朝倉氏に従っていたらこの日は来なかった。馬揃えは朝廷を威圧するためだったという見方も成り立つ。
 1582年2月織田軍は甲州征伐(武田征伐)で信濃・甲斐方面に侵攻、光秀は3月に出陣した信長と共に出陣したが武田勝頼ら武田軍は早く滅んだので、光秀に活躍の場はなく信長軍に加わって富士山を見物しながら安土へ凱旋した。
 同年5月徳川家康が安土に来たので光秀は3日間饗応役を命じられた。
 同年5月17日 饗応役を免じられ、直ぐに羽柴秀吉の備中高松城攻めの援軍を命じられた。
 同年6月2日本能寺の変。信長を襲撃して自害させた。山崎の戦い後の敗走中に6月13日農民に討たれた。
     
  右端が光秀の墓石
福井市東大味町土井ノ内(ひがしおおみちょう どいのうち)
  光秀と妻・X子が理想の夫婦だった事から恋愛のパワ−スポットと報じられるようになった。  
  光秀の住居があったのは現在の福井市東大味町土井ノ内の明智神社付近であり、明智玉(1563〜1600、たま、細川ガラシャ、伽羅奢)生誕伝承地である。ガラシャの生誕地については異説(福井県坂井市の称念寺)もあるが、安定した生活を営んだ1565年頃までこの東大味に屋敷を構えていたのだから1563年生まれのガラシャの生誕地と推定される。一乗谷城下にも光秀の屋敷があったが朝倉氏滅亡時に焼失してこの東大味の住居は残った、という推測もあり得る。
参考:称念寺(外部サイト)
   ガラシャの母・X子(ひろこ)は幼い時から光秀とは許嫁で美貌の娘だったが婚礼を間近に控えた頃、疱瘡を患い頭痛、腰痛、化膿の痛みにさいなまれた末に命は取り留めたものの醜い痘痕が顔にも首にも残った。思い余ったX子の父は偽ってX子の二才下の妹を光秀に差し出したが見破られ、幼少より玉との契りはできているとして妹を返したという逸話が伝わる。

 
ガラシャその後 1600年関ヶ原の戦いに際し、西軍の石田三成は武将の妻を人質に取るため大坂の細川邸に使者を差し向けた。絶世の美女と言われるガラシャを妻に持つ愛妻家の忠興を西軍に引き込み東軍の結束を崩す戦略であった。しかし、忠興は三男・忠利(ただとし、1586〜1641、後の熊本藩初代藩主で母はガラシャ)を東軍に人質として差し出していたので西軍へガラシャが人質として捕らえられれば細川家は絶体絶命のピンチに陥っただろう。他の大名の家族は大坂から避難していたが美貌のガラシャが僅かな警護に守られて避難する事は不可能だった。ガラシャ(1563〜1600)はこれを拒み家来に長刀で胸を刺しつらぬかせた。ガラシャの死は三成への反感を生み東軍勝利の大きなきっかけとなった。徳川家は後々までも細川家を重用し、ガラシャの自決は江戸時代以降の細川家繁栄に繋がった。
ご案内  永青文庫(『細川ガラシャ消息』) 永青文庫でガラシャを偲ぶ事ができる。

 
明智神社には、「あけっつぁま」と呼ばれる小さな祠の中に高さ13cm程の木彫りの座像が奉られている。明智光秀(1528〜1582)の木像で、400年余り東大味(ひがしおおみ)の三軒の農家に大切に守り続けられてきた。祠は100年程前に地元の三軒の農家の先祖が建てたという。明智神社の周囲はのどかな畑や水田が広がるが耕地の下には取り除けないような大きな石が残り近くに当時の物と思われる苔むした石垣も見られる。土井ノ内の光秀の邸宅跡に住む三軒の農家の内の一軒で話を伺う事ができる。光秀のものだという墓石には「理言久意信士 天正十年六月十三日」という文字が認められる。天正十年(1582年)六月十三日は京都・小来栖(おぐるす)で敗死した日。現在も毎年六月十三日に明智神社で光秀を偲んで法要が行われている。東大味から朝倉遺跡へ通じる朝倉街道が残っていて車の通行も可能だ。
 1582年光秀が本能寺で主君信長を討ったために三日天下と蔑視、嘲笑されたが、三軒の農家は戦乱の時代に先祖を守ってくれた光秀の遺徳を忘れず光秀の木像を奉ってきた。 光秀は江戸時代の儒教精神やその後の絶対服従が当然とされる軍国主義の風潮の元では逆臣とされ、明智神社を守ってきた人の中には近年まで白眼視された人もいたという。でも、
人間愛豊かな名将として、過去の光秀観は転換されつつある。高さ13cm程の光秀の烏帽子姿の木像は近くの西蓮寺に移されている。
 
 福知山(京都府)の400年にわたる御霊祭(みたままつり)は光秀の死後に、その善政に感謝して始まったものであり御霊神社にも光秀が祀られている。 光秀は今もって福祉行政の元祖と言われる程、領民を手厚く守った人間愛の名将だ。後世に名を残し英雄視されている武将には徴兵、強制労働や年貢取り立てに苛斂誅求を極めた者が多いが、光秀は各地で善政を施し領民から慕われた。

 『惟任退治記』なる軍記物語があり「秀吉が謀反人・光秀を退治した」というが、信長がいなくなって得をしたのは秀吉であり家康である。秀吉や家康にとって信長は良い時に死んでくれた。信長が長生きしていたら秀吉や家康の時代は確実に来なかった。秀吉は織田家から政権を奪って天下人になったが家康も巧妙に豊臣の天下を盗り(1615年)、国盗り合戦はようやく終わった。
    
織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川
 
 長年にわたる戦いで幾万ものおびただしい民衆の命が奪われたがその事を特記する史書は少ない。
     
 所で、無数の死を目の当たりにし幾度も死線を乗り越えて天下人になった徳川家康が帰依し話し相手を務めた天海大僧正(天台宗)は光秀だったという話がある。信長が比叡山(天台宗)を焼き討ちした時、光秀が寺に情けを掛けた恩を僧や信者達が忘れずに危機に立った光秀をかくまったのだという。しかし、多くの反証など、諸説ある。
 更に、千利休(1522〜1591)は光秀(1528〜1582)だったという説まであるが生存期間が重複している。

 これらは伝説のようなもので、判官びいきの義経伝説を思わせる。岩手県は
「義経北行伝説ドライブガイド」(外部サイト)で観光資源にしている。人々の心の中に彼らへの思慕や運命を哀れむ気持ちが残ったのだろう。
 
 
本能寺の変 その後 本能寺の変は次の戦乱の始まりだ。本能寺の変から間もなく清洲会議(1582年6月27日)が開かれ織田家相続人は秀吉の狙い通り信長の長男・信忠の子である僅か3才の秀信(ひでのぶ、1580〜1605、幼名は三法師、信長の孫、岐阜城主)が選ばれた。織田政権の相続人と考えていた信長の2男・信雄(のぶかつ、なぶお、常真、1558〜1630)と3男・信孝(のぶたか、1558〜1583)は、秀吉が勢力を伸ばす姿を織田家からの政権奪取と捉えた信孝は、秀吉と対立する柴田勝家と同盟した。しかし、賤ヶ岳の戦いで敗れ1583年(天正11年)岐阜城を開城して間もなく秀吉に凄まじい遺恨を残して自害した。異父兄弟の斎藤義竜対孫四郎と喜平次の様に異母兄弟の信雄と信孝は不仲であり、秀吉はそこに目を付けた。
                    昔より主を内海(討つ身)の野間なれば報いを待てや羽柴筑前
(信孝)

 一方の信雄は清洲会議で父・信長の遺領から尾張、伊賀、南伊勢100万石を与えられて大大名となり賤ヶ岳の戦いでは秀吉方に属して弟・信孝を岐阜城に攻めたが1583年安土城の退去を命じられると秀吉と対立するようになった。賤ヶ岳の戦いでは家康は様子見を決め込んで姿を現さなかった。
 各地の大名を臣従させて全国支配にひた走る秀吉(当時は羽柴秀吉、1586年に豊臣賜姓)と東海の太守として5カ国130万余石(三河、遠江、駿河、甲斐、信濃)で君臨する家康の間には緊張関係が生まれ信雄は秀吉の伸張を良く思わない家康と組んで1584(天正12年)年3月から11月にかけて
小牧・長久手の戦いが行われた。家康・信雄連合軍は小牧山付近に兵力約17000、秀吉軍は100000の大兵力で布陣し、秀吉軍で鬼武蔵の異名を持つ森長可(もりながよし、森蘭丸の兄)が戦死するなど幾つかの戦闘は各地であったが決戦は行われなかった。兵力の差から見て秀吉が家康を屈服させる事は可能だったが、知恵者の秀吉は家康の手強さを知ってここでは無理をせず再び信雄を陣営に引き戻して講和し、多くの兵士や農民の命が失われる決戦を避け家康を取り込もうとした。小牧・長久手の戦いでの和解を境に秀吉の国内平定は加速して政情は落ち着いて行った。
 四国征伐(1585年)、九州平定(1586〜1587年)、奥州仕置(1590年)、小田原征伐(1590年)と秀吉は昇竜の勢いで天下統一を成し遂げた。一方、信雄は家康が関東へ国替えになった跡地の三河・遠江へ転封を秀吉に命じられると生まれ故郷の尾張を離れたくなかったので拒むと100万石は没収されてしまった(1590年)。
 その後、信雄は家康の仲介で豊臣方として文禄の役(1592年)に出兵すると長男・秀雄(ひでお、1583〜1610)は
大野城主45000石となったが(1594年)、関ヶ原の戦い(1600年)で態度をはっきりしなかったため信雄(大和国内18000石)、秀雄親子は改易され信雄は再び家康方に与した。信雄は秀吉と家康の間で幾度も立場を変えたが、家康はかつて同盟を結んだ信長の遺児・信雄に大坂の陣が終わると大和など5万石を与え(1615年)信雄は豊臣家滅亡後も生きた。淀殿(淀君)が時代の変化を読めたら豊臣家も一大名として残ったのではないだろうか。
ご案内 福井県史「福井藩の成立 秀康」
 小牧・長久手の戦いで和解した時に家康が秀吉へ養子(実際には人質)として送ったのが
2男・於義丸(おぎまる、結城秀康、初代北ノ庄藩主、後の福井藩、1574〜1607)である。信雄が講和の使者として動いた。養子に出される秀康が江戸幕府第2代将軍に就く可能性はここでなくなった。秀吉は44才の妹・朝日姫を家康の正室(後妻)として嫁がせ(1586年)親戚関係を深め、母(なか、大政所)を家康の許に送るなど次々と深謀知略を巡らすと、家康はようやく上洛して(1586年)秀吉に臣下の礼をとった。全国平定(1590年)を成し遂げた秀吉は草深い寂寥の荒れ地が広がる水不足の関東開発に莫大な資金を使わせて消耗させる好機と捉え、家康と秀康(結城晴朝の娘婿として)を関東に追いやったが秀吉の没後(1598年)関ヶ原の戦い(1600年)で豊臣政権が弱体化すると秀康を松平に戻した。秀康は家康に播磨を取るか越前を取るか問われた末に越前を選び北ノ庄藩(後の福井藩)68万石の藩祖として越前に入国した。家康、秀吉、結城晴朝(ゆうき はるとも、1534〜1614、墓所は福井市の孝顕寺)という3人の父を持った秀康は波瀾万丈の人生を送り34才の若さで北ノ庄に没した。晴朝にとっては住み慣れた故郷の結城から遠く隔てた越前移住は痛恨の極みだった。
ご案内参考資料 秀康
  土岐氏支流の明智光秀は、1556年斎藤道三とその子・義竜との乱で明智城を逃れ若狭から越前を目指したが、流浪の浪人が朝倉家に容易に迎え入れられなかった。義景にとっては「又、土岐の流れ者が...」の思いもあっただろう。

 『国盗り物語』は文庫本で2000ペ−ジを超える大作で遼太郎の代表作の一つ。道三と信長を主にして、一乗谷や
称念寺での光秀も描かれている。称念寺の住職・一念と光秀とのやり取りを描いた場面。 
『国盗り物語』
(司馬遼太郎、新潮文庫)                       
・・・・・
「さればさしあたって、 一乗谷城下で文武教授の道場をひらきたい」
 「道場」
一念は手をうった。
「これはよいことを思いつかれた。左様なものが一乗谷にはござらぬのじゃ」
諸国にもない。武士は大半が文字を習わぬが、習う者もせいぜい寺の僧について学習する程度で、その方面の専門施設というものはない。まして「武」のほうもそうである。兵法者を自邸によぶか、その師の自宅に押しかけて技をまなぶというのが普通であった。
「教授する内容は」
と、光秀はい,った。
 「兵法、槍術、火術(鉄砲)、それに儒学一通り、唐土の軍書」
 「ほほう」
一念はついに顔をふりたてて感嘆してしまった。これほど絢爛多彩(けんらんたさい)な各分野にわたって一人で教授できる人物もまずないし、第一、これほど広範囲な種目を一堂で教えてくれる私立学校は天下ひろしといえどもないであろう。・・・・・
  明智光秀が信長にそむいたのはなぜか?「本能寺の変」から400年以上にわたって「日本史の謎」として世間の耳目を集めてきた。光秀の天下取り野望説、信長への怨恨説、秀吉黒幕説、朝廷黒幕説、長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか、1538〜1599)が覇権を広げる四国説、そして足利義昭黒幕説など、諸説50程あるという。当時の信長に見られるのは近畿や東海周辺を織田家一族が領有し他者は「最後には役立たず」と罵って遙か遠国へ移封する冷酷無比な合理性であり近習する武将の中に疑心暗鬼は広がっていた。「本能寺の変」の議論は信長の残虐性や織田一族至上主義を起点にすべきである。信長の側室に入っていた光秀の妹が死去(1581年)して織田家一族の立場ではなくなった事を指摘する説もある。折しも柴田勝家、前田利家らは上杉討伐のために越中魚津へ、滝川一益は北条と対峙中、織田信孝らは長宗我部攻撃に備えて大坂に、秀吉は備中高松攻め、家康は堺へ旅行中。1582年6月2日の早朝、信長を守っていたのは僅かな親衛隊だけだった。
  残党狩りを逃れた光秀の子・於寉丸(おづるまる)の後裔だと自称する明智憲三郎の書である。

『本能寺の変 431年目の真実』
 (明智憲三郎、文芸社文庫)             
・・・・・
  これが謀反の真の動機

 信長が織田家一族の生き残りと繁栄のために構想を描いて実現に向かって着々と手を打つ一方で、光秀は強力な同盟者である長宗我部氏を失おうとしていた。
 そしてさらに、遅かれ早かれ安土・京都を中心とする中枢部にある近江・丹波の領地を召し上げられて、遠国へと移封されることも明らかだった。光秀の領地が最後まで中枢部に残っていたということは、光秀がいかに信長の信頼が厚かったかの証明でもあるが、織田家の長期政権構想のもとでは、光秀の領地没収と遠国への移封は既定路線だったのだ。信長の腹心として仕えた光秀にはよくわかっていたことだ。
 遠国への移封は光秀が苦労して築き上げてきた家臣団の分断・弱体化を意味する。一族・譜代の家臣は光秀に随行して新しい領地へ移り、先祖伝来の地や親類縁者と切り離されることに動揺するのは明らかだ。 一方、旧幕臣衆は京都周辺を離れるかどうか選択を迫られるに違いない。また近江衆や丹波衆は地元に残り、新たな領主に仕えることになる。
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 そんな時に知った信長の唐入り。青天の霧震だったに違いない。
信長を支えて天下統一すれば百年続く戦国が終わり平和な世になると信じて東奔西走、粉骨砕身してきた。もう少しでそれが実現できると思ったのに、まだ戦い続けねばならない。しかも、大海を渡って、見たこともない異国の地で戦うことになる。それは自分ではなく子供たちかもしれない。子の代には一族は異国に放り出されて減亡してしまうだろう。
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※信長の侵攻から逃れた長宗我部元親(1538〜1599)は次に秀吉と対立したが、土佐(高知県)だけの領有を許され、その後は九州攻め、小田原攻め、文禄・慶長の役に出陣し豊臣家に尽くした。しかし、元親四男・盛親(もりちか、1575〜1615)はその後大坂夏の陣で負けて捕らえられ家康の命に依り京都六条河原で処刑された。
  杉本苑子は歴史上の人物の心理や思考をを史実にからめて深く追求し、『穢土荘厳』など非常に優れた歴史小説を残した。『春の波涛』は1985年にNHK大河ドラマになった。一向一揆との対決が信長を追い詰めて行ったと説く。  
『歴史エッセイ 人間紀行』(杉本 苑子、文春文庫)    
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 一向一揆の敵は主体が民衆である点、純武将同士との戦闘にのみ馴れてきた彼にすれば、はなはだしく勝手のちがう厄介で無気味な相手だったろう。憑かれたような抵抗への情熱、連帯感に支えられた狂信的な強さ‥…。長島を討てば越前が蜂起し、越前を叩けば石山本願寺が立つ。この執拗さは、速戦即決の爽快感の中で、華麗な燃焼をとげてきた信長には耐えがたい拷問だった。 一揆への憎悪は、火攻め兵糧攻め、女子供までをふくむ大量殺戮となり、本願寺側に寝返った荒木村重の一族奉公人、六百余名への礫刑、焚刑という残虐行為となって表面化した。
 人心は離れた。家臣団もが、あすの我が身を思って戦慄した。四十代後半の信長の、心の荒廃から推せば、本能寺での破局は、いずれ迎えねばないぬ総括的結論だったともいえよう。
直接的には、信長を殺したのは明智光秀だが、間接的には一向一揆――いや、 一揆に歪まされた彼みずからの性格だったのだ。
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 朝廷黒幕説の論者は次の様に展開する。    『信長燃ゆ』 (阿部龍太郎、新潮文庫)
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「それでは手ぬるい。明智の軍勢で信長を滅ぼし、義昭を都に呼び戻して幕府を再興せよ」
 前久は女房奉書と宮さまの令旨を示し、信長を洛中におびき出す計略を打ち明けた。
「ご譲位の儀を終えた後に将軍に任ずると知らせれば、信長は取るものも取りあえず上洛する。そちの軍勢をもってすれば、それを討ち果たすことなど造作もあるまい」
「しかし、そのような……」
光秀は蒼白になって目を宙に泳がせた。
「この豊葦原の中つ国は、帝を中心とした神道の国じゃ。帝のご信任なくは政は行なえぬ。信長のように力で押さえ込もうとしても、次々に叛乱を招くばかりじゃ。比叡山の焼き討ちや一向衆徒の虐殺のようなむごたらしい惨禍が、果てしなくつづくことになろう」
「・・・・・。」
「たとえその者たちを殺し尽くして国が治まったとしても、そちにはもはや活躍の場はあるまい。林通勝や佐久間信盛と同様に、役立たずとののしられて放逐されるのが関の山じゃ」
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※近衛前久(このえ さきひさ、1536〜1612)への織田家遺族らの憎しみは激しく、本能寺の変の直後に危険を察知した前久は姿を消した。しかし、信長没後3年経った1585年に事態は一転、羽柴秀吉は莫大な献金をして前久の養子となり藤原氏を名乗って五摂家にしか任官されない関白となり、太政大臣となって豊臣を名乗った。
そして、足利義昭黒幕説は次のように述べる。  
 『老いの坂を越えて』(津本 陽、角川文庫)

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 彼はその日、参内して自らの天下政権の名目的地位を確立するための、二つのメッセージを発表することとなっていた。
 朝廷からの、任官への要請への奉答と、暦改正への意志についてである。彼は重大な政治的発言をする矢先を狙われたかのように殺された。

 光秀が信長襲撃の意志をかためたのは、近江坂本城にいた五月十八日から二十五日までの八日のあいだであったと想像される。
 
 光秀は信長を抹殺する機会が突然めぐってきたのを、知っていた。
 長岡藤孝以下、畿内武将を組下に従える光秀の兵力は、いま信長を容易に倒しうる可能性をそなえている。
 柴田、佐々、前田は越後、越中で上杉景勝と対戦していた。滝川、河尻、森は上野、甲斐、信濃の戦場にいる。秀吉は備中にあり、家康は丸腰で畿内に来遊している。
 
 光秀がいま、信長討滅を成功させる鍵を握っていると、そそのかした者がいたはずである。
 
これから衰運に向うであろう光秀が、思いきって叛逆すれば、朝廷、京都町衆のほかに、寺社勢力、信長に淘汰され、あるいは人材登用の恩恵に浴していない地侍勢力が、すべて味方につくとそそのかし、野戦の苦手な彼をつきうごかした黒幕は誰か。
 それは公家、京の町衆、備後の鞆の浦にいた将軍義昭であったと推測できるのである。・・・・・

  朝倉家滅亡後、光秀は一乗谷に足を踏み入れた。しかし、越前京都と言われて100年の栄華を誇った谷から毎年観桜の宴を張った南陽寺や義景が寵愛した小少将が住んだ諏訪館は跡形もなく消えていた。
『越前記 
越前一乗谷(水上勉、中公文庫)        
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  「妻をよんだのもあの谷であった。義景どのも、よく来てくれて、わしは下手な連歌をやった。茶もやった。あの男、いまから思うと戦さぎらいだった。いつも陽気に京の話をした。戦さを起して、国を盗るよりも、この谷を都にしたい、京に負けぬ都にしたい、というのが、あの男の口ぐせだった……」
光秀は吹いてくる風が髪を眼にたらすのを手でかきわけて、城戸の口からひらけてゆく西福寺の谷をみやった。
「公方さまをむかえたのもそのためだ。わしはじつは、あの時、信長どのには悪いが、本心をいえば朝倉に上京してほしかった。天下をとってほしかった。それで、公方さまをつれていった。だがあの男、加賀一揆を理由にことわりおった。わしが岐阜に向ったのもそのためだった。ことわられて迷いは晴れたが、しかしこの谷に永世住んでいたいと妻もいった。いいところだった」

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